良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

記念館・資料館

 

JAICAプラザ横浜 ギャラリー 見学 (海外移住資料館 臨時休館中)

 JAICAプラザ横浜 ギャラリー 見学 (海外移住資料館 臨時休館中) 2020年2月29日

 横浜のワールドポータズにやってきた。駐車場に車を止める。いつもは混雑しているのだが、車はすいている。満車の状態から逆算すると、普段の土日祝日の1/5-1/6くらいではないか?。
 連れは買い物である。はて、俺はどこにて時間を消化させるかと考えた。近くには、以前行った日清カップヌードルミュージアムがあるな、と思った。一昨日の休校、休館発表の影響で多分、閉まっているな、とは思ったが、本当に閉館していた・・・・・。
 うーん、JAICAの海外移住資料館に行ってみようかなと。(多分、閉まっているぞと思ったが。)歩いてJaicaに向かう。普段の休日は歩道にも、人があふれているが、少ないな・・・。例の大観覧車のある遊園地もなんと、閉園していた。
 歩いて、海外移住資料館の入口に行ってみると、予想通り資料館は臨時休業・・・・。ただし、入口付近のエントランスのパネル展示は開放されていた。1階と2階のオープンスペースで自由に見学できる。JAICAプラザ横浜のギャラリーというそうだ。
 ギャラリーの脇の1階には受付のカウンターがあり、ここがJAICA横浜の受付なのだろう。老人の男性職員(非常勤職員かな?)と受付のデスクにすわっている女性が、来客がほとんど無いためか、ヒマそうに?、仲良さそうに?、おしゃべりしていた。
 「企画展示」「いまさらきけない、ジェンダー平等って!?」であった。

 ↓ 期間展示の告知。
 
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 私以外に見ている人はいない。
 外の通路は、人が往来している。赤レンガ倉庫も人出は少ないようだ。
 

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 主に1階のパネル展示を見た。2階にも展示はあるが、あまりみなかった。
 2階にある海外移住資料館は閉まっていた。「コロナウイルスの感染拡大をふまえ、・・・・2月28日から臨時休館」であった。
 ここには、レストランが附属している。食事を食べようかと主たが、ランチタイムは過ぎていた。
 
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 アジア、南米、アフリカなど地球上の地域での女性のおかれている現状についての解説パネルがあった。

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 インドでは報道されているように、女の子の誕生が喜ばれない、親が決めた相手と結婚する、夫の家族のために持参金を必要とする、などの習慣が根強いのですね。
 インド北部の農村地帯での暴力、差別についてや逃げ込める家の設置に関する解説。

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 南米パラグアイでの説明。「女性は家にいて家事をするもの」という考えが根強いのだそうです。スペインの植民地から独立した国家なので、意外に感じました。農地を開拓していく過程で、男は労働、女性は家事と子供の世話という習慣がついているのか、と思いました。更に女性も農業社会においては、労働力としての役割を求められているのだと思います。

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 同国での女性の生活環境向上支援に関する解説。

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 アフリカ・タンザニアでの若い女性の人生についての説明。
 19歳までに50%近くの女性が子供を産むと書いてあります。勉強をする機会に恵まれないため、親に生活を頼ったり(して自立が出来ず)、生活をしていくための知識や、お金を稼ぐための技術が無いという弊害があると書いてあります。


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 やはり、教育は大切なのですね。自分が教育を受けている間は、あまり意識しなかったのですが・・・・。いや、自分自身、今でも教育を受けていかねばならぬ(というよりも、自分で学習していかねばならぬ)立場かも知れない・・・・。

 JAICAを出て、ショッピングセンターに戻る。1階のフードコートはすいてる。以前食べた、沖縄のアイス店もあった。店内や付近には、若い人が多い。中学、高校生くらいの子が多いのだ。高校生カップルも来ているぞ。学校が終わった後で部活も中止になったからだろう。私立学校は土曜もあるだろうし。もっとも、月曜日からは休みであろう。今のうちに出歩いているのかな。これじゃ、休校にしても、意味ないぞ。ゲームコーナーも小さい子が遊んでいたし、中学生のグループもいた。通路のイスのあるところで、中学生の10人くらいの集団が皆、スマホゲームをしている・・・・。学校が休みになったため、ゲームセンター、シヨッピンク゛センターの無料で来れるコーナーが中高生、子供たちでいっぱいになるのではないか?。大型遊園地、行楽施設も閉まったし・・・・。これで、ウイルスの感染が拡大したらどうするのか?。
 












































































2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学6(最終)

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学6(最終)
 

 ここは、愛媛県松山市。「坂の上の雲ミュージアム」にやって来た。
 4階の企画展示室で、企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」を見学する。

 秋山真之の結婚写真などを展示しているケースの近くに秋山家の系図と親と兄弟姉妹の生没年の解説ボードがある。
 兄の「好古は三男で(のちに秋山家の)家督を継いだ。」と小説「坂の上の雲」で読んだが、本来、家督を相続した長男は、大正時代まで存命している。病弱で弟の好古が家督を継いだのだろう。
 次男も大正のはじめまで存命している。次男は、養子で他家に出た?。説明は見落としているかも・・・・。真之のすぐ上の兄(四男)は、養子に出た。確か、養子先の家は、横浜の貿易商の家だったと思う。四男は日露戦争の前年、明治36年に没している。
 秋山の5人の男兄弟では、三男、家督を相続した好古が、唯一、昭和時代まで存命、長男、次男、五男真之 らは、ほぼ同じ大正5年から8年くらいに没している。四男が一番早く死亡している。

 同じ室内の別の壁面の展示では、真之が死亡した屋敷の所有者 山下亀次郎の写真も展示してある。山下は 「秋山真之と親友であった。」と説明にある。
 療養のため小田原の山下邸で滞在し、同所で死亡している・・・・・。死亡当時、真之は待命中で、現役の軍人であったが、小田原で療養していたのだ。ともに同じ愛媛の出身とはいえ、真之は現役軍人でありながら海運商とも深い付き合いがあったのだ。
 この山下亀三郎の山下汽船の支店長であったのは同じ愛媛の出、石原氏である。有名な石原兄弟の父にあたる人物だ。山下、石原は、ともに南伊予、宇和島(かつては宇和島の伊達家領)か八幡浜(かつての大洲藩領)の出だったと記憶する。旧松山藩の出身ではないので、厳密には「同県出ではあるが、同郷(同旧藩)出」ではない。
 付言すると、真之は少将、中将の進級は同期でトップだったそうだ。少将のときには、海軍省軍務局長をつとめている。日露戦争後、大正時代には少将に進級したが、欧州に出張したときの写真があった。時代は第一次大戦前の時期かな。
 
 一通り展示を見た。入口までスロープ、階段をおりる。2階(実は3階)の三角形の吹き抜けの展示室下は、ギャラリーのようになっている。別の地元に関する展示がある。
 また、別の壁には、入館者がどこから来たのか、都道府県名のところに、シールを貼るようになっている。「シールのグラフ」をみると地元、愛媛からの来館が多いが、次に一番多いのは東京。ついで大阪、兵庫が多い。帰省の時期なので皆、地元に戻ってきているのだろうか?。
 松山からは、東京、ついで大阪に出ている人が多いのだろう。神奈川からの来館者シールも多く貼ってある、関東地方では埼玉、千葉の順番。北海道の人もいる。広島が意外にも多い。しまなみ海道で、海を渡った対岸だからかな。反対に、同じ四国でも高知県は、来館者シールの貼付けがゼロである。お隣、香川は数名いた。香川よりも、九州・福岡からの人が多い。福岡から帰省しているのだろうか?。大分から、フェリーで佐多岬まで来れるので、比較的簡単に帰省できる。

 1階(本当は2階)ロビーの出入口のところでお正月「ガラポン大会」があった。入館者は全員ガラポンが出来るという。参加賞が「お菓子すくい」である。私は「参加賞」に当選。アメとか、小さい個別包装のチョコをスプーンで、すくうことができるようなっている。係員は、おまけで落としたものも、袋に入れてプレゼントしてくれた。お年玉である。
 ツレは、全部で5等くらいあるうちの、三等位を当てた。が、古い「本」だった。子規の俳句関連の本であったが、初版が昭和47年だ。従って、掲載されている松山の街の様子の写真も古い。私の曾祖父(松山出身)が戦後(外地から引き揚げてきて故郷に)在住していた当時の風景だろう。
 係員の主婦のパートらしき「研修中」の腕章をつけた女性が「どちらから、いらしたのですか?。」と私にきいてきた。正直に「神奈川です。」と答えておいた


 坂の上の雲ミュージアムのチラシを観ると「四電ビジネス」の発行となっている。四国電力の関連会社が運営しているのか、市営なのか、ここの館は「市立」と書いていないので、ここ坂の上の雲ミュージアムの運営主体は分からない・・・・。

 帰ってから、ウェブサイトをみると 松山市(役所)に坂の上の雲ミュージアム管理する事務所があるので、建物は市立で指定管理者制度??のようだ。(違うかも。)

↓ 著名な建築家、安藤忠雄氏の設計。
 坂の上の雲ミュージアム の外観。2階の展示室内部、窓に面して「子規の白い像」の背中が見える。
 「坂の上」の青い空と白い雲が反射してガラスに映る設計のようであった。
 1階は、入ることが出来ない。2階が入口になっている。駐車場は障がい者等以外は禁止であった。
 一般車は駐車が出来ない。


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2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学5

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学5
 

 ここは、愛媛県松山市。「坂の上の雲ミュージアム」にやって来た。
 緩いスロープを昇った先に、平らなスペースがある。その脇に4階(見た目では三階)の展示室がある。

 ↓ 坂の上の雲ミュージアムの入館券販売機。館外にあった。
企画展示のポスターが掲示されている。

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 4階は、企画展となっている。弟、秋山真之に関連する企画展示である。昨年の2月から今年の2月まで一年間の期間展示である。
 館内に置いてあるパンフレットや(あとで見たウェブサイトによると)企画展は、開館以来、年1回開催しているそうだ。

 展示室に入ると最初は真之の生い立ちに関連する資料の展示。海軍兵学校時代の真之の成績などの展示もある。兵学校の「大試験」の成績表がある。それによると「愛媛県士族 秋山真之」の軍事関係や一般の学科の科目の点数が記載されている。英語も細かい評価項目になっている。英語の文法、構文もあるし英作文?、英文和訳もあったような。成績、つまり「席次」は「一番」である。
 真之は、ずば抜けた秀才であったようだ。成績表の順位は、活字で印字されているのでスタンプのように押したか、個人別に印刷したかのどちらかだろう。当時、成績表は順位の入ったものを生徒全員に配布さていたのだ。

 当時の海軍兵学校の写真の展示もある。広島県、江田島の学校の敷地の様子だ。写真を見ると校地は海に面しているのだが、その波止場には、船が停泊していて、校地内にあのレンガ造の本館が無い・・・・・。海軍兵学校は、明治22年に、東京の築地から江田島に移転したが、校舎が完成したのは、明治25年のことだったそうだ。それまで生徒や教官は、波止場に停泊した船にて起居したそうだ。グラウンドは広いが建物は少ない。工事中の様子であった。
(兵学校の当時の写真は、下の階の常設展示だったかも・・・。どこの展示であったか、忘れた・・・。)
 
 2018年11月に築地から、東京都の卸売市場が豊洲に移転した。盛んに築地の歴史もマスコミで紹介された。魚市場が築地にできたのは昭和時代にはいってからのことで明治維新以降、元々築地付近、は海軍用地だったのだと広く紹介された。海軍兵学校も元々は今までの築地市場の敷地にあったことが、広く知られるようになった。これほど築地の歴史がマスコミで紹介されることは、日本の歴史上最後であろう!?。以降、紹介されても小さい扱いかな??。(考え過ぎかな・・・。)
  
 続いて企画展示を見ていく。室内は三角形である。室内の真ん中に兵棋演習の平板と軍艦の形をした棋(駒というのだろうか?。)がある。傍らに黒板があり、状況を書いていく方法だ。兵棋演習についての解説がある。 
 演習部は2つある。統監部が1つ。演習は、青軍と赤軍で戦うのである。演習部が各自、10動までできる。つまり、10回運動できるという意味か。 「第5動××する」、「第6動 大砲を発射」のように、動きを紙に書いて貼っていくようだ。統監部が判定し、軍艦同士の砲弾命中や撃沈などを判定するようだ。各、演習部の間には、幕、衝立をして、互いの作戦は、わからないようにする。
 以上のような演習を真之が考えて?、教官として指導したそうだ。

 壁面のガラスケースの展示に「智謀 沸くがごとし」の書がある。東郷平八郎の書だ。もうひとつ東郷元帥の書があり、「秋山真之墓」の揮ごうだ。真之の墓の碑文で、墓誌はない?そうだ。揮ごうは、墓碑の原本で拓本をとって墓石に刻んだ。真之の実際の墓の写真のバネル展示があった。東郷元帥は、昭和時代まで生きたので、かつての部下、真之の早世を惜しんで、揮毫したのだろう。 
 真之の結婚写真も展示がある。結婚は、秋山真之36歳のときとかなり遅い。当時、宮内省に勤務していた 稲生氏の娘である。
 小説「坂の上の雲」によると兄の好古も結婚が遅かった筈。
 子息の秋山大の絵画の作品の展示がある。真之の子とのこと。すると、真之は、子息もちいさいうちに、死亡したことになる。末子は5歳くらいで(父、真之が)死亡していることになる。末子は、ほとんど父、真之の顔は覚えていないであろう、幼少期に死亡しているので。
 平ガラスケースに真之の海軍での辞令などがあった。「海軍中将 秋山真之」の名刺も、。シンプルに階級と氏名のみ印刷している。サイズは、現代の名刺とほぼ同じサイズか少し大きいかな・・・・。
 展示の説明文では、大正6年12月1日に中将に進級し、同日に待命となっている。同期ではトップの中将進級である。既に病気であったそうだ。待命なので実際の仕事はせず療養したようだ。
 翌年、大正7年2月に秋山真之は死去している。


 









2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学4

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学4
 

 ここは、愛媛県松山市。「坂の上の雲ミュージアム」にやって来た。

  緩いスロープを昇った先に、平らなスペースがある。その脇に中3階??の展示室がある。のぞいてみると、小さいが長方形の展示室があるので、入ってみる。室内には10人くらい見学者がいるだろうか。正月、早速見学者が来ている。
 この展示室は松山出身の「秋山兄弟と正岡子規の生涯」の展示のようだ。

 当時の松山の地図、風景写真がいくつかある。子規の家族や、秋山家の一族の写真が展示してある。
 展示としては、兄、好古の展示、説明ボードなどをみると・・・・・
 好古は、大阪の師範学校を出て、17歳らいで代用教員になった。其の後、士官学校に入ったという。士官学校の募集要項も複製と思うが、活字を印刷してあるものが展示してあった。要綱によると願書の様式は自由であるが、用紙に縦書きで府県 華士族平民の別、氏名を書き、生年月、住所も 書くようになっていた。
 更に身元引受人を2名書くようになっていた。自分のみではなく、他にも人が必要。現代の「保証人」ということではないようだ。「身元を引き受ける」人2名が出願に必要であった。それらの決まりに従って、作成された願書(複製??)も展示してあった。
 願書に記入する生年月日は他の誰かの証明が必要だったようだ。証明するのは、自分の入っている戸籍の戸主だったか、近所の人だったか?・・・・・。自己申告で戸籍を作成した名残であろう。テキトーに年齢を書いて出願する例も多数あったから。
 たとえば、森 林太郎という明治時代に出世した人物は、年齢を2歳くらい偽って当時の大学に入ったし。


 好古はフランスに留学している。久松家の殿様(旧藩主家のご当主)の留学に随行する意味もあったそうだ。この展示室だったと思うが、正岡家と秋山家の系図があった。子規の母の実家、大原家の父は漢学者である。このことはしられてるいる。大原観山という。正岡子規の叔父、加藤恒忠 (大原家から 加藤家に養子に入る) が当時フランスに 外交官として駐在していたので、好古と現地でも交友したと展示解説にある。好古と 恒忠は、ほぼ同じ年。松山の秀才は「正岡の恒忠か秋山の好古(当時の名前は違う)か 」といわれていたそうだ。


 正岡と秋山の両家の、藩政時代の石高の変遷グラフも展示してある。グラフでは両家の石高の推移を表示している。 60石くらいの正岡家は目付 ?身分で幕末まで変遷はない。
 秋山家は、3人扶持くらいで、石高は10石くらいだったか??。足軽よりは上の家格であるが、徒士身分。 しかし、父、久敬は藩政時代に昇進している。西暦の1847年くらいには40石くらいに加増。馬廻番か徒士目付だったかな。1868年か維新後の1870年くらいの廃藩直前期には、秋山家は60石くらいで、ついに正岡家と石高がならんでいる。
 司馬氏の小説「坂の上の雲」によると「・・・・秋山家は馬に乗れない身分であった・・・だから好古は軍で(歩兵ではなく)騎兵科に進んだ・・・・・」と書いてあったと記憶している。


 真之と子規が共に東京で通った学校は、大学予備門とある。当時の大学予備門の生徒の名簿が展示してある。名簿は活字で印刷されているのだが、芳賀矢一や南方熊楠が同級生であったことが判る。
 更に名簿を見るが「夏目」、つまり夏目金之助(漱石)、の名前は分からずじまい・・・・。名簿の別のページに名前があるのかも・・・・。それとも当時は「塩原金之助」の名前だったので、「夏目」で探していたので見落としていたかな!?。
 
 展示の説明には無いが、正岡(子規)の隣の隣に「平岡定太郎」の文字がある。出身地は「兵庫」となっている。
ハテ、どこかで見たことのある名前だ・・・・・・・・・・・。同じ苗字の人物に「平岡 公威」がいる。大蔵省(当時)に採用されるも1年足らずで退職した元官僚・・・・。「平岡定太郎」は、つまり作家 三島由紀夫(平岡 公威)の祖父であった。

 名簿には各科目の点数や合計の成績の平均点がかいてある。科目は、無機化学や、幾何学などだったかな。数学、物理のような科目ではない、もっと細かい科目。平岡定太郎は平均72.2点である。正岡は70.2。更に左のページに南方熊楠の名前 和歌山出身。南方の平均点は65点あまりで、同級生の中では高くない・・・。
 全体的には平均68~70点くらいの人が多い。すると三島由紀夫の祖父、兵庫出身の平岡定太郎は大変な秀才であったのだ。

 秋山真之と正岡子規に注目するのもよいが、作家、三島由紀夫の祖父「平岡定太郎」にもっと注目してもよいのではないだろうか?。

 更に隣りのガラスケース内には、明治43当時の愛媛県出身の軍人の名簿がある。日露戦争後の名簿。陸軍から書いてある。中将は2名いる。 騎兵監 秋山好古と仙波太郎 下関要塞司令官の名前がある。

 少将は1名のみで「歩兵12旅団長 小倉 恒吉忠道」とある。名前のような苗字であるが、この人物、子規の妹、正岡律の最初の結婚相手・・・・だった筈。展示の説明にはないが・・・・・。日露戦争終結5年後で少将の階級、出世しているでは、ないか!?。何がいけなかったのかな?。女にとって男は出世すればいいのではなかった!?。家同士の不和か、病気か??。

 大佐は 仙台 歩兵29連隊長が1名。白川義則(のちの張作霖爆殺事件当時の陸軍大臣だった人物であるが説明はない。)は静岡 歩兵第34連隊長である。
 名簿には、官職名とともに任地の地名が書いてある。
 中佐の欄に「歩伯」と書いてある人物は、かつての松山のお殿様のご当主、久松 定謨(ひさまつ さだこと)。
 つまり「歩兵」と書いてある。伯爵で「東京 歩兵第3連隊附」である。(近衛連隊附では無かったと思う。)

少佐 は、川島義之 独逸国 駐在(のちの二、二六事件当時の陸軍大臣だった人物であるが説明はない。)ら。

大尉は、東京 経理学校生徒隊長 櫻井忠温 などの名前。同じく説明にはないが、日露戦争後、旅順攻略戦を書いた「肉弾」で有名になった人物だ。

 中尉、少尉の人数は多い。各数十人はいる。


 次いで海軍の部が下にある。士官は大佐が一番上で、将官がいない。

××艦長 秋山と、××艦長 山路一善とある。
 この名簿が作成された背景には「明治以降になっても 旧藩意識があった・・・・・。」と説明がある。

 櫻井真清は 「第1艦隊参謀」とある。


 続いて展示を見る。真之、明治42年?? の元旦、年賀状には「恭賀新年」とある。「軍艦 音羽 秋山真之」と差出人に書いてある。村上×× 宛てのハガキである。
 子規の展示では夏目漱石の回想記の展示があり、「正岡は、なんでも大将にならないと気のすまないものであった。・・・・・・」と書いてある。子規の性格は、郷土の友人にたいしても、東京に出てからの友人に対しても変わらなかったようだ・・・・。すぐにイバる、ちょっと「俺様感」が強い人物であったようだ。悪く言えば「わがまま」かな??。
 妹、律なども含めた子規の家族の写真の展示があった。正岡子規16歳くらいのときの写真もある。友人と撮影した 上京直前の撮影だったかな。正岡氏の系図によると 外祖父は「大原観山」と強調されている。祖父は「松山藩第一の漢学者であったので文才が育まれた・・・・。」というような解説があった。
 加藤恒忠(拓川)は 叔父とはいうものの子規にとっては、年の近い兄のような叔父であった。




 ↓ 展示室は写真の左手にあった。
「順路」と看板が出ている。

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2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学3

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学3
  
 最初は展示は、3階のこの付近のみかと思った。「あれっ、展示室はこれだけかな?。」と多少不安に
 しかし、まだ先の別の展示室に続くスロープがあった。なんだかホッとした。スロープを歩く。

↓ 軍艦 ボロジノの模型とミュージアム内部の様子。スロープを歩いて上のフロアへ。
  コンクリートの打ちっぱなしのスロープの壁には、掲示物がある。

  
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 と、上の階の展示室に至るスロープの壁にNHKのアナウンサーであった松平定知氏の文章の掲示があることに気付いた。氏の直筆の文書のコピーのようで、団子のような丸まった文字で書いている。
 「・・・・松山市は私の本籍地であるが。住んだことはない。・・・・・。」と書いてある。「・・・・・徳川家康の異父弟の久松定康の子孫で、松山藩の殿様の分家の旗本の(松平氏の)出で、明治維新後、大名の本家は「久松」に復したが、旗本の家は「松平」姓のまま」だというようなことが書いてある。以前、NHKのニュースなどに出演していた有名な方であるが、確かに昔の大名のようなお名前である。ここ旧松山藩の殿様の大名家の分家の出身であったと知った。
 更に「10年前に102歳で亡くなった父は、陸軍幼年学校から士官学校にすすんだ軍人であったが、幼年学校の保証人に秋山好古大将になってもらったことを自慢していた・・・。父は軍人らしく怖い人だった・・・・。」と言う意味のことが書いてあった。
 松山の旧藩主の一族出身であり、父が秋山真之とゆかりのある著名人ということで、松平氏の文章をここ坂の上の雲ミュージアムに掲示しているのだろう。
 この文章が書かれたのは、いつなのか日付を私は覚えていないが開館した後の平成20年頃であろうか?。「10年前に亡くなった・・・」というと平成10年頃、氏の父は102歳の長寿で亡くなったと思われる。
   
 展示室に続くスロープを昇る。壁面には、小説「坂の上の雲」が連載されていた産経新聞の切りぬきがびっしりと貼ってある。上の方は読めない・・・・。
 実際には、スロープを昇った先の廊下に設置している机の上にファイルがおいてあって、すべての連載記事のコピーを閲覧できる。壁面の記事をパッと見たが、以前、私が文庫本で少しばかり読んだ部分の連載も展示されていた。
 机の脇には「トン・ツー」のモールス信号の電信機の模型が展示してある。「トトツーツー」とレバーを適当に押すと音が鳴る。傍らにモールス信号の五十音の「長短表」(正式名称は知らない・・・。)が置いてある。
 日露戦争の日本海海戦で世界で初めて無線電信が使用されたことにちなむ展示物なのであろう。
 例として「の」は、「・・--」であった。何かの本で読んだが、日露戦争後の海軍ではモールス信号を覚えるときに「の」は「ノギ・トーゴー」と覚えたそうだ。まさに「トントン・ツーツー(・・--)」だ。
 本物は、高圧電流で電波を飛ばすそうだが、模型ではその部分の機械は復元を省略している。
 高圧電流の部分、白い円形のガイシ部分は写真パネルのみの展示であった。 
 
 緩いスロープを昇った先に、平らなスペースがあり、その脇に中3階??の展示室があった。のぞいてみると、小さいが長方形の展示室になっているので、入ってみる。ようやく「展示室」らしい「展示室」があった。
 入口の手前には上記の通り、小説「坂の上の雲」が連載されていた産経新聞の切りぬき閲覧用ファイルとモールス信号の電信機の模型が設置されている。
 



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2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学2

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学2
 

 ここは、愛媛県松山市。松山城に行った。(旅行記は後述する。)
 次は、どこに行こうかと考えた。特に決めていなかったので、お城のロープウェイ・リフトの駅から徒歩で比較的近くにある坂の上の雲ミュージアム」に行くことにした。


 三階(入館した感覚では2階であるが、案内パンフレットによると3階とある。)に真ん中か吹き抜けの三角型、廊下のような展示室がある。「坂の上の雲」とは関係なく、当時の松山の昔の写真などの展示。かつての城下町の街の様子、路面電車の写真、城の写真、人々の暮らしの様子の写真パネルなどだったと思う。

 全面ガラス窓に面した、展示スペースがある。窓の外を見ると万翠荘がよく見える。途中、スロープの通路の壁には、原作者 司馬遼太郎の原稿の写しの展示があった。

 司馬遼太郎(以下、「司馬氏」)は、既に私が中学の時に配布された国語の資料集でも、小説「坂の上の雲」の冒頭の文章が紹介されていた。当時、司馬氏は存命であったから、当時から代表作であったのだ。私が覚えている限り、ドラマの放映にあわせて、文庫本も大々的に販売されていました。「坂の上の雲」は文庫本でも8巻くらいの分量だろうか。 私も一部は読んだことはあるが、全部は読んでいない。
 

 全面ガラス窓に面した、展示スペースは、当時の時代背景を説明する写真や年表のパネルが設置してある。
基本的に撮影は禁止。一部、模型などで撮影可能な展示物は「撮影OK」のマークがついている。

 乗馬体験コーナーがあった。「なぜ、乗馬」といえば「坂の上の雲」の主人公、秋山好古は「日本騎兵の父」であるからだろう。
 NHKのドラマでも好古は「日本騎兵の父」と盛んにナレーションが入っていたし。
 説明によると「日露戦争の当時、日本騎兵の乗っていた馬の多くは日本在来の種で(背の)高さは4尺寸、約140cmくらいであった・・・。」そうだ。
 日露戦争当時の日本の軍馬の高さを体感できるという訳。
 

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 ↓ 西南側の窓。松山市沖の島 興居島の沖にあった釣島灯台の模型。明治6年開設という。


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 絵葉書作成コーナーがあった。
 このミュージアムを訪れた感想などを書いて記録しようといなっている。
 秋山真之の似顔絵が描かれている。

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 展示スペースと大きな窓ガラスの様子。映像コーナーもあった。
 軍艦の模型は「ボロジノ」という。ロシアの軍艦の模型であった。バルティック艦隊で日本海海戦を戦った軍艦だった。 連合艦隊、日本海海戦といえば、戦艦 三笠が有名であるが、三笠の模型は無かった。現在においても本物の戦艦 三笠は横須賀市に保存されている。


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 年表などは撮影禁止だったと思うので、撮影していない。「明治35年5月19日 子規 没 享年×歳」、「明治38年5月 日 日本海海戦 連合艦隊 パルチック艦隊を破る。」、「昭和5年 月 日 好古 没。」のような時代順の歴史と正岡子規と秋山兄弟の生涯の年表。
 他の入館者は、熟年夫婦、三世代の家族連れ、帰省してきて久々会った友達同士なのか若い女の子の二人連れなどもいた。

 ここまで見学し私は「あれ、展示室はこれだけかな?。思ったよりも狭いな。」と思ったが、室内の壁に沿って更に上の階に向かうスロープ通路があることに気付いた。
  




2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」見学1

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学1
 

 ここは、愛媛県松山市。松山城に行った。(旅行記は後述する。)
 次は、どこに行こうか?、と考えた。特に決めていなかったので、お城のロープウェイ・リフトの駅から徒歩で比較的近くにある坂の上の雲ミュージアム」に行くことにした。
 
 ↓ 入口の門の正面を撮影。

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 坂の上の雲ミュージアムは、オープンが比較的新しい施設である。実は、松山の市街地の中にあるかと思ったが、観光マップを見ると、かつての松山城内の敷地にある。
 本当に、たまたま思いついて訪問しただけだが、「日露戦争」関連の人物といえば、前年の秋に学習院長「乃木希典」に関する展示会を見たな、と思い出した。

 ミュージアムは少し奥まったところである。表の道路側の隣のビルには、予備校があるようで、制服姿の高校生が自転車を駐輪している。正月から冬期講習であろうか。特に受験生は、正月どころではないな。

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 路面電車の通りを歩いていると、ブルーの「坂の上の雲ミュージアム」の看板があった。「坂の上」の青空をイメージした看板である。看板の先の敷地は、広々とした駐車場である。すいているなー、こちらに駐車できないかな、と考えた。。お役所の駐車場のようだ。正月休みなので、当番?、当直?以外の人の車以外は入れないので、もとより観光客は駐車できないようだ。
 路面電車が通っている道路の対岸(反対側)には三越がある。思い出したが、30年前はたぶんこの上階にあった食堂で食事をしたと思う。


 坂の上の雲ミュージアムは、NHKスペシャルドラマ(スペシャル大河といっていたかな??。)が放映されたので開館したのだろう。ドラマは、複数年に 分けて年末に放映されたと記憶している。大河ドラマが放映期間を短縮しての放送だったと思う。

 第一回のドラマ放送は、既に10年以上前だったと思う。

 (・・・・・・後日ネットで調べたら、2009から東日本大震災のあった年、2011年の年末までの放送だった。当時、私は震災のあった年の年末に、昔のお話のドラマとはいえ、軍艦で大砲同士がドカンドカンするシーンを大々的に放送するのは、どうかな、とも思ったものだ・・・・・。)
 当時マスコミ発表されていた視聴率は、10%なかった思う。時代考証、衣装、軍艦などのセット、CGなどには物凄く制作費を投じていたと当時視ていて感じた。その割に数字は、・・・・・、NHKで数字は関係ないか、それともあるのかな!!??。

 ドラマでは「・・・・弱肉強食の帝国主義の時代・・・」のナレーションがあったと記憶している。
 「この時代の国家は必ずしも国民の幸福を約束するものではなく・・・、・・時には血(命)による貢献(犠牲だったかな?)を求めた・・・・・・・。」という意味の「ナレ」も衝撃的だった。これは、司馬遼太郎の原作の小説「坂の上の雲」の中の作者の言葉だったと思う。
 国が国民の幸福を(無論すべてではないが、ある程度)約束してくれる現代日本は本当にありがたい・・・・・。今の時代に生きているボクは幸せだよ。

 坂の上の雲ミュージアムの近くには、万翠荘があった。もっと、城跡の平地にあるのかと思った。万翠荘は、以前からある観光スポットである。この記事のトップの画像を見れば判るが、入口の門が坂の上の雲ミュージアムと同じだった。
 門をはいってから少し緩やかな坂道を登り、入場券の自動販売機が館外に設置されているので購入、スロープを歩いて入館した。
 入ると エントランスとショップがある。先程入館前に歩いて通った道に面してカフェがある。
 スロープを昇って展示エリアに。



 ↓ 一面のガラス窓である。
   正岡子規の人形がある。机に座って書き物をしている。
   窓の先には、洒落た洋館の万翠荘が目の前に見える。



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 ↓ 万翠荘についての説明。
   お城の山の中腹にあった。地図で見ると、かつての城の二の丸の平地にあるのかと思ったが、誤解であった。

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 近代の洋館を、かつてのこの城の主であった大名家の当主が、近代国家の伯爵となり、住まい(別邸)として建てたのだった。万翠荘はレトロな建物。ここ、坂の上の雲ミュージアムの建物は全面ガラス張りの現代的な建物。万翠荘は「明治大正ロマン」、坂の上の雲ミュージアムの建物は「現代モダン」と対象をなしている。
 

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 拡大。中世の城のようだ。

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佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ、南へ佐賀人が道を拓いた」 見学6(最終)と肥前さが幕末維新博覧会

 2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ、南へ佐賀人が道を拓いた」 見学6(最終)と肥前さが幕末維新博覧会

  ここはかつての肥前の国、佐賀。「薩長土肥」のひとつ佐賀藩(肥前藩)の城下町。
   
  徴古館でも告知があり、同館から佐賀城本丸歴史館に移動の途中、「肥前さが幕末維新博覧会」のパビリオン?があったのだが「明治維新150年」ということで「肥前さが幕末維新博覧会」という博覧会を佐賀で開催していた。
 佐賀城本丸歴史館で見た特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ、南へ佐賀人が道を拓いた」もその一環の開催のようだ。

 特別展の告知看板と、玄関脇には大砲がある。
 アームストロング砲の模型 ↓
 

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 徴古館も佐賀城本丸歴史館も月曜日の開館がある、ということでやって来た。他の施設は月曜日は開館日でない(閉館している)可能性もあるし、時間の関係もあるので、、他の「肥前さが幕末維新博覧会」関連施設の見学は割愛することにした。
 会期は来年(2019年)1月14日の成人式の連休最終日まで。期間限定での開催であった。

 佐賀城本丸の門の内側。よーく見ると石垣に生えているツタ?が、「ハート」マークに刈り込みされている

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 駐車場の付近の広場にある先程も見た銅像は、鍋島直正公の銅像であった。
 本丸歴史館の説明員の方の話していた銅像は、これだったのだ。昨年設置された新しい銅像であるので、新しい。台座のコンクリートも真新しい。


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 明治維新150年、「肥前さが幕末維新博覧会」の開催にあわせて設置したと思う。
 
 佐賀城本丸歴史館の展示でも見たが、幕末の当主 鍋島直正公を特に強調して展示していたし、まさに「英主」と呼ぶにふさわしい殿様だったのだろう。
 佐賀が明治維新以降「薩長土肥」のひとつに数えられるようになったのも、藩主 直正公自身の果たした役割が大きかったのではないだろうか。
 「直正公と幕末佐賀藩」の銘文。
 本丸歴史館の玄関脇に模型があったアームストロング砲の事も書いてある。

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 銅像の脇には、反射炉や製錬所のレリーフ銅版がある。
 直正公の主導によって建設された施設であった。
 電波塔のある建物が目立つのだが・・・・。NHK佐賀放送局の看板が出ていた・・・。佐賀城のかつての本丸付近にあるのだな。本丸歴史館の駐車場の隣である。
 ハテ、ここには、初めて来た筈なのだが・・・、あれれれ・・・・・!?。

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 銅像の奥の電波塔というか、鉄塔が上にのっかっている建物は・・・・・・「あれれ・・・・!?、ハテ・・・・どこかで見たことがあるゾ・・・。」と思った・・・・。そういえば、最近テレビで見たぞ。何かのニュースかワイドショーで見たかな。
 ネットで検索すれば、情報がヒットするかも知れない・・・・・!!??。

 銅像付近から、北側を見る。写真左手に佐賀県庁の高い建物。かつての竜造寺家系の家臣の屋敷なとがあったところ。
 かつての城内なので、民家はあまり無いようだ。県庁をはじめとして、公共関係の施設が多くある。

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車に再び乗って、次は小城(おぎ)に向かった。
大幅に時間が超過してので、まだ昼食を食べていないし、時間もなくなって来たゾ・・・、と思いなか゜ら。





 






佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学5

 2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学5 (佐賀県  佐賀市) 

 
 今、私がいるのは、佐賀藩のまさにその中枢だった、佐賀城本丸だ。本丸御殿が復元された、佐賀県立佐賀城本丸歴史館を見学中。
 なんと、江戸時代の御殿の一部が残っていたのだ。先程見た御座の間は天保年間に建築され、ご当主、つまり殿様の鍋島直正(当時の諱は齋正)が実際に使用していたというのだ。
 昨年行った、名古屋城でも本丸御殿が再建されていたが、佐賀では、すべてが復元ではなく、江戸時代の当時の建物も再び元の場所に移築されて復元されたのだ。
  
 鍋島氏の宝物、文化財などを展示する「徴古館」を見学。10年ぶりに公開されたという、国宝「催馬楽譜」を見た後に、佐賀城本丸歴史館にやって来た。入館料は無料であった。
  
↓ 外御書院の様子。障子の向こう側が、入口から入って見る際の順路。


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 広い畳のスペース(つまり、昔の広間であろう。)もある。その内部の部屋にモニター画面が置いてあった。
 直正公と合成画面で記念撮影できる。
 写しだされて、一定秒数表示されるので、自分のデジカメなどで、モニターを撮影して、記念撮影をセルフで出来る仕組み。
 直正公と場所を合わせる(大きさをそろえて、隣に座る)ことが難しい。ボクは、直正公とかぶってしまった・・・・。


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 直正公と記念撮影できるモニターは、「からくりウィンドウ」という。

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 「からくりウィンドウ」を設置している廊下にも展示がある。

 牛痘を嫡子の直大に接種したときの絵図の展示などがある。大切な嫡子に敢えて、種痘を実施するとは、直正は、当時最先端の医学知識を持っていたのだろうか。当主と嫡子の健康状態と生死は、家、領地の存続に直結するし。特に幕末のこの時代は子の夭折が多く、養子が家を継いでいた例は多い。当時、最高の医療を受けていた筈の将軍家でさえ、跡継ぎ問題が起きていたし、将軍家、三卿の子の夭折も甚だしい。
 伊東玄朴の紹介展示がある。元々、ここ佐賀、神埼(現在の場所でいうと、吉野ヶ里遺跡のある辺りであろうか。)の出身で、長崎に遊学してシーボルトに教わったそうだ。

 佐賀領内で、現在でいう医師免許の制度も実施していた。江戸時代、医師免許・の資格制度が無かったことはよく知られている。弟子入りしてテキトー??修行を積めば医師(くすし、というのかな。)になれたが、制度化したのだ。当時としては考えられない先進的知見だ。

 鍋島家では直系での相続が続いていたのか、明治時代を迎えた直正(齋正)で第10代。父は、同じく在任が50年に渡った家齋から片諱を受けた9代の齋直。鍋島家は、養子が少なく、当主、世継の夭折があまり無かったことを意味するのではないか。特に他家や分家から養子をとるとなると、お家騒動にもなりかねないし。ほぼ直系、他家の血が入らない相続の成功は佐賀が、幕末に雄藩となりえた理由のひとつであろう。(だが、化け猫の鍋島騒動があったかな・・・・・・・。)

 更に廊下を進む。
 城の年表の展示があったと思う。幕末の唐津藩、幕末期の唐津藩や、長州出兵時における藩の立場を紹介?していた。
 幕末の対馬藩田代領の歴史とポサドニック号事件などを紹介していた。領地の図面のパネルが掲示されている。伊万里近くに浜崎領、鳥栖付近に田代領がある。小さい地域であるが、対馬 宗氏の領地だったのだ。先の徴古館、鍋島家の 領地のカラー地図の展示でも浜崎領と田代領は示してあった。
 特に浜崎領地は、海沿いの対馬への渡航の港になっていたのではないかと思われる場所。

 田代領は、13000石だったそう。ここには、対馬藩が代官を置いて統治していたそうだ。つまり、お代官様ががいた。長州戦争の攘夷のときに田代の代官は、なんと下関にて戦争に参加したそうだ・・・・・。
 対馬本島では、石高が1万石くらいしか、なかったのだろうか?。山がちであまり、米はとれなかった・・・、だから本土の肥前田代にも領地があって、合計で2万石くらいは、実米を確保したのだろう。
 対馬は「10万石格」なので、格式は10万石の大名と取扱いされたのだろう。よって、当主の官位は、通常、従四位下だっかな。
 ポサドニック号事件は、ロシアの船が開国後ではあったが、開港された港ではなく、勝手に対馬に進入してきた事件だったそう。田代からも出兵したそうだ。

 7人の佐賀ゆかりの人物の紹介パネルがある。「佐賀の7賢人」とタイトル。
 7人の中では、大隈重信が一番有名かも。他の賢人、佐野常民などと並び、田中久重の写真と紹介があった。 からくり人形の作者として有名で、東芝の源流企業の創設者の一人でもあったと記憶する。
 君主では、直正ただ一人。副島種臣、江藤新平もいる。佐賀の乱で敗れて、死刑になったのは、江藤だったと記憶する。


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 展示室の廊下は、行き止まりなので、引き返す。別の展示室に。

 最後は、鍋島直正に関する展示がある。佐賀藩といえば、「直正」が最も偉大な領主なのであろう。直正の写真の展示がある。写真は、複数の種類がある。直正は、色々と自身の姿を撮影をさせていたのだ。写真原本は、先に見学した「徴古館」も運営する、公益財団法人鍋島報效会の所蔵とある。
 撮影年もはっきりしている。しかし、先のパネルの写真にしても直正公は、姿勢があまりよろしくない・・・・。しかめっ面で、あまり健康的ではなさそうだ。内臓のどこかに病気がありそうな。下顎が出ていて、面長の顔。戦国末期に生きた家康のように顎が張って頭がい骨の骨格がガッチリとしている感じが無い。直正は、戦国の世の武将の直系子孫であるが、平和な時代を経て、貴族的な顔立ちである。出ている下顎は、どこかハプスプルク家の君主 カール5世やフェリペ2世を思わせる。
 
 直正は、実に開明的な諸侯であったことがわかる。装束姿の横の立った写真もあるし、有名な正面からの座った裃の写真(先にパネルで設置してあった。)もある。当時の大名の姿を伝える重な写真である。
 直正が藩政改革でつくらせた反射炉などの解説もある。色々な模型などの展示もある。反射炉で鋳造した大砲の砲身をくり抜く機械の模型の展示もあった。
 韮山の反射炉の展示室でも映像を流していたな。

 ここ本丸歴史館の見学者は、私達の他に年配者が数名いた。もうすこし若い人もいたが、平日ということで、おばあさんか老夫婦が中心。70歳以上のおばあさん二人連れもいたし、70歳以上と推定されるおっさん1人もいた。更に、盛んにデジカメを撮っている(展示物の接写は禁止だが。)、白髪のじいさんがいたり・・・・。40-50位と思われる主婦らしき人もいたが。


 「葉隠」の紹介もあった。今さらここで書くまでもないが、アノ有名な言葉は「・・・・・死ぬことを賞賛するものではなく、 死を覚悟することで生きることを大切にする・・・・。」という解説だが・・・・。本当かな・・・・・・?。
 現在感覚では このような表現しかできないだろうよ・・・・・・。当時の思想をそのまま書いたら、人権無視となってしまうだろうし・・・・・。
 山本常朝の口述の解説も展示してあった。常朝は、晩年、金立(きんりゅう)の庵に隠せいしたそう。庵を訪問した筆者が、7年間常朝のもとにかよい、筆記したのが「葉隠」。
 金立は、現在の佐賀の市街地の北、高速道路にも「金立サービスエリア」がある。「きんりゅう」と読むので、珍しい地名だな、と思っていたが、ここに隠棲したのだなと理解。佐賀平野を見下ろす、山の中腹に庵があったのだろうか?。確かに風光明媚だな。

 展示を見て、玄関に戻る。
 順路の最初にある琉球服姿の「アンドロイド人形」の前は誰もいなかった。先程は係員が集まっていたので、通過したのみだったが、美しい黄色い衣装をまとって、案内の音声を話していた

  ↓ 玄関付近の撮影可能場所。 

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 と、受付のところに、中国人の子供連れの家族がいた。母親らしき女が2人くらいいる。複数家族で来ているようだ。大きな声で話をしているので、すぐにわかる。どうして、平日の昼間に子供連れで来ているのかは、解からない。旅行であろうか、それとも未就学の子を連れた在住者?か。中国語の音声ガイドを借りているようだ。

 結構長く見ていたので、時間がなくなってきた・・・・。早く昼食にしたいな・・・・。

 玄関を出ると、強く雨が降っていた。冷たい雨だ。「冬の到来だな~。」

 ↓ 本丸御殿の玄関部分、拡大。雨が強くなっているので、画像にも写っている。
 うーん、改めて本丸御殿の玄関を眺めると、先に展示していた明治初めの撮影によるかつての御殿と同じだ。
 再建時、地中の遺構保護のため数十cm床を高く復元しているということだが、実に忠実に復元されている。


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 元々30分くらいの予定が1時間以上見学していた。想像以上に展示が充実していた。特別展のパンフも立派であった。
 ツレ「結構 ボリュームがあったね。最低でも入館料100円はとってみてもいいよね。でも、税金で全部運営しているのだよね。」と言った。
 寄附金は募っていたが、確かに無料ではありえないくらいの充実した施設であった。最低でも大人200円くらいはとってよいと思った。 高校生以下は、教育のため無料でいいかな。

 ↓ 本丸御殿の展示室などがあった部分の拡大。展示は行き止まりになっていたので、建物の先端部は、事務室などになっているようだ。
  確かに床面が高い。

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 ↓ 本丸御殿の玄関部分、拡大。
   入館時は、係員の方が立っていたので、いないときに撮影。
       玄関脇に、当時の佐賀藩で製造された?と思われるアームストロング砲の模型がある。


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 ここ佐賀城本丸歴史館に来たのは、月曜日も開館している施設だからであった。たとえば、太宰府の国立博物館は月曜閉館だし。佐賀市内にも他の施設はあるが、月曜に休館の施設はまたの機会に行くことにしよう。
 再び門をくぐり、駐車場に戻った。

↓ 石垣には、ハートマーク


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佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学4(本丸 御座間)

 2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学4 (本丸 御座間) 

  

 特別展の展示を見てから、廊下に戻る。入口とは反対側、通路の先には、更に離れに進むような廊下がある。

 廊下を進む。先の映像のスペースもある部屋とは反対方向。廊下の途中、新旧の建物の接続部がある。廊下の先は、古い木材と漆喰のような白い壁。現代建築のような真っ白い壁ではない。昔の建物の白いくすんだ術。
 特に柱の木材の質感というか、年代が再建建物と違う。
 ここから先が、江戸時代 佐賀藩時代の建築による小御殿だ。(と思ったが、あとで確認すると「御座間」だった・・・・。)。名前が似ているので紛らわしい・・・。でも、奥の居室というか、昔の殿様の私的スペースということで・・・。
 先の展示室の解説の通り、江戸時代の建物が遺されていのだ。

↓ 現代の復元御殿と江戸時代の建物の接続部分。手前は障子などの木材が古い。

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 ↓ 床面の復元御殿と江戸時代の建物の接続部分。柱などの木材部が古い。

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  廊下に会った説明。 ↓ 「密集していた建物群」とある。
  先程常設展示室(御三家座だったかな・・・・、もう名前を忘れたよ・・・・・・。)で見たが、本丸御殿の玄関部分とこちらの小さい御座間との間の空間には、小屋、物置のような建物がいくつかあったり、雑草や木が生えていたり、あまり管理されていないような様子だった。
 幕末か明治初めの頃の撮影だったろう。
 現在は、コンクリートの打ちっぱなしで、白い線を引いて昔の建物跡を示していた。

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 江戸時代の建物の廊下を進む。
  畳は新しい。

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  「御座間 堪忍所」の案内。
   昭和32年まで小学校の作業室?、公民館の広間として使用されていた・・・・、などの由来が書いてあった。


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 更に 廊下を進む。天井や障子の上部の様子。特に装飾は無く、普通の板張り天井である。質素な建築。
 天井は高い。3.5メートルはあろうかと。当時の男子でも平均150cm台くらいの平均身長だった筈なので、かなり高い。しかも、この建物が建築された幕末期は日本の歴史上、一番身長が低かった時代だというし・・・。

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 先の展示でも写真がたくさんあったが、この小御殿は直正の時代、天保年間の建築の建物。当時の玄関などの主要建物は復元の建物だ。天保年間で1850年代の安政年間の建築ではなかった筈。
 今から180年位前の建物。国の文化財には指定されておらず、佐賀市の指定文化財となっている。
 常設展示の城に関する年賦や廊下での標識では、この小御殿は、近代に入って一旦移築されて、小学校の作業室?、公民館の広間などで使用されていた。が、平成に入って佐賀城の本丸御殿を復元する際に再びここかつての場所に移築したそうだ。

 ↓ 廊下の突き当り。
左手が、広い畳の部屋。特に展示品や詳しい解説がある訳ではない。保存されている昔の部屋を見学するというコンセプト。

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 部屋の東の端にも別の間がある。


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 御座間の上座には、鍋島直正の写真パネルが置いてある。
 恐らく等身大ではないかと思われるパネル。身長155cmと仮定して、正座するとこれくらいではないか。

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 ここは、江戸時代の末期の建築ということもあってか、国ではなく、市の指定文化財だ。 しかし、貴重と思いまう。かつての大名の城の御殿の遺構であるから。
 部屋の下座から見る直正(当時の諱は、齋正)公。本当にここに直正公が座っていたのだろう。家臣は皆「殿!」と呼んだのだろうか。
 手前の家臣が控えると思われる間の畳は、「横」に敷いてある。

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柱の説明ボード。
本当に直正公が使用した当時の御殿という。柱には、当時の「御座間」「堪忍所」の墨書があり、移築する際には接ぎ木して、再利用したという。


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 障子についての解説があった。詳細は忘れた。

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 廊下を戻り、再建の御殿の建物に再び戻った。
 本丸御殿は80cm高く建築したというが、昔の建物も同じ高さで、畳の廊下に段差やスロープは無かった。


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佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学3 

 2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学3 (佐賀県  佐賀市) 

  副題が、とても長い企画展が開催されていた。入場は無料。
  「肥前さが幕末維新の「志」 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」は、会期が2018年11月1日~2019年1月14日まで。歴史館の中の一室での開催であった。
  
 ↓ 特別展「肥前さが幕末維新の『志』展-北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」のパネル。


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 廊下を進む。更にいくと映像の スペースもある。
 その先の 奥まった部屋に廊下を進む。更にいくと 映像のスペースもある。
 更にその先の奥まった部屋に。企画展(特別展)のこの部屋は撮影禁止と書いてある。

 ※特別展はここの部屋のみの開催。他は常設展示なので、後日の投稿でもよいが、まとめて投稿することにする。


 佐賀藩の出である、島義勇と齋藤用之助に関する展示。
 両名とも知らない・・・・・のだが・・・・。この特別展についての立派な写真入り解説パンフレットが置いてあった。無料で配布されていた。

 島義勇は、明治維新後に開拓使の役人になった。判官という官職。鍋島家の当主、直大ではなく、隠居であった鍋島直正(齋正の徳川からの諱は返上)が開拓使長官になった。
 直正は、蝦夷地に赴任したのではなかったが、家臣の島は、赴いた。札幌の街の今でいう都市計画に携わった。碁盤目状の街並みの計画は、島の計画が後年、そのまま実行されたというような解説があった。

 札幌の鳥瞰図などの展示があった。

 開拓判官から、(転勤の)命令で東京に移った。実際に北海道に在任したのは、1年くらい。東京に戻った後、侍従にもなっている。
 のちに、官は辞めて、佐賀の乱で敗れて斬首されたという。
 直正は、明治に入って早々に没しているし、開拓使長官に任命されたときは、既に病身ではなかったか。先の徴古館での展示を見ても、直正は徳川時代の末期から、病気がちであったというし。東京に戻った辞令は、かつての主君であった直正が没したからではないか?。


 江藤との書状の展示がある。副島種臣の賛文がある、島の束帯姿の肖像画がある。副島は、同じ佐賀の人で、政府の高官となった人。物凄く、太い、筆で賛文を書いている。
 のちに島は、明治22年大赦されて内乱罪はゆるされたと年表にある。

 島の写真の展示があったが、公家のような束帯姿てある。

 転じて、南に・・・。

 鹿島の旧藩主、鍋島直彬は初代沖縄県令となったそう。洋装の直彬の写真の展示がある。
 次の県令は、更に大藩であった旧米沢藩の当主、上杉茂憲であった。尚氏琉球の後、沖縄県が設置され、サ初期の県令が続けて旧大名家の当主、つまり華族だったことは、あまり知られていないのではないか?。(知っている人は知っているが。)

 藩士だった斎藤 も沖縄に赴任したそう。那覇に9年在任、のちに島尻郡長となり、こちらは16年沖縄で在職したという。
 「島尻郡長」の辞令があった。「依願免本官」の辞令で、退任のときのものだ。大正時代の辞令だが、当時まで郡長という官職があったと知った。辞令には、「内閣総理大臣 伯爵 大隈重信 宣」とある。同郷、佐賀の出身の当時、首相、伯爵であった大隈の名前があった。

 齋藤は、鳥島の噴火から島民をすくったと解説にある。島が噴火したので、島の住民を避難させたそうだ。
 今でも沖縄の人から感謝されているそう。
 鳥島は鹿児島と思っていたが、沖縄の島であった。当時の鳥島の図面があった。
 沖縄の島で火山の噴火とは意外であった。どうしても、沖縄はサンゴの穏やかな景色の島を思い浮かべてしまうので。
 島と齋藤の特集展示であったが、両名は、30歳以上年が離れている。
 島は明治7年に死刑になって没しているが、齋藤は大正時代まで仕事をしている。
 

 幕末から近代の初めに日本の北と南で活躍した佐賀藩人の展示であった。

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 展示室は御小書院という部屋であった。当初は小さい部屋の復元ということで、「小御書院」と誤解していた。ややこしくて、正式なかつての部屋の名前が理解できないよ・・・・・。
 江戸時代は、藩主と御三家の当主が面会した部屋だったそう。つまり、側近との面会の部屋であったようだ。

 御小書院近くの廊下。映像コーナーに続く廊下だ。
 時間が無いので、映像は見なかった。ソファがあり、座って映像を見たり、休憩できるようになっている。

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 ↓ 本丸御殿の前に設置されていた、特別展の告知看板

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佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学2

 2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学2 (佐賀県  佐賀市) 

  副題が、とても長い企画展が開催されていた。入場は無料。
  肥前さが幕末維新の「志」展-北へ南へ、佐賀人が道を拓いたは、会期が2018年11月1日~2019年1月14日まで。歴史館の中の一室での開催であった。
  常設展示の方がスペースは広いのだが、まとめて先に記事を投稿することにする。
 撮影については「展示物の接写は禁止」とあるので、廊下や広間などの撮影しかしていない。

 ↓ 順路の廊下に進む。


 と、廊下に人形??があり、袴姿の女学生姿の女性係員がいた。明治文明開化のような絣の着物と袴姿(つまり、大学短大の卒業式で着るようなお着物)の女学生の衣装なので、厳密にいうと、当時の佐賀城にはこのような姿の女性はいなかったと思う。もう一人同様に袴姿の女性係員がいた。
 彼女たちも含めて、職員らしき私服の人も集まって人形の前にいる。アンドロイドの人形のようだ。人型ロボットというのかな。
 アンドロイドの前で、係員達が撮影している。アンドロイドの人形は、沖縄の衣装を着ている。集まって何か話をしている。アンドロイド自身も何か案内のような話をするようだ。
 
 周囲に職員がいるので、このときは、よく見なかったし付近でも撮影はしなかった。
 帰宅後、あとでウェブサイトを見ると、この日から、衣装をかえたらしい。

 見学したこの日も、帰りに改めて、アンドロイドちゃんの前に行ってみた。「ようこそ、佐賀城・・・・・に。私は・・・・で、・・・」と説明と自己紹介をしていたかな??。
 (覚えていないので・・・、テクトーに話したと思われる内容を記載・・・・。)
 私が館内を一巡して、入口広間に戻ってきたときは、昼の時間帯になってしまったので、袴の係員の人も、他の職員もどこかに行ってしまっていた。入口広間から、すぐの廊下の入口付近にいるアンドロイドの前で廊下の風景を撮影した。

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 さて、廊下を進む。特に展示はない。畳敷きである。
 
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 内側の部屋は「外御書院」というらしい。
 玄関から近い部屋。公式の儀式用かな・・・。床の間もある。

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 廊下の突き当りの部屋は、再現された部屋であるとともに展示室であった。
 「御三家座」という奥の部屋。鹿島、蓮池、小城の大名扱いである鍋島の御三家の当主が控える部屋であった。
 常設展示の部屋である。順番に見ていく。
 室内の壁には、昔の佐賀の絵図の掲示がある。絵図を見ると、街の北側には、ちょこんとローソクのように つきでた町がある。「唐人町」とある。先程徴古館で車を停めていた場所の更に北側だ。周囲は水路や田畑だったよう。
 城下町の郊外、現在の徴古館からまっすぐ北に佐賀駅へむかう途中にあった。中国から、呼び寄せた唐人を住ませたそう。よって「唐人町」となっている。現在の佐賀市の地図を見ても、たしかに同じ町の名前が残っている。
 
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 モニターでの画像もある。昔の城や城下町の解説画像。城の南東には、五重の天守もあったそうだ。今いる本丸の所だろうが、天守閣台の石垣は来る途中、解からなかった。
 昔の絵図の中に塔のような建物が描いてある。お寺かなと思ったが、天守らしい。今いる本丸の南東部分には、東御殿という別邸の敷地がある。隠居の当主の御殿のようらしい??。最初は別邸かと思ったが、すると現在は別邸のナントカ園というかつての大名庭園が遺されているのではないかと思ったが、現在東御殿は跡地は、現在の佐賀市内の地図と比較すると残っていないようだ。
 城下町の絵図を更に見る。佐賀の町屋割もかいてる。先程の徴古館の展示とも重なる。
  御殿の設計図も展示してある。(実物ではなく、複製かな・・。) 平成に復元したときの建築中の写真の紹介とその図面も展示してある。
 城下町のお城の付近の 高級武士の屋敷の町割りも掲示している。家の名前も書いてある。大名扱いなのに 鹿島、小城、蓮池の三家の鍋島家の屋敷もたしかに佐賀城下、二の丸、三之丸にある。(先程の徴古館の展示とも重なる。)ここ、かつての御三家座の復元部屋は、その御三家の控えの間だった訳で。

 本丸は絵図によると、比較的、佐賀の街の南東にかたよっている。城のお堀の内側、現在の県庁付近など、北に三家の屋敷があり、南側の堀の先は、家臣の屋敷街。


 御殿の地下を発掘したときの展示もある。再建に際しては、遺構保護のため、本来の御殿よりも、床下を80cn高くつくって再建しているそうだ。
 地層の上にコンクリをしいて昔の礎石を保護し、更にその上に復元の御殿の柱をおいているそうだ。
 城の歴史の年表の展示もあった。御殿再建まで、年表に記載されている。昔は、竜造寺氏の城のあとで、その遺構のあとに江戸時代の鍋島の城を築いたと。
 徴古館の展示でもあったと思うが、竜造寺氏はすべて鍋島など別の氏にかえている。しかし、屋敷は、かつての竜造寺氏の城跡、先程通って来た、現在の県庁の付近、博覧会のパビリオンがある付近など城の北側にあった。
 壁面には、かつての本丸御殿の古い写真も掲示されている。ホントに今いる復元の御殿と同じだ。御殿のうち、一部の建物は当時のものが残っているらしい・・・・。ホントだろうか?と思った。すると、この先の順路に昔の建物があるのかな?、と思った。

 室内、奥の壁側のガラスケース内の展示は、本丸発掘の際に出土した陶磁器の破片、瓦、軒先の瓦などが展示してある。

 地下は一部 見えるようになっている。 一部の床面をガラスをしている。

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御殿建築の構造についての解説。
本丸御殿の再建でも、ほとんどは、江戸時代の建築工法で建てているそう。


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 この常設展示の部屋は「昔、外御書院といったらしい。その名の通り、御殿の橋の小部屋である。」と誤解した・・・・。先の大広間が、外御書院であった・・・・・。「」

 公式行事以外には、通常の藩の政治に関する事務作業、書類作業などを藩士が広間で行ったのかな?。


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佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ、南へ佐賀人が道を拓いた」 見学1

 2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ、南へ佐賀人が道を拓いた」 見学1 (佐賀県  佐賀市) 

  ここはかつての肥前の国、佐賀。「薩長土肥」のひとつ佐賀藩(肥前藩)の城下町であった。
  現在は佐賀県の県庁所在地 佐賀市になっている。佐賀市内は2010年8月以来の訪問だ。
  
  公益財団法人鍋島報效会 徴古館(ちょうこかん)を見てから、車で移動する。堀をわたり県庁の横を通りお城の堀の内側に。つまり。、かつての佐賀城内であり、現在は付近には、公共施設がある。
 民家は、ほとんどないようだ。ただし、途中、ビルの1階部分にセブンイレブンの店舗があった。
 途中、「肥前さが幕末維新博覧会」のパビリオン?があった。先の徴古館でも告知があったが、明治維新150年ということで、「博覧会」を佐賀で開催しているようだ。
 

 佐賀城本丸歴史館に移動した。なぜ、ここに来たからというと、この日は月曜日で公共施設はお休みのことが多いからだ。佐賀城本丸歴史館は開いている。徴古館も特別展開催中だからか、月曜日も開館していた。(他の期間は開館日が異なるかも知れないが・・・。)

 佐賀城の一角に無料のPがあった。警備員がでている。車を停めて大手門を入ると、すぐ右手に復元したかつての、佐賀城本丸御殿がある。駐車場所から、少し城の敷地を歩くとおもっていたが、近かった。門を入ってすぐに、見えた。
 石垣に囲まれている。かつては、ここが佐賀の政庁で、奥御殿もあったろう。そうすると、藩主の側室などもこの石垣で囲われた区域で生活していたことになる。
 門を入ってすぐの御殿なので、「あまり、戦闘には向かないなあ。」と感じた。門を破ったら、すぐに御殿。兵がはぃってきたら、マジですぐに落城だと少し心配に・・・・(笑)。
 いくさ用ではなく、その名の通り、領主一族の生活用御殿と領地の統治を行うための場かな・・・。
 
 

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 本丸歴史館に入る。入口には、案内のブルーのジャンパーを着た女性係員がいる。くつをぬいで、下駄箱に入れて、畳の広間に。広い入口だ。玄関広間の復元が、そのまま歴史館の入口になっているのであろう。
 平日、しかも小雨のパラつく、初冬の寒い日とあってか、見学者は私達以外にほとんどいない・・・・。
 入口付近には、係員が数名する。「あれっ」と思ったが、入場券を販売する受付はないようだ・・・・・。「i」マークのインフォメーションはある。iのカウンターで「受付はどこですか?。」と私が聞くと「無料です。ここで 音声ガイト゛は貸し出しはできます。」という回答。なんと、入場無料であった。

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 玄関の様子。隣は、学校のようだ。

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 門を入ってすぐに、御殿。

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 「史蹟 佐賀城址×門」の石碑。以前からあるふるいもの。
 真新しい 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ、南へ佐賀人が道を拓いた」の告知看板もある。


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 順路があるようなので、入口の広間から畳の廊下に進む。






鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学5 (国宝 催馬楽譜 公開) (最終)

 2018年12月 鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学5
 (国宝 催馬楽譜 公開) (最終)

  佐賀市 公益財団法人鍋島報效会 徴古館
 「徴古館」が登録博物館としての名称であるが、この記事では便宜上「鍋島 徴古館」とタイトルに記載する。
 
  徴古館で10年ぶりに公開された国宝 催馬楽譜を鑑賞した。
 一階の展示室を見て行く。展示室はものすごく大きいわけではない。入口を入ってすぐに、国宝展示の独立したガラスケースがあり、その奥には、鍋島家で収蔵していたであろう、ボンボニエールが平のガラスケース内に展示されていた。

 先の記事にも書いたが、展示室奥に向かって、左手には 蒸気機関車の模型があった。大きい模型だ。隣に、蒸気汽船など、江戸末期から明治時代の初期にかけての文明の利器の展示があった。展示室奥、正面ガラスケースには 明治時代の舞踏会などて着用していたと思われる洋装のドレスの展示があった。女性用のドレスは150cmないくらいの身長と体格の女性が来ていたと思われるドレスだ。つまり、先に写真の展示ボードがあった佐賀藩最後の藩主にして、鍋島侯爵家の初代当主、直大の夫人、栄子の着用していたドレスであろう。
 佐賀藩主 鍋島家に秘蔵されていた、初代藩主 直茂の鎧(甲冑)は二階に展示されていた。対して、明治時代の当主夫妻の着た洋装のドレスは、一階での展示だった。

 つまり、最初に見るように言われた二階の展示は主に江戸時代のもの。佐賀領主(藩主) 鍋島家の展示。一階は、時代が変わって、近代、明治時代の 鍋島侯爵家の展示のもの。
 まさに今回の徴古館の特別展のテーマ「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」を体現しているではないか!!。
 

 一階展示室、奥へ向かって、右手の壁のガラスケースには百武兼行?、筆による、鍋島直大侯爵の大礼服姿の肖像画の展示がある。百武は、鍋島家の分家の末裔であり、明治時代に入って、洋画を学んだそうだ。

 一通り展示を見た。と、受付の青いはんてんを来た係員の女性が、お茶を出してくれる。受付の横にあるテーブルでお茶を頂く。平日ということもあり、入館者は少ない。私達以外には、地元の佐賀弁で話す老婦人とその娘(50-60歳位か)らしき家族と老夫婦くらい。テーブルの上には、カゴがあり、個包装のあめがある。自由に食べてよいそうだ。私は、お言葉に甘えて、黒糖のあめをもらう
 徴古館の図録、書籍などもテーブルにおいてある。そのテーブルの上でお茶を飲む。
 ツレと「〇〇さま(さる高貴な方)のご実家の母方は、江頭姓で、江頭氏は佐賀の人、海軍の軍人だった筈だよ・・・。」などと佐賀関連の話をする。
 ツレは「×××(とある、化学会社)の人だと言うことしか知らないな。」と。江頭××(芸能人)も、たしか佐賀だったね。」「そうだよ。」など話していると、先ほどの係員の女性から「どちらから、いらしたのですか?。」と聞かれる。(先程、入館時の駐車場のことも含めて)九州の言葉で話していないので、地元ではないなと気づいたのだろう。しかし、私は無難に「福岡です。」と適用に答えておいた。
 ツレは特に反応せず。(他の入館者の)おばあさんと二人連れも テーブルについてお茶をもらう。


 1時間くらい見学していた。11時40分頃、なぜか、私に携帯電話の着信・・・・・・・。会話のため一度、木戸をあけて外に出る。隙間があいているので展示室内にも、電話の声が入っているかも。

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 電話の後、もう一度 扉を押して展示室内に入り、目の前の国宝 催馬楽譜の展示を見て退出する。
 徴古館の玄関。 ↓ 催馬楽譜は入ってすぐに展示されていた。


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 玄関前の車寄席。 と駐車場の様子。

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 ↓ 鍋島徴古館。西側から。
  特別展の懸垂幕がかかっている。奥には、佐賀藩の藩校「弘道館」の記念碑がある。


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 藩校「弘道館」の解説。 かつては、ここ 現在の徴古館付近にあったのであろうか?。
 詳細は・・・・、確認していない・・・・。

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鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学4 (国宝 催馬楽譜 公開) 

 2018年12月 鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学4(国宝 催馬楽譜 公開) 

  佐賀市 公益財団法人鍋島報效会 徴古館
 「徴古館」が登録博物館としての名称であるが、この記事では便宜上「鍋島 徴古館」とタイトルに記載する。

  一階展示室に戻る。入口の正面ガラスケースに展示されている国宝「催馬楽譜」を見る。その名の通り昔の音楽の「楽譜」のようだ。この前京都で見た陽明文庫の楽譜のようなものかなと思った。

 ここ徴古館の入口の扉は、二重になっていない。押し引き両方に開く木戸の扉方式なので、風に吹きさらしになると、開いてしまうのだ。この日は、曇天、冬の初めを思わせる寒い日である。風か゜ぴゅうーと吹くと本当に扉が開く・・・・。すぐ正面に国宝が展示してあるのに大丈夫かな?、と心配してしまう。

 徴古館のパンフレットによると、国宝「催馬楽譜」の公開は10年ぶりのことだという。
 伝宗尊親王筆、平安時代の作品。
 展示されている場面を見る。本のようになっていて、途中のある1ページが開いて展示されている。
 傍らに「催馬楽」と書いてある後世に制作されたと思われる表紙カバー本が立てて展示されている。

 「鷹子 

   安波川女知也・・・・」

 と書いてある。「鷹子」はタイトルである。歌のタイトルのようだ。改行して、続いて歌詞と思われる言葉が書いてある。意味が解説に書いてある。

 「鷹の子は、私がもらいましょう。公達殿よろしいか?」というような問いかけの歌詞だ。

 「たかのこを、現在の大津市付近の粟津の御地(御料地)にいる鶉を(自分の)ものにしてよいでしょうか?、という問いかけの歌。ちなみに、「鶉」も現在の漢字ではなく、万葉仮名でかいている。「宇津楽」のような優雅な漢字三文字だったかな?。


 次いで「道口」というタイトルの歌だった。

 「女」という文字は、「めしや」の「め」ような発音の文字として記されている。「鷹の子」の歌詞の中の文字「御地」(おんち)は「男×知」だったかな?。場所、地名を指す発音でも、万葉仮名の文字を使用して、現在の地名に近い漢字の文字を使用していない。だから、漢字を追っていっただけでは、本文なのか、地名なのか、判読が困難だ。

 文章中「知」の文字は「ち」と読ませている。「也」は、現在では「なり」という表記で使用すると思うが、そのまんま「や」と読ませているようだ。
 これらの女、知、也の文字は文中、「鷹の子」「道口」の両方の歌の歌詞にも多様されていた。文章には現在の大津市粟津を流れる川の名称も記載されていたと記憶する。さすがに「安治川」のように、末尾が「川」の地名、つまり「かわ」は「川」と現代と同じく文字を用いてた。
 「万葉仮名を使用している・・・」と説明にも書いてある。

 特別展の案内チラシに画像の掲載がある場面では、「ない」ところの展示だった。↓
 展示場面はページ替えを定期に行っていたのかは、不明だ。


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 国宝「催馬楽譜」は「直大によって もたらされた。」と説明にある。元々、鍋島家の伝来ではなく、明治時代の当主、鍋島直大が集めたコレクションのひとつようだ。直大は、宮内省の式部官を長年務めたこともあり、雅楽などの音楽をこのんだそうである。宮中の儀式を司るため、日本古来の音楽に関する資料を収集する過程で「催馬楽譜」を入手したのだろう。 
 すると江戸時代までは、雅楽を司る公家が代々所蔵していたのだろうか?。展示の説明を見たところでは、書いていなかった。妻、栄子の実家、広橋家などの関係か、宮内省式部長(部署は式部寮?)での仕事での関係か?。
 展示場面の文字を見ると、大変丁寧に記している。しかし、親王の筆によるものではなく、書風が当時の代表的なものであり、大変な能書家によるものであることには、間違いないようだ。


 直大の式部官の辞令が展示されていたことは、既に書いた。直大は、明治時代に駐イタリア大使となってローマにわたっている。先の記事でも書いたが、(後妻の)栄子とは、(栄子が)イタリアに渡ってから結婚したと説明が書いてある。「・・・・男一人では、外交官という仕事がら支障があるため、早急に妻を求めた・・・・。」そうだ。最初の妻は イタリアで死亡した?かは、分からない。そこまで、詳しく説明は読まなかった。

 国宝を見た後、改めて二階への階段の登り口近いところに展示してあった、式部官の辞令を見る。イタリア大使から任を終えて帰国後、直大が任命されたときの辞令であった。

 
 「正三位 勲二等 侯爵 鍋島直大 任 式部長

 「天皇御璽」

 宮内大臣 従二位 勲一等 子爵 土方久元 奉」
 とある。
 現在の宮内庁では「式部官長」という役職がある。「式部職」のトップである。辞令は「式部長」なので現在とは官職名が少し異なる。

 一階の展示室を続いて見ていく。国宝の展示ケースの奥側は、ボンボニエールなどの展示がある。 

奥に向かって、左手のガラスケース内には、蒸気機関車の模型がある。大きい模型で、入った瞬間に目に入る、目立つ展示である。

特別展の案内チラシの拡大撮影画像。↓
この現物が展示してあった。


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鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学3

 2018年12月 鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学3 (佐賀県  佐賀市) 

  公益財団法人鍋島報效会 徴古館を見学する。案内パンフレットによると「佐賀県初の博物館」という。
  「徴古館」のみでは、何の施設が分かりにくいため、記事のタイトルは便宜上「鍋島徴古館」と表記する。

  
 ↓ 鍋島徴古館 特別展のパンフレットの拡大。直正から娘の貢姫への書状が写っている。
    展示室の室内は撮影禁止である。

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 二階の展示室内、奥の突き当りのガラスケースの展示物を見た。そして、右手の壁面のガラスケースを見る。そこには、嫁入り道具のような鼈甲の道具の展示がある。
 続いて、直正(当時は、齋正の諱だった。)の娘、貢姫の刺繍の展示がある。直正から娘の貢姫への書状もあった。色模様のある和紙に書いている。 のびやかな文字の書状だ。娘を気遣うような書状であった。「やさしいお父さん」が「大切な大切な、かわいい娘」に送っている手紙のようだ。

 明治以降、貢姫は東京に再び住んだようだ。貢姫は、(川越の結城)松平直侯にとついだが、6年で夫と死別して、その後23年ぶりに佐賀に帰ったと説明がある。貢姫が佐賀に帰国したのは、1868年頃のことだったか。
 幕末の混乱期だったから帰国できたのであろうが、この時代に家を差し置いて、実家に呼びよせることが可能だったのか?。すると、夫を早くに亡くした娘を直正は不憫に思い、お家が第一の封建時代においても、敢えて実家に戻したということか。子供を思う親の愛情は実は封建時代も現代も変わらなかったのかも知れない。

 1863年に藩主の正室も、在国が許されたので(例の文久の改革のためだろう。)、直正の正室は領国の佐賀に入っている。正室は、田安(徳川)斉匡の娘 筆姫。
 最初の婚姻、将軍 家齋の姫君との話は書いていない・・・・・。「将軍の姫君との婚姻」といえば「赤門」である。東京大学の赤門(つまり、家齋の姫 溶姫の婚礼)が有名である。 直正も赤門を造営している筈だが、赤門は造作したかは分からない・・・・・・正室の没後に解体したのか、のちの時代に失われたのか。
 掲示している年表では「直正が6歳で将軍の娘と婚約した。」と言う表示だ。溶姫の異母姉妹との婚礼なので、佐賀藩の江戸屋敷にも赤門は造営した筈だ。
 しかし、将軍 家齋の姫君、直正(片諱を賜って当初は、齋正)の最初の正室は、37歳くらいで姫は死亡している・・・・・。次の正室 筆姫の父、斉匡は、将軍 家斉の弟。「田安」といっても、実は一橋家の出で、あの松平定信が養子で出た後、定信の実家 田安家の明屋形を継いだ人物。

 齋匡は、意外にも長命で70歳以上まで存命している。幕末の(一橋治齋系)田安家、興隆の基礎となった当主であろう。福井に養子に入った松平慶永は 齋匡の子で、筆姫と兄弟であるし。明治時代以降大正、昭和期の当主、16代目家達もこの田安家の出、齋匡の子孫であるし。

 直正の家族で出かけた様子の文書の展示もある。 
 「(佐賀に来て)3ヶ月経つのに奥方はどこにも出かけない・・・・・。」と。奥方(筆姫)は、当然ながら江戸の生まれ育ちだった・・・・。嫁いだ後も、鍋島家の江戸屋敷で生活し、いきなり、幕政改革の結果、正室の在国が可能となり、佐賀に下ったので、さぞ、江戸との違いに驚いたであろう・・・・。
 その後は「・・・・・・・・・・・・神野のお茶屋に出かけた・・・・・・・・・・・」などの書状。現在の神野公園にあったお茶屋屋敷に出かけたそうだ。コシに乗り、お供の家臣、女中などを引き連れての行楽であつたろう。
 正室 筆姫の実の姉(異母姉妹の姉)が、佐賀のお隣りの柳川にいたそう。つまり、田安家から、立花家に嫁いでいた姫がいたのだ。よって領地の境界線の筑後川で会うことになったと、当時の役人の書状がある。 
 柳川藩と協議して舟の中で合うことになったそうだ。
 直正が、佐賀に帰国すると子供達もあつまって、花見?などに出かけたという記述もある。個々に(書状に)出ている子供というのは、正室が生んだ子供ではなく、側室なども産んだ子供のようだ。複数いる子供の誰が母親なのかは、展示の解説には無い。
 直正の隠居後も正室 筆姫は、佐賀に住んだが、(維新後の)直正の死後、未亡人の筆姫は、東京に出ている。
 当時は一夫多妻なので「家族で外出」といっても、現在の家族のように、お父さんとお母さんと子供達で仲よく外出、お出かけ、レジャー、という訳ではなかったろう。家族の在り方か当時と現在では異なる。
 
 直正は、30年間当主であって、その後、隠居して直大に譲っている。48歳のとき「閑叟」と号して、江戸を出て、佐賀に入ったようだ。後妻の正室、つまり田安齋匡の娘 筆姫は、直正よりも17-18歳くらい年下らしい。直正は、最初の正室(将軍 家齋の娘)と死別後、37歳くらいで再婚している。後妻の正室 筆姫は18歳くらいで鍋島屋敷に入り3年後に婚姻したそうだ。
 年表によると 直正は幕末のころ体調を崩していたそうだ。明治時代に入って、江戸(東京と改称)で58歳でなくなっている。評は「惜しむらくは、病気がちであったことだった。」と誰かの回想記にあった。

 母方のいとこの島津齋彬も聡明であるが、晩年は病気がちだったようなので、正室の子は貴族育ちで体があまり丈夫ではないのでろうか?。遺伝かも?、と思った。

 特別展のパンフレットの拡大。貢姫の刺繍などの展示品がある。 ↓

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鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学2

 2018年12月 鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学2 (佐賀県  佐賀市) 

  公益財団法人鍋島報效会 徴古館を見学する。案内パンフレットによると「佐賀県初の博物館」という。
  「徴古館」のみでは、何の施設が分かりにくいため、記事のタイトルは便宜上「鍋島徴古館」と表記する。

  
 ↓ 鍋島徴古館 2階展示室の階段の踊り場、展示室前の廊下。
   撮影可能のパネルがあった。最後の藩主で、明治時代の侯爵 鍋島直大の夫人の栄子の写真ボードだった。「ながこ」と読む。ふりがながふってある。「えいこ」ではない。


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  佐賀藩、最後の藩主、明治時代の侯爵 鍋島直大の夫人の栄子の写真ボード拡大。
 ↓ 等身大かな。写真中の人物の高さは150cm弱。当時の女性の平均身長くらいではないだろうか。

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 展示室に入る。室内は撮影禁止である。監視のおじいさんがいる。奥には、机をおいてある一角があり、女性の職員がパソコンをみている。パーテーションで区切って、パイプイスを置き映像コーナーもある。
 最初は、幕末の藩主、直正を中心とした佐賀藩や鍋島家の紹介。(映像コーナーとのスペースを区切る)パーテーションには鍋島家の系図が展示されている。
 直大の夫人は、最初は梅溪氏の娘。妻が亡くなった後、次に再婚しイタリアにきたのは、室外の廊下に撮影可能の写真の掲示があった栄子(ながこ)。栄子は、広橋氏の娘。説明によると、妻を亡くした直大と結婚するため、イタリアに渡航したそうだ。梅渓、広橋とも京都の堂上公卿の家である。
 栄子の娘が、有名な伊都子、のちに梨本宮妃であった。イタリアの首都、ローマの生まれなので「伊都子」。直大の嫡子、直映は先妻の娘。直映の妻は、公家ではなく、大名の旧福岡藩主 黒田侯爵家から娶っている。すると、鍋島家も黒田家と同様、小田原に屋敷を構えた閑院宮と縁戚関係があるのかな??。

  鍋島朗子は、旧加賀藩の前田利嗣の妻。その一人娘がなみ子(漢字がでない)。先に、金沢の成巽閣の展示でも見たが、養子をとって一族の出の利為と結婚している。成巽閣の展示で知ったが、利嗣は、早くに亡くなっているし、子もなみ子一人だけで、男子はいなかった(早世している子はいるかも知れないが)ので、元々病弱であったようだ。

 直正の嫡子、直大の母は、系図では(私が覚えている限り)判然としない。直正の正室の子だったのか、側室の子であったのかは、忘れた。直正の母は鳥取 池田家の娘である。正室の子であり、つまり母方では、島津齋彬といとこにあたる。 系図ではそこまで解説があったかは不明(撮影禁止だったので、忘れた・・・・・)。

 続いて展示を見ていく。系図を見て、ふりかえって二階の室内、向かって左手には鍋島家と佐賀藩に関する年表が壁に掲示してある。領地の地図も掲示している。
 説明によると佐賀藩は「 石高は36万石で、全国の大名で10番目に石高の大きな藩だった。」そうだ。一番目は「加賀 100万石」の前田家、系図にもあるように、直大の娘は前田家の当主 利嗣に嫁いでいる。もっと大きい石高の大名があったと思ったが、「10番目」とは意外と上位である。(列挙すると前田、島津、伊達、尾張、紀伊、細川、黒田、浅野、毛利、鍋島だろうか?。近い石高に井伊、鳥取池田、福井松平かな・・・。)

    
  鍋島家には、三家と四家老 (親類) 親類同格などの家があり、その他の上級家臣の領地が地図に示されている。「三家」は、鹿島 小城 蓮池である。地図で見る領地の広さでいうと蓮池が筆頭かな?。次に領地が広いのは、小城。
 藩主の直轄地の表示もある。佐賀の東側、現在の吉野ヶ里遺跡の南、柳川近くにかけての地域は、藩主の直轄だったようなかんじ。領地の境界線は、丸く曲線で入り組んでいる。肥前の鹿島家だったか、領内内で飛び地もある。鍋島家の領地内に、他の藩の領地もあり、なんと「対馬藩の田代飛び地領」もある。対馬は、本土にも領地があったのだ。何カ所の村が、対馬 宗家領とされたのだろう。


(このあと見学した佐賀城本丸歴史館の展示では、竜造寺の城のあとには、そのまま竜造寺の子孫の家系の屋敷があったと。現在地の 地図でいうと、城の北西だから、堀端の県庁のある付近かな。村田、鍋島という家名で竜造寺という氏を名乗っているのではない。)


 「三家は 大名扱いだった。」とは説明はなかったと思う。皆「鍋島氏」ではなく、地名が家名になっていて、地名で呼んでいたようだ。ちなみに「武雄鍋島家」もある。 以前、武雄で同家の当主が造営した庭園(御船山楽園)を見たことがある。


 展示品を見ていく。パーテーション近くのガラスケース内には、重文指定のお皿があった。大きい皿が2個あり、共に重要指定である。彩色があり、大変カラフルである。
 下は、特別展のパンフレットの拡大。展示されていたお皿と思う。もっと、赤や緑が鮮やかな皿だったような記憶もあるが・・・・。

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 室内の中心にある平らなガラスケース内には秀吉の朱印状がある。 朝鮮出兵のときもので文書中には毛筆で「小西・・・」と言う文字。「小西行長が、先陣して、どこどとを 占領したので援護に行け。」という文書。ただし文章は秀吉の直筆ではないようだ。祐筆が書いて、秀吉の印鑑を押している感じ。

奥のケース内、

 緑色の鮮やかな 屏風絵がある。狩野尚信の絵。山と松の図。室内には鎧があったような。初代の鎧かな。
「直正も見た 甲冑」という表示だった。直正の集めた 食物、鉱石の展示もあったような。まだ整理がされていないようなコレクションか。{ 展示は、1階ではなく2階だったと思うが、詳細は忘れた。鉱物は1階だったかも?。 }

 鉱石は、数段の箱になっていて、細かく分類されている。包み紙には、鉱石についての説明も個々に書いている。別冊子で、箱の内部の どの区画に、どれがあるか、細かく書いてある。鉱石などの塊が展示されている。粉末の水銀の展示がもる。赤い粉である。当時でいう朱であるか。つまり、保存料である。朱は、死体の保存にも使用されていたはず。食べ物も保管されている。ほとんどは、くさってしまっているだろう。 
 鉱石は海外産のもとがほとんどという。薩摩など国内採取のものもあるそう。 包み紙に集めた地名も書いている。金鉱石もある。直径5cmくらいの小さい鉱石の断片だ。黄色がかっている。硫黄があるように見えるが、石英のような白黄色い筋が通っている。


 更に、右手の壁面のガラスケースを見ていく。

 展示のポスター ↓

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↓ 徴古館の建物は登録有形文化財であった。

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鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学1

 2018年12月 鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学1 (佐賀県  佐賀市) 

  ここはかつての肥前の国、佐賀。「薩長土肥」のひとつ佐賀藩(肥前藩)の城下町であった。
  現在は佐賀県の県庁所在地 佐賀市になっている。佐賀市内は2010年8月以来の訪問だ。
  
    ※公益財団法人鍋島報效会 徴古館は便宜上「鍋島 徴古館」と表記する。
 ↓ 徴古館の建物 正面

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 まずは、道のりから。福岡から車で移動。電車(博多駅から特急)でもよいが、車の方が便利と思ったので、高速道路経由でやってきた。佐賀大和インターでおりる。このインターは、去る5月にも佐世保、黒島方面へ行く途中に通過したので、半年ぶりだ
 一般道を市内へ向かう。信号にかかったり、交通量が多かったりで、意外と市内まで時間がかかる。
 「そろそろかな~」と思いつつ運転する。と、お城の堀の水面が見えたので、左折する。道路を直進する。お堀沿いの道路だ。石垣があり、堀の内側に県庁の建物が見える。立派な高いビルだ。道路の左手は、警察本部がある。交差点の信号で停まる。と、左斜め前の先に目指す鍋島徴古館がある。
 鍋島徴古館の目の前を通るが、目の前の駐車場(P)は「満車」の赤いランプがついている・・・・。その先には神社があるが、整理係が出ていて、停めてはいけなさそうな雰囲気・・・・。既に12月なのであるが、遅い七五三のようだ。
 神社の先を左折する。迂回して、鍋島徴古館の裏手から入ろうとするも、同館のPの入口は、分からない・・・・。道に沿って水路がある。佐賀は、水路が多い。郵便局の横手を通り信号で待つ。信号が長い。また、同じ道を通るが同館の前の満車だ・・・・。確かに建物の 前には車か多数停まってっいるが、この日は平日なのだ。さほど混雑していないのに変だな、と思いつつ通過。先程通った、同館のお隣の敷地の神社の奥にはPの表示があり「空」の緑色のランプが見えたが、通過してしまう。再び裏手の細い道を通る。水路の横の小路になっていて、再び車で通る。仕方無い、たまたま一般のコインPが、あったので停める。先ほど停めようとしたところだった。 これが10:45分頃のこと。結局、10分くらい鍋島徴古館の周辺を車でウロウロしていた。近くには「バルーン博物館」があるようで、看板が出ていた。付近には、銀行のような建物がある。佐賀は「気球」のイベントでも有名だからだろう。
↓ 鍋島徴古館近くのコインP。昔の屋敷の門が残っていた。かつての屋敷跡のPだ。
  かつてあった、屋敷の説明の解説看板もあった。

 

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 「徴古館 150m」という表示がある。水路の橋を渡り、先ほど車でも通った細い道を歩き、徴古館に歩く・・・・。空地のようなところに、県庁用のPがあった。車はほとんど無いのだが、管理人小屋があるので、勝手に停める訳にはいかないです。
 鍋島徴古館はPの敷地の中に建物があるような感じ・・・・。Pは広い・・・・。何故、満車だったのかな?。隣には 郵便局があるので、ここのPにも、赤い郵便車両が何台も駐車している。どうやら、郵便局の契約Pになっているようだ・・・・。しかし、空いている駐車スペースもあるので、表示機械の故障かな・・・・?。

↓ 鍋島徴古館前の駐車場の様子。

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 鍋島徴古館 特別展 「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」
 第4期 11月6日(火)~1月14日(月・祝)の会期中である。注目すべきは「月曜日でも開館している。」
ことだ。しかし、年末年始はお休み。
 開館時間は9時30分~18時と長い。夏に訪れた東北地方では、博物館などの施設は、夏でも16時には閉まってしまうところもあった。西国 九州では、東京に比べると日没時刻が遅い。12月上旬は、一年でも最も日没時刻が早い時期だ。冬でも18時まで開館しているのは、訪問しやすい。

 公益財団法人鍋島報效会 徴古館。案内パンフレットによると「佐賀県初の博物館」という。
 財団法人は、鍋島家伝来の文化財などを保護、管理するために設立されたのであろう。先に訪問した金沢での旧藩主 前田家由来の財団法人は「前田育徳会」である。前田家の家臣 本多家の博物館も見学したが同家由来の財団法人の運営であった。

 徴古館の玄関にやって来た。くつを脱いであがる。木製の扉を開けると、すぐに受付がある。入館料は一人400円だ。
入ると、すぐ目の前は、展示スペースで、受付との区切りのトビラはない。正面、目の前には、独立したガラスケースが設置されている。近づくと、ガラスケースの中には国宝「催馬楽譜」の展示であった。
 
 青いはんてんを着用した係員の女性がいる。「駐車場は?。」と聞かれるが、私は「満車だったので停めていない。」というと「確認します。」と奥の部屋に行ってしまった。一旦、行って再び戻ってくる。実は「満車でも入ることができる。」そうだ。小さいが「徴古館に行く人は停めてください。2時間無料となります。」とPの入口の脇に看板に書いているそうだ。運転しながらでは、しかも初めてでは、分からないな・・・・。係員が立っていることもあるらしいが、先に通ったときには、いなかったと思う・・・・。ここのPは、お隣の敷地の神社の駐車場ではないようだ。係員の話では「徴古館用に駐車スペースをとっている。」と。道理で先に見たところ、スペースがあいていた訳だ。
 
 入館する。入館の半券をみせると別の施設が割引になると。受付のところにある告知によると、佐野常民記念館なども割引になるそうだ。「佐野常民記念館 ここから車で15分」と表示してある。
 世界遺産の、例の「三重津海軍所」も、その近くだった筈。今回は、時間がないので、次回柳川などのついでに 来ることが出来たらよいかな。
 (しかし、ここにも落とし穴があった。時間が無いので、柳川方面には行かなかったが、あとでウェブサイトを見ると佐野常民記念館は月曜日休館だった。この日は、平日、月曜日。うっかりすると、行ったのはよいが、閉館・・・・となってしまう。)
 
 入館の際に「二階から先に見て。」といわれた。一階の受付近くにあった、鍋島直大が明治時代に務めた「式部官の辞令」の展示を少し見て、二階の階段をのぼったところに撮影可能のパネルがあった。最後の藩主で、明治時代の侯爵 直大の夫人の栄子の写真ボードだった。

 ↓ 鍋島徴古館。西側から。


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学習院大学史料館展示室 「学び舎の乃木希典」 見学4(最終)及び乃木希典関連建物 見学

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学4(最終)
 及び乃木希典関連建物 見学

  目白にある学習院大学史料館を見学した。

 小さい展示室であったが、30分弱見ていた。見学者は、途切れることなくやって来ていた。私が入室した時点では、やや太った40歳~50歳台くらいの女性が先に見ていた。そのうち、次いで、フード付のコートを着た小柄な50歳くらいの男性が入ってきた、。男性は、すぐに出て行き、私よりも先に入室していた女性もやがて出て行った。次に、テニスウェアらしき恰好の男子学生。茶髪の兄ちゃんである。ここの学生?でテニスサークル所属?らしい。練習のついでに寄ったらしい??。男子学生は、熱心に見て、アンケートも書いていた。

 私は「オリジナル乃木ハガキ」は入手しなくてもいいや、と思ったのでアンケートは書かずに退出した。

  学習院大学史料館展示室の平成30年度秋季特別展は「学び舎の乃木希典」のタイトル通り、現役軍人ではあったが、日露戦争の後の時期の「学習院院長としての乃木」に関する展示が中心であった。
 明治天皇の大喪という国家の非常時に、学院の最高責任者である院長が突然、自決して死亡し、職務を遂行できなくなってしまったことは、当時の学習院にとっても世間への影響以上に大事件であったろう。 

 学習院の敷地内には、乃木の起居した建物が保存されていた。
 案内看板も設置されていた。


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 乃木は院長時代、「総寮部」に起居したそう。展示でも説明があった。
 現在の乃木神社に隣接している乃木邸が、あくまで当時の自宅であったが、帰ることは月に1-2回、おおくても数回程度??だったようだ。
 共に殉死した静子夫人は、普段は学習院ではなく、赤坂(麻布かな)の自宅にて生活していたのであろう。
 
 旧総寮部は乃木館として保存されている。2009年に登録有形文化財に指定。
 説明には、乃木が院長になった後、学習院に全寮制を導入した、とあるので、寮(寮部)のすべてを統括するという意味で「総寮部」と名付けたのかな?。「寮本部」というべき場所かな。
 生徒にとっては、寮で寝るときも、常にほぼ四六時中、院長が一緒にいたことになる。  

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 実は、最初に展示室を見学に行ったときは、展示室が休みであった・・・・。開館日を勘違いしていた・・・・。
 よって 後日出直しした。
 閉室していて、悔しいので、乃木関連の建物だけ、先に見学をしたのだった・・・・。

 ↓ キャンパスの様子。最初に行ったときなので、季節は秋なのに緑が濃い・・・・。


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学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学3

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学3

  目白にある学習院大学史料館を見学した。展示は三つの章に分かれていた。
 「一章」教育者となった乃木希典
 「二章」武課教育と修身教育の充実
であった。限られたスペースの室内なので、実は展示の順番通りに見ていない。
あとで展示リスト見ると「乃木大将などの軍服」は「二章」であるが、先に見てしまった・・・。

 「三章」は終章であり、殉死についての展示である。

 遺書の展示がある。
 遺書には、9月12日の0時とある。自決は、翌日9月13日の20時過ぎなので、前々日の深夜か。「12日」というよりは、11日の夜に書いたものであろう。
 文章中に「明治10年2月22日に、軍旗を失ひ・・・・・死・・・得・・・・」と書いてあるのが読める。「明治10年の役」とは書いていないようだ。
 乃木神社の遺書「遺言条々」よりも、見にくい字だ。文章中「皇恩」と読める一段上げる文字は一か所だけある。「本来はもっと先に死に場所を得るべきだったが・・・、皇恩に浴したので・・・・・今まで得ることができなかった・・・・・」という文章であろうか。
 ただし、乃木神社の遺言と内容は似ている。有名な、死亡当日、自宅前で撮影している乃木の写真は、コンノート公への贈呈のためだったそうだ。また展示の遺書には「・・・・養子の弊害・・・・・」と読めると箇所がある。絶家にしてほしい旨、寺内に依頼いているのであろう。遺言の文章に見る限りでは戦死した乃木の二人の息子を示す「両典」の文字はない。
 宛名は、寺内盟兄と末尾にある。当時の長州閥の同僚、寺内正毅に宛てたもの。封筒も展示されていて、それには「寺内陸軍大将殿 親展」と書いてある。
 
 ↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 遺書は、自分が接伴員、随行員を務めていた、コンノート公へのものもあったようだ。
 先のイギリスの国王戴冠式の際にイギリスに同行した、坂本海軍中将への遺書も展示している。「坂本 中将閣下」と宛名には書いてある。
 「・・・・コンノート殿下・・・ マクドナルド大使閣下?・・・」なとが読める。恐らく、コンノート殿下に対して申し訳ありません、接伴員の務めを果たすことが出来なくて、マグトナルド大使にもお詫びを・・・・」という内容であろう。マグトナルド大使は当時の日本駐在イギリス大使の名前らしい。
 長州閥のボス、乃木を引き立てた最大の人物、山縣有朋関連の展示はなかった。
 
 室内の柱には、乃木の殉死を批判した志賀直哉の文章が掲示してある。「・・・・・死んだそうだ・・・・・。」という、冷ややかな書き方。以前、志賀直哉の著作で見たことがあるかな・・・・?。その10年くらい前まで、学習院に在籍していたから、乃木には直接教えられた事はないはず。
 当時の新聞記事のコピーも展示してあった。展示の説明にもよると「森鴎外や夏目漱石の作品にも影響を与えた。」とあり、乃木の殉死に影響を受けた著書、著作の名前がいくつも書いてある。
 当時、乃木の死にあたって、森の軍医としての役割はないようだ。殉死した当時の陸軍省医務局長は森 林太郎であったが、最高階級にある現役軍人の急な死亡においても、森が直接検視をしたのではない模様。森に宛てた遺書はないらしい?。戸山の軍医学校か衛戍病院で軍医が現在の司法解剖のような解剖、検視は実施したのであろうか?。

 乃木夫妻の葬儀の写真も展示している。コンノート公も参列したとある。明治天皇の大喪に英国を代表して参列したが、まさか自分の接伴員であった乃木の葬儀にも参列することになると思わなかったであろう。
 遺書を展示しているケースの反対側のガラスケース内には、ラベルのはったワインの空き瓶がある。明治天皇から下賜されたワインで、最期の杯を乃木が静子と交わしたワインのビンとの箱書きがある。
 箱書きは、ずっとあとの時代の昭和11年5月の日付。空びんである。箱に墨書している。箱書きしたのは「海軍少将 御堀××」とある。なぜ、昭和11年に至って箱書きをしたかは、不明。 

↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。
 ワインのビンとの箱書きの展示ケースの横に乃木の胸像も展示されていた。

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 退出した後、展示室棟の目の前には、当時の図書館の一部が残っている。現在は、図書館でなく、史料館の保管室?として使用しているらしい。
 少しだけ、移築移動し、明治時代の当時とは場所がやや違うようだ。
 広場、通路をはさんで、反対側には当時、明治天皇を迎えた本館があった。


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 ↓ 当時の本館の跡地の方向。明治天皇をお迎えした便殿があった。
  その跡地を示すものは無いようだ。
  現在は、グラウンドになっていた。全面ラバーの運動場でクラブ活動の練習をしていて、学生達の声が響いていた。

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学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学2

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学2

  目白にある学習院大学史料館を見学した。
 
 テーマは「学び舎の乃木希典」。入場は無料。他の美術館にチラシを置いて広報に力を入れているし、せっかくの機会なので見学してみることにした。
  会期は9月13日から、年末の平成30年12月2日(日)まで。「9月13日」は言うまでもない、この特別展の主人公、陸軍大将伯爵 乃木希典が明治天皇のあとを追って殉死した「あの日」である。

 ↓ 室外に掲示してあった乃木に関する年表。室内のものは、もっと詳しく記載されていた。 

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 明治天皇の学習院行啓の資料展示を見た。
 優秀生徒の名に松平信×??、溝口正勝?、佐野××などの名前があったと記憶する。(正確ではないと思うが。)
 溝口は越後国の旧新発田藩の溝口伯爵家の子息、松平信×は「信」の字を名前の通し字とする大名松平家の子息だろう。松平家の爵位は子爵かな?。もしかしたら子爵家の分家の出かも知れない。「佐野」は旧佐賀藩の出の佐野常民(のち伯爵)の子孫だろうか?。

  展示室の奥の柱のエピソードボードが面白い。柱に乃木に関する「小話」を掲示してあるのだ。なかなか、興味深いエピソードが記されている。
 武者小路公共の話が掲示されている。「武者小路・・・・」は、どこかで聞いたことのある名前であるが、白樺派の作家 武者小路実篤の兄であり、子爵。確か、実篤の作品の中の年賦でよんだが、武者小路公共と実篤の兄弟は、父を早くに亡くしたので、兄 公共は既に子爵を継いで当主になっていたのだ。
 公共は、外交官となり、のちにドイツ大使(ナチス・ドイツの時代。昭和11年の日独防共協定締結時の大使)を務めた人物として知られる。

 乃木は、イギリス訪問の折にドイツ帝国を訪れたらしい。武者小路が同行して通訳した。すると、乃木が少将当時の明治18年頃のドイツ滞在時ではなく、日露戦争後、東郷大将とイギリス国王の戴冠式のため、随行して訪問した明治44年のときのことらしい。すると当時、武者小路は20歳台後半から30歳台前半で駆け出しか、若手の外交官だったであろう。
 話は「フォン(von)なんとか大将というドイツ帝国の陸軍大臣がいて表敬訪問した。置いてある物(調度品)を見た乃木が、『シェーン、アルバイテ・・・・・。』と言うと、フォンなんとか大将は驚き『シェーン ・・・・・』は、ドイツ語を余程知っておる者でないと、知らない言葉だと驚いた。」というもの。
 訪問を終えたあとで乃木は「アレ(調度品)は、余り出来のよくないものだったが『シェーン・・・・・』と言うしかなかった。」と言うと、同行の武者小路は爆笑したそうだ。

 今でいうと「いい仕事ですね~。」とドイツ語で適当に乃木が大臣にお世辞のホメ言葉を話しをしたのだろう。乃木のユーモアセンスを伝えるエピソードであろう。
 訪問した大臣閣下は、名前に「von」がつくので、プロイセンのユンカー出身の軍人大臣だったのではないか?。
 一般のイメージのように、日露戦争後であっても、乃木はいかめしい、冗談を解しない、謹厳だけの人物ではなかったのであろう。

 奥の柱に年表が二つ掲示してある。学習院の院長になった当初と明治43年から、死後までの二つ。明治40年1月に院長に就任している。満州から凱旋帰国してから、ちょうど1年後のことである。軍人としての現役は、そのままであるが、これは明治天皇の意向だそう。
 「正三位、勲一等、功一級、男爵」で院長に就任している。明治40年、その年の9月21日、一気に伯爵に昇爵(漢字が違うが、以後便宜上使用する)している。伯爵に昇爵の祝賀会を学習院で開催していた。
 その他、小話が小さいボードに掲示してあった。
 
 展示は三つに分かれているようだ。
 「第二章」を見る。「二章」武課教育と修身教育の充実

 覚えている展示を記すと・・・・、
 院長時代、学習院は、鎌倉郡片瀬に水泳場を設けた。片瀬は明治44年まで。明治45の7月から、沼津に移転しただそうだ。沼津は現在も使用されているそうだ。
 片瀬で撮影した写真が展示されている。片瀬の東浜のようだ。背後は腰越の丘かな・・・・?。集合写真には中央の院長の乃木、左が小堀水泳教官、右は、二人目中尉という人がいるが裸だ。教授も写っている。「右端に、舎監が制服でいる」という。軍服の男がいるが、その人かな・・・・。マストにのぼって写っている人もいる。教員か職員のようだ。その人の名も書いてあるが、忘れた。
 別の写真では、乃木はふんどし姿で、実ににこやかな姿であった。沼津の水泳場開設は運命の明治45年7月。明治天皇の重篤な病状が発表され、崩御があった月であり、乃木は沼津での指導はする機会が無かったと記憶する。

 ↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 室内の奥の角には、「中朝事実」の書籍の展示がある。山鹿素行の中朝事実をよく読んだことは、良く知られている。ただ、それらのエピソードは司馬遼太郎の小説「殉死」や「坂の上の雲」にもよる(広く知られる契機になった)ことが多いのだが・・・・・。

 「昭和天皇は晩年(に至る)まで、最も影響を受けた人物として、乃木をあげている。」と説明があった。
 乃木、玉木、吉田(松陰)、杉の系図が展示してある。「玉木家は、元禄年間に乃木家より、分かれた・・・・」と説明がある。乃木の弟の正之が、松下村塾を創設した玉木文之進の養子になっている。養父の玉木文之進は1876年没と書いてある。萩の乱のあとのことである。
 最近のNHKドラマでも登場した人物だ。文之進は「・・・腹をお召しになられた・・・。」とドラマでは、その死についていっていたな・・・・。偶々そのシーンだけ見たことがある。

 「中朝事実」の書籍の展示、その他書籍もあったが、乃木が特に山鹿素行の中朝事実の重視して読解、研究をしていたことが判る。
 吉田松陰についての書籍も寄贈していた。乃木希典が寄贈したことが書かれているページの展示があった。
 著者はあの徳富猪一郎(蘇峰)である。松陰と縁戚である乃木の思い入れの程が覗える。

↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 乃木は、「中朝事実」を筆写していたようだ。司馬遼太郎の小説「殉死」にもそのことが書かれている。
 写して自費で出版して、配布していたそうだ。
 写した原本名が描かれている箇所が実際の展示でもあった。
 肥前平戸(現在の長崎県平戸市)の領主であった「松浦伯爵家の蔵書の中朝事実を学習院総寮部に於いて「源希典」が謹写したことが判る。

学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学1

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学1

  目白にある学習院大学史料館を見学した。元々、学習院に史料展示施設があるとは、知らなかった。以前は、国学院大学博物館や、早稲田大学中央図書館の展示室を見学したことがある。この特別展のことは、とある財団法人の美術館に置いてあるチラシで開催を知ってやって来た次第だ。

 交通は、至便である。 目白駅を降りて、地上の改札に出ると、すぐに学習院大学のキャンパス。キャンパスの中ほどの建物に史料館展示室はあった。
 
 テーマは「学び舎の乃木希典」。目玉展示として、国宝、重文クラスの文化財が展示されるのではない。が、無料だし、他の美術館にチラシを置いて広報に力を入れているし、せっかくの機会なので見学してみることにした。
 
 会期は9月13日から、年末の平成30年12月2日(日)まで。なぜ、9月13日開始なのか?。言うまでもなかろう、乃木希典が明治天皇のあとを追って殉死した日である。
 会期末の12月の2日の理由は分からない(年末に近い日曜だからか)。 

 大学の敷地内の教室棟などいくつもビルがあるのだが、そのひとつの棟の一階のフロア。文学部の研究室などが入ってる?棟のようだ。

 ↓ 特別展の告知看板。

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 展示室の入口の扉は開いている。受付台のうえで記帳があり、氏名を書くようになっている。若い女性の係員が座っている。別展の案内のチラシとアンケート用紙を渡される。アンケートを回答すると、「オリジナル乃木さんハガキ」が貰えるそうだ。係員は文学部の大学院生かな?。
 以下、乃木希典は「乃木」又は「乃木大将」と記す。
 
 
 順番に展示を見ていく。「一章」教育者となった乃木希典
 展示の最初は、乃木の使用していた道具など。食器、箸などの日用品やメガネなどもあったような・・・。
 日露戦争当時の乃木や山縣ら陸軍の首脳の写真、日露戦争の旅順攻略戦での乃木の写真の絵葉書などの展示がある。
 更に室内の壁面にほ、当時の学習院の敷地の地図。元々は、四谷にあったが、明治27年の「明治東京地震」で四谷の校舎に被害があり、その後用地を選定して、目白に移転したという。初等科は、現在も迎賓館の近く、四谷駅から徒歩数分のところに校舎がある。

 「明治東京地震」は知らなかった・・・・・。江戸時代末期、1858年の「安政地震」の後の東京直下型の地震なのだろうか?。すると、今後、断層が動いて、東京の地震というのは、発生する可能性はあるのだ、と感じた。

 明治41年に現在の目白に移転している。当時は東京市ではなく、目白村だったかな?。当時は、明治末期とはいえ、畑、雑木林なども広がる台地だったろう。現在の大都会、東京の目白付近の風景とは隔世の感があるだろう。
 当時の地図を見ると現在の川村学園の敷地には、学習院の職員官舎や、さらに敷地の東には、馬場がある。敷地は、ほぼ現在の川村学園の敷地と一致するのではないか?。学習院の北を通る現在の目白通りに沿って東西に細長い。

 明治41年、乃木が院長に就任した当時の庶務日誌も展示されていた。院長に就任したのは、皇孫 裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育のためだったことはよく知られている。
 「教育者」として学習院長としての展示が中心なので、乃木の院長就任前の軍功に関する展示は限られる。

 乃木大将は、自宅から四谷では、馬で通っていたあと、遠いので、目白の敷地内には住み込みであったという。家を構えたのではなく、起居していたという解説だ。乃木大将の自宅は、地下鉄乃木坂駅(そのまんまだが。)の近くの旧乃木邸として、乃木神社に隣接した敷地にあるし、某アイドルプロダクションの本社もかつては、近年まで乃木神社、旧乃木邸の近くにあった??。
 室内の壁のガラスケースには、乃木大将の軍服、刀は、黒い拵え付きである。刀の銘は見えない。江戸時代の??刀だったかな。軍服には、大将の肩章がついている。星が3つある。明治38年式の軍服で、いわゆるカーキ色である。戦前期(日中戦争や太平洋戦争期を除く)の時代を背景としたテレビドラマで見る軍服は、だいたいこの軍服の形式と色ではないか。軍帽も展示してある。
 「明治18年には、最年少で少将に昇進」と説明文にある。長州閥のおかげと思うが、すごいスピード出世である。
 軍服の布は、陸軍製ジュ所の製造のものを用いて、仕立ては自分の動きやすいようにしたと説明にある。「参考」ということで金鵄勲章も展示してある。勲章の実物はのちの時代、海軍の及川古志郎が昭和17.4.4に受けたものである。乃木は日露戦争の功績で「功一級」最高の金鵄勲章を授与されているので、現物が無いかわりに、別の人物が授与された実物を展示したのだろう。
 昭和17年4月といえば、日米開戦後、日本の占領地域が最大版図まで拡大した時期。恐らく、日中戦争以降の論功行賞が行われ、功一級の金鵄勲章が授与されたのだろうか。
 金鵄勲章は、乃木大将の軍服の下に展示してある。

 続いて見学していく。
 室内の平らなケースには、敷地内の図面と式次第が展示してある。明治42年7月に明治天皇が学習院に行啓したときのもの。行事の次第が書いてある。
 次第をよんでみる。天皇は、学習院の北にある正門から入り、本館に向かう。馬車であろう。正門は現在も同じ場所にあるようだ。
 図書館の向かいにある建物に天皇は入られている。今、私のいる建物は昔の図書館付近らしい。建て替えされているので、建物の大きさも一致しない。一部、敷地がかさなっているだけという感じ・・・・。天皇が建物に入る図も書いてある。天皇の入る建物は「便殿」と書いてある。つまり、天皇専用の建物。この行幸のために、新たに設けたらしいです。手渡された特別展のパンフには、当時と現在の建物配置の比較表がある。私は、手許と展示物を見比べながら、明治天皇の順路を確認した。

 午前10時より式典が開始。高等官、判任官は・・・、など供奉の次第が書いてある。侍従以外に多数の官吏が付き従ったようだ。院長(乃木)の案内にて、授業をご覧になられ、ご覧になる順番に「五年生」など学年を書いてある。
 たとえば、英語の授業では、数名の名が、「優秀学生」と書いてある。生徒の名前は「松平信×??、溝口正×?、佐野××・・・・・」などだったと思う。授業をご覧になった後、正午は食堂に移動。食事をとる。
 一時間の休憩の後、午後1時から午後の参観が開始される。馬術などをご覧になる。
 天皇の御前で馬術を演じる中等科学生、高等科学生の名前が書いてある。
 すべての次第を終えて、お帰りになる。お帰りは「還御」と、書いてある。



土門拳記念館 企画展「土門がとらえた世界遺産日本遺産」 酒田市 鑑賞1 2018年8月

 土門拳記念館 企画展「土門がとらえた世界遺産日本遺産」 酒田市 鑑賞1 2018年8月

 山形県酒田市にある土門拳記念館にやって来た。
 新潟市に続いて「日本海沿岸の旅」が続きます。「庄内地方」にやって来るのは初めてだ。
 
 お盆休みの期間中。この日の天気は曇天というか、晴れというか。太陽は照っているが、雲が多い。あるが、暑い。蒸し暑い。日本海側といえば、フェーン現象で気温は高いが、湿度は低くて「カラリ」としているのかと思っていたが、マジで蒸し暑い。湿度は高い。70%以上はあるのではないか?。曇天を裏付けるように、酒田市から間近に見える筈の鳥海山が見えないのだ。裾野の部分が少し見えるのみ・・・・。なんか、おかしいぞ。

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 運動公園もある広い公園の一角に記念館はある。駐車場は広い。
 でも陽射しを遮るものがない。時刻は13時頃・・・。一日で一番気温の高い時間帯。マジでぶったおれそうだ・・・・。

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 酒田市の観光案内図。記念館は、市街地から最上川の河口付近の橋を渡った、南側にある。


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 今回の企画展は「土門がとらえた世界遺産日本遺産」というタイトル。特に目玉の展示は、あるるのではないようだが、通常の土門拳の作品展示と思われる。夏の観光シーズンに合わせてのテーマかな。
 駐車場から、館までは結構歩く。木陰がない。しかし、冬の天候が悪い日は吹雪となることもあろう。
 建物の入り口に向かうエントランス通路には海の方向に壁があり、吹雪を防ぐような構造になっている。↓


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 館の建物はコンクリートのモダン建築であるが、入口は小さい。分かりにくい。
 入館してチケット売り場は1つしかない。

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 廊下を歩いて、展示室へ。
 土門拳、著名な写真家であり、その作品は知らなくともその名は聞いたり、見たことがあるであろう。作品を見れば撮影者は知らなくても「あっ、その写真見たことがある。土門拳だったのか。」と思う人は多いだろう。私もその一人だ。
 土門の出身地、酒田市に記念館があるのだが、開館は1983年で土門の存命中のこと。館内に掲示されている年賦を見ると、土門の生まれは酒田であるが、7歳くらいまで酒田で過ごした後は、横浜に出ている。横浜二中に入学している。

 廊下の延長のような展示スペースに、パーテーションを立てて「筑豊のこどもたち」の写真展示があった。昭和34年の撮影。
 土門本人が書いた文章も作品の横に添えられている。展示の解説によると「筑豊のこどもたち」の写真集は10万部売上げ、ベストセラーとなったそう。
 展示リストによると
 閉山した鉱山・・・ボタ山の写真
 小ヤマ・・同じく鉱山だった地域の風景写真
 子だくさんの炭住街・・・子供がたくさん写った長屋住宅の写真があった。
 「あきれるくらい子供が多い・・・・。」と土門の文章が添えられている。現在「段階の世代」と名付けられている世代が子供だった時代なので、子供が多い。「あきれるくらい・・・」という表現が印象に残った。戦後、生まれたかけがえのない命を軽視するような文章・・・。結局「子供を大切にしない戦後の世の中」をつくってしまったから、現在「少子化」と言われて慌てるようになってしまったのでは?。団塊ジュニア世代の私は強く感じる。今さら、方向転換して「子は宝」といっても手遅れだよ。少子化の流れは止まらない・・・。「子は宝」とは昔から言われていたのだけどね。戦後10年と少ししかたっていない時期なのに「閉山による炭鉱地域の貧困問題」が既に発生しているとは・・・・、この貧困は敗戦直後の状況と変わらず、昭和20年代から、ずっと継続してるのではないか?、と感じた。
 「父のない母子」や「母の無い姉妹」の写真が展示されている。
 「父のない母子」・・・8歳くらいの子と4-5歳くらいの子の写真。
 「母の無い姉妹」・・・るみえとさゆりと姉妹の名前が書いてある。
 
 ショップは、入り口付近ではなく、この展示室の途中にあった。写真集など書籍の販売もしている。
 やや低いフロアは、メインの展示室のようだ。 企画展「土門がとらえた世界遺産日本遺産」の作品展示である。一番最初に「古寺巡礼」 と本人揮毫の額縁が展示してある。震えるような、しかし大胆な揮毫である。脳出血で倒れた後に書いた文字だそうだ。次いで法隆寺の写真である。
 最初は「中門列柱」・・・回廊に柱が並んでいる、有名な風景の写真。
 次いで「西院金堂全景」、「東院夢殿露盤」。「露盤」は夢殿の屋根の上に載っている金具であって、その上に半月が輝いているシーンの写真。
 次いで法隆寺の仏像の写真なとが展示されている。

 最初の戦後しばらくたってからの作品も多く、カラー写真作品も多数ある。










 


「図書館所蔵の国宝・重要文化財」 見学3(最終) 早稲田大学総合学術情報センター

  2017年3月某日

 早稲田大学総合学術情報センター(以下「センター」と記す。)
 「早稲田大学中央図書館 開館25周年記念展示」 「第1期 図書館所蔵の国宝・重要文化財」の見学をした。
 長いタイトルなので以下、主に「展示会」と記す。
 展示会は今後、第3期まであるのだが国宝が展示されるのは大学のウェブサイトによると第1期だけ。同じくウェブサイトによると図書館所蔵の国宝が展示されるのは2007年以来、10年ぶりとのこと。
 
 センター内の展示室のガラスケースで国宝の展示があった。
 「礼記子本義 巻五十九」
 ※「疎開」「疎遠」の文字に似た「そ」の漢字がウェブサイトでは表示されないかも知れない。
 「玉篇 巻第九」
 の2国宝である。

 途中で、見学者が複数名が入室して来た。昼休みの終わる13時(午後1時)に近くなったからであろうか?。人が増えた。一人は50歳~60歳くらいの女性で、私服だ。年配の男性がもう1人来た。男の学生の二人連れも入って来た。二人は、鑑賞して作品の話をしながら見て、私よりも先に出て行った。更に、もう1人、男子学生が入ってきた。私が出た後には、展示室内にはこの男子学生1人だけが残った。

 国宝の展示ケースのコーナーを曲がって左手、展示室の長辺の部分のガラスケースでは、時代が下がって、日本の江戸時代の文化財の展示であった。
 仙台の「大槻家文書」の展示がメインである。一括して重文に指定されている。同時代の人物の肖像画の展示がある。「杉田玄白像」の展示がある。彩色の鮮やかな掛け軸になっている肖像画だ。
 その下には「重訂 解体新書」の展示があった。同じく一括して重文指定文化財の一部である。東洋文庫の展示で見た初版本とは違う版のもっと新しい、改定された版だ。
 「重訂」なので、初版後に改訂して出版された版であろう。内容のページが開いていたが、どこのページだったか忘れてしまった(苦笑)。
 東洋文庫では、顔面の「目」や「耳」の部分のページを開いて展示していたが、別のページの公開であった。ここセンターの展示室で無料配布している展示会の図録に写真が掲載されている部分とも違ったと記憶する。

 「杉田玄白像」は玄白80歳当時の姿と解説文にあった。教科書に掲載されている玄白像は、まさにこれだった。あの肌が衰えて、シワが目立ち、痩せている玄白の肖像画である。本物はここにあった。知りませんでした・・・・(反省)。
 当時としては、異例の長寿である。現在では100歳に相当するのかは断定できないが、見た目現代の感覚でいうと、画中の玄白の姿は90歳から100歳くらいの人にも見える。もっとも、(老化は)個人差が大きいのであるが・・・・。玄白は「医者なので養生した」ので、当時としては長命であったのであろうか?。
 んー、えっ!?。手元の図録のページをめくって、実際の展示作品と比較してみると「杉田玄白像」の写真掲載が図録に無いのだ・・・・・。主要展示作品であるのに、図録に掲載が無いので「杉田玄白像」の写真は、教科書か歴史資料集で(自分の目で)確認してネ、ということだろうか??(笑)。

 ↓ 展示会の図録より。 「重訂 解体新書」が写っている。
  展示部分は表紙の縦書きで「重訂 解体新書」とタイトルが印刷されたと思うが・・・・。
  右は、第1期の展示品の解説文。

DSC09541

 展示室内、真ん中の「島」の平なガラスケース内部には「運慶の直筆文書」の展示などがあった。「法眼運慶置文」。
 厚みのある和紙の巻物が2巻ある。別の文書をつなぎあわせて、その裏に書いた文章だ。当時、紙は貴重だったので「裏紙」を使用したのだろう。よって、裏に元々書かれていた文字の墨が透けている。
 文書の内容は「運慶の娘が養母から土地の権利を得る際に運慶が保証をしたもの」だそう。仏師の運慶にも個人の生活があったことが分かる。当たり前のことなんだけど、生々しいなぁ。一庶民(法眼だからそれなりの公的地位にあったと思うが)として普通に生活していたのですね(笑)。
 奈良国立博物館で「快慶」、東京国立博物館で「運慶」の特別展が今年、開催される筈である。特別展でこの文書を展示したら、遺した仏像などの作品以外に、彼個人の生活に迫る資料として面白いかも。

 警備員の立っている横に記帳台がある。記帳のページが開いている。少し見てみると「国宝を見るのは 今まで×××件だったが、今回××5件目と××6件目を達成です・・・・。」ように書いてあった。ものすごい数の国宝を実際に見ている。私なぞは、数えてもいないんだけど・・・・(苦笑)。
 「・・・・母校の国宝公開を決断してくださった 総長 (氏名) に感謝します。 記帳者氏名 」とも書いてある。卒業生の記帳であった。
 別の記帳では「文学部3年?」の学生と書いてある。「・・・・自分の通う大学の国宝を見ることが出来てよかった・・・・。」という内容。ただし「図録と違う場面の展示であるので考慮してほしい・・・・。」との指摘も書いてある。やっぱり・・・・・。私も何か違うなぁと感じたので。短い展示期間・・・・、場面替えをするのかは、図録や解説文には書いていないので、せっかくだから図録と同じ部分でよかったのでは?。

 「礼記」の末尾は光明皇后の「印」も重要であると思うので、(図録には国宝巻物の末尾部分の写真を掲載し)末尾部分の巻物の箇所を「印」のところも含めて、スペースが許す限り展示し、または図録の写真掲載分をリアル(実際)に展示するならば、「光明皇后の「印」は(展示できないので)図録をご覧ください」のような展示解説文をガラスケースに掲示してもよかったかな。

 30分くらいで見学を終えて外に出た。
 ↓ 二階のエントランス前より。冬の青空だが、春はすぐそこに来ている。

IMG_0392

 と、昼休みの時間帯、午後1時を過ぎたためか、私の携帯電話が突如として鳴った。仕事の用件だった。建物の外に出て、通話する。二階のエントランス前は広い。先程見学した展示室の前の大きなガラス窓のある廊下の「外側」で通話した。周囲には人がいないので、迷惑は掛けていないです。(笑)
 本日は天気がよい。早春の気持ちのよい青空だ。気温は10度未満のヒトケタ台・・・・・、なので寒いが、センターのガラス窓やレンガに太陽光線が反射して眩しい。
 エントランスの階段を下り、センターの門を出て道路を横断。早稲田キャンパス内を通って地下鉄早稲田駅まで歩いた。
 東西線沿線の駅近くに用があったので、そのまま地下鉄に乗り移動した。
 
(早稲田大学図書館所蔵の国宝 見学記はこれでおしまいです。)


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