良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

新宿区、渋谷区

 

「図書館所蔵の国宝・重要文化財」 見学3(最終) 早稲田大学総合学術情報センター

  2017年3月某日

 早稲田大学総合学術情報センター(以下「センター」と記す。)
 「早稲田大学中央図書館 開館25周年記念展示」 「第1期 図書館所蔵の国宝・重要文化財」の見学をした。
 長いタイトルなので以下、主に「展示会」と記す。
 展示会は今後、第3期まであるのだが国宝が展示されるのは大学のウェブサイトによると第1期だけ。同じくウェブサイトによると図書館所蔵の国宝が展示されるのは2007年以来、10年ぶりとのこと。
 
 センター内の展示室のガラスケースで国宝の展示があった。
 「礼記子本義 巻五十九」
 ※「疎開」「疎遠」の文字に似た「そ」の漢字がウェブサイトでは表示されないかも知れない。
 「玉篇 巻第九」
 の2国宝である。

 途中で、見学者が複数名が入室して来た。昼休みの終わる13時(午後1時)に近くなったからであろうか?。人が増えた。一人は50歳~60歳くらいの女性で、私服だ。年配の男性がもう1人来た。男の学生の二人連れも入って来た。二人は、鑑賞して作品の話をしながら見て、私よりも先に出て行った。更に、もう1人、男子学生が入ってきた。私が出た後には、展示室内にはこの男子学生1人だけが残った。

 国宝の展示ケースのコーナーを曲がって左手、展示室の長辺の部分のガラスケースでは、時代が下がって、日本の江戸時代の文化財の展示であった。
 仙台の「大槻家文書」の展示がメインである。一括して重文に指定されている。同時代の人物の肖像画の展示がある。「杉田玄白像」の展示がある。彩色の鮮やかな掛け軸になっている肖像画だ。
 その下には「重訂 解体新書」の展示があった。同じく一括して重文指定文化財の一部である。東洋文庫の展示で見た初版本とは違う版のもっと新しい、改定された版だ。
 「重訂」なので、初版後に改訂して出版された版であろう。内容のページが開いていたが、どこのページだったか忘れてしまった(苦笑)。
 東洋文庫では、顔面の「目」や「耳」の部分のページを開いて展示していたが、別のページの公開であった。ここセンターの展示室で無料配布している展示会の図録に写真が掲載されている部分とも違ったと記憶する。

 「杉田玄白像」は玄白80歳当時の姿と解説文にあった。教科書に掲載されている玄白像は、まさにこれだった。あの肌が衰えて、シワが目立ち、痩せている玄白の肖像画である。本物はここにあった。知りませんでした・・・・(反省)。
 当時としては、異例の長寿である。現在では100歳に相当するのかは断定できないが、見た目現代の感覚でいうと、画中の玄白の姿は90歳から100歳くらいの人にも見える。もっとも、(老化は)個人差が大きいのであるが・・・・。玄白は「医者なので養生した」ので、当時としては長命であったのであろうか?。
 んー、えっ!?。手元の図録のページをめくって、実際の展示作品と比較してみると「杉田玄白像」の写真掲載が図録に無いのだ・・・・・。主要展示作品であるのに、図録に掲載が無いので「杉田玄白像」の写真は、教科書か歴史資料集で(自分の目で)確認してネ、ということだろうか??(笑)。

 ↓ 展示会の図録より。 「重訂 解体新書」が写っている。
  展示部分は表紙の縦書きで「重訂 解体新書」とタイトルが印刷されたと思うが・・・・。
  右は、第1期の展示品の解説文。

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 展示室内、真ん中の「島」の平なガラスケース内部には「運慶の直筆文書」の展示などがあった。「法眼運慶置文」。
 厚みのある和紙の巻物が2巻ある。別の文書をつなぎあわせて、その裏に書いた文章だ。当時、紙は貴重だったので「裏紙」を使用したのだろう。よって、裏に元々書かれていた文字の墨が透けている。
 文書の内容は「運慶の娘が養母から土地の権利を得る際に運慶が保証をしたもの」だそう。仏師の運慶にも個人の生活があったことが分かる。当たり前のことなんだけど、生々しいなぁ。一庶民(法眼だからそれなりの公的地位にあったと思うが)として普通に生活していたのですね(笑)。
 奈良国立博物館で「快慶」、東京国立博物館で「運慶」の特別展が今年、開催される筈である。特別展でこの文書を展示したら、遺した仏像などの作品以外に、彼個人の生活に迫る資料として面白いかも。

 警備員の立っている横に記帳台がある。記帳のページが開いている。少し見てみると「国宝を見るのは 今まで×××件だったが、今回××5件目と××6件目を達成です・・・・。」ように書いてあった。ものすごい数の国宝を実際に見ている。私なぞは、数えてもいないんだけど・・・・(苦笑)。
 「・・・・母校の国宝公開を決断してくださった 総長 (氏名) に感謝します。 記帳者氏名 」とも書いてある。卒業生の記帳であった。
 別の記帳では「文学部3年?」の学生と書いてある。「・・・・自分の通う大学の国宝を見ることが出来てよかった・・・・。」という内容。ただし「図録と違う場面の展示であるので考慮してほしい・・・・。」との指摘も書いてある。やっぱり・・・・・。私も何か違うなぁと感じたので。短い展示期間・・・・、場面替えをするのかは、図録や解説文には書いていないので、せっかくだから図録と同じ部分でよかったのでは?。

 「礼記」の末尾は光明皇后の「印」も重要であると思うので、(図録には国宝巻物の末尾部分の写真を掲載し)末尾部分の巻物の箇所を「印」のところも含めて、スペースが許す限り展示し、または図録の写真掲載分をリアル(実際)に展示するならば、「光明皇后の「印」は(展示できないので)図録をご覧ください」のような展示解説文をガラスケースに掲示してもよかったかな。

 30分くらいで見学を終えて外に出た。
 ↓ 二階のエントランス前より。冬の青空だが、春はすぐそこに来ている。

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 と、昼休みの時間帯、午後1時を過ぎたためか、私の携帯電話が突如として鳴った。仕事の用件だった。建物の外に出て、通話する。二階のエントランス前は広い。先程見学した展示室の前の大きなガラス窓のある廊下の「外側」で通話した。周囲には人がいないので、迷惑は掛けていないです。(笑)
 本日は天気がよい。早春の気持ちのよい青空だ。気温は10度未満のヒトケタ台・・・・・、なので寒いが、センターのガラス窓やレンガに太陽光線が反射して眩しい。
 エントランスの階段を下り、センターの門を出て道路を横断。早稲田キャンパス内を通って地下鉄早稲田駅まで歩いた。
 東西線沿線の駅近くに用があったので、そのまま地下鉄に乗り移動した。
 
(早稲田大学図書館所蔵の国宝 見学記はこれでおしまいです。)


「図書館所蔵の国宝・重要文化財」 見学2 早稲田大学総合学術情報センター

  2017年3月某日

 早稲田大学総合学術情報センター
 「早稲田大学中央図書館 開館25周年記念展示」 「第1期 図書館所蔵の国宝・重要文化財」の見学をした。
 長いタイトルなので以下、主に「展示会」と記す。
 展示会は、第3期まである。国宝が展示されるのは、早稲田大学のウェブサイトによると今回の第1期のみだけ。しかも、同サイトや今回 展示室で無料配布していた展示会の図録によると所蔵する国宝は、なんと「10年ぶりの公開」とのことだ。前回は2007年に大学中央図書館が開館15周年を迎えた際に公開されたそうだ。
 大変貴重な機会である。

 ↓ センターの玄関エントランス部分にあった告知。

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 第1期に展示される国宝の画像部分の拡大。


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 展示室内を見学する。室内には警備員が1人以外、誰もいなかった。ガラスケース内の展示を見ていく。重要文化財指定の「崇光上皇 宸筆願文」と「尾張~百姓等解文」の展示があった。
 続いて、その左、展示室の奥のガラスケースにこのたび10年ぶりに公開された国宝の展示があった。
 まず「礼記子本義 巻五十九」があった。
 ※「疎開」「疎遠」の文字に似た「そ」の漢字がウェブサイトでは表示されないかも知れない。

 解説目録の文章によると「礼記」の注釈本だそう。何を書いているかは、分からない。漢字がたくさん書いてある・・・・。唐の時代の写本。「巻五十九」なので多数ある巻物による注釈のうち、59番目の巻物のみが保存されていて、今、私の目の前に展示されているのだ。
 奈良時代には日本に伝来していて、光明皇后の所蔵印が押してあるそうだ。正倉院の時代には伝来していたので、当然遣唐使によって持ち帰りがされたのだろう。図録の写真には「内家私印」と皇后の印が朱肉で押してある。巻物の末尾に四角い印が斜め、ひし形に押してある。しかし、目の前の展示では巻末の「内家私印」は開いていない。別の部分、巻物の途中の一部の公開である。
 
 展示部分の内容を読んでみる。漢字の羅列なのであるが・・・・。「叶? 」足六衡之第六所××也・・・心也安・・子則即也×士・・・  前有文母而・・・天雨・・・」のような文字。勿論漢字の転写間違いばかりだが・・・。
 ガラスケース脇の室内の壁のパネルには修復したときの様子の写真の展示がある。原本は紙の劣化によってボロボロになっていて、かなり千切れている。というか、巻物として巻いたまま、長い期間保管していたので、ある部分が半楕円形に紙が劣化してえぐられている。裏地の紙に原本を貼り付けして、修復を行っていた。よって、現在は巻物になっている。図録の写真では、裏紙を貼り付けした様子がわかるが、目の前に展示されて、開いている部分は劣化をあまりしていない部分のようで、紙に貼り付けしているようには見えなかった。

 その隣には「玉篇 巻第九」の展示がある。
 
 同じく写本である。
 「玉篇」なので王家、皇帝の伝記や由来書かと思ったが、書いている内容は漢字辞典のようだった。皇帝の伝記ならば史記のように「紀」だろう。「玉」は、皇帝を意味すると思いのだが、勘違いかな。日本では「玉」は天皇を意味するが。または歴代皇帝の伝記ならば「玉紀」というべきなのかは、分からない・・・・。
 
 「玉篇」の内容を読んでみる。漢字の羅列なのであるが・・・・。 「言」のように部首を大きい文字で書き、同じ部首の漢字を列挙して解説している。
 展示して、巻物を開いている部分の文字を観察してみると確かに「言」や「日」が部首の漢字である。が、現在の日本で常用漢字として使用されている文字は無いような・・・・。それらの漢字の日本語の「音読み」も分からないです(苦笑)。

 書いている内容を抜粋してここに書いてみる。勿論、間違って写している文字が多いのだが・・・・。
 「千弓」のような文字の部首の説明は・・・、「第九十 凡六字・・」とこの部首は、「90番目」と番号を振り、文字が6字あるような書き方。
 続いて「去?部」とまたまた分からない漢字。「第一百 凡二字」と100番目らしい。「去? 胡・・毛詩婚姻孔去る侍曰去?抱成・・・・」のように書いている。
 「音部 第百一 凡十六字・・・」「・・・音気 ×奇生天同隆増天声・・・・周礼師氏掌六伸天・・・成分謂之音」のように書いている。解説してある漢字もよく分からない(苦笑)。

 図録の写真には「言」が部首の別の漢字の部分が掲載されている。目の前の展示では、「言」から「日」の部首の漢字の解説部分が開いている。上の写真を見ると分かるが、展示会の告知パネルには、これまた別の部分の「食」の部分の写真掲載である・・・・。ガラスケース内では、写真には無い、巻物の途中の別の部分の公開である・・・・。
 「食」は、当時の文字と現在の日本の「食」の文字は異なるようだ。よって、ここでは現代日本の漢字表記で本記事では記す。JIS第二水準の文字、というのかな??。
 解説目録の説明文には、巻物の展示部分の「展示替え」があります。とは書いていない・・・・。室内にもそのような表示は無い。よって、図録の掲載写真の部分の公開が実際にあるかは、不明だ。

 
 私が見学していると、途中で、見学者が複数入室して来た。

 図録の写真↓ 「礼記子本義 巻五十九」
 「内家私印」と皇后の印が朱肉で押してあるのが判る。

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 図録の写真↓ 「玉篇 巻第九」
 「言」の部の漢字の説明であることが何となく判る(笑)
 末尾の部分も写っている。

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 解説目録の解説文によるとこの2つの国宝の伝来は「明治39年と大正3年に田中光顕から寄贈された。」そう。当時の早稲田大学(東京専門学校の後身)に寄贈されたのだろう。寄贈された経緯に大隈重信の名は出ていないが、当時の勲功者、有爵者として、両人(田中伯と大隈伯、大隈はのちに侯爵)とも友人関係にあったことだろう。
 「礼記子本義」は、明治23年に忽然と古書×××閣(古書商??)に現れたと解説文に説明がある。私の推測だが、公家か大名家が手放したのではないだろうか。清国公使と田中が競った末に、田中が落札し、複製品を作成したので、複製のひとつの寄贈を願ったところ、現物.が寄贈されたのが明治38年とある。「日露戦争」の終結した年のことである。
 「玉篇」は以前は福岡・黒田家の分家、秋月藩の藩士の所蔵でのちに田中光顕が入手した、大正3年に寄贈した、と解説文にある。

 田中といえぱ宮内大臣を務めた人物。かつての小田原の別荘は現在小田原文学館となっている。
 私も訪れたことがある。

 田中光顕邸は、ここ早大の近くの徒歩で3分くらい、道路を渡る信号待ちが無ければ1分か2分くらい(笑)の文京区関口の水神社の近く、胸突坂の下、現在の芭蕉庵の敷地にもあったと記憶する。よって、大隈重信をはじめ東京専門学校・早稲田大学の関係者とは「ご近所さん」だったのかも知れない。いわば当時のご近所関係を含む人間関係によって、寄贈が行われたと推測する。


「図書館所蔵の国宝・重要文化財」 見学1 早稲田大学総合学術情報センター

  2017年3月某日

 早稲田大学やってきました。総合学術情報センターで「早稲田大学中央図書館 開館25周年記念展示」が開催されている。「第1期 図書館所蔵の国宝・重要文化財」の見学をする。
 長いタイトルなので以下、主に「展示会」と記す。展示会は、第3期まである。国宝が展示されるのは、早稲田大学のウェブサイトによると第1期のみだけだ。
 
 今回の訪問は、平日の昼間のことだった。訪問したこの日は入試が終わり、卒業式の前、まだ新学期の始まる前の時期にあたっていた。大学は春休み期間中であり、キャンパスの敷地内には人が少ない。大学に人が一番少なくなる時期ではないだろうか。
 第1期は3/17から展示が開始され、新学期が始まった後の4/5(水)まで。会期末の頃には新入生を迎え、キャンパスには再び学生達が戻ってきて賑わっていることであろう。 展示会は、博物館ではないので日曜日と祝日は休み。学校の施設であるからだろう。

 私が訪れたのは、昼休みの時間帯。ここ中央図書館の展示を見た後、近くを流れる神田川の端を渡り、坂の上にある永青文庫まで行こうかなと思ったが、時間が無いのでやめた。本当に早稲田大学から神田川沿い、関口の水神社までは通りを渡って、すぐ近くだ。
 通りから総合学術情報センターの敷地の中に入る。道路は戸山、高田馬場方向に緩い登りの斜面になっている。北の神田川が流れる低地から台地に至る緩やかな坂の地形の途中にあるといったところであろうか。

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 門を入ると建物の回廊柱に立看板があった。と柱の脇にスーツ姿の男性が立っていて、私を見るなり「会議場はこちらです。」と声を掛けてきた。別の場所には「××集会? 会場」と看板がある。学術団体の集会があるようだ。私はその参加者と誤認されたようだ。おかしいな~、私のショボイ身なりで行動.していたのに(笑)。
 案内の男性はこの寒い気温の下、コートを着ていない。偉い先生方を迎えるのにコートを着てはならないと「コート着用」を許されていないのであろうか。だとしたら、厳しいです。私は「展示室です。」と返答し、そのまま正面の階段を昇り、二階のセンター入口へ向かう。案内係の男性は寒そうにしていた・・・・・。
 建物の中に入る。展示室は、入って正面に向かって右手。左手には図書館。図書館には人が学生が出入りしているし、図書館のゲートには司書らしき女性がいる。シーンとして静寂な空間だ。
 正面には展示会の看板も立っている。私は向かって右に歩く。展示室前の廊下には私以外に人がいない。廊下に沿った壁の内側は、集会の開催される国際会議場なのであろう。

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 展示室前の廊下は、やや広くなっている。立ったまま、少し休憩だ。大きなガラス窓になっているので外を見る。太陽の光が眩しいな。この日は、寒い一日であったが、陽射しは強い。桜の開花宣言こそ出たが、まだほとんどの桜の花は都心部でも咲いていないのではないかな?。が、春はすぐそこに来ているのだ。
 
 窓からは、正面の入口ドアが見える。入り口を挟んで反対側は図書館。
 写真の左手、手前は展示室の入口。 ↓

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 展示室の入口は小さい。ドアは開いていている。警備員が一名立っている。入館料はもちろん無料。自由に出入り出来る。というか、廊下と展示室を区切るドアを開放しているため、国宝、重文などの展示室に誰でも簡単に出入り出来てしまう・・・・。防犯上大丈夫であろうか、というのはいらぬ心配か?(笑)。

 ↓ 図書館展示室入口の様子。
   廊下の壁には、今回の「展示会」のポスターが貼ってある。

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 展示室には警備員が直立している以外、誰もいない。
 と、室内の小さいテーブルの上に今回の展示会の図録があった。自由に持ち帰りが出来る。しかも無料だ。カラー印刷の立派な図録。いや~、早稲田大学は、お金がありますね。 図録以外に第1期用に印刷したB4版の解説紙「解説目録」も置いてあった。
 四角い小さい展示室だ。反時計回りに壁に沿ってガラスケース内の展示を見る。重要文化財指定の「崇光上皇 宸筆願文」と「尾張~百姓等解文」の展示があった。
 なんと、文化財とともに「箱書き」のある木製の箱(箱の文字がダブッてしまったが)をガラスケース内に置いてある。巻物の保管用なので、細長い。箱書きには「重文・・・・」と、文化財再び箱に戻して保管するためか、タイトルが書いてあるし、現代に貼り付けしたと思われる??「重文・・・・」と書いてあるシールも貼ってある。
 かつて大徳寺では、ある畳の一室に保管用の長方形の細長い箱をまとめて置いていたが、ここでは箱が小さいためか、再び保管しやすいように??、「箱」も展示していた。

 最初に重要文化財指定の「崇光上皇宸筆願文」の展示がある。上皇様の直筆文である。
 「敬白 伊勢大神宮」と書き出しは大きな漢字だ。願いごとをしている文章だった。「神宮」ではなく、当時も現代とほぼ同じく「伊勢太神宮」と呼称されていた.ことが判った。「大」ではなく、太いという文字の「太」の文字であるのは注目だ。末尾には年号日付と「太上天皇 典仁 敬白」と記している。「上皇」ではなく「太上天皇」と
書いている。「敬白」の字で結びとしている。
 現在において、天皇の生前退位が検討されていると聞く。すると退位した天皇の呼称は正式には「太上天皇」略しては「上皇」になるのであろうか。非常に興味深く拝見した。

 同じガラスケース内に、重要文化財指定「尾張~百姓等解文」の展示があった。歴史資料集に内容か掲載されている歴史資料だ。平安時代に尾張の国の百姓が郡司 藤原元命(ふじわらのもとなが)の悪政?を上訴したもの。郡司は、のちに解任されたのだったかな。思い出した。「はは~、現物はここにあったのか」と思ったが解説文を読むと後世の「写本」であった。しかも、「郡司」を「国司」と誤解していたし(笑)。
 文章中には漢数字が書いてある「三万・・・・八束」と。年貢というか、律令制度下の租庸調でのチョロまかしたか、横領したか、税金として課せられた数字か、ある土地での収穫高、税の収納高かは分からないが、税金の何かの数と単位である。とにかく、「解」としたいらしい。解任申出書、訴え書のようだと現代の私にも分かる。

 ↓ 図録より。尾張~百姓等解文の部分。

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渋谷区 東渋谷台地付近の博物館、美術館 散策

 2017年2月某日 

 冬の寒い晴天の日。ここは、渋谷駅から見て、南東にあたる台地の上だ。
  国学院大学博物館の特別展を見学した後、同大学から山種美術館まで移動した。
 両方の敷地は、歩いて5分かかるかかからないくらいの距離。山種美術館の前の道路を渡る信号待ちの時間によっても異なるが(笑)。
 台地の上の道のりなので、平坦で歩くのも楽チンだ。途中には、氷川神社の緑に覆われた境内や学校がある。 学校の体育の授業なのだろう、生徒が学校の周囲の道路を走っていて、曲り角のところで出会い頭にぶつかりそうになってしまった・・・(苦笑)。
 あとで気付いたが、氷川神社の近く、広尾中の道路を挟んで反対側に「塙保己一記念館」があった。開館時間は9時からだったので、10時開館の 国学院大学博物館や山種美術館を見学する前に訪れてもよかったかも・・・・・。
 実は、国学院大学博物館の近くに渋谷区立の博物館がある。「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」だ。山種美術館の近くにも看板が出ていたので、今度来たときは行ってみようと思った。しかし、開館時刻は11時からだった。国学院大学博物館から、山手線の線路側(西)を背にして歩いて100メートルもないくらいの距離だ。館の前まで、歩いて行ってみたが見事にまだ開いていなかった(笑)。
 山種を見た後に戻って来ても良かったが、その後に所用があったので、訪問は割愛した。公立の施設だからせめて、9時半くらいから開けてほしいな(笑)。
 (同館の外観写真は撮影していないのでありません・・・・・。)

 その更に先、壁に囲まれた緑の多い森のようなお屋敷地がある。常陸宮邸であった。近く(山手線の線路方向を背中にして、国学院大学博物館の更に手前側)には「常磐松小学校」もあった。なお、文字は宮家は「常陸宮」で「常陸」と地名の「常磐」松では表記の漢字は異なる。

 ↓ 国学院大学博物館に置いてあったパンフレット。
  昨年2月-3月に同館で開催された企画展「渋谷の縄文、弥生時代-最新の調査成果から-」の案内パンフレットだった。
  渋谷区の遺跡についてのパンフに渋谷区の地形の解説があった。

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↓ 国学院大学博物館に置いてあったパンフレットの拡大。
  昨年2月-3月に同館で開催された企画展「渋谷の縄文、弥生時代-最新の調査成果から-」の案内パンフレット。 地図中の数字は標高を示していた。

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 パンフレットの地図によると国学院大学や山種美術館は「東渋谷台地」の南端の上にある。
 山種美術館から恵比寿駅へは、下り坂で、恵比寿の谷には渋谷川が流れている。山種美術館の南、館の入口の裏手も下り坂になっていて、渋谷川にそそぐ支流が形成した谷になっていることが判る。
 現在地は、市街地化、住宅化して地形がわかりにくいが、国学院大学~氷川神社~広尾高校付近が(私が歩いてみたところ)台地の頂上になっている。山手線の線路沿いから歩いていくと、国学院大学を過ぎて渋谷区郷土博物館・文学館の先、常陸宮邸の塀沿いにかけては下り坂になっていた。


 ↓ 国学院大学博物館から徒歩で向かう途中。広尾中、広尾高校などの前の歩道、恵比寿駅とは反対側から山種美術館を撮影。学校側の歩道沿いはタクシーのたまり場のようになっていた。

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特別展「火焔型土器の機能とデザイン」 国学院大学博物館 見学2

 2017年2月
  寒い日冬のある日のこと。渋谷区にある国学院大学博物館を見学した。
(※ 本来は旧字体で表記するのが正しいが、ここでは現在字体の漢字で表記することにする。) 

 特別展「火焔型土器の機能とデザイン」 見学。
  
 展示室に入って、すぐ右手に 十日町市博物館所蔵 国宝 火焔型土器 の展示があった。


 ↓ ガラスケース正面より「国宝 深鉢形土器 火焔型土器」

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 大きい。立派だ。炎のような突起が確かにある。大きい突起は、均等に四か所ついている。左右対称の模様なのか、目をこらして、うーんどうかな~、と観察する。突起は向かい合っているものが「一対一」の「対」が×2=4個の突起になっているのか。「対」になっているようでもあるし、なっていないようでもあるし、不思議な形だ。
 突起には「ハート型」の穴も開いている。縄のように土をこねて、穴を付けたのだろう。「ハート型」土偶を思い出した。まるで、心臓のような、人の心を表現しているようなハート型の穴だ。
 
 縄文時代は弥生時代の前だから、西暦でいうと紀元前500年より更に前なのかな、という程度の認識でしかなかったが、この土器は今から5000年前のもの。「縄文時代中期」。
 紀元前でいうと3000年前。すると、現在私達が縄文時代と呼んでいる時代は3000年~5000年は続いたのだ。いや、もっと長く1万年だったかな・・・・?。
 長らく文明が進化しなかった時代というのは語弊があるが、文明、文化の発達がゆっくりだ。反対に弥生時代以降、現在までの進化のスピードがいかに速かったかを感じる。

 ↓ 同じ角度から拡大。上部の火焔のような尖った模様も気になるが、「ハート型の穴」も気になる。
  もしや人間の心臓を表現したのかとも思ったが、土器を持つための単なる取っ手のようにも見える(笑)。

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↓ 国宝とは別の 「深鉢形土器 火焔型土器」 と展示室内の様子。
  新潟県の文化財に指定。ぽっと見たところ、国宝の土器よりも小さい。模様も少ない。

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↓ 重要文化財指定の 深鉢形土器 火焔土器。壁に沿ったガラスケースに展示があった。
  国宝よりも小さい、側面も含めて模様が少ない。
  長岡市馬高遺跡の出土と説明に書いてある。

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 ↓ 重要文化財指定の 深鉢形土器 王冠型土器
  こちらも国宝と比較すると小ぶり。王冠の紋様だが、四つのタテの持ち手がついているようで、実用性も感じた。津南町の堂平遺跡出土。

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 新潟県の信濃川に近い地域に縄文時代、共通した模様の土器が発達したようだ。特別展のテーマにある「火焔型土器の機能とデザイン」については、時間の関係で説明をよく見ることが出来なかったので、なぜこのような模様の土器が普及したのか、制作されたのか、機能はどのようなものであったのか、理解していない・・・(笑)。遺跡の場所や出土品などの解説パネルも壁に掲示してあったが、よく見る時間が無かった・・・・(苦笑)。
 展示スペースの順路に沿って、土器以外の石器や三角形の土板の展示があった。十日町の遺跡から出土していた。調理などに使用したのだろうか。
 
 私が入館してすぐ直後には、三人くらいの入館者があった。スーツを着た私より年下の感じの男性だ。大学の関係者かも知れないと思った。その後、熟年のスマートな女性が2人連れでやって来た。国宝の前で、じっくり見ながら、話をしている。また、別の夫婦らしき熟年の男女もやって来た。
 比較的規模の小さい博物館であるが無料でもあるし、会期末ということもあってか平日にもかかわらず開館直後から見学者がやって来ている。
 時間の関係で10分くらいの滞在であった。特別展以外に常設展示のスペースもあるのだが、見学は
割愛した。古代の神社の建物の模型などが展示してあるのが見えた。古代というより、式年遷宮で建築された伊勢神宮の木造建築のような印象も受けた。
 展示室を出ると、エントランスのところに小学生が整列していた。先生らしき私服の男性が傍らに立ち、小学生の列の正面には男性が立って話をしているところだった。「博物館 学芸員の 〇〇 です。」とあいさつをして「それでは、中に入って見ていきましょう。」と展示室の中へ児童を引率して入って行った。
 児童たちは皆、制服を着ている。私学の制服ではなく公立小のような紺色の制服だ。5年生くらいかな、と思った。6年生というほど児童達は大きくない。6年生だと、この時期は、もうすぐ中学生だし、もっと大きいと思う。
 来ている児童は25人くらいだった。一クラスの人数かな。学年で一クラスなのかは分からない。都心部のビル街を歩いていると確かに制服で登下校している小学生を見ますね。

 帰宅した後、十日町市博物館のウェブサイトなどを見て、少し復習した。土器には「おこげ」もついていたものがあり、調理に使用されていたらしい。かまどに於いて、煮炊きするのにちようどよい大きさだし。また、祭祀にも使われていたらしい?。国宝の土器は、(発掘後洗浄したのであろうが)きれいで形が崩れていないし、祭祀などの飾りだったのかも知れないと改めて感じた。


 




特別展「火焔型土器の機能とデザイン」 国学院大学博物館 見学1 (国宝 火焔型土器)

 2017年2月
  寒い日冬のある日のこと。渋谷区にある国学院大学博物館を見学した。
(※ 本来は旧字体で表記するのが正しいが、ここでは現在字体の漢字で表記する。) 


 元々は、山種美術館に来る予定であった。前年の11月にも「速水御舟展」の鑑賞にやって来たときに、竹内栖鳳筆の重要文化財「斑猫」が展示されることを知ったので再び鑑賞にやって来ることにしていた。
 しかし、年末年始を挟み、はや会期末となってしまった・・・・。いつものことだけどね(苦笑)。
 そこで、急きょ仕事の合間に見学に行くことにして、同時に近隣で行く所(スポット)はないかな?、と思って(ネットで)調べていたところ、国学院大学博物館の特別展を知った次第だ。
 
 テーマは「火焔型土器の機能とデザイン」。目玉展示として新潟県の十日町市博物館所蔵 国宝の縄文土器(火焔型土器)が展示される。
 現地まで見に行くことは大変であるし、遠隔地の国宝が展示されるせっかくの機会なので、見学してみることにした。
 会期は12月10日から、年末年始を挟んで平成29年2月5日(日)まで。またまた、会期末に近い見学となった(苦笑)。 国学院大学博物館は、入館料無料。大学の付属施設とはいえ、太っ腹だ。

 以前、山種美術館に来たときに、近くに国学院大学博物館があることを(改めてではあるが)知り、同時に渋谷区立の記念館も近くにあることに気付いたのだ。が、山種が閉館間際の訪問だったりして、行くことができなかったので、近くの博物館も同時に行くことができれば、と思っていた。

 周知の通り国学院大学のキャンパスは渋谷駅や渋谷川沿いから見ると、坂道を登った丘の上にある。周囲は、住宅地や商業地、学校などの公共施設用地。道を一本入ると閑静な通りだ。大学のメインの校舎のある敷地とは別、道路を挟んで、渋谷駅側に博物館のあるビルがあった。道路沿い、門やキャンパスを囲む壁のないオープンスペースのような敷地入口なので、すぐに分かった。

 開館時間は10時から。開館時刻ちょうどに博物館にやって来た。ゆるやかな坂道の途中、大学の敷地内のビルの一番下のフロア、半地下になっている所に入口があった。路面から階段を下って入館した。
 閉館時刻は18時と比較的遅い。17時閉館の別の博物館、美術館を見学した後でも訪問可能だ。

 ↓ 博物館の入口。「火焔型土器」の複製品が設置してある。実物大の大きさか?、と錯覚してしまった・・・。


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 ↓ 特別展の告知看板。渦をまいているような、不思議な形の突起のある城門土器が「火焔型土器」だ。


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 エントランスに入るが、特に受付は無い模様。無料の博物館の場合は、記帳台があり、氏名などを書く場合もあるが、特に無いようだ。全くの自由入場で、入館料無料だ。
 展示室への自動ドアを入る。と、係員が座っている。開館直後の不意の入館で少し驚かれたようだった。カチと手に持っていたカウンターで入館者数に私は数えられた。展示室の入口には、博物館チラシ展示品リスト、やこの特別展にちなんで新潟県の「信濃川火焔街道連携協議会」のパンフレットが置いてあったので、入手した。
 信濃川の沿岸市町村が共同して制作したパンフのようだ。沿岸の遺跡から、火焔型土器が出土してているのだ。今まで知らなかった・・・・。
 縄文土器だから、縄の模様が土器の側面や、上のフチ付近にあるのは当たり前だ、程度の認識しかなかったのだ・・・・。

 入って、すぐ右手に「国宝 火焔型土器」が独立した四方から見れるガラスケース内に展示してあった。
 付近の壁には「カメラマーク」があり「OK」と告知がある。なんと、写真撮影OKなのだ。

 ↓ ガラスケース内の「国宝 火焔型土器」。写真の右が展示室出入り口の自動ドア。
   「写真OK」の告知が見える。
 
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  博物館の入口の告知板にもあるが、ミュージアムトークも開催している。特別展のチラシにも日時が掲載されていて、複数回開催されている。この2月の土曜日にも開催がある。大学内のホールで関連イベントも開催されていた。(イベントは昨年の12月に開催済だった。)
 展示室内の告知にもあったが信濃川流域で発掘されたこれらの火焔型土器とこの地域の雪国文化が「日本遺産」にも指定されたそうだ。


NHKスタジオパーク 見学4

 2016年1月 NHKスタジオパーク 見学4 

 渋谷区のNHKのスタジオパークにやって来た。
 
 ↓ 2008年に放送した「天璋院 篤姫」のポスター。
  御台様の姿がりりしいです(笑)。

 
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  このドラマ、私はほとんどの回を見た。珍しいことだ。基本的に見ないのだけどね(笑)。
 出演した女優さん目当てではありませんよ。放送当時、既に若くして結婚していましたしね(笑)。
 現在ではどうなっているのかは、分かりません(笑)。
 ポスターの下にドラマ中で見た小道具の展示が数個だがある。昔のドラマなので、わずかな展示だ。
 江戸城の大奥と表を結ぶ「お鈴廊下」の鍵だ。廊下には「上様のお成り」を伝える紐に房と鈴がついていて、シャンシャン鳴るシーンがあったな。紐についていた房も展示がある。
銅扉が開き「うえさまの、おな~り~」の声と「シャンシャン」する音が記憶に残っている(笑)
 そして、女は待っていて、伽をするのだ。ドラマでは、伽をする御台様は白い装束で布団の横に正座してお辞儀をしていた。衝立の裏にはお付きの女(女坊主)がいたかな。監視役だ。そして、同衾だ。

 どうでもいい話だが、オレはこんなにうらやましいことができる将軍様になぞ、なれる訳が無い。ああ、小市民(笑)。

 ↓ ドラマ「花 燃る」の小道具。吉田松陰の「留魂録」の小道具。と刀もある。
   書き残したシーンがあったのかは知らない・・・。見ていないので。主人公は吉田松陰だったか、「あれ、ドラマの主人公は誰だったかの?。」と一瞬忘れてしまっていた・・・・(苦笑)。ドラマ館も行ったのに・・・。

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 昔のドラマは、小さい窓のような展示コーナーが順番に並んでいた。最近のドラマは下の写真のように、大きく展示コーナーを設けていた。

 ↓ こちらは何のドラマか・・・・。
   「軍師官兵衛」のヨロイやたいまつのカゴ。旗、床几、槍など。合戦のシーンで使用したのだろうか。


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 更に通路を進む。と端近くに「おかあさんといっしょ」の撮影スタジオがありました。以前も見たことがあるが、本当に撮影で使用されているスタジオ。「本日は日曜日で撮影はない」と告知があった。繰り返しになるのだが、本当にここで収録をしているそうです。
 近くには歴代の「おにいさん」「おねえさん」の写真掲示もあった。「アノ新聞沙汰にもなったおにいさん」の写真があったか、覚えていない・・・・。ウチの子が小さいときに出演していたかな?。覚えていないけど・・・・。おにいさんとはいうものの、出演当時でも年齢は40歳前後だったと思うが・・・・。現在の「おねえさん」は、在任期間が長い。下の子が見ていた時期にも出演していて、現在も出演している。下の子は、「おかあさんといっしょ」をすぐに見なくなったので、あまり(下の子には)みせた記憶が無い・・・・。今では「子供にみせたくない番組」ランキング上位にランクされるような「バラエティー」を見て爆笑しているョ・・・・。あまりにバカ笑いしているので、見ているときにブチっとテレビを消すと逆にキレられるし・・・。すっかり、子育て失敗例・・・・・(苦笑)。
 
 自分の子が生まれて、見始めた頃「おねえさん」達は1年交代と思っていた。3月が終わって、新年度の4月になっても出演しているので「あれ、交代しないのだな。」と思っていたが、今まで3年~4年くらいで交代してきたようだ。時に「〇年」とは決まっていない模様。

 元来たエスカレータの所に戻ってた。エスカレータを昇り、再び一階へ。最初に見た展示やスタジオが見える。
 長い廊下を奥まで行って、再びドラマの展示品を見ながらエスカレータの所まで戻って来たことになる。

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 一階に戻る。先程、地下に降りるときに乗ったエスカレータの反対。一階に戻ると先の「大河ドラマ 真田丸」のコーナーや入口がある場所とは反対側に順路の表示がある。
 順路の案内に進むと「スタジオパーク」のスタジオがあった。以前も見たことがあるが、本当に撮影で使用されているスタジオ。月~金曜のお昼の番組なので、この日は放映はありません。無人だった。えっと、土曜日も放送があったかな?。スタジオの隣には「サブ室」もありました。
 意外にも幅の狭いスタジオです。生放送のときのゲストのタレント、俳優さんはどこから登場するのでしょうか。
たしか、観客の間を通って スタジオ入りしていたと思う。見回したが、ゲスト用の出入り口はわからない。どこかの扉から突然入って来るのかな?。

 先にも書いたが上の子が以前学校の社会見学で来たときは、ここで生放送の様子を見る予定であったが、「某アイドルグループ」メンバーの出演のため、この日だけは、見学が出来なかったのであった。
 
 
 ↓ 横に長いスタジオ。手前のガラスのところで、見学者は生放送の様子を見ることが出来る。


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 その奥に別の展示コーナーがあった。更に、「らせん」状のループがある。再びここを通って地下に行く構造。すると子供達の遊び場コーナーがあった。たくさんのちびっこ達が飛んだり、跳ねたりして遊んでいるよ。ちょうど、対象年齢は「おかあさんといっしょ」を視聴する年齢層と、そのやや上の小学校入学前くらいまでの年齢ゾーンかな。
 よって、ウチの子にとっては数歳年下になるので、ウチの子は全く興味を示さず、スルーして行った・・・・。
そして、出口があった。出口の先にはお決まりの「グッズ販売店」です(笑)。その名も「スタジオショップ」だ。

 ↓ 休憩室からショップの入口。「真田丸」のポスターも貼ってある。


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 ショップを出ると正面に「スタジオカフェ」がある。ちょうど、お昼どきなので、食事待ちの人で行列していた。カレー、ラーメンなどの一般的なメニューが中心だ。大河ドラマ関連して「真田丸御膳」もあった。すごいな~(笑)。スナック、ドリンク、ソフトクリームなども 食堂内のカウンターで販売しており、レストランエリアの外にも休憩用のイス、テーブルもあるため、食事をしなくても利用可能だ。
 と、「スタジオカフェ」の近くに団体用の出口があった。地下になっている。ここからバスの乗って、すっと出発できるようになっている。車寄せのようだ。楽屋出口のようだ(笑)。
 たしかにこの日も、大型バスで団体さんもやってきていましたね。

 一般見学者は、緩やかな坂道通路を登って、地上に出る。と最初に入った門(南の門)近くの「回廊」の南側に出た。あの、毎朝天気予報の中継を行っている場所の近くだった。
 坂道通路の途中に関係者用の出入り口の鉄の扉があった。と、三人くらいの番組制作スフッフと思われる人が扉から出てきた。私服姿で、首からは名札を吊り下げしている。皆、20歳台の若い人。女性は随分と体格のよい方だった。日曜なのでスタッフはあまり多く働いていない感じ。正午はとうに過ぎているので、やや遅い昼食を食べに行くのかな?。いや~多分NHKフロパーの人ではないな~という感じた。根拠はないが、直感で(笑)。名札は見えなかったので分からないが、「NHK××プローモーション」(仮称!)や有名な「NHK×××プライス」(仮称、末尾が「ズ」ではなく「ス」なのがポイント<笑>。)番組末尾のクレジットでも色々な関連会社の名前が表示されるので、それらの中の一社の所属かなと思った。

 ↓(既出) スタジオパークの出口の通路横にあるモニュメント。 
  「スタジオくん」(名前が分からないので、勝手にボクがつけた仮称<笑>)が今度はお見送り。
   (先程はお出迎えだった。)

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 門を出て、敷地の外へ。次いで隣接する代々木公園内の通路を通る。通路の両側にはテントが出ている。寒い日ではあるが、出店が多数ある。人が多く賑やかだ。



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 ↓ テントの合間から、先程見学したNHKスタジオパークの方角。
 
 
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 通路を通り、明治神宮の鳥居の前を歩き、原宿駅から山手線に乗って移動した。
 
 ※次は東京国立博物館「兵馬俑」の特別展に行ったのだった。



NHKスタジオパーク 見学3 

 2016年1月 NHKスタジオパーク 見学3 ドラマ「真田丸」展示

 渋谷区のNHKのスタジオパークにやって来た。
 入場して正面に大河ドラマ「真田丸」の展示コーナーがあるので。見学した。
 ここまでは一階。次いで、地下へのエスカレータを降る。地下に長い廊下が伸びている。スタジオのような部屋が廊下沿いにある。廊下に沿って、展示コーナーがある。と、最初の方の部屋は、映像の上映室になってしる。上映時間が決まっている映像シアターです。次の上映時刻は、13:30くらいだった。時間的にまだ早いので、待つのは割愛した。
 更に、地下に伸びる廊下のような展示室を歩く。番組ごとに紹介、番組体験コーナーがある。「ためしてガッテン」の番組紹介コーナーがあった。科学的な現象に関する問題のクイズが室内にある(出題されている)。解答して、画面のタッチパネルを操作と答えが出るのだが、たいていは「間違い」(笑)。

 ↓ 6番のドラマに関するコーナー。


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 「お母さんと一緒」など子どもにもわかりやすく、なじみ易い番組に関連する展示だ。

↓ NHKで放送されているアニメ番組のコーナーがあった。
  主人公、登場人物のパネルの展示。番組名や登場人物の名前が全く分からない・・・・(苦笑)。
  えーといつの時間にアニメを放映していたかな!?。
  「忍たま乱太郎」「おじゃる丸」は無い・・・・・。


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 ↓ 進んで行くとニュースのスタジオのコーナー。「スタジオ パークニュース」
  実際に包装ではなく(苦笑)、放送できる設備のようだ??。子供がニュースキャスターのデスクに座って、原稿読み体験を行っていた。カメラの操作は、係員が立っている。カメラ操作の体験は出来ないのかな?。申し込みをして体験できる仕組み。待っている人もいて、順番待ち。観客席もあるので見学者の注目を集めますね。その間、座席に座って、他の人が体験しているのを見ていることになるので。副調整室(サブ室)の中には、機材があるが、中には入れなかった。


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  ウチの子は「イイ」と言ってなぜかスルー。子供ならば嬉々として体験すると思うが、ウチの子はひねくれている。この親ありてこの子ありか・・・・・(苦笑)。
 
 廊下の先まで行くと、途中に休憩コーナーがあり、自販機とイス、丸テーブルがある。ここで持ち込みの弁当を食べている家族連れもいた。既にこの場所を知っているようだ。
 続いて、元来たエスカレータに戻るように、再び長い廊下を歩く。廊下に沿ってスタジオのトビラもある。本当のスタジオのようだ。

 「ドラマライブラリー」
 壁面には歴代大河ドラマ、朝ドラのポスターや小道具の展示がある。ドラマ中でも見た小道具などの展示がありました。たとえばドラマ中の手紙は、ほんの一瞬で、文字はぼやけていてほとんど(ドラマでの)画面には映りませんが、すべて手書きで丁寧にかいてありました。大変だな~。セットひとつひとつをとっても。映らなくとも、細かい部分まで制作するのだ。
 ある現代ドラマで使用された「女性が書いた手紙」も展示があったが、明らかに筆跡は若い女性スタッフ(恐らく20歳台のAD?)の手書きですね。作中、手紙を書いた女性の設定年齢はもっと上だったと思うが・・・・。文字が、現代の若い女性の字なのだ。現代ドラマなので、いいか(笑)。

 ↓ ドラマで使用された手紙、離婚届けの小道具。台本も。

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 離婚届は押印がしてある。名前は「天野春子」。ということは「あまちゃん」のセットだ(笑)。夫とは、離婚をした設定だったのだ。知らなかった・・・・。妻はある程度見ていたようで、ストーリーを知っているのだが・・・。

 「真田丸」、登場人物のパネル。真田幸村にとっては「敵」側の徳川方の登場人物・・・。ドラマ中で見た 小道具の展示がありました。


 ↓ 一階の展示と同じく「徳川家康」、「本多正信」とパネル説明がある・・・・・のはギャグで(笑)、
   過去の大河ドラマの展示。前年の作品「花も燃ゆ」だ。
   パネルの手前から、吉田松陰役、その妹の主人公 文役、その夫の久坂玄瑞役の姿だった。

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 夏には萩の「花 燃ゆ」ドラマ館にも行ったぞ!!。大河ドラマの振興のために貢献しています。ウチの家族は(笑)。実をいうと、ボクは、あまり・・・・・、というかほとんど見ていないです(震)。以前、視聴したドラマもあるけど。
 「花 燃ゆ」に関しては吉田松陰ゆかりの松陰神社にも行きました。世界遺産の松下村塾も見ました。
 


 ↓ 以前2011年の大河ドラマ「江」(ごう)のパネルと小道具。
   駆け抜ける江の姿がりりしいです(笑)。有名なポスター、番宣用写真。風でブローして、髪を上げている。

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 「近江」の色紙は、ドラマの中で命名のシーンで使用されたものだった。偶然私もそのシーンを見た。「近江」からとって「ごう」と名付け、朱筆で「江」にマルをするシーンだった。
 こうして見ると新しいですね。小道具が。ソリャ、最近のドラマだから当たり前か(笑)。
 放送当時、長浜市にあった「江」のドラマ館にも行ったぞ!。
 その後「軍師 官兵衛」のドラマ館にも行ったことがある。同じ長浜市にあった。ただし、場所は違って長浜市の木之本にあって、偶然見つけたので入館したのだった。何故ここに「黒田氏が?」と思ったが、説明が長くなるのでヤメておく(笑)。
 よくよく考えると、私は「ドラマ館めぐり」をしていますね。


NHKスタジオパーク 見学2 ドラマ「真田丸」展示

 2016年1月 NHKスタジオパーク 見学2 ドラマ「真田丸」展示

 渋谷区のNHKのスタジオパーク。

 入場する。入口付近、エントランスは緑色を基調としたカラフルな内装。改装して随分と立派になった。
入って正面に 大河ドラマ「真田丸」の展示コーナーが。
 下の子は、ここがお目当て。(上の子は、あまり興味が無いらしいが・・・・。ついでに、まだドラマは開始されたばかりだが私も視聴していないし、視聴する予定も無い・・・・・・。)

 ドラマ人物相関図や 小道具、衣装を着た俳優さんの等身大パネルが展示されています。
 え~と、強いて言えば、ボクが興味があるのは「〇沢××み」さんくらいで、他はあまり・・・。いや~、かつては女子高生役の初々しい姿だったのに、彼女も歳を重ねましたね~。(何故か、エラそうにするボクちゃんです・・・・・。)それだけボクも歳をとりました。ボクが歳をとろうが、ドラマには関係ないか・・・・(苦笑)。

 展示室内の写真撮影は「禁止」とされている部分、展示品を除いてはフラッシュ無しで可能。撮影禁止の展示品は、出演者のサインや映像コーナーなどでした。

 ↓ 真田家の面々。と衣装の展示。


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 小道具は、数点が置かれています。短刀や刀(長い刀)の小道具も。案内係の女性が「(この刀には)本物の刀は入っていませんので 安心してくださと。」とにこやかに説明をしてくださいました。
 「オーホッホッホッ」など着物の女が笑い、口を隠す?シーンで使うと思われる扇などもあります。

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 記念撮影コーナーでは、ドラマに登場する俳優さんのパネルの前で、カメラを預かって「ハイ チーズ」と撮影のサービスをしてくれる女性と、もう一人の説明役の女性、合計二人の係員がいます。
 パネルでの撮影コーナーでは、なぜか下の子は「ヤダヤダ」と記念撮影拒否。「アンタ、売れっ子のタレントさんでもあるまいに・・・・なにを言うのか。何のためにここに来たのか?」アンタの為に来たんだよ。」とボクはプンプン(苦笑)。

 登場人物のパネル。真田幸村にとっては「敵」側の徳川方の登場人物。

 ↓ 「徳川家康」 「本多正信」と説明がある。


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 かねてから、下の子はココ、真田丸の「ドラマ展示コーナー」に行きたい、と言っていました。(まだ1月でドラマは始まったばかりですが)いましたが、ここを見てから、更に話が飛躍して「ドラマ館」に行きたいと言うようになりました・・・・・。「ドラマ館」って何処???、と思うが、真田氏の居城があった上田市にあるそうだ。
 子供は、ドラマ「真田丸」のパンフレット(リーフレット、というべきか・・・・。)もゲットして、更にご満悦でした(笑)。
 このウチの子の意気込みを聞くいら、NHKの人は泣いて喜ぶかな?(苦笑)。

 ↓ NHKの回廊。柱は「真田丸」づくしです(笑)。

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NHKスタジオパーク 見学1 (入場編)

 2016年1月

 寒い日のことだった。銀座にある石川県のアンテナシヨップで食事をしてから次は、なぜか渋谷に移動することに。銀座線の銀座駅まで歩きました。
 そして、渋谷駅でおりる。ハチ公前の広場に出て、スクランブル交差点を通過、デパート合間の坂道を歩いて上ります。

 ↓ と、通りを「ドラマ 真田丸」のラッピングバスが通過した。いや~、タイムリーだな。目指すは、ココだからだ(笑)。
 


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 「ドラマ 真田丸」のラッピングバス。真田の「赤」にペイントされている。

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 公園通りをずんずんと歩き、やってきたのは坂の上の台地にあるNHKのスタジオパーク。というか、放送センターといえばよいのだろうか。
 センターの敷地の手前の信号まで私の速足で10分くらいでしょうか。早足でも歩いて10分では着きませんね。
 道路を挟んで、渋谷駅側(つまり、自分達が歩いて来た手前側)にある渋谷区役所、渋谷公会堂の建物はは工事中でした。

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 ↓ ただ今工事中。


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 敷地の前の歩道。右側が、放送センター内。


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↓ 入場する。正面にNHKホールが見える。

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 NHKの「キャラクター君」がお出迎え。このアングル、朝のニュース内で天気予報の中継を行っていますね。
写真でいうと、手前側にレボーターが立ち、カメラは奥の建物側から撮影しているのかな???。


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 放送センターの回廊。「大河ドラマ 真田丸」のポスターが至るところに掲示してある。
 放送がはじまったばかり。今年のNHKの目玉ですね

 先に私が(回廊を)走って、自動販売機でチケットを買います。(危険なので、走るのはヤメましょう。私は無理やりツレに「はよ、買に行けや」とドヤされたので・・・・、と言い訳・・・・・・。」)
 入場料は、大人一人200円。高校生以下は無料です。
 久々来たが、敷地の入口からスタジオパークの入口までの長い回廊は変わっていないな。
 俳優さんの名前も「真田××」かな??と思いました。ヨロイを着ていると分かりませんが・・・・、とボケる(笑)。

別に私はこの「某ドラマ」には興味はありませんが、某ドラマ本を買った、下の子が「ここに来たい来たい」とのリクエストなので、やって来たのでした


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 上の子は、学校の見学で一度ここに来たことがあるそうだ。見学したときは、某人気女子アイドルグループのメンバー(笑)が中継で登場した日だった。本来は、スタジオの見学が出来るのだが、その日に限っては「混乱を避ける」ということで、一般公開無しのシャットアウトだったそう。よって、上の子はアイドルさんを見ることが出来なかったそうだ。
 あのときの登場メンバーは、今もその某グループに在籍しているか?、それとも既に卒業しているのか??、卒業予定なのか???(笑)。

 

「日本近代洋画への道」山岡コレクションを中心に 中村屋サロン美術館 鑑賞

 2016年11月の寒い日。
 新宿の中村屋サロン美術館に再びやって来た。
 高橋由一から藤島武二まで「日本近代洋画への道」山岡コレクションと副題が長い(笑)。

 2014年10月にオープンしたこの「美術館」。訪問するのは、三回目だ。
 開館の翌年の2月に「開館記念特別展」を見学した。次の訪問は、その約一年半後で「中村不折の魅力」を今年の7月に鑑賞した。そして、11月、四か月ぶりの訪問となった。

 ↓ 三階にある美術館入口の様子。この日は、寒いし、平日とあってか、入館者は少なく、すいていた。
 

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 会期は12月11日まで。約三か月の会期があるが、またまた会期末に近い訪問となった。
 美術館の入口は中村屋ビルの3階。エレベータで上がります。エレベータを降りると、例のブライダル旅行サロンのお出迎えの方は・・・・、この日は平日とあってか、いませんでした(ホッ)。
 店頭には「ウエディングドレス」が飾っていない・・・・・。美術館に来る人は、ほぼ皆、このブライダル旅行サロンの前を通るのだが、ややこしいのでお出迎えをやめてしまったのか?。この日、訪問したときは、あまり「ブライダル」は打ち出しをしていなかったような・・・・。
 


 ↓ エレベータ前から、外の通りを見る。少し前には、雪が降ったのだが、この日はやや雨。
  さすがに雪が降る寒さではなかった。

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 美術館の入口、カウンターにはいつものように女性が座っていて、私に気づいて、立ち上がる。私は「1人」と声を出す。300円を支払うと、チケットをくれる。 
 私の他に観覧者は、60歳~70歳くいらの女性が二人いたくらいだ・・・。その女性のうちの一人は奥の展示室から戻ってきて、再び奥の部屋に戻って作品をじっくり見ていた。 

 最初の展示から順番に鑑賞していく。受付(つまり、売店、チケット販売のレジのあるところ)台のそばの壁には、あの高橋由一の作品の展示があった。
 あの有名な「鮭」の絵である。が、よく見るとあの教科書に必ずといっとよい程に掲載されている「鮭」とは違う・・・・。長方形の板に描かれている。「上から吊るされたアラマキ鮭」そのものの描写は、重要文化財指定、東京藝術大学所蔵の「鮭」と酷似している。同じ作者なので当たり前といえば、そうなのだが(苦笑)。
 説明を読んで更に作品に顔を近づけて見る。「背景の板」は、描いた(つまりペインティングした)ものではなく、素材の板材の木目がそのまま「背景」になっているのだ。こりゃすごいです。
 

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 壁の説明文を読むと、今回は山岡孫吉氏のコレクションからの出品。山岡氏は、ヤンマーディーゼルの創業者とのこと。コレクションの所蔵は、茨城県笠間市にある美術館のようだ。今回の作品のほとんどは、同館からの出品。なぜ、茨城県なのか説明は詳しく書いていなかった。山岡氏自身は、滋賀県、現在の長浜市高月の出身。あの「いのくち式ポンプ」とも関係があるそうだ。故郷ではなく、茨城の美術館にコレクションが所蔵されていることになる。


 鹿子木孟郎の「奉天入城」もある。 日露戦争で奉天(当時)に入場した満州軍の大山総司令官、児玉総参謀長らの馬上の姿やと列する兵士達を描いた有名な、歴史資料集にも掲載のある絵だ。この人の作品だったのだ。今回、展示された経緯は会場の作品の前には書いていないので、不明だ。図録には書いてあるのかも知れないが。コレクションの一部なのだろうか。


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史跡 林氏墓地 一般公開 東京文化財ウィーク 見学2

 2016年11月5日 土曜日

史跡 林氏墓地 一般公開 東京文化財ウィーク

の中に入る。最初の交差点で、停まる。どこかな、とみると、人が出入り
している壁が。あれだとわかった。 古いコンクリの壁に囲まれている。「林氏墓地」公開と紙がはっている。わかりくい立地。

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5時を過ぎたので、門の扉を半分占めた。テントを張っている。墓の端には、スチールの物置を置き、清掃などの資材を置いているらしい。
その壁の向こうには、普通の住宅が迫っている。

南には「11代の夫人」のように妻や子の墓が林立している。無造作に土に墓の石をおいてあるかんじ。
家族には゜「こちらには、なにをしたかを、大きな石に書いています」
2メートル以上ある石碑があり、文字が刻まれている。複数あり、業籍を残した当主については、設置しているよう。

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羅山の暮石の横には無かった。

時間も終了のようで少しばかり見て、退出した。一人一人事績などをみていら、かなり時間がかかる。
林氏の屋敷がここにうつったので改葬したそう。 よって羅山の墓が小さいと説明していたような。羅山の碑は無い。
説明文には、屋敷に一角に墓所をもうけ、維新後 住宅はなくなり、墓所のみ残ったそう。

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例のハカキももらった。
「鳥居要蔵」も林の出と説明文にあった。幕末の岩瀬も。日差しが西に傾いて来た。秋の日は短い。

近くの公園で荷物整理。と、墓所の前で、区役所か、軽ワゴンが停まった。「のぼり」「テント」「机、パイプイス」などの資材の片づけをしているようだ。
小学校の裏手、ゴム地の校庭。テニスコートになっている。更に歩くと 中学がある。女子が軟式テニスの練習
わしている。人数が少ないのかな。ボールをさわることが出来ないくらい部員がいるものだが。
史跡「林氏墓所」は普段は、先の 「新宿歴史博物館」が管理しているようだ。

。ハイツのような敷地がある。マンションになっている。監視カメラが多数設置されている。その先は旺文社と英検協会がある。


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その裏手の道を進む。

歩く。道を間違い、坂を下ると 絵大江戸線の駅のところに出た。



























 






史跡 林氏墓地 一般公開 見学1 東京文化財ウィーク

 2016年11月5日 土曜日 「史跡 林氏墓地」一般公開 東京文化財ウィーク


 「新宿歴史博物館」を見学した後、次の目的地に歩く。現在開催中の「2016 東京文化財ウィーク」の一般公開を見に行く。目的地は、 「史跡 林氏墓地」。

 ※本来このブロク゛では、期間が決まっている企画展、特別展などの記事を優先して投稿し、「年に一回」「年に二回」などの施設などの「一般公開」は後日に投降することにしている。しかし、今回は「2016 東京文化財ウィーク」の見学記ということで、特別にお先に投降することにします!!。
 (特別って思っているには、ボクだけですけどね(笑)。)

「東京文化財ウィーク」
超目玉な公開は無いというのが、私見。23区内、限定でいうと、興味の有無は個人差が大きいが、私としては

「前田邸」 「和敬塾 旧細川邸」が行けたかも。重文優先だと前田邸。が、前田邸は「和館」のみで洋館は工事中とのこと。明示学院もあったかな細川邸は、予約制で定員ありなので、困難だったかも。

根津神社は、平日のみ。公文書館では、宋版の文書の公開があったようだが、インパクトには欠ける。以前よりは、公開に力を入れたかな。


 さて、新宿歴史博物館から「林氏墓地」までの道のりを少々。
 (博物館近くの路上から)正面、ビルや家々の合間に防衛庁の巨大なアンテナを見ながら、坂を防衛庁の庁舎方向に下る。

 広い道路(曙橋付近の)を渡り、今度は防衛庁の巨大な庁舎を横目に見ながら坂を再び登る。と、途中には機動隊の看板がかかっていた。門前では、制服姿の女の子の警官が立っている。立哨というのか、警らというのか、立ち番というのかは、知らない・・・・。女性警察官は、まだ20歳くらいじゃないかな?。
 歩いて通過し、その先はに、防衛庁の門がある。付近の道路は、区画整理をまだ行っている。「まだ」というのは、昨年の2月に永青文庫に行く途中、車で通ったからだ。まだ工事は、完成していないようだ。
 更に歩いて、柳町から東へ交差点を曲がる。ここの地下には、大江戸線が通っていて、駅もある。歩道の脇には、交番がある。古い小さい交番だ。
 交番前を通過し、ゆるい坂道を登り、見当をつけて小学校の手前を住宅地の中に入る。最初の交差点で、停まる。どこかな、と見ると、人が出入りしている壁が分かった・・・。「あれだ」とわかった。古いコンクリの壁に囲まれている。「林氏墓地」公開と紙がはってある。目的地に到着した。
 現在は、住宅と低層のビルの立ち並ぶ地域であり、わかりくい立地だ。

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 新宿歴史博物館から20分以上歩いた。門の前には、公開時間が「10時-15時まで」と張り紙ある。現在1458だ・・・・。公開時間も終わりだ・・・・。急いで門の中に入る。
 門には「史跡」と書いている。告知にもある通りここ「林氏墓地」は、一年でたった三日間の公開だ。
 去る11/3(祝日)に公開があり、この土曜と明日(翌日の日曜)も公開がある。「東京文化財ウィーク」ののぼりも立っている。私にとっては、今年の。「東京文化財ウィーク」目玉の史跡公開地見学かな・・・。

 見学者が出入りしている。小学生の男の子をつれた夫婦がやってきていた。対してウチの場合、ウチの子は、「興味ない」と入ってこなかった・・・・。


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 墓地を囲む、古いコンクリートの壁に貼ってある手作りの告知。三日間の公開の日程案内がある。小学生くらいの子が手作りしたものであろう。
 連絡先は「新宿区立新宿歴史博物館」と書いている。普段は公開されていないので、管理は通常「新宿歴史博物館」が行っているのであろう。

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 門の中に入る。敷地は、思ったよりも狭い。門の内側には、テントが設置してあり資料を貰えた。資料や敷地の説明板によると土地の広さは110坪くらい。約330平方メートルと狭い。一般住宅としては、広い敷地なのだが。「史跡」としては狭く感じる・・・・。売買価格でいうと〇億〇千万円はするであろう、というのは余計な推測か・・・。
 墓地の隣は住宅になっている。北は道路に接しているが、東西南は、一般住宅に隣接している。
 ボランティアガイドの女性が、例の家族連れの男の子に声をかけて説明する。「これは、林羅山(はやしらざん)といって初代の人のお墓。・・・(大河)ドラマの真田丸って見てる?。と る徳川家康がでてくるので、その学問をつかさどる人、顧問だった。大阪の陣のきっかけとなった、方広寺の鐘の文章の解釈を・・・・豊臣家に不利なようにした人・・・・」というような説明だったと思う。
 そのような、初代羅山であるが、初代の墓碑は小さい。が、墓地の端、西を背にして、東を向いているので初代に敬意をはらっているよう。


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 ボランティアガイドの女性が説明を続ける「・・・林氏(りんし)の屋敷は、最初、神田の××にあったが、・・・・・・(中略)その後、ここに屋敷をもらった。谷中?にあった墓地を屋敷の敷地の中に移して、初代も含めて改葬をした。明治時代になって、屋敷は無くなり、住宅地になったが、墓地だけは残った・・・・。昔に比べるとだんだんと墓地の敷地も狭くなっていった・・・。」という内容の説明であった。

 ↓ 写真中央。初代羅山の墓碑。

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 更にボランティアガイドの女性は、男の子の家族に向けて「りんしは、七代で血が絶え、養子ををもらいました。  岩村藩 の松平氏から のりひらというひとが、八代のじっゅさい(述齋) として養子になりました。」と説明。
 「乗」は松平氏のある家の通し字だ。比較的、石高の小さい譜代の小大名から養子になっている。林氏は、大名では無い。よって、石高の小さい、家格の比較的近い譜代大名より養子をとったか。

 ※ 帰宅後、ネットで調べてみると「大給松平氏」から林氏に養子入りしている。岩村田、信濃のペンタゴンの城も「乗」の字のつく松平氏のお殿様が造ったはずだ。一族であろう。
























 






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新宿区立新宿歴史博物館 見学4 常設展示室

 2016年11月5日 土曜日
 

  「新宿歴史博物館」
 
 展示室は、地下にある。完全な地下室ではなく、半地下の石垣に囲まれた庭がある。中庭というべきだろうか。一階から階段を下りて地下へ。
 先に特別展を見学した後、常設展示室に入る。

 まず目に入って来るのは、内藤新宿の復元模型だ。
 室内は撮影禁止だ。しかし、模型など「撮影スポット」と表示のあるところだけ撮影が可能だ。

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 常設展示室は、長方形で、内藤新宿の模型から順路に従って進む形式。天井が高い。地下と一階の部屋も使用しているのではないかと思うくらいだ。入口近くには、原始時代の展示からしばまり、江戸時代の新宿の様子もある。入室して一番目立つには、上述のとおり、「内藤新宿の復元模型」。
 
 ついで、江戸時代の展示がある。
 ↓ 大きな商家の復元がある。土間にも入り、室内の展示も見ることが出来る。
  分厚い壁の土蔵造りだ。「耐火」が一番重要なのだ。


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 江戸時代の新宿の様子が参考になる。明治元年の西新宿の様子も絵図がある。見ると、信じられないことだが、本当にににににににに農村地帯だ。(あまりにびっくりするくらい農村地帯なので「に」を連打してしまった・・・・。)
 家の集まった小さい村があり、祠や寺がある。祠や寺は、現在でも高層ビルの谷間にのこっているそうだ。現在の新宿中央公園の傍らになどに。へ~、驚きです
 絵図に江戸の中心の遠景は書かれていない。現在の高層ビルが林立する風景とと比較すると驚く。戦後でも淀橋浄水場がなくなるまで、高層ビルはなかったからな~。この40~50年で劇的に新宿の風景は変わったのかな??。

 室内の写真撮影スポットは限られている。最初は内藤新宿の模型のところ。次いで、土蔵造りの商家のところにあった。

 展示室の奥は、作家や文学関連の展示がある。「夏目漱石が一番深いかかわりがある」と解説。そりゃ、漱石こと、金之助は、この近くの生まれなのであるから。私のかつての本籍地の番地(つまり、私の祖父や曾祖父の生家)からはやや距離があるが。
 常設展示は、次の予定があるので、軽く見て進む。近代の画家で、区内には佐伯や中村ツネのアトリエ記念館があり、無料公開されていることを改めて知った。山手線の外のエリアで、かつての淀橋区の区域だ。


 ↓ 電車の展示がある。
 新宿付近の電車の交通網の地図もある。地下鉄が発達する前の鉄道の乗り入れの様子も書いてある。

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 さすがに新宿繁華街の大規模再現模型は無い。都電やにぎわう新宿界隈の様子の解説展示はある。
 ↓ こちらは、昭和10年代の文化住宅の再現模型。

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 現在の日本の一般住宅の原型ではないか。父方の祖父は、結婚して世帯を持ったのが昭和10年代であった。(実際はに戦争が始まっていた時期だったのであるが。)次男坊だったので、結婚当初は牛込の家を出て別に家を借りたそうだ。ふと、こんな住宅に住んだのかな?と思ったので、模型を撮影してみた。祖父母ともに亡いので、今となっては知る由も無いが。

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 企画展示室よりも常設展示室の方が広かった。見学者はちらほせいる。室内には20人くらいはいたかな。
年配の男と一緒に常設展を出た。1人くらい中年のやせてスーツを来たノーモクタイの男性がいた。その他は60歳以上の年齢の男性が多いかな。家族連れ、子供の見学者はいるが、残念なことに少ない。
 (常設展示の最初にある)内藤新宿の模型の前で熱心にボランティアガイドに質問しては話を聞いていた人は、60歳-65歳くらいの男性だったし・・・。一組だけ年配と35歳くらいの女性がいた。親子かな。


 常設展示室の一番奥には、更に小部屋があり、玉川上水の「木の樋」や「木製の管」が展示してあった。半地下になっている。「ん、つまりこの半地下のところにかつての上水道が通っていたのかな?。だから、かつての木の水道管を展示しているのかな?」と思ったが、ちがうようだ・・・・。なお、この小部屋の撮影も禁止なので写真はない。


 え~、ウチの子は、(室外のロビーの)マッサージイスに座っていて、常設展示室には見学に来なかった・・・・・(愕然)
 半地下の中庭に出ることが出来るようになっている。電車の運転席の切り取ったものが、マッサージイスの近くに展示してあった。ウチの子は、この付近を見たのみ・・・・。


新宿歴史博物館 見学3 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)

 2016年11月5日 土曜日
 

 新宿区立「新宿歴史博物館」にやって来た。
 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)を見学する。


 保科氏は、転封(しかも、将軍家光の異母弟ということで、異例の大幅加増)されて高遠を去り、続いて内藤氏が領主となった。内藤氏の歴代の殿様のことについての展示が始まる。肖像画の展示ある当主もいる。系図には、「内藤氏は、養子相続が多かった」とある。お殿様は、別の家から来て、内藤の家を継いでいるのだ。

 内藤氏の初代は「清牧」。「清」が内藤氏の受け継がれる字と思ったが、ちがう。名前の字がのちにかわり、歴代の当主は「頼の」字をうけついている。
 「鳥つくし」という彩色画を遺している当主がある。上手い、画である。また、「だれだれに継がせる」という遺言もあったと思います。
 「狩野休真」の筆による黒鷹図の展示がある。時のお殿様と関係のあった絵師のもの??。そして、最後の当主は、明治になって死亡している。名前は「頼直」。
 だいたい、当主一人につき一点程度の展示品が、内藤氏の展示コーナーガラスケース内にある。


 参勤交代の図の展示も。行程は、中山道経由もある。意外にも甲州街道経由とは限らない。中山道は6泊と余分にかかる。甲州道は5泊6日。江戸時代の最初は、中山道経由だったそうだ。遠回りだけど、格式を重視したのかは、分からない。あくまで、行軍なので、時間をかけて、立派の将軍のおひざ元に馳せ参じる、という意味だったのかな??。
 参勤の経路としては、「杖突峠」の脇街道を通ることがあたよう。茅野から、白樺湖への山道かなと思いきや、諏訪湖にダイレクトに下る道であった。いつぞや、車で私も通ったことがある。例の国道「52号線」の道だ。いや、「酷道」かな(笑)。
 甲州街道の経路ではは、当然ではあるが、鶯木宿や台が原宿など、現代に生きる私も通ったことのあるところを経由している。つまり、現在の国道20号線「沿い」ですね(笑)。中山道の経路では「和田」と町の名がてでいる。和田峠、和田宿の道だ。
 高遠領主内藤家は、毎年六月に江戸に参府であり、五月末に高遠を発って、江戸の上屋敷に入ったそうだ。 国元に帰るときは、老中に申し出て、領地に戻るのが、五月末のことらしい。解説によると内藤氏は、高遠と江戸の間を84回参勤をしたそうだ。200年近い歳月をかけて、何代にも渡って往復したのだ。
 掲示されている高遠藩の年賦によると「領地150年の祭典」を実施している。高遠に転封されたのは西暦1689年のことで、150週年祭は西暦1840年?のこと。この時期は、飢饉のときではなかったか。お祝いをする余裕は藩にあったのかは、分からない・・・・。いや~、ちゃんと年数を数えていたのだ。西暦のような通しの年の数え方が無い中で、どうやってカウントしていたのか。年号を記録していたのか、60年周期の「戊戌」かな。昔の文書には、「年号」と「辛亥」など干支を数えているし。
 殿様の初めての入部の際に記述した文書の展示もある。初入部なので家臣も気合いを入れて準備して、お国入りを迎えた様子が文章になっている。また、「分限帳」といって、何の役目?に何人いて、用具は何で、何両かかったかのような帳面もある。


 特別展のもうひとつの部屋は、内藤屋敷の再現。壁に復元した絵を展示している。(特別展では、ふたつの部屋があった。)

 高遠藩(記述の通り、当時「藩」とは呼んでいなかったそうであるが。)の上屋敷の説明もある。順路の最初は上屋敷の解説。江戸の上屋敷にお殿様の一行が入る様子の再現絵が展示されている。今の靖国通りの神田神保町の付近が門になっている。屋敷内には、庭園と池もあり、屋敷の建物がある。隣には、戸田氏の屋敷がある。現在は、靖国通りがやや湾曲していて、スキー店や銀行などのあるところだ。
 内藤氏の屋敷は、現在の位置でいうと「丸亀うどんの店」や銀行の支店のある当りかな。三省堂の南や道路になっている所(すずらん通り)も屋敷だった。面積は、2500坪くらいで、あまり広くはない。
 
 展示室内の反対の壁が下屋敷の様子の展示。関連資料(小文書など)の展示もある。下屋敷が有名な現在の「新宿御苑」の大部分に相当する場所であることは、よく知られている。
 展示されている大きな絵によると、内藤氏下屋敷の屋敷地の南には、玉川水の分水が流れている。畑にもなっているのだ。高低差の表現が絵図にはないので分かりにくいが・・・。実際のところ、現在の上水の分水の付近は、ガケの下であったであろう。黄色い電車の総武線の車窓から、新宿御苑との境界が見えるし、ガケになっているので。つまり、現在の総武線の線路の下、御苑との敷地の境界に沿って上水が流れていたのではないかな??。
 (展示されている)絵図によると、現在の神宮外苑は街になっているが、実際の外苑は、青山地区で大名屋敷もあったのではないかな。
 上屋敷に比べると、下屋敷はかなり広い。
 下屋敷には、甲州街道から入るようになっている。城のほうに近い屋敷地の入口から入ると殿様の屋敷に。下屋敷地の中央にも門があり、その先は「隠居の屋敷」と説明がある。屋敷地の西は、なんと町屋となっていて、藩士の長屋や家だったもよう・・・。
 屋敷地の南は広々としていて馬場や畑になっている。現在の御苑内の庭園の池は、ほぼそのままの形で、表と奥向きの(殿様が普段使用するであろう)お屋敷が建っている。
 「百姓家も敷地内にある」と展示解説にはあった。農民も敷地内に住んでいたのだ。馬場は、敷地内にいくつかあり、馬を飼育している。馬小屋もある。
 展示を順に見ていく。展示の端には、「上屋敷の建物の絵図」もある。高遠で保管されているものであった。国元でも保管されていたのだ。「下屋敷の墨の絵図」もあるが、下屋敷の広い敷地内のだいたいのおおまかな図面で。が、馬場、池、畑なども記されていて、下屋敷の様子を現在に伝える貴重な資料だ。

 ↓ 常設展内の展示品。内藤新宿の模型。

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 屋敷の変遷に関する説明によると、内藤氏の江戸中屋敷として、もう一か所屋敷があった。(実際にはもっとあったかも知れないが。)上屋敷は、以前は別のことろで、その後は上述のとおり現在の神田小川町から神保町にかけての一角。下屋敷は、現在の新宿御苑で、江戸時代、ずっとそのままだったよう。


 あと、高遠ゆかりの人物として「江島」がある。高遠の「江島囲み屋敷」の案内パンフも置いてあった。私もかつて、「高遠の桜」を見に行った際に「江島囲み屋敷」を見学したことがある。


 地下の受付係の女性の横にいた青いジャンパーのメカネをかけた女性がこちらの学芸員?のようだ。時折、展示室内を行き来していた。

 ↓ 半地下の中庭から、地下展示室のロビー。
  館内は撮影禁止。地下のロビーは、広くてイスや資料を置いてあり、閲覧もできるし、休憩も出来る。
  マッサージ用?のイスも数基置いてあり、リラックス出来る??。実際、ウチの子は、そくさと展示室を出て、マッサージ用?のイスに深く座って、休憩していた(苦笑)。

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 半地下の中庭。地下一階の展示室外の廊下にも光が入るようになっている。
 石垣は、かつての江戸城の遺構??、かは、不明・・・・。

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 ↓ 博物館の入口にあった特別展などの告知看板とポスター。


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新宿歴史博物館 見学2 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)

 2016年11月5日 土曜日
 

 新宿区立「新宿歴史博物館」にやって来た。博物館、新しい感じの立派な建築である。
 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)を見学する。

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 展示室は、階段を下りて地下にあった。途中、階段の踊り場には、秀吉や大名、保科正之などの絵の写真の掲示がされている。地下は、半地下で掘り下げされていて、ガラス張りになっている。斬新な造りだ。
 
 特別展の展示室に入る。
 ↓半地下の庭から見たガラス張りの窓の階段。 

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 最初の展示は、1582年の「高遠の合戦」に関するものだった。信長の武田への侵攻がはじまったそうだ。武田勝頼の義弟の「木曽某」か何かの人が、織田氏側に寝返ったことが侵攻の契機だったそう。この戦いで、武田氏は滅亡した筈。その合戦の戦場に高遠城はなったということだった。

 高遠城は、戦国の山城が、その後「近世の城郭になった」と解説バネルにある。江戸時代の高遠の城の絵図の展示がある。武田24将の写真の複写などがあった。その中には、今ドラマでおなじみの「真田氏」の真田幸隆の姿と名もあった。
 勝頼の母の墓?も高遠にある。「勝頼は、当主となるまで 諏訪四郎といった。高遠が最初の城主だった。」とある。信玄の父「信虎は高遠で亡くなった。」と説明にある。父親の信虎を追放した信玄ではあるが、実は信玄よりも、父の方が、あとに死亡したことは、知られている。
 昔のドラマでも見たのだが、信玄よりも父親の方が一年くらい長生きしたのだ。信玄を父が「おい、晴信。起きよ。」とセリフを言うシーンがあったような・・・。とうに忘れたれど・・・・。
 「近年の資料によると勝頼は諏訪本家ではなく、分家を継いだようだ」とある。

 展示室は、何人か見学者がいる。 小学生の男の子を連れたおとうちゃんがやってきた。その親子は、私よりもあとに来て、さっさと見て、出て行ってしまった。あとは年配の男が多い。中年の男もいるが。

 高遠の領地の朱印状の展示が壁に沿ってある。いろいろな村が書かれている。都合 三万石のような書き方。末尾に「源朝臣家綱」の文字と朱印と「正之殿へ」のような書き方。
 領地の絵図もある。領地の石高、三万石のうち、山形村や隣の村も含まれていた。変遷しているので、途中領地になって、その後の時代は料領地ではなくなったようだ。 そば集落も江戸時代の初めの時期は、保科家領地だった。
 解説には「藩」という言葉は正式にはなく、「高遠領」と書いたとある。藩の名はどこにもない。領主の個人名と領地の村が書いてある。


 次いで保科家についての展示品がある。正之の肖像画の写真バネルの展示がある。正之は、将軍秀忠が正室とは別の女性に産ませた子(という表現だったと思う。)で第四子と説明がある。長男が別にいて(えーと、母親は誰だかな・・・(笑))、次男が「竹千代」、のちの「家光」、三男が「徳松」??、のちの忠長なのだろう。が、他の三人の子については、説明がない。ここは、「保科氏」の説明であるので、正之のみの説明。 
 正光と弟の正直のことについて説明などがある。展示によると正光は71歳で死亡し11歳の正之が保科を継いだ。その後、 山形、会津などに転封して、最終的に23万石に大幅加増になった。
 他方、(正光の)弟、正直は、現在の千葉県、下総の国の多古に利用地をもらい、17000石くらいの大名になった。正之のときは、「保科」氏であった。三代 正容(まさかた)以降は松平、以後保科の家名は多古藩主に引き継がれたと説明がある。 
 ここでの展示のどこかで当時「藩という公式名称は無かった。」と文章があったと思う。藩主ではなく、領主というのが正しいのかな。領地も高遠藩ではなく「高遠領」と説明があった。「ここより高遠領」という内容の、どこかで石碑を見たような 記憶がある。

 現在の千葉県の「多古」の領地は、高遠の後に、一旦もらった領地で、10年後に正光が再び戻るまで領主でいたので、全く保科氏と無縁ではなかった土地だった。
 のちに正光が、25000から3万石に加増したのは、正之の養育料の意味があったのではないかと推定していた。

 続いて展示を見ていく。「正之の墓地の写真」の展示がある。神式で、墓所は猪苗代にあった。会津の領地内に墓所を営んだのだ。林の斜面に、銅の筒のような形の墓所だった。対して、正直と正光は故地の高遠に墓所がある。


 短刀と「さや」の展示があった。刀身と鞘をわけて展示している。 短刀には銘がある。天目茶碗と朱色の模様の盆の展示が。正之の使用したものだっかは忘れた。

 展示されている「年賦のボード」で注目すべき記載内容があった。「正光は子が無いので最初、真田昌幸の子 左源太を養子とした。」とある。
 その後、見性院に養育されていた「正之」を養子として迎えたとある。養子として、左源太は17歳で死亡している。嫡子でなくなったよう。ドラマの「幸村」には登場するのだろうか??。つまり、幸村とは、兄弟ということになる。
 正光は遺言を遺している。「正之に相続させる」と。10歳から数歳上になる。が、昌幸と年齢があわないよな気持ちがするが。信之の子ではないかな・・・・。左源太の墓の写真も展示があった。伊那市のお寺にある。
 なんだか、かわいそう。左源太さんが・・・・・・・。


 次の領主、鳥居家に関する展示がある。しかし、何の展示があったかは忘れた・・・・。コーナーが小さいので、あまり展示がなかったような・・・・。

 ※あとで、ネットを見てみた。ネットでは、保科家の養子「左源太」は「左源次」と書いてあるようだが、この特別展の資料では「太」だった。











































 






新宿区立新宿歴史博物館「初訪問」 見学1 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)

 2016年11月5日 土曜日

 「銀座熊本館」に地震の後、初めてやって来た。「銀座NAGANO」にも行った後、地下に下り、丸の内線の銀座駅から地下鉄に乗。所要時間11分で四谷三丁目に着いた。
 地上に出ると目の前に「消防博物館」があるのが見えた。銀座口には「警察博物館」もあるし「好対照」だ(笑)。

 四谷駅と反対の方へ歩く。が、道路を間違った。途中、夕方のニュースで紹介されたと看板が出ているお店の前を通ったそうだ。ラーメン店だそう。子どもは、以前見たことがあるそうだ。

 方向を間違い、先に行きすぎた。
 と「津の守坂」の道の歩道脇に「新宿歴史博物館」の標識がある。坂の名前の由来の説明板も設置されていた。「美濃高須藩の藩主 松平摂津守義行」の屋敷があったからだそうだ。つまり、御三家の尾張家の分家のお屋敷。御三家の分家の場合、領地の石高は低いが官位は意外に高い。従四位下左少将くらいの任官。外様では40万~50万石前後の細川家、黒田家、浅野家クラス。
 「津」のつく旧国は摂津が真っ先に思い浮かぶし、略して「津の守」坂だ。そのまんまだ。傾斜地に屋敷があったのだな~と率直な感想。この一帯、傾斜地やガケ上の台地平坦部も含めて摂津守の屋敷地だったと思うが・・・。

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 ↓ 博物館への路地。。「津の守坂」の横の狭い道を歩く。

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 細い道を通ると、博物館に出た。思ったよりも新しい建物だ。
 四谷三丁目駅から20分くらい歩いたかも。本当は10分とかからないと思うが・・・・。
 「新宿区立新宿歴史博物館」の存在を知らなかった。いや、知ってはいたが、あまり認知していなかったのかも・・・・(言い訳)。
 現在開催されている「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)を見学するためだ。 10月に偶然、とある美術館に今回の特別展の割引券が置いてあったものを入手したのが、訪問したきっかけだ。
 高遠は二回ほど「高遠桜」を見に行ったことがある。高遠藩主内藤氏の下屋敷が現在の新宿御苑の敷地に相当することはよく知られていし、「内藤新宿」が現在の新宿の街に発展したことは知られている。とても興味があるので、初めて見学することにした。

 よく晴れた秋の一日、「2016 東京文化財ウィーク」にあわせて、新宿歴史博物館やってきた。(直接は東京文化財ウィークと関係ないかな!!??。)

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 東京には周知のとおり「江戸東京博物館」がある。よって、こことコンセプトは、かぶるかも知れない・・・。にもかかかわらず、新宿区が、「歴史博物館」を設置しているのは、豊富な財源があるためか、それともバブル時代の遺産(レガシー??)か。ここ新宿歴史博物館の設置年は平成のはじめだったと思う。

 私にとっても生まれたときから子供の頃までの本籍地は新宿区だったから「新宿」とは深いかかわりがある。よって「新宿の歴史」にも関心がある。
 父方の祖父は死ぬまで自分の現在の新宿区の生家の番地を本籍としていた。祖父が生まれた頃は「牛込区」であり、現在の新宿区はなかった。「新宿」というと、現在ではどうしても「新宿の繁華街」や西新宿の「高層ビル群」をイメージしてしまう。しかし、新宿区自体は、かつての「牛込区」と「淀橋区」に相当する地域だ。
 私の父が結婚して、祖父と別戸籍を立ててからしばらくは、同じ番地を本籍地としていたが、のちに神奈川県内の自宅の番地に本籍地を移した。父は海外に行く仕事があったので、パスポートをとるにも本籍地が自宅と離れていると不便だからだという。
 現在の戸籍制度は、日本国内のどこにでも本籍を置いてもよい(らしい)。そこに誰か住んでいても本籍を置くのは構わない(らしい)。たとえば、千代田区千代田〇丁目一番に置いている人も相当数いるそうだ。実際のところ、日常生活ではパスポートの取得以外には本籍地とは、かかわりがあまり無いかも・・・・。


 さて、新宿歴史博物館に入館する。建物は比較的新しい。エントラスから、受付まではアプローチの通路が長い。 別室や会議室などがあるのだろう。
「高須四兄弟」などのポスターが掲示してある。現在の展示ではなく、過去の展示企画のポスターだった。
受付で、私は例の割引券を提示する。すると、大人500円が300円に割引された。子どもは入館無料だった。
 受付で、私の前には75歳くらいの男性二人連れの入館者がいた。彼らは、現金の受け渡しに時間がかかる。彼らの後で少し待った・・・・。
 と、半地下の石垣のような中庭がある。階段を下りて地下へ。秀吉や大名、保科正之などの絵の写真の掲示がされている。

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「中村不折の魅力」 中村屋サロン美術館 見学2

 2016年7月の雨の日。 新宿 中村屋サロン美術館。
 生誕150周年記念 「中村不折の魅力」の見学。

 展示スペースの壁には、洋画が展示してある。まずは、フランス留学時代の師であったフランス人の画家の作品。次いで、留学時代の油彩画が並んでいる。
  年賦、写真を見て、奥の展示室へ進む。
 
 ↓ 企画展チラシの表面。
  入場券やチラシに掲載されているこの写真の画。大きいサイズの作品であった。
  題名の漢字が読めなかった・・・・・。中国の何かの故事に基づいて描いた作品。奥に吊り下げられている、鼎に何かの意味があったような・・・・。誤解だったかな・・・・。

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 ↓ 企画展チラシの裏面。不折の写真も掲載されている。

  白黒の画は、コンテによるデッサン。「裸体習作」とタイトルが付いている。(留学前の作品の隣にあったような記憶が・・・・。)
  1902年頃の作品というから、日露戦争の前のことだ。

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 展示作見ると、多くは「台東区立書道博物館」の所蔵。
 初期の作品は、明治20年代、日清戦争前の19世紀の時代。年賦によると不折は、日清戦争に記者としても従軍している。「日清戦争で従軍記者」とは、誰かと同じだったような・・・・、と考えると不折の友人であった松山出身の「正岡子規」であった。近年放映された某ドラマでも従軍して大陸に渡った子規のシーンがあった。
 初期は身近な風景画が多い。留学をしてからは、展示スペースの最初にあったように油彩画が中心となっている。

↓ 展示リストに付随している説明のパンフ。



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 油彩画では、昭和時代に入っても女性の裸体画を描いている。ただし、タイトルは「懸泉」「湖畔」「眺望」のように女性の裸体をイメージさせないものだ。
制作年を見て驚いたが、女性のヌード画は、三作の展示があったが1939年から1942年にかけての作品。時代背景でいうと、戦争中である。不折最晩年の作品だ。
 あの戦争で統制が強かった時代にどうして不折は女性の裸体画を残したのだろうか?。
 「懸泉」豊満な乳房が垂れ下がった日本人の女性の裸体。
 「湖畔」裸体の日本人の女性が部屋の中にいて、外には湖が見える様子。
 「眺望」湖であろうか、水面の見える部屋の中での女性の裸体画。
   黒田清輝の「湖畔」を思わせるような絵だ。(勿論、シーンは違うが。)
      また、室内から外の水面を描いた絵は現在、重要文化財指定の「舞妓」を思わせる。

 いずれも、カラフルでこれでもか、と豊満な女性の裸体を表現している。とても、戦争の時代に描かれた作品とは思えない。 

↓ 展示リストに付随している説明のパンフ。

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 「書家」としての不折の作品展示はほとんどなかった。
 「山水図屏風」が一番大きい作品であった。水墨画の屏風絵。「不折」と落款が押してある。書道博物館蔵ではなく、寄託作品である。所蔵者は誰か分からない。
 卓上ガラスケースの中に挿絵などの作品の展示があった。「吾輩は猫である」の本の挿絵の展示もある。どうしても、写真でよく知られている「表紙」の絵(細くて首の長いネコがこちらを向いてニャアと鳴いているような絵)が不折のものと誤解してしまうが、不折作は本の中の「挿絵」である。

 展示室を一通り見て、最初の(レジのある)展示スペースに戻る。
 退出する前に改めて、不折の年賦や写真を見る。老年期の不折夫妻の写真の展示があった。丸顔で笑顔の写真である。夫人も笑顔である。陽気な性格の人物であったのであろう。それゆえ、荻原守衛、森鴎外、夏目漱石、黒田清輝など錚々たる人物と交友を結び、信頼されていたのだろう。
 「中村不折の魅力」の企画展のタイトルの通り、不折の人となりと魅力が伝わってくる展覧会であった。

「中村不折の魅力」 中村屋サロン美術館 見学1

 2016年7月の雨の日。

 新宿の中村屋サロン美術館にやって来た。生誕150周年記念 「中村不折の魅力」の見学。

 美術館の入口は中村屋ビルの3階。「純印度式カリー」の食事を終えて、レストランのある地下2階からエレベータで上がります。
 3階でエレベータを降りると、例のブライダル旅行サロンのお出迎えの方がいます。店頭には「ウエディングドレス」が飾ってある。美術館に来る人は、ほぼ皆、ブライダル旅行サロンのお出迎えを受けることになるのでしょうか?。
 私が訪れたときも、エレベータを降りて美術館に行く人が、(ブライダルサロンの人に)「こっちですか?」聞いていた・・・・。もちろん、美術館の入口のことを・・・・・・。

 受付で入場券を購入。レシートと新宿中村屋のお店での割引券がもらえた。割引券はレストランでも貰ったのだが。ダブルでゲットした(笑)。
 私と同じエレベータに乗って、3階で降りたのは、いずれも女性で3人いた。一組は母と娘のよう。母は、相当高齢で小柄。明らかに80歳以上。娘は60歳前くらいか。もう一人は、おひとり様の女性で、50歳台くらい。かわいらしいワンピースを来ている。生地の色は深い緑や暗い水色の寒色系で地味だが、花柄、唐草の模様。
 受付近くの展示スペース(壁で区切られた部屋にはなっていない。エレベータ前の廊下とつながっている。)には、私も含めて7-8人くらいは、作品や解説パネルを見ている。平日のランチタイム、見学者は比較的多いように感じた。
 
  新宿中村屋ビルの地上の入口。美術館もこちらから。 ↓

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 「中村不折」、本名は知らないが、夏目漱石の作品に付いている年賦には必ず出てくる人物だ。以前から名前だけは知っているという人は多いだろう。もっとも、漱石の友人で満鉄の総裁を務め、漱石を満州に招待もした「中村是公」と混同している場合もあるが・・・・。
 荻原碌山(守衛)とも密接な関係にあったことが知られているし、事実、碌山美術館での碌山の年賦や解説にも「不折」の名が出てくる。そして、森鴎外とも密接な関係があったこと、墓碑の揮毫は、鴎外自身が遺言で不折を指名していたことを、昨年、文京区津和野の鴎外記念館を見学して知った。その有名な「森林太郎之墓」の墓碑が不折の書であることは、以前、何かの本で読んだ記憶はあったが・・・・・・。

 鴎外と漱石を結び付け、なおかつ近代日本で最も重要な彫刻家である碌山とも密接な関係にあった人物「中村不折」とは一体どのような人物であったのだろうか?。
 昨年の鴎外記念館の展示にもあったが、「鴎外」と「漱石」自身は、手紙のやりとりはしていたが、実際には4回ほどしか会ったことが無いというのに・・・。不折は彼ら二大文豪とどれだけ親しい付き合いがあったのだろうか?。

 展示スペースの壁には、洋画が展示してある。まずは、フランス留学時代の師であったフランス人の画家の作品。次いで、留学時代の油彩画の展示が並んでいる。
 「あれ、不折は、書家ではなかったの?。」の疑問が・・・。「書」の展示が中心と思ったが、展示スペースを見回した感じ、絵画のみ・・・。「えっ、不折は画家だったの?。」と知りませんでした(苦笑)。
 
 絵画を展示している壁とは反対、店に近い壁には、年賦や写真の展示があった。
「不折」が写った集合写真が何点かある、以前もここや、安曇野の「碌山美術館」で掲示があった中村屋関係者との記念写真にもその姿が写っているし、明治42年文展西洋画部門での審査員の集合写真の前列、向かって中央左側にもその姿がある。写真の解説では「不折」のみを「→」示しているが、文展審査員の後列中央、不折の斜め後ろには軍服姿のやや禿頭の男の姿が・・・・・・・。紛れも無い、鴎外 森林太郎その人であった。その右、人物群の端に近い立っている恰幅のよい背広姿の人物はこれまた紛れもない、洋画家の「黒田清輝」子爵だ。
 鴎外についても黒田についても、掲示写真では、解説が無い・・・・。知らないと見過ごしてしまう・・・。せめて「鴎外、黒田らと」と写真に(一緒に写っている人物名を含めて)解説を入れて欲しかった。残念だ・・・・・・。
 鴎外は当時、陸軍軍医総監(中将相当)で陸軍省医務局長。軍服を着つつも、審査員もしていたのですね。写真は白黒で鮮明ではないので、鴎外の軍服の肩章の「星の数」は判別できない。が、兵隊の肩章ように赤い色が多くは無い、金色地の割合が多い将官の「ベタ金」といわれる階級章だ。軍服の襟の色も白黒写真なので判別できないが、軍医は「深緑色」であった筈。

 当時の鴎外は40歳台後半の筈。が、ずいぶんと現代感覚からすると老けて見える。確かに、右に体がやや傾いている。文京区の鴎外記念館で見た鴎外の死去の前年の映像にもつながるが、あの映像では、右に体を傾けてかばうように歩いていた。この時から、右に体が歪んでいる・・・。鴎外は、意識しないと体直立不動の姿勢はとれずに、自然体だと体が右に傾いたのだ・・・・・。
 彼自身、医師であったのに自分の体の歪みについて意識していなかったのだろか?。悪い姿勢は、病気に繋がっていることを気付かなかったのか?。
 写真前列中央のヒゲを生やしているご老人は分からなかった・・・・。
 不折自身は小柄である。鴎外よりも更に小柄のようだ。丸い顔をして、ヒゲを生やし、愛嬌のある表情。不思議と鴎外はしかめっツラで写っている写真が多いにうよ思うのは、気のせいか・・・・・。

 不折の年賦には、慶応2年に現在の「中央区新川」の生まれとある。江戸っ子だったのだ。江戸の下町の出の「江戸っ子」かな?、と思いきや。明治4年かに、信濃の高遠に一家で引っ越しをしている。「維新後の混乱を避けるため、母の郷里である高遠に移った。」とある。
 年賦のボードには、高遠は「母の郷里」とあった。「父の郷里」とは無かったと記憶する。碌山とは信州の同郷であったことが分かった。そうか、信州繋がりか!と理解。すると、高遠からほど近い、南信州、飯田出身の「菱田春草」とも繋がりが出てくる筈だが、企画展では解説に「春草」の名は一切登場しなかった。

 昭和時代、老年期に入って不折は本名を「不折」と改名しているが、本籍地の「高遠町役場」に届け出た、とあった。終生、本籍地は高遠のままだったようだ。彼は、父の死後「戸主」になったと年賦にあった。すると、本籍地の高遠は父の代からの本籍地であり、父の故郷では無かったか。

 ↓ 展示リストと入場券。
   前回の訪問時は入場券は無かったと記憶するが、今回は入場券があった。

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新宿中村屋 レストランで食事 と企画展「中村不折の魅力」中村屋サロン美術館

 2016年7月の雨の日。今年の梅雨は、去年よりも長いな~。まだ、梅雨明けをしていない。しとしと雨が降る、涼しいお天気の下、新宿の中村屋サロン美術館にやって来た。

 2014年10月にオープンしたこの「美術館」。訪問するのは、前年の2月「開館記念特別展」を見学して以来、ほぼ一年半ぶりです。新宿駅東口からすぐという好立地のため、行こうとすれば、何時でも、いくらでも訪れる機会はあるのですが、ついつい延び延びになってしまいました・・・。
 今回は大幅リニューアルになった「南口」からアプローチ(笑)。新宿駅東口から歩くよりも、南口からでも距離的には、変わらないのではないか。

  (南口から歩き)歩道上、「後ろ側」から新宿中村屋ビルが見える。 ↓

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 (展示でも解説があったのだが、現在の看板の「中村屋」の文字も不折の書になるもの。)

 今回の企画展(もっとも「企画展」、「特別展」という呼び方はしていないようですが。)のタイトルは「中村不折の魅力」です。 生誕150周年記念の展覧会で、会期は7月24日まで。会期末に近い訪問となった。

 時刻はちょうどお昼の前。さあ、昼食だ、ということで美術館では無く、レストランを先に(笑)。
 やっぱり、ボクは常に「花より団子」だな(笑)。
 新宿中村屋ビルの上層階にもレストランはある。が、お値段が張るため(笑)、(ここのレストランの中では一番)リーズナブルなお値段でお料理を提供している地下2階の「マンナ」で食べることにする。

 ↓ 地下に階段を降りる。地下1階のフロアは、地下鉄の通路、新宿地下街と連結している。
   更に、地下2階に降りる。

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 地下2階のレストラン前では、順番を待っている人がいた・・・・。まだ12時になっていない、正午の15分前だというのに。椅子に座り、少し待って店内に案内される。私は仕事の合間兼ランチの時間だ。この日は雨の平日なので、普段よりかは、すいているかな、と思ったが混んでいるようだ。地下鉄の通路と直結しているから、天気は関係無いのかも。
 店内はすべての席は埋まっていない。一人用のハイテーブルもある。が、店の一番奥の二人掛けのテーブル席に案内された。地下のフロアは広い。フロアは、ビルの形状と同じ「L」字の形をしている。
 席に落ち着いて見ると、店内は内装も新しい。おととしに改装オープンしたばかり、だからだろう。このときに、中村屋サロン美術館も開館したのだ。

 「純印度式カリー」を注文。サラダと飲み物のセットにする。
 おなじみであるが「カリー」と呼ぶところに、こだわりがある。カリーのみは税抜1500円、サラダとドリンクのセットは税抜630円でプラスする。
 先にサラダが出てきて、注文から15分くらいすると「カリー」本体が出てきた。チキン「カリー」である。

 ↓ カリーと薬味。
   カリー皿は円型。らっきょうなどが載った薬味の小皿は半円形なので、カリー皿のフチにピタリと合う。
   何気ないことですが、カリーと薬味を並べて食べるのに便利。料理だけでなく、食器にも注目です。

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 特筆すべきは、3つの陶器の容器に入った付け合せがあること。小さい半円の皿に盛られた薬味(料理を持ってきてくれた人は「薬味」と呼んでいた。)とは別に持ってきてくれる。中には、茶色い何かを混ぜたような固形の調味料?が2種類、粉末のチーズの合計で3種類入っていた。(写真はフタを閉めた状態で撮影したので、写っていない。)
 「薬味」はらっきょうときゅうりの酢漬けともう1種類、唐辛子色だが、辛くないやや甘い漬物のような細長いモノ。
 
 食事をしたときは、これらが何か分からなかったが、あとで新宿中村屋の会社のウェブサイトを見たところによると「きゅうり」の酢漬けは「アグレッツィ」というそう。唐辛子色の細長い、甘い漬物は「チャツネ」というらしい。白い陶器の容器に入っていた、粉チーズ「以外」の薬味は何なのか分からない・・・。

 カリーのチキンは、数個入っている。よく煮込んでいるのであろう、鳥の骨はかなりモロくなっている。じゃがいもは大きいカットが1個入っていた(笑)。カリーなので、確かに辛い・・・。ごはんの量は、大人の男性にはやや少ないかも。ごはん大盛りが出来るかは、分からない。ただ、小さいサイズのカリーはあった。
 私の座っているテーブルの周囲は、女性数人のグループもいれば、一人の女性もいれば、サラリーマンの男性もいる。私の隣は、50歳くらいの女性が一人で食事にやってきた。ツレが後から来るのかな、と思ったが、一人で食事をしていた。
 食事をおえてレジに向かう途中、店内の様子を見たが、結構おひとり様の女性客が多い。女性のおひとり様は、なるべく2人のテーブル席に案内されているようだ。お昼休みのランチで来ているのだろう。
 食事を終えたのは、12時半頃。店内は満席ではないが、店外では10人くらいが待っていた。

 美術館の入口は中村屋ビルの3階。レストランのある地下2階から、エレベータで上がります。エレベータを降りると、例のブライダル旅行サロンのお出迎えの方がいます。店頭には「ウエディングドレス」が飾ってある。美術館に来る人は、ほぼ皆、ブライダル旅行サロンのお出迎えを受けることになるのでしょうか?。エレベータを降りて、美術館に行く人が、「こっちですか?」聞いていた・・・・。もちろん、美術館の入口のことを・・・。

長崎県アンテナショップの隣接 レストラン「慶長三年 うどん 隠れ岩松」

 2015年4月

 四谷にある長崎県のアンテナショップにやってきた。長崎県アンテナショップ「長崎よかもんショップ・四谷」
 そのお店に隣接して「慶長三年 うどん 隠れ岩松」がある。

 ↓ お店の前の通りと看板。奥にアンテナショップの「のぼり」がたくさん立っている。


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 ↓ お店のメニュー。「たこ」をメインに売り出ししている。

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 ↓ お店のメニューの拡大。「うどん」がメインです。都内のお店としてはかなりお得な値段です。
   しかも、特筆すべきことは「麺増量 無料」。「1.5人前、2人前」でも同じ値段です!。
   あと、長崎といえば「練り物」。「長崎丸天」、「鶏天」、「ごぼう天」などトッピングが付くメニューもあります。

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↓ お店の外観。手前側が、アンテナショップの入口。

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 観光パンフレット置き場の脇の廊下には、食堂への扉がある。ここからお店に入った。扉の前の廊下には、ダンボール箱に入った消耗品?などの在庫品、不要な食器などが(観光案内所との間の廊下に)置いてある。
 私が入ったとき店内は、ほとんど空いていたが、一人席はないもようだ。よって、二人用の席がふたつあるので、このうちのひとつに座る。と、私のあとから、三人組の老人男性がすぐにやってきた。やがて、サラリーマン、主婦などのグループで店内の席は埋まってきた。
 850円のランチセットを注文。 うどんは、二倍までできるので「二倍」にした。セットには、たこめしがついた。
 たこ天をトッビングで注文した。よって「たこめし」とプラスして「たこづくしに」したよ(笑)。
 と、テーブルの上に「ゆずこしょう」が置いてあるのがうれしい。「天かす」も置いてある。更に、なんと生卵が一人一個まで無料で、テーブルにあらかじめ置いてある。老人、サラリーマン達は、卵を早速食べていた。
 関東での成功には「生卵」は必須かな(笑)。 ウチのヨメにとっては、すき焼きに入れる生卵(の習慣)すら理解できないとのことだが。
 うどんは、「釜揚げ」にした。さぬきうどんで有名だが、「釜玉」もあった。ざるにもできるが、この日、まだ気温は低い・・・。が、サラリーマンでは、ざるを頼んでいた人もいた。
 950円のセットのごはんは、この日は「牛丼」とのこと。よって安い方(850円)のセットで「たこめし」にした次第。


 ↓ 釜揚げうどん増量、たこめし、とつゆ。私は「ゆずこしょう」をたっぷり取る。(ただし、塩分が・・・・(笑)。)
  別注文の「たこ天」も。更に奥には、「天かす」も写っている。
  観光パンフレットを見ながら、料理が来るのを待っていました(笑)。

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 食事を終えて、食堂を出ることろには、店内の席は、ほとんど埋まっていた。相席するまでは混雑していないが。なお、店内に一人席がほとんどない。食事に来ているのは、近くのサラリーマングループだろうか・・・・。買い物、観光需要などはあまり無い地域なので、ご当地「アンテナ店」といえども、近隣のリピーターを増やす必要があるのだろう。
 お店のトイレは、アンテナショップ、会議室などと共通。例のアンテナショップへの通路(扉)を通り、観光のカウンターを通過し、トイレに向かう途中の廊下には、会議室もあり、資材などが室内においてあった。事務室は2階にあるようだ。





























 





長崎県アンテナショップ 「長崎よかもんショップ・四谷」 のご紹介

 2015年4月

 四谷にある長崎県のアンテナショップに向かいました。
 「長崎よかもんショップ・四谷」

 長崎県の特産品を販売するお店だ。実は、マスコミでも紹介されたが、この3月に日本橋に新しい長崎県のアンテナシヨップがオープンしている。元々、長崎県アンテナシヨップは、あまり大々的に販売促進はしていないと認識していた。よって、ここ四谷にあるとは、あまり知られていない。というか、県庁自体では、ここ四谷のお店に関係していないのかも?。
 が、「日本橋に本格的アンテナショップが開店したので、四谷のお店は閉まるかも知れない。」と(勝手に思い)

慌てて、この日、「元祖、四谷のお店」にやってきたのだ。よって、慌ただしい訪問となった(苦笑)。


 ↓ お店は表通りの一本裏にある通りに面している。「よかもんショップ」ののぼりがはためいている。
  入口には「長崎県東京産業支援センター」とある。


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↓ 四谷駅から、お堀の橋を新宿方面に渡り、大通りへ。お店は表の大通りの一本裏の道。

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↓ 大通り沿いのビルには、案内の看板が掲示してあるので迷うことはない。
  四谷駅から新宿方向に、とにかく道路を渡ればすぐです。

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 ↓ 四谷駅から、表通りを一本入り、更に進む。
  隣接するレストラン「うどんの 隠れ岩松」の看板の前を過ぎ、

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 ↓ お店の入口に到着。オフィス、会議室の入口も同じようです。
   お店は、マンションの一階にある。

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 この3月に日本橋に開店した別のアンテナショップもあるので、現在ここは力が入っていないのかな、と少し心配に(笑)。建物内には、会議室などもあり、県庁が産業振興関係で借りているのだろうか??。お店は小さいが、3月の日本橋の店舗開店前と比べて、縮小も拡大もしていにないよう!?。
 同じフロアには、長崎県の観光案内のパンフも置いてあり、カウンター内に、お店とは別に人も一人、配置をしている。
 1階の玄関に近い冷蔵ケースには、練り物や水産加工品が置いてある。お店のスペース内の商品棚の冷蔵ケースには「ゆずこしょう」もある。ちゃんぽん、うどん・あごだしの商品なども置いている。お菓子では、カステラもある。長崎といえば「カステラ」が有名です。日本酒も置いてある。
 お店のレジには、二人の女性がいる。うち一人は学生のアルバイトの感じだ。建物内部にも、つながっているのであろう「隠れ岩松」レストランへの入口がある。つまり、お店からレストランへ外に出ることなく、行き来できる。 
 お店を見ている間に正午になったので、観光案内のカウンター内にいた係の女性はどこかに行ってしまった。よって、カウンターは無人になった。
 内部通路から、レストランへ入り食事をすることにした。

 ↓ 地下鉄の四谷駅のホーム。
   長崎のアンテナショップに寄って、食事をしてから国立新美術館に向かいました。
  

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紀伊国屋ホール 新宿南口 (講演会に行く)

 新宿駅南口の紀伊国屋ホール。
 新宿とはいえ、代々木駅から歩いたほうが近いかもしれません。高島屋に渡り廊下で直結しています。
 ここで「本能寺の変に関する新説」の講演会を聞きました。
 紀伊国屋書店ビルの最上階がホールになっています。コンサートにもよく利用されますね。
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 ホール前のスペースは広くはありませんが゛、ホール内部は800人以上は入るのではないかと思います。
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 入場前は、この空中通路に並びました。高島屋に直結しています。
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 高島屋に直結しています。西新宿方面。「空中回廊」ですね。
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 新宿駅のホームの南端。ここから代々木駅も近いですが・・・。
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 講演会のあとは、イルミネーションの飾られた通路を通り、新宿駅の新南口から電車に乗りました。
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 ↓行きは、代々木駅から歩きました。5分もかからなかったような。
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中村屋サロン美術館 開館記念特別展「中村屋サロン-ここで生まれた、ここから生まれた-」 見学

 開館記念特別展「中村屋サロン-ここで生まれた、ここから生まれた-」
 この日は聖ヴァレンタタインデーの夕方でした。
  
  美術館の入口は三階。エレベータを降りると旅行代理店のブライダル旅行サロンがあり、店の入口には「ウエディングドレス」が飾ってあります・・・・。代理店の入口にはドアがないため、お店の中の様子がよく見えます。いわゆる「オープンカウンター」でしょう。数組のカップルで来店して奥のカウンターで話をしています。。
 店頭に飾ってあるウエディングドレスの脇には、黒いパンツスーツを着た女性社員とスーツ姿の男性社員が二、三名立って、来客の出迎えをしています。美術館に行く人はここの目の前を通り過ぎて、同一フロア奥の美術館に行かないといけません。(汗) 
 代理店の社員も心得たもので、エレベータから降りて来る人を一瞥して美術館に行く人は、瞬時に「コイツ違うな」と判別して「いらっしゃいませ。」とあいさつする人、しない人を区別にしているようです。(笑)
 モロチン私は、「あいさつしない人」の一人です。(笑)というよりは、「あいさつすべきでない怪しい風体の人」??。(笑)

 美術館の入口には、扉はありません。エレベータホールから美術館の看板と受付とその奥に展示されている作品が見えます。入りやすい「オープンな美術館」をめざしているのでしょう。
 決して、ウェディング旅行サロンのオープンエントランスに対抗しているわけではありませんね。(笑)
 もう一度ご案内します。「手前がブライダル旅行『サロン』。奥が『サロン』美術館です。(笑)」
 DSC01545↓ 美術館のパンフレット。



























 
 入場料300円を支払い、入ります。小さな机のみの受付です。
 入口近くの壁には、高村光太郎の『自画像』が。有名なブロンズ像『手』の展示もあります。
中村屋ゆかりの作家ごとに展示があり、人物の解説があります。戸張孤雁、柳敬助、中村不折らです。戸張孤雁、柳敬助についてはよく知らなかったのですが、自画像や夫人の肖像画の展示があり、その人物、画業について知ることができました。中村不折は、夏目漱石の伝記でも必ず登場してくる親しい友人ですね。作品には「碌山美術館蔵」のものも多いです。荻原守衛と新宿中村屋の深い繋がりを感じます。

 更に奥へ進む廊下があります。廊下を抜けると、細長い展示室に出ました。新宿中村屋サロン集った芸術家たちの相関図が掲示されています。入って右には、守衛の『女』のブロンズ像の展示がありました。1970年代に鋳造されたものと解説がありました。
 その中で、中村彝が中村屋主人の長女 相馬俊子に求婚したと点線があります。しかし、俊子はインド人のボースと結婚したとあります。
 今回のオープン記念展覧会ポスターにも写真が掲載されていてメイン作品の「少女」のモデルはこの俊子だそうで、これまたびっくりです。実らなかった恋心なのでしょうか?。中村彝もまた、荻原守衛と同じく若くして死去していますが、この時代の若年での死の原因は、当時の国民病『結核』だったのでしょう。病気でなかったら結婚していたのかもしれませんけど。なぜ、結ばれなかたのでしようか・・・。
 『少女』のモデルの俊子は、ふくよかで健康的な体つきであり、どこか『ルノアール』の画に描かれている女性達を連想させます。さらに時代をさかのぼれば、リューペンスのような(というのは大げさかな・・・・。)
 当時、俊子はなんと10代なかばの若さで、今でいうと中二か中三くらいでしょうか・・・・。しかも、俊子は当時ヌードモデルにもなって彝らが裸体画を残しているそうです。相関図によると、俊子も20歳台の若さで亡くなっています。この裸体が俊子の通っていた女学校に知られることろとなり、彝とトラブルになったとか・・・・。結婚できなかった理由はここにもあるとか。まさに「悲恋」です。
 俊子は他の男(インド人ボース)と結婚したものの病気で早くに亡くなり、彝も結核に倒れ・・・・『ああ・・恋とは・・・』。(絶句)

 全然関係ない話ですが、実は私の知っている女性で、この『少女』象に描かれたモデルに似ている人がいます。その人は、まだ20歳台で私より全然年下の会社員です。しかも長野県出身です。(ただし安曇野出身ではない。)もしかしたら、遠縁???かと思いましたが、そんな訳ありませんね。私が想いを寄せてもその人への想いは・・・・・、成就することはありませんね(笑)。ボクも「悲恋」です(笑)。
 その女性はFBをやっているそうです。せめてFBでお友達に・・・と思っても、私はFBをやっていません。仮にFBで私のサイトが炎上したら困りますからね。(笑)

 ふざけた話はさておき、中村彝の『麦わら帽子をかぶった自画像』の展示がありました。今どきの青年風です。別の作家、鶴田吾郎の作品で「盲目のエロシェンコ」がありました。同一人物をモデルにした中村彝の『エロシェンコ氏像』はいうまでもなく、重要文化財に指定されていますね。
 その他は会津八一や中原悌二郎らの作品がありました。 
 限られた展示スペースですが、近代日本美術を代表する芸術家達の作品が凝縮された見応えのある展示でした。

 ↓ 地下街入口にある看板。ポスターと同じく 中村彝(ツネ。漢字が出ないかも)作 「少女」の写真が。
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プロフィール

りょうげつ

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