良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

遠征編 東海地方(三重、愛知、岐阜)

 

千寿「天むす」 購入 近鉄名古屋駅 2018年6月 

 千寿「天むす」 購入 名古屋駅  2018年6月 

 名古屋駅。(地元では、「なごやえき」ではなく「めいえき」と呼ぶ。)「名古屋うまいもん通り」の一角にある「まるは食堂」食事をした。その後、天むすを買いに。売店を探す。
 「地雷也」の天むすは、食べたことがあった。今度は千寿も食べてみることにする。(ずっと以前、千寿も食べたことはあったと思うが、覚えていない・・・・。)
 
↓ 千寿の天むす
  食べてみると塩味がきいいる。塩水を米にふりかけて味付けしているように感じた。エビは小さいかな。
 (エビも画像に入るように撮影
  


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 駅の改札付近は人が大変多いが、ビル内の通りを進むと人どおりは少なくなる。
 ピークタイムを過ぎているため店の入口では、待っている人はいない。待合のイスには誰も座っていない。すぐにカウンターの席に案内された。

 ↓ 「元祖 めいぶつ天むす」は登録商標されていた。

 近鉄名古屋駅の付近にある。「天むす」の売店を探しに向かった。

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 「天むす」の売店を探す。
 近鉄名古屋駅の改札付近にあった。ここに来るのは、子供のとき以来だ。子供の頃、近鉄特急で伊勢志摩に行ったことがある。そのとき以来だ。「あれ、こんな改札だったかな?。」と全く駅の様子は覚えていない。
 あのときに名古屋のタクシーの運転者から聞いた名言「名物に、うまいもの無し。」は今でも忘れない。(このブログでも何回か書いたと思う。どこで書いてのか、覚えていないが・・・・。)

 近鉄名古屋駅は地下であった。地図を見れば地下にあることは、わかるが、意外にもJRの駅(めいえき)から近鉄までは通路が狭くて分かりにくかった・・・・。

 「千寿」の本店は三重県の津、というので、以前、津市を訪れた際に探しに行ったことがある。しかし、同行の家族から「早く伊勢神宮のおかげ横丁に行きたい。」と文句を言われたので、早々に津から退去したことがあった。結局、津市内の本店は見付けることが出来ずじまいだった・・・・。 

↓ 「千寿」売店の様子。ほとんど単品経営店舗。5個入りで720円のセットのみの販売のようだった。


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 現在、名古屋で有名なのは 「地雷也」と「千寿」だろうか。販売網では 「地雷也」である。販売箇所でいうと、 「地雷也」はあちこちで買うことができるが、「千寿」の売店は少ない。
 個人的には、「千寿」のほうが、塩味がきいていて、自然のおにぎりの味がして(塩味は濃いが。私は加齢のためか、味付けの薄いものを好むようになったので。)よいように感じた。「地雷也」よりも おにぎりのお米がやわらかい。あまり、固めていない食感。
 人によっては「地雷也の方がおいしいよ。」と言う人もいる。事実、今回「千寿」を買っていっても、そう言われた。「地雷也」のおにぎりの方が、固くてエビも含めて、プリッとしていて食べやすいかもしれない。
 販売力では「地雷也」、希少性では「千寿」といったところか。どちらが、おいしいかは個人の嗜好の問題が大きいので、永遠に解決しないかな。




まるは食堂「えびフライ」 食事 名古屋駅 2018年6月 

 まるは食堂「えびフライ」 食事 名古屋駅  2018年6月 

 岐阜県立美術館を見学、その後電車に再び乗って、名古屋市内に移動した。名古屋駅で降りる。
 (地元では、「なごやえき」ではなく「めいえき」と呼ぶようだ。)

 ランチの時間帯はとっくに過ぎていた。昼食の場所を探す。名古屋駅にたくさんお店はあるので。
既に14時頃である。

 名古屋名物といわれる「えびふりゃー」にチャレンジすることにした。「まるは食堂」が有名である。知多半島の先端、美浜町が本店であると記憶する。名古屋市内や中部空港にもお店があることを思いだした。一度、行こうかと思ったことがあったが、まだ行ったことが無かったので丁度良い機会だった。確か、名古屋駅にもあったなと思いスマホで検索する。 
 名古屋駅の改札から少し外れた駅ビルの1階の通路に「まるは食堂」のお店はあった。 

 ↓ 店の看板と通路の様子。
 

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 「名古屋うまいもん通り」の一角にあった。

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 駅の改札付近は人が大変多いが、ビル内の通りを進むと人どおりは少なくなる。
 ピークタイムを過ぎているため店の入口では、待っている人はいない。待合のイスには誰も座っていない。すぐにカウンターの席に案内された。

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 ↓ 1,460円(税込)の定食。エビフライが2本ある。

  漬物はたくあん。同じく名古屋名物の「味噌煮込みうどん」と異なり、白菜ときゅうりの漬物は無い。私は「漬物男」なので(笑)こだわるなあ・・・・。しかし、酢の物が付きます。油ものなので確かに漬物よりも、酢の物の方が付け合せとしては、いいですね。エビフライ2本は、どんどん食べてしまった・・・・・・。
 味噌汁が付いている。通常の関東の味噌汁のような味で、濃い赤みそでは無い。
 まるは特製のタルタルソースがついている。プラ容器をプチっと押して、タルタルを出すようになっている。

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↓ 店のカウンターの様子。めいえきのお店は「JR店」というそうだ。
  あとエビフライの「断面」も撮影。大きいエビなので、フライの衣は密着していない。よって、かぶりつくと、衣は離れてしまう。エビそのものを噛みしめます。

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 「数量限定 JR店のみ」の超特大 有頭エビフライもあったが、さすがに(加齢のため)、カラダが受け付けないのでヤメておいた。
 次いで、近鉄名古屋駅の付近にある。「天むす」の売店を探して向かった。






JR名古屋駅 乗降と駅ビル内の様子 2018年6月 

 JR名古屋駅 乗降と駅ビル内の様子 2018年6月 

 岐阜県立美術館を見学、その後電車に再び乗って、名古屋市内に移動した。名古屋駅で降りて改札の外に出た。 (地元では「なごやえき」ではなく「めいえき」と呼ぶようだ。)

 ランチの時間帯は過ぎている。昼食の場所を探す。14時前の時間帯である。
 ↓ 駅ビルに「高島屋」が入居している。オープンしてまだ1年か1年半くらいらしい。
 

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 一番の課題は「名古屋ではエスカレータは左なのか、右乗りなのか?。」を解決することである(苦笑)。
 以前、とあるラジオ番組を聞いていて偶然「名古屋は東京の大阪の中間なので、左右のどちらでもない・・・・・。」ということ(番組が募集したリスナーの投稿)を耳にしたことがある。しかし、今自分で見る限り、東京と同じく、「名古屋は左寄り」である。つまり「エスカレータの進行方向左側に寄って乗り、右側を、歩行する人達のためにあけておくこと。」である。
 名古屋では特に左右のごちゃごちゃ乗りでもないようだ。結論は「主に左側寄り、右空け。」。
 先月の京都駅付近でも、同様だったな。(つまり「左側寄り」)


 初夏、梅雨入りの季節となった。
 駅の改札付近は人が大変多い。多くの人が行き来している。若い人も多い。警察官も警備中で、多数巡回している。 

 ↓ エスカレータの様子。

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  名古屋駅から、東海道線の快速で西岐阜駅に向かった。
再び名古屋駅に戻り、降車して改札を出て食事に。

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↓ 「めいえき」の駅ビル内、「名古屋うまいもん通り」にある「まるは食堂」に行った。
  


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愛知芸術文化センター展望室 展望と「長沢芦雪展」 鑑賞4(最終)

 2017年10月8日 愛知県美術館「長沢芦雪展」 鑑賞4(最終)と
             愛知芸術文化センター展望室展望台 眺望 夕景

 名古屋・栄にある愛知芸術文化センター内10階の高層フロアにある愛知県美術館の「長沢芦雪展」を鑑賞した。
 鑑賞していると17時30分、閉館の30分前になった。「閉館の30分前です。6時に閉館します。・・・時間までごゆっくりお楽しみください・・・。」と館内アナウンスが静寂な展示室内に流れた。16時20分頃に来たから、1時間あまり鑑賞していた。展示リストによると、展示数は80数点くらいだったので、あまり多くないかな、時間はかからないかなと思っていたが、今回の芦雪展は「展示替え」がほとんど無い。よって、展示リストほとんどすべてを鑑賞するので、存外時間がかかった。
 この日は、別の場所に宿泊するので、移動時間を考慮に入れて、結構駈け足で見たつもりだったが、見応えがあり、かなり時間がかかった。最後の展示室は、本当に急ぎ足で見ることになってしまった。

 芦雪の作品としては、展示の最後に「物凄い小さい絵」の展示があった。パネルに引っかけて展示してあるような・・・展示手法。「方寸五百羅漢図」。
 本当にこれは芦雪の作品なのかな?、と思った。音声ガイドの最後に解説があった。「遊びごころ」の絵らしい。
 五百羅漢とたくさんの人が・・・。「1寸」の大きさで、タテヨコそれぞれ3センチ余り・・・・。カラフルで、細密に人物が描かれている。「五百羅漢図」なので本当に500人もの人が描かれているそう。私が見るところ500人いるとはとても見えないが・・・。
 この作品2010年に再発見され、直近のMIHOミュージアムでの芦雪展でも展示された作品とのこと。

 ↓ 長沢芦雪展チラシの拡大。

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 芦雪は、この作品を描いた翌年、46歳で急死したそうだ。いわば絶筆になった作品。
 芦雪の個人の生活としては、直前に子供も失っているそうだ。当時は、飢饉の時代・・・・、命をつなぐことが困難な時代であった。現代とはくらべものにはならない、生きることに厳しい時代、生活環境であった。
 乳児が育つことの難しい時代、子を失うことが多い時代だったとはいえ、子を失う親の悲嘆、悲劇は今も昔も変わっていない。
 
 鑑賞は17時40分くらいまでかかった。特別展の愛知県美術館所蔵品の展示室も隣にあった。特別券とは別の半券が入場券についているので、入室時には必要になるらしい。しかし、ツレを待たせているので、退出することにした。
 展示室を出ると、撮影可能な黒いパネルが置いてあった。(写真は既出。)老年の男女二人連れが楽しそうにお互いをパネルで撮影をしている。
 と、入館時には気付かなかったが、10階のフロアは美術館のエリアの外に広いロビーがあり、大きな長いソファも置いてある。ツレとは「1階」で待ち合わせをしている。「なんだ10階で(待ち合わせ)もよかったな・・・。」と思ったから、ロビーの周囲はガラス張りになっていて、外の景色、名古屋のビル群が見えることに気付いた。

 ↓ 展望台のようになっているので、10階からワンフロア上に階段を駆け上る。
  展望台は11階にある。
 

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 展望台のガラス窓に近づいてみると、先程通ったテレビ塔や公園通りではなくて「久屋大通り」や名古屋駅近くの高層ビルが見える。日没直後の夕景である。10月に入り、日没時刻も随分と早くなった。神奈川と名古屋で比較すると日没時刻は15分-20分くらい違うのかな?。
 名古屋名物「テレビ塔」と写真の左奥は名古屋駅近くの高層ビル。新幹線の窓から見上げると駅近くのあのビルが物凄く高く感じるが、遠くの高いところから(つまりココ、展望台)見ると、あまり高く感じないのは何故でしょう!?。

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 栄の繁華街と「錦通り」。久屋大通りとの交差点付近が「栄」の中心地かな。名古屋の通りも随分と覚えた。
車で行くと名古屋駅にでるには「桜通り」をまっすぐ行く必要があり、「錦通り」では無い。しかし、名古屋の地下鉄で一番メジャーに路線の東山からの地下鉄(東山線)は「錦通り」の下を通っている。ちよっとややこしい。
 朝は、車で写真でいうと手前から右奥へ走行した。

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 拡大。濃尾平野を囲む、遠くの山地を撮影したつもりだったが、写っていない・・・。
 某デパートのネオンが拡大されるような感じになってしまった(笑)。

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 入館するときに傍らを通った、楕円形の場所。地下街の入口か公園に隣接したイベントスペースか。
 ↓ 楕円形のモニュメント。半地下構造でお店などテナントが入居しているように見えた。
  公園に浮いている船のようだ。公園自体、まだ造成されて間もないようだし、栄の再開発のモニュメントと講演なのかな、と思った。

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 ↓ 10階なのに庭園がある。
  10階の部分が中庭になっていて、庭に面しておしゃれな感じのレストランがあった。

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  ↓ 11階の展望台から見た、10階。
 入館するときに乗って来たエレベータがある。吹き抜けなって、オブジェがある。
 写真左奥のカウンターが愛知県美術館のチケット売り場。

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 おおー、10階から見た吹き抜け。7階から上が吹き抜けになっているのかな?。

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 「1階」で待ち合わせをしているので、急いでエレベータに乗った。これがクセものだった・・・・。
 しかし入館時に私がNHKのビルを横目に見ながら、ゆるやかな公園の丘を登って入った入口は実際には「2階」なのであったでござーる・・・・・。「1階」ではなかったのであーる・・・・。
 私は「1階」でエレベータを降りた。果たして「1階」にツレはいた・・・・。が先程入館してエレベータに乗ったフロアではないのだ。半地下のような構造で、出入りする人がほとんどいない、外には車寄席があるフロアだ。「あれ、おかしいな。」と感じた。

 待ち合わせしていたツレは、私の顔を見るなり言った。「ちげーだろ!!、どうせ勘違いしていると思ったよ!!。さっき入ったのは2階なんだよ!!。自分で1階と言っただろー!!、(あたしは)ちゃんと来たけどよー。1階はここで、さっきのは2階なんだよ!!。ちゃんとわかって言ってたのかよ!!??、ああー!?。オメーはよ!!!。」と罵声を浴びせられたのであった。

 ↓ 入館前に撮影。 楕円形の屋根の下。半地下のスペースがありイベントをしていた。
   芸術文化センターに向かって緩やかな斜面になっていて公園からだと「2階」から入館するのだ。
   分かりにくい。何なの?、ナゴヤの施設・・・・・・・納得いかない・・・・。何でやねん!?(と関西弁)。

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 ここの地下に栄のバスターミナルがあるそうだ。地下鉄の栄駅ともつながっているそう。愛知芸術文化センターにも地下通路から入れるそうだ。美術館に興味が無いツレは、この周辺をプラプラして地下にテナントで入っていた喫茶店で休んでいたそうだ
 
↓ 入館前に撮影。名古屋名物「テレビ塔」と秋晴れの空。
  地下へ降りる階段は、バスターミナルと地下鉄駅への入口なのですね。

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  さて、近くのコインPに移動し、出庫する。名古屋を去り、本日の宿泊地に移動することにした。「錦通り」を通行、南に曲がり、名古屋高速のランプへ。そのまま、東名阪、新名神と夕日を追うように西下した。
 反対車線、名古屋方面の上り線は渋滞であった。


「長沢芦雪展」 鑑賞3 愛知県美術館

 2017年10月8日 名古屋市 愛知県美術館 「長沢芦雪展」 鑑賞3

 愛知県美術館で開催中の「長沢芦雪展」を鑑賞した。

 第2章「大海を得た魚 : 南紀で腕を揮う。」
 解説によると天明6年(西暦1786年)10月頃、当時33歳の芦雪は師匠の応挙の作品を携えて、紀伊の国の南部に滞在した。約4か月間滞在し、臨済宗の無量寺、真言宗の高山寺な度に作品を描いた。
 南紀の旅行は、応挙が注文を受けた作品の納品のためだったそう。応挙も信頼できる弟子の芦雪に任せたそうだ。納品で訪れ、弟子が現地で作品を制作したということか。
 天明といえば、「天明の飢饉」が想い浮かぶ。食糧難の危機の時代に南紀から注文があったということは、生活に余裕がある豊かな地域ではなかったのではないか?。気候が温暖で果実などが実り、海産物が獲れたので南紀は豊かな地域だったのではないかな。
 京のみやこにも、飢饉の様子は伝わって来た筈。現在のように、車や特急列車で簡単に南紀に行くことが出来る現代とは全く違う。お店に行けば簡単に食材が手に入る現在とは隔世であったろう。
 重要な注文だからこそ、応挙は信頼できる弟子を南紀に派遣したのではないか。その結果、貴重な文化財が現代に伝わった。
 
 ↓ パンフレットの拡大。 
 無量寺の本堂、仏壇の間「室中の間」の向かって右の「龍図襖」、「虎」と対になっている。

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  本堂の仏壇は簡素だ。禅宗の仏壇はシンプルで本尊も小さい。臨済宗なので禅宗の本堂の様子をよくあらわしているのではないか?。
 重要文化財指定の「虎」と「龍」の襖絵がこの展覧会の展示のメインだ。しかし、この襖絵の裏側の部屋の襖絵の説明を聞くと興味深い。無量寺の襖絵として重要文化財に一括して指定されている。ちゃんと、裏面の虎と龍、それぞれ意味のある絵を描いている。室中の間の隣には、「薔薇に鶏・猫図襖」が描かれている。水面の中の魚を狙う、猫の絵。薔薇の花を描いているのも斬新的。「魚」は芦雪が落款のハンコにも使用しているし。
 説明によると「虎の襖絵」の裏面に「猫」の絵が描いてあるそうだ。表と裏を行ったり来たりしたが、確かに表裏になっている。ともにネコ科の動物を描いている。昔の人はちゃんとわかっていたのだ。芦雪をはじめ当時の人が実際に虎を見たことがあるのかは、私は知らない。
 

 第3章にも展示は続く。そして、第4章と展示が続いている。展示作品数は結構多いので鑑賞に時間がかかる。
 犬の絵も多い。犬の絵はユーモアに富んだ描写だ。若沖に似ている犬の描き方だ。
 若沖展では「百犬図」は見なかったが、若沖の百犬図に描かれている犬ととてもよく似ていると思う。
 それとも、犬の描写は芦雪自身の師匠の応挙の作風と似ているのかな。若沖と応挙は当時交流があったのかは、忘れた・・・。

 ↓ パンフレットの拡大

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 第5章の展示室。
  ↓ 大きな牛と象の屏風絵があった。 (パンフレットの拡大) 
   黒い牛は実にリアルに表現している。

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 若沖のコレクションで知られるジョー・アンド・エツコ プライスコレクションの所蔵。
 白い象は恐らく想像で描いたのだろう。若沖の作風と似ていると感じた。サントリー美術館で見た若沖の「象の屏風絵」に酷似している、とかんじるのは私だけかな。


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↑ パンフレットの下に写真の掲載があるが
 
 重要文化財指定「群猿図屏風」は、無量寺の重要文化財指定の襖絵と同じく「第2章」に展示があった。
山のピークの上にのっかった白い猿の表情が印象的。深山幽谷にたたずむ猿を表現しているのかな?。
左の屏風には、白い猿を振り返る数匹の猿の姿が描かれていた。

 第4章には重要美術品指定として「蓬莱山図」の展示があった。南紀に伝わる蓬莱山伝説に基づいて描いたのだろう。西暦でいうと1794年の作品なので南紀滞在よりも年数がたったとくのもの。彩色されていて、カラフルな松を描いて伝説上の蓬莱山を表現していた。





「長沢芦雪展」 鑑賞2 愛知県美術館

 2017年10月8日 名古屋市 愛知県美術館 「長沢芦雪展」 鑑賞2

 名古屋の繁華街、栄にある愛知芸術文化センター10階のフロアにある愛知県美術館。


 会場内に入ると結構見学者がいる。最初は大きな長方形の展示部屋で、室内には40-50人くらいはいるのではないか。学生くらいの若い人も多い。
 
 展示は、長沢芦雪の紹介から。展覧会では「長」と「芦」は現代字体で表記している。よって、この記事では展覧会の「公式表示」にならって現代漢字で表記する。本当は「澤」と「蘆」かな?。
 実は私も芦雪は「江戸時代中期~後期にかけて人物」という以外はあまり知らなかった。若沖と同じ時代を生きた人であった。若沖よりも30歳以上も年下なのに、若沖よりも1年ではあるが早く、40歳台で死亡している。いかに若沖が長生きしたかが分かる。
 2年前にサントリー美術館で「与謝蕪村と若沖は同じ年である」というテーマで展覧会があった。この展覧会でも当時の人間関係に注目していた。
 芦雪は応挙の弟子であったことを知った。だから、南紀に「応挙・芦雪記念館」が現在あるのだと(やっと)知ったのだった。

 ↓ 展示リストに居住地の解説地図があった。
   展示室内の解説と同じだったと記憶する。

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 「蕪村と若沖展」では「(蕪村と若沖の)二人を直接むすぴつける資料は残されていない。」と解説されていた。二人は知人ではあったと推測されるが、実際に交流があったことを示す資料は無いのだった。今展覧会の展示リストでは「蕪村と応挙は仲良しでした・・・。」と解説あるし・・・・。蕪村と若沖の関係は不明だが、「蕪村と応挙」は交流があった。「応挙の弟子が芦雪」である。ん~、複雑に交友関係が絡み合うので、「人物相関図」が必要だなぁ(笑)。

 第1章 氷中の魚 応挙門下に龍の片りんを現す
 最初の展示として「芦雪の肖像画」の展示があった。彩色画である。作者は「芦鳳」で弟子で芦雪の養子となった人の子と音声ガイドで説明がある。芦鳳は、生前の芦雪と会ったことはないそうだ。父から、その養父の風貌を聞きながら描いたのだろう。

 ↓ 「長沢芦雪展」ウェブサイトの画面の白黒印刷。 「関羽図」などの掲載がある。
  「関羽図」の展示があり、近くの展示としては、鶴を数羽(鶴は「羽」と数えるのか知らないが)描いた「群鶴図」やヘビを描いた「蛇図」、竹にカエルを描いた「若竹に蛙図」があった。いずれも墨で表現した作品だった(と記憶する)が、関羽図は薄い彩色があった。「降雪狗児図」も着色があるかわいい犬の絵だった。「関羽図」と逸翁美術館蔵の「降雪狗児図」は、初公開の作品という。直前に展示が決まったのか?、音声ガイドには解説が無い。初期の作品だそうだ。


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 順番に作品を見ていく。
 師の応挙の作品との比較展示があった。「牡丹孔雀図」、絹本着色の鮮やかな牡丹の花と孔雀の画。応挙にならいつつも、動物の孔雀を芦雪独自の視点でとらえている。応挙作品にはあの丁寧な筆跡で「応挙」と旧字体で署名している。春画にも同じ署名があるし、几帳面な応挙の性格を現している。
 更に着色の「牛図」や犬を描いた絵などが展示されている。
 芦雪の落款は「魚」と朱肉をつけて作品の左に押してある。自らを「氷の中の魚」と読んだので「魚」の落款印鑑を作成したのでしょう。

 次は第2章の展示室だ。
 南紀、和歌山 串本の無量寺の本堂の展示が再現されている。

 ↓ ポスターの一部抜粋。本尊に向かって、手前から左手に「虎」の襖絵がある。
 
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 芦雪といえば「虎」の絵なのだなと改めて思う。館外、会場内に掲示されている展覧会のポスターも「虎図」を前面に出しているし。

(参考画像)
 「1階」のエレベータ乗り場付近の柱にあった、芦雪展のポスター。ポスターは「虎」の画の写真ばかりである。「虎づくし」かな。
 

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 (実は私が1階と思って入ったフロアは、実は「2階」だった。だから上の写真は「愛知芸術文化センター2階」の柱に貼ってあったポスターというのが解説が正しい。)

↓ 10階の撮影可能場所にあったパネル。「虎図襖」の拡大。

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「長沢芦雪展」 鑑賞1 愛知県美術館

 2017年10月8日 名古屋市 愛知県美術館 「長沢芦雪展」 鑑賞1

 名古屋の繁華街は、栄である。地下鉄が交差する駅があり、テレビ塔で有名だ。私が一番最近で名古屋のテレビ塔を見たのは、数年前のことだった。それまで名古屋を新幹線で通過することは何回もあったが、名古屋で降りて、どこかに行くということは皆無であった。名古屋は産業都市だからね。子供の頃に観光に1回だけ新幹線で降りたことや、新幹線を乗り換えるのに名古屋駅のホームで待機したことがあったくらい。その唯一の観光ときに、名古屋のテレビ塔を見たかは、全く覚えていない・・・・。
 
 今回は車で来た。この日の朝、名古屋駅前の著名な喫茶店に行くため、車で栄を通過した。と、「愛知芸術文化センター」の前をたまたま通った。「ああ、ここの中に愛知県美術館があるのだな。」と理解した。内部は劇場のみと勘違いしてしまうそうだ・・・・。
 名古屋駅へ東西に伸びる通りは「錦通り」。まだ名古屋の通りを理解していないのだが、桜通りと混同してしまうがち。錦通りの南には「広小路」もあるので、位置関係を覚えないといけない。
 有名な100メートル道路は南北に伸びていて、テレビ塔のある公園があるのだが「久屋大通り」というらしい。読み方は「ひさや」というが、最初「くや」かな、とも思っていた。
 一番の繁華街はどこかというと、南北の久屋大通りと東西の錦通りが交差するところ、と理解している。地下鉄の栄駅があるのだが、その近くにあるのが愛知芸術文化センター。
 
 徳川園ショップ「葵」を見て、徳川美術館を鑑賞した後は、名古屋城に比較的近い、洋館などを見た。その後、ナゴヤメシで昼食は食べずに、全国チェーンのファミレスで食事(笑)。
 期間のある展覧会の記事を優先して書くため、洋館めぐりの記事は、後日投稿する。(ただし、いつになることやら・・・。)

 栄のコインパークに車を停め、テレビ塔を見上げながら、愛知県美術館へ歩く。先程見た愛知芸術文化センターの建物を目指す。
   
↓ 西側(大通りの公園側)から見た建物。こんもりした丘の上にある。というか、人工の庭園である。
 左の建物はNHKの入っているビルだ。立派な建物だ。
 写真には写っていないが、楕円形の屋根のある半地下のスペースではイベントを開催していた。人で賑わっている。
 

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 建物に近づくと、愛知芸術文化センターの前に「長沢芦雪展」のポスターがあった。
 愛知県美術館の場所はここであった。大きな看板表示が無いので、分かりにくい。
 
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 館内に入る。エレベータに乗る。館内はガラス張りの美しい建築。斬新なデザインだ。グーンとエレベータは上の階へ。10階で降りる。10階のフロアは広い。エントランスも広々としている。エレベータを降り、廊下を少し進むと正面にチケット売り場がある。購入して会場に入る。会場入口には、ポスターにもあった「虎の水墨画」の看板が設置されている。
 「1階」のエントランス付近では、人はちらほらだったが、いざ10階の会場内に入ると結構な数の見学者がいる。最初は大きな奥に長い展示部屋であったが室内にはざっと見たところ40-50人くらいはいるのではないか。学生くらいの若い人も多い。
 音声ガイドを借りて、鑑賞開始だ。今回の「長沢芦雪展」は名古屋での開催のみ。和歌山県 串本の無量寺「応挙・芦雪 記念館」所蔵の作品が展示される。
 ここ名古屋から串本までは車で5時間では着かないであろう・・・・。近年は、某有力政治家(幹事長経験者!?。)の影響なのかは分からないが、自動車専用道路が順次整備された。以前、伊勢から、那智勝浦まで車で3時間と少しだった。勝浦から串本までは更に距離があるし。
 南紀・串本に「応挙・芦雪」の作品が多数あり記念展示施設に所蔵されていることは、元々知っていた。(ガイドブックにも書いてあるし。)串本に一番最近で私が行ったのは、2011年の3月、あの震災の直後であった。元々、宿泊の予約は震災の前には行っていたのだ。ガソリンの確保が難しい中で出発したことを覚えている。
 日程の関係もあったので、串本と橋でつながっている大島の「エルトゥール号記念館」は見学したが、本土にある「応挙・芦雪記念館」は行かなかった。よって、今回は良い機会なので鑑賞するため愛知県美術館にやって来たのだった。
 
 
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 ↑ 既出。徳川美術館の入場券と「芦雪展」の入場券と「金のカステラ」。



徳川園ショップ「葵」 お買い物

 2017年10月8日、秋の三連休、名古屋市の徳川園と徳川美術館

 名古屋市東区にある徳川美術館にやってきた。
 今回は、妻を連れての訪問。何回も(このブログの記事で)書いているが、妻は美術館には、あまり興味が無い(苦笑)。よって、私が車を停めている間、妻は入場券を買う前に、ショップをしっかりと見ていた。それでもって私がやって来ると「庭園と共通券がいいの?。150円プラスで庭園にも入れるから得だよ。」と言う。まだ券を買っていないのだ・・・・あらかじめ言っておいたのに・・・・(苦笑)。私は「庭園は以前行ったことがあるから、今回は、行かない。今回は、美術館のみにする。」と言ってあったのに。本当に人の話を聞かない・・・・(苦笑)。

  気持ちの良い秋晴れの日、といってもまだ木々の緑は夏の装い。
  ショップの前から、徳川園の入口を振り返る。↓
 
 
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 徳川美術館よりも先に妻は、徳川園の傍らのショップを「鑑賞」した。美術館の中のミュージアムショップを先に見たのではない。もっとも徳川美術館内のミュージアムショップは、入場券を購入しないとみることは出来ない場所にあったと記憶する。.

 徳川園ショップ「葵」の入口。建物の隣、裏手が徳川園の庭園の入場口となっている。 ↓
 徳川美術館を鑑賞した後、再びショップに戻ってきて、その上でお買い物。

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 徳川園ショップ「葵」で購入した「金のカステラ」。妻がセレクトしたもの。本当にカステラに金箔がまぶしてあった。また「名古屋コーチン」の卵を使用しているそう。(多分、黄色い生地に使用しているのだと思うが。)
 「金」は名古屋城の「金のしゃちほこ」にかぶせているのかな?。
 1300円だった。
 
 
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 ↑ 一緒に写っているのは、徳川美術館の入場券と「芦雪展」の入場券。
 徳川美術館の入場券は、以前とデザインが変わっていないし、日付も入っていないので、ほっておくといつ行ったのか分からない「ただの半券」になってしまう。
 あとで、栄に移動して愛知県美術館の「長沢芦雪展」を鑑賞した。
 
 ↓ 敷地の外。西側の道路。つまり、入口の門近くの道路。
 秋の結婚式のシーズン。結婚式の参列者用の駐車場である。徳川園の中で披露宴を行っているようだ。
 下の写真の先の方向にあるコインパーキングに駐車した。

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 下側から、上の徳川園正門方向。道路を挟んで反対側には、住宅や専門学校があり、文教地区だ。
展示で見たが、かつては、この付近は 大曽根御殿の敷地の一部だった。明治以降、御殿の敷地は縮小して、農地や住宅地となり、現在は閑静な文教地区となっているのであろう。

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秋季特別展「天璋院篤姫と皇女和宮」 鑑賞3(最終) 徳川美術館

 2017年10月8日 秋季特別展「天璋院篤姫と皇女和宮」 鑑賞3(最終)  徳川美術館

 ※この記事とは別に、本日20時に徳川園のショップに関する記事を掲載します。

 名古屋市東区の徳川美術館。
 特別展の展示室。展示の途中で、パーテーションで区切られて、裏に行ける場所があった。かつての旧館の正面玄関であった。戦前の建築当時は、こちらが正面玄関だった。
 
 幕府瓦解に関する展示を続いて見ていく。
 
 江戸は無血開城され、その後徳川家が、駿河70万石に封じられたときの沙汰書の展示があった。田安家から養子に入った亀之助あらため家達に「駿河府中 七十万石・・・・」と墨書されていた。新政権の下、徳川は70万石の大名となった。家達は駿河に移り、その後明治に入ってから、上京している。再び駿河に入って、廃藩置県まで在職したようだ。
 展示は 「エピローグ 明治時代の徳川宗家-天璋院と十六代家達-」
  家達が明治2年、7歳?くらいのときの天璋院宛の書状の展示があった。まだ字を覚えたての子供の習字のような文字だ。子供の字ながら「・・・天璋院様・・・・」と丁寧なご機嫌伺いの手紙のようだ。現在の小学校1年生くらいかな。更に子供のときの家達の写真がある。 
 天璋院が書いた熱海箱根湯治日記の展示があった。このときに病気の和宮をお見舞いしていた。この後ほどなくして、和宮は若くして逝去している。

 明治16年の家達と近衛泰子の婚礼写真の掲示がある。家達は満でいうと21歳くらいかな。西洋式の礼服の恰幅のよい若い家達とおすべらかしに十二単?の着物姿の泰子の写真。「家達は欧州に留学し、帰国後、結婚した・・・」とある。天璋院も満足であったろう。養女となった近衛家の娘と結婚させることは悲願だったそうだ。のちに、二人の子の家正は、島津家の娘と結婚している。
 明治18年に天璋院死去。19年に描かれた「天璋院送葬之図」の展示があった。
 
 展示を一通り見て、退出した。出口までの廊下は結構長い。入口のエントランスまで戻ってきた。結構流して見たつもりだったが、1時間半くらいかかった。じっくり見ていれば2時間以上いたかも知れない。
 その後、退出して、外へ。
 
↓ 徳川美術館のエントランスにある、撮影可能な甲冑。
(ガラスに反射して、入口自動ドアが写り込んでいる。。。)
展示を見終えると写真左奥の通路(甲冑のガラスケースの左)から手前に出てきて、ミュージアムショップを見て退場することになる(笑)。

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↓ 自由撮影可だった、エントランスホールにあったパネル。

 
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秋季特別展「天璋院篤姫と皇女和宮」 鑑賞2 徳川美術館

 2017年10月8日 秋季特別展「天璋院篤姫と皇女和宮」 鑑賞2 徳川美術館

 名古屋市東区の徳川美術館。
 特別展の展示室へ入る。天璋院篤姫に関する展示のあとに皇女和宮に関する展示がある。

 パンフレットの拡大。天璋院と和宮の肖像写真が掲載されている。 ↓ 

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↑ 鼈甲あめのような飾りは、髪飾りの??かんざし、で実際の展示があった。
 和歌に添えて、将軍 家茂が妻和宮に直接贈ったものとのこと。

 展示の解説によると現在広く知られている皇女和宮親子内親王の写真は、本人の写真とは確定していないそうだ。おすべらかしに十二単の姿から和宮に間違いないとされているそうだ。写真は明治時代に入ってから撮影されといると思うし、うーん、たしかに明治10年に32歳の若さで没した和宮の姿にしては、年齢がやや上の感じがしていた。(あとからは、何とでも言えるのであるが・・・・。)
 別の高貴なご婦人を撮影した写真の可能性もあるようだが、没後の明治時代か大正時代から和宮様御写真として伝わったものであるという。
 よって展示品リストには「伝静寛院宮肖像写真」(額入り複製)とある。

 珍しい展示として、将軍 家茂に献上された当時のプロイセン国からの贈り物の展示があった。ドイツのコブレンツの街やライン川沿いの城などの風景を描いた磁器の透かし絵である。タイルの焼き絵のような感じである。
 鎖国の時代は終わっていたのですね。

 パンフレットの拡大。和宮の調度品などの写真が掲載されている部分。 ↓

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 和宮の江戸までの降嫁ルートのパネル展示があった。よく知られたように中山道経由だった。昔、テレビドラマで「和宮は替え玉で、別の娘が入れ替わった」というフィクションの小説を題材にしている番組を見たことがある。このときのお話を基にしているのですね。婚礼道具は、東海道経由だったと解説にあった。
 
 天璋院篤姫と皇女和宮の紹介の展示のあとは、江戸城の大奥の生活などについての展示。当時の天璋院の着物、雛飾りなどの展示があった。硯箱など日常使用していた道具や琴、孝明天皇が妹、和宮に下賜した人形の展示もある。
 書状の展示があった。和宮宛て、天璋院の書状下書もあったが、和宮に対するお礼を述べ気遣う内容であったと記憶している。直筆ではないな。
 展示は、長州征伐などの幕末たけなわの時期に移る。家茂は、たびたび上洛していた。
 家茂と和宮が江戸城でともに生活したのは2年弱であったそう。天璋院から家茂への直筆の手紙の展示があ。テレビでも紹介されたことのある手紙だったと思う。和宮から夫、家茂への手紙の展示もある。直筆は丸い、優美な文字である。「親子」と名前で署名していたかな。
 家茂から尾張藩主 徳川慶勝あての書状があった。たしか征討の総督か何かの職だったはず。「慶勝は家茂から信頼を寄せられていた・・・・。」と解説の文章があった。
 長州征伐に参加した大名各家の旗の絵図の展示があった。カラフルな絵図である。尾張徳川家の旗の絵図の展示もあった。家臣の家で保管されていたものが寄贈されたそうだ。

 次は、幕府瓦解に関する展示。
 急死した夫、家茂を悼む和宮の和歌の展示、家茂の遺品で慶勝が拝領した脇差の拵の展示があった。
 江戸開城の際にも、和宮(落飾後は静寛院宮)から公家の橋本実梁宛ての、徳川存続?を嘆願する書状の展示があった。
 
↓ 徳川美術館のエントランスにある、撮影可能な甲冑。

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秋季特別展「天璋院篤姫と皇女和宮」 鑑賞1 徳川美術館

 2017年10月8日 特別展「天璋院篤姫と皇女和宮」 鑑賞1 徳川美術館

 名古屋市東区の徳川美術館。
 第1展示室で国宝の短刀「無銘 正宗 名物庖丁正宗」を鑑賞し、第5展示室まで見てから、廊下で繋がっている蓬左文庫を見て、再び徳川美術館の建物へ。廊下の途中で
 第6展示室では、源氏物語の紹介パネルの展示。現物の展示期間ではない。今年もこれからの季節に、一部が展示されることになっている。

 特別展の展示室へ入る。前回訪問時は、「源氏物語全巻公開」のあった展示室だ。登録有形文化財に指定されている旧館だ。あのときは、最前列で絵巻を見るための行列が閉館時刻なのに伸びていたな、と思い出にひたる

 特別展「天璋院篤姫と皇女和宮」
 何年か前に某大型ドラマで放映されたテーマに似ている。私は某放送の某大型ドラマはあまり見ないのだが、篤姫のドラマは私が唯一、全部の回を見た(勿論録画も含め)某大型ドラマシリーズのドラマなのだよ。元々歴史上大変有名な人物という訳ではないが、好調な視聴率を記録したドラマと記憶している。

 展示のプロローグ
 ペルリ(ペリー)の一行が神奈川に上陸したときの絵図の展示がある。ここ徳川美術館の所蔵。ついで、福井藩主 松平慶永あての徳川斉昭の書状の展示がある。文字が大きかったり、小さかったり、丸っこい文字だ。ありふれた性格の持ち主の人物の文字ではない、激しい性格の持ち主のような文字だ。字を見ただけで激情型の人物であろうか?。「烈公とおくり名された通り、斉昭の激しい性格を現す字である・・・。」のような解説があった。

 最初は「天璋院篤姫」の展示から。
 徳川家定の肖像画がある。教科書、歴史資料集に載っているあの画像だ。描け軸のような表装である。徳川記念財団蔵とあるので、本物である。解説には 「顔に無精ひげが描かれていて生前の人物像をよく現している・・・」のような意味の文章。家定の死後に描かれた絵で、生前、家定は薄いひげを生やしていたのは事実らしい。写実的な絵だそう。最初は「家祥」だったが・・・・縁起をかついでのちに改名した、と有名なエピソードの解説もあった。
 家祥筆の絵も展示してあった。「蔓草の図」。どちらかというと、上手な部類に入る彩色の日本画だった。世子時代に描かれた作品かな。解説文があったかは、忘れたが・・・。病弱であったと説明される家定であったが絵の作品は、ごく普通であり、病弱であることは感じさせない。でも、絵のタッチは、きれいだけど女性的で男の絵としては弱弱しいな~。
 葵の御紋の入った道具の展示があった。
 続いて篤姫に関する展示と解説がある。
 明治時代の篤姫の写真の展示があった。書籍、テレビなどでおなじみの写真。徳川記念財団蔵なのでこれがオリジナルなのだろう。意外と小さい写真だ。拡大された画像のパネルが写真の上に展示されて見やすくなっていた。
 「薩州桜島真景図」 桜島の風景画。某大型ドラマの紹介コーナーでもこの絵の映像が放映されたと思う。
 晩年の篤姫がずっと手元において故郷を懐かしんだ絵ということだったが、たしかこの絵だった筈。
 
 特別展「天璋院篤姫と皇女和宮」
 子供向けのパンフレットの抜粋。大人用よりも分かりやすいかも(笑)。 ↓
 

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 「篤姫御方御由緒」 巻物の紙に書かれた墨書の由緒書き。斉彬の娘で近衛家の・・・と書いてあったかな。
 「近衛家由緒書」 近い代の近衛家の当主の名前などが書いてあったかな・・・・。
 黑い漆塗りの篤姫の婚礼調度品などの展示があった。葵の御紋がハィっている。薩摩切子のガラスのコップ、グラスのような工芸品が展示されていた。

 ↓ パンフレット抜粋。
 黑い漆塗りの篤姫の婚礼調度品、薩摩切子の写真がある。


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 次いで 皇女和宮の紹介。
 夫となった徳川家茂の肖像画の展示がある。教科書に載っている画像と同じ。徳川記念財団蔵なのでこれがオリジナルなのだろう。和宮の写真の展示がある。これも歴史資料集などで見たことがある。
 和宮降嫁のときの黒い漆塗りの調度品も展示がある。「初公開」と告知されているものもある。婚礼調度品は葵の紋が入っている。婚礼が決まってから、制作されたのだ。今回初公開なのは、お付きの女中に分け与えられ、女中の家族か、受け継いだ家族の子孫から寄贈されたかららしい。解説文があったが忘れてしまった・・・・。
 
↓ パンフレット抜粋。
 

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続いて展示を見て行く。









 

蓬左文庫 平成29年秋季特別展「大名家の御用アーティストー匠たちの技-」と徳川美術館 鑑賞

 2017年10月8日、秋の三連休。 名古屋市蓬左文庫(ほうさぶんこ)、徳川美術館

 名古屋東区 徳川美術館。前回、2015年12月の「国宝 源氏物語絵巻」全巻公開のとき以来の訪問で1年10か月ぶりである。
 
 展示室を見て、一旦廊下に。続いて、蓬左文庫の展示室へ。 広いエントランスに。床面に名古屋の城下町の絵図が描かれている。壁には大曾根御殿の絵図の複製がある。ここに来るのも3回目(笑)。今までとエントランス付近の複製絵図は変わっていないと思う。初めて来たときは、蓬左文庫(ほうさぶんこ)の読み方が分からなかったし、徳川美術館と違う施設ということも知らなかった。廊下で繋がっているし、区別がつかなかったが、今は理解できている(笑)。
 改めて床面の名古屋城下町の絵図を見る。と、現在の中央線の線路の向こう側まで城下町があったようだ。ナゴヤドーム付近から東は、畑だったようなかんじ。現在の徳川園の敷地は、かなり縮小している。かつての大曾根御殿の東は、中央線の線路にかかるか、更に先まで敷地だったようなかんじ。
 明治時代以降、近代化がすすむにつれて市街地化したようだ。特に戦後は住宅化、工場化が進んだようだ。現在の徳川園の東側、工場や学校などになっていると思われる地区でも昔は、池があったことが分かる。
 展示室内には、昔の絵図と現在の徳川園付近の地図と比較できる地図が掲示してあった。現在の徳川園の西側、つまりお城に近い方向。先程入園する前に歩いたところは、専門学校や閑静な住宅地となっているが、かつては大曾根御殿の敷地だった。やはり明治以降、屋敷とは切り離され、畑や住宅地化したのだろう。

 展示室を見る。第1展示室のガラスケースの中には、障壁画がある。以前名古屋城の天守閣内で見た重要文化財指定の障壁画と同じかは、分からない。今回の展示は名古屋城本丸御殿上洛殿襖絵の一部である。もちろん、天主閣内部で展示されていたものとは別の襖絵であろう。狩野探幽の「帝鑑図」。淡い着色の襖絵だった。中国の仙人?などの人物や木々や御殿が描いてある。解説によると「将軍 家光が上洛する際に造営した御殿の襖絵」。以前天守閣で見た本丸御殿の障壁画とはやはり別のもののようだ。
 
 徳川美術館所蔵の狩野家の絵画(絵巻物)の展示がある。解説によると探幽は、江戸に下り、鍛冶橋狩野家の初代となったそう。別の木挽町狩野家も興ったそう。江戸、現在の東京の「こびきちょう」に屋敷があったから木挽町狩野家。探幽の探雪や木挽町狩野家2代目の常信の絵巻の展示もあった。
 時代が下って描かれた「戸山荘八景図巻」の展示があった。現在の東京・新宿区の戸山公園、国立医療センター、学習院女子大付近に広大な敷地のあった、尾張藩の下屋敷、外山荘の絵図。庭園内の池、橋、築山などの風景の描写だった。画中「箱根山」(現在も遺構が戸山公園に残っているが)の描かれていなかったと思う。
 虎などの動物の絵画があった。カラフルな絵で表現されたお菓子の見本絵が描かれたの冊子があった。砂糖を使った干菓子などの絵であった。赤いお菓子あり、緑色の菓子あり、茶色い羊羹の絵などがあった。
 小さい第2展示室もあわてせ見学し、廊下を伝って、再び徳川美術館内に移動した。
 第2展示室には香合や蒔絵の文台、印籠などの小物や能面などの展示があったと記憶する。


 蓬左文庫 平成29年秋季特別展「大名家の御用アーティスト」のパンフレットの画像。 ↓

 
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「名刀物語③」の期間中 第2展示室「大名の数寄-茶の湯-」~第5展示室 鑑賞 徳川美術館

 2017年10月8日、秋の三連休。「名刀物語③」の期間中 第2展示室「大名の数寄-茶の湯-」~第5展示室  徳川美術館

 名古屋東区 徳川美術館。前回、2015年12月の「国宝 源氏物語絵巻」全巻公開のとき以来の訪問で1年10か月ぶりである。
 第1展示室の国宝「無銘 正宗 名物庖丁正宗」を鑑賞した後、隣の第2展示室に。大きな茶室.が再現されている。茶室が再現された展示室であるので、いつも来る度にここでは、茶の湯関連の展示があったと記憶する。
 第2展示室の入口には、第1展示室とは別に展示品のリストが置いてある。それによると、展示室内の茶室は
「猿面茶室」といって、戦災で焼失した国宝(恐らく旧法の国宝なので、現在でいう重要文化財に相当か。)の再現だそう。再現茶室に展示品があったかは、何故か覚えていない。壁面のガラスケースに沿って展示品を見ていく。小さい茶杓や茶入なとの展示品があった。後水尾天皇の宸筆「永 忠」の描け軸?、藤原定家の描いた絵(重要美術品)などがあった。墨蹟として古林清茂の「げ」があった。家康から尾張藩初代の義直に伝わったものであった。
 「油滴天目茶碗」の展示があった。文化財指定はない、金の時代の作品とある。建窯ではなく、有名な窯の作であった。窯の名は説明があったが忘れた・・・・。金の時代なので、南宋の建窯ではなく、金の領土の窯だった。黒い小さい茶碗で確かに茶碗には油を垂らしたような点々がびっしりとある。国宝の油滴天目茶碗よりも小さいような、感じがした。比較していないので分からないが。
 続いて第3展示室に。「大名の室礼-書院飾り-」描け軸や水差し、香炉など書院を飾る道具類の展示があった。ざっと見たので、あまり覚えていないのだが・・・。
 第4展示室は「武家の式楽-能-」能面や衣装の展示があった。ざっと見たので、あまり覚えていない・・・。
 第5展示室。「大名の雅び-奥道具-」。国宝指定の一部、初音蒔絵旅櫛箱がの展示があった。解説はおなじみ「家光の娘の千代姫が、尾張二代目の光友に嫁ぐ際に・・・」の解説。その名の通り、櫛を入れる蒔絵の箱の調度品の展示であった。筆を入れる文箱などの調度品や屏風絵の展示があった。

 展示室を見て、一旦廊下に。続いて、蓬左文庫の展示室へ。 


 9/5(火)から12/13(水)までの第1展示室の展示リストとスタンプラリーの台紙。 ↓ (既出)

 写真の刀剣(金工)は 国宝「短刀 名物 後藤藤四郎」で既に今年5/7(日)で展示期間は終了していた。

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名刀物語③ 第1展示室「武家のシンボル-武具・刀剣-」鑑賞 徳川美術館

 2017年10月8日、秋の三連休。

 再びの名古屋方面のたび。徳川美術館にやってきた。前回は、2015年12月に「国宝 源氏物語絵巻」全巻公開のときに訪問した。訪れた日は、公開最終日の12月5日の日曜日だった。
 1年10か月ぶりの再訪となった。徳川美術館はこれで3回目の訪問だ(笑)。

 気持ちの良い秋晴れの日、徳川美術館を再び見学する。↓ 
 青空に白い雲。雲の形は、すっかり「秋の空」だな~。
 
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 前回訪問時は12月の第一日曜日だったので、晩秋、初冬の気候で付近の平野部の紅葉のピーク。 淡い陽射しの中、落葉をふみしめて訪れた。
 今回は10月の第二日曜日。「秋晴れ」「秋の空」とは書いたものの、気温は25度以上あり、暑い。私のこの日の服装は半袖のポロシャツでハーフのズボン。夏と同じ服装。汗ばむ陽気だった。写真を見ても木々は緑色で初秋の風情を感じないな~
 早速入館し、第1展示室に入る。展示テーマは「武家のシンボル-武具・刀剣-」。徳川美術館の展示は、「常設展」とは呼ばないようだ。第1から第5??くらいまで展示室がある。しかも、展示替えはかなりの頻度で行われるようだ。「武家のシンボル-武具・刀剣-」。の展示リストでは今回の展示期間は、9/5(火)から12/13(水)までの3か月間。特別展の期間とは一致していない。特別展とは期間やテーマは異なる。3か月間の間でも、展示替えが行われる。
 今回の期間の目玉展示は、国宝の短刀だろう。国宝「無銘 正宗 名物庖丁正宗」。展示期間は10/11までの「A」の展示期間(展示リストによる)。展示期間終盤の鑑賞となった。Bの展示期間は10/12(木)-11/14(火)まで。Cの展示期間は11/15(水)-12/13(水)まで。ほぼ1カ月ごとに一部の展示品が入れ替わる。必ずしも閉館日に展示品の入れ替えが実施される訳ではないので「月曜休館だから日曜日までに見れば
いいだろう。」と思っていると、実はその週の「火曜日」や「水曜日」で展示期間が終了してしまうので注意が必要だ。

 最初の展示は甲冑。黒っぽい甲冑。文化財指定は無い。「松平勝長(尾張家8代宗勝6男)着用」と解説に書いてある。戦の無い、江戸時代中期の甲冑だが、解説には「常に戦(いくさ)に備えて、武具の準備を行っていた・・・。」と言う意味の文章があった。徳川宗勝は、将軍吉宗の一字をもらっている当主なので、宗春のあとの当主。その子の甲冑なので、西暦でいうと1750年頃の人物かな。
 独立したガラスケース内に鎮座している。そして、順番に壁面のガラスケース(内の展示品)を見ていく。
 昨今の「刀剣ブーム」で、各地の美術館、博物館では「刀剣」をテーマにした特別展、企画展の開催が盛んにおこなわれている。「刀剣女子」がマスコミで取り上げられるようになったのは、2014年か2015年頃。それから展覧会を企画するので、開催は早くて2015年。昨年2016年から今年2017年
 ここ徳川美術館は、国宝の刀剣を多数所蔵している。国宝に限っていうと、刀剣以外の国宝は「光友正室 千代姫の初音の調度」と私が前回訪問時に鑑賞した「源氏物語絵巻」だ。
 徳川美術館では、刀剣は重要な所蔵品なのですね。よって「名刀スタンプラリー」を実施しているのでしょうか。入館受付のところにスタンプラリーの台紙が置いてあった。既に今年の4月から始まっている。現在は10月。所定期間のうち6回訪問すれば、記念品がもらえる。期間は残り半年、6回の展示替え期間。つまり来年3月まで毎月来ないと記念品はもらえないのだ(苦笑)。名品コレクション 
 受付の人に確認のため聞いたのだが対応は冷ややか。明らかに「あんた、残りの期間は展示替えの都度、ほぼ毎月、あと、6回も来ないでしょ。」と言っているようだった。

 9/5(火)から12/13(水)までの第1展示室の展示リストとスタンプラリーの台紙。 ↓
 写真の刀剣(金工)は 国宝「短刀 名物 後藤藤四郎」で既に今年5/7(日)で展示期間は終了していた。

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 ウェブサイトに掲載のPDFリストやこのスタンプラリー台紙によると第1展示室は、この期間「名刀物語③」と展示テーマが書いている。館内にあるB5版の展示リストには、そのようなタイトルは書いていないし、展示室内でも大々的に「名刀物語」の表示は無かったように思う。(気付かなかっただけかな・・・・)。
 が、このブログの記事のタイトルもこのスタンプラリー台紙に従い「名刀物語③」と書くことにする。既に①と②は終了している。

 国宝「短刀 無銘 正宗 名物庖丁正宗 」の展示は、入って左手のガラスケースにあった。お隣は重要美十品の(長い)刀の展示があった。うち一つの刀は、「無銘 吉家」。解説によると平安~鎌倉時代の刀で松平信古(三河吉田松平家7代)所持とある。名古屋から同じ愛知県内の松平家に伝わった刀であった。
 国宝の短刀は鎌倉時代の作。 短刀は、刀身というか側面に 長い溝がある。不動明王の持っている刀を細長く延ばしたような形。この時代の刀には同じような刻みがあったように感じる。密教の信仰の影響かな、と思った。 
 これで 徳川美術館所蔵の国宝刀剣を鑑賞したのは3点目。もしかしたら、東京国立博物館など別の施設の特別展で見ているかも知れないが。あと、×件見れば コンプリートかな??(笑)。



 

名古屋城 訪問 (2017年6月) テレビ放映の紹介

 2017年6月 「なごや旅」 名古屋城

 突然ではあるが、最近名古屋に行く機会があった。 
 車で自宅を出発。東名高速道路、新東名を走行。順調に走り、市内にやって来た。名古屋城にでも行ってみようか、ということで行ってみた。妻は、名古屋城に来るのは初めてのことらしい・・・・。
 「名古屋城は再建だから、わざわざ観光で行っても・・・・。」と言う人はいるのだが・・・。

 ※今回は速報記事なので、詳細は後日投稿する。
 
  以前も書いたが「名古屋の観光名所」といえば、どこであろうか?。昔から有名な場所は「名古屋城」と「熱田神宮」であろう。現在では、色々な有名観光スポットも増えているのだが、私が少年の時分に来たとき、「名古屋名物」の食べ物といえぱ「きしめん」と「ういろう」しか無かった。
 今でも覚えていて、観光のときの「名言」として記憶しているのが当時、名古屋で乗車したタクシーの運転手さんの言葉だ。「名物の食べ物は何ですか?」との質問に対し、きしめんなどを評して運転手さんは「名物にうまいモン無しだよ。」と言ったのだ。
 ボクは当時少年ながら、この言葉に衝撃を受けた。繰り返しになるが、おさっんとなった今でもはっきり覚えている。生涯この言葉を忘れることは無いだろう(笑)。あの運転手さんは、今どうしているのかな?。と、名古屋を通過するときに思い出すし、来るたびに思い出す・・・・。
 当時、運転手さんは50-60歳くらいの年齢であったと記憶する。訪問したのは平成×年のことであった。あれから〇十×年たち、もしかしたら既に存命では無いかも知れない・・・・・。時間は確実に流れたのだ。時間は止まることが無い。

 「名古屋城」に入場した。料金なんと500円。お得です。天守閣の近くではなく、お堀に近い二の丸の入口付近の門から入場する。私が来るのは、前回、少年時代以来二十×年ぶりである(笑)。
 前回は西側の門から入場して天守閣に行った記憶があるが、今回は東門から入った。
 ニュースにもなっているが、本丸御殿が建築途中である。前回来たときは、広い砂利の更地だったように記憶するが。
 「木造で再建」することはニュースなどでも報道されていて、よく知られている。初めて本丸御殿の「復元御殿」を見た。一大プロジェクトですね(笑)。

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 本丸御殿の真新しい建物を見た後、その先は工事現場の囲みなどがあり、その先に歩くと本丸の名古屋城天守閣の眺望が開けた。入城料500円で木造の本丸御殿も見学でき、天守閣にも入れるのでお得感がハンパないです(笑)。
 と、天主閣の前に立看板が・・・・。NHKの「ブラタモリ」がきたる6月10日と6月17日の 共に土曜日、夜7時のニュースの後に「名古屋」編が放送されるという事前告知である。
 テレビ番組のロケ地で放送の事前告知は珍しいのではないか?、と私は思う。地元「ナゴヤ」の力の入れようが伝わってくる!!。

 ↓ 「ブラタモリ」の告知看板。「タモリ、名古屋を歩く」と副題が付いている。ブラブラ歩いたのですね(笑)。


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 タモリ様とNHKの局アナ様の服装や写真に写っている背景から察するに、4月の桜の季節よりも更に前、桜の開花前か開花直後の3月下旬くらいにロケを行ったように思える。
 
 (今現在の)6月初旬の初夏の時期の放映ではないので、ロケ当時と放送日との間があるので季節感はズレているかな・・・。

 天守閣には次々に見学者がやってくる。夕方閉館時間近くに撮影したので西日が当たり、思いっきり逆光になっている(苦笑)。
 ↓
 
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 ※ 追記 6/10土曜日の放映。
 「ブラタモリ」 名古屋編。見逃しました。夕方まで出かけていたし、帰宅後間もない時間帯だったので視聴を忘れてた・・・・(苦笑)。
 
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博物館「明治村」 見学 5丁目の広場と食事「食道楽のコロッケー」

 2015年12月6日 (明治村 見学)

  博物館「明治村」。敷地の一番北にある「帝国ホテル中央玄関」を見学した。この付近は「5丁目」である。
 
  ホテルの外に出る。(旧帝国ホテル)ホテル(の建物)の中にある食堂は満席。しかも、食事メニューは無い。
  さて、どこでお昼を食べようかと思案する。レストランは混雑しているし・・・・・。
 
 帝国ホテル中央玄関の前に広がるし広場。南向きの広場でなの天気がよければ、眺めがよくて気持ちいいのだろうか、曇天の寒い日であったので・・・・・。
 車を明治村の公認駐車場に停めると、まずこの付近を見学、散策することになる。

 
↓ 写真左奥の屋根の大きな建物・・・菊の世酒蔵 (つまり、酒の醸造所)
  右手前の多角形の瓦屋根の建物・・・金沢監獄中央監視所と房舎
  手前の芝生の広場ではイスに座って休憩する人々が。寒いですが・・・・。

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 ↓ 写真奥に帝国ホテルの玄関のレンガ建築が見える。
   手前に売店がある。


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↓ 写真左、レンガ建築は、名鉄変電所。
  中央の奥は内閣文庫。
  右に見えるノッポの建物が目立つ。
  川崎銀行の本店だが、切り取りされて一部移築のため、搭のように見える。
  

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 「食道楽のコロッケー」の看板のある売店で購入。

 付近のイスに陣取り、食事というか、コロッケと串肉を買って簡単に食べる。
 売店にはホットボックスがあり、その中に何個も商品が並べてある。注文すると取り出して、紙の袋に入れてくれる。
 レストランが満員なので、ちょい食いで済ますのです(笑)。
 近くでも座って食べている人がいる。しかし、何回も書くが、この日は12月の曇天。寒い・・・・。


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 ↓ コロッケは「コロッケー」が正しい呼び名。「コロッケ」では無い。
  一個180円。串カツは300円。ソースをかけて食べる。特に味噌ベースのソースでは無い。

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 食事をして近くの「内閣文庫」の建物に歩く。



明治村 見学 旧第四高等学校武道場 「無声堂」 登録有形文化財

 2015年12月6日。 (明治村 見学)

  博物館「明治村」。4丁目34番地。

 丘と丘の合間の谷のような地形に沿って、武道場が移築されている。
 旧第四高等学校の武術道場「無声堂」。極めて、哲学的な命名の建物だ。登録有形文化財に指定されている。
 
 ↓ 説明板。細長い建物だ。

 旧制高校のうち、第一は東京、第二は仙台、第三高校が京都に設置されたことは知られている。第四は北陸は金沢に設置されていたのだ。
 現在の金沢大学の前身のひとつとされている学校といったところか。第四高校の出身者といえば、陸軍軍医を父に持つ、作家 故・井上靖氏であろうか。父の意をくんで、高校時代は理科であったのか、文科であったのか、は知らない・・・・。(年賦を調べましょう。)

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木造のシンプルな建物。
瓦屋根に典型的な日本家屋。大正年代の建築で明治時代のものではない。
なんと、スプリングが入っていたそうだ。受け身を取るのにも楽チンかな。
↓ 奥の上座。畳はない。板張りだ。こちらでは剣道かな。

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テレビでもロケがあったことの看板。スペシャル大河「坂の上の雲」でのシーンの写真が。
 ここ明治村では、汽車のシーンといい、学生時代の夏目漱石(金之助)が出てきた大学予備門?のシーンなど結構撮影がされていたらしい。
柔道のシーンもここでの撮影であった。海軍の軍人、広瀬武夫は、柔道の名手であったと聞く。

 広瀬ら海軍の生徒が、柔道の稽古をするシーンのようだ。主役よりも、広瀬役の俳優さんの方が、堂々たる体躯で、目立っていたような記憶が私にはある・・・。


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 下座。光が南(写真でいうと、手前)から差し込んでいる。
 畳の上で何やら、座り込んでいて、書いている人が多い。どうやら、ゲーム、クイズの答えをここで考えているようだ?。
 よって、武道を行っている人は誰もいない。
 内部はガランとしていて、寒風が入って来る。戸は開け放たれたままなので。
 「寒稽古」にはちょうどよいかな(笑)。

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 ↓ 道場の中心の入口。
   師範は恐らく、ここから出入りして、上座につき、指導をするのであろう。
   生徒は、明治村の徒歩の道路に近い、いわば下座に近い玄関から出入りするのだ。


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 着物姿で歩いて来た女生徒??が。他にも、着物を来た人が歩いていた。着物といよりは、実用的な道着を着ている。袴をはいている。建物の更に先にある、弓道場で練習をしている人なのであろう。


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 弓道場もあるそうだが、細長い建物の更に先なので、行かなかった。時間も無くなって来たので、正門に向けて次の建物に移動をした。

明治村 見学 二重橋飾電燈、鉄道局新橋工場と明治天皇・昭憲皇太后御料車

 2015年12月6日。 (明治村 見学2)

  博物館「明治村」。見学時間も無くなってきた。急ぎ足で、正門の方向へ戻る。
  正門の近くにある「旧三重県庁舎」まで戻って来た。正門前から、坂を下ったところにある建物だ。
  先程は見なかったが、道路を挟んで反対に鉄道局新橋工場があり、内部に明治天皇が行幸の際に乗車していた御用鉄道車両「御料車」が展示されている。

  ↓ 正門方向へ戻る園内バス。写真には、写っていないが、右に「旧三重県庁舎」がある。
 


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 鉄道局新橋工場の近くには、二重橋飾電燈がポツンと設置させている。
 御料車の車庫があるので、皇室関連の施設を集めているのだろう。
 かつて、皇居(当時は、「宮城」という言葉だったと思う。)の二重橋にあった電燈であった。



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 鉄道局新橋工場の建物は別の場所で「機関館」として使用されていた。同じ建物だと思う。こちらは、客車が線路の上に保存、展示されている。
 左が「6号御料車」。一番最後に製造された明治天皇のお召列車の客車。

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 車両の周囲をぐるりと歩いて見学する。
 ↓ 6号御料車の説明。細長い造りであるが、まさに移動する「御所」。内部にはトイレも付いている。
 外からはよく見えない、内部の様子の写真も掲示があった。

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 窓は開いていないので、ガラスごしに内部を見る。ソファが見える。

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 ↓ 豪華なカーテンと内部のソファが見える。室内装飾も豪華絢爛だ。
 調度品も豪華である。窓が大きい。警備の関係上、窓は小さいのかなと思ったが、存外に大きい。このソファに座り乗車しながら、明治天皇は、車窓の景色、民の生活の様子をご覧になったのだろうか。

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車両の後部。
車体の僧職も金ふちで豪華な外観。

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博物館明治村 鉄道寮新橋工場 見学

 2015年12月6日 博物館明治村 鉄道寮新橋工場 見学

  博物館「明治村」にやってきた。

 重要文化財の「旧宇治山田郵便局」を見学をした後、正門の方向に向けて、歩く。谷になっていいるので、一旦下る。   
 板壁の長い建物がある。「機械館」と看板がある。建物は大きいが、古びた感じだ。「鉄道寮新橋工場」
 鉄道工場だけあり、車両が入るので長い。内部に入る。やはり、天井が高い。
 
 かつての産業機械が展示されている。紡績機械がトーンと設置されている。絹糸を造る工場、製糸工場で使用されていたもの。以前、「富岡製糸場」に行ったきと、機械そのものの撮影をなぜかしなかったので、ここでは遠慮なく撮影。


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 ↓ リング精紡機。一見すると、何でもない、紡績機械であるが「重要文化財」に指定されている。
   機械館の建物ではなく、かつての機械が指定されている。
  「精密紡績機械」の省略で「精紡機」と呼ばれているのだろうか。

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 別の場所にあった。「いのくち式渦巻ポンプ」。
 「機械遺産」の記念プレートが設置されている。
 オイラの顔が反射しといる・・・・。

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 ↓ ポンプの本体。「い」は文字が出ないので、「い」と当て字で書きます。
  発明者の名前からたったもの。「当時、東京帝国大学教授の井口」氏が発明したと説明がある。

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 「揚水ポンプ」であるので、田んぼへの水の供給などに使用したのであろうか。湿地帯の排水、土地の造成などにも使用されたのかも。

 「機械館」のガランとしていて、見学に入って来る人も少なかった。よって、館内の空気が冷たく寒かった。
 建物自体は、木造の板がむき出しで、工場として使用されいたためか、実用的で簡素な造り。

 写真の奥の右側、旧宇治山田郵便局。手前左が「鉄道寮新橋工場」。 ↓

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博物館「明治村」  清水医院 外観と見学

 2015年12月6日 博物館「明治村」の続き。

 重要文化財 東山梨郡役所を見た後、坂を少し下る。明治村のメインストリートである。道の両側には、移築建築物が並んでいる。明治村の風景として写真でしばしば紹介される。

 「東山梨郡役所」からやや下ったところ、「斜め前」の位置に小さい建物がある。「清水医院」である。
 白壁に細長い、上が丸くなっている窓が目立つ。

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 ↓ 清水医院の説明

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 医院の建物は「木曽」にあった。「木曽郡大桑村」にかつてあった。島崎藤村の妹も入院していたことがあるそうだ。歴史的人物の親族とも関係のある明治時代の建物でもあった。

 正面の玄関のようなアーチを入ると土間になっている。ここから、診察室に入る、というか、履物を脱いで上がる。畳式の和室は待合室のようだ。その奥に、診察室がある。
 畳の部屋やかつての診察室の上がることは出来なかったと思う。土間から部屋を見たのみで次へ移動した。。二階にも行く階段があるが、実際に昇ることは出来なかった。
 二階が入院用の病床であったか、または別棟があったのかは、分からない。
 
 ↓ 手前の待合室と思われる部屋を含め、内部は日本家屋そのままだ。
   外から見ると窓の上部のアーチがわかるが、内部からは分からない。
   ごく普通の日本家屋のガラスの木戸である。

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 少しばかり写真に写っているが、建物左の土間には、人物の写真バネルがある。島崎藤村だったと記憶する。
 木曽出身の文学者だ。現在は、岐阜県に編入されている地域もあるが、大桑村は、藤村の馬篭、妻籠よりも北にあるので、現在も長野県に属している。中山道沿い、木曽川流域の山間地域を一括して「木曽」というのであろう。藤村 の「夜明け前」 の有名な冒頭「木曽路はすべて山の中である。」





重要文化財 旧山梨県東山梨郡役所 外観と見学

 2015年12月6日 博物館「明治村」 遅ればせながら、見学記の続きです。

 重要文化財 旧東 山梨郡役所 外観と見学


  「旧三重県庁舎」から見る。その後、坂道を下る。「大通り」に出た。移築建築物が並んでいる通りである。明治村の風景として写真でよく紹介される一番有名なポイントではないか。
 その大通りの突き当り、ゆるい坂道の上には、山を背にして疑洋風建築の「東山梨郡役所」がある。
 先に見た「旧三重県庁」とならんで、一番明治村では有名な移築建物ではないか。

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 やや「コ」の字形になっている瓦屋根の「疑洋風建築」だ。
 正面の玄関から入る。二階にも階段を昇り、見学ができる。テラスというか、正面のパルコニー通路にも出ることが出来る。
 玄関から振り返り、大通りを見る。観音開きのドアの上も半円のアーチ。細かいところに、装飾がなされている。

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 ↓ 建物内部に掲示されていた重要文化財の指定書。
  役所にしてみては、小さい建物だ。移築に際して、切り取りされた部分もあるのかな?と思ったが、指定書を見る限りでは分からない。
 郡は、現在ではほとんど名前のみで、独自に役所を置いている訳ではない。町や村に役場があるし・・・。よって、設置当初はたくさんの小さい村を統括していた「郡役所」の仕事もだんだんと無くなっていった??。

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 入口のドアは開け放たれており、やはり冷たい風が室内入って来る。内部の部屋が展示室になっていた。
 明治維新の時代に活躍した人物の解説、写真の展示があった。
 

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 東翼(正面に向かって右)の一階。執務室があった。「郡長」ではなく明治村「村長」の執務室だ(笑)。
 立派な執務机に「明治村 村長」の標識がある。
 村長の等身大?のパネルもあった。向かって、左の壁には、歴代の村長の写真の掲示があった。
 村長さんがパレードしている様子の写真も。

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 展示によると「村長」は有名人、文化人が就任している。実質は、名誉職だ。ここで執務する訳では無い(笑)。
 「村長」に対して「館長」の役職もある。館長は学識経験者が就任している。実質的に明治村の責任者のようだ。
 歴代館長に関野克氏の名前もあった。昔、読んだ本には戦時中、松代大本営の建設にかかわっていたことについて、氏のインタビューが掲載されていた。当時、東京帝国大学助教授。戦前から戦後の時代の著名な建築学者である。
 (NHK出版 「歴史への招待」の「松代大本営建設」の章だった。昭和50年代の出版と古い本だったが、印象に残っている。)  

 一階の部屋。 明治時代の書物が展示されていた。「学問のススメ」「西洋事情」など福沢諭吉の著書。
          

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 階段を昇る。階段は狭い。階段は途中、直角に曲がっている。二階には、写真コンクールの作品展示があった。
 ↓ 手前の部屋は、玄関の真上のテラスのような部屋。
  テラスに出ることは禁止だった。よって、テラスから外を撮影した写真は無い。

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 二階の写真コンクールの作品展示の様子。
 壁は保護のためか、内側にパーテーションのような壁をもう一枚増設している。

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 ↓ 実は 後からの郡役所。
  正面からの写真はあまりに有名である。うしろにも出ることが出来たので、撮影してみた。
 背後は丘になっていいる。一段高い所に道路が通っている。道路の地下道をくぐり、団体用の食堂がある。
 この郡役所を見て、そのまま地下道を通り、食堂へ向かう一団もいた。これから、食事のようだ。
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 横から。現在の位置でいうと、北から。左右両翼は一階建てになっている。
 つまり、この出っ張り部分の内部は明治村「村長」の執務室です(笑)。
 角の石組と瓦の屋根の色がコントラストをなして、和洋折衷感を出している。


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名古屋 「味噌煮込みうどん」 食事

 2015年12月6日

 博物館「明治村」を見学、その後、名古屋市内の徳川美術館に移動し、「源氏物語絵巻」の特別公開を鑑賞した。
 徳川美術館を16時50分頃に出る。ぐるりと徳川美術館の敷地の壁の脇を歩いて、コインパーキングへ戻った。車を出庫させる。
 日没時刻を過ぎている。だんだんと、周囲は暗くなっていた。だが、東京よりも日没時刻は遅い。東京では真っ暗な時刻でもここ名古屋ではまだ明るい。

 さて、帰途につく訳だが、その前に食事だ。明治村で昼食は食べていないので(スナック、軽食のダラダラ喰い)、夕食はちゅんと食べたいな(笑)。
 名古屋名物といわれる「味噌煮込みうどん」に再度チャレンジすることにした。
 車で「山本屋本店」の名古屋南インター店へ向かう。徳川美術館から東名のインターに向かう途中ではなく、やや離れたところにある。
 大曾根から、東へ走る。車線が広いのであるが、ここ名古屋の道路のバスレーンがわかりにくい。と、猛烈にうしろから飛ばしてくる車がある。うっかり、車線変更すると、後から追突されとしまう・・・・・。やはり、トヨタ車だ。「ナゴヤ走り」の車をまさに目撃・・・・・・・。車線が広いし、後から猛烈にスピードを出す車が迫って来るので、右折がしにくい。
 星が岡を通り、東山の先で右折。かつて、東山動物園に来たことがある。この付近は、起伏のある広い度老で交通量も多い。渋滞していた。そして、二車線の道路へ右折する。その先、坂道の底、環状線のインター手前で急に一車線に。更に進み、左折すると「極楽」という地名のところに店があった。市内での移動であるが、30分以上かかった。
 ↓ 冬の寒い夜空にこうこうと輝く店の看板。

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 駐車場には車が多く停まっている。店の入口では、待っている人がイスに座っている。まだ、夕方の6時前であるが、待っている人がいる。が、すぐに呼ばれた。
 座敷の席に案内された。

 ↓ 座敷の様子と、食事の前に出されたおつけもの。白菜ときゅうりの漬物。私は「漬物男」なので(笑)、(うどんが来る前に)どんどん食べてしまった・・・。
 「うどん」以外に「漬物」が付いているのが良かった。

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 注文したのは「名古屋コーチン」の煮込みうどん。
 注文して10分ほど出てきた。漬物を完食する前に「本食」の「味噌煮込みうどん」が出てきたのでよかった(笑)。
 ↓ 生卵が二個あるは、子供のぶんを私が食べるから。
  お肉は「名古屋コーチン」。 
 「味噌煮込みうどん」をフタを取り皿しにして、よそるのは常識(笑)。4年前に初めて「味噌煮込みうどん」を食べたときは、知らなかった・・・・(苦笑)。あのときは、「取り皿が無いな~」と思いつつも、直(じか)に、はしを突っ込んで、口を熱い陶器鍋に近づけて食べていた・・・・・・・・・・・。今回は、「知ったかぶり」をして食べた苦笑)。。


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 このブログでも、何回も書いているが、ツマの影響か、生まれ持ったものか分からないが、特に上の子は、生卵を極端に嫌う。だから、私が二個食べる。関東風の「すきやき用の卵」も絶対に食べない。讃岐うどんの「かまたま」も決して食べない・・・・。別に玉子アレルギーでは無い。ちなみに、ウチの子には食品の「五大アレルギー」をはじめ、アレルギーは無いのだが。
 同じ名古屋関係でも、「コメダ」のモーニングのゆでたまごは、バクバク食べる(笑)。

 店内は、夕方6時を過ぎるとほぼ満席になった。店の待ち合い席で待つ人も多くなる。アルバイトで働いている店の子の多くは、高校生だろう。上の子と同じくらいの年齢。
 ↓ 店の入口の横。

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↓ 店の座敷の様子。店を出たときに撮影。


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 会計を済ませた後、レシートを見ると「煮込みうどん 山本屋本店」と書いてある。「みそ」だけが、煮込みうどんでは無いのだ。たぶん。レジを打っていた女の子は、明らかに高校生のアルバイトだ。ウチの子に同じことが出来るのかな~??(笑)。
 次いで、住宅地の中の道を抜け、広い通りに。起伏のある道を通り、東名高速の名古屋インターへ向かった。






明治村 見学 正門付近散策、お土産購入

 2015年12月6日。 (明治村 見学)

  正門に近い、博物館「明治村」の「一丁目」を散策した。「森鴎外、夏目漱石住宅」から木の中の歩道を下った。丘の下へ歩く。この小さな歩道を「偉人坂」という。「鴎外」「漱石」やここに保存されている建物にゆかりの深いまたは所有者 西郷従道や乃木希典にちなんだ命名であろう。

 「偉人坂」を下ると、鉄道局新橋工場(明治天皇御料車展示)や二重橋飾電燈の前に出た。最初に見た三重県庁舎を横に見ながら、坂道を登って、正門へ戻る。
 
 正門のやや先に「大井肉店」がある。明治村では一番有名なレストランだ。
 現在も「牛鍋」を出す店として営業をしている。


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 「大井肉店」は午後二時を過ぎても「満席」の表示だった。「満席」の札がかかっている。
 西洋建築の建物。玄関ドアの上には、半円のガラス窓が。
 店舗は二階にあるようだ。店の一階部分は自由に入ることが出来る。二階だけだと、店の席数は少ないと思う。この建物自体、あまり床面積は広くない。
 二階への階段の昇り口に「飛騨牛の肉」の見本の展示がある。いや~、高級牛肉ですね~(笑)。


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↓ 店の前にあるメニュー。
 「飛騨牛」の「牛鍋」である。「文明開化の味」、メニューは松と「竹」と「橘」がある。「梅」は無いようだ。竹と橘は同じ値段である。
 「大井肉店」で食事をするために明治村にやって来るという人も多いだろう。

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 今回、園内のレストランは混雑していたし、私達自身も見学する時間が限られていたため、お昼は食堂、レストランでは、食べずに、「スナック、軽食」系を買って「ダラダラ喰い」であった。もっとも、ウチはいつも「ダラダラ喰い」です(笑)。あと、上の子は少食なので、昼食はほとんど食べないのであるが・・・。だから、成育状況が悪い・・・・、といつもツマとケンカになる・・・・・。

↓ 退出の直前、門の内側から撮影。
 外は、バスロータリーになっている。

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 正門近くのお土産物店「ミュージアム」で自宅におみやげを買う。「園内ゲーム」のゴールがあり、参加者が集まっている。「答えあわせ」をしていた。ゲームは、家族連れや女の子のグループが中心となって参加しているようだ。カップルも参加しているが。参加者は、若い人が多い。参加はしていないが、結局私はゲームの仕組みが理解できなかった・・・・(苦笑)。
 
 正門は、既述の通り、名古屋にあった旧第八高等学校の門。園内を巡ってみると、中京圏の建物移築が比較的多い。重要文化財「三重県庁舎」が最たる例であろう。岩倉変電所、三重県の学校、名古屋衛戍病院、歩兵第六連隊兵舎などだ。
 また、以前の館長の出身校の関係であろう、八高以外に、北陸、「四高」や金澤関係の建物も移築されている。四高の物理教室建物、四高の武術道場、金沢監獄だ。人脈によって昔の建物が移築されたということは、反対に本来は保存されるべき貴重な遺構なのに、取り壊しされた建物も数多く全国には存在することを意味するのではないか。
 最後は、本当に駆け足になってしまって、十分に見ることが出来なかった。またの機会としよう。
 午後2時半過ぎに、明治村をあとにした。すでに窓口の行列は解消されている。


 駐車場へ「歩道の無い」道を歩いて戻る。午前中に停めたときよりも、車の数は少なくなっていた。ここの管理人の男性とその子供がいた。先程、たき火をしていた人だ。ここの地主さん家族であろう。

 ↓ 自宅に戻ってから食べた「明治村バタークッキー」

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博物館「明治村」見学 「森鴎外、夏目漱石住宅」

 2015年12月6日。 (明治村 見学)

  博物館「明治村」の「一丁目」を散策する。ただし、次の予定もあり、時間が無くなってきたのでかなり急ぎ足だ(笑)。そろそろ、村を退出しないといけない時間だ。


 重要文化財「西郷従道邸」を見て、坂道をやや下る。木に囲まれて「森鴎外、夏目漱石住宅」が
建っている。
 先の乃木の官舎から「従道邸」へ移動「乃木から西郷へ」、更に「鴎外、漱石へ」という訳だ・・・・・(苦笑)。
乃木と西郷の両者は薩長政府の軍人、高官だったから当然知り合い。鴎外は陸軍軍医であったから、乃木と西郷とも仕事での関係があっただろう。特に乃木と鴎外は同じ陸軍に在籍する者として少なくとも鴎外の欧州留学時代から、乃木の死まで密接な関係にあっただろう。
 さて「森鴎外、夏目漱石住宅」はごく普通の昔の住宅。平屋の建物。著名人、二大文豪が住んでいたことを除いては、特に見どころがあるのか、までは知らない・・・・。
 説明によると鴎外が先に住んでいる。その後に漱石が居住している。
 漱石は、当時高名な文学者で軍医の鴎外が住んだことを知っていて、ここに住んだのか?。それとも偶然なのか?、説明は無いので分からない。この住宅のかつての所在地は「千駄木」。この「千駄木」がポイントではないか?。
 その後、千駄木に鴎外は自邸を構えた(観潮楼)し、漱石は、当時東京帝国大学、第一高等学校が勤務先であったから、通勤に便利なので、ここに住んだのだろう。


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 作家になる前(つまり、一高や帝国大学講師?、教授?時代)に漱石は、鴎外と面識があったのかは、分からない。
 この住宅に住んだ時期・・・・は、説明によると・・・・、
 鴎外は、明治23年から一年余住んだとのこと。
 欧州留学から帰国して、(自己の意思に反して)ドイツからやって来たカノジョ「オンナ」と別れさせられ、親戚の西周のあっせんにより結婚し、明治23年に長男が生まれた。「舞姫」を発表したのは、同じく明治23年1月のこと。結婚中に、自分の体験かどうかは知らないが(笑)、「ドイツに留学していた間、ドイツ人の女性を妊娠させました。」という小説を発表したら、そりゃ、新婚の若妻(まだ十代・・・。)は仰天するでしょう。しかも、発表したのは、若妻の妊娠が判った直後ではないでしょうか?。
 鴎外が離婚をしたのは、この家に住む直前のことだった?。離婚の後に、(生まれたばかりの長男を連れていたのかは不明だが)この家を借りて住んだ推定。コレ(離婚して家を出て、どこに住むか)って、個人の生活レベルでみると結構重要ですね(笑)。

 漱石は、明治33年‐39年の日露戦争を挟んだ時期にこの家に住んだ。「吾輩は猫である」もここで執筆したそう。この後、漱石は帝国大学の職を辞めて、作家としてスタートする。当時の常識では、官を辞して新聞社に入社して作家となることは、考えられないことだったのでは?。漱石が、人生のまさにターニングポイントを過ごした家であるといえる。
 この住宅は、あの「猫」のくぐり戸など、当時の様子を残しているそう。
 いや~、文学史上、大変重要な住宅です。
 
  ↓ 庭に面した部屋。廊下がガラス戸になっている。建物の左に突出ししているのは、「厠」かな?。

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 庭に面した部屋の戸が開いていた。外から室内が見える。漱石の書斎であったのか?。
 漱石の写真バネルが展示してある。


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 玄関。内部に入らなかった。「入れなかった。」のかは忘れた。内部見学できるか、時間を決めてガイドはあるのか?、など明治村のウェブサイトには、私が見る限りは記載が無かった。現地や個々の保存建物に行って、表示を見るしか。ないのかな?。

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 「森鴎外、夏目漱石住宅」から木の中の歩道を下る。丘の下へ。この小さな歩道を「偉人坂」というそうだ。
 「偉人坂」を下ると、鉄道局新橋工場(明治天皇御料車展示)や二重橋飾電燈の前に出て、視界が急に開けた。目の前には、三重県庁舎が建っている。坂道を登って、正門へ戻った。




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