良月(りょうげつ)の たび日記

美術館、博物館めぐり。アート、カルチャー、資料館、記念館、寺社仏閣、国宝、特別名勝、特別史跡、日本の世界遺産など。神奈川県湘南地区在住 折口良月の日記録。

遠征編 中国四国地方

 

足守 旧城下町の街並み 散策

 2015年8月

 ここは岡山県岡山市。旧城下町足守の散策です。岡山市は政令指定都市になる以前から市域がかなり広く、ここ足守も岡山市になっています。バスでは中心部から50分くらいかかると思います。本数がどれだけあるか、分かりませんが。鉄道で無電化の単線路線に乗り、ディゼルカーに揺られてとある駅(確か足守駅)で降りて来る方法もあったと思いますが、ローカル路線の駅前からバスがあるかは分かりません。駅からも数キロの距離があります。
 
 近水園近く、足守小の前の駐車場のすぐ近くには、市役所の足守センターがあります。公民館のような機能もあるので、こちらに来る人もちらほら。人が出入りしています。陣屋跡の前の道や近水園は私達が訪れた時間帯はほとんど人がいませんでした。
 
 足守小の前の観光用駐車場付近から。

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駐車場の様子。車はほとんど停まっていませんでした。小さい売店もありますが、閉まっていました。
駐車場のお隣の白壁の建物は昔の商家の蔵のようです。

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 移動して足守プラザまでやってきました。陶芸、工芸などの体験コーナーや物産販売があります。足守観光の拠点となる所です。カフェもあります。暑い夏の日に必須のアイスもメニューにあります(笑)。「アイス食べたいな~」と指をくわえてしまいましたが(笑)。
 この日は閉館した後で、中では係の人が片付けをしていました。

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 足守ブラザの前。駐車場と土蔵造りの家が残る町並みの様子。先ほどの陣屋の周辺は武家の居住地区で、こちらは商家街だったようです。昔の家や蔵なのどの建物は足守プラザ周辺の方がよく残っています。明治以降も商売で繁栄したからでしょうか。

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 足守プラザは閉館時刻のあとでしたが、久しぶりに訪れました。
東の方向。この先を行って左に曲がれば、先ほどの小学校や旧陣屋跡、足守センターです。


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 さ、もう一度街並みの写真を撮影して帰ることにします。現在は遠くに住んでいるので、もはやここにも、そうそう来ることはできませんね。

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 緒方洪庵の記念碑もあるのですが、立ち寄りしませんでした。街の外れ、足守川を渡った空港側の山の麓にあるのですが、割愛しました。

 足守の街並みは、岡山空港を離発着する飛行機の中から見ることも可能です。風向きによって進入路は違うのですが、離陸するとき、西に向かって離陸すると、すぐ眼下に足守の街が見えます。ただ、小さい街なので「あの街は足守だ。」ともともと知っていないと気付きません(笑)。離陸するときは一気に上昇するので、見えるのは一瞬です。あっ、もちろん窓側の座席に座る必要はあります。
 着陸するときは、東京路線の場合、空港上空を通過して西に行き、ターンして高度を下げて滑走路に進入するので、比較的よく街並みを見ることができます。
 先日の記事でも書きましたが、近水園にいる間、岡山空港に離発着する飛行機が上空低いところでで爆音を轟かせていました。封建時代の遺構と現代の先端技術の見事な対比を間近に見ることができました。







足守 近水園と吟風閣

 2015年8月

 ここは岡山県岡山市。足守 近水園の散策です。
 池のほとりに建つのは吟風閣です。庭園の北西の端に山を背にして建っています。南東に池が開けています。

 ↓ 池の中の島から眺めた吟風閣。
   二階建ての風雅な建物です。

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記念碑。文字までは読んでいませんが・・・・。

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吟風閣に近づいてみます。雨戸が閉じられていました。

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数寄屋造りというこで、どこか京都にある寺社仏閣の建物のような感じです。雨戸が開放されるときもあるようです。以前来たときは開いていたと思います。
そのとき、写真や園内で子供を歩かせてビデオを撮影して記憶があります。そのときの写真やビデオを探しましたが、見つかりませんでした・・・。デジタルカメラではなかった時代なので(デジカメは勿論あったが、私が持っていなかっただけです。)、今となっては所在が分かりません。
ネガが残っていないかな・・・(古い・・・)。

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吟風閣正面。二階の正面に「吟風閣」と額があります。
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 池を眺める縁側(廊下というか、正式な呼び方が分かりませんが・・・・)。今では誰でもここに来ることができますが、昔はお殿様や限られた者しか入ることはできなかったのでしょうか。池に近い縁側の上に立つと、池の水上から庭園を眺めるような感じです。まさに「良き眺め」であったと思います。

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吟風閣の前から池を眺める。池の向こうには借景の山々が見えます。写真で見る限り電線も写り込んでいません。昔のお殿様が見た風景とほぼ一緒ではないでしょうか?。
もちろん、当時利玄の碑は島に無く、庭園の整備状況なども異なりますが。

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園内には「マリア燈籠」があるとのことでしたが、どれか判別できませんでした。木下家のご先祖、木下家定は、キリシタン大名の一人だったと思いますので、そのときの物が現在まで伝わったのでしょうか。


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かつての陣屋の方向。空地になっていて、その向こうに屋敷があります。
先ほど門越しに眺めた利玄の生家だったと思います。

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庭園の説明。

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 庭園の平面図。池の島で大きい島は「亀島」、小さい島は「鶴島」というようです。足守川の上流から庭園内の池に水を引き込んでいる様子が分かります。
 足守川が丘陵地帯(現在はその頂上部を削り空港になっている場所もあるが)から平野部に出てくるたもとに造られたのが、足守の陣屋町であり、近水園です。上の写真で見たように借景の山は現在もほぼ、昔のままです。借景の山は足守川越しに庭園の東から南東にかけて連なっています。まるで、足守川を京の「鴨川」になぞらえ、借景の山を東山になぞらえ、「洛中のとある地点のお屋敷の庭から、鴨川を渡った先の東山の峰々を眺める」ような雰囲気です。
 仮説ですが、高台院様の甥、太閤秀吉の係累である木下氏は、徳川様の天下となった後に封ぜられた備中の領地の周囲の風景にかつて屋敷を構えた「京の街」を見出したのです。

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 「歴史公園」として、もっと整備はできないでしょうか。ここ近水園はかつての大名庭園の貴重な遺構ですし、お隣、現在は草の生えた空地になっている部分もありますが、陣屋跡も貴重な史跡です、落ち着いた足守の風情とともに保存していきたいものです。
 まずは、現在なんとなく踏み荒らされて地面が露出し「自由公園化」している庭園の整備と、庭園敷地を塀で囲う等の入場時間帯制限、吟風閣の建物保存措置が必要と思いました。その際の入場料は・・・・・無料がありがたいです(笑)。
 整備された後の有料でよいではないかと言う人もいるかと思いますが、100円など安価な入場料でもお金を取る以上、それなりの施設管理をしないといけませんし、人も配置して現金管理をしないといけないので、中々大変なようです・・・・。
 現在足守文庫は無料で公開されています。今回の訪問時、吟風閣の雨戸が閉まってしたので、開閉したり管理する人がいるようです。(委託だと思いますが)
 入場無料の庭園の例としては、東京の新江戸川公園(永青文庫の隣)があるのではないか、とひらめきました。柵で囲われて、入園時間が決まっていますが、無料です。整備されており、池とお庭は美しいです。庭園に隣接する建物も保護措置がとられています。(建築年代は、吟風閣とは全く異なりますが。)
 くしくも、昔の細川家のご当主、護立侯爵は白樺派の芸術家と親しく(しかも学習院の同窓)、白樺派の歌人で旧足守領主、木下家のご当主、利玄子爵とも年齢も近く、親しかった筈です。
 近水園と吟風閣が整備され永く保護されることを願います。岡山市、政令指定都市の指定記念新規事業でドーンと打ち上げましょう(笑)。しかし、「予算が無い」という返事が返ってくると思いますが・・・・。






足守 近水園 探訪

 2015年8月

 ここは岡山県岡山市。足守の散策です。
 足守の陣屋跡の前を通り、突き当りに公園のような庭があります。
 その名も「近水園」(おみずえん)です。足守の領主だった大名 木下氏の庭園跡です。陣屋の跡地に隣接しています。陣屋跡と庭園の端の間は空地になっていて、今は夏草が生えているのみです。
 
 ↓ 池の中の島。記念碑が建っています。

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 庭園の入口にある碑。現在は公園のようになっていて、入場は自由です。門も特にありません。小学校の傍らの道路から自由に入ることができます。つまり夜でも入場できる訳で・・・。真っ暗で何も見えないでしょうが。
 それゆえ、管理はあまりされていなくて、木、生垣、芝生などはあまり整備、手入れされていなくて、雑草もかなり伸びています。園内も土が露出しています。犬の散歩などで来る人もいるでしょう。「動物の散歩禁止」となっていたかも分かりませんが。
 ボール遊び、自転車乗り入れなどは禁止されていると思いますが、自由に走ったり、運動したりでききるので、江戸時代から300年以上も続く庭園なのに、有料管理の庭園、岡山の後楽園のように「美しく整備された庭園」ではないのが残念です。

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 ↓ 庭園の説明。
 同じ岡山市内には、「後楽園」があります。ここ近水園も規模は小さいですが、立派な、かつての大名庭園です。
  国指定の史跡や名勝にはなっていません。県指定の名勝になっています。「知られざる庭園」だと思います。
 「園内にはカエデや桜の木が多い」の説明の通り、春には桜の花が咲き乱れ、秋はカエデの美しい紅葉が見られることでしょう。
 夏のこの日は、桜の木の樹液を吸って鳴くセミの声で充満しています。

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 東側。山が雲に隠れています。雷鳴が遠くでしています。雨こそ降っていませんが。山の向こうには空港があります。

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 島の中の記念碑は、明治大正時代の当主、歌人 木下利玄の顕彰碑です。
昔、この島は「蓬莱島」と呼ばれていたかも知れません。

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 島から池ごしに吟風閣を見る。

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 池の反対側。足守文庫があります。早い時間帯で閉館してしまうため、見学できませんでした。木下家、足守の文化財、歴史資料が展示されています。以前来たときも閉まっていました。以前は、開館している時間や期間がかなり限られていたような・・・。
 ウェブサイトによると現在は分かりませんが、過去は「時間内に管理事務所に声を掛けて開けてもらい見学」だったようです。足守出身の有名人といえば、適塾の緒方洪庵。洪庵の資料も展示があるはずなのですが、見学できなかったのが残念です。

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 ↓ 池の様子。錦鯉?が泳いでいます。

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 島を出で、石橋を渡り、「陸地」に戻ります。更に別の島に移動し、池と庭を眺めます。

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 もうひとつの島。「鶴亀島」でしょうか。


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 ↓ もうひとつの島から、記念碑のある島を。借景の山が正面に見えます。


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旧足守藩木下家陣屋跡と足守の街並み

 2015年8月

 ここは岡山県岡山市。足守の散策です。高梁から山の合間を通る国道180号線を川沿いに下り、岡山平野に出て、視界が開けた所で、川を離れて曲ります。お盆休みに近い夏の夕方、道路を往来する車は多いです。

 そして足守にやてきました。岡山空港のある丘から真下のも当たります。空港に離着陸する飛行機が間近に見えることもあります。
 
  ↓ 足守藩 木下家の陣屋跡。

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 足守藩木下家といえば、白樺派の歌人で明治~大正にかけての当主、木下利玄。志賀直哉、武者小路実篤の友人としても知られています。堀のそばには、「利玄みち」と標識があります。矢印に沿って歩くと、利玄の生家跡に着きます。ここから100メートルもありません。
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陣屋の端のお堀。お城のように深い堀ではありません。江戸時代に領地の政治を執る場所として造営されたので、戦闘に備えた堀は不要なのでしょう。

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↓ 屋形遺構の説明。

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↓ 生家の説明。明治時代になっても、旧領地の陣屋の跡にかつてのお殿様の一族が住んでいたとは驚きです。いや、驚くまでもなく、普通だったのでしょうか。維新からしばらくは、新政府から俸禄が支給されていたのか、近代的な産業がない当時のこの地で生活の収入をどのように得ていたのかは分かりません。

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生家の門。以前も来たことがありますが、修理されたようで壁が新しくなっています。
以前来たときは、門が開いており、奥の家屋まで行くことができました。もっとも奥の家屋は戸締りをしていて見学をすることはできませんでした。
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門と堀。堀はかつての陣屋の南面。つまり、正面に堀のはずですが、細いです。形式的なお堀のようです。

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陣屋の敷地の更に先、近水園の方向。
復元された??屋敷が建っています。
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↓ お堀の前には小学校があります。かつては重臣などの屋敷だったと思います。
写真 すぐ右にはお堀があり、陣屋跡です。

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学校の校庭の一角にある昔の建物。屋敷の門の遺構です。
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↓ 門の説明。


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駐車場近くの街の様子。

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足守の観光用の駐車場。夕方の時間帯で誰もいませんでした。お店も閉まっていました。

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かつての侍屋敷の遺構。現在も見学できるようですが、この時は時間外でした。

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↓ 侍屋敷の説明。家老のお屋敷の跡です。
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 足守藩の石高は2万5千石とあります。現在の岡山市の中心部のお城を中心とした岡山藩に比べても小さい藩です。
 この侍屋敷にはお殿様が来邸したこともあったようです。陣屋にも近いので、歩いてすぐです。それとも駕籠で来たのでしょうか。小さい街なので、お殿様との距離も近かったのでしょうか。お殿様というと、御殿の奥深くにいて中々御目通りのかなわない存在とイメージしがちですが、ここは街の規模も小さいので、御殿奥深くに・・・・、という感じがしません。


高梁 旧武家屋敷地区(石火矢ふるさと村)など散策

 2015年8月

 ここは岡山県高梁市。備中松山城から降りてきました。「下」の市内の散策です。
 
 重伝(重要伝統的建造物群保存地区)指定かな、と思いましたが、違いました。誤解していました。
 しかし県の「ふるさと村」に指定されています。城から降りてくる道の途中にも「石火矢ふるさと村」の表示が出ています。岡山県にはいつくか「ふるさと村」があり、古い町並みなどを残している地区が指定されています。

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 お城から武家屋敷街の跡に向かう道路途中。車で登る途中にも通りました。石垣が組んであり、その上は更地になっています。「山田方谷先生家塾」と記念碑が建っています。
 武家屋敷街の上、御殿の上の方の立地なので、かなりよい場所に屋敷を拝領したのだと思います。この位置から上の家臣の屋敷はほとんどなく、上級の家臣の屋敷よりも坂道で登った上にあたる場所です。すべての家臣の屋敷を見下ろすことができるような立地です。
 それだけお殿様に信頼されていたのでしょうか。

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 武家屋敷街の様子。城、かつての御殿跡からやや離れたところ。石垣と壁は残っていますが、土地に建つ住宅は現代のハウスメーカーのものに変わっています。空地もあります。かつての武家屋敷といっても現在では、ふつうに住民が暮らしている私有地がほとんどであり、車が一台すれ違うのも困難な道では現代の生活には大変です。
 庭園で有名な「頼久寺」は写真の右、標高が上の方です。頼久寺には以前訪問したことがあるし、この日は夕方で拝観時間も過ぎていたので、行き(け)ませんでした。

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 武家屋敷街を過ぎて、離れた場所にある教会堂。同志社の新島襄は明治時代ここ高梁に伝道に来たことがあるそうです。現在まで教会が残っています。

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 サイディング壁の教会。岡山県指定の史跡になっています。新島が来た後、明治22年に建設されたとあります。県内では最古の教会建築と書いています。カトリックではなくプロテスタントの教会です。どことなく、外観がアメリカの教会を思わせます。
 教会の周囲は、普通の宅地です。昔の面影はあまりありません。

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 ↓ 教会の敷地の前を流れる川。景観を守るため、かなり整備されています。

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 同じく、方向を変えて 川のお城側。武家屋敷街の方向には学校があり、かつての藩校もあったようです。

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 ↓ 藩校「有終館」。「有終の美」を飾るべく名づけられたのでしょうか。

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  ↓ 既出。お城のある山の上から高梁市街地。
    教会のある場所は・・・・写真の手前の方で、林に隠れて山の上からき見えないようです。

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備中松山城(臥牛城) 見学記(天守閣、本丸と城跡からの眺望)

 2015年8月

 備中松山城。 
 現在、全国に12ある現存古天守(現存天守)のひとつ。
  「臥龍」ならぬ「臥牛城」の異名もあります。このお城が立つ山を「臥牛山」というそうです。確かに、牛が臥せったような山頂です。城郭群も牛が伏せたように見えます。しかし、山の上の城郭群は、龍が地を這うように建てられているといえます。私としては「臥龍城」と名付けてもよいくらいです(笑)。
 城郭が山の尾根にそって細く、長く続いており、天守閣が敵に奪取されても、更に奥の二重櫓に籠れば、まだ戦えるのではないかと思うくらいの「縄張り」です。

 本丸、天守閣いた頃には、遠くで雷鳴が聞こえていましたが、やがて雷雲は去ったようで、雲も薄くなってきました。雷雨の中、下山するのは、危険を伴うので安心しました。ましてや、ここは日本有数の山城、山の上に角を生やしたように天守と櫓が屹立しています。雷が落ちる可能性だってあります。雷に打たれることをあるかも知れません・・・。現在では避雷針も整備されているのでしょうが、危険です・・・・。

↓ 山道の途中で見える高梁市内の風景

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  ↓ 天守閣の二階には神が祭られています。「社壇」と説明があります。

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二階の急階段の様子。

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二階からの眺め。本丸です。

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天守閣を見終わり、外に出ました。よく見ると天守閣に附属して石落とし(違うかな)が付いています。
ともかく、石垣よりでっぱりがあるので、何らかの「仕掛け」があるに違いありません(笑)。

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天守閣の外に出ました。もう一度 振り返ります。

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↓ 真正面に天守閣を捉えて撮影できました。

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そして、本丸を出て、二の丸に下り、坂道を戻ります。
途中、市内の絶景を見下ろすことができます。最近、備中松山城は「天空の城」としても有名になりました。標高の高い山の上にあるため、景色は抜群。下に広がる市街地は盆地のため、春や秋には霧が発生しやすい。霧の上の浮かぶ姿が見れるため、兵庫県にある元祖「天空の城」に次いで有名になりました。この日は真夏なので、霧はかかりません(笑)。霧の上に浮かぶ城の写真も観光案内にありますから、この城をほぼ同じ標高で別場所から見ることができる場所があるのでしょう。

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大手門の外の部分あった説明板。崩れやすい崖の上にも櫓が建っているため、補強工事をしていました。

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もろそうな岩盤の上に石垣があります。本当に崩れそうです。長い年月、風雨にさらされているので確かに工事が必要ですね。中国山地は比較的もろい岩が露出しています。住んでいた頃も時折、道路の崖から落石があったというニュースがありました。国道で落石による死亡事故も発生していたように記憶しています。それだけ、頻繁に崩れるということなのでしょうか。

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かつての城の石垣。望楼のようになっています。きっと絶景が見えるだろうと行ってみました。

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↓ 市内を見事に見下ろすことができます。

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↓ 高梁川の様子。倉敷、水島工業地帯の近くにそそぐ川ですね。写真の奥が下流、南の方向です。

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下りは、すいすい、という訳ではありませんが、登りよりも楽に歩くことができます。(当たり前ですが。)閉館時刻に近いので、登城の道を登ってくる人はほとんどいなくなりました。車に戻ります。シャツの襟までびっしょりと汗をかきました。もうぐしょ、ぐしょです(笑)。






備中松山城 見学記(天主閣内部と二重櫓)

 2015年8月

 備中松山城。 
 現在、全国に12ある現存古天守(現存天守)のひとつ。
 真夏の蒸し暑い日でした。訪問したのは、閉館時刻に近い夕方です。天守の内部にいると、遠くで雷鳴が聞こえてきました。今にも雨が降りそうな空になってきました。

 天守閣の奥の部屋の小窓から城の奥を見る。更に建物があります。
 ミニ天守のようです。この天守も小さい。「あれっ、ここは櫓で、あの建物が天守なのかな?」と思いました。受付でもらったお城のパンフレットを改めて確認します。建物内の高気温と高湿度のため、手は汗だらけですが・・・(笑)。
 天守閣ではなく「二重櫓」であることが判りました。「やはり、今いる建物が天守閣だ。」と理解しました。二重櫓は天守閣と同じく江戸時代の建物で、重要文化財に指定されています。奥まった所に鎮座しているのであたかも天守のようです。

 

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 ↓ 小窓から見た二重櫓

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 天守閣の奥に突き出たようにある部屋。「装束の間」です。一段高くなっており、上座かなと思いましたが、やはりお殿様の部屋でした。普段は使用することは無いのでしょうが、いざ籠城となると奥方や姫はここに籠るのでしょう。 ↓ 詳しくは説明書きをご覧ください!。

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↓ 装束の間の入口の様子。それほど広くありません。いざというとき、殿様とその奥方、御子が籠ればいっぱいになってしまいます。

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昔はいざというときの自害の間だったのですが、現在ではテレビが置かれています。平和です(笑)。地元の商工会の人が制作して映像を流していました。

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「装束の間」の角の様子。この部屋の上には床(つまり上階)がありません。屋根になっています。
天板も張ってなくて、天井もむき出しになっています。忍びの者が入らないようにするためでしょうか。
床下は石垣で、忍びの者を防いだそうです。まさに「忍び返し」。

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「装束の間」の角の様子。
天井もむき出しになっています。太い柱でくぎを使わず、木組みとなっています。横に
太い材木は、天守を支える梁ですね。

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格子から見た二重櫓。天守から更に木戸があります。戦(いくさ)で天守が危ないときのサブの籠城場所でしょうか。太平の時代は倉庫だったような気がします。城郭の一番奥にあるので「お宝」を隠しやすいような(笑)。

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改めて二重櫓。あそこには行けないのかな、と思い天守の中を歩きましたが、つながっている出口はありませんでした。行くことは不可能で、ここからの外観のみでした。櫓につながる門も固く「かんぬき」で閉じられています。

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↓ こちらは、一階の広間というか、広い板の間にぽっこり開いた、囲炉裏です。

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囲炉裏から天守閣の出入り口りの方向。写真奥の口から、観光客は出入りします。

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いろりと内部の様子。写真の奥にわずかに二階に上る急な階段が見えます。

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天井の木組みの様子。丸太わ荒削りして、そのまま使用しています。丈夫そうです。

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備中松山城 天守閣内部 見学

 2015年8月

 岡山県高梁市にある備中松山城にやってきました。 
 現在、全国に12ある現存古天守(現存天守)のひとつです。ついに全十二城「制覇」を達成しました
 真夏の蒸し暑い日でした。訪問したのは、閉館時刻に近い夕方です。時間がたつにつれ、どんどん雲が出てきました。本丸まで来た頃には、遠くで雷鳴が聞こえはじめました。

 本丸跡に復元された櫓の脇にあった冷茶コーナーで無料のお茶をガブ飲みした後、パワーを回復して天守閣に入城ました(苦笑)。

↓ 天守閣のたつ石垣(天守台)の下部は、盛り土のようです。自然の岩が露出している場所に石垣を組んでその上に建築したようです。向かって左側に出入口が開いています。

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 駐車場には登城者用の「杖」があります。かなりの人が杖をついて登って来ていました。昼間の時間帯は駐車場も満車で、入城者も多かったと思いますが、この時間帯は混雑というほどではありませんでした。幼稚園、小学校低学年くらいの子連れのグループもいました。一番下の子でしょうか、お母さんが小さい子を胸に抱いて登って来ていました。この暑い中、大変です。
 その他、高校生~成人しているくらいの子を連れた家族連れ、中年~老年の夫婦などがいました。

 ↓ さささ、天主閣の中に入ります。
   小さく、天主閣に入ろうとしている黒いワンピース姿の女性が写っていますが、私のツレではありません(笑)。 やはり、杖をついていますね。

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 私も出入り口の手前まで来ました。狭くて勝手口のようです。

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 天守閣の出入り口の手前から。高台、階段の上からなので、見晴らしが良好です。こうして見ると本丸はあまり広くありませんね。

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 出入り口内部の様子。靴を脱いで、中に入ります。が、ここはあくまで外付けの玄関のような場所。出入り口の横には石垣があり、石垣を更に登って天守閣の内部に入ります。
 ちなみに内部はすごい熱気です。冷房はありません。自然の温度です大汗です。

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天守の内部の様子。写真りの奥が、先ほど天守を見上げた本丸の広場。光が差し込んでいます。

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 ↓ 内部の展示パネル。パネルがたくさん設置させており、詳しく色々な解説がされています。

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木組みの天井。梁が太いです。木を格子に組み合わせて、瓦の思い屋根を支えています。
一階はパネルなどの展示室です。お決まりの全国の天守閣の写真の展示もあります。現存天守だけでなく、復元の天守の写真もあったように思います。(天守閣内の壁のどこかに。)

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 写真下は、修理工事の際に分かったことをパネルで解説していました。

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小窓。

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藩政改革を行った山田方谷について。

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修理で替えた、発見されたと思われる屋根などの部品?の展示。

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かつて屋根についていたしゃちほこです。

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↓ なぜか、高梁とかかわりが・・・。高梁と安中はともに板倉氏の領地だったので、両領主家とその家臣は交流があったのでしょう。実際に、明治時代になってから本人もこの地を訪れて伝道活動を行ったそうです。

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↓ お城の山の麓の「御根小屋」の解説。
つまり、普段お殿様が暮らして、領地のまつりごとをつかさどる御殿、庁舎のことのようです。独特な呼び方です。後世では「藩庁」といわれますね。太平の時代、ここ山の上の天守にはほとんど用事はなかったと思います。つまり、麓の「御殿」がお城のことだったでしょう。

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小窓から城の奥を見る。更に建物があります。(続きは次の記事で・・・。)


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備中松山城 見学記 (現存古天守 全十二城 登閣達成)

 2015年8月

 岡山県高梁市の備中松山城にやってきました。 

 ↓ 天守閣の道。
   大手門を過ぎても、まだまだ石段と道は続きます。上を見ると幾重にも石垣が連なっています。

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 石垣を登ります。大手門の石垣を登り、三の丸を過ぎた付近の道です。
 ↓ 写真左の石垣の平地は「厩曲輪」とあります。馬を飼育していた跡なのでしょうか。それとも名前だけなのか。むっとも太平の徳川様の天下の時代は、櫓の建物はあったでしょうが、山の上で馬は飼育しておらず、厩舎はすべて麓の御殿などにあったと思います。

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 道の途中から。高梁周辺の山が下に見えます。

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 チケット売り場の手前。もう一息です。地図によると「御膳棚」から二の丸に向かう石段です。
 写真下が「御膳棚」ですが、現在は公衆トイレがあります。昔は「御膳」の字の如く炊事をしていたのでしょうか。

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↓ 案内看板。

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 券売り場の直下。写真には写っていませんが、左への石段を登ったところにチケット売り場があります。
本丸の入口に当たる部分です。小屋があり、係の人が中にいます。この暑さの中、小屋に籠ってチケットを販売し、お金のやりとりをするのも大変でしょう。この時点で登城者はヘバって思考回路がおかしくなっている人も多いでしょうからね(笑)。チケットの販売小屋のすぐ脇には小門があり、扉が開いています。くぐると本丸の壁内に入ります。

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↓ やっと見えたぞ、天主閣。拡大画像です。



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 ついにやって来ました。「現存の古天守十二城」は、ここ「備中松山城」ですべての登閣達成です。実は「自宅から一番近い古天守のある城」は以前、岡山に住んでいたので、ココでした。先の記事にも書きましたが、住んでいると「生活が第一」となって意外にも観光では訪れないものです。
(どっかの政党のスローガンのようですが・・・・。)
 岡山に住んだのも転勤による仕事の都合でしたからね。その後、転勤により更に引っ越して現在は自分の出身地である神奈川に住んでいます。神奈川から近い「古天守の城」は松本市にある松本城でしょうか。かなり、距離はありますね。

 特に意識して「全国現存古天守めぐり」をやってきたわけではありません。観光であちこち訪れているうちに自然に達成しました(笑)。
 最初に訪れた現存古天守は 幼稚園のときの「松山城」でした。そしてラストを飾ったのがここ「備中」松山城です。実に足掛け30年をかけて達成した訳です。最初と最後が「松山城」というのは何かの因縁でしょうか?。
 なぜ、最初の古天守の登閣が松山城であったかというと、母方の曾祖父の法要のついでに訪れたからです。曾祖父は伊予松山の出身で、晩年は松山に住み、同地で亡くなりました。長命で私が幼稚園のときまで存命でした。

 「現存古天守十二城制覇を達成して感無量です。」と言いたいところですが、この日は暑くて感慨に浸るどころではありませんでした(苦笑)。
 「全国 現存古天守(現存天守)のある十二城 制覇」をテーマにしたウェブサイト、ブログなどは多数あるので、今さら私が強調しても仕方ないです。よって、このブログでも特にカテゴライズしていません。
 
 ↓チケット売り場の隣の門。復元です。入って平地があります。ここが本丸です。

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  チケット売り場を過ぎ、ようやく有料エリア(かつての本丸)に入ります。門に附属して櫓が復元されており、内部には簡単な展示品があります。

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 櫓のような建物の脇にあった。冷茶コーナー。無料で冷たいお茶を飲むことができました。ガブ飲みしました(苦笑)。皆、この木のベンチに座って休憩です(笑い)。

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 鉄砲の穴が開いた本丸の土塀。本丸の壁は復元と説明にありました。


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↓ 天守台脇の門「東御門」。パンフレット説明によると復元の門で天守の勝手口とのこと。本丸唯一の引き戸になっているそうです。天守には常時人がいなかったそうです。
引き戸ということは、カギで開閉をしていたと思います。と、徳川様の時代、普段は無人で必要なときだけ、家臣が山を登って天守に行き、管理をしていたということなのでしょう。


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↓ 眼前には天守閣が。

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備中松山城 見学記(駐車場から山道を登る)

 2015年8月

 ここは山陽、岡山県。
 鴨方から山を越えて高梁市までやってきました。高梁は山陽と山陰を結ぶ国道や鉄道の途中にあたります。
 高梁までの道は、井原からの山越えの道でした。中国山地は深い急峻な山ではありませんが、山また山で人家が沿道に全然ない地域もありました。ゆえに、比較的人里の光が入らない山間地域もあるので天文台もあるのでしょう。事実この道中、天文台の近くも通りました。「美星町」という町もありますから。

 高梁市の市内から、更に山の上へ細い道を登って行きます。目指すは「備中松山城」です。城への登山口にある駐車場に行きます。途中、山麓で警備員が立っています。混雑するときはここで別の駐車場に誘導しているようですが、私達が訪問したときは、通行ができました。土日祝日はシャトルバスが運行され、先に行くことができません。麓の駐車場に誘導されるようです。

 (城までの)登山口へ車で山道を登ります。細いので対向車には注意しながら、山腹を登っていきます。標高はどんどん上がり、林の合間の眼下に市街地が見えるようになりました。やがて、山の中腹に切り開かれたわずかな平地があります。駐車場になっていて、ここが車で到達できる行き止まりの地点です。

 ↓ 駐車場の様子。
 到着した駐車場。夏の混雑時期のためか、警備員が出て、整理していました。麓の警備員と無線で連絡を取り、空きがあると車を上げています。しかし、土日祝日はここまで車で来ることはできません。一般車は通行禁止です。
 が、この日は夏休み期間とはいえ、平日です。山の上の駐車場まで来ることができました。

 

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↓ 駐車場の様子その二。
 写真の右の先には道路が続いていますが、管理用の道路です。一般車の通行は禁止です。天守閣にいる職員は車で容易に天守閣まで移動できますが、一般の私達は不可!!です。自分の足で歩かないといけません。

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↓ 城までの道の案内板。
 実はこの駐車場までは来たことがあります。季節は真逆で冬だったような・・・。夕方の閉館時刻近くだったので、城まで行かずに引き返した記憶があります。その後、この城に来ることはありませんでした・・・・。更にその後、引っ越して現在は神奈川県に住んでいる私です。来ようと思えば、比較的簡単に来ることができたのに、来ることをせず、遠くに住んでいる現在になって、思い出したようにやって来た私でした。

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 山道は駐車場から一旦下がります。あれっと思いましたが、すぐに登りの山道となります。

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 道に沿って歩きます。と、眼下に先ほど車を停めた駐車場が見えました。更に登りは続きます。




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↓ 途中の様子。

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 道の途中から斜面の下を見る。意外にも急です。他の歩いている人が写真に写っていませんが、この暑さの中、登って来る人、登城を終えて下りてくる人は結構います。下って来る人々がうらやましいです(笑)。

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 駐車場から城までは約700メートル。徒歩で20分くらいでしょうか。しかし、この暑さの中、想像以上にきついです。この看板を見たときの感想「え~、まだ半分と少ししか来ていないのぉ~」が正直な心の叫び「偽わざる心境」でした

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 急斜面の中腹での「急カーブ」の山道。実は近くを管理用道路が通っていて、軽トラが走行していました。管理人の車なのでしょうが、「あ~、あの車に乗せてもらえないかな~」とついつい思ってしまいます

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 汗だくです。夕方近くになり、曇ってきました。直射日光こそありませんが、この日はかなり蒸し暑かったです。
 ようやく石垣の下に到着しました。石段を登った後に振り返って撮影。

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 ↓ 上の写真の位置から上方を写す。大きい石垣と立派な通路。かつての大手門の跡ですね。
   石垣の上には大手門の櫓が建っていたのでしょう。

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 大手門を過ぎて更に登って行きます。


「かもがた茶屋」 国道二号線沿い 食事

 2015年8月

 岡山県里庄町の仁科会館と仁科博士生誕地をあとにして、移動します。国道二号線を東へ。 
 この辺りを通るのは久々なので、道沿いのある所を見学を兼ねて食事をすることにしました。 「鴨川そうめん」があったからです(笑)。
 在住しているときは、あまり気にしなかったのですが、離れてみると気になります。(笑) しかし、この日は休みでした。夏休みなのですが、お盆の期間の少し前の平日だったので開いていませんでした。駐車場の車もまばらで、従業員らしき人しか歩いていません。鴨方そうめんの食堂の建物はあるのですが、土日しか開いていないようです。プレハブの建物で、内部にはたくさんの長テーブルとイスがあり広いです。団体さんが来るときは対応しているようです。鴨川そうめんの工場もここにあります。工場は稼働しているようでした。
 そこで、同じく国道沿線にある「かもがた茶屋」の店へ。この道は以前、通ったことはあるので、お店があることは知ってはいませたが、ここで食べるのは初めてです。(お店の看板は「かもがた亭」だったような。)
 うどんと天ぷらと寿司というか簡単な握りりのオーソドックスのランチセツト。「天ざる寿司セット」だったと思います。地元のチェーン店舗、地元のファミレスメニューですね。お値段も首都圏近郊の店と比べるとお得です。
 暑いのでもちろん(選択するうどんは)「ざる」です。「ざるざるざる!!」というテンションでした。私は・・・・・(笑)。

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 上の写真には、わずかにお茶のコップが写っています。暑いのでガブ飲みしてしまいました・・・・。

 夏空と駐車場の様子。遠くに中国山地の山々が。
 昼食の後には、山道を越えて高梁まで行くことにしました。

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 ↓ お店の外観


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 ↓ 高梁への途中の道。
   といいますか、鴨方町から矢掛に出る途中の風景だったと思います。

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飛行機雲が低いです。丘陵地帯の中を曲がりながら走ります。

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岡山県里庄 仁科芳雄博士生家

 2015年8月

 岡山県里庄。
 明治時代、この小さな集落から天才的な物理学者が生まれました。その名は仁科芳雄。日本物理学史上最高の天才のひとりといってよいでしょう。山陽の交通の要衝の沿いといはいえ、現在ものどかな田園地帯が広がる村から稀代の天才が出たとは。その仁科芳雄の記念館、仁科会館の近くには生家があります。仁科会館の展示を見たあとに寄ってみることにしました。

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 博士の生家は仁科会館から国道2号線を挟んで南にあります。国道から直線距離で100メートルあるかないかの南に位置しますが、狭い集落の中の道を通らないといけないので、迷ってしまいそうになります。特に道が狭く、車で行った場合には対向車が来るとすれ違い困難です。私は、狭い路地なので、本当に辿り着けるのかな、と不安になってしまいました(笑)。 が、路地をなんとなく、道なりに進み、とある交差点を曲がると駐車場に着きました。
 ↓ 生家の前にはある駐車場と小路
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 門に続く、お屋敷を囲む白壁。大きな邸宅です。地主だったそうです。子供に教育を受けさせる財力も相当にあつたと思われます。
 現在、公開は日曜日のみのようです。訪れた日は夏休みの期間中でしたが、8月もきっちりカレンダー通りで、この日は公開日ではありませんでした。門は固く閉ざされていました。現在、仁科家の人は住んでおらず、屋敷や敷地は町に寄贈された?か仁科記念財団が持っている?ようです。
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↓ 仁科会館の二階から見た。二号線の様子。
ひっきりなしに車が往来しています。
博士の生家は写真には写っていませんが、右(西)の方向です。


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仁科会館の一階の屋根部分が写っていますが、里庄の「里」の様子。
海(南)の方向には山があります。山の先はすぐ瀬戸内海です。
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↓ 仁科会館の二階、仁科記念ホール前の廊下から見た里庄の風景。
博士の生家も屋根だけですが、わずかに見える筈です。

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仁科記念館 「仁科芳雄博士」展示室 見学

 2015年8月

 岡山県里庄。物理学者 仁科芳雄博士の記念館が生誕地の近くにあります。

 二階の展示室の廊下から吹き抜けの一階ロビーを見る。

 戦後、ノーペル物理学賞を受賞する、湯川秀樹、朝永振一郎の写真とともに仁科博士の写真が中央に展示されています。湯川氏、朝永氏ともに仁科博士の弟子ともいうべき人です。

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↓ 外の風景。のどかな田園地帯です。

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↓ 外の風景。のどかな田園地帯です。


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↓ 展示室の廊下。博士の写真が掲示されています。


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↓ 原爆研究に使用されたサイクロトロンについて。

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↓ 日本に投下されて原爆についての解説展示。

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↓ 博士が子供の頃に描いた「馬」の絵わ再現するロボット。複数の博士が子供の頃に描いた絵を選択することができます。


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↓ エアマシン。子供も楽しく遊ぶことができます。

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岡山 仁科記念館 見学

 2015年8月

 岡山県里庄。カブトガニで有名な笠岡の隣の町です。鴨方郡といいましたが、現在では笠岡に合併されているかも入れません。現在も国道二号線や山陽線が通っています。明治時代、ここから天才的な物理学者が生まれました。その名は仁科芳雄。日本物理学史上最高の天才のひとりといってよいでしょう。
 この稀代の天才が山陽の交通の要衝の沿いといはいえ、現在ものどかな田園地帯が広がる村から出たとは、「才能は出身地に関係なく、本人の努力、向上心次第である。」ことを示しています。その仁科芳雄の記念館が生誕地の近くにあります。 
 以前、岡山に住んでいたときは、この近くの国道二号線は時々通ったので、仁科記念館(会館)のことは知っていました。二号線をを通るのは久々なので見学してみることにしました。ちなみに、最初にカブトガニ資料館に行ってから、こちらに来ようかと思いましたが、子供達はカブトガニには行かないというので、直接仁科会館に来ました。カブトガニは私が子供の頃、一時期ブームとまではいかないものの、話題になったような記憶があります。昔、通っていた小学校でも別のクラスで水槽に飼育していたのか、巡回展示でやって来たのか、カブトガニを見たことがあります。

 ↓ 記念館が入っている公民館のような仁科会館の建物。夏休みなのに入館者は少ないです。

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「環境は人を創る。人は環境を創る。」とある仁科芳雄の記念碑。
会館の前には広い駐車場があります。

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 入館しても特に受付はありません。入口の傍らには事務室がありますが、特に事務室で受け付けをする訳ではありません。入場は無料です。
 二歳か三歳くらいの子供を連れたお母さんが遊びに来ていました。こども向けの簡単な遊具や遊ぶコーナーがあります。どうみても展示室を見学に来た母子ではありません。三歳の子に「サイクロトロン」といっても分かり
ませんし。(もっとも、私も分かっていませんが・・・・・。)
 公民館のような感じで、記念館というよりは地元の人が会議や談話、稽古ごと、生涯学習、子連れで遊びなどに来る
場所のようです。公営のコミュニティセンターのような雰囲気です。

 仁科芳雄の事績に関する展示室は二階です。階段を登ると二階のフロアの案内があります。
展示室は三室あり、自由に見学できます。
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 二階が展示室になっています。二階の階段裏の一番広い部屋は、講義室になっていました。「仁科記念ホール」と名前が付いています。歴代の仁科賞の受賞者、ここで講演を行った学者の写真が掲示されています。
 博士の子孫もここで講演をしています。某国立大学の理学部か工学部の教授でした。

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 階段に近い、第二展示室。「欧州留学期」に関する展示です。

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 長岡半太郎に宛てた手紙。日本物理学の大家の一人で、昭和12年の第一回文化勲章受賞者。大正以降では日本物理学者の中での第一人者でしょう。のち、昭和戦前期に大阪帝国大学の総長になっていたと思います。

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仁科博士はヨーロッパに留学し、「ニール・ボーア」のもとで研究したことがわかります。

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原子爆弾の研究、仁科博士の名前からとった「に」、つまり「二号研究」の説明です。

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日本の敗戦後、占領下で学者を迎えています。

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第一展示室は一階の奥にあります。生い立ちなどに関する展示です。まずは、ここから見学していくべきですね。テーマは「学びの時」です。

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 子供の頃の写真。


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第一展示室の様子。子供の頃の写真、通った学校の写真、当時の地元の風景などの展示もあります。

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岩国、津和野と萩 世界遺産のたび 総括

 2015年8月

 萩市の郊外にある大板山たたら製鉄遺跡を見た後は帰途につきます。元来た道を戻り、津和野と萩を結ぶ県道に戻ります。やや戻るような感じで走行し、津和野方向の道へ。途中、津和野から萩への道中で通った道の駅うり坊の里で休止。行きは萩への道を急いでいたので、通過しただけでした。すでにすべての予定ポイントを見学した後なので余裕で休息です(笑)。
 「うり坊」とは「いのしし」のことのようです。猪が出るのですね。当然、いのししの料理もあるわけです。道の駅の近くには民家もありますが、国道には街灯もなく、周囲は真っ暗です。ここは、国道315号線との交差点です。
 と、夜空を見上げると星がきれいです。さほど山奥ではないのですが、星の数が多い。「わ~、星がきれいだ。」と思わず声を出しました。今まで私が見た一番美しい星空は「西表島」の東側で見た星空でした。そのお隣の島、竹富島ではあまり星は見えませんでした。ここでは、竹富島よりも星が多く輝いていて美しいです。
 「道の駅 うり坊の里」を出発。そこから国道を進みます。数キロ進むと津和野への道と分かれる交差点に出ますが、今度はまっすぐ進み中国道のインター方向に走ります。国道は中国山地の中、その山中の盆地地帯をうねうね通っています。あとは、道なりに鹿野まで行けばよいのですが、国道までの道は地図を見ても分かりにくかったです。 かなり走って「中国道のある町」鹿野までの距離ができましたが、40キロ以上あります。遠いです。
 一山越えて、また山を下り盆地に出て、国道9号線に出ます。更に進みまた山道になります。また下ります。と、途中星空がきれいだ、とツレが言うので峠道の途中で車を道の端に停めて車を降りてみました。
国道とはいえ、交通量は多くありません。が、時折車はブーン、ゴーと音をたてて通過します。車が近づいてくると車のライトに遮られ、星は見にくくなってしまいます・・・・。
 山の中なので特に南の眺望がありません。が、うり坊の里よりも星が多いです。北斗七星がはっきり見えます。夏の大三角形も。南の空のさそり座は山に隠れて見えません。分水嶺の日本海側の途中の道端なので。
 長野・野辺山の山中から見た星空よりも星が輝いていて美しいです。もちろん、西表島よりは星の数は少ないです。夏の熱せられた大気の中でゆらゆらと満天の星が輝いています。中国山地でこれほど星が見えるとは思いませんでした。 
 もっとも、先の津和野に日原天文台がありましたし、もともと地上の光が少なく、星の観測に適した地なのだと思います。と、西表よりも星が見える場所、また訪れたことの無い波照間島に急に行ってみたくなりました。

 美しい星空の鑑賞。存外のたびの途中のプレゼントでした。残念なことに写真は撮影していません。カメラの露光モードの設定が分からなかったもので・・・・・(苦笑)。
 
 峠を越えて再び道は下りに。日本海と瀬戸内海に川の流れを分ける分水嶺を越えたようです。と、鹿野町に近づいてきました。インターから中国道に乗ります。交通量は少ないです。お盆の時期に近いのですが、少ないです。車は順調に進みます。
 途中、SAで食事をと思い、休憩しました。が、お店は開いていません。というより、自販機のみで設置されていないようです。休憩所とトイレの電気がこうこうとついていました。

 ↓ SAの駐車場。駐車している車も少ないです。

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 ↓ SAの建物。お店は無いようです。
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 別のSA、PAも探して食事を食べるか、購入してもよかったのですが、先を急ぎました。

 ひとつ行き残した場所があります。夕食は益田で食べようと思いましたが、行きませんでした。
大板山の遺跡から再び山を越えて日本海側に出て、更に再び中国山地の山を越えて中国道に出て、戻る必要があったからです。目的は回転寿司屋チェーンの益田店でした。実は同じ会社の浜田店でたまたま食べたことがあります。そのときは、回転寿司ながら絶品でした。特に「はも」がよかったです。夏の「鱧」は京都ではないの?と思いますが、実は鱧は日本海や瀬戸内海で獲って京都に運ばれるのです。
 チェーン店といっても浜田と益田にしか店はないようです。以前食べたときに帰った後にネットで見たのですが、広島の内陸部の三次にも店があったと記憶していましたが、今回同チェーンのウェブサイトを見たときは、三次店はありませんでした。お店は浜田と益田の二か所のみ。
 時間的には、大板山を19時半に出て、一時間弱で到着できたと思いますが、帰路を急ぎました。
 結果として途中の中国道のSAでは店が閉まっていたので食事を逃してしまったのですが・・・。これならば一山越えて益田まで食べに行けば良かったです。車で走るので体力を使う訳ではありませんし・・・。ただし、山道を走るときはそれなりに神経を使うので疲労しますけどね。

 これにて「岩国、津和野と萩 世界遺産 駈足のたび」はおしまいです。メインは私は「砂金採り」と「津和野」、下の子は「ドラマ館」だったかな

 ↓ 星空の他にもうひとつ発見した美しいもの。萩から見た日本海に沈む夕日です。

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世界遺産 大板山たたら製鉄遺跡 見学

 2015年8月

 山口県、萩市の中心部から津和野、島根県方向へ里山の道を走ること20キロ以上。ひと山かふた山越えた集落の先、ダムのほとりに目指す遺跡あります。
 世界遺産 大板山たたら製鉄遺跡
 見学は自由です。新たにトイレや休憩小屋が設置されていました。まだ新しいです。ボランティアの説明員も常駐しているようですが、この時間帯では無人でした。
 さっそく遺跡に歩きます。駐車場に隣接して遺跡はあります。林を切り開いたような土地です。
 ↓ 遺跡の説明陶板。

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 遺跡と駐車場の間に柵はありません。夜間でも自由に入ることができます。ただし、電灯は無いので夜は真っ暗です。
 ↓ 遺跡の入口の碑。

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 ↓ 製鉄をしていた場所を覆うやぐら、といか屋根。
   モチロン当時のものではありません。最近の建築です。柱のコンクリートがまだ新しいです(苦笑)。

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 遺跡を見たときの第一声。上の子は「うわ~。とって付けた感、ハンパねぇし~。」とギャル語(笑)。
 私は無言でした。先の「造船所跡」で「耐性」というか「免疫」が出来ていましたから(笑)。
 感想特に無し。

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 上の写真は遺跡の奥。中心部のようです。説明の「陶板」によると「高殿」(たかどの)といい、製鉄炉があったところで、ここで鉄わつくっていたそうです。

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 ↓ 遺跡から駐車場方向を見る。私達の乗ってきたレンタカーが一台停まっているのみです。日没後のこの時間、他に見学者はありませんでした。

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 下の写真の解説。
 奥が「高殿」、右の屋根は銑鉄場所のようです?。池の跡もあります。
 解説になりません(苦笑)。
 小屋の下や池の跡の地面部分もあとからコンクリで固めたようです。当時の石組みのあとも残っているのでしょうが、どれが当時の遺構でどれが新たに塗り固めたものか判然としません。

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 ↓ この木組みの枠は・・・。

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 製鉄炉の跡のようです。木組みはあとから付けたのでしょう。この下に地下構造物があるのか、別の場所に露出している場所があるのか、それとも埋められていのか、ちょっと分かりませんでした・・・・。

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 周囲が暗くなりました。改めて史跡指定の石碑を撮影。三年たっていません。
世界遺産に指定しようという運動は数年前からあったと思いますが、運動するためには国内での文化財指定が必要ということで、何らかのプッシュの結果、指定されたのでしょう。

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 駐車場に戻ります。日没後、急激に暗くなってきました。夜の闇が迫ってきました。車に戻ります。まるで漆黒の闇から逃れるように。(笑)
 8月のこの時期でも日没は19時30分前です。関東地方では18時50分頃でしょう30分以上日没時刻が遅いので、助かります。

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 日没時刻が遅いので、ここ製鉄遺跡、先の造船所跡、萩反射炉など自由見学の場所を明るいうちに見ることができました。これもコース組みの「想定の範囲内」です(笑)。

 










萩~日本海沿岸~大板山たたら製鉄遺跡へ

 2015年8月

 山口県、萩市の郊外にある世界文化遺産「恵美須ケ鼻造船所跡」を訪れました。まだまだ観光は続きます。午後の三時過ぎに萩やってきて、松陰神社、松下村塾、大河ドラマ館(私は入館せず)、萩の城下町、萩城跡(入城はせず)、反射炉と「めまぐるしく」観光しました。
 次なる目的地は、世界遺産 大板山たたら製鉄遺跡です。萩市内からは20キロはあるようです。それでも萩市です。広域合併の結果です。
 ルートは、松陰神社の方に戻って津和野から来た県道を走るのが速いですが、敢えて日本海沿いに国道を益田方向に向けて走行します。

 (既出の写真)
 造船所跡の堤防の上から見た日本海に落ちる夕日

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 国道から見た夕日と日本海。沖合に浮かぶ島のシルエットもまた美しいです。

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 道は海岸のそばを通っています。冬は冷たい北風が吹きつけるのでしないでしょうか。
今見ているのは夏の穏やかな海です。御気には、島が点在しています。岩礁が迫る海岸線です。

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 途中、「長門大井」駅の近くのガソリンスタンドで給油。今までは時間に追われていたので、給油場所を探す余裕もありませんでした(笑)。
 少し戻って、内陸へ道を曲がります。田園地帯が広がります。

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 山の中の道に入っていきま。家はなくなく、道は細くなります。林の中で暗いのでライトを点灯させます。対向車とすれ違うのも困難な山道となります。やがて、道は広くなり、山を越えました。山間の田園地帯に出ます。山越えをして別の地域に来たと思いきや、実はここも萩市です。山の間に家々が点在しています。

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 しばらく、田園地帯の道を走ると「大板山製鉄所遺跡」の看板が出てきました。道を曲がり、田んぼの中の道を進むとやがて山が迫ってきます。ダムが上流にある地域に入って行きます。
 進行方向の右下にダムの水面が見えるようになります。しかし、巨大なダムではありません。道はやがて行き止まりになります。その奥に駐車ばありました。
 ここが大板山たたら製鉄遺跡です。もともとあったダム管理用の道路を整備してその行き止まりの地点に駐車場を新たにつくったようです。

 ↓ 車は私達のレンタカーしか停まっていません。

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 ↓ トイレも新しいです。 トイレの建物の奥の林の先のがけ下にはダム湖があります。
 

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世界文化遺産 萩「恵美須ケ鼻造船所跡」 見学記

 2015年8月

 山口県、萩市の郊外。一山越えた入江の奥にその造船所跡はあります。
 萩の反射炉からは、600メートルくらいでしょうか。1キロはないと思います。よって徒歩で移動することが可能です。というより「造船所跡には駐車場はありません。」との表示が出ているため、徒歩で移動しないといけません。基本的に反射炉と駐車場は共通です。が、夏の炎天下、寄る陰もないアスファルトの道を歩くのは難儀です。車で移動したいなと思うのが人情です。
 世界文化遺産、萩の「恵美須ケ鼻造船所跡」。地名は「えびすがはな」と読むようです。恐らく七福神の「恵比寿」「戎」様と掛けているのではないでしょうか。
 
 ↓  造船所跡の道からの眺め。静かな入江が広がっています。道は埠頭と一体となっており、漁船が繋留されています。静かな漁港の風景です。

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 「恵美須ケ鼻造船所跡」の看板が設置されています。
 この付近の海岸は国定公園に指定されています。美しい海辺の風景です。
 「造船所跡」と文字が縦書きのコンクリート?の石碑もあります。設置は石碑の方が先のようです。

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 説明によると伊豆の戸田(へた)に人を派遣して、造船技術を学ばせたとあります。戸田の方が当時は進んだ造船技術を持っていたことが分かりました。戸田の造船資料館には以前訪れたことがあります。ここ萩の地で、遠く離れた戸田(へた)の地名を聞くとは、思ってもいないことでした。
 戸田で技術を学んだ後、ここで軍艦二隻を建造したそうです。軍艦といっても最初の船は長さ25メートルといいますから、現在でいうと漁船程度のものだったでしよう。ここで建造された船の動力源は明らかにされていません。石炭を燃料とするの蒸気機関を備え付けていたのでしょうか?。帆船だったのでしょうか?。恐らくは後者です。蒸気機関を組み立てた工場跡は示されていません。

 造船所跡は生垣の内側にあります。「祝 世界遺産登録」の看板が設置されています。
 のぼりにもあるように登録物件名は「明治日本産業革命遺産」です。

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 ↓ 造船所の跡。草が生えています。砂地の更地があります。特に構造物、構築物の遺構は見たところ、ありません。建物の跡を復元するのか、正方形に盛り土がされていました。昔からある盛り土ではないようです。

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 肝心の造船所跡はというと・・・・・。
 その「遺跡」の前に立った私は、しばし言葉を失いました。「絶句した。」と言った方がよいかも知れません。
 次いで出た言葉が「え~、これが造船所ぉ~??。う~ン。」でした。笑いはなく、私の顔は硬直しました。

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 世界遺産の「造船所跡」とは、すずらんテープが潮風に揺られる光景でした・・・・。
 小さいプレートで説明はありますが・・・。


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 傍らの堤防の上に立つことができます。
 夕日が美しい。堤防から沖合を見ます。日本海です。夏の日本海は、実に穏やかです。まさに日本海の水平線の向こうに太陽が沈もうとしています。
 沖合には、うっすらと台形の島影が・・・。鯖島というようです。

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 入江の内側。山がマシュマロのようにポンポンとあります。山と入江が美しい海岸風景をつくり出しています。
ここから湾を挟んで対岸、先に通って来た国道沿いには『道の駅 萩シーマート』があります。ツレに言わせると以前テレビで紹介していたことがあって、賑わっている道の駅だそうです。このときは、夕方6時だったので、お店はすでに閉まっているだろうと思い、寄りませんでした。道の駅のお店は夕方5時閉店のことが多いですからね。
 ↓ 石垣の堤防。当時のものだそうです。
   造船所の跡たる世界遺産の目玉構造物ですね。

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 堤防の内側。まさに造船所の跡です。堤防の海側には、護岸のためコンクリート製のテトラポットがたくさん置いてあります。日本海の荒波にもまれているのですね。




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 堤防の上から見た「造船所跡」。鎮守様の小さな祠があります。
 なんとなく、野球場かゲートボール場のような・・・。石組みのドックが残っている訳ではありません。造船所というと、横浜のみなとみらいに残っている巨大ドックの跡を想像してしまいますが・・・ここは違います。

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 「造船所」というものの西洋式の石組のドックではなく、ここで堤防を造作して船を建造しただけではないかと思いました。ここで進水したのです。ドックは、土を掘って、木の板で固めて、陸上の構造物は木製だったのではないでしょうか。幕末に使用した軍艦を建造した史跡というべきです。あとからナントでもできるような造船所跡です。技術を習いに行った戸田には造船所跡は残っていないのでしょうか?。残っているのならば、戸田も世界遺産の登録されていもよいはずです。戸田は現在でも港町で船が多数湾内に停泊していますね。

 見学をしていると若い女性の二人組が見学にやって来ました。先ほどの萩の反射炉にもいた人です。同じルートを辿って見学しているのですね(笑)。
 二人は、デジカメを取り出して、写真を撮りまくっていました。堤防の上にいた私達もバッチリ撮影されています。もしかしたら、彼女たちのツイッターかブログかFBかに私達の写真が載っているかも知れませんね!?。

 ↓ 萩の市街地は入江の先に見える山の向こう側です。

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 直感ですが、年齢や外見、服装、行動からして彼女達は看護師ではないかと思いました。本当に何となくですが、仕事は医療関係のように感じました。二人は職場の同僚と思いました。普通の会社員のような感じではありません。公務員のようでもありません。学生時代からの友人、主婦の友達同士といった感じでもありません。ここまで来る行動力や「女子力」高そうな雰囲気、そして年齢からして。
 年齢は私よりも全然若いですが、明らかに学生ではありません。何かの仕事にはついている感じです。ぱっと見、20台後半、実際は30歳くらいかも知れません。ただ、観光しいる間のテンションは高くなく、服装も地味で、雰囲気は落ち着いています。何となく表情は・・・・・、特にほうれい線の辺りが・・・・・・(失礼)。彼女たちは軽自動車のレンタカーでここまでやってきていました。運転も慣れているようです。年齢相応以上の旅行経験があるようです。

↓ 港の前の道路と漁船を繋留する埠頭様子。写真の右の集落の奥が萩反射炉のある場所です。

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 もう一人、萩の反射炉で見た中年のおじさんかやってきました。一人です。肩からカメラを掛けています。ここまで歩いて来たようで、汗だくになっていました。
 
 (おさらい)
 造船所跡の堤防の上から見る日本海に落ちる夕日は絶景です



世界遺産 萩反射炉 見学 

 2015年8月

 山口県、萩市。今年世界遺産に指定された萩反射炉にやってきました。 
 浜崎地区から車で5分かかるか、かからないかの距離です。武家屋敷地区からでも車で10分から15分でしょうか。 

↓ 下の写真が世界文化遺産のひとつ萩反射炉です!!。  

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 ささ、それでは萩の反射炉へのアプローチ方法から。
 車で行く場合、駐車場はどこにあるか?というのが問題になります。事前にウェブイトや萩周辺に来てから入射したパンフレットで確認したところ、反射炉の近くに駐車場が整備されていることが分かりました。駐車場を目指して進みます。萩の市内方向から来ると右折入場で駐車場に入るようになります。セブンイレブンの看板がありました。わずかに反射炉と書いてありましたが、右折入場するタイミングを逃して通り過ぎてしまいました・・・。
 引き返して、駐車場に停めます。駐車して分かったのが、セブンイレブンと反射炉の駐車場は共通であることが判明しました。
 「世界遺産」と「コンビニ」の絶妙な組み合わせです。ここを訪れる外国人は「オー、ワンダフォー!!」と感嘆することでしょう。(ウソです。)

 ↓ 駐車場から階段を登ります。「祝」とのぼりがかかっています。入口付近には案内看板もあります。

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 案内板には萩市内の世界遺産についての説明があり、この反射炉自体は『試験用』であったとあります。
本格的築造はせず、ここで試験的に築造したようです。
 また、同じく世界遺産にこのたび指定された「造船所跡」についての解説とその場所までの地図もあります。

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 ↓ セブンイレブンと兼用の駐車場。 階段の上からの風景と夕日の方向とが重なりました。

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 ↓ 別のアングルから。駐車場の様子。お店の名前はその名も「萩反射炉店」でした。
   あっ、あと特筆すべきことに「宝くじ売場」もあります。ここで大当たりすれば「オー、ワンダフォー!!」と感嘆することでしょう。(ウソです。)
 この世界遺産を目指して観光にやって来る外国人にとっては「かゆいところにも届くくらいのコンビニエンス」さに「オー、ジャパーン シヨッピング カルチャー ヴェリー ユースフォー、アメ~イジング!!」と驚嘆すること間違いないでしょう。(ウソです。)
 車でやって来た人が、階段を登って見学にやってきます。夕方6時くらいですが、次々に見学者がやって来ます。

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 更に階段を登ります。入口は特に門はなく、自由に見学できます。

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 ガイドさんの待機小屋と見学者用の休憩場所があります。訪問した時間帯が遅かったので、ガイドさんは帰った後でした。ご多分にもれず大河ドラマと「ドラマ館」の宣伝看板もありました。セミがミーンミーンと鳴いていてかなりうるさいです。 

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 丘の上に反射炉はあります。丘からの眺め。海と夕日が見えます。
敷地には桜の木が植わっています。春には美しい花を咲かせるでしょう。世界遺産の指定を契機とした桜の新名所の誕生ですね
 桜の樹液をセミは好みます。私が訪れた夏のこの日、緑の桜の葉の生い茂る反射炉の敷地ではセミが盛んに鳴いていました。

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 反射炉に辿りつきます。
 子供の頃に伊豆の韮山反射炉には行ったことがあります。記憶を頼りに韮山と比較してみます。「あまり管理されていなかったな。」が第一印象です。韮山の反射炉は炉の外壁のレンガも整備されていて鉄枠で支えられていたと記憶します。しかし、萩の反射炉は崩れかかっています・・・。風化してレンガは崩れかかり、雑草が茂っています。崩れかかった土のレンガを薬液で無理に固めたのではないかと感じました。(実際は違うかも知れませんが。)

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 反射炉の土台部分。崩れかかています。現在でこそ、新しい鉄の柵で囲まれて保護されていますが、以前から鉄の柵はあったと思いますが管理状態はよくなかったのではないでしょうか。
 「平成19年度」に「近代産業遺産」に指定されています。文化財として保護指定の気運は元々高まっていたのだと思います。思わず「政権交代はいつだったかな?」と思い出してみました。最近の政権交代後、急に指定されたのではないようです。なんとなく、ホットしました(笑)。

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 横から見た反射炉全景。


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 コンクリート製の反射炉の説明。煙突の部分が残っているようです。
 入口の近くの説明板にもあったように結局萩では本格的な大砲の鋳造は行われなかったようです。お試しに築造したものが、そのまま放置されて現在まで残ったようです。燃焼室の部分は崩れて残っていないようです。
燃焼室は半地下だったと思いますが、埋まってしまっています。

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 ここ萩の反射炉は「試験用」だったとはいえ、現在、日本で当時の反射炉は韮山と萩しか残っていないそうです。日本でたった二か所しか残っていないのです。萩の反射炉の重要性が理解できました(笑)。
 同じく説明板。反射炉ではなく、造船やたたら製鉄に関する説明です。

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 萩の造船所で建造された軍艦の説明。反射炉の後は、造船所跡に移動します。

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 反射炉の公園の敷地の傍らには山陰本線の線路が通っています。本数は限られますが、気動車が通ります。ゴトゴトと遠くから鉄路を走る列車の音が響いてくるので分かりました。カメラを用意して撮影しました。世界遺産に指定の敷地内から「撮り鉄」となりました
 写真には写っていませんが、この時間でも見学者は多かったです。二十人以上は見学している人がいたと思います。見学のための滞在時間は短いものの、次々に見学者は(駐車場から)階段を登ってやってきます。

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 駐車場は「セブンイレブン萩反射炉店」と共通と書きましたが、場所は違うものの混雑時の第二駐車場もあるようです。











萩 浜崎重要伝統的建造物群保存地区

 2015年8月

 山口県、萩市の浜崎地区。萩の中心部には三か所の国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝)があります。
 ひとりは有名な城跡に隣接する旧城下町の武家屋敷地区。「堀内」というようです。もう一か所は、先ほど訪れた「鍵曲」が有名な「平安古(ひゃっこ)地区」。そして、ここ浜崎(はまさき)地区です。
 浜崎は武家屋敷街と異なり、漁村地区の指定です。これらの地区は、単独で国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝)に指定されています。貴重ですね。短時間で三か所も「重伝」地区を散策できます
 更に萩市には、もう一か所、市街地から離れたところですが重伝指定地区があります。その地区は「農村」で指定されているようです。市内でいうと、四箇所指定されていることになります。(訪問日現在)
 萩は近年の広域合併で市域がかなり広くなっていますね。

 「浜崎」という地区の名前がいかにも港町、漁港といった感じがしますね。
 ↓  浜崎地区の一角。蔵のなまこ壁も見えます。左は神社の境内です。

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↓ 地区の東の方向。松本川の河口付近と港の様子。
ただし、重伝指定地区ではなかったと思います。指定されているのは古い町並みが残る一角です。

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↓ 浜崎地区の中心部にある住吉神社。漁業、航海の安全の神様だったのでしょう。

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 大阪の住吉大社の末社であることに間違いないでしょう。大阪は古くからの港湾都市。あやかって、航海と漁の安全を祈願する神様としてここに祀って信仰したのだと思います。
 航海の神様といえば、大山祇神社も有名です。が、大山祇神社は萩と同じ日本海に近いかつての石見にあった石見銀山をはじめ、鉱山で祀られていますね。

↓ 神社近くの一角。

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 ↓ 港、川沿いの道路脇から街の方向

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 萩の東を流れる松本川の河口に開けています。
↓ 河口付近の様子。漁船がたくさん繋留されています。漁港、港町の雰囲気です。

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 萩城からここ浜崎地区の間には海水浴場があります。この付近で海水浴場の方から、その帰りでしょう、茶髪のギャル二人組が歩いてきました。いかにも海帰りの雰囲気、濡れた水着を入れているのでしょう、ビニール(ナイロン)の手提げ袋を持ち、キャミと短パンの軽装でした。
 ここ萩には萩温泉もあるので、旅館を予約して宿泊し、世界遺産と武家屋敷街散策、更に海水浴を楽しんでもよかったですね(笑)。「世界文化資産と海水浴」の両方が楽しめます


萩 平安古地区 重要伝統的建造物群保存地区(重伝)

 2015年8月

 山口県、萩。平安古(ひゃっこ)地区。
 武家屋敷地区なのですが、お城の近くの屋敷街からは少し離れた地区。この付近は単独で国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝)に指定されています。すぐ近くには広い川があります。萩の砂洲の西側を流れる橋本川です。

 平安古地区はなつみかんの栽培も有名です。写真には写っていませんが、屋敷の中にはなつみかんの木が植わっていました。現在でも栽培されてます。

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↓ 一番有名な曲がり角「鍵曲」(かぎまがり)の写真です。土色の壁と瓦の対比が印象的です。

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 ↓ 上の写真から更に進み、角を曲がるとこのような風景です。
  壁はホントにこの一角に一部のみ残っています。壁は保存されていなくて、普通の民家のフェンスなどに変わっていると思われます。
 重伝の指定区域もこの一角付近です。武家屋敷地区ほど広くはありません。

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↓ 別の辻の部分。片方は白壁です。普通の民家が建っています。

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 交流館の建物。閉館時刻を過ぎていました。内部には簡単な解説展示があるようです。

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 壁の道沿いにある屋敷の入口。現在も人が住んでいて、表札がかかています。

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 ↓ 案内看板。

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 ↓ 地区のはずれ。この先には広い自動車の通る道路があります。
 道路に出て左へ行くと川を渡り、右へ行くと先の市役所やドラマ館前の道につながります。

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 ↓ 少し離れて撮影。道が狭い。車がすれ違うのは困難です。


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 実をいうと、この細い道で反対から車がやって来ました。すれ違うことはできない狭さです。「これはまいったな・・・。」と思いました。後に下がろうにも「鍵曲」です・・・。と車は道端のお屋敷の中に入って行きました。ここの住人の方の車だったようです。ホッと安堵しました。助かりました(笑)。

 辻の一角。夏みかんは屋敷の中の広い空地を利用して栽培されているようです。壁に隠れて外部からはよく見えませんでした。門が開いていて、屋敷地の内側のなつみかん畑も見える家もあるのですが、個人の土地の内部なので撮影はやめておきました。

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萩城跡(指月公園) 見学

 2015年8月

 萩城跡にやってきました。車は城跡に一番近い駐車場に停めました。
 城跡は国の史跡に指定されています。今年からはユニスコによる「世界遺産」の指定も加ったかは分かりません・・・・。
 お堀と石垣が残るのみ。現在は指月公園というようです。
 公園名の由来となっている指月山を背景にしたこのアングルの写真は有名ですね。↓

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↓ お城のお堀。林の向こうは海です。

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↓ 上の写真と同じ方向のお堀。魚が泳いでいます。
鯉などの淡水魚でした。海水のお堀ではないようです。

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お堀の近くには「萩焼」の看板がかかっています。陶芸体験ができるようです。私達が訪れた時間帯はすでに閉まっていました
堀の内側から外。林の向こうは駐車場です。↓


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 お堀の内側の城跡は入場料がかかります。ここは自由散策と思っていましたが、違うようです。すでに夕方なので入場はせずに、お堀の門の前まで見て引き返しまた。
 写真には写っていませんが、入城料を徴収する受付ボックスがあり、係の人がいます。三々五々、見学を終えたのか城跡から出てくる人がいます。この時間で、チケットを買って入城していく人もいます。
 あとで調べたのですが、夏期は18時30分まで入場できるそうです。

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 駐車場からお城のお堀端までの道の途中。かぎ型に曲がった道。石垣には門があったのでしょう。大手門か大手門につながる門の跡と思います。この道は一番広い道でお城の正面につながっていますので。

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↓ 萩のお殿様の銅像。輝元公か。明治維新を成し遂げたときの当主敬親公だったかは忘れてしまいました・・・・。
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↓ 駐車場の様子。
 特に時間が開場時間帯決まっている訳ではなく、駐車できました。無料でした。訪れたときは、5時半を過ぎたくらいの時間だったのですが、自由に駐車、自由に見学に行くという感じでした。ただ、駐車場脇のお店は店じまいの準備をしていました。

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と、駐車場で一人旅らしき女性がいました。赤かピンクのスカートに、すごい露出の高い上着でした。肩が全部出ているキャミソールです。この炎天下、直射日光の当たる下、日焼けしてしまうのではないでしょうか?。多分、日焼け止めはたっぷりと塗っていると思いますが・・・・(笑)。徒歩で散策しているようで、このあと私達が車で移動している道中、武家屋敷街を歩いていました。大丈夫かな?と少し心配になってしまいました。もっとも、私が心配することではないですけどね(笑)。








萩城下町 散策 史跡指定区域

 2015年8月

 山口県、萩。
 元々、史跡として「萩城下町」、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝)に指定されています。更に今年からはユニスコによる「世界遺産」の指定も加わりました。

 

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 が、観光用の地図を後から見てみると萩の武家屋敷街を指定した「堀内重要伝統的建造物群保存地区」はここ旧木戸邸周辺は指定区域外です。もっとお城に近い方向。ここからお城よりに堀がありますが、堀のお城側が「重伝」に指定されている地区です。
 するとここは史跡指定地区ではあるが、重伝ではない。世界遺産指定地域なのでしょうか??。分からなくなってしまいました・・・。

 ↓ 旧木戸邸の前の道を歩いて北の交差点の角地にある土地。更地になっています。
   かつては屋敷があったのでしょう。

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 更地の傍らに案内看板があります。「国指定史跡」とあります。確かにここ「史跡」指定なのです。
 重伝ではありません。

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 ↓ 「萩城下町」の説明看板

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 お城に続く道。この先に堀(外堀)があり、その先が重伝に指定されている地区です。道沿いにはお土産屋さんが軒を連ねています。まだ太陽光がさんさんと照り付けていますが、夕方5時となり、店じまいの時間のようです。

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 旧木戸邸の反対側(お城側)の道の様子。観光客が散策しています。日傘をさしています。紫外線は大敵ですね。ボクはかまいませんが・・・。紫外線ドンと来いです(笑)。
 土壁もかなり崩れています。武家屋敷街といっても、かつての武家屋敷のあった土地には民家もあり、人が生活しています。民家の敷地には車も停まっていますね。電信柱も立っています。

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 道の途中にあっち更地。広いです。かつての武家屋敷の跡地です。住む人がいなくなり、建物は取り壊しをしたのでしょう。

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 と、道の途中に看板がありました。ドラマでも登場する人物の旧宅地の表示です。
 ここがかつての小田村家の屋敷の跡のようです。

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 看板のある土地の奥にはふつうの民家がありました。現在でも人が生活しているようです。かつての武家屋敷の名残はありません。

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 武家屋敷の南の道。元々歩いて来た方向です。この先にドラマ館、運動公園、図書館があります。戻ることにします。

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 と、運動公園に戻る道の途中。「旧野田家住宅」の表示がありました。
 現在、個人の表札がかかっているため個人の住宅で内部は見学できないようです。

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 旧野田家邸の前を通り、元の運動公園の前の道路まで戻ってきました。この付近が萩城下町の入口に当たります。運動公園は広々としていて、昔の建物は残っていません。観光用の人力車の待機場所があります。

 ↓ 運動公園の前から城下町方向。写真の右手の小屋が人力車の待機場所です。

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↓ 狭い川を挟ん武家惜しき地区と隣接する運動公園に建つ久坂玄瑞像。「文」の夫ですね(笑)。
  北東の方向を見ています。特に京都の方向を向いている訳ではありません。
   西日が写真の右から当たっていますね。
   入手した観光地図によると像は今年の1月に完成したようです。
   建立を記念する台座の銘文を見ると「久坂〇〇」、「久坂〇子」のように久坂姓の名前が。
   直系の子孫か、兄弟の子孫か養子の子孫でしょう。文との間に子はいなかったので、どの系譜かは
   銘文からは明らかではありません。

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↓ 萩の運動公園と図書館。図書館の向こうに「ドラマ館」があります。
 車を取りに戻ります。運動公園から図書館に直接入り、反対側の市役所や明倫館、ドラマ館の方向へ抜けることができます。図書館のロビーに自販機があったので、飲料を買ってで一服して戻りました。暑いので大汗をかいて水分を失ったので補給しました
 ボクのカラダが水を欲していたもので(笑)。

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萩城下町 木戸孝允旧宅(生誕地) 見学

 2015年8月

 山口県、萩の城下町。運動公園の敷地を越えて歩きます。途中、旧城下町の手前に人力車の待機所がありました。更に進むと武家屋敷街です。ただ、すべてが武家屋敷ではなく、一般の民家もあります。表札がかかっており、現在も住んでいると思われる家も多いです。


 木戸孝允旧宅(生誕地)は、武家屋敷が残る旧城下町の一番外れの通りにあります。この一本東側(お城から遠い方)は堀川が流れており、その更に東は病院や現代の一般住宅のある市街地です。病院の名前が幕末の志士と同じ苗字で、その親戚かなと思いました。

 ↓ 壁に沿って歩きます。向かって右(お城から遠い方)は一般的な民家に変わっています。

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 ↓ 来た道を振り返る。南側です。大河ドラマの番組宣伝の「のぼり」がはためいています。

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 途中に金毘羅さんの分社の社がありました。

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↓ 金毘羅さんの境内。高杉晋作が勉学した場所と石碑があります。
  観光客が参拝をしていました。

 

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↓ 更に歩きます。途中、青木周弼邸の前を通りました。かなり解体して工事中でした。観光地図にも現在修理中で見学不可とありました。のちの外務大臣 青木周蔵かと思いましたが、親戚ではあるものの、両社は直系の血族ではないようです。


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 ↓ 屋敷地と屋敷地の間の路地。

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 木戸孝允旧宅(生誕地)にやってきました。正面の玄関の門は閉鎖されていて、その先の空地のような土地から入場します。
 時間は夕方4時半。5時で見学時間終了なので間もなくの日の見学は締切です。急いで入場します。更にお城に近い、萩博物館などにも行きたかったのですが、開館時間の関係で、ここが本日最後の入場施設となります。

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 ↓ 案内看板。 料金は100円と安いです。

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  一緒に設置されていた周辺の案内図。

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↓ 旧宅の入口。元々は旧宅の隣地のお屋敷の跡地のようで公園のように更地になっています。

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生垣を通って、向かって左の建物に入口があります。受付の人がいて料金を支払います。かつての台所が一般公開用の玄関となっています。土間になっていて、外につながっており広いですからね。受付とするには最適です。京都の寺院でも庫裡(つまり台所)が一般公開用の現在の拝観入口になっていることが多い(例 常時公開ではありませんが、大徳寺本坊など)ですが、それと同じなのかなと勝手に思いました。

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 室内の様子。一般的な民家です。写真や書の展示がありました。

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 縁側。厠もあります。庭は松やソテツ?などもあり、南国を思わせます。明るい開放的な庭です。

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 同じく庭の反対方向。

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 ↓ 生誕の間。ここで本当に生まれたそうです。縁側に面した明るい部屋です。

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 ↓ 室内の様子。
 
 ある部屋には、木戸孝〇氏夫妻の写真がありました。平成のはじめくらいの撮影だったでしょうか。現在の木戸家の当主夫妻のようです。すると、木戸幸一の子か孫に当たる方と記憶します。昭和戦前期に内大臣を務めた木戸幸一については掲示されていた木戸家の系図には名前がありますが、詳しい説明はありませんでした。もちろろん、敗戦後に極東軍事裁判で禁固刑に処せられたなどの説明はありません。

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 奥にも敷地が広がっています。写真の右が母屋というか、入口のある建物。左(南)にも廊下で接続して部屋があります。生誕の間などです。二階もあります。

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 ここは和田家の屋敷。木戸孝允はもともと和田家の生まれ。その後養子となり、名乗った「桂」の屋敷ではありません。桂から木戸に改名しているので、どれがホントの名前なのかよくわかりません(笑)。
 パンフレットにもありますが、和田家はわずか20石の禄高。その割には広い立派に屋敷です。これでも毛利家中としては小さいお屋敷だったのでしようか。
 先に見た津和野の森家の旧宅はもっと小さく質素な造りでした。しかも旧森家には窓が少ない。ここ和田家は南に面してお庭と縁側があります。森家は40石くらいだったので、それに比べると藩の規模のためかも知れませんが、和田家の建物は立派です。













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