良月(りょうげつ)の たび日記

美術館、博物館めぐり。アート、カルチャー、資料館、記念館、寺社仏閣、国宝、特別名勝、特別史跡、日本の世界遺産など。神奈川県湘南地区在住 折口良月の日記録。

公立、公設の美術館、博物館

 

新宿区立新宿歴史博物館 見学4 常設展示室

 2016年11月5日 土曜日
 

  「新宿歴史博物館」
 
 展示室は、地下にある。完全な地下室ではなく、半地下の石垣に囲まれた庭がある。中庭というべきだろうか。一階から階段を下りて地下へ。
 先に特別展を見学した後、常設展示室に入る。

 まず目に入って来るのは、内藤新宿の復元模型だ。
 室内は撮影禁止だ。しかし、模型など「撮影スポット」と表示のあるところだけ撮影が可能だ。

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 常設展示室は、長方形で、内藤新宿の模型から順路に従って進む形式。天井が高い。地下と一階の部屋も使用しているのではないかと思うくらいだ。入口近くには、原始時代の展示からしばまり、江戸時代の新宿の様子もある。入室して一番目立つには、上述のとおり、「内藤新宿の復元模型」。
 
 ついで、江戸時代の展示がある。
 ↓ 大きな商家の復元がある。土間にも入り、室内の展示も見ることが出来る。
  分厚い壁の土蔵造りだ。「耐火」が一番重要なのだ。


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 江戸時代の新宿の様子が参考になる。明治元年の西新宿の様子も絵図がある。見ると、信じられないことだが、本当にににににににに農村地帯だ。(あまりにびっくりするくらい農村地帯なので「に」を連打してしまった・・・・。)
 家の集まった小さい村があり、祠や寺がある。祠や寺は、現在でも高層ビルの谷間にのこっているそうだ。現在の新宿中央公園の傍らになどに。へ~、驚きです
 絵図に江戸の中心の遠景は書かれていない。現在の高層ビルが林立する風景とと比較すると驚く。戦後でも淀橋浄水場がなくなるまで、高層ビルはなかったからな~。この40~50年で劇的に新宿の風景は変わったのかな??。

 室内の写真撮影スポットは限られている。最初は内藤新宿の模型のところ。次いで、土蔵造りの商家のところにあった。

 展示室の奥は、作家や文学関連の展示がある。「夏目漱石が一番深いかかわりがある」と解説。そりゃ、漱石こと、金之助は、この近くの生まれなのであるから。私のかつての本籍地の番地(つまり、私の祖父や曾祖父の生家)からはやや距離があるが。
 常設展示は、次の予定があるので、軽く見て進む。近代の画家で、区内には佐伯や中村ツネのアトリエ記念館があり、無料公開されていることを改めて知った。山手線の外のエリアで、かつての淀橋区の区域だ。


 ↓ 電車の展示がある。
 新宿付近の電車の交通網の地図もある。地下鉄が発達する前の鉄道の乗り入れの様子も書いてある。

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 さすがに新宿繁華街の大規模再現模型は無い。都電やにぎわう新宿界隈の様子の解説展示はある。
 ↓ こちらは、昭和10年代の文化住宅の再現模型。

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 現在の日本の一般住宅の原型ではないか。父方の祖父は、結婚して世帯を持ったのが昭和10年代であった。(実際はに戦争が始まっていた時期だったのであるが。)次男坊だったので、結婚当初は牛込の家を出て別に家を借りたそうだ。ふと、こんな住宅に住んだのかな?と思ったので、模型を撮影してみた。祖父母ともに亡いので、今となっては知る由も無いが。

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 企画展示室よりも常設展示室の方が広かった。見学者はちらほせいる。室内には20人くらいはいたかな。
年配の男と一緒に常設展を出た。1人くらい中年のやせてスーツを来たノーモクタイの男性がいた。その他は60歳以上の年齢の男性が多いかな。家族連れ、子供の見学者はいるが、残念なことに少ない。
 (常設展示の最初にある)内藤新宿の模型の前で熱心にボランティアガイドに質問しては話を聞いていた人は、60歳-65歳くらいの男性だったし・・・。一組だけ年配と35歳くらいの女性がいた。親子かな。


 常設展示室の一番奥には、更に小部屋があり、玉川上水の「木の樋」や「木製の管」が展示してあった。半地下になっている。「ん、つまりこの半地下のところにかつての上水道が通っていたのかな?。だから、かつての木の水道管を展示しているのかな?」と思ったが、ちがうようだ・・・・。なお、この小部屋の撮影も禁止なので写真はない。


 え~、ウチの子は、(室外のロビーの)マッサージイスに座っていて、常設展示室には見学に来なかった・・・・・(愕然)
 半地下の中庭に出ることが出来るようになっている。電車の運転席の切り取ったものが、マッサージイスの近くに展示してあった。ウチの子は、この付近を見たのみ・・・・。


新宿歴史博物館 見学3 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)

 2016年11月5日 土曜日
 

 新宿区立「新宿歴史博物館」にやって来た。
 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)を見学する。


 保科氏は、転封(しかも、将軍家光の異母弟ということで、異例の大幅加増)されて高遠を去り、続いて内藤氏が領主となった。内藤氏の歴代の殿様のことについての展示が始まる。肖像画の展示ある当主もいる。系図には、「内藤氏は、養子相続が多かった」とある。お殿様は、別の家から来て、内藤の家を継いでいるのだ。

 内藤氏の初代は「清牧」。「清」が内藤氏の受け継がれる字と思ったが、ちがう。名前の字がのちにかわり、歴代の当主は「頼の」字をうけついている。
 「鳥つくし」という彩色画を遺している当主がある。上手い、画である。また、「だれだれに継がせる」という遺言もあったと思います。
 「狩野休真」の筆による黒鷹図の展示がある。時のお殿様と関係のあった絵師のもの??。そして、最後の当主は、明治になって死亡している。名前は「頼直」。
 だいたい、当主一人につき一点程度の展示品が、内藤氏の展示コーナーガラスケース内にある。


 参勤交代の図の展示も。行程は、中山道経由もある。意外にも甲州街道経由とは限らない。中山道は6泊と余分にかかる。甲州道は5泊6日。江戸時代の最初は、中山道経由だったそうだ。遠回りだけど、格式を重視したのかは、分からない。あくまで、行軍なので、時間をかけて、立派の将軍のおひざ元に馳せ参じる、という意味だったのかな??。
 参勤の経路としては、「杖突峠」の脇街道を通ることがあたよう。茅野から、白樺湖への山道かなと思いきや、諏訪湖にダイレクトに下る道であった。いつぞや、車で私も通ったことがある。例の国道「52号線」の道だ。いや、「酷道」かな(笑)。
 甲州街道の経路ではは、当然ではあるが、鶯木宿や台が原宿など、現代に生きる私も通ったことのあるところを経由している。つまり、現在の国道20号線「沿い」ですね(笑)。中山道の経路では「和田」と町の名がてでいる。和田峠、和田宿の道だ。
 高遠領主内藤家は、毎年六月に江戸に参府であり、五月末に高遠を発って、江戸の上屋敷に入ったそうだ。 国元に帰るときは、老中に申し出て、領地に戻るのが、五月末のことらしい。解説によると内藤氏は、高遠と江戸の間を84回参勤をしたそうだ。200年近い歳月をかけて、何代にも渡って往復したのだ。
 掲示されている高遠藩の年賦によると「領地150年の祭典」を実施している。高遠に転封されたのは西暦1689年のことで、150週年祭は西暦1840年?のこと。この時期は、飢饉のときではなかったか。お祝いをする余裕は藩にあったのかは、分からない・・・・。いや~、ちゃんと年数を数えていたのだ。西暦のような通しの年の数え方が無い中で、どうやってカウントしていたのか。年号を記録していたのか、60年周期の「戊戌」かな。昔の文書には、「年号」と「辛亥」など干支を数えているし。
 殿様の初めての入部の際に記述した文書の展示もある。初入部なので家臣も気合いを入れて準備して、お国入りを迎えた様子が文章になっている。また、「分限帳」といって、何の役目?に何人いて、用具は何で、何両かかったかのような帳面もある。


 特別展のもうひとつの部屋は、内藤屋敷の再現。壁に復元した絵を展示している。(特別展では、ふたつの部屋があった。)

 高遠藩(記述の通り、当時「藩」とは呼んでいなかったそうであるが。)の上屋敷の説明もある。順路の最初は上屋敷の解説。江戸の上屋敷にお殿様の一行が入る様子の再現絵が展示されている。今の靖国通りの神田神保町の付近が門になっている。屋敷内には、庭園と池もあり、屋敷の建物がある。隣には、戸田氏の屋敷がある。現在は、靖国通りがやや湾曲していて、スキー店や銀行などのあるところだ。
 内藤氏の屋敷は、現在の位置でいうと「丸亀うどんの店」や銀行の支店のある当りかな。三省堂の南や道路になっている所(すずらん通り)も屋敷だった。面積は、2500坪くらいで、あまり広くはない。
 
 展示室内の反対の壁が下屋敷の様子の展示。関連資料(小文書など)の展示もある。下屋敷が有名な現在の「新宿御苑」の大部分に相当する場所であることは、よく知られている。
 展示されている大きな絵によると、内藤氏下屋敷の屋敷地の南には、玉川水の分水が流れている。畑にもなっているのだ。高低差の表現が絵図にはないので分かりにくいが・・・。実際のところ、現在の上水の分水の付近は、ガケの下であったであろう。黄色い電車の総武線の車窓から、新宿御苑との境界が見えるし、ガケになっているので。つまり、現在の総武線の線路の下、御苑との敷地の境界に沿って上水が流れていたのではないかな??。
 (展示されている)絵図によると、現在の神宮外苑は街になっているが、実際の外苑は、青山地区で大名屋敷もあったのではないかな。
 上屋敷に比べると、下屋敷はかなり広い。
 下屋敷には、甲州街道から入るようになっている。城のほうに近い屋敷地の入口から入ると殿様の屋敷に。下屋敷地の中央にも門があり、その先は「隠居の屋敷」と説明がある。屋敷地の西は、なんと町屋となっていて、藩士の長屋や家だったもよう・・・。
 屋敷地の南は広々としていて馬場や畑になっている。現在の御苑内の庭園の池は、ほぼそのままの形で、表と奥向きの(殿様が普段使用するであろう)お屋敷が建っている。
 「百姓家も敷地内にある」と展示解説にはあった。農民も敷地内に住んでいたのだ。馬場は、敷地内にいくつかあり、馬を飼育している。馬小屋もある。
 展示を順に見ていく。展示の端には、「上屋敷の建物の絵図」もある。高遠で保管されているものであった。国元でも保管されていたのだ。「下屋敷の墨の絵図」もあるが、下屋敷の広い敷地内のだいたいのおおまかな図面で。が、馬場、池、畑なども記されていて、下屋敷の様子を現在に伝える貴重な資料だ。

 ↓ 常設展内の展示品。内藤新宿の模型。

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 屋敷の変遷に関する説明によると、内藤氏の江戸中屋敷として、もう一か所屋敷があった。(実際にはもっとあったかも知れないが。)上屋敷は、以前は別のことろで、その後は上述のとおり現在の神田小川町から神保町にかけての一角。下屋敷は、現在の新宿御苑で、江戸時代、ずっとそのままだったよう。


 あと、高遠ゆかりの人物として「江島」がある。高遠の「江島囲み屋敷」の案内パンフも置いてあった。私もかつて、「高遠の桜」を見に行った際に「江島囲み屋敷」を見学したことがある。


 地下の受付係の女性の横にいた青いジャンパーのメカネをかけた女性がこちらの学芸員?のようだ。時折、展示室内を行き来していた。

 ↓ 半地下の中庭から、地下展示室のロビー。
  館内は撮影禁止。地下のロビーは、広くてイスや資料を置いてあり、閲覧もできるし、休憩も出来る。
  マッサージ用?のイスも数基置いてあり、リラックス出来る??。実際、ウチの子は、そくさと展示室を出て、マッサージ用?のイスに深く座って、休憩していた(苦笑)。

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 半地下の中庭。地下一階の展示室外の廊下にも光が入るようになっている。
 石垣は、かつての江戸城の遺構??、かは、不明・・・・。

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 ↓ 博物館の入口にあった特別展などの告知看板とポスター。


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新宿歴史博物館 見学2 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)

 2016年11月5日 土曜日
 

 新宿区立「新宿歴史博物館」にやって来た。博物館、新しい感じの立派な建築である。
 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)を見学する。

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 展示室は、階段を下りて地下にあった。途中、階段の踊り場には、秀吉や大名、保科正之などの絵の写真の掲示がされている。地下は、半地下で掘り下げされていて、ガラス張りになっている。斬新な造りだ。
 
 特別展の展示室に入る。
 ↓半地下の庭から見たガラス張りの窓の階段。 

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 最初の展示は、1582年の「高遠の合戦」に関するものだった。信長の武田への侵攻がはじまったそうだ。武田勝頼の義弟の「木曽某」か何かの人が、織田氏側に寝返ったことが侵攻の契機だったそう。この戦いで、武田氏は滅亡した筈。その合戦の戦場に高遠城はなったということだった。

 高遠城は、戦国の山城が、その後「近世の城郭になった」と解説バネルにある。江戸時代の高遠の城の絵図の展示がある。武田24将の写真の複写などがあった。その中には、今ドラマでおなじみの「真田氏」の真田幸隆の姿と名もあった。
 勝頼の母の墓?も高遠にある。「勝頼は、当主となるまで 諏訪四郎といった。高遠が最初の城主だった。」とある。信玄の父「信虎は高遠で亡くなった。」と説明にある。父親の信虎を追放した信玄ではあるが、実は信玄よりも、父の方が、あとに死亡したことは、知られている。
 昔のドラマでも見たのだが、信玄よりも父親の方が一年くらい長生きしたのだ。信玄を父が「おい、晴信。起きよ。」とセリフを言うシーンがあったような・・・。とうに忘れたれど・・・・。
 「近年の資料によると勝頼は諏訪本家ではなく、分家を継いだようだ」とある。

 展示室は、何人か見学者がいる。 小学生の男の子を連れたおとうちゃんがやってきた。その親子は、私よりもあとに来て、さっさと見て、出て行ってしまった。あとは年配の男が多い。中年の男もいるが。

 高遠の領地の朱印状の展示が壁に沿ってある。いろいろな村が書かれている。都合 三万石のような書き方。末尾に「源朝臣家綱」の文字と朱印と「正之殿へ」のような書き方。
 領地の絵図もある。領地の石高、三万石のうち、山形村や隣の村も含まれていた。変遷しているので、途中領地になって、その後の時代は料領地ではなくなったようだ。 そば集落も江戸時代の初めの時期は、保科家領地だった。
 解説には「藩」という言葉は正式にはなく、「高遠領」と書いたとある。藩の名はどこにもない。領主の個人名と領地の村が書いてある。


 次いで保科家についての展示品がある。正之の肖像画の写真バネルの展示がある。正之は、将軍秀忠が正室とは別の女性に産ませた子(という表現だったと思う。)で第四子と説明がある。長男が別にいて(えーと、母親は誰だかな・・・(笑))、次男が「竹千代」、のちの「家光」、三男が「徳松」??、のちの忠長なのだろう。が、他の三人の子については、説明がない。ここは、「保科氏」の説明であるので、正之のみの説明。 
 正光と弟の正直のことについて説明などがある。展示によると正光は71歳で死亡し11歳の正之が保科を継いだ。その後、 山形、会津などに転封して、最終的に23万石に大幅加増になった。
 他方、(正光の)弟、正直は、現在の千葉県、下総の国の多古に利用地をもらい、17000石くらいの大名になった。正之のときは、「保科」氏であった。三代 正容(まさかた)以降は松平、以後保科の家名は多古藩主に引き継がれたと説明がある。 
 ここでの展示のどこかで当時「藩という公式名称は無かった。」と文章があったと思う。藩主ではなく、領主というのが正しいのかな。領地も高遠藩ではなく「高遠領」と説明があった。「ここより高遠領」という内容の、どこかで石碑を見たような 記憶がある。

 現在の千葉県の「多古」の領地は、高遠の後に、一旦もらった領地で、10年後に正光が再び戻るまで領主でいたので、全く保科氏と無縁ではなかった土地だった。
 のちに正光が、25000から3万石に加増したのは、正之の養育料の意味があったのではないかと推定していた。

 続いて展示を見ていく。「正之の墓地の写真」の展示がある。神式で、墓所は猪苗代にあった。会津の領地内に墓所を営んだのだ。林の斜面に、銅の筒のような形の墓所だった。対して、正直と正光は故地の高遠に墓所がある。


 短刀と「さや」の展示があった。刀身と鞘をわけて展示している。 短刀には銘がある。天目茶碗と朱色の模様の盆の展示が。正之の使用したものだっかは忘れた。

 展示されている「年賦のボード」で注目すべき記載内容があった。「正光は子が無いので最初、真田昌幸の子 左源太を養子とした。」とある。
 その後、見性院に養育されていた「正之」を養子として迎えたとある。養子として、左源太は17歳で死亡している。嫡子でなくなったよう。ドラマの「幸村」には登場するのだろうか??。つまり、幸村とは、兄弟ということになる。
 正光は遺言を遺している。「正之に相続させる」と。10歳から数歳上になる。が、昌幸と年齢があわないよな気持ちがするが。信之の子ではないかな・・・・。左源太の墓の写真も展示があった。伊那市のお寺にある。
 なんだか、かわいそう。左源太さんが・・・・・・・。


 次の領主、鳥居家に関する展示がある。しかし、何の展示があったかは忘れた・・・・。コーナーが小さいので、あまり展示がなかったような・・・・。

 ※あとで、ネットを見てみた。ネットでは、保科家の養子「左源太」は「左源次」と書いてあるようだが、この特別展の資料では「太」だった。











































 






新宿区立新宿歴史博物館「初訪問」 見学1 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)

 2016年11月5日 土曜日

 「銀座熊本館」に地震の後、初めてやって来た。「銀座NAGANO」にも行った後、地下に下り、丸の内線の銀座駅から地下鉄に乗。所要時間11分で四谷三丁目に着いた。
 地上に出ると目の前に「消防博物館」があるのが見えた。銀座口には「警察博物館」もあるし「好対照」だ(笑)。

 四谷駅と反対の方へ歩く。が、道路を間違った。途中、夕方のニュースで紹介されたと看板が出ているお店の前を通ったそうだ。ラーメン店だそう。子どもは、以前見たことがあるそうだ。

 方向を間違い、先に行きすぎた。
 と「津の守坂」の道の歩道脇に「新宿歴史博物館」の標識がある。坂の名前の由来の説明板も設置されていた。「美濃高須藩の藩主 松平摂津守義行」の屋敷があったからだそうだ。つまり、御三家の尾張家の分家のお屋敷。御三家の分家の場合、領地の石高は低いが官位は意外に高い。従四位下左少将くらいの任官。外様では40万~50万石前後の細川家、黒田家、浅野家クラス。
 「津」のつく旧国は摂津が真っ先に思い浮かぶし、略して「津の守」坂だ。そのまんまだ。傾斜地に屋敷があったのだな~と率直な感想。この一帯、傾斜地やガケ上の台地平坦部も含めて摂津守の屋敷地だったと思うが・・・。

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 ↓ 博物館への路地。。「津の守坂」の横の狭い道を歩く。

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 細い道を通ると、博物館に出た。思ったよりも新しい建物だ。
 四谷三丁目駅から20分くらい歩いたかも。本当は10分とかからないと思うが・・・・。
 「新宿区立新宿歴史博物館」の存在を知らなかった。いや、知ってはいたが、あまり認知していなかったのかも・・・・(言い訳)。
 現在開催されている「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)を見学するためだ。 10月に偶然、とある美術館に今回の特別展の割引券が置いてあったものを入手したのが、訪問したきっかけだ。
 高遠は二回ほど「高遠桜」を見に行ったことがある。高遠藩主内藤氏の下屋敷が現在の新宿御苑の敷地に相当することはよく知られていし、「内藤新宿」が現在の新宿の街に発展したことは知られている。とても興味があるので、初めて見学することにした。

 よく晴れた秋の一日、「2016 東京文化財ウィーク」にあわせて、新宿歴史博物館やってきた。(直接は東京文化財ウィークと関係ないかな!!??。)

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 東京には周知のとおり「江戸東京博物館」がある。よって、こことコンセプトは、かぶるかも知れない・・・。にもかかかわらず、新宿区が、「歴史博物館」を設置しているのは、豊富な財源があるためか、それともバブル時代の遺産(レガシー??)か。ここ新宿歴史博物館の設置年は平成のはじめだったと思う。

 私にとっても生まれたときから子供の頃までの本籍地は新宿区だったから「新宿」とは深いかかわりがある。よって「新宿の歴史」にも関心がある。
 父方の祖父は死ぬまで自分の現在の新宿区の生家の番地を本籍としていた。祖父が生まれた頃は「牛込区」であり、現在の新宿区はなかった。「新宿」というと、現在ではどうしても「新宿の繁華街」や西新宿の「高層ビル群」をイメージしてしまう。しかし、新宿区自体は、かつての「牛込区」と「淀橋区」に相当する地域だ。
 私の父が結婚して、祖父と別戸籍を立ててからしばらくは、同じ番地を本籍地としていたが、のちに神奈川県内の自宅の番地に本籍地を移した。父は海外に行く仕事があったので、パスポートをとるにも本籍地が自宅と離れていると不便だからだという。
 現在の戸籍制度は、日本国内のどこにでも本籍を置いてもよい(らしい)。そこに誰か住んでいても本籍を置くのは構わない(らしい)。たとえば、千代田区千代田〇丁目一番に置いている人も相当数いるそうだ。実際のところ、日常生活ではパスポートの取得以外には本籍地とは、かかわりがあまり無いかも・・・・。


 さて、新宿歴史博物館に入館する。建物は比較的新しい。エントラスから、受付まではアプローチの通路が長い。 別室や会議室などがあるのだろう。
「高須四兄弟」などのポスターが掲示してある。現在の展示ではなく、過去の展示企画のポスターだった。
受付で、私は例の割引券を提示する。すると、大人500円が300円に割引された。子どもは入館無料だった。
 受付で、私の前には75歳くらいの男性二人連れの入館者がいた。彼らは、現金の受け渡しに時間がかかる。彼らの後で少し待った・・・・。
 と、半地下の石垣のような中庭がある。階段を下りて地下へ。秀吉や大名、保科正之などの絵の写真の掲示がされている。

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東京芸術大学美術館 「芸大コレクション展」鑑賞 平成28年春

  2016年5月1日

 東京芸術大学美術館にやってきました。
 「芸大コレクション展」が開催されています。期間は5月8日の日曜日までと短い。昨年は、ここで「ダブル・インパクト展」が開催されときに来ました。
 ↓ 入口の看板。
  主に昭和40年代の作品を展示するよう。しかし、最近の作品に加えて重要文化財指定の近代秘術作品が展示リストに入っているため、やって来た。展示室は地下2階の部屋のみ。

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 一番の目的は高橋由一作の重要文化財「鮭」です・・・・・といいたい所でいるが、これは昨年の秋にも見た。細長い額縁に入っている作品。
 同じく重要文化財指定の絵画は狩野芳崖の「悲母観音」。これは、大きな絵画なので、ガラスケース内の展示。
 「重要文化財」指定のラグーサ「日本の女」の石膏があった。最初は、気付かなかった。ふと、台座の上に展示されている像を見ると「昨年も見たな・・・。」と思ったが、違う。確かに見たが、今回の展示品はやや黒も入っている白い像だ。「石膏」とある。材料はブロンズではない。すると「石膏原型」となる。まさに「重要文化財」に指定されている作品そのものだった。

 美術館1階のロビーの様子。

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↓ ブロンズ鋳造された「日本の女」の後姿。(このあと訪問した東京国立博物館で撮影。)
 石膏の裏側はもっと荒々しい。現物に「所蔵 東京藝術大学 作品名・・・・  番号・・・・」と貼ってあった。
 ブロンズは鋳造品なので、管理用のシールは貼っていない。

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 国宝としては「絵因果経」の展示が。巻物のお経で非常にカラフル。実は、出光美術館でも同名の作品が出品されいた。成立年代は違うようだが。出光のものは「重文」、ここ芸大の物は「国宝」と指定が分かれている。

↓ アフガニスタンの仏画などの修復プロジェクトに関する展示も別の棟であった。こちらは、無料であるが、この日は時間が無いので後日にすることにした。


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 展示会場の入口はこちら。守衛所を挟んで、大学美術館と反対側。

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 根津駅(上野桜木)方向から、東京国立博物館前への道。芸大の校舎内と道路。すっかり、緑の葉が繁っている。

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「原田直次郎展」と「明治の美術 コレクション展」鑑賞4(最終・売店と資料室閲覧) 神奈川県立近代美術館 葉山館

「原田直次郎展」と「明治の美術 コレクション展」鑑賞4(最終・売店と資料室閲覧) 神奈川県立近代美術館 葉山館

 葉山町の海辺にある神奈川県立近代美術館葉山館で所蔵品が中心の「明治の美術 コレクション展」と特別展「原田直次郎展」の鑑賞をした。
 「神奈川県立近代美術館 葉山館」は、四角い、コンクリートが打ちっぱなしのビルがいくつも連結しているモダンな建築。場所は、やや知っていないと分かりにくい・・・・・。元々は、県立の公園だった。し、現在も公園がある。別料金を支払って、入園できる。この日は、天気が悪かった。美術館に向かう途中、天気が急変して大荒れになってきた。
 
 特別展を一通り見て、一旦中庭に出た。「直次郎も、兄の常吉も不幸にも早世だったなあ、常吉の子が、西園寺公望の秘書、原田熊雄とは、歴史とは繋がっているなあ。」などと感慨に浸りながら。
 ミュージアムショップ(お店)はコンクリの中庭を通る必要がある。ガラスの通路屋根はあるが、この日の天候では全く意味がなく、風と雨が思いっきりたたきつけられ、かなり濡れる。一応、雨に濡れないように中庭移動用の傘は、館外への出口脇に置いてあるが・・・・・・。
 
 ↓ 中庭とお店(建物の右側)、お店の左が、小さいながらもレストランの入口。
   中庭の向こうは海。

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 お店に入ってみる。美術館の規模に比例して狭い・・・・。レジに女の係員が二人いる。50歳~60歳くらいだ。客には眼中になく、お二人はおしゃべりに夢中・・・・・。と、45くらいの白髪の男と同年齢くらい黒髪の女が店内にいる。ずっと図録を立ち読みしていたので、私は買えなかった・・・。結局、その男女は別の本をかった。2人が買い物を済ませたご、私はようやく今回の「原田直次郎展」の図録を買った。と、買い物を終えたばかりの中年男女は、私の方をジロリと見た。「この人(アタシが買わなかった)図録を買ってる」と!?。自意識過剰かな・・・・。
 図録は2700円。入館で駐車場は1時間無料。と、図録購入(売店利用のみでいいと思う)によりもう1時間の駐車場サービス券がもらえた。図録購入時に「日本人の肖像」の絵葉書を先着順だ、ということでもらうことが出来た。

 その後、中庭の風景などを風雨の中、男は望遠レンズ付きのカメラで撮り始めた・・・。なかなか、2人が去らないので、こちらが撮影できなかった・・・。対する私は、スマホカメラ。女も盛んに写真を撮っている。ただし、女はスマホカメラだ。この台風のような風雨の中、そんなに撮るシーンがあるのか!?。
 女は、新しい紺色のジーンズをはいて、リュックを背負っている。いかにも余所行きの服装。この中年の男女が夫婦か、不倫か、恋人関係か、知人友人かは知らない。しかし、(早く去ってくれないかな、と)マンウオッチングしていると、不思議なことに互いの写真は決して撮影しない・・・・・・・。ということは?!、2人の関係は想像がつく・・・・・。
 それぞれ男は、自分のカメラで、女はスマホで、お盛んに建物、中庭、海や背後の山の景色の写真を撮っている・・・・。きっと、写真の中に、ボクも写り込んでいるよ・・・(苦笑)。


↓ お店の外から撮影。ガラス屋根の通路の先は展示室。
  


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 海が見えるが、かなり荒れている。雨水が、ときおり風にふかれ、私の顔にたたきつけられる。濡れる・・・・。塩水まじりの雨水だ。生暖かい。春の嵐だ。

 建物の角のガラス張りテラスのような場所に、レストランがある。洋食のコースのみのメニューのようだ。雨だが、ほぼ満席らしい。狭いので席数が少ないようだ。見ると、食事をしているのは女性ばかりだ。晴れた日は、混雑するので相当混みそうだ。

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↓ たまたま雨が収まった瞬間に葉山の山を撮影。
  中庭から、直接駐車場と行き来することができる。


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↓ 雨の中、葉山の山を撮影。左側が海。

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↓ 帰る際に、入口の前付近から葉山の山を撮影。

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 本館の建物に戻る。試しに、図書室(資料室、閲覧室というべきか・・・・)に行ってみる。一階の受付付近から階段を下り。半地下の場所にある。下の部屋から、何やら妙齢とおぼしき音声帯の女性の賑やかな会話が聞こえる・・・・。 図書室のカウンター内には、三人の女がいて、おしゃべりをしている・・・・。
 私が入ると、じろりと私を一瞥する。彼女たちの会話は、明らかに雑談であり、業務の会話では無い。さすがに 私が入室すると解散して散ったが、カチっと私が入る際に、カウンターを数えた。「集計対象」だ(笑)。
 室内には、図録がおいてある。「東京」の表示のある棚には 美術館ごとに仕切りがある。世田谷美術館もある。 各美術館ごとに開催された図録がある。
 「高野山の秘宝」の図録をためしに見る。本を取り、閲覧用の机とイスに移動する。あの「怖い仏の絵」があった。
 東京国立博物館の特別展の図録はここ4年間くらいのものがある。よって、6年前開催の「等伯展」のものは無かった。私がいる間、司書??の女達は、そのうち一人がカウンターに座って、さすがに静かにしていた。カチカチとパソコンのキーをたたく音が響く・・・。
 カウンターの側には、各地の美術館、博物館の特別展、企画展のチラシが置いてある。チラシや資料の入手のため「神奈川県立近代美術館 葉山館」にお立ち寄りの際は、半地下の資料室にお立ち寄りください!!。
 
 「お店」、「図書室」と、とにかく私語が多い美術館だった。雨でヒマだったのかな?。さすがに受付の女性二人は私語は無かったです。
 以上、レポートです(笑)。

 ↓ 図書室に降りる階段窓から。下の階は、事務室のようだ。つまり、図書室と奥で繋がっている。

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 ここには、11時30分頃に入る。とにかく利用すれば、最初の一時間は駐車場が無料。13時30分頃退出。図録を買って、売店を利用したので、次の一時間400円の駐車料金も無料となった。
 図書室にいる間に雨はおさまってきた。晴れ間も見えてきたが、いかんせん風が強い。

 ↓ 帰る際に、入口付近のモニュメント。歩道の先は県立公園につながっている。

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 神奈川県立近代美術館 葉山館の外観 ↓


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 神奈川県立近代美術館 葉山館の駐車場 ↓
 天候のため、車がほとんど停まっていない。雨もやんできた。
 


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 神奈川県立近代美術館 葉山館の外観 と駐車場入口↓
 帰る頃には、晴れ間も見えて来た。

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 葉山からは、車で逗子、鎌倉の海岸沿いから駅近くを通り帰る。風が強く、砂が鎌倉の市内でも舞い上がっていた。海沿いの道、特に鎌倉の海の近くの道では、砂で路面がおおわれていた。
 こんな天気の中でも外国人観光客が市内を歩いていた。

「原田直次郎展」 鑑賞3 神奈川県立近代美術館 葉山館

「原田直次郎展」 鑑賞3 神奈川県立近代美術館 葉山館

 4月のある日、葉山町の神奈川県立近代美術館 葉山館にやってきた。

 ↓ 美術館の外から「原田直次郎展」展覧会入口の様子。

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↓ 同じく、アングルを引いて美術館の外から「原田直次郎展」展覧会入口の様子。
  天候のせいか、入館者が少なく、待合室のベンチには誰も座っていない。

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 展覧会を見ていく。
 原田直次郎の友人であったドイツ人の画家、エクステル作の「日本人の肖像」は大きい作品だが、今回の本展覧会での展示は無く、小さい写真が展示室内の壁に掲示されていた。
 ちょうど、展示室のもうひとつの出入口(廊下と直接つながる出入り口)の手前の壁の所だった。「日本人の肖像」の実物は、等身大だそう。エクステルのアトリエの写真もあり、見るとたしかに「日本人の肖像」がある様子が写っていた。付近の壁には、エクステルの風景画の展示もあった。こちらは、オリジナル。

↓ 図録を購入すると、先着順、枚数限定で「日本人の肖像」の絵葉書を貰えた。
  エクステル作、等身大の直次郎像。

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 続いて見ていく。展示室内の反対の壁には、以前(昨年の秋に東京藝術大学美術館で)、見た重要文化財「靴屋の親爺」やドイツ時代の絵の展示がある。ポスター作品の展示もある。風景画は、あまり作品としては数がないようだ。ドイツでの緑豊かな建物のある農村風景だった。

↓ 図録の表紙は、重要文化財「靴屋の親爺」だった。

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 直次郎と関係する作家の作品展示も多い。直次郎自身の人生が短いので、作品数が少なく、関連作家の作品や草稿や書簡なども含めて展示をする必要があるためだろう。

 旧長州藩主の毛利敬親や、その他の殿様の絵がある。もちろん、直次郎が直接会って描いたものではなく、明治以降に渡された写真をもとにかいたそうだ。「毛利敬親」像はモデルの血管まで表現しいている。とてもリアルに描かれた絵だ。  
 「新島譲の肖像画」も展示がある。 若いときの写真を基に、新島の死後に書いたもの。新島は、大磯で死亡したそうだ。元々、上野の国、安中の人であるが、同志社の関係で京都の人というイメージがある。が、没したのは、意外にも大磯だった。時代は違うが、大磯で没した文化人には、島崎藤村などもいる。
 徳富蘇峰の父の絵(肖像画)もある。蘇峰の父はこのとき存命。蘇峰の父は90歳近くで亡くなっている。蘇峰自身も長命だったし、遺伝だろうか・・・・?。蘇峰の父の肖像画は、水俣市立蘇峰記念館蔵となっている。通常、館外では展示されることの無い作品であろう。

 意外な作品では、信越放送所蔵の作品もあった。


 続いて、一番奥の部屋(展示室)に。行き止まりの部屋だ。この部屋をぐるっと見ると、元の展示室に戻り、廊下への出入り口へ退出して、展覧会は見学終了となる。
 お昼時のためか、天候のせいか、この部屋での見学者がいない。私だけだ。よって、女性の看視員にずっと看視されている・・・・。(またまた自意識過剰(笑)。)
 この展示室内では、ガラスケースの中に挿絵などの展示がある。雑誌の表紙、挿絵などだ。鴎外や蘇峰に紹介されて描いたそうだ。「国民新聞」の絵も描いている。国民新聞は、明治時代に蘇峰が中心となって編集していた新聞だったはず。当時は、西洋画が世のなかで受け入れされなかったので、こうした絵を書いて収入を得ていたようだ。
 奥の部屋から「靴屋の親爺」などを展示、テレビ設置のある部屋内に戻り、出口へ。廊下に出る。
 ここを出ると再度、展示室内に戻るには、入場券の提示が必要だ。出入り口の所には、やはり女の係員が立っている。
 展示室を出た廊下の壁には、「原田家」の解説ボードがある。この通路は常設展の人も来ることができる、中庭と店(ミュージアムショップ)につながる通路だ。
 甥の熊雄の誕生についての年賦記載はあるが、熊雄が西園寺の秘書だったということは解説にない。
熊雄の妹信子は 有島生馬の妻。心中した人だな?と思ったが、よくよく考えると違う。有島武男が心中した人で、生馬の兄にあたる人だったと思う。。
 熊雄の母、照子は、ドイツ人男性と日本人女性のハーフだそう。どのような契機で、豊吉と照子が婚姻したのかは、分からないが、ともかく直次郎の兄、原田家の嫡子 豊吉は、ハーフの女性を妻にしたことになる。 
 
 直次郎の没後10年後、1909年にたった一日だけ開催された回顧展の解説もあった。既に書いたが、今回の特別展は、そのとき以来実に100年以上ぶりとのことである。
 回顧展の開催の経緯は当時、学習院の生徒だった甥の熊雄が鴎外に相談したそうだ。直次郎の留学時代の親友で、芸術にも造詣が深く、高名な森鴎外鴎外の尽力で、黒田清輝らも発起人となり開催をすることができた。その他の発起人となった人の名は、(私が名を)知らない人もいるが、忘れてしまった・・・・。(あとで、図録を見たが、徳富蘇峰も発起人の一人であった。)
 作品の展示のために所蔵者への  出品依頼などに奔走した鴎外らの努力が目に浮かんで来るかのようだ。
 原田直次郎の回顧展は、明治42年11月28日の日曜日に開催された。上野の東京美術学校での開催。午前に、同じく上野の精養軒で食事会をしながら、鴎外のあいさつがあった。午後には、美術学校の校長のあいさつがあった、と展示の説明文に書いてある。
 「この日の鴎外は多忙だった。」とも説明文ある。この日の夕方には、自ら脚本を手がけた「××劇」の観劇で帝国劇場へ。かつての親友の回顧展を企画、開催にこぎつけたかと思うと、終了後には、観劇へ。この人、当時、陸軍軍医総監の階級で、陸軍省医務局長。本業以外でも相当忙しいですね。


 このときに「原田先生記念帖」を発行している。限定200部くらいの刊行。この中に有名な鴎外と原田の写真も掲載されているそうだ。貴重な原田に関する資料とのこと。追悼記も制作され、鴎外をはじめ多数の人が追悼文を寄せた。私が見た限り、かつてドイツで一緒に写真に写っていた丹波(俳優、故・丹波哲郎氏の祖父。NHKのテレビ番組でも紹介されたことがある。)や岩佐の名はなかった。

 直次郎の父、一道は、この追悼展の後、80歳で死去。 原田家の年譜の説明は、一道の死後、孫にあたる「熊雄、襲爵。」で終わっていた。
 
 小さい別の部屋(展示室)もあった。原田の関連作家の作品がある。
 この部屋にも黒い服の監視員がいる。この部屋の展示だったか、忘れたが、展示の解説文の中に「熊本地震」の言葉を見つけた。
 訪問したときは、今回の熊本での地震のことが盛んに報道されていた時期である。今回、この地域(熊本)で唐突に地震が起きたように思えたが、実は違った。昔も地震は起きており「熊本地震」と命名されていたのだ。
 ここでいう地震は「明治22年の熊本地震」のことであった。奇しくも、このたび熊本で大地震が発生した。熊本でも直下型の地震が明治時代にも起きていたのだ。忘れずに、語り継ぎ、学校などでも教育し、備えておけば 突然の地震にもある程度対応ができたのではないだろうか。


 全部で看視員の女性は、直次郎展だけで入口一人、騎龍観音の部屋で一人。次の部屋に一人、更にこの部屋は出口もあるのでプラスして一人。一番の奥の部屋とその境に一人配置、合計で五人配置されていた。(余計なことばかり、見ているな~(苦笑)。)
 更に出たところの小部屋に一人。常設展は チケットをちぎりために二人、常設展の広い部屋の入口に一人。結構配置がある。
 と、先ほど「原田直次郎展」の内部の看視員で茶髪ショートでメガネをかけた、やせた女性が戻ってきた。皆40歳以上かな。ただし、50歳以下だろう。少なくとも35歳以上で主婦のパートのように見える。(だから、何だということはないが。)皆、黒いスーツでスカートかパンツスーツ。悪天候時の昼どきでったため、観客よりも看視員が多かった状態の部屋(展示スペース)もあった・・・・。

 再度、常設展に戻り、先程は見れなかった別の壁の展示作品を見て、一旦外に出た。


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 ↓ 写真の左側の館内に小展示室があり、廊下の壁に「原田家」の解説が掲示されていた。
 

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「原田直次郎展」 鑑賞2 神奈川県立近代美術館 葉山館

「原田直次郎展」の鑑賞記。神奈川県立近代美術館 葉山館。

 4月のある日、葉山の神奈川県立近代美術館 葉山館までやってきた。

 ↓ 美術館の中庭の様子。後方は、葉山の山。
    常設展示室は、右の建物の中。2階に窓があるが、2階に展示室はなかった。

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 常設展示室の中にある「原田直次郎展」の室内に入る。彼の作品で 重文に指定されているのは、現在のところ二点。近代洋画家として一番多く指定されている黒田清輝の作品は三点指定されている(筈)。
 しかし、原田の知名度は高くない・・・・・・。
 最初の部屋は、一作のみ。「龍騎観音」。東京国立近代美術館には、ほとんど常時この作品が展示されていた。が、展覧会中は「出張中」ですね(笑)。

 展示されている部屋に入るには、「特別展のチケット」を、常設展示エリアとの境目で提示する必要がある。入ってみるが、なんと、今回の特別展の「展示リスト」を配布していない・・・・。帰ってから、ネットで調べてみるとウェブサイトには、PDFで展示リストの掲載があった。
 今回の展覧会は、まずは埼玉県で開催、次いで関東圏では神奈川(つまり、ココ!)での開催。都内での開催はない。このあとは、原田家ゆかりの岡山県立美術館、原田の友人であった森鴎外ゆかりの島根県立石見美術館に巡回する。名古屋圏、京阪神地域での開催も無いようだ。
 んん??、「岡山県立」は行ったことがないぞ・・・。住んでいたことがあったのに・・・・。一体どこにあるのか??。昔からあったようだが・・・。しかし、岡山の有名な美術館では「大原美術館」に行ったことがあるぞ!。一回だけ(笑)。

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 「龍騎観音」。絵は、常設展の部屋からも見ることができるが距離があり、遠い。向かって正面にドーンと設置されている。見たことがある人ならば、分かるが、ドーンととても大きい絵。
 展示室の左の壁には鴎外の原田評の詞が掲示されている。右は、次の(展示)部屋への出入り口だ。
 この作品、発表当時「物議をかもした」作品であるとのこと・・・・。ある人と鴎外がこの作品をめぐり、と論争を広げたとそうだ。のちの展示室内で、解説ボードがあったが、鴎外は直次郎を擁護する論文を書いてかなり激しく論争したそうだ。
 このお方、名文家であり、論争をすることも得意なようだ。昨年、二か所の彼に関する記念館を訪れたが、展示資料などによると軍医として医学的論争も行ったようだ。が、その主張は果たして現代の視点から見て正しかったのか?。医学的論争は、兵士の命、国家の命運にも関係することだ。彼の研究、理論は、正しかったのか?。近代軍事医学、軍医行政の発展に彼は本当に貢献したのか。ひょつとしたら、軍医界の高官とならずに本業は一臨床医の兼任作家で生涯を終わるべきではなかったか・・・??。


 前述の通り、この作品は(ほとんど)いつも近代美にある。よって軽く見て、次の部屋へ。部屋と部屋の合間に黒服の監視員女性がいる。ドアのある展示室ではなく、広い天井の高い部屋をパネルで区切って会場を構成している。
 次の展示室は、まず写真の展示がある。父と少年の直次郎と母の写真。母は、継母だそう。撮影は、明治7年頃らしい。実は、私の少年時代とそっくりな写真だ(冗談、笑)。
 兄、常吉の写真もある。兄は14歳でドイツに留学させている。地質学者で、23歳で帝国大学教授に。しかし、兄も早死にだった・・・・。

 おいが、原田熊吉。平成に入ってから急に知られるようになった人物だ。「西園寺公と政局」という本の作者として。壁に掲示あった年賦によると、直次郎は、その名の通り二男、鴨方藩の 原田一道(かずみちとも読む)の二男として生まれる。江戸、小石川の生まれ。
1868年 鴨方に住む。 現在の笠岡市西大島。昨年訪れた 仁科会館の近くである。同じ年に再び東京に。明治18年2月に洋行している。この年の2月に北里がドイツへ留学。同じ年の10月の森鴎外がドイツへ向かっている。直次郎と、北里は同じ月の別の時期の船で渡航したらしい。すると、ドイツ(欧州)行の船は二週間に一回くらいは、当時あったようだ。
 直次郎はすでに18歳で結婚し、20歳で長女が生まれている。その後ドイツへ留学している。単身の渡航であった。しかし、ドイツ滞在中、恋人のマリーとミュンヘンへ旅行、という記述がある。結婚したと年賦にあるのに、唐突にドイツで「恋人マリー」の名前が登場する。現代の倫理観の観点から、あまり、はっきり解説する訳にはいかないのでろう。「現地妻もしっかりつくっていた。」のだなと自分で理解するしかない(笑)。

 帰国後26歳で次女が生まれた。しかし、長男は一ヶ月足らずで死亡している。明治21年に兄、常吉の長男 熊吉が生まれる。この年に兄の嫡子が生まれた。「西園寺の秘書、原田熊吉男爵」のことだ。

 父の一道は、息子二人の死後に80歳で死亡している。没後10年後の1909年にたった一日の回顧展が開催された。


 次の部屋に行く。黒服の監視員女性がいる。 ドイツでの作品、手紙の展示がある。パネル壁に古い写真一つは有名な鴎外のステッキをついた写真。左が岩佐新。岩佐については説明はなかった。真ん中が直次郎。
明治19年頃の撮影か 20代半ばの写真。若い。今の人と比べると年を重ねているが。
 別の集合写真もあった。ミュンヘンでの写真。前列、真ん中に直次郎、その左が「丹波敬三」つまり、俳優、丹波哲郎の祖父だ。ただし、丹波についての説明は一切ない・・・。顔も哲郎と似ている。先日、テレビで紹介していたとは別の写真。あれは、マルセスユへ鴎外らと同じ船で渡欧したときの写真だったはず。
 鴎外は後列にいる。丸い顔で目立つ。鴎外のどいつ日記の一節がある。「3月25日 原田直二郎   原田少将 の子息 を訪う・・・。」鴎外は二郎と書いているようだ。上官のことがまず念頭にあったようだ。津和野の鴎外記念館でも鴎外と「同年齢の原田とは親しくしていた。」と記載にあった。


 近衛篤麿の日記にも掲載がある。近衛日記は1939年に限定120部が発行されたようだ。陽明文庫の発行。個人蔵。近衛家の所蔵だろうか。子の文麿が一回目の首相を退任した後の刊行だ。篤麿はミュンヘンに、直次郎を訪問している。
「 陸軍少将 原田一道 息」と記載があったような。鴎外のことは、「森林太郎」 旧字体で「医学士」と書いている。

 直次郎の恋人のマリーは、とある建物の一階に入っているレストランの給仕女だそう。そのビルの写真がある。ミュンヘンの芸術学校の建物写真もある。かなり、立派な石造りの建物。当時の日本では考えられないなうな大建築。

 直次郎の恋人(つまり、ドイツでの愛人)のことは、鴎外の著書にあった?。鴎外は、いきなり人のことを曝露することがある。直次郎自身は鴎外など留学仲間には「日本の妻子のことは言っていない。」と解説にあった。


 ドイツの画家、エクステルについてのビデオ放映がある。ヘッドホンで音声を聞きながら約10分間の映像を見る。次のような映像だった。
 「 ミュンヘンの夏の様子が流れる、水着で日光浴をしている。女はビキニでバレーボールに講じていたり、小川で水浴びしたり。
 ある日本人学者の話。鴎外がその小説に書いたというエクステル作の日本人の肖像のことについて。万国博覧会に出品され、その後はどうなったか知らない、と鴎外が書いている。

 エクステルの記念館が開館し、その世話人の人に聞くと(保管)場所を知っていた。ここ記念館にはない。理由は日本人の肖像なので、ここ記念館の雰囲気とは合わない。」と。

 この絵は「1980年に再発見された。」そうだ。バイエルン王国の首都、ミュンヘンの湖に浮かぶ島の王室倉庫に保管されていた。もう一シーン、ドイツ人研究者の解説が流れる。エクステルの研究者で、「逆さにすると「原田直次郎」と文字のある絵がある・・・・。」と。
 直次郎とエクステル互いの肖像だったのだろうか・・・・。
 映像を見る際に、近くの出口にいた監視員にヘッドホンの使い方について聞いてしまった。音量が小さくなっていた。女性監視員は、交代で持ち場を変わっている。お昼休憩もあるだろう。
 エクステル作の「日本人の肖像」は大きい作品だが、今回展示は無くのその写真が展示室内の壁に掲示されていた。


 ↓ 展覧会のポスター

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「原田直次郎展」と「明治の美術 コレクション展」 鑑賞1 in神奈川県立近代美術館 葉山館

「原田直次郎展」の鑑賞。 神奈川県立近代美術館 葉山館。

 4月のある日、葉山までやってきた。自宅からは車で134号線を通り、スムーズに来ることができた。もっとも休日の日中は渋滞だが。
 「神奈川県立近代美術館 葉山館」、以前から持っている神奈川県内の道路地図には、その記載がない。小規模の博物館?や県立公園は、元々この地にあったようだが・・・・。神奈川県立近代美術館のウェブサイトによると、2003年秋の開館だった。が、今まで来たことが無かった。丁度、開館した頃は勤務地の関係で、神奈川県内に居住していなかった。
 さて、国道134号線経由で鎌倉、逗子と「渚ドライブ」をし、葉山へ。・・・・・・いつもここを通るときは、御用邸の前の交差点で海に向かって、左(つまり、南の三浦方向)に曲がってしまうし、交差点付近は「神奈川県立近代美術館」と大きく表示されていないので、知っていないと(美術館の)場所が分からない・・・・・。実のところ、数年前までは「神奈川県立近代美術館」のことを「鎌倉」だけかと思っていた・・・・・・・。が、鎌倉にも「鎌倉館」と「鎌倉別館」があることが分かった。ななんと、今年話題になった「カマキン」の閉館には、行かなかった・・・・・・。全くの「スルー」。「カマキン」が「鎌倉館」と「鎌倉別館」のどちらの愛称なのかも知らなかった・・・・・(苦笑)。
 
  美術館に向かう途中、天気が急変して大荒れになってきた。御用邸から、狭い道に入る。数百メートル進むと、「神奈川県立近代美術館」駐車場の入口の看板が見えた。天気の影響だろう、すいていた・・・・。
 今回、閉館に際してカマキンを(私は)スルーしたが、今後はこちら葉山が「神奈川県立近代美術館」の本館としての位置づけとなるであろう。
 しかし、交通は不便だ。電車で簡単に来ることはできない。車やバスで来る場合でも、晴れた日、特に夏は大混雑だろう。海水浴客もいるたろうから。 美術館の近くには「一色海岸はこちら」との看板もある。夏は大賑わいだ。
 
 ↓ 神奈川県立近代美術館 葉山館 エントランス。

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  ↓ 神奈川県立近代美術館 葉山館 エントランス。傘タテに傘が並んでいる。
    この日は荒天で傘持参は必須の天気だった。よって、入館者の数が推測できる(笑)。

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 駐車場に車を停めて、建物まで歩く。実に近代的な建物だ。入口へ階段を登る。ガラス張りのモデンな入口。入ると、広いエントランス。受付のカウンターには女性係員二人いる。
 料金 特別展の「原田直次郎展」は1200円。常設展ともいうべき展示の「明治の美術 コレクション展」の料金込み。 「明治の美術 コレクション展」のみの場合は、入館料金は安い。
 この日の人(入館者)は少ない。悪天候のためだろうか。館内は、シーンとしていて静かだ。
 
 展示室に入る。
 「明治の美術 コレクション展」 から見学する。常設展の部屋での開催だ。

 まず、目に飛び込んで来たのは、ワーグマンの風景画、日本の人物の作品だった。「日本の女性」 二人の日本の女の姿だった。日本人を日本人らしく書いている。西洋人が描いた作品とは思えないくらい。
 高橋由一の作品が一点あり、その隣に池田亀太郎の「川鱒図」がある。名前は聞いたことが無い画家だ。まさに高橋由一の鮭と酷似している。「鮭」と間違ってしまいそうなくらい・・・・。
 この「川鱒図」の絵についての説明文が作品の所に無い・・・。制作年も「不明」とある。ぱっと見たところ、由一の作品とどちらが先に制作されたものなのか?、分からない・・・・。こちらは模写なか、詳しいことが分からない・・・・。
 池田や由一についての解説文がある。「・・・・由一は 武士の子であった。」ことが書いている。佐野藩士の子として生まれ、同地の領主、堀田家の殿様につかえていたが、その後絵の道に入ったようだ。・・・」とある。
 多分、由一が師匠で池田が弟子でその影響を受けたことは、作品や解説文から理解することが出来ます。由一の「鮭」が先です。


 続いて五姓田芳柳の作品と子の義松の作品。父の作品、「磐田譲 像」 まん中に軍服姿のモデルの姿。周囲に星のマークの貼った軍の帽子と黒い肋骨服姿。その他 礼服姿でいくつかポーズをとる依頼者の肖像。水彩画のようだ。よって、描いた当時に水にぬれたであろうとめか、紙にしわができている。
 隣に幼児姿の子「磐楠像」。これは、前回「五姓田義松展」で見た。油彩画である。当時はフランスで 男に女の子の姿をさせたそうだ。
 解説文が作品の横にあり、五姓田の親子、それぞれで井田家の親子の画を書いている。井田(父)はのちに男爵となる人物だ。(このとき、すでに爵位を持っていた??。) 井田が当時、軍の高官であったことは間違いない。
 
↓ 展覧会のチラシ。今回展示のあった、ワーグマン「街道」、五姓田義松「老母図」、「井田磐楠像」の写真掲載がある。
 五姓田義松の「老母図」と「井田磐楠像」は昨年歴史博物館での「五姓田義松展」で鑑賞し、強く印象に残っている。

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 ↓ ポスター。黒田清輝の作品だ。

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 浅井忠の作品として肖像画があった。これは、モデルの子孫が寄贈したもの。藤嶋武二の「T氏の像」もある。黒田清輝は一件のみだが、展示があった。全部で五点ある。「逗子 五景」。作品には1~5までの番号が振られている。 農村付近の湿地のような風景が描かれている。黄色が基調の府警がは、秋の様子かな。が、現在 逗子にこのような風景はない・・・。昔の逗子周辺は、このような風景だったようだ。空想だろうかと思ってしまうくらいの現在の景色との違いようだ。現在展示がここにあるということは、開催中の国立博物館の「黒田清輝展」には出品されていないのだ。

 ↓ 展覧会のチラシの裏面。黒田清輝「逗子 五景」の作品。

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 青木繁の作品もあった。いろこの宮のデッサンのような作品というか、複写の展示がテーブル状のガラスケースの中にあった。
 常設展の部屋は、長方形の大きい一室のみ。さらに奥の部屋は、特別展の会場となっている。「騎龍観音」の大きい絵が見える。

↓ 企画展のポスター。

常設展示室の奥にこの「大きな絵」がドーンと展示されているが見えます。

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企画展「徳川の城」 江戸東京博物館 見学

 2015年5月5日 

 江戸東京博物館の企画展「徳川の城展」にやってきました。 
 前回来た企画展の「大 関ヶ原展」と何が違うのか?、と一瞬戸惑ってしまいました(苦笑)。
 「城」と「合戦」と違うじゃないかと指摘されればそれまでですが、戦国の世では合戦と城は表裏一体のものであり、徳川の天下太平の世となっても、城自体は武家の統治の象徴だったわけで、合戦に備えての城でもあったのですからやはり城と合戦は切り離して語ることはできません(強弁)。

  複数の展示を見て、進んで行きます。「大 関ヶ原展」ほどは混雑していません。
 会場に入って最初の展示は「徳川家康像」です。いえ正しくは「東照大権現像」です。所蔵は徳川記念財団。ここ江戸東京博物館と同財団は切っても切れない関係でしょう。企画展などで同財団の所蔵品は必ずといってよいほど出展されます。江戸イコール徳川将軍家のおひざ元ですから、江戸をテーマとする場合将軍家を抜いて語ることは決してできません。

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 記憶に残った展示品を挙げていきます。
・西洋人が描いた大阪城の絵
  教科書に必ず載っている絵です。大阪城天守閣の所蔵です。教科書にも必ずそう書いてあります(笑)。
子供の頃大阪城で見たような記憶が・・・・。実をいうと教科書で見たのか、それとも大阪城天守に行ったときに見たのか、脳内で同一化されているので今となっては定かではありません・・・・。

・各地にある徳川時代に築城された城の絵図
 「御城内御絵図」として彦根城の上から見た見取り図がありました。精巧な縮尺地図のようでした。堀と池にかこまれています。特に東は松原内湖なのでしょうか、水域でお城のある山は湖に突き出た半島のようでした。
 他に福井城、丹波篠山城など行ったことはないが近くを通ったことのある街のお城もありました。

・江戸御天守 重要文化財 と展示品リストにはあります。
 実際には図面です中井氏蔵。大工頭であった中井氏の末裔の所蔵品であることが分かりました。
 当時の図面を数百年間も個人の家で所蔵していることになります。この企画展では国宝の展示が無いため、この重要文化財の中井氏の図面がメインの展示品です。
 
 同じく二条城の天守の図面がありました。中井氏蔵の重要文化財です。

・洛中洛外図屏風 歴博本
 一昨年の秋に見た「特別展 京都」で展示がありました。このときの目玉は上杉氏の所蔵であった狩野永徳の洛中洛外図屏風でした。同時にこの歴博本を見たか・・・忘れてしまいました。京都展の図録を見て復習することにします(笑)。

 最後の展示コーナーに明治初期の風景写真の展示がありました。いずれも重要文化財指定で歴史資料集などで見たことがある写真も含まれています。大手門、半蔵門、桜田堀、乾櫓、和田倉門など当時の写真です。門は現在でも残っているものもあるので当然のことながら建物そのものは今日私達の見ることのできるものと同じ
です。(当たり前ですが。)

 企画展示室の入口の様子。

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 企画展を見て退出しました。この日、常設展には入りませんでした。


五姓田義松展 神奈川県立歴史博物館 (鑑賞記 速報)

 11月に入ったある日のこと。横浜にある神奈川県立歴史博物館にやってきました。
 実のところウチの子供は、学校の社会科見学で来たことがあるのです。神奈川県でも横浜、川崎やその周辺地域の学校に通っている児童、生徒の皆さんは遠足や社会科見学で来たことがある人も多いはずてず。もっとも、ウチの子供は「特別展には行かなかった、常設展の展示のみの見学だった。」と言っていました。
 この日の私の訪問は、午後5時の閉館時刻間際。特別展のみ見学しました。

 特別展「五姓田義松」 (ごせだ よしまつ)
 キャッチフレーズといいますか、副題としては、「最後の天才」、「本当に絵のうまい画家」、「義松真発見」とあります。意外にも知られていない五姓田義松の名とその作品。

 私がその人の名前を知ったのは、今年の春のこと。東京芸術大学美術館の「ダブル インバクト展」で展示されていた一枚の油彩画でした。題名は「自画像」、作者は「五姓田義松」。洋装で若々しい顔、まっすぐにこちらを射るように見ている画中の人物の眼・・・・・。不思議と印象に残りました。これほどの秀作を残している画家であるのに、その名前を聞いたことがありません。いや、昔何かで名前は見たことはあるが、忘れていたのかも知れません。その作品と作者の名前は強く私の心に残りました。
 そして半年後の秋に神奈川での特別展の開催です!!。これは行かないわけにはいきませんね。
 もっと早くに訪れるべきだったのですが、「図録」の発売が遅れているとのことで、発売を待ってからの訪問となりました()。 会期は11月8日まで。会期終盤ギリギリです。
 
 展示作品は充実しており、義松の人物像、家族も含めて知ることができました。一言で表現すれば「すごい」です(笑)。ありきたりの感想ですが、これだけの作品を遺した画家の回顧展が神奈川県立歴史博物館で開催されたのは、これまで(本館が)義松の作品、資料などを収集、研究してきた一大成果でしょう。
 東京の大美術館、大博物館で開催されてもよいくらいの特別展です。並み居る大美術館、大博物館を抑えて、「神奈川県立歴史博物館」が、かっ飛ばした「大ホームラン」といっても過言ではないです。
 義松の作品には、宮内庁御物も多いと説明もありました。宮内庁管轄の作品が多くて文化庁の文化財指定対象外のためか、義松の重要文化財指定作品は、現在のところ一点もありません。が、昨年の秋11月に東京国立近代美術館で鑑賞した「菱田春草展」と並ぶ、いやそれを凌ぐといっても過言ではない回顧展でした。

 ↓博物館に掲示されていた看板。
 
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「大 関ヶ原展」 江戸東京博物館 見学記続き

 2015年5月5日 

 江戸東京博物館 「大 関ヶ原展」。
 「関ヶ原合戦図屏風」の複数の展示を見て、進んで行きます。混雑しています。ガラスケースの前は人がズラリと並んで見るのが大変です。
 この会期中の目玉は何か?。問われると、実は東京展での目玉の展示はほぼ終わっています。国宝の展示は東京展での後期はありません。東京で展示される国宝といえば、福島正則書状など合戦の前に繰り広げられた外交戦に関するものなどです。しかし、今期に展示はありません。あとは、次の次の週の会期末を待つのみ・・・。ボクに言わせればこのGW期間、東京展の後期は『消化試合』です。だから、これだけ混雑するのが信じられないくらいです(笑)。
 多分主催者の考えはこうです。『後期は大型連休にかかるので、放っておいても集客が見込めるし前期と会期末では会期末の方が入りが増える。春先でまだ寒い時期の会期はじめは、常設展のリニューアルオープンとも重なる。花見客の流れも呼び込むんだ。(もちろん酔客はお断りだが)リニューアル、花見とタイアップして一発ドカンと目玉花火をぶちまけるゾ。』と鼻息が荒かったのです。勝手な推測ですが(笑)。
 てなわけですが、GW期間についてはそんな『鼻息荒さ』が伝わってこないです・・・・・。入場待ちの行列ならばイザ知らず、チケットを買うのみで『60分待ち』(との表示)を平気でさせるなど「入場者対策」に力が入っていないのをヒシヒシと感じました・・・・(笑)。
 主催者側のホクホク顔が目に浮かびます。「後期になっても大賑わい。予想以上の入りだ。」と。おめでとうこざいます(笑)。


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「大 関ヶ原展」 見学 江戸東京博物館

 2015年5月5日 

 江戸東京博物館 「大 関ヶ原展」。
 時刻は午後4時を過ぎてだいぶ混雑が少なくなってきているようです。ウェブサイトでは待ち時間を混雑を多めに想定して余分に表示しているようですが・・・。
 エスカレータを下れば会場です。
 いざ~「大 関ヶ原」へ。「合戦じゃ、合戦じゃ!!」(笑)。

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 1階の会場に着くと、そこは「合戦場」即ち「戦場(いくさば)」ではなく(笑)、特別展示室の前の行列です(笑)。係員は「入場まで30分待ち」のプラカードを持っています。
 下の写真がエスカレータの途中から撮影した行列の様子です。さほど多くはありません。行列の先は、一旦通路確保のため途切れ、特別展示室の入口まで続いていました。100分待ちの行列と比べればチョロいもんです(笑)。
 実際は15分くらい待っただけで入場て゜きました。

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 会場内に入りまず目に飛び込んで来るのは、「関ヶ原合戦図屏風」。江戸時代に描かれた鮮やかな色彩のものです。今年は関ヶ原の合戦から400年の節目の年に当たり、「大 関ヶ原展」が企画されたのです。イヤ「大阪夏の陣から400年」ですね。戦の世が本当に終わった『元和エン武』(漢字が・・・・)から400周年記念といったほうがふさわしいでしょうか!!?。実際には告知看板にあるように「家康没後400年」といったほうが正しいですね。


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 写真は一階の館内入場前の看板。

「大 関ヶ原展」

















 



江戸東京博物館リニューアルオープン 東京ゾーン 見学 

 2015年5月5日 

  江戸東京博物館 リニューアルオープン。 今度は、明治維新後の世界 東京ゾーンを見学します。

 公衆電話(ボックス)の模型が移転しました。以前は「浅草界隈」だったかの模型の近くにありましたが、出口付近に移動しています。

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 浅草の「塔」の模型はそのまま。関東大震災や安政地震の展示もそのままでした。関東大震災関連の展示は、先の震災を受けて展示スペースが少し広がったように思いました。しかし、改めて注目されているはずの「安政地震」についてはほぼ以前のままの展示。
 天災は防ぐことができません。「震災対策」の展示についてもっと力を入れて欲しかったです。

 時間が無いので戦時中の展示の見学は割愛しました。


  「東京ゾーン」の展示室内の様子。
 ↓ 明治時代の書生さんの恰好でしょうか。

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 洋風建築の間取り。この模型も以前からあります。

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 一番目を引いたのは「現代」のテーマの展示です。「サブカル」とも言うのでしょうか。
 「メイド服」の展示が目を引きます。ここまで展示が必要でしょうか。本当に「メンド××」は存在した(する)のでしょうか?。行ったことも体験したことも無いのでボクには分かりません(笑)。

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 ↓ 女子高生の制服と「ルーズソックス」。うーん、この流行時代に中学か高等学校にいたかいないかで年齢がほぼ分かりますね。現在ではほぼ絶滅していると思いますが。(注 ワタクシの独自観察による(笑)。)
 何気に、うしろの液晶?画面でルーズソックスで歩く女子高生か女子中学生の「脚」の映像が流れています。こうした映像を当時撮影して保管しているとは、ある意味怖いです(笑)。
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 「ルーズソックス」の展示も良いですが(笑)、戦後の学校給食の展示がさりげなくあります。写真を見て改めて気づきました。何気にブルセラルーズソックスの前にも給食の模型がありますし、メイド服の前にも給食の模型があります。どのような説明だったかは忘れました(笑)。
 なぜ、複数の給食の展示があるのか分かりませんが、ポイントはなんでも「牛乳」ということ(笑)。
 おかげで、私も食事の際は牛乳と一緒になんでも食べることができます(笑)。教育で「刷り込みされる」ってある意味怖いですね(笑)。


 一時間くらい急ぎ足で見てから、日本橋の下をくぐり、下のフロアへ下ります。「大 関ヶ原展」に向かいます。
どれくらいの待ち時間でしょうか!?。

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 江戸東京博物館
 今回のリニューアルオープンの目玉は「ルーズソックス」と「メイド服」であることがよく理解できました(笑)。(何だそりゃ!?。)



江戸東京博物館 リニューアルオープン 江戸ゾーン 見学 その二

 2015年5月5日 

 江戸東京博物館 リニューアルオープン!!。引き続き、5階部分にある 江戸ゾーンを見学します。

 江戸の家屋の模型エリアを抜けると、高い天井が。お祭りの山車がありました。立派です(笑)。神田祭りの山車ですかね。「須田町」の山車。現在の千代田区神田須田町周辺の町の人が引いていたのでしょうか。


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 ↓ 随分と大勢の人で引いています。「てやんでい。マツリだマツリでい!!」「。祭りとケンカは江戸の華」という言葉はありませんね(笑)。

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 日本橋の様子。「三」のマークは三井の越後屋の建物の模型ですね。現在でも押しも押されぬ一大財閥ならぬ、一大企業グループ各社の社章です。

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 お次は海の幸。江戸といえば、近隣の海から海産物がどんどん運ばれてきた一大物資の集積地。
 
 ↓ 注目は鰹です。
   
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 かつて、このブログでも「鰹の街 日本橋」というテーマで書きました。現代のビルにかこまれた日本橋の街でもかつての名残はあるのです。鰹節の看板がそのことを如実に物語っててます。鰹(節)が江戸湾を回漕して運ばれ、日本橋に水揚げ(というか陸揚げかな?)されたのです。
 鰹の生産地で「横須賀」とあります。横須賀沖の江戸湾でも恐らく鰹が回遊してきたのですね。
 御蔵島、三宅島といえば黒潮洗う海。海が荒れることもあります。あの時代、帆船か手漕ぎ船で鰹を獲りに行っていたとは驚きです。一本釣りでしょうか。でなかったら、あの黒潮の洗う海で網を張って取るわけありませんよね。分かりませんが・・・・。石油動力はおろか、蒸気機関すらなかった時代、どうやって船を操ったのでしょうか。すごいパワーです・・・・。昔の人は偉かった。

 いろいろな食物の産地が表示されるスクリーン。もちろん表示されているのは『鰹』の産地です(笑)。

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 ↓ 舞台の模型です。もっと豪華な花魁の人形もありましたが。あまりにド派手なのでここで掲載はやめておきます(涙)。

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江戸東京博物館 リニューアルオープン 江戸ゾーン 見学

 2015年5月5日 

  江戸東京博物館 常設展示室、リニューアルオープンです。
 日本橋を渡った先にある模型ゾーンと企画展示ゾーンのフロアから階段を下り、『江戸ゾーン』の見学をします。ここは五階に相当しますね。
 まずは、江戸のくらしの展示見学です。
 ↓ 江戸の町家。お産の様子。この模型は以前からあります。産婆さんがお手伝いしています。

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 職人の仕事場の様子。ここは『桶屋』ですね。 
 「風が吹けば桶屋がもうかる」のことわざからこの模型を造ったのでしょう。江戸では桶屋も多かったのでしょう(笑)。で、肝心の 「風が吹けば桶屋がもうかる」の意味は?。 「忘れました。」が答えです(笑)。

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 ↓ 日常の膳。一日二食。一汁一菜というのでしょうか。

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 金貨の図録。 

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 やはり、金には惹かれます(笑)。

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江戸東京博物館 常設展示室 リニューアルオープン 入場 

 2015年5月5日 

  「大 関ヶ原展」の混雑を避けます。
  ここは「大江戸!?」、江戸東京博物館、3月28日にリニューアルオープンした常設展示室にやってきました。

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 さあ、入場です。
 「 江戸東京博物館 名物 」の「日本橋」を渡ります。といいたいところですが、混雑しています。橋の下の劇場部分で公演を行っています。
 入場者はまずこの橋でバシバシ写真を撮影します。橋の向こうからも結構写真を撮っている人がいます。私の姿もきっと誰かのブログに載っている筈です(笑)。その写真のタイトルはおそらく「日本橋を渡り、橋の向こうから入口ゲート方向を撮影」となっている筈です(笑)。


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 人垣の合間にスペースを何とか見つけました。橋の下を見ます。んん、落語、軽業、曲芸、猿回し(そんなワケないか[笑]!!??)」。どうやらバイオリンの曲芸のようです。

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 混雑しているので、日本橋を渡り、入口ゲートと端の様子が分かる位置から公演を見学します。
 混雑具合が分かりますね。この「日本橋下の演芸場」(と勝手に私が名づけだが・・・・・。)は、リニューアルオープン後は、落語などの古典芸能はプログラムに無いようです。

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 演芸場の上、窓から光がもれています。たしか、この窓は上の階、7階かのレストランの待ち合い場のついている窓のはずです。レストランの内部から展示室を見下ろすことができます。


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 橋を渡ると、模型コーナーがあります。今までは『越前藩松平家』の江戸屋敷模型がありました。江戸前期の親藩の豪壮なお屋敷の模型です。明暦の大火で焼失してしまっていることもあり、貴重な復元模型です。この模型は引き続き、ほぼ同じ場所にありました。
 更に江戸城の本丸の建物群の模型が新規に設置されていました。
 橋に向かって正面には巨大スクリーンが。CGで江戸城の本丸御殿の様子を投影しているようです。


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 天守閣があるという時代の模型です。というと、明暦の大火の前の時代のものですね。家光~家綱の時期、いわば幕府の権威絶頂期の模型でしょうか。

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 ↓ 二の丸御殿の模型ですね。現在は、皇居東御苑の一部なので散策することができます。

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 ↓ 北桔梗門から本丸、でしょうか?。現在は皇居東御苑の北の出入り口となっています。私も何回か通ったことがあります。現在広い、公園というか、広場になって自由に散策でくる場所はかつては、本丸大奥の建物が所狭しと建っていたのですね。こりゃ、火事になったら延焼してしまいます。ひとたまりもありりません。

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 ↓ 駕籠です。

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江戸東京博物館 常設展リニューアルオープン見学と「大 関ヶ原展」へ

 2015年5月5日 

  朝の時点で「大 関ヶ原展」はウェブサイトによると相当混雑していました。
 先に東京国立近代美術館に向かい、その後国立新美術館で「ルーブル美術館展 ヨーロッパ風俗画」を見学。次に地下鉄大江戸線で両国へ向かいました。六本木から両国まではそれなりに時間はかかります。
 両国駅の改札を出て、目の前のエレベータで地上に出ると、下の写真の看板が目に飛び込んできます。

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 上の写真では、建物脇の駐車場とも歩道ともつかない敷地を通って一階の脇から特別展に入場しなさい、のような案内ですが、階段を登り二階部分に相当するであろう「吹き抜け広場」を進みます。
 と遠くにチケット購入待ちの行列が見えました。
 
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 ここにつもチケット売り場があります。一階のカウンターの場合混むイメージがあるので、こちらで並びます。係員は「チケット購入まで30分待ち」のプラカードを持っています。
 しかし、15分程度で購入できました。ここで残念無念なことが一点ありました。「割引券」を持って行ったのですが、「常設展と特別展に入場できる共通券では使用不可。特別展のみのチケット購入の場合にのみ使用できる。」チケット売り場のおねーさんに言われてしまいました・・・・・。この時期、3月下旬にリニューアルした常設展示を見る人も多いのに、敢えて特別展だけの割引券を用意する意図が分かりません・・・・・、と思うのは私だけでしょうね(笑)。


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 先に常設展示から見学します。特別展の混雑が解消するのを見計らいつつ(笑)。
 

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 エスカレータを登ります。常設展へのエスカレータは全く混んでいません。平常通りです。大関ヶ原展の混雑などまるで別の世界のことのようです(笑)。大関ヶ原展の会場となっている企画展示室、といいますか「特別展示室」実はこの床面の下建物の一階部分なのですね。
 
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 エスカレータの壁面には浮世絵のバネルが掲示してあります。ともかく常設展示室に長いエスカレータを乗り換えしつつ、登っていきます。

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(参考)

 写真は一階の館内入場前
の看板。
「大 関ヶ原展」

















 



「ダブルインパクト展」 見学 東京芸術大学美術館

  2015年4月

 「ダブルインパクト展」 東京芸術大学美術館にやってきました。
 
 三階から見学開始です。ボストン美術館と東京芸術大学の所蔵品の交互展示のような展覧会です。二年前くらいに「ボストン美術館展」が別の場所(東京国立博物館)で開催されましたが、この展覧会を私は見ていないので分かりません。
 
 一番の目的は高橋由一作の重要文化財「花魁」です。「高橋由一展」では同じく重要文化財指定の「鮭」とともに展示されたと思います。が、せめて「鮭」は無くとも「花魁」だけでもと思いやってきました(笑)。
展示の比較的最初のほうにありました。壁にかかっています。それほど大きくない作品です。うっかりすると見落としてしまいそうなくらい。しかも作品の説明は「芸」(旧字体)と「B」と、どちらの所蔵かの赤いマークがついているため 「重要文化財」指定であることを見落としてしまいます。
 「花魁」の女性は、随分と怖い感じの女の姿ですが、説明によるとこのモデルになった花魁の女性も気に入らなかったとか。

 順番に見て行きます。文明開化の様子「B」マークのある錦絵の展示がありました。ポスター、バンフにも出ている「クネクネ曲がる 龍の置物」は「B」です。

 続いて地下に下りました。エレベータではなく、階段で一気に地下まで。
二室に分かれています。順路が無い部屋は大きい彫刻がおいてあります。つまり、ポスター掲載の木造などです。写真よりはるかに、大きいです。刀の部分は復元したのだとか。
 もう一室は、主に絵画で奥行のある展示室。順番に見ていきます。狩野芳崖の「悲母観音」がありました。昨年春の「世紀の日本画」で見ました。となりに、岡倉天心の甥が描いた、同作の模写がありました。近年「B」の所蔵になったとあります。模写とはいえ、明治時代に描いたものでした。
 進んで 春草の作品で「B」もありました。大きな絹本着色と思われる月の絵です。大観作品でも「B」がありました。意外です。天心が収集したものでしょうか。前にも見たかも知れませんが、大観の卒業制作作品もありました。
 展示画でいうと、「芸」の方が多いです。「B」は錦絵から日本画、鈴木長吉などの工芸品までジャンルは多岐にわたっています。外国人好みの「日本の文化を理解するため」の総花的な展示です。
あと、心に残った作品といえば、
 山本翠芳の「女性の横顔」の油彩画。教科書にもでてくる作品です。「これ見たことあるな。」が第一印象でした。(笑)
 先の三の丸尚蔵館の展示(かつての皇室御物)でも 山本芳翠の作品がありましたし、前年に重要文化財指定もありましたし、実は知らなかっただけで、山本芳翠は多数あるのですね。近く回顧展が開催されることを期待します。


 ↓ 休憩の部屋から外を撮影。校門が見えます。

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 ※ 「山本翠芳」と間違えて表記していた時期がありました。お詫びして訂正します。





「ダブルインパクト展」 東京芸術大学美術館 初めての訪問

  2015年4月

 「ダブルインパクト展」 東京芸術大学美術館にやってきました。
 実に初めての訪問です。

 キャンパス奥に至るところに展覧会の看板がありました。この看板の先の校舎には入っていきにくいものを感じます。というより、関係者以外は立入禁止となっていたと思います。もとより、私は部外者です(笑)。
 

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 大学美術館の建物自体は、道路の壁沿いに建っています。今までこの道沿いの建物が美術館であったとは気づきませんでした。
  ここでチケットを購入・・・・・ですが、実は事前に前売り券を購入しています。コンビニの端末で簡単に購入できます。この日が「ダブルインパクト展」の開催初日。講演会はありますが、それ以外のイベントなどはありません。


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 ここ東京芸術大学美術館では、数年前に「高橋由一展」が開催されました。そのときには来たかったのですが、結局来ないうちに会期は終了してしまいました・・・・・。昨年か一昨年くらいに「興福寺仏頭・・・・展」もありました。ただ、この「仏頭・・・展」は、中核となる展示物が重複している展覧会が過去別の場所でも開催されている(よう)ので来ませんでした。
 大学美術館ということもあり、私のような一般人にわかるような展覧会はなかなか開催が無いと思います。どうしても大学美術館というと専門的になり、一般の公立、民間の美術館のような「万人受け」するテーマでの開催が無いような・・・、というより万人受けするようなテーマを組む必要は無いのでしょう。

 入館すると一階はロビーのようになって、売店(つまり、MS = ミュージアムショップ)があります。エレベータに乗って三階に行くように指示されました。その後は地下二階に下りるように言われました。一階には展示スペースが無いようです。エレベータを待ちます。が、なかなか来ない。なぜかって、上の階を観覧した人が地下に降りるので、一階に停まってもすぐに再び扉を閉めて地下に行くからです。地下二階から昇ってきて、一階で降りる人は観覧を終えた人です。まだ開催初日の昼過ぎです。(開会直後の)午前中から観覧していた人でないと展覧会を見終えた人はいません。退出する人よりもこれから見学としいう人の方が多いのです。
 エレベータに乗ってもあまり大きくないのでぎゅうぎゅう。なぜかって、エレベータの同乗者は皆老齢なのです。つえをついている人もいて。大学美術館なのに大学生くらいの年齢の見学者は全然いない!!。これじゃ階段を歩けばよかったかな・・・・・と。入館当初の私の周囲では平均年齢が最低でも70歳。(ただし、私やウチの子は平均年齢の算出対象メンバーから除く(笑)。)
 その後、展示室を見学していくと、実は学生くらいの若い人も結構観覧に来ていましたが・・・・。


(既出) キャンパスの角地にある桜と「ダブルインパクト展」の告知。











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 東京芸術大学美術館を見学した後は、上野駅まで戻らず地下鉄の根津駅へ上野桜木町のゆるやかな坂を下りました。 東京芸術大学からは上野駅よりも根津駅の方が近いのではないかと思います。しかも、上野の丘の上からは、根津に向けて下り坂なので歩くのに楽チンですからね(笑)。

「大 関ヶ原展」 混雑状況、入場券行列など 速報

 2015年5月5日 

 「こどもの日」のお出かけ状況の速報です。
上の子が部活が無いということで、江戸東京博物館、大 関ヶ原展など博物館、美術館に行くことにしました。
下の子は・・・・というと、私の実家に行くことになりました。
 「大 関ヶ原展」はウェブサイトによると相当混雑しているようです。朝一番で入館すべく出発しました。車ならば約1時間で江戸東京博物館の駐車場に到着できます。電車だと乗り換えなどで結構時間がかかりますし、両国駅から意外と歩きますしね。
が、なんやかんやいって出発は遅れました。上の子が車中でスマホで調べたところ9時半の開館の時点でチケット購入のため行列。60分程度。特別展に入場のため更に60分か90分の待ち時間が発生していました。
 実際はもっと早く入場できるのでしょうが、このまま10時頃についても、約2時間は待つことになります。入場するとすでに昼になってしまいます。先に東京国立近代美術館に向かうことにしました。

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 写真は館内入場前の看板。

「大 関ヶ原展」

















 今日の行動記録メモです。
  東京国立近代美術館の片岡珠子展(招待券があるため入場無料)と常設展
  ↓
  再度 国立公文書館の「JFK展」を少し見学 (無料)
  ↓
  北の丸公園を徒歩で通過
  ↓
  地下鉄を乗り継いで国立新美術館(ルーブル美術館展)・・・前売り券を購入していた。
  ↓
  大江戸線で両国へ。
  ↓
  15時過ぎに 江戸東京博物館に到着。 「入場券購入30分待ち」の表示。
   実際には10分ほどで購入できました。
  「大 関ヶ原展」は入場に30か40分待ちの表示。リニューアルオープンして常設展を先に見学。
  16時過ぎに 「大 関ヶ原展」の会場へ。行列は少ないです。15分ほどで入場できました。
  かなり、長め待ち時間の表示をしています。
  昼間の最大の待ち時間は、チケット購入後「入場まで100分待ち」の表示だったようです。

  実際の待ち時間でいうと「大 関ヶ原展」はこの春混雑した展覧会のNo1だったのではないではないでしょうか。もっとも前売り券などを買っておけば、 「入場券購入待ち」の列には並ばなくてもよかったのですがね(笑)。

 
 







江戸東京博物館 「大浮世絵展」見学

 銀座に続いて両国の江戸東京博物館にやってきました。(先月も来ましたが・・・。)ここで下の子は正月早々、まさかの抵抗。「やだ。行きたくないから、車から降りない。」なだめすかして何とか館内に入ります。(完全にナメられています。甘やかして呆れた親だとと笑ってください。自虐・・・・。)
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常設展フロアで獅子舞の始まり。しかし下の子は興味を示さず・・・・。
子どものためにやってきたのに、これでは意味なし!?
(親の思い違いも甚だし・・・といったところか。苦笑。・・・すらできず・・・!?。)





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獅子舞の舞い。














 
 その後、「東海道53次」の企画展示を見学。子どもは興味がないようで、子供用のパズルコーナーや「53次のすごろく」コーナーで遊んでいました。
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写真は、からくり時計の陳列。実演もあったようですが、終わってしまったようです。








 しばらくすると、17時から新春のイベント「からくり時計の実演」が開始。本当は15時の回で終了だったのですが、特別にあと一回開催をしてくださるそうです。大阪から来たという、からくり一座の実演。
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水銀の重さと流動性を利用しし、階段をバク転して移動する人形。
ある程度温めて水銀の温度を上げないとうまく動かないそうです。







 全然関係ない話ですが、「朱」という水銀の一種が江戸時代は保存料だったようです。
大河ドラマ「篤姫」では夏に死亡した「上様(将軍 家定)」の遺骸は、「朱」につけて保存されていて、大奥の篤姫が薨去を知らされたのは一か月後だったとか。お付の女中「・・・近頃、朱(しゅ)が江戸のまちでは足りないといっていたが、まさか・・・」というセリフが。(「篤姫」にこだわるなぁ・・・・笑。)人体に対する有害は知らなかったのでしょう。江戸時代、ことに後期の乳児を含む死亡率の高さは、おしろいや鉄漿(おはぐろ)などに含まれる鉛などの化学物質が原因のひとつだったとか。
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これは、弓を射る人形。4回射るが、すべて的に当てるのではなく「外すことがある」のがよいそうです。







DSC08817DSC08818 写真は、文字を書く人形。田中久重という、有名なからくり人形作者の作品。上下と左右と前後(筆圧)を調整する三次元の動きをするそうです。アメリカの資産家(自家用飛行機と飛行場をもっているくらの)がもっていた人形を買い取って、ボロボロになっていたものを修理したそうです。買い取り価格は千万円単位だったそうです。
 下の箱の裏を開けて見せてくれました。円盤が「ソフトウエア」の役割をして、4文字(松・竹・梅と壽)書くことができるそうです。円盤は4文字×三次元の動き=合計12枚。別の絵の復元円盤を利用して絵も描いて見せてくれました。
  
 
 この日は、開館が夜8時まで。時間を気にせず見学ができます。常設展を見てから一階に戻り、続いて「大浮世絵展」を観覧。人は途切れることなく、混雑しています。浮世絵人気の高さがよくわかります。
 私の目当ては、国宝「風俗図屏風」(彦根屏風)。浮世絵の前時代の肉筆画という位置付けで展覧会の冒頭で展示がありました。東京での本展覧会の唯一の国宝。彦根城博物館の所蔵だが、彦根でも常時公開ではなく公開は年1回4月から5月の連休にかけての1か月程度。彦根城博物館には、2009年8月に行ったことがありますが「見学」はしていません。(もちろん、この屏風の展示期間でもありませんでしたが。)なぜなら、「ひこにゃん」のみの観覧は博物館入場が無料だったからです。(笑)
 「彦根屏風」の今回の江戸東京博物館での展示期間は、新年1/2から1/13までのわずか2週間足らず。その他の作品も展示替えが非常に多いため、この時期に展示するのは、全体の半分もなく、で100数十点らしい。マニアでは数回来る人もいるでしょう。
 その他の目玉といえば、重要文化財 写楽の「市川蝦蔵の・・・・」、正式な名前は知らなくても教科書に載っていることもある、「オレンジ色の着物が印象的なちょんまげの男の絵」です。(余計わからないかも・・・笑。)
 その他の有名どころでは、菱川師宣の見返り美人も展示されますが、この日は、展示期間外。浮世絵は描き方もグロイ?し、不気味な感じがします。浮世絵に描かれている女性達は一体誰なのでしょうか・・・。市井の一般町民の女性でしょうか?。文字どおり浮世の絵として遊女の姿を描いたものも多いはず。もちろん、男性役者や神奈川沖浪裏、富嶽百景のような風景画も浮世絵には多いですが・・・。現代とは隔絶しているような気がして、エグくてなんとなく人間的でなく好きになれないというか・・・・。国宝の「彦根屏風」においても「描かれている女性は遊女」と説明があります。実際の遊女の生活とは・・・・・・。遊女、花魁、苦界・・・言葉を並べただけでは、現代に生きる私達にはいまいち実像を知ることはできません。が、その実態とは・・・・。公に表現することはとてもできないでしょう・・・。
 過去、西洋画の展覧会を中心に見てきた私ですが、自分でもその理由はよくわかりませんでした。(えッ!)。自称「ヨーロピアン」であったこともありましたが(これは丸っきりの出鱈目。笑。)、理由のひとつは、ルネサンス時代以降の絵画は、より描き方が人間的だからではないかと気づきました。(何をもって人間的というのか分からない、印象派の絵画は浮世絵の影響を受けているではないか、浮世絵は当時の風俗や文化を最も表現したものだ、「This was Culture」だ[完全に誤訳]、何をいう!?と、指摘されればそれまでですが・・・。反省。)

 本展覧会を見たあと、シヨップで図録を買い(他の方のブログにも書いてありましたが、たしかに重いです。ずっしり。)、18時半過ぎには博物館をあとにし、帰路につきました。

 
(参考 2009年8月撮影。ひこにゃん「の舞い」、in 彦根城博物館)
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ひこにゃんの登場。
一斉に写真撮影をはじめます。携帯(今でいうガラケー)カメラで撮影しているところが、2014年現在と違いますね。わずか4年あまりのうちに時代の変化を感じます。






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ひこにゃんのアップ。
刀を振りかざしています。
今では、ひこにゃんは「元祖ご当地ゆるキャラ」といった位置付けでしょうか。





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博物館の入り口。
曇天でしたが、蒸し暑い日でした。
彦根城天守閣まで登ってバテバテ。そのあと、かき氷を食べました。

「彦根のたびの思い出といえば・・・」の質問があったとき、私は真っ先に「かき氷!」と答えるでしょう。(笑)。
 ただ、当日は本当に暑くて笑うところではなかったです。本当に。


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2009年8月当時のひこにゃんのスケジュール。





























新春の銀座と江戸東京博物館「大浮世絵展」観覧

 今日は妻と下の子とお出かけです。午前10時半頃に車で出発。どこに行くかあまり決めていまかったのですが、なりゆきに任せ、首都高速の銀座ランプで下り、一般道へ。銀座の外れ、築地の近くに駐車。 IMG_0907
 


写真は、歌舞伎座タワー周辺。注目は「ぐんまちゃんの家(ち)」です。
(写真、右側のビル。)





 築地の場外市場が遠くに見えましたが、あるお店では行列しています。出発前に「築地場外市場」のサイトを調べたのですが、市場そのものは本日はお休み。翌日5日は、日曜日ですが、臨時開場とありました。今年の「初セリ」は5日なのでしょう。あくまで、市場の開場は5日であるが、場外市場のお店は4日でも営業している所はあるのでしょう。行列していたお店は都内に多数の店舗があるチェーン店でした。たまたま通った他のエリアの同チェーンのお店は空いていたので、「築地」だから混雑していたのでしょうか。それとも次の日の「初セリ」の「ネタ」待ち!?
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銀座など都内各地に多数ある各道府県(「都」は除く。)の「アンテナショップ」めぐりをひそやかな楽しみとしています。
群馬県「ぐんまちゃんの家」よりもやや築地方面に「岩手県」のお店があります。しかし、この日の「いわて銀河プラザ」は閉まっていました。


有楽町駅近くのビル内にある大分県の店(アンテナショップ)も閉まっていました。








IMG_0905 以前、ニュースで「ぐんまちゃん家」の経営が赤字を抱え、県議会で問題視されてことがあったそうです。今年は「馬」の年だからではありませんが、中に入ってみました。
(というより、母方の祖父は群馬県=上州なので私にも深い縁があります。)








 二階は空きスペースになっていました。物産展などイベント開催スペースのようです。レストランなど食事ができる場所はないので、集客にはやや不利かも。


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 その後、銀座の大通りに出て、歩行者天国を歩き、おなじみ広島県の店「TAU」までやって来ました。ここは本日から営業のようです。ここの地下にある和食レストラン「遠音近音」(おちこち)でやや遅い昼食。写真は、「カキ(の炊き込み)ご飯付のカキフライ定食」。下の子は「鯛のレモン鍋定食」にしたので、やや料理がでてくるのに時間がかかりました。(子ども一人では食べきれないので、私が残りを食べた。)鯛だけでなく、レモンも最近では瀬戸内の特産ですね。「レモンの島」です。
 この日は、正月メニューで刺身など生ものメニューは限られていました。「カキ」のメニューは正月でも継続して提供できるようです。カキは年末までに仕入ておいて、保管ができますからね。市場が閉まっている関係で魚は新たに入ってきませんし。とにかく正月は漁師さんもお休みです。 IMG_0909


と、広島と山形のお店の近くの路上で「呼び込み」をしていました。「徳島のアンテナシヨップです。」と。一本路地を入ったところに、徳島県のお店がありました。昨年12月に開店したばかりのようです。













 同じビルの二階には徳島県の商工会が入居しているようです。一階がお店ですが、レストランや軽食ができるスペースは無し。いわゆる「物産」販売のみ。せめて、ソフトクリームでもあれば・・・。たとえば「すだちソフト」など。(勝手な考えですが。)
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 ↑ 「ゆず胡椒」と珍しい「すだち胡椒」を買いました。帰宅後、そば(年越しそばの残り!?)の薬味として食しました。
 
※追記 
 その後、テレビでこの遠音近音の「レモン鍋」が紹介されました。偶然見ていてびっくりしました。

「生誕140年記念 下村観山展」見学 横浜美術館

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 最近はすっかり美術館・博物館めぐりのテーマとなったこのブログ。12月も中旬、クリスマスも近い土曜日の午後。再び横浜はみなとみらい地区 横浜美術館にやってきました。
 子どもは近くの「三菱みらい館」で飛行機操縦のシュミレーターを待つ。その間私は美術館で「下村観山展」を見学します。前回11月の「横山大観展」はまさかの「招待券譲り受け」による無料券観覧。今回は通常料金でチケットを購入しました。1200円と大観展や他の美術館・博物館で開催される展覧会よりも安価。通常は1300-1500円くらいでしょう。
 本展覧会は、大観展に続き、大観と交友関係にあった日本画の画家の展覧会の開催というコンセプトなのでしょう。先週12月7日土曜日からの開催。目玉は、重要文化財の指定されている「弱法師」(よろぼし、と読むようです。)。観山の作品の中では、現在のところ唯一重文指定を受けている作品=最も重要な作品、と理解しています。大阪の四天王寺を舞台とする謡曲の一場面を描いたそうです。
 会期は来年2月の上旬までの約二か月あるが、「弱法師」の展示期間は開催日から12月20日まで。来週の三連休では展示していないことになるので、この日の訪問となったわけです。日本画、ことに「絹本着色」(正確には「著色」というようだが。)の作品は劣化しやすいようで、展示期間も短いのでしょう。
 私の見たところ、「下村観山展」(以下は「観山展」と書きます。)の入場者の数は、11月の開催最終日に訪問した「大観展」と比べると半分以下といったところでしょうか。音声ガイドも無し。近代以後の日本画において、大観はあまりにビッグネームなのでしょう。私でもずっと以前から知っているくらいですから。
 観山展は、当人が幼少期の作品から展示。10歳そこそこなのにものすごい立派な絵。早熟です。当時、他の児童、生徒とくらべて群を抜いていたのでしょう。当然ながら東京美術学校入学と首席?卒業と卒業後すぐに助教授就任。これくらいの幼児期からの才能がないと、現代においても東京芸術大学には合格できないのでしよう・・・。あまりにエリートすぎて現在の自分(私のこと)との境遇の違いを嘆いてこの時点で半ば興ざめ・・・。(完全ひがみ、ヒネクレです。笑。)
 抜群の才能がないと、職業画家として生計を立てることなどできないのでしょう。今も昔も。作品は横浜美術館所蔵のものも多い。自前の作品が多いため、上記したとおり、入場料が少しお安いのかも。横浜に三溪園に在住していたそうで、つまるところ最大の支援者(つまり、パトロンであり、作品購入者)が原三溪。当時、日本最大級の富豪(つまり、大金持ち。)。作品の説明にある「横浜美術館蔵。原○○・○○氏寄贈」は三溪の子孫なのだと容易に推測できます。IMG_0857









見学して外に出た後、懸垂幕のある建物外観を撮影。
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 美術館と反対側のビル群の上に月がでていました。クイーンズタワー?とその下のクイーンズタウン? 一番右のピルは今年初め報道映像でしばしば登場しました。まことに痛ましい事件でした。
 写真左は先月に「博多だるま」を食べたショッピングビル、マークイズ?というようです。開業は今年、平成25年(2013年)だったようです?。場所と名称がイマイチ一致しませんが、今年の大型商業施設の開業ということで、県内重要ニュースであったようです。間違っていたらスミマセン・・・・。
 観山展でも「チケット提示で対象店舗で割引。」のパンフがおいてあり(大観展よりも対象店舗数は少ないが。)、店舗が入っている建物の名前と場所が掲載されているが、なかなか覚え辛い・・・。
「MMテラス」、「マークイズ」、「ミッドスクエア」、「クイーンイズタウン イースト」、「クイーズタウン ウエスト」、「ランドマークプラザ」・・・・あなたは分かりますか?(キッパリ)。 「ランドマーク・・・」はさすがにわかりますが。(ポケモンセンターのおかげです。)「クイーンズタウン」もわかるようになってきました。(ここ数年で・・・・。みなとみらい線の駅のあるおかげです。)
 人の数がすごい多いとは(独断ですが)想えないのですが、これだけたくさんの店があって、郊外のロードサイドには大型商業施設があっても、新規に開業するとは、それなりに売上と利益がとれているのでしょう。すごいです。
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 帰りに某チェーンステーキ・ハンバーグ店で食事。この店では時々食べていましたが、ここ一年以上は食べていなかったので、久しぶり。店も改装になっていました。詳しい人ならば、皿でわかるかも・・・・。ガッツリ、ステーキというほうど空腹でなく、最近またおなかがでてきたため、軽くハンバーグにしました。あっさり好みで大根おろしをトッピングです。


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