良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

とく・トク・特別の情報(観光、地域、歴史、買い物、食事など)

 

「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」トークショー(拝聴記 最終) 東洋文庫

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会(トークショー)。続きです。

高名な探検家にして医師、文化人類学の大学教授 関野氏のお話の続きです。
 「ミトコントリアDNAはデータベースがある。自分のものを調べると母系は礼文島のそれと近かった。礼文島に縄文人の住居遺跡があり、出土品にはヒスイがあったり大陸にしか無い貝の殻があった。ヒスイは新潟県の糸魚川が産地であるし、昔(海面が低かったので)サハリンは大陸と繋がっていた。」
 「日本人はどこから来たのか?。 縄文人は二重まぶたで背は低い。顔の彫りが深いのは沖縄の民族やアイヌ民族にみられる。弥生人は一重まぶたで背は高い。メインのルートで、朝鮮半島から渡ってきた。最後に来たルートは沖縄の海のルートではないか。」

 映像が流れました。「グレートジャーニー」が完了した後の新たな海の旅の様子でした。この映像は二年前に開催された国立科学博物館の「グレートジャーニー展」で見たことがあると思い出しました。
  航海に使用する舟は、すべて手作りで道具も手作りしていました。まずは道具造りから。千葉の九十九里海岸で磁石を使って砂鉄を集めています。たくさんの人が作業しています。学生のような若い人が多かったです。
 砂鉄を集めて、たたら製鉄の手法、ふいごで空気を炉に送り、ドロドロに砂鉄を溶解させ、型をとり、斧の形に鉄を鍛冶師が打っていました。『キンコン キンコン』と鉄をたたく音が(映像から)聞こえてきました。
 道具を製作すると、インドネシアで大木を切り、くり抜いて舟の本体をつくります。帆やロープも植物繊維から作っていました。舟の防水のたの塗料もヤシの油だったと思います。
 「砂鉄は120キロ集めた。実際の斧などの道具の重さは5キロ。製鉄をするための炭を焼く必要がある。300キロの炭が必要で炭を焼くために3トンの木を切る必要がある。つまり、5キロの鉄をつくるために3トンの森林伐採が必要です。鉄というのは、文明の発達、軍事力の象徴でもある。人類の文明の歴史は森林伐採の歴史でもあった。」
 のようなお話もありました。

 映像が終わったところで、再びお話が。
 「自然に抗うことはできない。科学で自然を変えることはできない。航海は『五感』でわかる。チャートは必要としない。例えば月の大きさなどで分かる。
 医療も同じで五感に頼るところがある。まず顔を見て、座る様子を見る。打診、触診、内診などで診断する。最近の医者はCTを取って、採血して、モニターを見て・・・・、患者を見ない・・・・・・・。昨日は医師の集まり(学会?)で講演したので、そのようなことを医師から聞いた。」 
 ここ隣の隣には既述のとおり日本医師会もあるので、医師でもある氏にとっては(東洋文庫のある)駒込界隈はなじみ深いのでしょうか。

 「航海は最初の1年で舟の製作、次の1年で航海の予定だった。(大学の自分のゼミの)ゼミ生の2名が航海に参加した。航海は試験航海では1日に40キロ進んた。しかし、目的地に向けて航海すると思うにように風が吹かない。なぎの日もあった。試験のときのように、風を探して方向を決めずに航行するのとは違った。航海は足掛け3年かかった。途中で『3.11の震災』もあった。ゼミ生はずっと航海に参加してくれた『僕たち、もうまともに就職できません。』と言っていた。(会場、笑)。その後、彼らも就職したが『(先生)また何かやりませんか?』と言ってくる。(会場、笑)」
 砂鉄集め、道具造り、舟造りで多数いた若い人は学生のゼミ生だったのだと分かりました。
 最後にまとめのお話です。
 「人間は二本の脚で歩いたから『家族』を作った。言葉というものを生みだした。人間は10か月に一回、出産をすることができる。ゴリラは5年に一回しか(子を)生まない。ゴリラは握力が500kgもある。とても強い生き物。森の中を支配しているので子孫をたくさん増やす必要がない。
 現在、新宿区では生まれる子の4人に1人はどちらかの親が外国人だそうです。新たな人間の移動が始まっています。現代の『グレートジャーニー』です。」

 ↓ 2013年の国立科学博物館「グレートジャーニー展」で撮影した舟の写真。
   実際に航海した舟の実物だったと思います。この舟で小さい舟で
   インドネシアから石垣島まで、航海をしていました。
  
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 お話の終了後は、再び司会の女性職員が立って場を仕切ります。最後に質疑応答の時間がありました。
 3人くらいが質問に立ちました。一人はかつて氏が所属した大学探検部の学生と名乗る若い男性でした。
質問内容は忘れてしまいましたが「探検とは?」というような観念的な質問でした。続いて年配の小柄な女性が「2年前の科学博物館でのグレートジャーニー展も拝見させていただきました。」と前置きをしてから質問をしました。
  終了したときは、16時を過ぎていました。
 終了後、聴衆はどっと会議室を出ていきました。私も階段で一階の下りて、図録を購入し、館外へと出ました。

※このブログに書いたトークショーの内容は、私が当日聞いた記憶や聞きながら時折とったメモを中心に書いています。そのため、実際とは異なる点や記憶違いもあると思います。

 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会 その4

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会(トークショー)。続きです。

高名な探検家にして医師、文化人類学の大学教授 関野氏のお話の続きです。
 アマゾンのお話
 「(先住民の)マチンガ族には名前がない。名前がある人もいるが、一人くらい。たとえばタローがいて、他の人はタローの弟、兄、子といった具合に呼ぶので(名前は一人くらいが持っていればよい)。
 『川』が彼らの共通の地図。『アンタどこの川から来たの?』と聞かれる。川には名前がついている。(彼らの世界は森と川でできている、というようなお話もあったと記憶します。)」
 「当時、私は国立に住んでいたので『多摩川から来た』と答えた。」(会場、笑)
 「その川はどこか?」などと聞かれた。(××日くらいかかる、と答えて先住民が目を丸くしていたというようなお話がさらにあったと思います。)

 「アマゾンの先住民は私達にとって『別の地図を持つ人達』。私達は共通の地図を持っている。(ペルーのアマゾン流域地帯から山脈を越えて)アンデスに行くと学校がある。シベリアにも学校はある。(つまり共通の地図を持ち生活をしている)。ソ連は医療と教育は無料。才能のある人は高い教育を受けることも可能だった。
 私達と共通の地図を持っていない人は、エチオピアの南部、アマゾンのジャングル、ニューギニアの奥地など1000人くらいではないだろうか。残りの99.99%の世界の人は『共通の地図』を持っている。」

 話は少し替わります。
 「(関野氏は)最初、大学の文系の学部を卒業した。その後、大学の医学部に入学した。医学部の夏休みなどの期間はアマゾンに行った。卒業後、外科の医師となった。アマゾンの先住民達とは友達付き合いをすることをしてきた。治療対象としてではない。
 現地に伝統医療がある所ではそれを壊さないように心掛けた。西洋医学を持ちこめばよいのではない。アマゾンにはシャーマンがいて医療行為をする。動物の鳴きまねをして悪霊を追い払う。あるとき、(氏が医師であることを知った)シャーマン『あたまが痛い』と言ってきた。実は(シャーマンは)幻覚剤を服用していたで頭痛がしていたのだった。(シャーマンは氏に対して)敵視はなかった。薬はあまりあげないようにしている。西洋医は薬を与えて治らないけど『頭痛を治す』。
 チベットにはラマ僧がいる。五人に一人が僧と言われるくらいチベットは僧が多い。ラマ医は『アムチ』という。漢方医に近い。アムチが真っ先に私のところに治療に受けに来た。
 伝統医療は『治ればなんでもよい』。たとえば、腰痛のある人がいるとする。整形外科に行く。整体に行く。カイロプラテックに行ってみたりする。実は日本人(の考え)とよく似ている。日本は神道と仏教。ありがたければ何でもよい。アマゾン、アンデスにも自然信仰があった。南米はカトリックが主流。カトリックは一神教だが自然信仰も残っている。スペイン人が入ってきたときに神殿を破壊したが。」
 

 ↓ トークショー終了後の会場の様子。
 
 
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「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」 講演会 その3

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」のトークショー。
 高名な探検家にして医師、文化人類学の大学教授 関野氏のお話の続きです。

 ↓ 「ブラウの大地図展」の告知バンフ。
   関連する講演会や私が聴いた「記念トークショー」の案内が掲載されています。
   すべてはこのパンフを公民館でたまたま入手したことから始まりました。
 
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 南米(の先端部)にいた人はどこから来たのか?。人類はアフリカで生まれた。(ルートを)逆にたどりアフリカへ辿る旅が「グレートジャーニー」とのお話です。

 「グレートジャーニーは近代動力に頼らない旅。 」
 ここで映像が流れました。会議室の照明が落とされ、前方に垂れ下がったスクレーンに写しだされます。(つまり、プロジェクターです。)
 オリノコ川の激流の様子やアラスカからシベリアに渡るときのカヌーを漕ぐ様子の映像などだったと記憶します。 
 実は旅の最初の方の南アメリカ編や北アメリカ編のテレビ放映は当時見たことを記憶していますが、アジアに入ってから、特に中央アジア編やゴールに近い中東やアフリカ編は見ていなかったと思います。

 なぜかというと、旅の(番組放送が始まった)最初の頃、私は学生である程度視聴する時間があったからです。私自身も少年の頃から、世界の色々な地域の様子について興味を持っていたので(番組を)見ました。その後は社会人となったので見る時間(と気力)が無かった(無くなった・・・)から見ていなかったような・・・。学生の頃は『自分もいつかは世界を巡る旅に出てみたいな。』と思っていました。自分に重ねて投影することが可能でした。若い頃は・・・・。
 しかし、いざ社会人になると現実の仕事に追われて、次第に興味が無くなっていってしまいました。夢を持つことが難しくなり、「現実直視型」になりました。さらに家庭を持つと一層「毎日の生活中心」になってしまいますからね(笑)。
 
 話は戻りますが、トークショーの合間に投影された映像は、当時のテレビ放映とは別の機会(予告編など)にたまたま見た一部の映像や二年前の科学博物館の「グレートジャーニー展」で見た映像などと記憶が重なり「テレビ放映自体は見ていないが、少しばかり見た記憶のあるな。」と感じました(笑)。
 旅のゴール近く、アフリカの「ンゴロンゴロ自然保護区」を自転車で走る映像も流れました。

映像の後、氏が解説します。
「 ンゴロンゴロ自然保護区では本来車で走るのみで、途中で車を降りることも許可されていない。どうしてもゴールは自転車で走りたいので『南アメリカから自転車、カヌーなど人力でやってきた。』と説明したら、驚いてタンザニア政府はレンジャーの同行を条件に特別に許可してくれた。保護区ではヌーやガゼル、ゼブラなどが野生で暮らしている中を(自転車で)走った。ライオンやヒョウはいないことを確認してから走った。」

 シベリアのお話
「トナカイのソリを使用した。動物は言葉がわからない。(動物の)1.5m先にエサを付けて(つりさげして)ムチを打って走らせた。トナカイにも賢いトナカイト賢くないトナカイがいる。賢いトナカイはムチをたたくふりをすれば走るが、賢くないトナカイはムチで打たないと走らない。」会場「笑」。トナカイは犬そりよりもパワーがあるそうです。
 「犬ソリは言葉で操作できる。ただし、言葉は四つだけ。右、左、進め、止まれのみ。」

「ヒトは熱帯生まれた。ヒトに近いサルの場合 日本サルは下北半島が北限。(そこより北には日本のサルはいない。) 
 (人類は)寒いのが苦手。ヒトの皮膚は(温度が)ゼロ度でもよい。肝臓、腎臓、心臓などは体温が30度以下になると死んでしまう。機能が停止してしまう。水中も怖い。水中で体温が低下すると命の危険がある。
 人類が北緯60度を超えたのは3万年前。一番重要だったなは何か?。それは『縫い針』の発明だ。熱帯では服を羽織るだけでよい。(しかし、寒い地域ではそうはいかない。)ブーツ、毛皮の服、帽子など『暖かい空気層』のある衣服をつくることができるようになったから。もちろん、その他に住居などの条件もあるが。 食べ物は寒い地域にも大型動物はいるので困らなかった。」
 医師ならではのお話もありました。

 「なぜ、寒い地域にもヒトは行ったのか?。『好奇心』や『向上心』ではないのではないか?。『弱い人』だったからではないでしょうか?。ある土地に定着すると人口が増える。そうよると(ジャマになった?)出ていく人がいる。弱い人が突き出しされて出ていく。(例えば)南米の先端に住む先住民(先端まで行った人)は好き好んで行ったわけではない。ただし、(追い出しされた人が)必ずしも弱い人ではなく、イギリスや日本のように軍事力や経済力を付けて追い出した人よりも強くなった例はある。アメリカもそうで、イギリスを追われて新天地を求めたピルグリムファーザーズの例もある。」

 ↓ トークショーが終わった後の会場。東洋文庫二階の会議室での開催でした。

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「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」講演会 その2 

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会。続きです。
 正確には「トークショー」なので固苦しいお話ではありません。
 高名な探検家にして医師、文化人類学の大学教授 関野氏のお話の続きです。
  アマゾンには学生のとき以来20年間通っていたそうです。
 だいたい次のようなお話でした。
 「アマゾンに学者やジャーナリストの人を案内することがあったが、何もないところで(彼らは)感動していたので不思議だった。(アマゾンは本流ではなく、支流などが面白いのだが。)
 南米の先住民族は日本人と、似てハニカミ屋。顔付き、体格、しぐさなども、似ている。あいさつをこちらからしても、一回しか返さないし、握手をこちらからしてもあまり握り返さない。
 なぜ似ているか? (南米の先住民族は)獲物の動物を追いかけて、(アマゾンに)やってきたことは知っていた。
 (ひちくちに人種を)モンゴロイドとくくることはできない。モンゴロイドは蒙古班があると言われている。が、蒙古斑がない民族もいる。モンゴロイドと言われているくらいだから、元々はモンゴル、シベリアのあたりの民族だろうが、シベリアに行っても(蒙古斑のある、ないは)分からない。
 シベリアのチュコト半島にチュコト人という、民族がいる。チュコトの伝説に『人間は死ぬと天に昇り、また精霊になってもどってくる。おかあさんのお腹の中でお尻もたたいたから、青くなる。』というみのがある。お尻が青くない赤ん坊もいるといることだ。(つまり蒙古斑がない)
 西洋人、いわゆるコーカソイドには2-4%くらいのおしりが青い人がいる。(蒙古斑がある)。モンゴロイドでもおしりが青いとはかぎらない。
 ネグロロイド、コーカソイド、肌の色の黒さは紫外線によるものだし、血液型でも分けることはできない。遺伝子でも特有なものはない。ただし遺伝子としては、九州の人やチリの先住民族に白血病の一種が多いことが知られているが。」
 という医師ならではのお話も。
 私も四国~九州に白血病が比較的多いという話は実は「家庭の医学」等の市販の医学書でも読んだことがあります。
 

 「どこかで人種を切ることはできない。(関野氏自身は)自転車で旅したが、(中国で)漢人の地域を通り、ウイグル族自治区に入ると人々の顔立ちはだんだんエキゾチックになる。
 国境を超えて、旧ソ連の国、キルギスに入ると日本人に似ている、次のカザフスタンに入ると日本人に似ていない。
 (次の国の)トルクメニスタンに入ると、ここは独裁国家。終身大統領がいて、食堂などに入ると大統領の肖像画がある。ここでは『ソ連』が残っていて、旅行するには大変厳しい。旅程はあらかじめ決められていたが、宿がないときは民家に泊まってよいと、言われていた。(宿がないところで現地の)民家に泊まったら、その家の人々は日本人によく似ていた。

 カザフスタンからやってきて、人々を見てみると、グラデーションというか、徐々に(人種が)混ざっている。
 元をたどれば、みなアフリカで生まれた。
 700万年前に猿人が登場した。身長はは120センチくらい。脳の重さは500グラムくらい。直立歩行をしていた。アフリカのチャドで発掘された。私が子供の頃は猿人の誕生は100万年前と言われていたが。現在は学説が異なっている。
 次に原人。原人はアフリカを出た。ジャワ、北京原人などがいる。20万年前にホモサピエンスが登場した。改めてアフリカで生まれた。(ホモサピエンス)6万年前にアフリカを出た。ネアンデルタール人と1-2%混血している。」

「6万年前は現在の白人も同じところにいた。紫外線・・・ないと困る。ビタミンD。これは皮膚で作られる。(肌が)白くなった人は(適応して?)北欧で生き残った。

 ただし、急激な変化は起こらない。たとえば、北オーストラリア・・・今から100年くらい前にイギリス人が来た。彼らは皮膚は日焼けして赤くなるが、黒くはならない。

 皮膚の色は紫外線の強さ(などで決まる)。皮膚の色で人種を区別して優劣をきめることほどバカらしいことか。もとをたどればみな同じです。」
 「皮膚の色で人を区別することがどれだけバカらしいことか・・・。」というフレーズが私の脳裏に焼き付けられました。
 講演は、内容盛りだくさんです。更に続きます。



「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」関野氏トークショー IN東洋文庫ミュージアム

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会(正確には「記念トークショー」)。
 「ブラウの大地図展」に関連しての企画です。
 前述のとおり妻が偶然見た告知パンフを見て知ったのでやってきました。事前に電話して予約を入れていました。氏が旅をした「グレートジャーニー」を私もテレビで見ましたし、「グレートジャーニー 」展がちょうど二年前に国立科学博物館で開催されました。私も子供を連れて見学したので、当時の企画展を補完する意味でもやってきた次第です。
 講演会は14時から。その前に一時間くらいで駆け足で「東洋文庫ミュージアム」内の展示と「ブラウの大地図展」を見学しました。結構慌ただしかったです(笑)。次回はもっとゆっくり見たいですね。
 
 「東洋文庫の名品」の展示室を見学し、「回顧の路」を通って「ブラウの大地図展」の展示室へ。何とか一通り展示を見て、一階に下りて出口を出て、再び二階に登って講演会の受付へ・・・と思いしまたが、モリソン書庫前の通路から、二階の会場の会議室へと抜ける通用ドアが開いていました。実は壁一枚で有料の展示室と会議室はつながっていました。ドアを開ければ(通れば)すぐ到達です(笑)。このとき開演の5分前でした。展示室内にいた人も次々に通用ドアをくぐって会場へと向かいます。年配の男性が多かったように思いました。皆、展示を見ながら開演を待っていたのですね。
 しかし、必ずしも講演会参加は有料入館が条件ではありませんでした。会場の二階会議室は有料ゾーンに入ることなく、建物の入口に直結している階段から登ってくることができることに気付きました。そのため、(有料入館はせずに)講演会だけ聞きに来た人も多数いました。

 (講演会が終わった後、有料ゾーンとを結ぶドアを通って有料展示室内に戻ろうとしましたが、閉まっていました。講演会前にしか開かない『本来は関係者用のドア』のようです。)
 受付で名前を告げて会議室内に入ります。すでに席は配置されていていました。と、前にはプロジェクターとスクリーンが用意され、すでに関野氏の姿がありました。氏は係の人と打ち合わせをしています。Tシャツ姿のずいぶんラフな格好です。前の方の席には余裕があるので前方の席に座ります。後方で講演会の模様を撮影するビデオカメラがすでに設置されていました。

 やがて室内はほぼ満席になりました。席の数は100以上はあったでしよう。学校のように机とイスの教室形式ならば100名が入るくらいの大きさですが、机はなく、イスだけの設置だったので150名はいたでしょう。
 実はこの講演会のためだけに来た人もいるようです。会場の会議室は自由に入れるゾーンにあります。よって入場しなくても講演会を無料で聴くことは可能でした。
 講演会の司会は、「MA」ミュージアムアテンダントの方ではなく、職員証を提げた私服姿の若い女性でした。学芸員の方かは分かりません。

 ↓ 二階部分の渡り廊下の上に置いた机で講演会の受付が始まっていました。 

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 講演会が始まりました。席は満席となりました。まずは、関野吉晴氏の紹介から。医師で探検家であることはテレビを通してもよく知られています。私も元々知っています。現在は、武蔵野美大の文化人類学教授。医師であるのに美大の教授とは異例です。先に見学した鴎外記念館の「森鴎外」と同じような「医師にして二足のわらじ」を履いている方です。

 氏のお話が始まりました。本講演会は「ブラウの大地図展」に関連する講演会です。関連講演会はいくつかあって、この日は関野氏の講演ですが、別の日には大学教授の方によるフェルメールが地図を作中に描いた理由についての講演会など、専門的な内容です。
 冒頭で氏からは「今日は(こちらで、と展示室の方向を指して)地図展をしているが、地図の無い時代のお話をします。」といきなりのカウンターバンチのようなお言葉。「大地図展」に関連する講演(正確には「記念トークショー」)ですが、確かにグレートジャーニーの旅はその通り「地図のない旅」でありました!!。これは、すごいツッコミです(笑)。

 続くお話の内容の概略は次の通りでした。

 「20代はアマゾンに通った。当時通っていた大学には探検部がなかった。そこで、早稲田の探検部に入れてもらった。ナイル川を下ったが退屈だった。流れがゆったりで、その上、川幅がひろいので。しかし、上流の源流部は面白かった。次いでアマゾン川下りをした。本流を下っても大体しか分からない。(面白くない)。(支流の方がも白い。支流沿岸にはには原住民の生活がある。)文明化していない人をアマゾンでみた。その後10年くらいアマゾンに通った。ペルー(のアマゾン側)が一番面白かった。
(世界各地を探検したのではなく)20年間南米しか(行ったことがないので)知らなかった。
 
 「ペルーのアマゾン地域が面白かった。」という理由は、その支流地域での原住民の生活を体験し、彼らと交流を重ねたからなのでしょう。
 講演は更に続きます。

 ※このブログに書いたトークショーの内容は、私が当日聞いた記憶や聞きながら時折とったメモを中心に書いています。そのため、実際とは異なる点や記憶違いもあると思います。



「五味八珍」大井松田店 食事 (静岡県のファミレス)

 「五味八珍」(ごみはっちん)大井松田店 食事 (静岡県のファミレス)

 2015年4月のある日 のこと。
 ずっと以前、たまたまテレビでみたのですが、「ご当地ファミレス」というチェーン店が紹介されていました。そのひとつに、静岡県に展開するファミレスとしては以前紹介した「さわやか」があります。

 同じ静岡県発祥のレストランとして「五味八珍」(ごみはっちん)があるそうです。神奈川県で現在のところ唯一あるお店(大井松田店)が松田町と大井町の境付近にあります。東名のインターからも近くです。この近くには、リンガーハットのお店もあり、以前静岡、山梨方面へのお出かけの帰りに食べたことがありました。しかし「五味八珍」は一回も食べたことがありませんした。何回も店の前の道を通っていたのに・・・・・。
 昼間の時間帯に店の前を通ったので、寄ってみることにしました。ここは静岡中心にかたまっている店舗群とはやや離れたエリアにあります。直営店ではなく、フランチャイズ店のようです。

 ↓ 店の外観。

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 メニューとしては、ギョーザがセールスポイントのようです。ラーメンとギョーザ(つまり浜松餃子)のセットがメインでしょう。店外の「のぼり」でも「浜松餃子」を売り出しています。私はあっさりの野菜ラーメンと餃子のセットを頼みました。
 

東京散歩 日本橋「鰹節の街」

 2015年2月

 寒いですが、快晴です。
 ここは、日本橋。「にんべん」のお店にやってきました。
 
 改めて日本橋の街の様子を眺めていると、「かつおぶし(鰹節)」の看板を掲げた店が数件あることに気付きました。今までは気づきませんでた、・・・というか気にしていませんでした。「鰹節」を買いに訪れてみると、街の風景が違って見えます。そう、日本橋は実は「鰹節の街」だったのです。主に日本橋川の右岸(西側)にはあの「海苔」で有名な老舗もあります。テレビCMの影響で私の世代は必ず「海苔といえば・・・・・××山」と知っています(笑)。子供の頃から刷り込まれていますからね。

 ↓ 「かつおぶし」の看板の店が確かに複数あるのです。
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 看板に「田子節」と書いてあるお店もありました。今まで気づきませんでした。今日は「鰹節」を中心にやってきた甲斐がありました(笑)。
 「田子節」といえば、静岡の西伊豆です。ここでも鰹節が名物です。実はガイドブックにも田子の鰹節のお店のことが載っています。前年の夏に田子は通過したのですが、気づきませんでした。ハテと思い地図を見てみると、田子の集落は国道から海へ向かって断崖の坂を下ったところにありました。波勝崎の「猿の谷」に気を取られて通過していました。松崎や仁科のように国道沿いの集落では無いので行きにくいです。

 前年の暮れ、ツレが鰹節の講座に参加してその話を聞いたあと、NHKのテレビで 「田子節」ができるまでを放映していたのを偶然見ました。鰹を漁港で水揚げして、三枚におろし、四つに切る作業も紹介していました。つまり、「背節」と「腹節」が二個ずつですね。
 この段階ではまだ「かつおの刺身」状態です。お湯でゆでで、いぶして、専用の倉庫に入れ花かつおは三か月か四か月でできるが、「本枯鰹節」は「カビ付け」の工程があるため、更に四か月くらいカビ付の部屋(保管庫)に入れて、水分を抜きカビ付けをするのだと知りました。ツレから話を聞いただけでは、今イチ分かりませんでしたが、テレビで見るとよく理解できました。
 「本枯鰹節」は田子の場合で約八か月もかかるのだそうです。水分は鰹節の段階では80%?、本枯節だと20%程度までに少なくなるのだそうです。

 さて話がそれましたが、「にんべん」で「亀節」を購入。次へ向かいました。日本橋の河岸は物資を積んだ船が接岸して鰹節は重要な商品だったのでしょう。江戸期においては、鰹節はお金と同じように取引されていたでしょう。進物の代表閣でもあったはず。大名も将軍家などの献上品に鰹節を贈ったでしょう。贈り物といえば、「金色の鰹節」(つまり小判)かふつうの鰹節か。
 明治時代の半ば、日銀本館の建築途中の写真を以前見ましたが、周囲は木造の瓦の家が軒を連ねていました。明治時代になっても鰹節は活発に取引されていたでしょう。現在のような高層も含めてビルが建ち並んだのは昭和30年以降でしょう。だから、現在でも鰹節、海苔など海産物の老舗がここ日本橋に軒を連ねていても不思議ではないのです。街の様子が変わったのはここ50-60年くらいでしょう。

 ↓ 後日撮影。真左が三越。右には鰹節のお店も。モチロン「アンテナショップ」もあります(笑)。

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 最近気付いたことが・・・。交差点の一等地に外国資本のチェーン店が店を出していて、急速に街のお店の様子が変わってきています。1990年代半ば以降、こと2000年以降急速に進んだ外資進出の影響によるものです。値段も安い。デフレのこの時代、しかも消費税8%の時代、高いお店だ買い物や飲食できませんのでつい。
安いお店に入ってしまいます。

 (既出) 
 写真の下が亀節です。料理人は「亀節」、家庭では「腹節」かな。「背節」では脂分が少ないので物足りないという人もいるかも知れません。
 味噌汁のだしに使った場合、ウチの子供は「亀節」はいやだと言いました。子供の言葉ではうまく表現できないようですが、味が濃くもないし、淡泊でもないようです。随分ゼイタクな話です(笑)。ただし、「亀節」は小型の鰹からとります。つまり「子鰹」の節を食べるので、子供にとってはいたたまれないのかも知れません。そう考えると子供の言うことも理解できます。
 子供にてっては「背節」だと味が物足りない。よって、「腹節」がよいそうです。同じ脂分ならば「私のおなかの脂分」のほうがコクがあるのかもしれませんが・・・。(ただのメタボですが・・・・。)
 鰹のおなかの脂分もコクがあるのですね。

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 「鰹節」は究極の「カビ付け」食品だったのです。大陸の東に位置する日本はもともと高温多湿の国。カビ付をすることにより、究極の保存食品を生みだしたのです。
 「抗菌社会」になってから、急に食中毒が多くなりました。インフルエンザのような感染症も猛威をふるいます。戦前も「スペイン風邪」の流行などもあり、現代の抗菌社会だけが必ずしも原因ではありませんが、カビや菌類とともに生活するということは、実は人間の健康にとって重要な要素のひとつなのだと思います。
 もっと「本枯鰹節」を食べよう。納豆も食べよう。発酵食品も食べよう。でも発酵いえでもお酒はほどほどに(笑)。




















































































































日本橋コレド室町 「にんべん」だし場、本枯鰹節 購入

 2015年2月、 寒い日ですが、快晴です。

 ここは、日本橋。「にんべん」のお店にやってきました。
 写真はコレド内の「だし場」の様子。テレビでも紹介されていますね。日本橋通りの一階に面しています。
通り側が「にんべん」のお店、奥が「だし場」になっています。

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 「にんべん」では200円からお出汁(だし)を味わうことができます。写真にはあまり写っていませんが、写真左には立食用のハイテーブルがあります。イスはありません。立食が基本です。具の多いお出汁は、もう少し高いお値段です。ご飯物のメニューもありますので、軽食にも最適ですし、昼食時にあまりがっつり食べたく無い人にもオススメです。
 しかも、本当の「鰹節」からとった『だし』を味わうことができます。

 お店では、「本枯節」を購入。 
 最初は背節を購入しましたが、今回は「亀節」を購入。最初、店頭に売り場で「亀節」を探しましたが、置いていませんでした。店頭に並んでいる鰹節は、背節か腹節。店の人に聞いてみると、「亀節」を奥から持ってくてくれました。やはり、店頭にはおいていないようです。主に業務用で店頭小売用は一般的ではないようです。

 なぜ、「鰹節」を求めて日本橋にやってきたのでしょうか?。
 きっかけは、昨年の秋にツレが行った料理教室でした。にんぺん社が主催していた料理講座のようです。「にんべん」といえば、いわずと知れた「かつおぶし」の会社。
 講座の中で実は、普段私達が食しているのは「花かつお」であり本当の意味での「鰹節」は無いそうです。講座の中で「鰹節」についての解説があったそうで、「鰹節」について私も初めて知ることが多かったです(笑)。説明のパンフももらってきました。まだまだ世の中には知らないことが多いです・・・・、というか自分が知っているのは世の中のコトの極一部です。
 講座の中で、化学調味料のだしと「鰹節」から取っただしとを比較して「味当て」をしたそうです。すると、不正解の人が多かったとか・・・・・。普段使用する調味料の味に慣れていて「本当のあじ」を知らないのだそうです。
 
 ↓ 写真 上が最初に買った「本枯鰹節」。本節のうち背節です。下がこのときに買った「亀節」です。
  
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 ポイントは、 
  一尾の鰹から本節として「背節」二本と「腹節」二本ずつ、合計四本がとれます。
  「亀節」は小さい鰹から取れ、二枚しかとれない。亀の甲羅のような形なので「亀節」という。
  いわば、子鰹から取る鰹節。料亭では亀節を使用するのこと。背と腹、両方の味があるからだそうです。
  背節は「雄節」、腹節は「雌節」ともいう。おなかを「雌」と呼ぶのは、お腹から雌が子(魚類の場合は卵)を産むからなのでしょう。
 本節・・・合計四本。本節という。「背節」二本と「腹節」二本がとれる。
 亀節・・・一定の小さいサイズの鰹からとる。二本とれる。
 とまとめます。

 下の写真は、料理教室で購入申し込みをして、後日送られて着た削り器と削って小さくなった「背節」。

  削り器は、店頭で10,800円消費税込みで販売されていました。料理教室で購入申し込みをすれば、同じ値段ですが削り器以外にも瓶入りの液体だしや花かつおなど「プラス」の商品をセットで同封して送ってもらえました。一旦買えば、「砥ぎ刃」は無料とのことです。店頭で購入すれば、削り器のみで10,800円(2014年12月現在の税率の消費税込み)します。どちらがお得がよく考えてみる必要があります(笑)。

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 この削り器、私も削ろうと、まずは水道で手を洗い鰹節を削ろうとしました。しかし妻の「やめて!!」の大声が。濡れた手で鰹節を触るな、と怒りの指導。では手袋をと言うと、手袋も不可、鰹節はカビ付けをした「生きた食物」なので乾燥させた清潔な素手で削るのが正しいのだとか。
 鰹節が少し濡れたので、「せっかくの鰹節が台無し。」と大文句を付けられました。削る方向も決まっていて、鰹の尻尾から(切り落としているが)アタマの方向へ向かって削るのだとか・・・(実は逆かも知れませんが・・・。)。そして、身の中心の近い部分を下にして削るのだとか・・・・。
 触っただけで文句を言われるし、嫌気がさして、削ることはヤメました。(涙)





















































































「本能寺の変」 の通説 ドラマでの演出


 (画像はアマゾンのサイトより)

 2014年も大詰めを迎えた頃。年末近くになって体調を崩してしまい、病院に行きました。
 そのときの病院待合室は大混雑。待っている間、待合室に備え付けのテレビを見ていると、某大河ドラマの再放送でした。ちょうど本能寺の変のシーンの放映が・・・。「テレビではどう描いているのかな?」と興味をもって見ました。(笑)

 先日に行った著者 明智憲三郎氏の講演会。新説は一言で書けば「本来は、信長の命令らよる光秀の家康討ちだった。」です。

では、某大河ドラマではどう描いていたかというと・・・。
・武田攻め
 恵林寺の快川国師が武田の誰かをかくまっていて引き渡さない・・とい一報が・・。
 信長が光秀に「寺ごと焼き殺せ」の命令。光秀は泣く泣く火をつける。
 有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し。」のシーンが・・・。
 ナレーション「快川国師は光秀の学問の師であった・・・。」
・例の家康の接待役のシーン。 
  信長が光秀を叱るシーンが・・・。
  次いで光秀が一人で投げつけられた鯛の切り身?を片付けるシーンへ・・・。

・信長の唐入り計画
 信長が嫡男 信忠に「天下を統一したあとは、外の国を攻める。日本はそなたに任せる。この国に2人 王はいらぬ。」というシーン。
 「信長唐入り計画」は定説なのですね。
・続いて「信長がわずかな手勢を連れて本能寺に入った」シーン。
・続いて 光秀がドロ~ンとした顔で「時は今、雨が下しる五月かな。」のシーン。(不気味でした。)
・で、「敵は本能寺にあり。」 軍勢「オー!!」という歓声。
・ そして「謀反でこざいます!!。」
  信長「誰じゃ」
  森蘭丸「桔梗の紋 光秀にございます。」
  信長「是非に及ばず!。」・・・・何人か兵を斬り、燃え盛る奥の部屋に入り信長は「切腹」。
  
さて、ドラマは信長の死後、秀吉が天下をとった後のシーンへ。
・荒木村重が登場
 回想シーン 村重が謀反を起こした当時のシーンへ。「信長を討つ!!」と気勢を上げる(当時の)村重。
 その後、秀吉の時代になり、村重の名を捨て改め「道糞」と利休の茶室のシーン。
 秀吉に面会を許された「道糞」が、秀吉のそばに控える淀の方に「なぜ両親の仇の庇護の下で暮らすのか。」と質問し、秀吉を怒らせるシーン。
 結果、「道糞」は大阪を「館(やかた)払い」。出立のとき、生き残った自分の子「又兵衛」に筆を渡すシーンが・・・。なんと、この子がのちの絵師「岩佐又兵衛」!?。
・利休の切腹
 唐入りを「おやめなされ。」と秀吉をいさめ、怒らせるシーン。
 「大徳寺の山門に利休の像がある。大徳寺に参るものは皆利休の下をくぐることになりもうします・・・。」と三成が秀吉に告げ口するシーン。秀吉「なぁにぃ~!?」と鬼の形相。
 そして利休「切腹」。
・鶴松の死
 「天下の名医を集めて・・・・」とオロオロする秀吉のシーン。しかし鶴松「死去」。
 のような進行でした。
 そして、本能寺の変の真相は・・・「私には分かりません。」(笑)。

本能寺の変に関する新説 (個人的考察 天海)

 2014年12月のとある日曜日に行った講演会。
 本能寺の変に関する新説でした。この新説を唱える書籍自体は2013年に刊行されています。
 以下は個人的考察です。
 
①光秀=天海 説
  「講演会のときによく質問を受けるのですが・・・・。」と講演の中で「天海は光秀ではない。」と説明がありました。と私を含めて聴衆は聞きましたし、理解しました。が、その後の質疑応答で強調していたのは、「光秀=天海を示す証拠は見つかっていない。」ことでした。「完全に否定することものではない」とのお話でした。私達は、講演者の意図や講演内容をよく聞いて理解しないといけませんね。

②秀満=天海 説
 この説については、言及がありませんでしたし、質問もでませんでした。が、意外と信憑性はあるのではないかと思います。ただ、本書をよく読んでみると、「坂本城で死亡した」と従来通りの説をとっていますし、秀満=天海説は書いていません。
 講演会では、「僧侶というのは、俗世との交わりを絶って出家するのだから、(天海の)前半生が分からないのは当然・・・・。」というお話でした。
 108歳という天海の没年ですが、これは「煩悩」を示す数字でしょう。とにかく、長生きしたことに違いはないが、没年は「108」にしておけ、という誰かの意思が働いていたのでしょう。ニッポン人ってその辺いいかげんですからね。(笑)

  「謎の怪僧 天海」
 このタイトルは私が少年の頃「あるゲームソフトの登場人物の説明」でもありました(笑)。
当時流向した「信長の野望」ではなく「関ヶ原の合戦」か「家康の天下統一」だかのゲームだったのでしょうか??。
ただし、どのソフトも私はプレイしたことはありません。(笑)。
 とにかくそこに「天海は 明智光秀の甥 秀満か!?」とありました。それでこの説を知ったわけです。(笑)。

③春日局の明智再興
 これは以前民放で放送されていた「歴史バラエティー」番組で見ました。局やタイトルは忘れてしまいました。
本書の内容とは関係する部分もあります。
 内容は、 
 明智の血筋の再興を目指す春日局は、自分の子や元夫、元夫の先妻の子孫を含め親戚縁者を家光にお願いして次々に取り立てた。
 天草の乱で討たれた城代三宅氏は、秀満の子であった。これに激怒した春日局は「おのれ~。」天草の乱で決起した領民の全滅を命じた。明智に対抗する者は許さないと。
 のような内容だったです。パラエティー番組ですからね。

 本書では、「家光、春日局実子説」を書いていました。「家光は光秀から一字拝領した」と書いています。この説は考えたことがありませんでした。言われてみれば、確かにそうですね。
 ただ、現代感覚と異なり、武家や公家では実母というのは実子を育てることはせず、乳母が育てるのが通常というのは私のような素人でも知っています。秀吉が淀との最初の子に「捨」と名付けたのは、その考えにも基づくのではないでしょうか。実母が育てるならば、「捨」とは名づけないと思います。「一度捨てて、すぐに拾って自分で育てる」のかもしれませんが・・・。
 弟「忠長」は本書にもあるように父、秀忠と信長から拝領しています。忠長の正室は織田氏。信雄の子孫からです。江の方は、たしかに織田氏を意識していたことが現代人にも分かります。正室織田氏の家は、大名としては小さく、官位も四位 少将くらい?。忠長は「従二位 権大納言」と知られているので、いかに旧名門とはいえ、官位からしても明つり合いがとれません。江の方のたっての希望だったのでしょう。通常正室をむかえるならば、摂家以外の公家でしょう。ただ、三条西家やその血縁の近い公家からというわけにはいきません。ライヴァル春日局の縁者ですから。ただ、江の方のいとこ信雄は官位が高かったのでこの関係からすればつり合いがとれないことはないでしょう。
 武家ならば、親の官位が従三位 権中納言以上のクラスの姫から。従三位でも参議、ましては中将ではありえないでしょう。(推測ですが。笑。)
 人によって異論反論ありますので、素人の私がここで推論するのは自由です。(笑)まっ、批評する人もほとんどの人は自分で研究したわけでも、ましてや論文を書いたわけでもありませんけどね。
 「ほんまでっか?。ウソでっせ!!。」の世界です。(笑)。 くどい。。。。

本能寺の変 (個人的考察 反論)

 明智憲三郎氏の講演会。続きです。

 本能寺の変に関する新説でした。この新説を唱える氏の著書は2013年に刊行されています。

 個人的考察の続報でも反論です。
「えっそうなの!?。なるほど、よくよく考えると確かにそうだ。」と思いました。確かにつじつまが合いますが・・・・。

①信長の唐入り計画
  そもそもあったが、変の原因ではない。まだ先のことで仮定の話。唐入りが主要原因で主君を討つはずはないし。

②四国征伐との関係
 このまま侵攻するとヤバいなと思った。だから討つには今がチャンスと思った。今までもあちこち振り回されてモー限界。例の「石谷家文書」で、利三あての手紙が、石谷家に残されていることも裏付けされます。本能寺の変が起きて実際には、光秀や利三には伝わらなかった(届かなかった)のでしょう。

③光秀の行動
 たしかに、手勢が少なかった家康一行を探索していない。だが、そこまで考えていなかった。か、正々堂々とあとで決戦しようと思った。ネライは主君信長であって、家康ではない。
 とすると、本能寺の変は思いつき犯行といえば、それまで。よって一族郎党滅亡を覚悟して反乱を起こした。そもそも「大義名分」とは、悪を断罪するこういうときに使うものではないでしょうか。
 一応書を送ってオレに味方しろ勧誘はしていたが、いずれ織田家中の武将の勝家、秀吉、そして家康などと戦うつもりでいた。あとは野となれナントカとなれ・・・。本当に野に屍をさらすことになってしまいましたが・・・。
 または、家康とは直接、反乱については知らせなかったが、ほのめかす程度、あとは「以心伝心」でわかるだろうということで、信長を討った。家康はある程度は分かっていた。そのため、明智の残党を優遇した。
 または、ぶっちゃけいうと本能寺の変は、複雑なものではなく、短絡的に「キレ」た。まじめそうな人がキレることは結構ありますね。または心の病、そううつ病などの症状があったかしれません。

 やっちまってとにかく考える。定着農耕民族は意外と将来を楽観します。
 近代の張作霖爆殺、満州事変や盧溝橋事件などの例もある・・・。こうやって羅列してみると「夜討ち朝駆け」ばかりですね。
 「なるようになる」「何とかなるさ」「仮定の話では分からない。」「やるときはやらないといけないのだ。」と。来年も同じように稲が実って「食うものには困らないさ」感覚です。
 これらの言葉は、意外と日頃の仕事でもよく聞くセリフではありませんか??。または自分で言ったりして・・・・・・。
 そんな主君を持った封建時代の一族郎党や封地の領民は不幸ですし、近代国家に置き換えるならば、こんな国家指導者やその下で動く官僚をいただいた国民は不幸です。行きつくところは、封建時代あっては、一族郎党の滅亡、領民の虐殺、領地の荒廃、略奪強奪であり、近代国家間の戦争にあってはおびただしい兵士の死であり、非戦闘員の大量虐殺ですし、国土の荒廃、外国軍隊による占領やすさまじい略奪強奪、国家・政権の滅亡ではないでしょうか?。

 人によって異論反論ありますので、素人の私がここで推論するのは自由です。(笑)まっ、批評する人もほとんどの人は自分で研究したわけでも、ましてや論文を書いたわけでもありませんけどね。
 「ほんまでっか?。ウソでっせ!!。」の世界です。(笑)

本能寺の変に関する新説 (個人的考察の続報)

 2014年12月のある日曜日に行った講演会。続きです。

 本能寺の変に関する新説でした。この新説を唱える書籍自体は1年前に刊行されています。
 個人的考察の続報です。

「えっそうなの!?。なるほど、よくよく考えると確かにそうだ。」と思いました。確かにつじつまが合います。
個人的に(調べたわけではないが)考察です。

①信長の唐入り計画
 小学館発行の歴史漫画「少年少女 日本の歴史・天下の統一」の第11巻(児玉幸多氏監修)。現在自宅にあります。私が子どものために買ったものではなくて、昭和58年に発行した古いもの。初版は昭和57年 小学館 東京。
 入手した経緯は、数年前に当時家族が手伝いをしていた児童施設が古い書籍を入れ替えることになり、要らないからともらい受けたものです。(私が親から買ってもらったものではありません。笑。)ですから、最近の研究や通説は反映されていません。昭和50年代半ばの学習指導要領や歴史通説に基づいているのでしよう。
 これを読み返すと信長の配下当時の秀吉が「・・・・信長様が日本を平定された後、私は明(ミン)に攻め入りとうございす。・・・」と話し、信長が「・・・ハハハ。また秀吉のホラが始まった・・・。」大笑いするヒトコマがあります。つまり、誰が計画したかは分からないが信長の存命当時から「唐入り」計画が存在したことが裏付けられます。(小学生が読むレベルの書籍でも。)
 このあと同書は、秀吉が「ついに、日本の統一をしたぞ。・・・次は明へ攻め入ろう・・・」とセリフを言い、そして「(明へ攻め入る道案内を朝鮮が断ったので)・・・諸大名に朝鮮への出陣命令を出しました・・・・」と実際の「唐入り」に物語が進みます。ですから、同書は秀吉がもともと「唐入り」を言いだし、自らが天下を統一した後、実際に行ったのだという流れを小学生レベルでも理解できるように描いています。秀吉が天下を統一した後、「さあ次は、大陸だ!」という漫画のシーンがいきなりでてきたら、「?」ですからね。(笑)

②家康のイガ越え。
 たった二日で奈良、伊賀を通過し伊勢湾を超えて岡崎に到着している。あまりに早すぎる。事前に準備していた?。
 いきなり伊勢湾の漁村に行って「舟を出してくれ」といってもふつうは近くの領主、水軍の主に通報するはずだし、いきなり舟は出さない。元々そこの領主などと話ができていたか、脅して無理やり舟を出させたか。脅したら、やっぱりだれか通報するはず。裏切って一行を海に落とすことだってアリ。

③光秀の行動
 たしかに、家康を探索していない。当日の家康は京都に向かって堺を発ったのは通説。通常は領地に戻るルートを捜索するばすだが、していない。光秀は安土、京都にいたそう。突発的に反乱したのでそこまで気がまわらなかったか、書を送ってオレに味方しろ勧誘はしていた?。

 人によって異論反論ありますので、素人の私がここで推論するのは自由です。(笑)まっ、批評する人もほとんどの人は自分で研究したわけでも、ましてや論文を書いたわけでもありませんけどね。
 「ほんまでっか?。ウソでっせ!!。」の世界です。(笑)

「本能寺の変」の本 新説


 (画像はアマゾンのサイトより)
 2014年暮れの日曜日に行った明智憲三郎氏の講演会。

 本能寺の変に関する新説でした。書籍(以下「本書」)自体は1年前に刊行されています。
「えっそうなの!?。なるほど、よくよく考えると確かにそうだ。」と思いました。確かにつじつまが合います。
個人的に(調べたわけではないが)講演会の内容をふまえて考察です。

①信長の唐入り計画
 宣教師たちには、世界征服のために渡ってきた人々も含まれる。
 身の回りにそのような人がいれば、権力者は自然と考えるはず。当時としては昔の元寇の逆の発想+コンキスタドーレス達の近い先例。どうやって現在の南米を制服したか、スペイン王国の副王制度など植民地行政についても当然聞いていたはず。なんたって、フィリピンの命名の由来そのものが当時の国王フェリペ二世。フィリピンは行政上、Nueva espana副王領。(スペイン語のフォントがでない。)その主都は、Ciuda de Mexico(メヒコ)。英語で言えばメキシコシティ。イスパニア人とは何とすごいことをやっているのかと思ったでしょう。フェリペ二世はポルトガル王も兼ねる。エスパーニャ=アブスブルゴ家の最盛期。つい20数年前まで統治していたその父カール五世(カルロス キント)の帝国治世や戦争について聞いていたはず。東でオスマントルコと戦い、海を渡って北アフリカではアルジェを攻撃し、まさに戦につぐ戦の生涯・・・・。

②家康の行動と直後の信奪取。
 来年の大河ドラマは真田幸村。小学生の頃に学研の歴史マンガで「真田幸村」を読んだことがあります。その中で意外だったのが、「関が原の15年前?に家康と上田で戦ったことがある」との回想シーンでした。なぜ、本能寺の変後に、信長と同盟だった家康が、武田の旧臣の真田氏を攻めるのか?。当時は、よく分かりませんでした。
 が、今回この説を聞くと辻褄があってきます。「な~るほど。そうだったのか。」と。小学生のときに感じた謎がようやく解けたような気がしました。(笑)
 この2年前、信長の命令?で嫡男を死なせています。しかもその死後、正室である信長の娘は、織田家に戻っているわけで。嫡男を失うことは現代人は理解できないくらいに悲劇です。別の子、のちの秀忠はまだ小さいですし。信長には相当な恨みがあったはず。というのは別の書籍やテレビでも取り上げされていますね。
 本書ではあまり触れていませんが、家康にも動機はあるわけで。
 昔読んだNHKの歴史番組本では、晩年を(今川の人質時代にも住んだ)駿府で送ったのは、「嫌な思い出があれば晩年に住まない。」と解説していました。
 駿府は(今川一族の)正室築山殿と祝言し、嫡男信康が生まれた思い出の地。駿府の地形は、西国、東国をにらむ天然の要害といえばそうだが、やはり信長同盟の犠牲となった正室と嫡男の菩提をとむらうという気持ちもあったのではないでしょうか。

③小牧、長久手
 先の彦根からの帰り、名神高速で帰りました。今年の春にも通りました。小牧から名古屋へ走ると遠くに小高い山が見え、ちょこんと建物が建っているのが見えます。復元された「小牧城」?です。おそらく、昔天守閣があり大名が統治していた城で・は・な・い・ですから、昔の戦(いくさ)にちなんだ観光用の復原天守でしょう。で、否応なしに、名神を走ると(もちろん車で。)「小牧、長久手の戦い」について思い出さされます。(笑)。
 なぜ、かつての同盟者の敵を討った秀吉と戦までするのか。通説は有名なので省きますが、これにプラスして確かに新説は辻褄が合ってきます。「そりゃ、仲よくできないよな。戦までするはずだよ。」と。(笑)。「信雄を推して、天下を狙って秀吉と戦った。信雄が秀吉と和睦した後後もしばらく臣従しなかった。」だけでは説明がつかないです。

 人によって異論反論ありますので、素人の私がここで推論するのは自由です。(笑)まっ、批評する人もほとんどの人は自分で研究したわけでも、ましてや論文を書いたわけでもありませんけどね。
 「ほんまでっか?。ウソでっせ!!。」の世界です。(笑)

「本能寺の変」 講演会 に行きました。 


 (画像はアマゾンのサイトより)

 2014年12月のある日曜日。
 講演会に行きました。
 著者 明智憲三郎氏による講演でした。
 講演会について私自身は知らなかったのですが、ツレが新聞広告の書籍紹介欄で見つけました。「織田信成選手は信長の肖像に似ているので、明智光秀の子孫も似ているのではないか?。行って見てみたい。」とのことでした。決っして今回は私から行こうと言ったものではありません。(笑)
 紀伊国屋書店にツレが電話で予約しました。1人千円です。チケットは当日会場で受け取り、その場で代金支払いだそうです。

 講演会の内容は、本能寺の変に関する新説でした。そのベースとなる書籍は1年前に刊行されています。
「えっそうなの!?。う~ん。・・・・なるほど・・・・、よくよく考えると確かにそうだ。」と思いました。確かに辻褄が合います。
 14時30分から開始なのでのすが、早めに行きました。場所は、新宿南口の紀伊国屋の最上階です。高島屋との間の渡り廊下(回廊)に並びます。同書籍の販売もあるので、入場してすぐに購入しました。書籍購入者の特典「先着100名」の著者サイン整理券もゲットしました。
 聴衆は、300人~400人といったところでしょうか。ホールは全部で800-1000人は入るようです。平均年齢は高いです。とても60歳どころではありません。平均70歳前後でしよう。ほとんどが70歳前後の男性です。
 子どもはウチも含め数名。指定席なので子どもがいるグループの席は固めて座席指定をしていたようです。
 私達のうしろの席は、歴史マニアらしき男女(40~50歳くらい)で、講演の最中もあれこれ熱心に議論しておしゃべりしていました。 

 講演の内容は、明智氏がパワポを使用しながら説明し、主に次のようなものでした。
①歴史捜査
 最初は「歴史捜査」についての説明。
 「歴史調査」という言葉はよく聞きますが、「歴史捜査」は聞くことがまずありません。
 その内容の説明がありました。
 また、「蓋然性」を強調していました。
 「一次資料」「二次資料」の言葉を使用していました。
  「一次資料」とは日記など直接そのときに作成された資料とのことです。
②信長の唐入り計画
 「そんな計画があったの?」しかも「九州から寧波への海路の侵攻計画」勘合貿易などのルート。
②家康の討伐計画。
 著者「私も会社員でしたから上司にメンツをつぶされたり、出世の機会を奪われたこともありましたが、殺そうとは思いませんでした。」(会場、笑。)
 「失敗したら一族滅亡するのに、そこまではしない。」
 そして講演の中盤で結論が述べられました。
 本能寺の変は「元々、信長が家康を討つ計画だった。光秀が裏切り、信長を討った。」と話をしたところで、会場から「へえ~」というような、どよめきがもれました。これが核心ですからね。私も「え~。そうなの!?。」と小声をあげてしまいました。なんと、光秀は信長から元々「家康討ち」を命じられていたとのことです。

④四国征伐
 と今年発見された石谷(いしがい)家文書について。
⑤秀吉の唐入り
 「信長の計画」のちょうど10年後に実行。朝鮮経由であり、信長の計画とは違う。
パワポで信長が本能寺で死なず「唐入り」した場合について説明がありました。「××は、天下統一し、唐入り実行。しかし失敗し、××は死亡。その子の代で一族は滅亡。」と。「××」には「信長」と入っています。
 パワポが操作され、プロジェクターから投影されるスクリーン画面が変わります。
「『秀吉』は、天下統一し、唐入り実行。しかし失敗し、『秀吉』は死亡。その子(管理者註 : つまり秀頼)の代で一族は滅亡。」
(会場、皆納得。)

 質問がでる前に、講演の最後で光秀=天海説は否定されていました。
 
 明智氏は理系出身で情報システム関係の仕事をされていたとのことです。論理的、数学的、工学的に調査されていました。たしかに、この手法は従来の歴史研究者や作家、アマチュア研究家にはできないです。エンジニアならではの視点です。 
 講演は1時間半くらい。その後は質疑応答。
 質疑応答は、面白いものをピックアップすると
年配の女性が「ミーハーですが、織田信成選手と会ったことはありますか?」という質問がありました。(会場、笑。)
答え「会ったことはありません。織田家は大名としては3家ありました。あとひとつ信長廟を守っていた家系があり、その子孫の方とは何回か会ったことがあります。」

 書籍(以下『本書』ともいいます。)はそのとき初めて買ったので、読みきれません。本来は本書をすべて読んでから講演を聞いたほうがよいと思います。
 質問者は先走って質問するのですが、質疑応答でも質問に対して「本の中に書いてありますので読んでください。」という回答が続きました。(笑)

バスクフェア (ファミレスのメニュー)

 バスクフェアーに行ってきました。
 ファミレスのロイヤルホストです。前を通りかかると店の看板の告知でもありましたし、新聞の告知にもありました。新聞は夕刊のファミレスなどの特集コーナーで見ました。夕刊のこの欄には、アンテナショップや特産品販売などの情報も掲載されており、重宝しております。(笑)
 ただ、ロイホは店数が限られるのであまり多くない。どこの店で食べたかは内緒です。(笑)
 ↓前菜でガスパチョとぽてとサラダのピンチョ。
  この冷製スープがおいしいです。スペインに冬に行ったときにも出てきましたがさっぱりとして
 私の口にも合うのです。
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スペルは
「Vasco」なので
日本語表記すると
「ヴァスコ」でしょうか。
















 奮発です。アンガスビーフのグリルとパンときのこと生ハムのバスク風おじや。 
 ビーフはレアーです。粒の大きい塩で味付けしていました。最近の私は(加齢のせいか)薄味になっているので、少し味が濃いです。(笑)
 「おじや」には「ハモン」がのっています。
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 ちなみに私はバスクには行ったことはありません。ただ、スペインに行ったとき不思議に思ったことがあります。「Pais Vasco」と「バスク国」という表記なのです。他の地域は日本語で訳すとおそらく「州政府」を意味する「Junta」という表記です。スペインという国の中に更に国がある?。
 独立傾向が強いといわれるカタルーニャ州でも公的な告知には「Junta de Catalunya」とありますし、日本人観光客になじみの深いアンダルシアは「Junta de Andalucia」。マドリード近郊では「Junta de Castilla y Leon」。「フン  タ デ カスティーリャ イ ラ マンチャ」もあります。
 私が訪れたときから、さらにさかのぼること幾年・・・・。時はバルセロナ五輪のときだったか、デカデカと「バロセロナは、カタールーニャです!!。」と新聞広告がありました。当時、少年の私はよく知らなかったのでパロセロナってスぺインではなかったの?と不思議に思いました。その地域でさえ「Junta」。「Pais 」はカタルーニヤなどの州よりも別格の地域なのか?、バスクが特別な地域のように感じ、特に高度な自治を与えられているのかな、とも当時は思いました。(それ以上調べていませんが・・・。)
 マドリードでもバルセロナでも新聞スタンドには「El  Pais」が一番多く販売されています。スペインの全国紙なのでしょう。「The Nation」や「ザ・国家」という紙名とったところでしようか?(笑)
 ETAもありましたから、昔は旅行するには何となく怖いイメージもありました。が、美食の地域なのですね。テレビでも時々「独自の文化と言語の地域」として紹介されることも多いですしね。「不思議の国 ヴァスコ」、「美食の国 ヴァスコ」といったところでしょうか。


(スペルが違っていたらすみません。ちなみにスペイン語の文字は出ません・・・。)





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