良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

民間(財団法人、企業など)運営の美術館

 

開館60周年記念「コレクションの歩み展」 鑑賞3 大和文華館

 開館60周年記念「コレクションの歩み展」 鑑賞3 大和文華館  2020年7月(新型コロナ感染症流行下)

   ↓ 2020年7月 未だ梅雨のあけない曇天下の 大和文華館 外観。

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 重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵「小大君」。

 昨年の京都国立博物館 特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵」では、前期に行ったので、後期展示の「小大君」は見ていない。展示替えがあったので、私が見たときは女性の肖像は「小野小町」の「後ろ姿」だけ・・・・。正面きって、女性のお顔を拝することができなかった・・・・。今回、やっとお顔を拝することができた。 
 
 「いわはしの・・・よるのち××も たえぬべし ・・・・ かつらぎの神」と歌が書いてあると説明なあるが、実際のところ歌の冒頭の「い」と「・・かつらぎ・・」しか文字が読めない・・・・・。

 歌の意味はよくわからないが、しばし、小大君を見つめた。当時の平安美人の例にもれず、目は細いので、表情はよくわからない。
 黒い髪の彩色はよく残っている。すごーく長い髪で、十二単の裾、腰のずっと先まである。十二単の赤も鮮やかに残っている。美しさを引き立てている。比較的よくのこっていて、鮮やかな緑色の部分の顔料は、銅の緑青でしょう。
 肖像の上に書いてある略伝はあの「斎宮女御」と、間違えて書いてあるそうだ。「醍醐天皇の孫、三品の娘」とある。なんだか、いいかげん
 「重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵「斎宮女御」 個人蔵」 の展示は、昨年の京都国立博物館 特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵」では無かったことは周知のとおり。昨年放映の紹介テレビ番組でも「斎宮女御」を詳しく解説していたので、大変残念であった。「斎宮女御」は、皇族であるとは昨年、特別展の解説で知った。醍醐天皇の孫にあたる女性。「三品」とは、「斎宮女御」の父親の親王の官位のことで、「三品親王」といったところか。唐風の官位名かな。
 

 書は、九条良経と伝えられるという。実際はたぶん違うと思うけど、ハクをつけるため適当な当時の有名人が書いたことにして伝える??と感じるのは、ボクだけだね。似た名前の人物でのちに鎌倉将軍になった、頼朝の傍系子孫 九条頼経がいる。
 ともかく、九条家の人物が書いてあるということは、藤原氏の嫡流が近衛と九条に分かれた後のこと。この佐竹本絵巻の成立は頼朝がいた時代を含むの鎌倉時代初期の頃だったのでしょう。


 ↓ 昨年2019年の京都国立博物館 開催の特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵」 
   大和文華館所蔵 重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵「小大君」の画像の掲載のあるパンフレット。


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 重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵「小大君」をじっくりと見つめて鑑賞した後、
  窓の外、眼下の池を見ながら、次の展示へ。次の角のところに 可翁作の水墨画の展示がある。ここからの順路は、主に中国関連の作品であった。

 国宝「寒山図」の作者としても知られる 可翁作 重要文化財「竹雀図」。竹が両脇に、雀が画面下に描いてある。つまり、そのまんま「雀と竹の図」。あの可翁の四角い落款の印がある。下に小さい四角い「仁賀」という落款も押してある。説明によると「仁賀」と落款のある作品は 可翁の作品で数点確認されているという。「幻の画家」可翁の「幻の落款」とも言うべきか。


 伝趙令穣 筆 「秋塘図」は、水墨と赤っぽい絹本の図で、秋らしき渓谷の風景。北宋時代。説明によると作者は「太祖の5世の子孫」という。「太祖」は宋国の初代皇帝の趙匡胤のこと。次代皇帝は、弟の太宗。皇帝位は、太宗の子孫に受け継がれたので、遠い親戚ということか。宋の不思議は、弟の太宗の子孫に皇帝位が移ったことでもある。兄だから、皇帝位を継ぐのではないことは、のちの明、清でもあったので、この点はのちの日本の長子相続とは異なるということか。
 当時の北宋の皇帝は、徽宗(きそう)。為政者としては失格で、捕虜でとらえられて、金に連れ去られて、宋(北宋)は滅亡したときの皇帝。その徽宗とも交友があったという。

 国宝 「雪中帰牧図」の展示があった。「隠しサインがある」というが、目をこらして見たがわからなかった・・・・。 2017年の 特別展「国宝」でも展示されていて、見てもわからなかった。すいていて、独占して鑑賞できた本日でも発見できなかったので、老眼鏡を掛けない限り!!??、発見は無理でしょう(笑)。
 隠しサインは画中の「下の「土破(字が違うが盛り土のことか)」の切れ目の下」にあるらしい。
 
 日本の作品であるが、以前も鑑賞した 雪村の重要文化財「呂洞賓図」もここに展示があったと記憶する。

 最後の展示が、中国絵画や陶磁器。 景徳鎮や 建窯など 中国 各地の窯の解説ボードがあった。


 一通り見て13:15頃、館を出る。 館内は、すいていて出入口付近には人がいない。先ほどの母子は、庭を通って散策して帰るようだ。
 私は坂道を下る。

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 前回は、春の気候のいい時期の訪問であった。今回は、梅雨の季節、夏で蒸し暑い。
 文華苑は、夏の緑色。常緑の松は、いつも緑色。
  ↓  大和文華館の 門付近と券売り場と駐車場。

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開館60周年記念「コレクションの歩み展」 鑑賞2 大和文華館

 開館60周年記念「コレクションの歩み展」 鑑賞2 大和文華館  2020年7月(新型コロナ感染症流行下)

  順番に鑑賞する。今回の企画展では、館が所蔵する国宝指定の文化財4点すべてを展示する。
 更に、昨年 京都で特別展が開催された 「佐竹本三十六歌仙絵」のうち、最重要作品(断簡というべきか)「小大君」の公開がある。

 ↓ 今回の展覧会 大和文華館のパンフレット。
   60年前の開館記念のパンフレットの写真をそのまま使用している。

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 国宝 「一字蓮台法華経」。2017年 京都国立博物館での特別展「国宝」では 番号25  、
 「絵巻物 一字蓮台法華経 普賢菩薩勧発品第二十八 一巻」として、第4期に展示されていた。よって、このときは見ていないが、2014年の東京では国宝展の展示リストに掲載されている。よって、当時見たのだが、覚えていない・・・・

 「一字 蓮台 法華経」の名の通り、お経の文字が蓮の花の台の絵の上に一文字ずつ載っている。「蓮台」は、ロウ、金泥、銀泥のような材質なのだろうか?。文字と混じって文字が、消えないように先に蓮を描いて乾燥させ、経典の文字を書き込みしたのだろう。文字が1文字ずつ「仏様」のようだ。
 巻物の経文の前部に美しい装飾の絵がある。作品解説によると「真ん中に 読経する僧、その右となり、絵の中の人物としては左に、貴族と思われる男がいる。法要の施主と思われる。」と。 反対に僧を挟んで 御簾の奥に十二単の優雅な衣をまとった女。おそらく施主の妻であろう。

 「僧は9人」描かれているという。目をこらしてみる・・・・。寝殿の部屋の外の板の間の廊下に僧がいるが、4人くらいしか描かれていないようで、よく判別できない・・・・。9人、僧侶を見つけることはできなかった。

 施主の烏帽子姿の貴族の男の前の板戸か板壁には、何かの「絵」というか、掛け軸がかかっていて、その前にも僧がいて、施主や読経僧の方を向いている。 絵には、仏の姿が描いてあるのだろう。当時制作された「仏画」であろう。現在までつたわっている仏画は、国宝や重要文化財などに指定されているわけだ。
 経典の内容からして「普賢菩薩が描かれた仏画」を掛けて読経しているらしいと解説にあった。

 長さは322.2cmだが、わずか1尺、90cmくらいしか、開いて公開をしていない・・・。少し残念。

 経典の部分の冒頭には「妙法蓮華経観普賢経 第二十八」 とタイトルのように書いてある。よって「普賢菩薩」の仏画を掛けて、祈祷していると推測されるのだろう。

 とある部分を読むと「・・・男子 善女人於 滅複 能得是 ・・・・ 」と書いてある。


 国宝「寝覚物語絵巻」

2017年 京都国立博物館での特別展「国宝」では 番号24 「絵巻物 寝覚物語絵巻 一巻」と掲載されている。 第3期展示だったので、鑑賞した。時折特別展で展示されるので、鑑賞機会はある。
 長さは533.0cmで、ほとんど開いて公開している。よって、隣の国宝 「一字蓮台法華経」がスペースの関係で1尺くらいしか公開していないのかも。

 絵の解説は「中の宮の子、まさこ君が、女二の宮を訪ねる」というシーン。十二単姿の女が寝殿の屋敷の部屋の中にいて、男は、画面の右下、つまり屋敷の入口の外にいて、女をまさに訪ねるというシーン。当時の「妻問い婚」というか「通い婚」の場面と感じた。 男が女のもとに通うのだ。


 展示場所は以前の訪問時と同じ場所に 国宝「婦女遊楽図屏風」(松浦屏風) があった。
 やはり、大きい屏風絵だ。毎年4月中旬から5月にかけて展示されていることが多いようだが、今回はコロナの影響もあり、夏のこの企画展での展示となっているようだ。2017年4月に初めて見た感想は「大きい。」であった。
「ほぼ等身大で・・・遊女とかむろの姿を描いた・・・・口には鉄漿(おはぐろ)をし・・・・髪をすき、手紙を書き、三味線を弾き、・・・・タバコ、キセル、カルタ、ガラスの器などが描かれている・・・・・・・。」とは前回の訪問時に聞いた音声ガイドの説明。

 ↓ 2017年4月の訪問時に入手した、国宝「松浦屏風」と安土・桃山の絵画 展観のチラシの写真。 
  「婦女遊楽図屏風」(松浦屏風)の部分。左双の左の部分かな。

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 左双の屏風・・・・
 一番左にカルタをしている女。簡素な着物もいれば美しい着物をまとった女も。
 右手のキセルを差し出している女が一番くらいの高い遊女かな。キセルの下でひざまづくかむろの少女は幼い。幼い少女の姿が見事に表現されている。年齢は現代でいうと中学生、14歳くらいかな。
 女たちは楽しそうな顔をしているのだ。現代の私が想い浮かべる遊郭の裏の一面を感じさせる表現描写は微塵も無いのだ。かむろの少女はうっすらと笑みすら浮かべている。
どこかダーク。秋なのかな?。しかし、画面を見る限りは秋の様子は無い。 


 と、母親に連れられて、鑑賞に来ている小学校2-3年生くらいの女の子かいる。屏風の前のイスに腰かけている。お母さんと一緒にこの国宝を見ている。
 画中の「禿の女の子」と同じ年か、少し画中の女の子が上くらいではないか。画中には、遊郭で生まれた女の子が描かれている。400年前当時の8歳くらいの女の子と、現代の小学生の8歳くらいの女の子が対峙している。
 私も国宝「婦女遊楽図屏風」(松浦屏風)の前の長イスに座りガラスケース内の作品を鑑賞する。というより、先ほどの奈良市内より、暑い中、歩き疲れて、体力を著しく消耗しているのである・・・・

 さらに見て行く。戦国時代 の「婦人像」がある。有名なお市の方の肖像画ににている。重要文化財に指定されている。「婦人像」 は典型的な桃山時代の高貴な女性の肖像画なのだろう。

 その隣に重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵「小大君」の展示があった。
 展示室内のガラスケースに、安土桃山時代の屏風絵、戦国時代末期の絵、鎌倉時代作の平安美人の絵と展示されていたことになる。
 
 すぐ近くは、展示室の角(コーナー)になっていて、尾形光琳作の 重要文化財 「中村内蔵助像」の展示があった。他の光琳作品、弟の乾山の墨画(乾山の自賛の文章が書いてある)の展示があった。




開館60周年記念「コレクションの歩み展」鑑賞1 大和文華館

  開館60周年記念「コレクションの歩み展」 鑑賞1 大和文華館  2020年7月(新型コロナ感染症流行下)

  近鉄奈良駅から電車に乗って移動した。学園前駅で下車した。前回来たときに覚えたので、ホームから階段をおりて南口の改札を出る。駅前のロータリー広場は、ガランとしている。その先には帝塚山学園の校舎がある。この朝、奈良に行ったときは、ここで制服姿の生徒がおりていった。部活に行くのであったのだろうか。休日の昼のこの時間帯は、生徒が誰もいない。本来は、夏休みの時期であるが、コロナの休校の影響で一学期の授業はおそらく続いているだろう。

 駅前から坂道を下り、不動産屋の角を曲がると、目線の先に大和文華館の看板が見える。駅から門までは私の足で徒歩5分とかからないくらい。大和文華館に到着した。

 私に先行してあるいている中年のおっさん(俺もそうなのだが)がいた。そのおっさん、実は駅前広場前の赤信号を無視をして、道路を渡りずんずん坂道をおりて歩いて行ったのだ。学園前駅を利用したことのある人は知っていると思うが、駅前広場と道路を挟んで、反対側に交番があるのだが、おまわりさんがいないことをいいことに渡っていったのだ・・・。「この人も(俺と同じく)大和文華館に行くのかな」と思った。直感で
 おっさんは案の定、大和文華館の門まで来ると、展覧会の看板を撮影して、門を入って行った。チケットを買い、坂を登って館に歩いて行った・・・・。

 俺は、門の脇にある展覧会の看板は撮影しないでチケット売り場の建物に歩みを進めた。
 広い駐車場には、数台の車が停まっている。前回は「1台しか停まっていない」と記事に書いたが。
 チケットを購入して丘の坂道を歩いて登る。曇天で蒸し暑い。汗が出るよ
 
 美術館の建物まで坂道を登る ↓ 坂道の途中に咲く白い花。
 ヒルガオのようなと思ったが、説明には「ムクゲ」とあった。 


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 大和文華館の花咲く庭園を「文華苑」という。案内図によると撮影したポイント付近には、「スイフヨウ」の花が咲いていて、7月-8月はシーズンて゜白い花が咲くようだが、わからなかった。見る限り、撮影した花はスイフヨウではないような。ほかに花は咲いていなかったと思うが、わからなかった。

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   ↓ 建物が現れた。蔵屋敷のような建物だ。壁は黒か緑のなまこ壁の模様が入っている。
    改めて見ると入口玄関付近には、展覧会の告知看板は無い。
    大名屋敷の通用口??のようであるが、自動ドアで入る。

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 遮光ガラスになっているので、外の眩しい光を遮断し、内部は適度な照度になっている。 

 検温は無かった。建物に入っても人はいない。向かって、右手の奥に売店があり、商品が並べてあるか゜、奥のレジの係員が1名いるだけだった。

 12:45過ぎに入館する。お昼休みの時間帯なので、検温は実施する職員がいなかったのかも。音声ガイドの貸出しは、(コロナの影響のためか??)無かった。
 ガラス張りの通路を歩く。数名の来館者の姿がある。展示室の正面入り口の大きなガラスの自動ドアをヴィーンと開ける。
 正面に独立した島状の設置された三個のガラスケースが「三連」で並んでいる。
 今回の展覧会の案内を読むと、これら正面の独立ケースは60年前の開館時はなかったという。
 当時の「開館案内」の展示がある。記載されている入館料は50円だ。この日の入館料は630円である。60年前とは「隔世の感」がある。

 前回2017年当時の訪問記事でも書いたが、各地の博物館、美術館の特別展、企画展では展示リストに「大和文華館 蔵」と書いてある文化財が少なからずある。しかも、ここ大和文華館は他館への貸し出しにも積極的である。特に所蔵文化財が限られる民間の美術館は、他館への所蔵文化財の貸し出しを行わない傾向がある。特に国宝や、有名に所蔵品はなおさらである。メインの展示文化財を貸し出ししてしまうと、公立の施設ならばともかく民間の美術館では、来館者数にも影響があるからであろう。
 対して、大和文華館は他館へメイン所蔵品の国宝など文化財の貸し出しを多く行っている。
 2014年の東京での日本国宝展には「寝覚物語絵巻」が出品されていた。
 2015年10月京都国立博「琳派展」では、尾形乾山の工芸作品(香合、火入など)が多数展示されていた。
 前回2017年の訪問は芸大美術館での「雪村展」に行った二週間後であったが、メインの展示作品は大和文華館の所蔵作品だった。今回の展示リストにも雪村の作品が展示されている。
 2017年秋の京都国立博での特別展「国宝展」にも「寝覚物語絵巻」と別の国宝が交互で出品されていた。
 何といっても、特筆すべきは昨年(2019年)秋の京都国立博物館で開催された 「特別展 佐竹本三十六歌仙 において、メインの展示作品が、ここ大和文華館所蔵の 重文 「小太君」であったことであろう。
 展覧会ポスター、チラシなどの露出媒体のメイン写真もこの 「小太君」であった。 国立博物館ではなく、同じ関西地区の民間美術館から貸出しされた作品が、天下の国立博物館の特別展のメインを張るとは、すごいことです。いっそのこと、ここで開催してもよかったのでは?、思うのは言い過ぎかな?。
 大和文華館は、日本の美術館において大変重要な位置を占める館である。

 大和文華館の説明では「・・・当時近畿日本鉄道の社長であった・・・・・によって、・・・・昭和21設立され、実際の開館までは14年の準備期間を要し・・・」とある。「・・・現在では国宝4点を含め・・・・」多くの文化財を所蔵していますという解説。敗戦直後の設立から、14年後に開館して今年で60周年である。
 
 最初、順路の表示と逆に見てしまった。順路は「ロ」の字状の展示室を反時計周りに見るようになっていた。
 最初の壁のガラスケース内には埴輪の展示がある。次いで、国宝「一字 蓮台 法華経」の展示がある。
 その先に、国宝「寝覚物語絵巻」が展示してあった。
 60年前と同じ展示構成を再現したそうだ。所蔵品を時代を追って展示しているようだ。

  入館者は、「ロ」の字の展示室の右半分のスペースに、10~15名くらいだろうか。前回来たときよりも、入館者は多い。


「明治150年記念 華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美」鑑賞2 泉屋博古館(東京)

 2019年3月17日 「明治150年記念 華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美」鑑賞2 泉屋博古館(東京) 
 
 会期は3月16日から。なんと、私には珍しく会期二日目の早々の訪問だ。港区の泉屋博古館分館にやってきた。

 最初は8分間の映像コーナーを見た後、第一展示室に入った。

 ガラスケース内の展示で目立つのは、大きなお皿であった。「色絵  」という皿。宮中の晩さん会、食事会で使用されたものという。

 晩さん会の招待状が展示されている。 「宮中顧問官 子爵 山尾庸三殿」という宛名。山尾家から寄贈された史料であろう。会場は、浜離宮内の殿舎である。「延遼館」というようだ。明治2年建設で、最初は外務省の管轄で、のちに宮内省の管轄になったという。
 明治23年頃には取り壊しされたそうだ。20年間くらい存在したことになる。のちに建設されたのが有名な「鹿鳴館」。鹿鳴館は、「現在の内幸町、薩摩の上屋敷跡に建てられた。」と説明がある。しかし、別の説明では「装束屋敷の跡地・・・・」という説明がある。当時の政府高官を多数輩出していた薩摩藩島津家が土地を提供したのだろうか。実際には「装束屋敷」が正しい。上屋敷は、現在の三田付近にあった。蔵屋敷も三田のかつての海沿いにあったのだ。
 鹿鳴館の晩さん会の招待状は、同じく山尾あてのもの。「議定官 山尾庸三殿」と書いてあり、爵位は書いていないない。明治16年の開催の招待状なので、当時は爵位が無かった。爵位制度は明治17年から。
 この明治16年の晩さん会は、鹿鳴館の落成記念の会だったか??。
 更に進むと当時の晩さん会で使用されたという食器の展示がある。有栖川宮家由来のもの、のちに、高松宮に伝わり(旧有栖川宮家の祭祀を継承したので。)、保存されていたそうだ。

 ↓ 今回の展示のパンフレット 抜粋。有栖川宮家伝来の食器の画像が掲載されている。

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色彩のえる、花瓶などの展示があり、出る。


クニ邦英 成年 辞書がたのボンボニエール。昭和59年の前田利建の金婚式のボンボニエールも。
陶磁器のよう、緒形乾山の赤絵のよえな描いてある。朝かのみや、亀甲型の銀製のボンボニエール。
赤い紐がついている。辞書、ギリシア文字と下側にラテン語かな。


 ↓ 今回の展示のパンフレット 抜粋。

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皇太子とクニ良子女王 成婚は
黒漆六角形の菊の紋様の菓子入れ。側面には、はびたく鶴、螺鈿の細工らしく光沢がある。
朝か宮入って、亀甲だが、六角形とある。ともに、真ん中に、菊の御紋がある。


中程には、映像で紹介のあった、明治25.3..9の大婚の式典と。晩餐には621人、その後の立食形式には、1200余りが招待されたと。晩餐は鶴の立っているボンボニエール。もう一つは、銀の鶴の彫刻のある
ボンボニエール。図面もおる。宮中晩餐乃菓子器  銀製 と描いている。3尺8寸の高さと。
 台座にほ、二匹の亀がいる。台座は8寸とあり、台座の側面には明治 25年3月9日と日付が入っている。別の列の展示で、皇太子成婚のボンボニエール近くには、英国皇太子、エドワード王子の歓迎の晩餐会のボンボニエール。「大正11年」と説明にある。
 前年の皇太子裕仁親王(昭和天皇)の訪英の答礼として、エドワード王子が日本に来たのだろう。 英国のエドワード皇太子歓迎のときは、銀製の銀色の印籠のボンボニエールだ。桐紋がある。上に、小さく菊の御紋が刻印されている。先端には紐がついている。

 ↓ 今回の展示のパンフレット 抜粋。

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 独立ケースの内部には、昭和三年の昭和天皇の即位の大礼の式典のときのもの。そのボンボニエールは新しい。三種類ある。

 大正天皇の成婚25年のとものも展示がある。大正14年である。二羽の鶴のつがいが台座の上に乗っかっている。一羽は上を向いて、羽を広げるようなしぐさであり、もう一羽は、頭を曲げて下横を向いている。皇后を象徴している。仲の良い、めおとを表しているか。
 私が見たところ、展示順番は必ずしも、時代順ではない。

 ↓ 今回の展示のパンフレット 抜粋。
   明治天皇の大婚25周年の式典に際に下賜された鶴と二匹の亀のボンボニエール。
  柏葉筥形ボンボニエールは、大正天皇大礼(即位の礼)のときの下賜品であった。菊の御紋に赤い紐がついている。四角形のようで四角形ではない。柏の葉で箱の形を表現している。

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「明治150年記念 華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美」 鑑賞1 泉屋博古館(東京) 

 2019年3月17日 「明治150年記念 華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美」鑑賞1 泉屋博古館(東京) 
 
 会期は3月16日から。会期二日目、再び港区の泉屋博古館分館にやってきた。春先の晴天の日。 前回は、真夏のセミがミンミン鳴いている季節の訪問だった。この付近は、桜並木が植えられているので、真夏は桜の樹液を吸うのでセミが多いのだ。
 地下鉄六本木駅ではない、別のルートからの訪問であった。坂道を歩いてやって来た。空気はまだまだ冷たいが、陽射しは明るい

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 「華ひらく皇室文化」の企画展タイトルである。皇室関連の展示物がメインでろうが、今回の私(にとっての鑑賞)のメインは板谷波山の重要文化財 指定「 葆光彩磁珍果文花瓶 」だ。前回は、一昨年??の浅井忠の洋画作品の展示とともに、ここ泉屋博古館分館で公開(以下この記事では「同館」と表記する。)されたらしい?。同館の展示は、企画展が終了すると、私の見る限りウェブサイトからは展示リストが消えてしまうので、後からでは、何か展示されていたのかが、追跡しにくいのだ・・・・・。今回こそは、重要文化財 指定の「 葆光彩磁珍果文花瓶 」が展示される。事前に情報を掴んで(といっても、ウェブサイトで調べただけ・・・・・。)やって来たのだ。
 同館で一番有名な所蔵作品のひとつではないかな。同館のサイト、特にツイッターでは、この壺の画像がアイコン化されているし。
 もう一つの、波山にとって二番目の重文指定作品「 葆光彩磁禽果文花瓶 」は、前年 2018年に新潟市の敦井美術館で開催された波山の所蔵品展で展示された時に鑑賞した。昨年は新潟に、今回は東京・六本木に、波山の重文指定作品全2件(本記事、執筆当時)の「コンプリート」のためやって来た次第だ(笑)。

 
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 泉屋博古館は立派な鉄筋コンクリート造りの建物だ。入口の扉も重厚だ。旧住友財閥、旧住友男爵家の威光を示しているようだ。
 扉から、受付まではやや長いエントランス通路。正面の受付に女性がひとりいる。入ると必然的に正面の受付の女性、視線が合う。入館料は800円。前回訪問時よりも安いぞ。
 説明では「学習院でも開催している。」と。目白の学習院史料館と共催しているそうだ。「学習院史料館は無料ですが、開館日に気を付けてください。 ・・・記念品がもらえるそうです。」と学習院史料館で記念品を貰える絵.ハガキを渡された。おお、昨年の秋に訪問したばかりの学習院史料館で開催されるとは、偶然である。
 本当に開催日を注意する必要がある。学習院では会期が「3/20から」なので、本日現在、開催日ではない。子の足で目白に移動して訪問すると・・・・、開催前・・・・・・。以前、学習院史料館は、祝日に訪問して閉館日で失敗したし・・・・。


 ロッカーに荷物を預けて、最初は8分間の映像コーナーを見た。ロッカーが設置してある所に映像コーナーがある。隣りに事務室があり、係員が出入りしていた。事務室に訪ねてきた人もいた。扉の外に立って待っている。黒服のパンツスーツの監視員が二人出入りしていたり、映像を見ている間にも人の出入りがある。つまり、事務室は、チケット売り場の裏手の部屋になっている。


 映像は主に「明治宮殿」の紹介だった。

 「・・・・江戸城が皇居となり、天皇が居住するようになった。当初は、御所として、江戸城の西の丸御殿を使用していたらしい。本丸御殿は既に火災で焼けていて、徳川末期、明治時代の初めは無かったというし。西の丸御殿も明治6年には焼失したという。火事が多い・・・・。
 あたらしい宮殿は、明治9年に計画して、明治21年に竣工した。翌年の明治22年が憲法発布の式典が開催された。・・・」という映像内容。
 この憲法発布の儀式の場所が、宮殿の正殿。教科書などで写真を見たことがあるが、正殿の豪華な内装の様子の絵が伝わっている。何と、豪華絢爛の明治宮殿は木造だったのだ。

 図面の解説がある。当時の写真で紹介される宮殿正面の車寄せは、大名屋敷とまよう建築。瓦屋根となっていて、江戸時代の大名御殿のような御殿だ。京都の御所とは異なる建築に見える。建物の配置は、京都の御所を基にしているようだ。やはり、京の御所というよりは、武家の御殿に近い建物ではないか?、と見えた。
 映像とナレーションは続く「・・・・入って、すぐに受付の間かある。・・・・・・・・・・・・・」と。受付の間といっても広い。待機者用なのであろう、豪華なテーブルとイスなどがおいてある。宮殿に参殿した臣下は通常、東の入口である東溜の間から入ったそう。
 溜の間の写真、東の玄関付近の待合室の様子の写真が紹介される。正殿は、玄関と中庭を挟んで、正面、 東から撮影した正殿の建物の写真映像が流れる。天井の格子屋根は工芸がほどこされている。
 明治宮殿の入口は、現在の宮殿の南東の端付近に相当する位置かな。東溜の間は、現在一般参賀などで一般国民が入ることが出来る宮殿前の広場にあったようだ。

 繰り返しになるが、明治宮殿は、木造の建物であったと知った。レンガ造りではなく、木造の御殿であったのだ。てっきり、明治の洋風レンガ建築であったかのように誤解していた。
 のちの時代の東宮御所赤坂離宮(現在の迎賓館赤坂離宮)は、レンガ造りである。
 「宮殿の奥には、豊明殿(ほうめいでん)がある。」と映像とナレーション。現在も 同じ名前の部屋が宮殿にあるという。確かにニュースでも、その名前を聞いたことがある。内装は欧州の宮殿のようで、石造りの建物かと思ってしまうが、木造の宮殿だったのだ。正殿での儀式よりは小規模の会や謁見の儀式などが豊明殿で行われたそうだ。
 「明治宮殿は、太平洋戦争中の昭和20年の5月25日の空襲で焼失した・・・・。」と解説が流れる・・・。明治時代からずっと使用されていたのだと知った。
 明治宮殿の跡地に昭和43年に完成した現在の新宮殿の映像が流れて、終了した。現在もニュース映像でしばしば目にするが、新宮殿は、銅葺きの緑色の屋根と長い鉄筋コンクリート造の建物が印象的だ。
 映像を視聴して知ったが、明治宮殿では天皇は、その奥の宮殿で生活をしていたそうだ。戦後、昭和天皇は宮殿とは別の場所、吹上御所で生活していたことは知られている。吹上御所は戦後のことで、戦前は明治宮殿の奥側の区域が天皇の生活の場所であった。儀式を行う正殿などの表宮殿の奥に生活の場があるのは、京都御所の造りに似ている。


「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞6(最終、エピローグ) 

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞6(最終、エピローグ)  2019年2月

 静岡県三島市。佐野美術館へ初めて来館である。

  

 夕方の4時半を過ぎた。館の外に出る。
 外から外観を撮影しているおっさんがいる。入館のときも、太った中年の男が盛んに外観を撮影していたし。
 結構、外観を撮影している人も多い。よって、オレも他の刀剣男子、又は女子のSNSなどに姿がアップされているかも・・・・・。
 歩いて、Pに戻る。駐車している車もだいぶ少なくなった。
 館のそばに、梅の花が咲いていることに気付いた。まだまだ2月の寒い時期ではあったが、季節は花の季節、春に移ろうとしている。


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 庭園を歩いて戻る。

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庭園の端。付近の住宅地を撮影したつもりが・・・・、あまりよく撮影出来ていない・・・。

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 隣接する庭園は「隆泉苑」という。
 湧水の街、三島らしく、この付近から湧き出ているのであろう。


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 駐車場の近くに、別館の料亭らしき一角があった。「せせらぎ亭」とある。
 庭園がある。小川が流れていて、橋がかかっている。
 園内は、早咲きの河津桜??の花が咲いていた。

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 白い花は梅の花であろう。

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 駐車場に面した「松韻」の入口と看板。
 先程、美術館で展覧会を鑑賞していた人もこちらの駐車場に戻って来て、帰っていっていた。美術館の建物近くではなく、ここ「松韻」のPに停めたのであろう。
 私も再び車に乗って、帰った。

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「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞5(国宝 太刀 銘「一」など)

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞5(国宝 太刀 銘「一」など)  2019年2月

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。

 
 次の展示室に移動する。 この展示室は小さい。
 時期不明の焼身の刀剣の展示があった。
 次の部屋に国宝の刀剣の展示があった。順路最後の展示室であった。第三展示室である。「伝世の名刀」
 国宝「国宝 太刀 銘 一」の展示がある。ここ佐野美の所蔵の刀剣が展示されている。企画展の「REBORN 蘇る名刀」とは、直接関係の無い、通常の焼身、再刃ではない刀剣の展示がメインである。
 この部屋は、階段のからほど近い所にある。最初、二階に上がって来たときに間違って最初に入ろうとした・・・・。出口付近には、イスが、置いてあり、傍に図録が置いてあった。


 さて、第三展示室て゜あるが、入口付近のガラスケースに、平泉出土の刀剣の展示が2口あった。
 重要文化財に指定されている。「REBORN 蘇る名刀」での焼身、再刃の刀剣で重要文化財指定は、他に「義元左文字」だけだった。基本、焼け身となった刀剣、再刃された刀剣は、文化財指定は難しいですよね。
 平泉の刀剣、一本は「刀子」。小さい刀である。長さは15.5cm。柳之御所の井戸の跡から出土したそうだ。

 現代感覚でいえば、鉛筆や小道具を作製するとめに木材を削り出すような、「こがたな」だ。正滅によると「井戸仕舞い」で井戸に落としたらしい。つまり、井戸を閉じるときに、おまじないで小刀を落としたのだろう。
 鏡が展示品の奥においてあり、裏側の刀身が見えるようになっている。表面は、再研ぎされているが、裏はそのままで、青く錆びている。長年、水につかっていたのであろう。

ついで、同じく重文「長さ48cmの刀」。刀身にはやや「反り」があるのだが、かなり欠けている。刀身は太い。時代は平安時代と説明にある。
 刀身、茎もへこんでいたり、えぐれていたり。片面を研いだ。刃文は無い。「地沸は淡くつき・・・」と説明に書いてあったと記憶するが、「沸 にえ」がついているのだろうか?。
 鏡に映る裏は、黒くというか、深い青色に錆びて劣化して朽ちている。焼けたのではない。ざらざらした感じだ。平泉の金色堂の須弥壇から出土した、藤原秀衡の副葬品という。発掘品を片面だけ研磨したそうだ。文化財に指定されているので、研磨は現状を損なわないように細心の注意をはらったということが書いてあった。

 展示室の端に図録が置いてあった。2千円。
 国宝、銘「一」 は福岡一文字派の刀工のこと。「刃文は丁子が連なり、豪華絢爛である。」と書いてある。図録の解説によると長篠の合戦で、織田信長から、家康の家臣、奥平信昌、つまり娘の婿に与えられたそうだ。奥平家に昭和の初めまで伝来したそうだ。奥平家なので、中津藩主であった、奥平家のことであろう。現在は個人蔵。
 茎には「一」とのみ、シンプルな銘が刻まれている。刃文は、刀身のなかほどは、丁字が深くて、へこんでいる。茎に近い刀身の刃文は、丁字の幅が狭い。茎と刀身の境界には、金色の金属をはめこんでいる。三つ葉葵の紋がある。
 鑑賞を終えて、1階に戻った。展示の最初の部屋を少しばかり再び見るが、刀剣女子の新たな入館者もいて、ガラスケースの前には、人がつらなっている。

 ↓ ロビーの撮影コーナー。 幕の裏側が、ショップ。棚がうっすら、透けて見える。
  

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 1階のロビーは 撮影できるところがある。
 ショップは 刀剣の絵葉書ポストカードなどがある。絵葉書の背景は黒い。白銀色に刀身が浮き出すように撮影されている。ここの渡邊館長さんの刀剣に関する著書もある。刀剣グッズのキーホルダーなどもある。
 その他は、小もの類など。本館所蔵の重文「大日如来像」のポストカードも販売があった。
 

 外に出ると夕方4時半。入館締切の時刻となった。
 Pの警備員が2名いて、引き揚げしていた。美術館の建物の階段の上からPの様子を見下ろすことができる。付近は住宅地である。正門は表通りに面していない。よって、何回もこの付近は車で通行したことがあったが、美術館のことは気づかなかったのかも。いや、名前は見たことがあったが、「三島」の「佐野」美術館のことをあまり認識してなかったのかも。


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 入口付近の外観。

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庭園を歩いて、Pに戻ることにした。

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「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞4  2019年2月

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞4  2019年2月

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。

 
 日光東照宮宝物館に所蔵されている文化9年に火事で焼け身となった刀剣を見た。
 再刃された「正恒」、「国行」、「了戒」、「備前国住雲次」などである。


 続く、第三のガラスケースは、展示室の一番突き当り部分だ。
  関東大震災で焼けた刀が展示されている。徳川御三家のひとつ、水戸家の倉庫で保管されていたそうだ。再 
 関東大震災で焼けた刀剣は、この水戸家と彦根 井伊家の刀剣の展示であった。
 水戸と彦根といえば、幕末の安政の大獄、桜田門外の変などでお互い遺恨のある藩同士だったような・・・・・・。大正時代になって、ともに所蔵する刀剣が大震災で被災するとは何とも因縁がある。
 水戸家伝来の刀剣は、小石川の徳川家屋敷で保管されていたそう。大正時代は、徳川侯爵家。かつての水戸・徳川家の上屋敷、現在は小石川後楽園になっている。東京ドームや遊園地もかつての水戸家の屋敷の跡である。当時も引き続き水戸徳川家の屋敷であったようだ。伝来の刀剣は、旧領地の水戸ではなく、東京で保管していたのだ。
 真っ黒になっている刀剣の展示がある。「太刀 銘 包永」・・・兵部大輔 藤孝磨上之異号・・・という銘があるそうで、説明によるとその銘文の通り、細川藤孝から徳川家康に献上され、水戸家に伝わったそう。藤孝が磨上げた?、短くしてすり上げした?ことが刻まれている。煤のせいか、真っ黒である。
 ガラスケース内には「太刀 銘 光忠」 。水戸ではなく、尾張の徳川家でも光忠の太刀は所蔵されている。国宝に指定され、名古屋の徳川美術館で時折展示されるのであるが、この尾張の「光忠」は見たことがあるぞ。
 目の前に展示されている「太刀 銘 光忠」 は火事のためか、まっ黒である。備前 長船、福岡一文字派の刀工と説明がある。
 平のガラスケース内には「太刀 銘 国宗」がある。 同じく水戸ではなく、尾張の徳川家でも国宗の太刀は所蔵されている。国宝に指定されているが、尾張の「国宗」はまだ見たことが無いのだ。「国宗」は13世紀、鎌倉時代の備前の刀工で、人気が高いそうだ。

 彦根藩、井伊家の「短刀 銘 来源国次」と「刀 無銘 左」は再刃されている。鈍く刀身が光っている。刃文もある。しかし、茎(なかご)の部分は、焼けたときのそのままのようだ。共に再刃された時期は不明とのこと。
 大震災の火事で焼身となった後、ほとんどはそのままで保管されたそう。数本が再刃されたと説明にある。
 「太刀 正恒」・・・国宝に指定されている刀剣を別の所でも見たことがある。昨年の秋に、鎌倉 国宝館で国宝の正恒を見たが、同一刀工かな。刀工の銘は判読できなかった・・・。焼けたためか、赤茶色に錆びでいる感じ。
 「太刀 助平」・・・説明によると「備前三助」の一人で、つまり、名工ということ。
 「太刀 銘 宗近」もある。あの東博所蔵の「太刀 三日月 宗近」の刀工で、「三日月」は秀吉の正室、ねねの愛刀だったと説明にある。
 平ケースにも井伊家の焼けた刀剣の展示がある。「太刀 銘 国吉作」・・・やはり、茶色く錆びたような刀身である。

 秋葉神社の所蔵で、火事で焼けた刀剣の展示もあった。火事は時代がずっと下がって、昭和18年のことだった。佐野美術館と同じ静岡県の神社所蔵の焼けた刀剣ということで展示されているのであろう。戦時中なので、恐らく神職、氏子、地元山林関係従事者らは相当数が出征していて、境内地の管理、付近の山林の管理が行き届いていないのが大きい原因ではなかったか。しかも、金属は供出、化石燃料は不足し、薪を燃料とする自動車も当時登場していたそうだから、山林から木材の切り出しのため、多くの神社と無関係な人も付近で行動していたろう。よって、何等かの失火が大火になったのではないか。

 この展示室は、部屋の面積が一番大きかった。
 入館者であるが、刀剣女子世代も多いのだが、比較的年齢層は高い。本日、展示最終日ということもあろう。
 ざっと見ると室内は40人弱ではないか。男性も多い。15-16人くらいは男性。男性は老年、中年などが比較的多いような。若者の男はいないかな・・・、親と一緒に来ていた小学生くらいの子はいるが。女性の入館者は年齢層はバラバラ。10歳台から20歳台前半くらいの「刀剣女子」のコア世代??は4-5人くらいではなかったか。制服を着ている女子高生もいた。刀剣女子世代はあまり、多くはないと記憶する。20歳台後半から30歳台前半くらいの人が、1-2人くらい。40-50歳台くらいが5-6人くらい。明らかに60歳以上の女性は5人前後ではなかったか。比較的、刀剣女子がブームとなる前のここの館のコアな入館者世代も多く見学していたと思う。
 次の展示室に移動する。 この展示室は小さい。
 時期不明の焼身の刀剣の展示があった。
 太刀 銘 則宗 ・・・元々は公家の鷹司家に伝来したという。1693年?の折り紙によると代は金150枚?という。
 (具体的な値段表示は忘れた。)
 短刀 銘 行光 号 不動行光 個人所蔵 ・・・元々小倉藩の小笠原家に伝来したという。
 その号の通り、刀身には不動明王と両脇の二童子の姿が刻まれていた。背後の炎も刻まれている。1717年の本阿弥光忠の「折紙」によると金100枚と評価されているそう。焼けた時期も不明で、再刃した時期も不明とのこと。一見して、焼けた刀とは見分けがつかない。

 と先程、男性職員に色々聞いていた黒いタイツのオカッパ頭の女の子が入って来た。小さい部屋なので、話声が響く。引き続き解説付きで会話しながら、展示品を鑑賞している。やっぱり、ここの特別会員か研究関係の大学院生?兼刀剣女子かな??。
 次の部屋に国宝の刀剣の展示があった。順路最後の展示室であった。

 ↓ 玄関付近壁の表示。 ポスターと同じ画像である。
  太刀 銘 友成 平安時代 日光東照宮宝物館の画像だ。

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「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞3  2019年2月

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞3  2019年2月最終日

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。今まで三島には何回も来ているのに佐野美術館のことを知ったのは、ほんの3年か4年前のことだった・・・・。「刀剣女子」がブームのおかげです。


 明暦の大火で焼けた刀の展示に続き、長方形の展示室の、長辺、つまり長いガラスケースの展示品を見ていく。 お江戸の時代の文化年間の「日光の 東照宮」の火事のことについての解説ボードがある。
 「文化9年」に火事があって焼け出されたそうだ。西暦でいうと1800年以降、19世紀に入ってからの火事。明暦の大火からだと、150年くらい経過している。火事のときに奉納された刀剣を保管している箱を神官、輪王寺僧侶?(当時は神仏習合なので)らが持ち出ししたが、家康の遺品、歴代将軍が奉納した刀剣をはじめ、ほとんど焼けたそうだ。残ったのは、解説では書いてあったか?、その数は忘れたが、1箱くらいだったらしい??。
 (別室の国宝の展示があった展示室においてあった図録の解説文には、文化9年の東照宮火災では、徳川家の将軍などから、多数の奉納されている刀があった。火事のときは(保管していた)一箱5口(の刀)のみ持ち出しされた。残り200口の刀は焼けた。昭和58年から62年にかけて、再刃された。人間国宝など数名の刀工が、再刃を担当した、ということが書いてあった。)

 展示品は日光東照宮宝物館からの貸与品である。

 ガラスケースの前は、人だかりである。と、紺色の短いスカートに足は黒タイツ、ベージュのスブリングコートを着た女の子が入ってきた。学芸員らしき40歳くらいの男性職員?とともに見ながら色々聞いている。職員は、色々と説明して女の子とやりとりしている。話し声が目立つ。女の子は、学生か20歳台なかばくらいの年齢。なぜ、この人だけ解説付きで会話しながら、展示品を鑑賞しているのか、ちょっとわからない。専属説明ガイド制度があるのだろうか?、ここの何かの特別会員なのか、(年齢からして)何かの関係がある大学院生なのか?、ともかく特別待遇っぽかったです。

 壁沿いのケースとともに室内の平ガラスケースにも展示されている。「日光東照宮焼身茎押形集」という資料も展示してある。焼けた刀は「焼身」というらいく、そのまんまの呼び名・・・。刀剣の根本、茎(なかご)がわかるようにカタログのようにイラストを墨書したもの、見本だったと記憶する。
 太刀「一」の展示がある。備前一文字の太刀なので「一」。国宝の「一」の展示もある筈なのだが、この刀剣では無い。1663年に水戸徳川家の当主 光圀が奉納したものだそう。せっかく、奉納したのに焼身になってしまって・・・・。失火の責任は、当時誰ががとったのだと思います。
 太刀 銘「国行」、「正恒」、「助平」、「了戒」、「備前国住雲次」があった。特に「正恒」「国行」は、国宝に指定されている作品も鑑賞したことがあるぞ。いずれも再刃されていた。「助平」と言う名前が気に入ったが(苦笑)、「助平」は現存作品があまりない、名工らしいのだ。再刃したものとはいえ、大変貴重な名品とのこと。昭和61年に再刃されている。再刃は、「刀身」の部分を行うようだ。茎の部分は、焼けた後らしく、赤茶色になっているものもある。よって、「ああ、やはり火災に遭っているのだな。」ということが判る。
 再刃の年は「正恒」は昭和62、「国行」は、昭和61、「了戒」は、昭和58、「備前国住雲次」は昭和60年である。いずれも昭和の終わりころ、つまりボクが子供の頃に再刃されている。
 景気の比較的よい、安定した時代になって、文化財の刀剣を再刃して、保存しようという機運があったのではないか?。文化庁の許可も必要であったろう。再刃の刀工は、人間国宝の天田昭次氏と説明にある。
 再刃した後は 心なしか、刃文がうすくなっているような・・・。 

 エントランスにあった撮影コーナーの垂れ幕。 ↓
 キャラクターの背後の画像は、太刀 銘 作友成 平安時代 日光東照宮宝物館だ。
 茎の部分が焼けた後らしく、やや赤茶色になっている。

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 室内には監視員が1人いる。小柄の男性が立っている。「S」と名札をしている。てっきり、本館の創設者 佐野氏の子孫、つまり本館の運営財団の理事の一人かと思ったが苗字は違う。その看視員に盛んに質問をしている中年の女性がいる。若い女の子も盛んにSさんに質問をしている。Sさんも色々と解説を交えながら、答えている。
 私は刃文を見ながらメモを取ったりする。他の博物館、美術館と同様に鉛筆ならばメモをしても監視員は特に 注意されないようだ。
  「文化財は 現状保存が 前提・・・」と再刃したときのことをSさんは話をしていた。更に「×× 先生は・・・」と 再刃を担当した人間国宝の刀工の作風の特徴なども解説していた。「信長・・・」や「細川幽齋から ・・・」というような話もしている。

 上記したが「日光東照宮焼身茎押形集」は、茎(なかご)の見本が28口(書いて)あるという。展示されている平ガラスケースの3つのケース分のスペースをとって、ワイドに展示されていた。


 続く、第三のガラスケースは、展示室の一番突き当り。
  関東大震災で焼けた刀が展示されている。徳川御三家のひとつ、水戸家の倉庫で保管されていたそうだ。再 
 関東大震災で焼けた刀剣は、この水戸家と彦根 井伊家の刀剣の展示であった。
 


 ↓ 玄関付近の表示。 
  垂れ幕の掲載画像が、日光の火事で焼けとなった 銘 「助平」 日光東照宮宝物館所蔵であった。
  不動明王が持つ剣の形の溝が風間れているが、見事に再刃されていた。
  茎の部分は、あまり赤くなっていない。

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「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞2

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞2  2019年2月

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。今まで三島には何回も来ているのに佐野美術館のことを知ったのは、ほんの3年か4年前のことだった・・・・。「刀剣女子」がブームのおかげです。

 展示室は2階だった。高床式のようになっている。広い階段を昇ると2階の廊下に。長方形のコンクリートの建物、1階部分はエントランスと受付、高床式のような2階にある展示室の造りは、規模はかなり違うが奈良国立博物館のようだ。
 最初に常設展示を見る。小さな通路のようで、通路に沿ってガラスケースが設置されている。
 重文の 大日如来坐像が展示されている。仏像の展示スペースは、ガラスケースは無い。目の前に昔の仏像が展示されている。 平安 木造乾漆造と解説にある。隣に重文の蔵王権現像。所謂いまで見た蔵王権現と同じお姿の仏像だ。1尺くらいの像の高さかな。大日如来よりは小さい仏像だ。

 ↓ 料亭側の駐車場に設置されている看板に国の重文指定の 大日如来坐像

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 ついで、通路沿いのガラスケースには、花籠印籠など印籠がある。説明には19世紀、江戸時代とある。解説には蒔絵印籠と書いてあるが、黒い漆地の蒔絵?のようだ。かんざし?もある。かんざし?は、鼈甲のような飴色。矢立もある。小さい茶釜などのアクセサリがついていた。矢立についている小さい茶釜はつまり、墨壺になっているのだろう。

 「』」字状の常設展示スペースだった。ここ佐野美術館の創設者、佐野氏の個人収集コレクションの展示なのであろう。
 常設展示スペースを取り巻く(囲う)ように、企画展の展示室があることに気付いた。コの字にようになっている。
 ↓ 退出時に撮影した、佐野美術館の建物入口と外観。2階が展示室。

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 映像コーナーがあるが、設置されているテレビには電源が入っていなかった・・・・。ソファがあるので、しばし休憩。同様に見学者が休憩している。女性の二人連れなどの入館者がいた。
 映像室の隣は、展示室があり展示物も見えるのだが、退出してくる人のみ。順路最後の展示室のようだ。企画展の最初の展示室入口は階段を挟んだ別の所にあったので、その入口から企画展を鑑賞開始する。
 
 室内に入ると人が多いことに「おおっ」と感じた。館の外では、多くの人が出入りしている様子はないが、展示室内は被とが多い。ガラスケース内の展示品の前には、すべて人がはりついていて、鑑賞している。
 第一のガラスケース。長方形の展示室の「短辺」の部分。展示順番の最初にあたるので、ここから見ていく。

 最初の展示は「短刀 無銘正宗」 徳川美術館所蔵。「正宗」で有名なアノ正宗から展示開始。以前、国宝の「正宗」作品も同館で鑑賞したことがある。
  現在の「刀剣ブーム」が起きる前から「正宗」くらいは知識として知っていた。あと、妖刀として名高い、徳川=松平家因縁の「村正」くらいは知っている。ただ、正宗と村正は「正」の字は共通しているが、時代も住地も全然違う。
 展示を見ていったのだが、刃は光っていても、持ち手のところというか、茎(なかご)というのか、根元の部分が黒ずんている展示品が多い。展示のタイトルは「大坂城落城」。説明文には「豊臣氏の滅亡、大阪城の落城に際して、多くの刀剣も同時に焼けた・・・・・。」という意味の内容が書いてあった。
 次の展示は同じく「短刀 正宗」。こちらは、銘が彫刻されていて、判読できる。「相州住正宗」とあり、今の私と同じく、相模の国在住だ。俺は、言うなれば「相州住良月」だな・・・・

 説明では、細川家(つまり、細川幽齋)から豊臣秀吉に献上され、大阪落城の際に焼けたが、徳川家のものとなり、(刀工)の康継によって再刃され、御殿守?、御守殿?、に置かれたとある。同じく徳川美術館所蔵なので、戦利品として、尾張家に伝わったものだろう。茎の部分は赤茶色で鉄の成分が酸化して露出している感じ。銘は読める。

 別の短刀「銘 正宗」 徳川ミュージアム所蔵は「焼身」とある。企画展のパンフレットによると「やけみ」と読む。
 「徳川ミュージアム」所蔵なので、水戸徳川家に伝来した刀剣である。大阪の落城で焼けて、康継が再刃したが、1923年の関東大震災で再び焼身となったらしい。
 「康継」という刀工の名前が登場した。越前の刀工とのことだ。「脇差 貞宗」の焼けたものと、それを復元して、銘文を刻印した作品が展示されていた。。「脇差 貞宗」は、越前 丸岡の城主だった本多成重の所持した短刀。その短刀を越前の康継が写して、作成したものらしい。丸岡城は以前行ったことがある。「一筆啓上」でも有名だ。
 写しの短刀には「越前国康継」と刻銘されているのが読める。焼けた刀は錆びているというか、赤茶けている。刀剣は火災の高温でも溶解することなく、原型はとどめている。鍛造するときに高温で鍛えているので、一般の火災では溶解することが無いのだろうか?。

 説明には「再刃」という言葉が何回も登場した。文字通り、一度焼けた刃を直して刃文を復元するというか、造り直すという意味なのであろう。
 今回の企画展の名称にある「REBORN」とは、「現代に蘇る昔の刀剣」のことかと思っていたが、全く相違した。一旦焼けたが「再刃」して文字通り「再び蘇った」刀であったのだ。私は誤解していた。

 室内の柱の横に短刀の展示の独立ガラスケースがある。「短刀 銘 宗近」である。名古屋の徳川美術館の所蔵であった。独立したケース内の展示なので、特別な刀かと思ったが、特段印象に残る来歴は無かった。

 第二ガラスケース。
 まず「明暦の大火」の解説ボード。大火の説明には「・・・・・江戸城にも 飛び火した。 西の丸は類焼を逃れたが、このとき本丸、二の丸、三の丸が焼け、本丸天守閣も焼け落ちた。其の後、江戸城の天守閣は再建されなかったと書いてあったかは・・・・、忘れた。実際に、再建されずに現代に至っているし。

 この明暦の大火で焼けた刀が展示してあった。
 かの桶狭間の戦いのときに今川義元を討ち取ったという刀なのだそう!!。「桶狭間」といえば尾張の「信長」の戦いである。どうして、西暦で1657年、桶狭間から100年近く後の大火、しかも江戸の火事で焼けたのか?。
 重要文化財の「刀」、その名も由来からとって「義元左文字」 建勲神社所蔵。金象嵌で、「織田尾張守信長」と本当に彫刻されている。裏には「義元討捕・・・所持刀」とあるそうだ。一度、焼けたので、同じく茎の部分は赤茶色で鉄の成分が酸化して露出している感じ。再刃しても、根元の茎の部分は再刃していない。切る「刃」の部分ではないので当たり前か・・・。
 討ち取りに使用した後、武功を残すため、彫刻したのだろう。金色の文字は鮮やかだが、大火で焼けた後に再び入れたのだろう。説明によると由来は「豊臣秀頼から家康に渡り、徳川家が所蔵したが、明治時代になってから、信長を祀る京都の建勲神社に奉納された」そうだ。「刀」なので太刀のように刃は下向きの展示ではなかったと思う。








「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞1

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞1   2019年2月

 佐野美術館に初めて来ました。今まで三島には何回も来ているのに佐野美術館のことは知らなかったのだ・・・。知ったのは、ほんの3年か4年前のことだ・・・・。「刀剣女子」がブームとなり、関連して重要な刀剣を多数所蔵している佐野美術館が取り上げられるようになったからだ。
 特に昨年、京都国立博物館で開催された「京のかたな」展では佐野美術館の館長さんもテレビ番組で解説に出演された。よって佐野美術館がマスコミでも広く紹介されたのは記憶に新しい。最近まで知らなかったのは、本当に恥じるべきことだ。
 しかも当初「佐野美術館」は栃木県佐野市にあるのかとも誤認してしまい、実際の所在地、静岡県三島市と結びつかなかった・・・。本当にお恥ずかしい限りだ・・・。
 
 今回は、車で御殿場経由で三島に向かった。三島市街地の手前、新幹線の線路や東海道線のガードをくぐる道路は渋滞して、混雑している。三島大社付近の道路などを通過。久しぶりの三島だが、何回も来ているので慣れているぞ

 「市街地を南下し、修善寺への鉄道線路の踏切を渡る。と、道路沿いに「佐野美術館」と小さい看板がある駐車場に車を入れた。15時頃に着いた。
 Pには、車がたくさんある。「松韻」の料理店と併設であった。「なーんだ、いつも通っていた、この料理店の駐車場が、美術館の駐車場だったのか!!。」と改めて思った。三島のうなぎの店を探していたときに、この店の前は何回も通ったことがあった。特に「三島うなぎ」と看板は出していなかったので、今までここで食事をしたことは無い。「随分、車が停まっていて混雑しているお店だな。」という印象はあった。

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 駐車場(P)の端には美術館の案内看板があった。「ああ、本当にここにあるのだ。」と再確認に、なんだか安心(笑)

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 門のような通路があり「入口は、ここかな?。」と思うが、美術館自体は「庭園を抜けた先」と表示が出ている。 建物の脇の通路を通り、庭園へ。と、母と娘らしき女性二人が庭園を散策している。
 庭園から、料理店の店内の様子が見える。昼食時なので、店内は混雑しているようだ。庭園側はガラス張りになっていて、眺めながら食事ができるようになっている。
 事前にサイトで確認した通り、美術館は庭園に隣接している(というよりも庭園内にある)のだ。

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庭園から、料理店の建物外観

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 庭園を抜けるとコンクリートの建物が見えた。四角いコンクリートの高床式の無機質な建物。この日は企画展の開催最終日だ。またしても、最終日の訪問となってしまった・・・・。
 駐車場は館の建物の周囲にもあった。
 
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 階段を昇り、館内に。結構、観覧者が建物の外観を撮影している。美術館の建物に隣接するPは、表通りの道路とは反対の住宅地側から入ることができるようになっていた。「気付かなかったな。今までも、来ていればよかったな。」と思いつつ、階段上から目の前のPの様子と周囲の住宅地を見ながら入館した。
 と、ロビーには、小さいながらもショップがある。いましたよ~ここにも刀剣女子が。というよりも、既にここ佐野美(と以下略称する。)は「刀剣女子」の重要な聖地のひとつである。
 女子の入館者がショップに数人いる。皆、グッズなどを見ている。
 受付はメガネをかけ黒髪を後ろで束ねた黒いスーツ姿の女性が1人立っている。受付係員は1名のみで入館券の販売も「短刀」ならぬ、「担当」していた。1000円丁度の入館料金。千円札1枚を出して購入する。
 ロビーの柱には「(この企画展で) 二万人入館達成!!」と垂れ幕がかかっている。
 企画展「REBORN 蘇る名刀」の会期は、1月の上旬から休館日も含めて1ヶ月半くらいである。2万人という数字が多いか少ないのかは、何ともいえなはが、ここ佐野美では、恐らく空前の入館、鑑賞者なのであろう。 以前は、大勢の入館者が押し寄せる美術館ではなかったであろう。
 三島市内の他の観光施設と連携したスタンフ゜ラリーの台紙が置いてあった。しかし、スタンプラリーも本日が最終日であった・・・。よって、スタンプを集めることは不能だ・・・。でも台紙は貰った・・・。



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2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞4(最終) 

 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞4(最終)

 筑前派の国宝の刀剣などを見た。
 長方形の室内の中ほど、平ガラスケース内に展示品がある。刀剣の解説文書の展示がある。京都でも同様の古文書が展示されていた。刀絵図 元和元年の奥が木があるもの。 個人蔵 の展示があった。国の文化財指定は重要美術品。京都でも展示があったかな!?。
 秀吉の所蔵の刀剣「太閤御物」の押形集であり、730と多くの刀剣の図が記載されているという。これは、現物を徳川の世の元和元年に埋忠壽齋なる人物の手により写したものという。ここに記載されている刀剣のうち、17点が国宝に指定されているそうだ。
 「太閤御物 たいこうぎょぶつ」とは、まるで天皇のコレクションのような呼び名だ。ホントに太閤から伝わったから「太閤 左文字」の意味が分かった。
 秀吉は信長の家臣時代、「羽柴筑前守」と呼ばれていた筈。秀吉が最初に城主となって、ついに大名クラスに出世し貰った官位が「筑前守」。筑前には想い入れがあったと思う。のちに、自分の筑前守の官位は親友の前田利家に譲ったと記憶しているので、筑前派の刀剣は好んで自分のコレクションに加えたのであろうか?。
 説明によると現在、展示してある 国宝 短刀 筑前 左文字と刃文の特徴の構成が一致している。「筑州住 左」の書き込みもあり、書き込みされている長さも「7寸7分・・・」と一致しているそうだ。
 墨書されていて、刀身や刃文が見事に筆写されている。確かに寸法も明記されている。ホントに現物を見て、記録したものである。(今見ている展示品は更にその写し)
 昔の刀剣のカタログといったところだろう。

 そろそろ、退出することにする。
 実は展示室内には、座るところは少ない・・・・・・。丸くて大きい、かわしいい感じのソファが3個くらいある。展示室内のそのソファはずっと座っている人がいて、(腰が痛くても)座ることは出来なかった・・・。ひとつのソファに、女三人が、ずっーと座ってで話をしていた・・・・。私が展示室内にいる間もずうっと丸いソファを占拠していた・・・・。

 三人のうち二人はかなり太っている。年は40くらいかな。太っていると実年齢よりも上に見えるので、実際はもっと若くて30歳台と思う。三人のうちもう一人も、見た感じ同じくらいの歳のお方。体は大きいが、下半身は細い。話していて、笑うと目じりにシワが出来る。目がぱっちりとしている美人だが、上体は太っているので実年齢は上に見えるので三人のうち一番年は上だろう。ゲームのオフ会のようで、色々と、ずっ-とおしゃべりしている。時折笑ったりして、決して大きい声ではないのだが、結構気になる・・・・。特に係員は注意しない。人が出入りしているので室内はザワついているかんじ。
 展示室を出るときに、目視で来館者を数えると室内に40人くらいいて、うち男は10人くらい。小学生の女の子も二人くらいいた。家族できているか。中学生くらいのメガネをかけた女の子も1人いたかな。
 白髪の年配の女性も熱心に展示を見ていたが、1人~2人くらいしかその年代の女性はいなかった。変わらずゲームを契機とする「刀剣女子」が多いようだ。来館の刀剣女子のメガネ率はとても高い。もしかしたら、60%以上ではないか?。もっとも男子よりも、女子の方が近視率は一般的に高いし、メガネをかけた方が見やすいからね。黒髪率も高い。(だから何だという感じだが。)西洋画の展覧会とは客層が違うような気がする。(以前も書いたが。) 外国人の入館者もいた。ドイツ人のようなブロンド色の髪の背の高い女性もいた。

 最後に入口付近のガラスケース内にあった 国宝「江雪左文字」を もう一度見る。
 この作品のみ撮影が可能。
 ガラスケースの前の人が少なくなっていたので、この時点で撮影した。先程は混雑していたが、私が退出直前、この国宝の刀剣の前には、入館したばかりの20歳くらいの女の子2人がいたのみだった。彼女たちを避けて撮影したのが投稿した画像。2人のうち1人は赤いチェック模様のシャツとジーンズ、小柄、153cmくらいで茶髪のセミロング。刀剣女子は黒髪の子の地味目の服装のが多いと認識していたが、珍しく少し派手な外見である。

 館内には、撮影禁止の注意事項は何も書いてない。受付のところに係員の男性2人がいる。以前と同じく巡回し基本的にしない。監視カメラはあるようだが。一回だけ室内を巡回して、落ちとているチラシなどを拾ったが、あまり 室内の巡回と監視はしていない。
 よって「撮影禁止」と展示室の入口には書いてあるのにもかかわらず、「撮影禁止」が徹底されず、長方形の展示室内では撮影をしている人もいたのは残念だった。

  ↓ 

  (再掲載) 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字) 。小松コレクション(ふくやま美術館寄託) 
 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)の拵 ↓ 黒漆研出鮫打・・・と解説にある。
 
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 (再掲載) 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字) ↓ 
 

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  ↓ 階段でロビーにくだる。 三階を見上げる。
 室外にイスはあるが、出てしまうと受付を再度通る必要があるので、鑑賞の途中で、室外に出て休憩できるのかが、解からない・・・。よって、腰が痛くともずっと鑑賞していた。あー、座りたかった・・・(けどソファに空きが無かった・・・。)。

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 1階に戻る。

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 ロビーにあった旧両国公会堂の写真パネル。

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 昨年の展示でも同様に感じたが、インターネット通信を媒介とするゲームでのブームには、何か危うさを感じた。新規のファン層が広がることは、文化財の保護、古文化の振興にとっては、大変望ましいことだが。
 オンラインゲームというどこで誰とつながるかわからない世界・・・。刀剣のゲームにはまっているのは、まじめそうな、一途な女の子が多い。
 「ファミコン世代」のボクとしては、明らかに昨今のゲームプレイ層は私達の頃とは違うと感じる。ここでの展示の見学者達を見てもまじめそうな、一途な女の子が多いのは明らかだ。(別に悪いといっているのではない。)しかし、文化財が展示されている室内で、他の来館者は全くスルーして、ひたすらおしゃべりを続けるいい歳の女性達もいる・・・・。
 オフ会や、オフラインでの個別のコンタクトなど、インターネットを媒介とする通信ゲームでの匿名性の高い仮想世界での最初の繋がり(ファーストコンタクト オブ ヴァーチャル ワールド)に起因して、実際に会ったことによる何らかのトラブル(real metを契機とするリアル トラブル= 何れも私の造語)が現実(マジ)世界で起きはしないかと懸念をしてしまうのは、私だけだろうか。

2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞3 

 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞3 

 今年最初の都心部の博物館関係へのお出かけだ。
 刀剣博物館は二回目の訪問である。

 
 展示はリスト通りの順番に並んでいるので、わかりやすい。

 企画展「筑前左文字の名刀」のチラシ拡大 ↓

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 重要文化財 短刀 「銘 安吉」(やすよし)(名物 日置安吉) この短刀は岡山藩の家臣 日置家のものという。日置(ヘキ)家は備前岡山藩主 池田家の重臣で万石以上の禄高の筈。よって大名クラスである。確かに岡山には日置(ひおき、へき)という地名があったな。
 元々は、日置家の所有で、のちに金沢の前田利常の所有となった。代々前田家に伝わった。重臣 日置氏は他大名家から主家池田家のある刀を「譲ってくれ・・・・・」と言われても同意しなかったという。
 この「名物 日置安吉」は「備前の長船の(名刀工)兼光をほうふつとさせる」作品と言う解説がある。
 のち、明治時代の鑑定家 今村長賀の手に渡り?、鑑定して、岩崎(弥之助)家に所有されたという。現在は岩崎弥之助の文化財を保有する静嘉堂文庫美術館の所蔵。
 チラシにも写真掲載があるが、根本から投信の真ん中は、小乱れというか、波をうつ刃文。そして、刃先の刃文が太くなっている。どこか、どっしりとしている刃文と感じた。

 平ガラスケースに、同じく重要文化財 「左安吉」(さのやすよし)の短刀の展示があった。日置安吉の作者と同一人物かは不明。所蔵は「犬山白帝文庫」とある。つまり、犬山城主であった尾張附家老の成瀬家伝来の刀剣の展示である。
 刃文は忘れたが、刀身に不動明王の持っている刀の刻みがある。
 
 向かって、左手の長辺のガラスケース内(順路でいうと、第三コーナーの長い展示ガラスケースというのだろうか?。)に「国宝 短刀 銘 筑州住行弘」土浦市立博物館所蔵があった。
 茎のなかほどに「筑州住行弘」と刻まれている。行弘は左文字の高弟にあたる1人という。作品に太刀は少なく、ほとんどが短刀だそうだ。
 年号は展示では見えないウラにあるそうだ。観応元年なので、南北朝の時代である。「年号、1350年の年紀が刻まれているのは貴重」という解説文。
 一昨年のふくやま美術館で「見た気分」になっていたが、展示期間の関係で見ていない。私が福山で見たのは、太閤秀吉ではなく、家康など徳川家由来の国宝刀剣群だったようだ・・・・。
 先は、やや湾曲している刃文だ。「色が明るい」とも書いてある。確かに刃文の色が明るい、ライトシルバーといった感じ。「・・・左文字の大成後の刃文の柄・・・」という。「内反り」といって、反っていない。背が刃の方向にやや丸まって曲がっている。
 「土浦藩土屋家旧蔵」と由来が書いてある。よって、現在は土浦市立博物館の所蔵。
 しかし、解説文には「中世以降、筑前派は姿を消した・・・」と書いてあった。
 よって現在の五箇伝にも筑前は入っていない・・・・・。筑前の作刀技術は継承されなかったようだ。その後の筑前など九州の刀工についての展示解説があったのかは忘れた・・・。

 企画展「筑前左文字の名刀」のチラシ拡大 ↓


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 値段が書いてあるという刀剣の展示があった。 「太刀 銘 吉弘」 東建コーポレーション所有
 文化財指定は無いが、ここ刀剣博物館の指定であろうか特別重要刀剣と展示リストには書いてある。
 本阿弥光忠の「折紙」によると「金子 参拾五枚・・・」と書いてあるそうだ??。小判で35両でろあうか。
 (記憶違いかもしれない。拝領品の附け書きに値段は書かないと思うし、別の作品だったかな。)

 岡山藩の池田継政に、徳川吉宗から授けられたと書いてあった。片諱を受けたのは、一代前の家継からであるが、実際に当主になったきとは、吉宗の時代だった。だから、吉宗から拝領したのであろう。
 隣に「短刀 銘 吉貞」 東建コーポレーション所有も展示がある。水戸徳川家から伝来と書いてある。
  
 あとは、ざっと見たが、平ガラスケースに、先日に行った松山の松平家伝来の刀剣の展示があった。「久松家伝来」と説明には書いてある。
 「短刀 銘 国弘作」 27cm 反り0.5cm ほぼ、反りが無い短刀。東雲神社所有。
 茎の下に「国弘作」と銘が刻んである。茎は、すりあげ(用語を覚えてきたぞ)しているのか、短い。つまり、もつ所が短い。刃文は細い、ほぼ真っ直ぐだ。すうっとしている、刃文。刀身にはキズのような文字が刻んであった「併」のような「丼」のような文字。梵字だろうか。不明だ。

 




 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞2 

 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞2 

 今年最初の都心部の博物館関係へのお出かけだ。
 刀剣博物館に向かった。二回目の訪問である。


 国宝 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字) 小松コレクション(ふくやま美術館寄託)を見た後、展示室内の広いに場所に出る。長方形の室内を見回すと、前回に比べると人は少ないかな・・・。やや「ほっ」としたかんじになった。前回は混雑していたし、撮影ができる刀剣が多かっので展示ケース前で人が滞留して難渋したし。

  ↓ 刀剣博物館入口 2019年1月撮影。 


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  順路最初の展示品は「短刀 銘 良西」。展示リストの番号は1番である。良西は、「筑前派の祖」と作品解説文にある。だから、最初に展示されているのだと理解した。
 短刀といっても、他の短刀と比べても小さい。長さは22cmであるが、こぶりな小さい刀だ。

 3番目の展示に 短刀 銘 国吉 国の重要文化財指定。(筑前、つまり現在の福岡県の福岡市博物館所蔵であった。) 銘 国吉の短刀は、同じ短刀でも 銘 良西よりもおおきい。
  国吉は、1番目の展示の良西の子という。しかも、西蓮(サイレン?)という法名を持つという。国吉が出家した後の法名が西蓮というのだ。
 重要文化財指定の太刀も展示がある。銘は「筑前国博多談義所 国吉法師西蓮」と刻まれている。厳島神社所蔵。 この太刀は、広島藩の家臣 岡田家に伝来したものという。いつの時代か忘れたが、広島 浅野家領内のの代表的な神社 厳島神社に寄進されたものだろう。解説の文章には「匂・・がややうるんだ刃文・・・」と書いてあるが、難しくて理解出来ない。刀身の真ん中や先端付近には、湾曲した刃文がある。「湾」のたれととうのか、私は小乱と思ったが、違うようだ。「博多談義所」という場所があり、そこの出家した法師 西蓮、出家前は 国吉 の作という意味の銘だろうか。まさに「筑前 博多」の刀工であることがわかる。当時の博多は、商業都市で、権力をもった領主の直接統治ではなく、一種の自治都市、自由都市のような存在ではなかったか。
 他にも西蓮の銘の作品が展示されていた。

 続いて順番に見ていく。
 重要文化財指定 太刀展示 銘「元弘三年六月一日 実阿作」 熱田神宮 所蔵。日付まで入っている太刀という。網直刃というのか、刃文はまっすぐである。鎌倉時代の元寇があったころの作であろうか。刀身の部分にも銘があり、刀身切付銘というらしいが、「文禄×年×月・・・・松下小一郎守勝 奉寄進熱田大神宮・・・・」とある。後世、秀吉の時代に松下氏が熱田神宮に寄進した由来が刻銘されているようだ。
 名前が松下小一郎なのでかつての秀吉が青年期に仕えた、松下家の人かな。秀吉の出身地に近い、熱田神宮に寄進したのだろうか。「実阿」も出家した僧、時代が近い、快慶のような仏師のような名前であるが、西蓮の子という。

 展示はリスト通りの順番に並んでいるので、わかりやすい。
 国宝 短刀 銘 左/筑州住(号  太閤左文字) 小松コレクション(ふくやま美術館寄託)があった。
 京都国立博物館の展示リストを復習すると、2か月前に京都国立博物館の特別展「京のかたな」で見ているのだが、すっかり忘れている
 一昨年のふくやま美術館で「見た気分」になっていたが、展示期間の関係で見ていない。私が福山で見たのは、太閤秀吉ではなく、家康など徳川家由来の国宝刀剣群だったようだ・・・・。
 解説には「・・・互いの のたれ? の目を交えて・・・・」とあったようなー・・・・。私が実見するところやや湾曲している刃文だ。「浜松藩の井上家に昭和時代の初めまで伝来していた・・・・・」と由来も書いてある。その後、実業家が恐らくは購入し、このときか、更にのちの時代に同じく実業家の小松コレクションの一部となったのだろう。
 茎(なかご)の下に「左」と一文字のみ、銘が判読できる。
 拵も横に展示されている。国宝の「附(つけたり)」指定になっている。唐草文様のある、さやであるが、金色の三つ葉葵の文様がある。金箔をまぶして制作しているのだろろう。浜松藩 井上家は老中も務めている譜代の家柄。徳川吉宗などの時代にも老中を務めている当主もいたはず。よって、老中の井上氏の功労のねぎらいに徳川将軍から拝領したものではないか?。 

企画展「筑前左文字の名刀」のチラシ拡大 ↓

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 ↓ (再度掲載) 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)
 

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2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞1 

 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞1 

 今年最初の都心部の博物館関係へのお出かけだ。
 
 ※ まずは、神社で初もうで。国宝の刀剣の展示も見た。国宝の刀剣は季節ごとに定期公開されるようなので、記事は後日とする。
 「ももてなし家」での食事の後、刀剣博物館に向かった。二回目の訪問である。

 電車にて両国駅へ。駅を降りる。国技館の前を通過する。既に初場所が始まっているためか、付近は混雑している。人が歩道にあふれている。力士たちは館の敷地内に入ってから、送りの車で降りるのではなく、車道、歩道の脇に車を停めて敷地内に入るようなのだ、それを待ち構えているらしいのだ・・・・・・。
 事情がわからない私は人ごみを避けながら、歩道を歩いて博物館の方向へ。首都高の高架に沿って歩く。人ごみを抜けるとホッとした。と目の前に旧安田庭園の入り口があらわれる。今回は、園内は通らずに園の横の塀沿いに博物館へ歩道を歩いて向かった。
 旧安田庭園に来るのは、すっかりおなじみすみ(済み)だ!!??。ええーとここは「すみだ」く(墨田区)・・・。

 

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 刀剣博物館のコンクリート打ちっ放なしの真新しい建物の内部に入る。

 ↓ 刀剣博物館入口 2019年1月撮影。 12月に撮影した画像と区別はつかないが・・・。

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 1階のロビー、先日も来たが受付のハイテーブルで入館料金の1,200円を支払う。
 最初は「千円札1枚なので、ちょうど支払いやすいなあ。」と千円札1枚を用意していたのだか、今回は「1,200円」と言われた。ボクは、慌てることなどはせず、冷静に200円の小銭を取り出して支払ったのであった
 今回は企画展「筑前左文字の名刀」なので所蔵品以外の他の館所蔵の貸し出し品の展示も多数あるから、前回の1000円ちょうどではなく、観覧料金が違うようだ。

 ロビーやその先の休憩スペース、受付そばの売店には、刀剣女子の若い女の子達がいる。しかし、前回、昨年末の訪問時ほど混雑はしていない。今回も「展示室は3階です。」と言われ、係員に指示された通りにエレベータで3Fにいく。

 今回の企画展は「撮影禁止」との表示がある。展示の室内に入る。展示室入口のカウンターで再び入館券を見せて、半券は回収される。ここには、前回と同様初老の男性係員2名がいて、半券をちぎって回収している。昔からの刀剣博物館の職員といった感じ。カウンターの上には「日本刀鑑賞の手引」である「日本刀の基礎知識」の新しいパンフレットが置いてあった。上質紙のカラー印刷である。係員から「どうぞ」と言われたので、頂いた。
 入室する。と、受付の廊下の先の正面、展示室第一のガラスケースには、国宝の刀剣の展示があった。
 
 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)であった。小松コレクション(ふくやま美術館寄託)であった。
 他の美術館保管の作品であるにもかかわらず、この展示だけは撮影可能であった。一昨年(2017年)の秋にふくやま美術館を訪れたが、太刀 銘 筑州住 左 (江雪左文字)は展示していなかったとおもう。
 刀剣は名称似ているし、区別がつきにくいので、どれを見たか見なかったのか、判別が難しい。反対に「あれっ、これ見たぞ。」と誤解してしまうことも・・・・。
 皆、かたまって撮影をしているので、入り込むスキがない。
 その拵(こしらえ)が横に展示してあった。

 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)の拵 ↓ 黒漆研出鮫打・・・と解説にある。
 黒い漆と鮫皮で・・・・という工芸手法であろうか。
 
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 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)
 刃紋の幅が太い。なかほどの下に一部波を打つような刃紋(刃文)があって、その先はスーっとほぼ真っ直ぐのような。受付にあった「日本刀の基礎知識」によると「湾れ(のたれ)」の刃文なのかな?。
 先端にキズがあったのが、見えた。画像には写っていないが、キズがあるのだ。(だから、何だというのか、オレは理解していないが・・・。)
 そもそも「刃紋」なのか「刃文」なのかも未だに理解していない・・・。

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 ↓ 太刀 銘 筑州住左 (号  江雪左文字)  茎の拡大。
  銘は一番下の部分、穴の下側に「左」とあるのが見える。あとは、判別できない。丸い穴がいくつもあいている。

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 国宝を見た後、展示室内の広いに場所に出る。長方形の室内を見回すと、前回に比べると人は少ない・・・。「ほっ」としたかんじになった。前回は混雑していたし、撮影ができる刀剣が多かっので難渋したし。



2018年12月 刀剣博物館 企画展「諸国漫遊-多彩なるお国拵と日本刀5ヶ伝を巡る旅」 鑑賞1 

 2018年12月 刀剣博物館 企画展「諸国漫遊-多彩なるお国拵と日本刀5ヶ伝を巡る旅」 鑑賞1 

 2018年、平成30年は12月に入った。恐らく、今年最後のお出かけかな。
 刀剣博物館に向かった。刀剣「美術館」ではない。初めての訪問である。以前は、代々木にあったが、東京は墨田川の東の両国に移転した。代々木時代は、明治神宮にも程近い、参宮橋が最寄駅であったようだ。「ポニー公園」などに子供を連れて来たこともあったが、実は刀剣博物館とも近かったらしい・・・・。
 
 今年(2018年)は、京都国立博物館での特別展「京のかたな」にも行った。もっと早くに刀剣に興味を持てばよかった・・・。遅すぎたよ「刀剣男子」としてのデビューが・・・。 

 電車にて両国駅へ。駅を降りる。国技館の前を通過して、博物館の方向へ。首都高の高架に沿って歩く。と目の前に旧安田庭園の入り口がある。無料であったので、園内を通って博物館に向こうことにした。
 旧安田庭園に来るのは、久しぶりだ。

 

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 この日の14:25頃、公園内を通過した後に博物館に入る。

 刀剣博物館の建物は、庭園のすぐ横にあった。かつて、同じ場所にあった旧両国公会堂のオレンジ色の外壁ではないが、丸い尾根の目立つ、コンクリート壁の建物。
 ただし、庭園から博物館には直接には入れない。一旦外に出る。しかし、庭園と博物館の敷地を結ぶ、新しい通路、通用門までできている。
 丸い屋根が特徴的な旧両国公会堂の建物を改修して建築したのかと思っていた・・。しかし、目の前の刀剣博物館の建物はコンクリート打ちっ放なしの真新しい建物・・・・。
 大改装は誤解であり、一旦解体して、新築したのだと理解した。

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 内部に入る。1階はロビーだけのようだ。真新しい建物。受付のハイテーブルと小さい売店、休憩コーナーがある。刀剣に関する紹介コーナーがある。
 受付で入館料金の1000円を支払う。千円札1枚なので、ちょうど支払いやすい。若い女の子が受付にいる。まさに刀剣女子を採用したのかと思う係員。もう一人の女性係員は30歳以上かな。いずれにせよ、刀剣女子世代だ。「展示室は3階です。」と言われる。
 売店は書籍の販売が中心だったような。 昔の図録 「〇〇集大成」というタイトルだったか忘れたが、値段は55000円くらいの書籍もあった。

 展示室は、1Fにはないようだ。係員に指示された通りにエレベータで3Fにいく。
 展示の室内に入る。ここで入館券を見せて、半券は回収される。ここには初老の男性係員がいて、半券をちぎって回収している。昔からの刀剣博物館の職員といった感じ。
 入室する。と、人が多い・・・・・・・。「えっ、こんなにいるの??」というかんじ。室内を見ると全部の展示品のガラスの前に人がいるくらいの入館者数・・・・。
 展示室は、3Fの1室のみであった。長方形をしている。
 展示室の中ほどの平展示ケースには、拵(こしらえ)や鍔などが展示されている。
 刀身のみは、撮影可能だった。しかし、刀身以外の刀装具などは撮影禁止。
 鍔は「金工」のジャンル。鍔の技術は、薩摩などでも発達したそうだ。庄内でも栄ええたそうだ。説明では「酒井氏が(庄内に)入部したから」刀装具などの金工技術が発達したということが書いてある。


 壁側のガラスケースを展示室の入口に近い方から、順番に見て行く。最初は「拵」こしらえの展示である。最初のガラスケースの展示コーナーの半分弱くらいのスペースを拵が占めている。これらの「こしらえ」などは撮影禁止だ。
 この夏に訪問した庄内の致道博物館所蔵の 拵 (こしらえ)が二点展示してあった。

 ↓ 刀剣博物館入口とロビーの様子。

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敦井美術館 「陶聖 板谷波山展」 鑑賞3 新潟市

 敦井美術館 「陶聖 板谷波山展」 鑑賞3 新潟市 2018年8月

 新潟市にある「敦井美術館」(つるいびじゅつかん)、会期は、7月9日から9月22日の土曜日まで。
 
 私が入館したのは、開館時刻直後の午前10時01分くらいであったので、本日最初の入館者であったが、あとから 70-80歳台くらいの女性と息子夫婦と思われる組が入館してきた。次いで、60歳くらいの夫婦が入ってきた。

 波山は、ざくろを好んで用いたようだ。重要文化財「彩磁禽果文花瓶」や「葆光彩磁珍果文様花瓶」と似たモチーフの作品がいくつか展示してある。しかし、どれも小さい作品である。果実や葉の表現が似ている。上記二点が波山の代表作なのでろあう。小さい作品がいくつもあって、大作を制作したのだろう。

 美術館の所蔵作品図録が展示室内のイスの横に置いてあったので見る。今回の出品作品のうち、代表的なものの解説と写真の掲載があった。

 波山の妻も制作を手伝ったそう。「板谷玉蘭」の名で、作品の皿の展示が1点だけあった。「マジョリカ 蕪皿」と作品名が書いてあって、カラフルな彩色の蕪の絵が底に表現されているお皿だった。

 展示の最後の方に、敦井産業創業者、美術館創設者、敦井氏77歳喜寿の祝いの茶碗があった。小さいが波山がオリジナルで制作した作品で「喜寿」の文字が木の枝のような文字に浮かびあがるようにデザインされている。「仙桃茶盆」(「盆」は当て字。正確には違う文字。)。長寿を祝う、桃の果実と枝の作品であった。
 波山の晩年の作品でもあり、敦井氏と波山の深い親交を物語る作品である。敦井氏は、波山に作品を注文していた、いわばヘビーな顧客だったのだ。
 絶筆となった波山の小さい「鉄線花」絵(スケッチ)もあった。波山は満91歳の長寿で没していた。文化勲章を受章した時の写真や最晩年の写真もガラスケース内の壁に掲示されていた。

 他の人はまだ展示室を見ていたが、私はもう一回、重要文化財「彩磁禽果文花瓶」と「葆光彩磁珍果文様花瓶」をじっくりと見て、退出した。
 


↓ 美術館の外、入り口の横に掲示してあった看板。
左、重要文化財「彩磁禽果文花瓶」と右、「葆光彩磁珍果文様花瓶」など。
バスと通行人がガラスに反射して映っている。
  

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 車を取りに戻る。あとで、美術館パンフレットを見て知ったのだが、40分間無料になる指定パーキングがあった・・・。気づかなかった・・・・。

↓ 北陸ビルの一階に美術館はある。車を取りに戻る際に道路の反対側から撮影。
 


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敦井美術館 「陶聖 板谷波山展」 鑑賞2 新潟市 2018年8月

 敦井美術館 「陶聖 板谷波山展」 鑑賞2 新潟市 2018年8月

 新潟市にある「敦井美術館」(つるいびじゅつかん)、初訪問である。
 
 会期は、7月9日から9月22日の土曜日まで。
 入館したのは、開館時刻直後の午前10時01分くらい(笑)。本日最初の入館者である。室内には私以外に誰もしない。シーンという静寂に展示室内はつつまれている。曇天であるため、今までよりは幾分気温が低い。が、この夏の猛暑である。美術館に向かう途中で既に汗をかいているため、室内は冷房が効いていて涼しいので助かった。
 茨城出身の板谷波山の展覧会である。入口横に波山の経歴が掲示されている。現在の筑西市(合併前は下館)の出。北関東の関東平野のドマンナカの出身だ。「波山」の号は「筑波山」からとったことは容易に想像できる。彼の故郷からは雄大な筑波山が間近に見えるのだろう。
 以前、つくば市(つくば研究学園都市)に行ったときも北の方向にそびえる、筑波山が大変大きく見えたものだ。
 明治5年に生まれ、東京美術学校を卒業している。横山大観とは5年違いであるが、出身学校は同じ、出身県も同じ茨城である。が、波山は下館、大観は水戸と離れているし、陶芸と絵画とジャンルは違う。二人にどれだけ交友があったかは、展示からは分からない。年賦によると波山は岡倉天心を尊敬していたという点では大観と共通しているので、それなりの交友はあったと思うが、推測でしかない。
 
 順番に展示室を見ていく。順路が定められている。ほぼ、長方形の展示室を時計と反対まわりに見ていく。
 最初は、花瓶や香合、壺?などの比較的小さい作品。いわば、イントロダクション展示。展示品リストには50点の波山作の展示作品が掲載されているが、掲載は制作年代順であり、実際の展示の順番とは異なっていた。
 ガラスケース内部の展示作品を見ていくのだが、ガラスケースに展示室外のロビーや外の道路を通行する車が反射するのだ・・・・。先程私も開館前に通ったのだが、外の通りを走る路線バスが反射して目にはいってくる。実をいうと展示室内は全くの「静寂」という訳ではなく「ブブーン」という、バスの走る音も聞こえて来ることもある。


 重文(重要文化財)作品は、展示室が折れ曲がるところにあった。展示室は長方形ではなく、くぼんでいる所がある。その角のガラスケース内に大作の展示があった。
 「彩磁禽果文花瓶」

 大きい。高さは1メートルはないが、デカい。「さいじ きんかもん かびん」とふりがなが振っている。その名通り、禽獣、鳥の姿が表現されている。果実は「ザクロ」だそう。

 鳥は、人間のような顔つきをしている。鳳凰だ。「禽」は伝説の鳥であった。実在の鳥ではない。
 鳳凰の横に植物は、ざくろの実とその周囲の葉が描かれている。解説によると、鳳凰はむかいあっているそうだ。作品の「展開写真」の掲示が傍らにあった。オスとメスの鳳凰だ。オスは勇ましく、羽を広げていて、メスはオスの方向をかいがいしく見ていた。(というより、見つめ合っていた。)
 展開写真のメスの鳳凰は、残念だが、どんなに私が首をのばしてガラスケースの後の壁にかくれてその顔は 見ることができなかった。オスの鳳凰を正面に向けて展示しているため、真裏のメスは鑑賞不可能なのだ。
 ざくろのも向かい合ったて表現されている。花瓶は全体的に薄い彩色がされている。濃い彩色ではない。何となく、淡い彩色。

 解説パネルによると、戦後昭和34年、東京のデパートの日本橋高島屋?で開催された波山の個展に出品され、波山自身も代表作と、い並ぶ見学者に解説したそうだ。その模様の写真が掲示されている。死去数年前、齢(よわい)80何歳に達した波山と作品の大きな花瓶とたくさんの見学者のモノクロ写真だった。
 泉屋博古館所蔵の作品に続いて、波山の二番目の重文指定の作品と説明文にある。指定は平成18年なので、指定から10年と少ししか経過していない。


  重要文化財「彩磁禽果文花瓶」の隣に展示してある花瓶も大きい。首の部分が無いだけ、隣の花瓶よりも低い程度の高さ。「葆光彩磁珍果文様花瓶」。「ほうこう さいじ ちんか もんよう かびん 」と読む。
 青い色と花の淡い赤が目立つ。色彩が濃いので重要文化財「彩磁禽果文花瓶」よりも目立つ。
 「ほうこう」が最初、読むことが出来なかった。この「ほうこう」についての説明も書いてあった。


↓ 館外の看板から。
左、重要文化財「彩磁禽果文花瓶」と右、「葆光彩磁珍果文様花瓶」。
実際の展示ケース内でも左右の配置が同じで並べて展示されていた。

  

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 「ほうこう」はその通り、淡い光を保存する技法という意味だった。説明文によると波山は素焼きして、保存料?をその都度落とし、赤、青などの色ごとに焼いて色づけしたそうだ。大変手間のかかる技法であった。


↓ ビルの一階に美術館はある。建物角には「敦井美術館」の表示がある。
 この画像の撮影位置の角度からだと、外からも展示品が見えてしまうくらい、外光が展示室内に入る館であった。


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敦井美術館 「陶聖 板谷波山展」 鑑賞1 新潟市 2018年8月

 敦井美術館 開館35周年記念「陶聖 板谷波山展」 鑑賞1 新潟市 2018年8月

 新潟市にある「敦井美術館」にやって来た。
 久々の新潟市だ。実に2009年8月以来9年ぶりの訪問。前回は、マリンピア日本海に直行し、他の場所を見ずに帰ったので駅周辺の市街地は初めてだ。

 夏の新潟、今回の企画(特別)展の目玉は、板谷波山作の重要文化財指定の「壺」。波山の作品は2点が重文に指定されている。うち、1点がここ新潟の敦井美術館に所蔵されている。今回の展覧会では重要文化財指定作品が「特別展示」されるというので、やって来た

 車で新潟までやって来た。本当は新幹線がよいのだろうけどね・・・・。
 新潟亀田インターをおり、一般道を市内へ。新潟駅の北側道路にやって来た。左手に同駅を見ながら、交差点の先、進行方向の左手のビルにシャッターがおりていて、シャッターには「敦井美術館」の文字が見えた。ここだったのだ、と理解した。

 開館時刻(午前10時)まで少しある。万代橋を渡り、オークラホテルの前を通る。オークラは信濃川沿いのビルで目立つ。某政治党の会合か講演会があるらしい。その先を曲がったりして、市内を走行視察。屋台のある通りを抜けて とある店の前でツレおろした。美術館には行かないため、この付近をプラプラするそう。

 私は美術館の方向へ車を走らせる。もう一度、万代橋を渡る。橋は「まんだいばし」と思っていたが、「バンダイ」と発音すると知った。
 さて、車を停めるコインPを探する。と、伊勢丹がある。開店直前で近くのPに停めた人が店舗へ続々歩いて移動している。新潟では一番大きいデパートのようだ。と、ある一角にPを見つけて停める。広いPですいている。
 道路を渡り、少し歩くと広い通りに出た。さらに適当に歩くと「新潟駅まっすぐ」の表示。と、先ほど通った交差点、駅の方向に美術館の入っているビルが見えた。
 「北陸ビル」とある。ビルに入る。「美術館は奥」と表示がある。ビルの廊下には警備員がいるが、他の人の出入りは無い。この日は、お盆期間の平日である。北陸ビルは古いオフィスビルのようで、会社のオフィスがテナントで入居している。
 ビル1階の廊下を歩くと、「← 敦井美術館」の表示がある。美術館入口に鉄製の重い扉があった。扉には「本日、墓参のため15時で閉館」と張り紙がある。
 扉を開けると、明るい部屋に出た。入口のエントランスがある。明るいロビーである。チケット売り場のカウンターがいて係員の女性が座っている、カウンターの人にクールビズ初老の男性が立っており、その女性係員とおしゃべりしていた。私が入ると「いらっしゃいませ。」と。
 券を購入する。入館料500円である。男性はカウンターの横にある二階への階段を昇って去っていった。上のフロアに事務所があるらしい。敦井美術館の母体企業の敦井産業のオフィスだろうか。
 敦井美術館は「日曜休館」である。この日は、お盆期間中の平日なので開館していた。うっかり、日曜日に来てしまうと「本日休館」なので要注意だ。

 「展示室は、こちらです。」とカウンター横のガラス壁の内側の部屋を示された。時刻は10:01に入館。本日、最初の入館者である。ロビーから展示室内の様子がわかる。見ると、室内にはガラス展示ケースが壁に沿って設置されていて、展示品がある。外光が入る展示室になっていた。
 ガラス戸をあけて展示室に入る。展示室はこの一室のみらしい。しかも、明るい外の光が思いっきり入る。てっきり、出光美術館やかつてのブリジストン美術館のようにオフィスビルに入居している美術館なので、二階以上の上層フロアにあると思っていた。

 改めて展示室の中のことである。室内には私以外誰もいない。余計だが「ビルの一階で大丈夫かな。」と思った。新潟の市街地図を見ると信濃川の砂州に発達したのが新潟市の中心部。先ほどの(通った)万代橋の先にあるエリアが、かつての新潟の港町の中心だったらしい。よって、ここ駅付近ではなく、駅から見て川を渡った先が かつての新潟の旧市街ということになる。水害があると、この一階部分しかない展示室ではどう防ぐのであろうかと、余計な心配をしてしまった。(苦笑)
 二階はオフィスで階段で繋がっているようなので「災害時は二階以上に収納するのだろうか。」と思った。

  

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 ↓新潟駅前の通りに面した北陸ビルの入口。
 美術館の表示とポスターは掲示されているが、実質的にテナントの会社事務所の入口。

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↓ 敦井美術館に入る前に撮影。
  画像奥が、新潟駅。新潟駅から万代橋に方面にまっすぐ伸びる新潟のメインストリートに北陸ビルはあった。


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 メインストリートと交差する道路。
 開館時刻前に美術館の前を通ったときは入口のガラスドアはシャッターが閉まっていた。
 
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「パリグラフィック ロートレックとアートになった版画・ポスター展」 鑑賞2

 2017年12月10日  「パリグラフィック ロートレックとアートになった版画・ポスター展」 鑑賞2
 三菱一号館美術館
  以下展覧会名は「パリ グラフィック展」とかなり省略して書くことにする。

 最初の展示室から見ていく。見学者は各展示作品の前に途切れなくいるし、室内はあまり広くはないので混んでいるように感じる。
 展示は、ロートレックではない作家の版画の作品、ポスターも展示されている。いずれも小さい作品だ。この部屋では 2年前の「プラド美術館展 スペイン宮廷 美の情熱」ではボシュなどの作品が展示されていたと記憶する。
 展示されているポスターなどの作品は、「三菱一号館美術館の所蔵」と表示されている作品も多く展示されている。ここ三菱一号館美術館所蔵作品は無いと誤解していた。以前の投稿でも所蔵品は無い国立新美術館のように近代西洋絵画を中心とする企画展メインの民間美術館のように書いていた・・・が、誤解であった。ここにお詫びして訂正します。
 「ピエール=ボナール」の作品もあった。名前は、何かで読んで知っている。。作品もどこかで見たことがあるかも知れない。
 「フランス シャンパンのためのポスター」というタイトルである。どこかでこの作品の画像は見たことがあるような。ということは、有名な作品なのでしょう
 露出度の高いドレスを着た女性がグラスをもっている。あふれているのは、最初は何か洗剤の泡かな、と勘違いしたが(苦笑)、シャンパンの炭酸ガスではないかな?。楽しそうにお酒を飲んでいる様子。
 フランス語が分からないのであるが、パリのどこかの店でしょうか。
 
↓ 展覧会のポスターの拡大。
  ボナール「フランス シャンパンのためのポスター」の画像が掲載されていた。


 
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 最初の部屋と隣の部屋を見ていく。暖炉のある展示室もある。次の部屋に行くと、人が集まっている作品があった。ロートレックの「ディヴァン ジャポネ」である。
 ロートレックといえばこの黒い衣装の女の作品を思いおこす人も多いだろう。拡大、抜粋の写真も展覧会のポスターに採用されているし。
  ↓ 展覧会のポスターの表面の拡大。女性の拡大が。
   (一緒に写っているのは、山口県のアンテナショップで買った鶏卵せんべい。)

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 「ジャポネ」というので日本に関係するポスターかなと思ったが、「日本の長いす」という意味とのこと。お店のポスターであった。当時パリでは日本趣味が流向していたそうだ。画家も日本の浮世絵を収集していたというし。
 絵の女性は当時の有名な踊り子でジャンヌ=アヴリルがモデルという。黒い扇を持って、ギャルソン?の男性がうやうやしくイスを持っている。そこに腰をかける踊り子 ジャンヌ・・・・、かと思ったが、男性は音楽評論家とのこと。ポスターの奥には、鍵盤やオーケストラの楽器のようなものが描かれている。顔のな細心の女性が描かれているが、当時の有名な歌手のイベット=ギルベール。黒い手袋がトレードマークとのことで、黒手袋で判別できるらしい。有名な歌手の顔を描かないとは、お店の宣伝ポスターなのに凄い構想というか。説明では「大胆な構図」とある。
 当時のパリの「ベル=エポック」をほうふつとさせるポスターだ。

 ポスターなのでたくさん印刷できるのですね。よって同じポスターが複数存在している。よって、コレクション化するのは絵画よりも容易なのでしょう。

 次の部屋は、撮影可能の展示室であった。




「パリ♡グラフィック ロートレックとアートになった版画・ポスター展」 鑑賞1 三菱一号館美術館

 2017年12月10日  「パリグラフィック ロートレックとアートになった版画・ポスター展」 鑑賞1
 三菱一号館美術館
 
 東京駅の八重洲側から、線路を超えて丸の内側まで歩いた。かつては「一丁ロンドン」とも呼ばれた地区にある三菱一号館美術館までやって来た。「パリグラフィック ロートレックとアートになった版画・ポスター展」であるが、あまりに展覧会のタイトルが長いし、「ハートマーク=」まで名称の中に入っているので以後は「パリ グラフイック展」とかなり省略して書くことにする。本当は「ロートレック展」と思って訪問したのだが、後記するが必ずしもロートレック展ではなかったので、総称して「パリ グラフイック展」と呼ぶことにしよう。

 前回の訪問は2015年12月27日、イスパーニャ、マドリードのプラド美術館(Museo del Prad)の所蔵品展ですあった「プラド美術館展 スペイン宮廷 美の情熱」の鑑賞以来だ。そのときは「三菱一号館美術館 開館5周年記念」のサブタイトルが付いていた。私は前回訪問が「三菱一号館美術館」初・鑑賞(祝)だったので、今回はやっとのこと2回目の訪問だ。ほぼ2年ぶりだ。
 ↓ 美術館までやって来た。


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 ↓ 美術館の入口付近の階段と展覧会ポスターの様子。

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 ロートレック = アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック、彼は南フランスに領地とお城を持つ、名門貴族 伯爵家(Cont )の出である。「de」のつく長ーい名前がその出自を示しているのではないだろうか(多分)。
 しかし、彼はケガのため小柄だったそう。彼の写真を見たことは無いのでその姿は分からない。が、彼のポスターなどの作品の写真は見たことがある。

 東洋文庫の入館料を支払ったレシートを提示する。100円引きになった。1600円のところが1500円に割引に。東洋文化は入館券は無いのでレジを打ったときに渡されるレシートが半券がわりになる。


 エレベータで3階に昇る。入館者は比較的多いのではないか?。同じエレベータ内には私以外に7人くらい乗っている。うちカップルが2組も・・・・。エレベータを降りて展示室内に入る。
 各作品の前には常に見学者がいる状況。狭い最初の展示室内には大体20人-25人くらいは鑑賞者がある。
なんか、だるい。寒気がする。キーンとなるのだ。展示室が狭くて混み合っているからかな?。思い出したのだが、2年前の入館時も寒気を感じながら鑑賞した。あのとき体調を崩していたのだ。というより、発熱していたから寒かったのだよ。おかけであのときの平成27-28年にかけての年末年始はずっと療養だった・・・・。しかし年末年始の休みにかぶって仕事に影響が無かったのは助かった・・・
 ここに再び来たので「2年前の体調不良の再発かな?。」と急に心配になってしまった・・・・。

 展示は、ロートレックではない版画の作品、ポスターが展示されている。いずれも小さい作品だ。この部屋では
 2年前の「プラド美術館展 スペイン宮廷 美の情熱」ではボシュなどの作品が展示されていたと記憶する。
 三菱一号館美術館の所蔵による作品が展示されている。所蔵作品は無いと誤解していた。以前の投稿でも所蔵品は無い企画展メインの美術館のように書いたいた・・・。ここにお詫びして訂正します。

 ↓  出口からみた併設カフェの様子。人気店のようで外まで行列していた。入館したのは夕方で、ライチやディナータイムでは無い。何か名物のパンケーキなどカフェメニューがあるのかな、と思った。

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「長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽齋」 鑑賞2 永青文庫

  2017年11月26日(日) 永青文庫 平成29年度秋季展 「重要文化財 長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽齋」
  展覧会の名称が長いので「天授庵 長谷川等伯障壁画」展と略称でも書く。

 4階の展示室を見る。大きな障壁画がガラスケース内にドーンと展示されている。「南禅寺天授庵の長谷川等伯筆になる障壁画」は4階にあった。室内には常時10-15人くらいの観覧者がいる。「春画展」ではこの4階展示室は「肉筆画」などが展示されていた。後期ではあの応挙の肉筆画が展示されていた。男女が香合交合する生々しい画の端に几帳面そうな「応挙」の署名が書きこまれていて印象に残っている。
 障壁画は「商山四 白告 図」(文字が出ない・・・)。水墨画のような白黒の絵である。解説には「ロバに乗った易士と童子がいる」と書いてある。中国のどこかの山の中、か村で童子がいる。 障壁画を見ていくと左の場面でロバに乗った老人が描かれている。
 
 後期の展示は室中「以外」の左右の部屋の障壁画が展示されていた。前期は方丈の真ん中の部屋、室中り障壁画が展示されていた。
 ガラスケースの横に 配置図が展示されていた。

 ↓ パンフレットより。
  
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「長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽齋」鑑賞1 永青文庫

  2017年11月26日(日)

 永青文庫の平成29年度秋季展 「重要文化財 長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽齋」にやって来ました。9月末からの会期もこの日が最終日となりました。またまたの最終日のドタバタ鑑賞だ(苦笑)。
 会期終了後なので速やかに記事掲載することにする
 展覧会の名称が長いので「天授庵 長谷川等伯障壁画」展と呼ぶべきかな。

 永青文庫、前回は平成27年12月に「春画展」SHUNGA(以下「春画展」と書く。)の後期に来て以来ほぼ2年ぶりの訪問だ。あれから2年たったか、早いものだなぁ・・・・・、オレは2歳も歳を取ったよ・・・・。中年になっての2歳は大きいな・・・。歳はとりたくないヨ、そう思う歳になってきた

 永青文庫の展示会を初めて見たのは27年2月に見た「信長の手紙」展。あのときは、テレビで紹介された直後なので真冬にもかかわらず混雑していた。次は、その2か月後の4月、春霞のなか「細川家起請文の世界」展にやってきた。副題は「神の使い八咫烏に誓う」だったが、平日の日中の訪問とあってか見学者は少なかった。
 よって平成27年は都合4回も永青文庫の展示会(展覧会)を鑑賞したのだが、翌年の平成28年の訪問は皆無だった・・・。同年の夏であったか、永青文庫所蔵の国宝刀剣の企画展示が開催されたのだが、知らなかった・・・。あとから気付いた・・・。「刀剣女子ブーム」で開催されたのだろう。(刀剣に関する)チェックが甘かったゾ(笑)。「刀剣」に関する展覧会が多数開催されているのでインターネットで検索していたら、気付いた次第だ。

 今年の展示会も行っていなかったが、秋季展示会は「天授庵 長谷川等伯障壁画」だと知った。よって、事前に訪問することは決めていた。先だって、10/28(土)には「予習」を兼ねて京都・南禅寺の塔頭 天授庵を拝観した。必ず予習→授業(実際の鑑賞)です
 胸突坂を登って永青文庫へ。敷地に入ろうとすると門が新しくなっていた「春画展」のときは以前の古い門だったと記憶しているので、その後新しく工事をしたようだ。 

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 入館者は切れ目なくやってきている。落葉の時期なので、敷地内や門塀の外の道路で写真撮影をしている人が多い。よって人がいるので敷地内での撮影が難しいのだ。
 ↓ しかし、人がいない瞬間を狙って撮影した。

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 入口に入る。入口付近を含めて建物は春画展のときに改装している。入口ホールの上に空いている.「穴」もそのままだ。春画展以前に使用していた出入り口は閉鎖されていた。春画展のときと同じく(当たり前だが)チケット売り場の窓口カウンターがあり、奥は事務室になっている。券売り場には、楕円形の細い黒ぶちメガネをかけた、まじめそうな若い女性がいる。どう見ても学生のアルバイトにしか見えないが、(本当のところは)わからない。その女性には、いつものごとく「四階の展示室の展示室から見てください。」と言われる。ここの決まり文句なので、もはや驚かない(笑)。
 入場料は1000円である。窓口カウンターは一つというか、受付にはこの女性1人しかいない。受付は玄関ホールで販売している書籍、冊子、図録類の販売も兼ねている。永青文庫私が券を買う直前は年配の小柄な女性が書籍を購入をしていた。その女性は「えーと」とお財布を探して、ゆっくりお金を出して支払いをしているので、数名の列はすぐに受付前に出来てしまう。ともかく、私は券を買い「四階」の展示室に階段を登ります。
 しかし「長谷川等伯障壁画は3階の蔵のような展示室に展示しているだろう。」と勝手に解釈し「四階」への階段の途中、踊り場のような所にある「蔵の内部」のような「3階」の展示室に一旦入った。過去の経験からすると企画展は、3階の展示室で主に開催されていたから。
  このとき3階の企画展示室??には、細川家の文書類や甲冑、刀の鞘(「拵」というべきか。)が展示されている。室内を見回している
 やはり「4階の展示室の展示室から見てください。」と言う言葉は正しかった。まさに「愚者は(過去の)経験に学ぶ・・・。」であった。オレは本当に愚者だ・・・
  
 4階の展示室を見る。大きな障壁画がガラスケース内にドーンと展示されている。「南禅寺天授庵の長谷川等伯筆になる障壁画」は4階にあったのだ!!。室内には常時10-15人くらいの観覧者がいる。
 重要文化財の中国の石像(石仏)は以前と場所は変わったが、展示室の端に展示されていました。細川家の大きな「長持」もそのまま、展示室の入ってすぐの所に大きなガラスケースに入って引き続き展示されていたのでした。
 「長持」は私が初めて永青文庫に来たときから展示されているのだが、明治元年?に当時の細川家当主、護久の正室が婚礼の際に持参したと説明にある。鍋島直正の娘、宏子が細川家に輿入れしたそうだ。
 よーく見ると展示室内のガラスケースの下部、土台部分??のところにもガラスが張ってあり、内部には黒い漆塗り?の長持ちが置いてある。長持ちに説明はないが、うち1個には昔付けたような付せんようなものが貼ってある。「××、〇枚」のように衣服の品名と数量が書いてあるので、当時の(長持の)中身について記入したものがそのまま残っているのだろう。

 展示室内は当然撮影禁止。気のせいだが廊下の窓から以前見えていた、永青文庫の奥の敷地、現在は和敬塾の施設である旧細川邸は、和敬塾の新しい鉄筋の建物に隠れて見えなくなっているような・・・・。カーテンで廊下から外はあまり見えないが・・・・。
 旧細川侯爵邸、和敬塾本館は、先日の「東京文化財ウィーク」で1日だけ公開があった。10/29(日)に事前申し込み、定員制、有料で公開された。元々10/28と10/29は出かける予定であったので、今回は申込みしなかった。しかし、1日だけの公開なので定員に達して断られることもあるだろうし、年に1回だけの公開は見学のハードルは高い・・・。
 結局、私は10/28(土)は台風の迫る京都に行って、天授庵を「予習」のため拝観し、京都国立博物館の特別展「国宝」で大徳寺龍光院の国宝「曜変天目茶碗」などを鑑賞したのだった。翌日の29日の日曜日は台風の影響で雨であった。私はほとんど家で過ごして、買い物に出かけたくらいだった。午後か夕方には台風の影響は関東地方から無くなってきたのだが、和敬塾本館(旧細川侯爵邸)の公開が予定通り公開されたのかは寡聞にして知らない。
 
  






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「ロマノフ王朝展」 見学4(最終)とロシア関連資料の展示 東洋文庫ミュージアム

  2017年4月2日 「ロマノフ王朝展」 見学4
 副題「-日本人の見たロシア、ロシア人の見た日本-」

 東洋文庫ミュージアム、開催中の「ロマノフ王朝展」を見学した。
 会期は4/10(日)までで終了している。東洋文庫ミュージアムの休館日は月曜日であるが、企画展の最終日は日曜日に設定されていた。私は最終日のちょうど一週間前の日曜日に見学した。

 最後の展示は、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世の紹介パネルと関連展示であった。ニコライ2世の時代に勃発した日露戦争の写真の掲示があった。
 日露戦争後は、数次にわたって「日露協約」を結ぶなど、友好関係になったのだが。その後、ロシア革命でロマノフ朝は倒れ、やがてソ連が成立。友好国のひとつを失い、日英同盟も第一次大戦後に失効。のちの日米開戦にもつながっていくのだが・・・・・。

 ニコライ2世は父、アレクサンドル3世と同じく家庭にあっては、よき父だったようだ。最期は家族揃って銃殺されたといわれている。悲劇の一家であった。
  ニコライ2世が皇太子時代に日本で遭難した「大津事件」の解説もあった。当時の日本にあっては、大事件ですよね。現代以上に国の信用にかかわる。父皇帝にとっては、事件の一報を聞いたとき、更にその父(ニコライ2世にとっとは祖父)のアレクサンドル3世の爆殺のことが一瞬頭をよぎったのではないか?。
 ニコライ2世の妻はヴィクトリア女王の孫と説明がある。生物学上でも有名な話だが、血友病の遺伝子が妻を経由してその子 ロシアの皇太子に遺伝した訳で・・・・・。歴史の皮肉というか、「皇子の血が止まらない・・・・。」というのはあまりにも有名なエピソードだ。怪僧ラスプーチンも登場し、歴史は混とん・・・・・。現在でも「××のラスプーチン」と呼ばれる場合がありますね。我が国においても・・・。皇子の病気と怪僧の暗躍が国が亡びる原因のひとつとなったことは、あまりにも皮肉だ。
 展示の解説には、更に「・・・・殺害されたニコライ2世と思われる遺骨は、大津事件で着ていたときの血染めのシヤツ、ハンカチが日本に保管されていて、DNA鑑定に使用され、遺骨のDNAとピタリと一致した。2008年に確認された・・・。」とある。近年ニュースにも話題を提供したとは、何とも皮肉なことだ。

 二階の企画展示室「ディスカバリールーム」の見学を見学し、一階の「オリエントホール」に階段を降りる。


  ↓この日、入館直後の日没前に撮影した庭の様子。


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 二階から階段を降り、一階へ。受付やミュージアムショップの様子。日没をすぎてだいぶ暗くなってきた。閉館時刻が近づくと入館者も帰っているらしく、展示室内で観覧している人は少なくなってきた。
 

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 階段下には、テレビが設置され「上坂すみれ」ちゃんの登場する今回の企画展の解説映像があった。ネットでも動画配信しているが、年配の男性の館員と作品について語り合っているシーンだった。すみれちゃん(と愛称で呼ぶが)は、萌え系のフリルのついた衣装で登場している。某アイドルグループのメンバーと思ったが、違うようだ。大学でロシア語を学んだ「ロシア通」アイドルだそう。年齢は19歳か20歳そこそこに見えるが、既に大学は卒業していて、年齢は24歳か25歳くらいですね。

 展示室内でも、すみれちゃん吹き込みによる説明のナレーションが時折、天井のスピーカーから流れていた。しかし、すみれちゃんの声が小さくて聞きにくかった・・・・。芸能人だから音量の出し惜しみをしているのかな?。契約で音量制限があったりして(笑)。それとも閉館時刻間際なので音量を絞っていた??。よって、見学している間、ナレシーションはあまり参考にならなかった

 一階の「オリエントホール」の展示をざっと見る。「ロマノフ王朝展」に関連してロシアや東方探検関連の展示が多かった。まさに「ロマノフ王朝、ロシア尽くし」の展示です(笑)。

 ↓ 「北東シベリアにおけるマンモス発掘調査」 1926年 ロンドンで刊行
  当時のシベリアでのマンマス発掘の様子。
  写真は白黒なので判別しにくいが、皮膚が残っているマンマスの死体も発掘されていたようだ。目やキバまでほぼ完全な状態で残っていたようだ。この固体標本が残っているのかは、分からない。
 
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↓ カムチャツカ紀行。
1925年 パリで刊行
冬は極寒の地、カムャツカでの調査記録。写真には現地の先住民族の様子がうつっている。
調査したのは、ロシア帝国の時代か、第一次大戦後、シベリア出兵の時期であろうか。

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↓ 「近藤正齋全集」 近藤重蔵の 1905年刊。
「正齋」は重蔵の号のこと。西暦1829年に没しているが、日露戦争の時代に刊行されたようだ。
実際の探検から100年近く後のこと。当時の国策を反映していたのかも。

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↓「ニコライ2世の東方旅行記」

 皇太子時代にニコライ2世が日本を訪問したことはあまりにも有名だ。大津で警官に切り付けられた大津事件は前回の記事でも書いたが、当時の日清戦争前の日本では国の根幹を揺るがすくらいの大事件であった。明治天皇が直ちに列車で京都に向かったことからも事件の重大さがわかる。
 解説文には「悲劇の皇帝、若き日の思い出」とある。


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 説明には二階の展示でも解説があったが「2008年に実施されたニコライ2世一家の遺骨のDNA鑑定には(大津事件のときに)付着したシャツの血痕が用いられ、見事に符合した(確認された)」と解説がある。

 ↓ その一ページの展示部分。サムライが行進している??。ロシアから見た明治20年代の日本とは、このように徳川様の時代の様子とあまり変わらなかったのかな?。


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 閉館の15分前に館を出た。来ていた人は、まだ残っている人がいて二階の企画展示室には、まだ二人くらいいたと思う。
 カウンターには先に私が入館したときにいたMAの女の子がいる。シッョプのテーブルの上においてあった図録を購入した。値段は560円と、とてもお得だ。ショップのグッズも少し見る。閉館近くなり、外は真っ暗だ。白熱灯の灯りで、ぼうとっと館内が照らされる。

 と、事務室から女性が出てきた。どこかで見たことがある人だ。学芸員の人で以前、私が製本の実演を見たときに司会をしていたし、この1月だったかNHKの番組で東洋文庫を、お笑い芸人が取材して紹介をしたときにも出ていた方だ。閉館前の確認か、二階の展示室を見に行って、再びおりてきた。レジのMAの子と話をしている。楽しそうですね(笑)。

 退出後、六義園の正門の前を通るが大行列だった。夜桜見物は諦めて、帰路についた。



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りょうげつ

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