良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

文京区、豊島区、23区北部

 

学習院大学史料館展示室 「学び舎の乃木希典」 見学4(最終)及び乃木希典関連建物 見学

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学4(最終)
 及び乃木希典関連建物 見学

  目白にある学習院大学史料館を見学した。

 小さい展示室であったが、30分弱見ていた。見学者は、途切れることなくやって来ていた。私が入室した時点では、やや太った40歳~50歳台くらいの女性が先に見ていた。そのうち、次いで、フード付のコートを着た小柄な50歳くらいの男性が入ってきた、。男性は、すぐに出て行き、私よりも先に入室していた女性もやがて出て行った。次に、テニスウェアらしき恰好の男子学生。茶髪の兄ちゃんである。ここの学生?でテニスサークル所属?らしい。練習のついでに寄ったらしい??。男子学生は、熱心に見て、アンケートも書いていた。

 私は「オリジナル乃木ハガキ」は入手しなくてもいいや、と思ったのでアンケートは書かずに退出した。

  学習院大学史料館展示室の平成30年度秋季特別展は「学び舎の乃木希典」のタイトル通り、現役軍人ではあったが、日露戦争の後の時期の「学習院院長としての乃木」に関する展示が中心であった。
 明治天皇の大喪という国家の非常時に、学院の最高責任者である院長が突然、自決して死亡し、職務を遂行できなくなってしまったことは、当時の学習院にとっても世間への影響以上に大事件であったろう。 

 学習院の敷地内には、乃木の起居した建物が保存されていた。
 案内看板も設置されていた。


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 乃木は院長時代、「総寮部」に起居したそう。展示でも説明があった。
 現在の乃木神社に隣接している乃木邸が、あくまで当時の自宅であったが、帰ることは月に1-2回、おおくても数回程度??だったようだ。
 共に殉死した静子夫人は、普段は学習院ではなく、赤坂(麻布かな)の自宅にて生活していたのであろう。
 
 旧総寮部は乃木館として保存されている。2009年に登録有形文化財に指定。
 説明には、乃木が院長になった後、学習院に全寮制を導入した、とあるので、寮(寮部)のすべてを統括するという意味で「総寮部」と名付けたのかな?。「寮本部」というべき場所かな。
 生徒にとっては、寮で寝るときも、常にほぼ四六時中、院長が一緒にいたことになる。  

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 実は、最初に展示室を見学に行ったときは、展示室が休みであった・・・・。開館日を勘違いしていた・・・・。
 よって 後日出直しした。
 閉室していて、悔しいので、乃木関連の建物だけ、先に見学をしたのだった・・・・。

 ↓ キャンパスの様子。最初に行ったときなので、季節は秋なのに緑が濃い・・・・。


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学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学3

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学3

  目白にある学習院大学史料館を見学した。展示は三つの章に分かれていた。
 「一章」教育者となった乃木希典
 「二章」武課教育と修身教育の充実
であった。限られたスペースの室内なので、実は展示の順番通りに見ていない。
あとで展示リスト見ると「乃木大将などの軍服」は「二章」であるが、先に見てしまった・・・。

 「三章」は終章であり、殉死についての展示である。

 遺書の展示がある。
 遺書には、9月12日の0時とある。自決は、翌日9月13日の20時過ぎなので、前々日の深夜か。「12日」というよりは、11日の夜に書いたものであろう。
 文章中に「明治10年2月22日に、軍旗を失ひ・・・・・死・・・得・・・・」と書いてあるのが読める。「明治10年の役」とは書いていないようだ。
 乃木神社の遺書「遺言条々」よりも、見にくい字だ。文章中「皇恩」と読める一段上げる文字は一か所だけある。「本来はもっと先に死に場所を得るべきだったが・・・、皇恩に浴したので・・・・・今まで得ることができなかった・・・・・」という文章であろうか。
 ただし、乃木神社の遺言と内容は似ている。有名な、死亡当日、自宅前で撮影している乃木の写真は、コンノート公への贈呈のためだったそうだ。また展示の遺書には「・・・・養子の弊害・・・・・」と読めると箇所がある。絶家にしてほしい旨、寺内に依頼いているのであろう。遺言の文章に見る限りでは戦死した乃木の二人の息子を示す「両典」の文字はない。
 宛名は、寺内盟兄と末尾にある。当時の長州閥の同僚、寺内正毅に宛てたもの。封筒も展示されていて、それには「寺内陸軍大将殿 親展」と書いてある。
 
 ↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 遺書は、自分が接伴員、随行員を務めていた、コンノート公へのものもあったようだ。
 先のイギリスの国王戴冠式の際にイギリスに同行した、坂本海軍中将への遺書も展示している。「坂本 中将閣下」と宛名には書いてある。
 「・・・・コンノート殿下・・・ マクドナルド大使閣下?・・・」なとが読める。恐らく、コンノート殿下に対して申し訳ありません、接伴員の務めを果たすことが出来なくて、マグトナルド大使にもお詫びを・・・・」という内容であろう。マグトナルド大使は当時の日本駐在イギリス大使の名前らしい。
 長州閥のボス、乃木を引き立てた最大の人物、山縣有朋関連の展示はなかった。
 
 室内の柱には、乃木の殉死を批判した志賀直哉の文章が掲示してある。「・・・・・死んだそうだ・・・・・。」という、冷ややかな書き方。以前、志賀直哉の著作で見たことがあるかな・・・・?。その10年くらい前まで、学習院に在籍していたから、乃木には直接教えられた事はないはず。
 当時の新聞記事のコピーも展示してあった。展示の説明にもよると「森鴎外や夏目漱石の作品にも影響を与えた。」とあり、乃木の殉死に影響を受けた著書、著作の名前がいくつも書いてある。
 当時、乃木の死にあたって、森の軍医としての役割はないようだ。殉死した当時の陸軍省医務局長は森 林太郎であったが、最高階級にある現役軍人の急な死亡においても、森が直接検視をしたのではない模様。森に宛てた遺書はないらしい?。戸山の軍医学校か衛戍病院で軍医が現在の司法解剖のような解剖、検視は実施したのであろうか?。

 乃木夫妻の葬儀の写真も展示している。コンノート公も参列したとある。明治天皇の大喪に英国を代表して参列したが、まさか自分の接伴員であった乃木の葬儀にも参列することになると思わなかったであろう。
 遺書を展示しているケースの反対側のガラスケース内には、ラベルのはったワインの空き瓶がある。明治天皇から下賜されたワインで、最期の杯を乃木が静子と交わしたワインのビンとの箱書きがある。
 箱書きは、ずっとあとの時代の昭和11年5月の日付。空びんである。箱に墨書している。箱書きしたのは「海軍少将 御堀××」とある。なぜ、昭和11年に至って箱書きをしたかは、不明。 

↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。
 ワインのビンとの箱書きの展示ケースの横に乃木の胸像も展示されていた。

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 退出した後、展示室棟の目の前には、当時の図書館の一部が残っている。現在は、図書館でなく、史料館の保管室?として使用しているらしい。
 少しだけ、移築移動し、明治時代の当時とは場所がやや違うようだ。
 広場、通路をはさんで、反対側には当時、明治天皇を迎えた本館があった。


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 ↓ 当時の本館の跡地の方向。明治天皇をお迎えした便殿があった。
  その跡地を示すものは無いようだ。
  現在は、グラウンドになっていた。全面ラバーの運動場でクラブ活動の練習をしていて、学生達の声が響いていた。

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学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学2

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学2

  目白にある学習院大学史料館を見学した。
 
 テーマは「学び舎の乃木希典」。入場は無料。他の美術館にチラシを置いて広報に力を入れているし、せっかくの機会なので見学してみることにした。
  会期は9月13日から、年末の平成30年12月2日(日)まで。「9月13日」は言うまでもない、この特別展の主人公、陸軍大将伯爵 乃木希典が明治天皇のあとを追って殉死した「あの日」である。

 ↓ 室外に掲示してあった乃木に関する年表。室内のものは、もっと詳しく記載されていた。 

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 明治天皇の学習院行啓の資料展示を見た。
 優秀生徒の名に松平信×??、溝口正勝?、佐野××などの名前があったと記憶する。(正確ではないと思うが。)
 溝口は越後国の旧新発田藩の溝口伯爵家の子息、松平信×は「信」の字を名前の通し字とする大名松平家の子息だろう。松平家の爵位は子爵かな?。もしかしたら子爵家の分家の出かも知れない。「佐野」は旧佐賀藩の出の佐野常民(のち伯爵)の子孫だろうか?。

  展示室の奥の柱のエピソードボードが面白い。柱に乃木に関する「小話」を掲示してあるのだ。なかなか、興味深いエピソードが記されている。
 武者小路公共の話が掲示されている。「武者小路・・・・」は、どこかで聞いたことのある名前であるが、白樺派の作家 武者小路実篤の兄であり、子爵。確か、実篤の作品の中の年賦でよんだが、武者小路公共と実篤の兄弟は、父を早くに亡くしたので、兄 公共は既に子爵を継いで当主になっていたのだ。
 公共は、外交官となり、のちにドイツ大使(ナチス・ドイツの時代。昭和11年の日独防共協定締結時の大使)を務めた人物として知られる。

 乃木は、イギリス訪問の折にドイツ帝国を訪れたらしい。武者小路が同行して通訳した。すると、乃木が少将当時の明治18年頃のドイツ滞在時ではなく、日露戦争後、東郷大将とイギリス国王の戴冠式のため、随行して訪問した明治44年のときのことらしい。すると当時、武者小路は20歳台後半から30歳台前半で駆け出しか、若手の外交官だったであろう。
 話は「フォン(von)なんとか大将というドイツ帝国の陸軍大臣がいて表敬訪問した。置いてある物(調度品)を見た乃木が、『シェーン、アルバイテ・・・・・。』と言うと、フォンなんとか大将は驚き『シェーン ・・・・・』は、ドイツ語を余程知っておる者でないと、知らない言葉だと驚いた。」というもの。
 訪問を終えたあとで乃木は「アレ(調度品)は、余り出来のよくないものだったが『シェーン・・・・・』と言うしかなかった。」と言うと、同行の武者小路は爆笑したそうだ。

 今でいうと「いい仕事ですね~。」とドイツ語で適当に乃木が大臣にお世辞のホメ言葉を話しをしたのだろう。乃木のユーモアセンスを伝えるエピソードであろう。
 訪問した大臣閣下は、名前に「von」がつくので、プロイセンのユンカー出身の軍人大臣だったのではないか?。
 一般のイメージのように、日露戦争後であっても、乃木はいかめしい、冗談を解しない、謹厳だけの人物ではなかったのであろう。

 奥の柱に年表が二つ掲示してある。学習院の院長になった当初と明治43年から、死後までの二つ。明治40年1月に院長に就任している。満州から凱旋帰国してから、ちょうど1年後のことである。軍人としての現役は、そのままであるが、これは明治天皇の意向だそう。
 「正三位、勲一等、功一級、男爵」で院長に就任している。明治40年、その年の9月21日、一気に伯爵に昇爵(漢字が違うが、以後便宜上使用する)している。伯爵に昇爵の祝賀会を学習院で開催していた。
 その他、小話が小さいボードに掲示してあった。
 
 展示は三つに分かれているようだ。
 「第二章」を見る。「二章」武課教育と修身教育の充実

 覚えている展示を記すと・・・・、
 院長時代、学習院は、鎌倉郡片瀬に水泳場を設けた。片瀬は明治44年まで。明治45の7月から、沼津に移転しただそうだ。沼津は現在も使用されているそうだ。
 片瀬で撮影した写真が展示されている。片瀬の東浜のようだ。背後は腰越の丘かな・・・・?。集合写真には中央の院長の乃木、左が小堀水泳教官、右は、二人目中尉という人がいるが裸だ。教授も写っている。「右端に、舎監が制服でいる」という。軍服の男がいるが、その人かな・・・・。マストにのぼって写っている人もいる。教員か職員のようだ。その人の名も書いてあるが、忘れた。
 別の写真では、乃木はふんどし姿で、実ににこやかな姿であった。沼津の水泳場開設は運命の明治45年7月。明治天皇の重篤な病状が発表され、崩御があった月であり、乃木は沼津での指導はする機会が無かったと記憶する。

 ↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 室内の奥の角には、「中朝事実」の書籍の展示がある。山鹿素行の中朝事実をよく読んだことは、良く知られている。ただ、それらのエピソードは司馬遼太郎の小説「殉死」や「坂の上の雲」にもよる(広く知られる契機になった)ことが多いのだが・・・・・。

 「昭和天皇は晩年(に至る)まで、最も影響を受けた人物として、乃木をあげている。」と説明があった。
 乃木、玉木、吉田(松陰)、杉の系図が展示してある。「玉木家は、元禄年間に乃木家より、分かれた・・・・」と説明がある。乃木の弟の正之が、松下村塾を創設した玉木文之進の養子になっている。養父の玉木文之進は1876年没と書いてある。萩の乱のあとのことである。
 最近のNHKドラマでも登場した人物だ。文之進は「・・・腹をお召しになられた・・・。」とドラマでは、その死についていっていたな・・・・。偶々そのシーンだけ見たことがある。

 「中朝事実」の書籍の展示、その他書籍もあったが、乃木が特に山鹿素行の中朝事実の重視して読解、研究をしていたことが判る。
 吉田松陰についての書籍も寄贈していた。乃木希典が寄贈したことが書かれているページの展示があった。
 著者はあの徳富猪一郎(蘇峰)である。松陰と縁戚である乃木の思い入れの程が覗える。

↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 乃木は、「中朝事実」を筆写していたようだ。司馬遼太郎の小説「殉死」にもそのことが書かれている。
 写して自費で出版して、配布していたそうだ。
 写した原本名が描かれている箇所が実際の展示でもあった。
 肥前平戸(現在の長崎県平戸市)の領主であった「松浦伯爵家の蔵書の中朝事実を学習院総寮部に於いて「源希典」が謹写したことが判る。

学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学1

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学1

  目白にある学習院大学史料館を見学した。元々、学習院に史料展示施設があるとは、知らなかった。以前は、国学院大学博物館や、早稲田大学中央図書館の展示室を見学したことがある。この特別展のことは、とある財団法人の美術館に置いてあるチラシで開催を知ってやって来た次第だ。

 交通は、至便である。 目白駅を降りて、地上の改札に出ると、すぐに学習院大学のキャンパス。キャンパスの中ほどの建物に史料館展示室はあった。
 
 テーマは「学び舎の乃木希典」。目玉展示として、国宝、重文クラスの文化財が展示されるのではない。が、無料だし、他の美術館にチラシを置いて広報に力を入れているし、せっかくの機会なので見学してみることにした。
 
 会期は9月13日から、年末の平成30年12月2日(日)まで。なぜ、9月13日開始なのか?。言うまでもなかろう、乃木希典が明治天皇のあとを追って殉死した日である。
 会期末の12月の2日の理由は分からない(年末に近い日曜だからか)。 

 大学の敷地内の教室棟などいくつもビルがあるのだが、そのひとつの棟の一階のフロア。文学部の研究室などが入ってる?棟のようだ。

 ↓ 特別展の告知看板。

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 展示室の入口の扉は開いている。受付台のうえで記帳があり、氏名を書くようになっている。若い女性の係員が座っている。別展の案内のチラシとアンケート用紙を渡される。アンケートを回答すると、「オリジナル乃木さんハガキ」が貰えるそうだ。係員は文学部の大学院生かな?。
 以下、乃木希典は「乃木」又は「乃木大将」と記す。
 
 
 順番に展示を見ていく。「一章」教育者となった乃木希典
 展示の最初は、乃木の使用していた道具など。食器、箸などの日用品やメガネなどもあったような・・・。
 日露戦争当時の乃木や山縣ら陸軍の首脳の写真、日露戦争の旅順攻略戦での乃木の写真の絵葉書などの展示がある。
 更に室内の壁面にほ、当時の学習院の敷地の地図。元々は、四谷にあったが、明治27年の「明治東京地震」で四谷の校舎に被害があり、その後用地を選定して、目白に移転したという。初等科は、現在も迎賓館の近く、四谷駅から徒歩数分のところに校舎がある。

 「明治東京地震」は知らなかった・・・・・。江戸時代末期、1858年の「安政地震」の後の東京直下型の地震なのだろうか?。すると、今後、断層が動いて、東京の地震というのは、発生する可能性はあるのだ、と感じた。

 明治41年に現在の目白に移転している。当時は東京市ではなく、目白村だったかな?。当時は、明治末期とはいえ、畑、雑木林なども広がる台地だったろう。現在の大都会、東京の目白付近の風景とは隔世の感があるだろう。
 当時の地図を見ると現在の川村学園の敷地には、学習院の職員官舎や、さらに敷地の東には、馬場がある。敷地は、ほぼ現在の川村学園の敷地と一致するのではないか?。学習院の北を通る現在の目白通りに沿って東西に細長い。

 明治41年、乃木が院長に就任した当時の庶務日誌も展示されていた。院長に就任したのは、皇孫 裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育のためだったことはよく知られている。
 「教育者」として学習院長としての展示が中心なので、乃木の院長就任前の軍功に関する展示は限られる。

 乃木大将は、自宅から四谷では、馬で通っていたあと、遠いので、目白の敷地内には住み込みであったという。家を構えたのではなく、起居していたという解説だ。乃木大将の自宅は、地下鉄乃木坂駅(そのまんまだが。)の近くの旧乃木邸として、乃木神社に隣接した敷地にあるし、某アイドルプロダクションの本社もかつては、近年まで乃木神社、旧乃木邸の近くにあった??。
 室内の壁のガラスケースには、乃木大将の軍服、刀は、黒い拵え付きである。刀の銘は見えない。江戸時代の??刀だったかな。軍服には、大将の肩章がついている。星が3つある。明治38年式の軍服で、いわゆるカーキ色である。戦前期(日中戦争や太平洋戦争期を除く)の時代を背景としたテレビドラマで見る軍服は、だいたいこの軍服の形式と色ではないか。軍帽も展示してある。
 「明治18年には、最年少で少将に昇進」と説明文にある。長州閥のおかげと思うが、すごいスピード出世である。
 軍服の布は、陸軍製ジュ所の製造のものを用いて、仕立ては自分の動きやすいようにしたと説明にある。「参考」ということで金鵄勲章も展示してある。勲章の実物はのちの時代、海軍の及川古志郎が昭和17.4.4に受けたものである。乃木は日露戦争の功績で「功一級」最高の金鵄勲章を授与されているので、現物が無いかわりに、別の人物が授与された実物を展示したのだろう。
 昭和17年4月といえば、日米開戦後、日本の占領地域が最大版図まで拡大した時期。恐らく、日中戦争以降の論功行賞が行われ、功一級の金鵄勲章が授与されたのだろうか。
 金鵄勲章は、乃木大将の軍服の下に展示してある。

 続いて見学していく。
 室内の平らなケースには、敷地内の図面と式次第が展示してある。明治42年7月に明治天皇が学習院に行啓したときのもの。行事の次第が書いてある。
 次第をよんでみる。天皇は、学習院の北にある正門から入り、本館に向かう。馬車であろう。正門は現在も同じ場所にあるようだ。
 図書館の向かいにある建物に天皇は入られている。今、私のいる建物は昔の図書館付近らしい。建て替えされているので、建物の大きさも一致しない。一部、敷地がかさなっているだけという感じ・・・・。天皇が建物に入る図も書いてある。天皇の入る建物は「便殿」と書いてある。つまり、天皇専用の建物。この行幸のために、新たに設けたらしいです。手渡された特別展のパンフには、当時と現在の建物配置の比較表がある。私は、手許と展示物を見比べながら、明治天皇の順路を確認した。

 午前10時より式典が開始。高等官、判任官は・・・、など供奉の次第が書いてある。侍従以外に多数の官吏が付き従ったようだ。院長(乃木)の案内にて、授業をご覧になられ、ご覧になる順番に「五年生」など学年を書いてある。
 たとえば、英語の授業では、数名の名が、「優秀学生」と書いてある。生徒の名前は「松平信×??、溝口正×?、佐野××・・・・・」などだったと思う。授業をご覧になった後、正午は食堂に移動。食事をとる。
 一時間の休憩の後、午後1時から午後の参観が開始される。馬術などをご覧になる。
 天皇の御前で馬術を演じる中等科学生、高等科学生の名前が書いてある。
 すべての次第を終えて、お帰りになる。お帰りは「還御」と、書いてある。



浅草寺伝法院庭園 特別拝観 4 (最終)

 平成29年 2017年、4月2日 浅草寺伝法院庭園 特別拝観 4 (最終)


 「国指定名勝 伝法院庭園 特別拝観」にやって来た。
 伝法院の庭園を歩く。
 ↓ 有名な角度から撮影。「ダブルツリー」が映る筈だが、スカイツリーのみしか映っていない。
 なぜか・・・・・・・、五重塔は工事中。本来は塔が見えるのだが仕方無い・・・・。
 手前に木の葉を入れて、意識的に撮影、遠近感が出ているぞー

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 池の周囲をぐるりと歩いて散策。
 上の写真の位置からはやや手前(大書院)側。

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角度を変えて、手前のしだれ桜と大書院とその更に奥の工事中の五重塔を撮影。

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↓ スカイツリーの先端まで入るように撮影した。しだれ桜は美しく!!写っているぞ。ただ、大書院の建物が途切れてしまった・・・・。

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↓ スカイツリーの先端まで入るように拡大撮影した。高さ648メートル。「むさし」武蔵の国。

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↓ スカイツリーの先端まで入るように拡大撮影した。
しだれ桜とスカイツリー

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↓ スカイツリーの先端まで入るようにワイド??に撮影した。

よって、池の水は入っていない。桜と大書院の建物が写っている。書院の前では団体客で賑わっている。

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 池と大書院。

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庭園の端から小川が池に流れこんでいる。林の外は壁があるのだが、更にその先は浅草の市街地でビルが密集している。


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 少し歩いて別の角度から撮影。こちらの眺めもよい。池としだれ桜と大書院。
 奥の鉄筋のビルが入ってしまうのは仕方ないかな・・・・。都界(あえて「都会」と書かない。)のビルの合間の庭園であるから。


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 しだれ桜の拡大。池のほとりでは、拝観者が想い想いに桜の下で記念撮影をしていた。
 おーっと、池の水は濁っていて、必ずしも清泉ではないが、満開のしだれ桜の姿が水面に映っているぞ。


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 池の周囲を散策し、ぐりと一周、池の見える庭園内の路から改めてしだれ桜を眺める。そして、
庭園をあとにして、出口に向かった。

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 「大絵馬展」の展示館からは、次々に人が出て来て、庭園の方向にやって来ていた。

 庭園の特別拝観を出てから、本堂の前へ歩いた。伝法院特別拝観の券売所には、列が出来ていた。20人くらいは並んでいる。入場者も増えてきた。
 本堂の前を通って、境内から退出する。本堂の前の広場には、線香をたくさん立てている銅製?の大きな線香立て?がある。「ここで線香の煙を体にかけると(まぶすと)健康になる。」と亡き祖母はお参りする度によく言っていたものだ。 あれは、いつのことだったかな・・・。そんな感慨にふけりながら、線香をたてている人達を見る。
 境内には外国人が多い。中国人が多いかな。アメリカ人イギリス人ではなく、いろいろな国の人がいる。アジア系が多い。インド系、マレー系と思われる人々も。

 さて、ひるどきとなった。浅草駅の近くの吉野屋でさくっと牛丼を食べて移動する。牛丼店にも外国人の姿が多かった。大きな荷物を持った外国人の団体も、会話の内容からフランス人のようだ。
 地下鉄で上野へ向かった。


 

浅草寺伝法院庭園 特別拝観 3 

 平成29年 2017年、4月2日 浅草寺伝法院庭園 特別拝観 3


 「国指定名勝 伝法院庭園 特別拝観」。伝法院の「大絵馬展」を順路にしたがって見た後に、庭園の散策に行く拝観順路になっている。

 浅草寺のランドマークである、五重の塔は、工事中であり、シートで覆われていた。

 
↓ 庭園に咲いていたしだれ桜。満開、まさに見ごろであった。


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林の中の小路を歩いて、庭園散策。「ほほう、都心部なのに水路があるなー」などとと思いながら歩く。


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池に出る手前に茶室があった。


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 庭園の案内看板。「天佑庵」とある。都の重宝に指定されていると解説がある。
戦後に奉納移築されたとある。中心となったのは、あの五島慶太であった。
この付近は空襲で焼け野原となって筈なので戦後、庭園の復旧に伴って移築したのだろうか。


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茶室を過ぎると池がある。書院の方向に歩く。

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 ↓ 振り返ると先程鑑賞していた「大絵馬展」の展示館とそれに続く庫裡?の建物が見える。
 池にせり出すように建てられている。
 水路には鯉が泳いでいた。 都会のオアシスかな。

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 池のほとりに出た。都会のオアシスとはいうものの、周囲はビルである。

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 庭園の中心、池の正面に建つ大書院。畳の部屋が開放されている。しかし、部屋に上がることは出来ない。外から書院の内部を見るのみ。
 襖が開け放たれた大書院の前では、たくさんの人が記念撮影している。
 ここからの池としだれ桜の眺めは格別である。本当は、ここ大書院の前からの庭園の眺めを撮影して本サイトにアップしたいのだが、あまりに人が多くて写り込んでしまうので、撮影は割愛した。

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 人がうつらないに、空を見上げて満開のしだれ桜を撮影した。

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 しだれ桜の拡大。美しい。


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浅草寺 伝法院庭園 特別拝観 2 「大絵馬寺宝展」

 平成29年 2017年、4月2日 浅草寺伝法院庭園 特別拝観 2 「大絵馬寺宝展」


 東京・台東区 浅草にやって来た。「国指定名勝 伝法院庭園 特別拝観」のためである

 浅草寺の境内を歩き、伝法院の入口に看板に従って行く。浅草名物の「五重の塔」は工事のため、幕で覆われていた。庭園の特別拝観の入口は建物だった。券売所がある。階段を数段昇って、中に入る。

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 建物の前では、青いウィンブレを来た係員が案内をしている。

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 次々に拝観者がやってくる。数名の列ができる。並んで、券を買う。

 最初にここ宝物館を見る順路になっている。「大絵馬寺宝展」が開催されている。廊下を展示室内に歩く。ドーンと大きな額が展示してある。
 順路の最初の方に「 国宝 浅草寺経」の展示がある。多分複製・・・・。ガラスケースには作品名のみの表示で何も解説は書いていない。ガラスケースも空気が簡単に入ってしまうような、隙間のある簡易なもので、あまり大切に展示していないぞ・・・・・。ただ、置いてあるだけ。「国宝」と確かに書いてあるのだが、本当に国宝の実物なのか、疑ってしまう・・・・。国宝をこんな簡単なガラスケースに展示していいなかな、と思った。ぐるっと展示室を回り外に出る。
 奥まった展示室のところには、浅草寺の模型などもあった。

 お堂の額縁などがある。奉納された大きな絵馬など奉納者は、街の衆で当時の人の氏名が書いてある。当時のたくさんの人から奉納を受けたということですね。
 「神馬」の大きな絵馬の展示があった。神社ではなく、浅草寺に江戸時代に奉納されたものだ。神仏習合の関係かな。 
 展示リストの配布は無いのだが、特別拝観のパンフレットよると鈴木其一の「迦陵頻伽」の絵馬の展示があるそう。いろいろ、大きな額縁(つまり、絵馬のこと。)を探して、順路を戻って探したが、無かった・・・。私が見つけることが出来ないだけだったのかも知れないが・・・。

 入館者が増えて来た。賑わっている館内だ。
 展示館を出る。最初に「大絵馬寺宝展」を見て、外に出て、庭園を散策する順路になっていた。

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 庭園へ。「大絵馬寺宝展」が開催されているのは、宝物館ではなく「特別展示館」というようだ。
 庭園内の案内看板が出ていた。

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 庭園内の道を歩く。水路の水は濁っている。都心の中の水であるから、仕方ないか・・・・。隅田川とつながっているのかな。

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庭園の周囲は、ビルや工事中の建物などがあり、いかにも都心の中の小庭といった感じ。


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と、道の途中に入ることのできない島があった。「立入禁止」となっている。

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「経ケ島」の説明。聖域である。池の中の島である。
写経が埋められているそうだ。

浅草寺 伝法院庭園 特別拝観 1

 平成29年 2017年、4月2日 浅草寺 伝法院庭園 特別拝観 1 

  東京・浅草にやって来た。「国指定名勝 伝法院庭園 特別拝観」のためである。
 
 ※随分と遅れての記事掲載となってしまった。既に昨年(2017)上野の桜六義園入口付近の様子は記事掲載している。

 久々の浅草だ。この日の来訪の目的は、毎年この時期に開催される浅草寺伝法院庭園 特別公開の見学だ。桜の咲くこの時期が一番いいな~。
 例年と比べると、桜の開花は進んでいない。私が子供の頃は、これよりも遅いくらいであったが、温暖化の影響で「平年」の時期も相当に早まっている。
 
 まずは浅草駅への道のりから。「上野東京ライン」で直通し、地下鉄で浅草までやってきた。駅の改札付近にも外国人が多いな。地上に出ると、松屋デパートがある。東武線の浅草駅もあるのだが、外国人が多い。
 イースターの休暇のためだろうか?(違うかな。)。
 人が多い。混雑を避けて別の道から、仲見世を通り浅草寺の境内へ。浅草には子供の頃から祖父母に連れられて何度か来ていたこともあったな~。子供心にも今ほど混雑しているという感覚はなかったが、それなりには当時から混雑していたかも(笑)。
 仲見世の裏手の道沿いの食堂で昼食を食べたりしていた。お店のことは全く覚えていないが、今もそのお店はあるのでしょうか?。地下鉄駅から仲見世に至るアーケードの商店街の一角、マクドでもよく食事をしたよ。何だかんだいったって。マックのお店は、今も同じ場所にありますね

 

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 当時は、外国人はほとんどいなかったな。
  隅田川堤防の桜の名所も近いのだが、満開まではやや早いかな。墨田川の方向には行っていないが。
 あれから幾星霜、祖父は十数年前に亡くなり、祖母は昨年であったが90歳以上の高齢で鬼籍に入った。二人供、今は亡い。私も齢(よわい)を重ねたよ。
 「人は世につれ、世は人につれ。」「川の流れは・・・絶えずして・・・・しかも元の水にあらず・・・・。」そんな言葉が歩きながら、私の頭の中に浮かんでは消えた。
 


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  伝法院に行く。↑
 浅草寺伝法院の門は、仲見世側からでは門が固く閉まっていた。「ここだったのか・・・。」と改めて思う。
 公開されていることは、ここ数年で知った。前は知らなかったよ。伝法院のことも。庭園があることも。
 平成23年??に名勝として、文化財指定されて知った。公開が毎年開催されるのも文化財指定後のここ数年のことかな??。

 告知看板が出ていた。「国指定名勝 伝法院庭園 特別拝観」とある。正式な名称は「拝観」とあるので、この見学記では通常私が使用している「見学」という用語は極力使用しないことにする

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 門、本堂の前を歩く。うーん、桜はまだ咲いていないな。
 画像左手に伝法院がある。

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 門はくくらず、本堂に向かって、左手に歩く。

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伝法院庭園 特別拝観の看板があった。矢印が出ているので、方向指示に従って歩く。
本堂周辺にはよく来たことがあるが、伝法院に入るのは初めて。

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 最初に宝物館を見る。大きな額をみる。 
 浅草寺五重塔はなんと工事中である。囲いに覆われている。
 ↓ 宝物館の出入口の近くから、東京スカイツリーと工事中の浅草寺五重塔を撮影。貴重なショットだ



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六義園 しだれ桜 (混雑で入園せず。)

 平成29年 2017年、4月2日

 今年の桜は満開になるまでが遅かった。
 上野公園を訪れた。東京都美術館へ入館し最終日を迎えた「ティッツィアーノ展」を鑑賞した後、東京藝術大学美術館の「雪村展」を見て、東京国立博物館の総合文化展も見学した。後に、夕方は駒込の東洋文庫に移動した。東洋文庫ミュージアムで「ロマノフ王朝」の展示を見た後、期間限定ライトアップ中の六義園に入園する予定であった。
 しかし、東洋文庫近くの入園券の販売窓口には行列が・・・・・。駒込駅から東洋文庫に行く途中にも行列が出来ているのを見たが、更に伸びていた。東洋文庫ミュージアムでは、六義園とのセット入場券を購入することは出来るのだが、割引の関係で購入しなかった・・・・・。
 この日の来訪の目的は特に桜がメインという訳ではなかったので、諦めた・・・。「明らかに桜の開花は進んでいないし。でもしだれ桜は満開かな・・・。」と思いながら。
  
 ↓ 六義園の正門の前(南側)。
 園内では桜の花も咲いているようだが。

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 遠くから撮影。↓ 行列は園の壁に沿って、歩道上に伸びていた。ちなみに、帰路、駒込駅近くの北側の入口でも同様に行列していた。駅近くの入口の方が、交通の便がよい関係で行列していたのではないだうか?。
 

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 この日、自宅に帰ってから、ネットで六義園の桜の開花状況を見たのだが、名物「しだれ桜」は「5分咲き」ということだった。写真では、満開の花であったが、あれは過去に撮影したポスター用の画像であろう。
 5分咲きでも、あの大行列、入園しなくてよかったかも!???。
 この日は、昼間、最高気温が14度くらいで、やや暖かかった。しかし。日没後は、寒くなり、私の感覚でも10度はなく8-9度くらいであった。まだ、桜が満開になる気温ではなったかな。



 

「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」森鴎外記念館 見学4(終章) と「谷根千」散歩

  2017年1月9日

 この日は、年が明けて間もない冬の一日。東京国立博物館を見てから、徒歩で千駄木まで移動した。
 今、マスコミでもとり上げられている「谷根千」(やねせん)散歩である。この時期は寒いけどね(笑)。

 上野桜木から、北に歩く。谷中を通る。住宅やマンション、雑居ビルの合間には寺院の門が見える。進行方向右手には、谷中の墓地の高い壁がある。老舗と思われるお店もあるが、休日なのかお休みのところもある。
 谷中から更に、台地に沿って歩くと日暮里方向、朝倉彫塑館などがある方向だ。桜並木も見えるが、冬のこと。すっかり落葉していて、枯木が立ち並んでいるのみ。が、春4月ともなれば満開の桜で美しく彩られるのでとろう。そんなことを想像しながら、道を歩く。
 千駄木方向に坂を下る。地下鉄千駄木駅は、ちょうど谷の底を通る道路の地下を走っている。駅の近くになと、急に賑やかになり、人どおりが増えた。
 商店などがあり、買い物をしている人がいる。日常の生活の一シーンである。信号の交差点の名称は「団子坂下」。私は、そのまま直進し、団子坂を登る。
 台地の上から須藤公園に少しばかり寄り道し、団子坂上にある文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきたのだった。

 コレクション展「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」を見学した。
 さて、展示の末尾に協力者、団体の名前の掲載がある。筆頭に「賀古〇次」と女性の名前が。鶴所には、子はいなかったようだ(展示では特に書いていなかったが。)。よって、名前が出ている賀古氏は弟「桃次」の子孫のようだ。 
 桃次は、井上通泰と親しかったというから、和歌をたしなんだのだろう。恐らく医師でもあったろう。井上も医師であったので。

 一通り展示を見たので、階段を昇り、一階に行く。この階段が長いのだ。地下奥深くに地下室を掘っている・・・・。
 一階に戻ると事務室から二名くらい黒服の女が出てきた。すでにいた、同じ黒服の係員女性とともに走って作業している。皆、50歳前後くらいのの女性である。(本日最後の入館者)私が帰るので、閉館準備を開始したのだろう。 地下一階には看視の女性が一人いて、展示室の入口に立っていた。時折、室内を巡回していた。その立ち位置は企画展示室も廊下ごしに直接看視できる位置だ・・・・。ずっと、企画展示室内にいる私の帰りを待っているようだ・・・。展示を見た後は、映像室は見なかった。看視女性係員から「早く帰れオーラ」が出ていたので(笑)。
 外に出ると、すでに真っ暗だった。閉館時刻間際の慌ただしい見学となった。
 ただし、日没時刻はだんだんと遅くなって来ている。「冬来れば春遠からじ」かな。

 森鴎外記念館の入館前に撮影。 ↓
 「団子坂上」の信号付近から、「団子坂下」方向の「大観音通り。

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 森鴎外記念館を出た後、
 ↓ 団子坂下、地下鉄千駄木駅の地上出口付近の通り。どこにでもある、都会のとある街並みだ。
 かつての風情は写真で見る限りはあまり無い。
 
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 千駄木駅から地下鉄に乗り、帰宅した。


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「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」 森鴎外記念館コレクション展 見学3

  2017年1月9日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」の見学です。
 まずは、地下展示室にある常設展を見てから、企画展示室へ行った。

  ↓ 企画展のチラシ。

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 続いて展示を見ていく。室内は私だけになってしまった。入館締切時刻の17時半を過ぎても、あとから人はやってこなかったので、この日の入館者は私が最後ということになる。

 鶴所は、神田の小川町に自分の耳科医院を開設している。場所は小川町の51番地だ。50番地が家で隣に医院があったそう。当時の錦絵にも掲載されている。 絵を見ると、現在の靖国通りらしき通りの両側に、木造、瓦屋根で二階建てくらいの高さの家が並んでいる。現在の鉄筋コンクリのビルがひしめく風景とは隔世の感がある。
 鶴所は、医術開業試験を受けたのか?。その受験願か「医院の開業願」に、鶴所は「安政3年×月×日生」と書いている。鶴所は、実は安政2年生まれとの説があったが、この資料で生年月日が判明したそうだ。現在のような医師免許の制度ではなく、開業には別の開業試験があったのだろうか?。それとも、大学卒業者は「願」のみで開業できたのかは、分からない。

 「島」状に設置されている室内真ん中の展示ガラスケースの中には、賀古がモデルとなっている「ヰタ セクスアリス」の本がある。鶴所は、登場人物「古賀」のモデルとある。よく言われるように「賀古」と「古賀」で「そのまんま」だ(笑)。

 鶴所は、自分の医院(耳科院)を開いて、軍医として勤務していた。「二足のわらじ」というか、開業しながら軍務に服していたとは、随分とおおらかな制度??だ。
 日清戦争後に第五師団軍医部長に任ぜられたので、東京を離れることをきらい、年賦によると休職になっている。その後、明治34年に予備役になっている。鶴所は「鴎外よりも一足先に軍を退いた。」そうだ。
 日露戦争では召集され、一等軍医に昇進、最初は第二軍兵たん軍医部長、次いで遼東守備軍軍医部長に。
 従軍中の写真の展示があるが、写真には「賀古軍医部長」との文字が入っている。撮影した人が、賀古部長に名前入りで渡したのだろう。また、レンガ壁の建物の前で、イスの傍らに軍刀を持って立つ姿の写真もあった。
満州のどこかで撮影した写真であろう。
 日露戦後、明治39年の大学の同窓会の写真もある。同窓会の参加者のサインが書いてある。小池のサインもある。この同窓会に「賀古は欠席したようだ」とある。欠席した人に出席者がサインをして、後日送ったものだな。
 続いて鶴所が50歳のときの写真の展示がある。それなりに歳をとっているが、丸顔でおだやかな容貌、人ぶりだ。
 明治43年にも新聞の記事で「森鴎外という男」という記事が掲載されたり、生前、軍務の現役の頃から鴎外の作家としての、その人となりは報道されていたのだ。
 「常磐会」の写真もある。政府と軍の最高実力者 山縣有朋の歌会というのだろうか。元々、鶴所が参加していて鴎外はあとで鶴所から誘われて参加したのだったかな???。メンバーには井上通泰もいた。今回の展示によると、元々は鶴所の弟と井上が親しかったそうだ。井上の弟は、いうまでもない、柳田國男である。

  鶴所の妻が大正6年に亡くなったとき、友人総代は鴎外。事前に総代となることの依頼を手紙でしていた。そして新聞に死亡公告を出している。鶴所や親族の名前に続いて「友人総代」として森林太郎の名前があった。

 千葉にあった別荘、鶴荘と鴎荘の変額の写真の展示もある。鴎外の「鴎荘」の額は、現存しないとのこと。千葉の現在のいすみ市に300坪の土地を鴎外が先に買い、のちに鶴所が土地を買ったそう。しかし、鴎外はあまり、別荘に来ることはなく、母静子の療養生活用だったそう。「カモメ」と「ツル」がともにお隣で別荘を構えている。
 「鴎外」のペンネームは、親友の鶴所にひっかけて付けたのではないかと感じた。だって「鶴」と「鴎」で共に酉だから。いや「鳥」か?。今年は「酉年」(笑)。

 鶴所のめいの子は「しげる」。「淋」のような文字。「愛姪」の命名を鴎外が依頼されたそう。子がいなかったので、姪を子のように育てていたのだろうか。鶴所の書いた長い巻物の命名を依頼する手紙には、その末尾につけたしで「父 晋、母 カツラ、(めいのこと)。伯父に豊ゆたか、坦ひろし」と書いている。
 「伯父」と書き、恐らく年下の額田家の兄弟も「叔父」とは表記していない。鶴所の兄弟の名も書いてある。鶴所の弟は、桃次で、この姪の父らしい。親族にはこのような人がいるので、名づけのときに参考にしてね、という意味だろう。

 鴎外は「死去の前は6月に初めて医者にかかった。」と以前来たときに展示で見た。ようやく受診した医者は、この命名を依頼した子の父、つまり鶴所の姪カツラの夫、額田晋だったのだった。
 → 鶴所は「(鴎外は)決して診察に同意せず・・・。」と回想に書いていた。
 そして、鴎外の臨終。あの遺書を口述筆記することになるのだ。
 
 鴎外の死後も鶴所は生きた。時代が変わり、昭和5年の写真も、晋やその子しげる(漢字の文字が出ないので、以下ひらがなで表記)も後列に写っている。しげるは、10歳くらいかな。写真は東邦大学額田記念室の所蔵だ。
 小川町の賀古医院は、火災で焼けているのですね。大正時代にも焼け、火事の翌年には復旧と年賦にもあった。二回被災していた。
 そういえば、かつて神田錦町3丁目4番地住が、(鴎外の最初の妻の実家)赤松家だった。
 展示の写真の撮影された翌年、昭和6年「鶴所は急逝した」と説明にあった。

 鴎外の後妻、しげ子とも親しくしていたと資料にある。家族ぐるみで交流があり、子を連れて小川町の鶴所の家を訪れたこともあるそう。
  映像の放映もある。写真、資料の静止画が、数秒ごとにかわる映像(スライドショー)。賀古の写真や資料が上映されている。

 展示の末尾に協力者、団体の名前の掲載がある。筆頭に「賀古〇次」という方の名前が掲載されている。鶴所には、子がいなかったようだ。よって、弟「桃次」の子孫のようだ。 
 一通り展示を見た。
  階段を昇り、一階に行くと事務室から二名くらい黒服の女が出てきた。すでにいた、同じ黒服の係員女性とともに走って作業している。皆、50歳前後くらいのの女性である。(本日最後の入館者)私が帰るので、閉館準備を開始したのだろう。 地下一階には看視の女性が一人いて、展示室の入口に立っていた。時折、室内を巡回していた。その立ち位置は企画展示室も廊下ごしに直接看視できる位置だ・・・・。ずっと、企画展示室内にいる私の帰りを待っているようだ・・・。展示を見た後は、映像室は見なかった。看視女性係員から「早く帰れオーラ」が出ていたので(笑)。
 外に出ると、すでに真っ暗だった。閉館時刻間際の慌ただしい見学となった。

 晩年にいたるまで、鶴所の風貌は、おおらかな性格を感じさせる。いつも、ニコニコしていて穏やかな人だったのかな。なんとなく、おおらかな風貌は中村不折とも似ている。不折は小柄だったが、鶴所は当時としては大柄な方だった。
 

 


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「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」 森鴎外記念館コレクション展 見学2

  2017年1月9日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」の見学です。
 まずは、地下展示室にある常設展を見ていく。

 ※「  」内の文章は、前回の記事の引用です。 

 「小さいモニター映像に生前の鴎外の姿がありました。短い映像です。(繰り返し、反復して映像が流れています。)」
 「当時、皇太子であった昭和天皇が欧州視察旅行を終えて横浜港帰着時の、お出迎えのときの映像でした。大正10年の秋の映像です。つまり鴎外死去の前年のことです。数多くの官吏がお出迎えをしたことがわかります。お出迎えを終わり?、別の場所に徒歩で歩くときの映像のようです。お出迎えを終えた官吏と思われる大勢の人々が歩いて移動しています。背の高い軍服を来た人物が2人で歩いている様子も映っていました。鴎外は映像画面の手前のほうに、ほんの "おまけ" のように映り込んだようでした。
 映像中の鴎外は、フロックコート姿です。現在私達の見る鴎外の公的な写真は軍服ですが、このときは、予備役陸軍軍医総監ではなく、文官、つまり(宮内省管轄の)帝室博物館総長兼図書頭としてお出迎えに参集したのでしょう。」

→ 映像は、前回見た内容と変わっていない。再度見ると前回の記事に書いた<背の高い軍服を着た人物が2人>は、見間違いで、互いに敬礼している軍人がいる。一人で歩いている軍人も見えるが、背は高くない・・・・。よーく見ると、鴎外の奥に背の高い、大礼服姿の人物が歩いている。

 ゴマシオ頭の白髪の人物だ。なんだか、西園寺公望のように見える。鴎外は、フロックコート姿で大礼服ではない・・・。鴎外よりも、もっと高位の文官のようだと推測。
 明治村に移築されている西園寺の別荘「坐魚荘」の玄関内部には、等身大の公望のパネルが置いてあった。身長は「169cm」と説明にあった。
 鴎外は見たところ160センチくらいと推測されるので、映像内の人物はだいたい、その位(公望)の身長だ。10cmくらい鴎外よりも大きい人物だ。よって、奥に映っているのは公望と(勝手に)断定(笑)。

 ガラスケースの端(見学者から向かって展示室の左の端にあたる)に、鴎外の遺言書の展示があり、改めて読んでみる。展示品が原本なのか、複製なのかは分からなかった。
 末尾に「言 森 林太郎  書 賀古鶴所 」とある。今回の企画展の主人公、賀古鶴所が筆記したことが分かる。鴎外は病臥しており、もはや起きて筆記することは出来なかったのである。
 更に下の部分には「男 於兎」とある。遺言の場に長男 於兎がいたような書き方だが、展示での説明にあるように、彼が没する年、大正11年の、春先3月に於兎と長女 茉莉は、欧州留学に出発しており、日本にはいなかった。そのとき、鴎外は港で見送っている。長男は留守だったが、嗣子ということで書きくわえたのだ。
 (あとで、展示リストを見ると遺言書は「複製」と書いてあった。)


 ついで、書簡などの展示を見ていく。前回も、作家、詩人などとやりとりした書簡の展示があった。(露伴などとの)。 今回展示があったのは、与謝野寛、伊藤左千夫、上田敏などからの葉書書簡。宛名面のコピーも展示されていて鴎外の住所は「千駄木団子坂上」で、番地が無くても鴎外の自宅にハガキはちゃんと届いている。
 木下杢太郎からの葉書もある。が、差出人は太田正雄と全く別人の名前。丁寧な文字で書いている。つまり、木下杢太郎はペンネームであった・・・・・・・・・・。 前回の訪問記でも書いたが、木下は、のちに鴎外の三男、類とも密接な関係にあったのだった。

 上田敏に関するミニ企画展示があった。上田とも誌上で論争をしている。が、個人的には親しくしていたそうで、上田は鴎外よりも10歳以上も年下。鴎外に師事?していたそう。大正5年、上田が急死したときも鴎外は、上田の家に駆け付けたそうだ。臨終には間に合わなかったらしい。

 常設展示室を見終えて、次の部屋へ。
 途中の壁に森家の系図がかかっている。前回も見たが、改めて見ると森家のある当主は西暦で1801年に死亡。
 覚馬の父は、森 高亮で1831年に死亡。次男で、西家に養子に行った覚馬の子が、かの「西周」。
 森家は、覚馬の兄が継いだが(または家督相続前に)、死亡した。その年は西暦で1819年のこと?。
 覚馬の兄弟には別の人物もいるが、一人は西家の親族である別の家の養子になっている。別の兄弟である更にその弟が「出奔」している。つまり、西周の叔父が、家を出て行ったことになる。その後、養女として木嶋家の娘がやってきた。この娘の夫が「森白仙」。つまり、林太郎の祖父。木嶋家出身の祖母は、明治39年まで長命であったことは周知の通り。祖父、白仙は西暦1861年11月に近江の土山で客死。その二か月後、1862年1月に林太郎が誕生。
(西暦と旧暦の対比がされていないので「11月」というのが太陽暦なのか太陰暦なのか系図の解説はっきりしない。)
 鴎外の母、峰子(みね)と周が「いとこ」のような「感じ」かな(みねは、養子の子なので西周と血縁は無い)。
 系図を見て、企画展示室へ廊下を歩く。

  ↓ 館の外にあった企画展のポスター。


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  「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」は、順路の先の小さい方の部屋での展示であった。
 「賀古鶴所」は一般には「森鴎外の親友」として知られる人物。それ以外に、彼の人となりや経歴を知るすべはほぼ無い。
 「余は、少年の時より老死に至るまで一切秘密無ク交際シタル友は賀古鶴所君なり。」は非常に有名な遺書の一節だ。「・・・余は石見人 森 林太郎として死せんと欲す。・・・・」
 更に遺書は「墓には森 林太郎の墓以外には、一切刻むべからず。墓の文字は、中村不折に依頼し、・・・宮内省、陸軍からの栄典などは固辞して一切受けるべからず。」と書いてあるのである。

 人生の最期に臨んた鴎外をして、そこまで言わしめた「賀古鶴所」は、いかなる人物であったのか?。

 今回の企画展の期間は長くない。前年の12月上旬から、年末年始を挟んで1月29日(日)までの二か月足らずの会期である。

 賀古鶴所は、写真でみると随分とおおらかな表情の人物である。人懐こい性格を感じる。目がキッとしていて、生真面目そうで、痩身で神経質で細かそうな鴎外とは、顔の表情が随分と違うような・・・・・・。

 まずは、展示室に掲示してある鶴所の略年譜を見る。(展示リストにも掲載されているが)
 鶴所は現在の浜松の出。医師の長男で、鴎外と共通点がある。展示の解説にもあるのだが、年齢は鴎外よりも6歳も上。大学南校?、東京大学で同期になった?ので親しくなった。
 が、鴎外が入学した当時は満15歳くらい。鶴所は20歳を超えている。鶴所が兄のような存在で、鴎外はまだ思春期のうぶな少年であったのではないか。友情というよりも、兄弟愛、師弟愛に近いものではなかったか・・・?。

 展示品を見ていく。
 身長、頭長に関するメモ書の展示がある。同窓生と書いたのかな。(展示リストでは、どれを指すのか判然としなかった。)それによると
 森 161.2cm。 頭長は忘れた。 「〇頭身」なのかも書いている。
 賀古 164.7cm 解説に鶴所は「当時の平均身長は160cmくらいであり、当時としては、賀古は大柄だった。」とある。
 小池 158.5cm 小池正直と賀古は同じ6頭身くらい。森がやや小さい。6.4くらいかな。寸尺法ではなく、西洋医学を学んだ者らしく「cm」で書いている。
 鴎外の身長が161と分かった。常設展示の映像や津和野で展示されていた大礼服から推定して「160cm
前後」と推測していたが、大体当たっている。鴎外は当時の平均よりもやや高かったとになる。
 
 次いで、奥の壁のガラスケースを見る。鴎外が軍医を決意した手紙がある。展示リストによると「明治14年11月20日付」だ。この年の7月に大学を卒業しているので、四か月後のこと。鴎外は、就職がしていなかった時期だ。「昨日は、来てくれてありがとう・・・・。」という書き出しで、書いてある内容は、難解なので理解しにくいが、「いろいろ悩んだけど、陸軍に入ります。」という内容なのでしょう(笑)。
 「軍医になるか迷っていた」という手紙も、津和野の記念館に展示あったが、書かれた時期は、どちらが先なのかな?。
 鶴所は、卒業後は軍医になる予定であり「在学中に陸軍の委託学生になった」と展示の説明にあった。よく知られるように「先に陸軍軍医になっていた賀古に薦められて」軍医部の高官に会ったりして「遂に軍医となることを決意した」のでしょう。
 鴎外、賀古、小池と同じく谷口謙の名前も先の常設展示での読売新聞のコピーに卒業生としてあった。医学部の同期卒業生は相当数、軍医になっている。

 賀古は、山縣有朋に随行して欧州に旅行をしている。そのときの写真の展示がある。陸軍のドン、長身の山縣を中心に随行者が写っている。旅行時期は、鴎外がドイツ留学から帰国したした後のこと。展示リストによると山縣有朋に随行しての欧州行は明治22年3月のこと。
 鴎外の小説「舞姫」で「天方伯爵に随行し、欧州にやってきた、主人公 太田豊太郎の友人 相澤」とは、このときの旅行のこと(山縣伯爵に同行した軍医 賀古鶴所)を指しているのだろうか?。
 
 私が企画展の室内に入ったときには、先客は既に出ていってしまっていて、隣のシアター室で映像を見ていた。その後、先客は、一階に戻っていってしまった。
 いつのまにか、展示室内には私一人だけとなってしまった・・・・。


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「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」 森鴎外記念館コレクション展 見学1

  2017年1月9日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館に再びやってきました。
 前回の訪問は、初夏の昼間のことだった。対して、今回は冬の夕方のこと・・・。
 すでに午後5時。記念館前の団子坂上の通り(大観音通り)を歩く人は多い。しかし新たに記念館に入館する人はいない。
 通りら敷地の中に入り、一旦庭を抜けて、脇道に出る。敷地内には誰も人がいない。
 戻って入口の高い分厚い自動ドアをくぐり入館。入館料300円を支払う。
 コレクション展「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」 の見学がメインです。

 ↓ 崖側から見た記念館の入口の門。
  かつて、鴎外の自宅「観潮楼」の表門があったところ。


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 「地下の展示室に行って下さい。」と言われ、本当はおトイレに行きたいのだが、やむなく地下への長い階段を下る・・・(苦笑)。
  展示室に入る。地下の展示室のドアの前には、看視の女性が1人いる。黒い制服を着ている。 
 順番を追って見ていきます。室内には、二組くらい見学者がいる。うち、一組は小学生くらいの女の子がいて、祖父母、母親と来ているようだ。

 あれ、展示室内は改装された??。撮影禁止なので、室内の様子は想い出すしかないが、展示品が少なくなったような・・・・・。展示室内や展示ケースは「白」を基調とした内容になっている。以前はもっと手前の平と壁の垂直ガラスケースが大きかったような感じたが・・・・。
 それとも、津和野の「森鴎外記念館」と混同している!!??。

 白い壁沿いに設置されたガラスケースの展示品や説明パネルを見ていく。10歳の頃の「かむろ姿」の鴎外の写真があった。まだかわいい子供でまるで女の子のような姿だ。
 
 これは、前回訪問時も見たが、鴎外一家の「上京後」の写真であった。写真の左端には西周(にし あまね)がうつっている。周は、座って横を向いているが痩身。長身のようで、今でいうイケメンである。写真の中央左は、鴎外の父の静男で、白髪、あごひげを生やし、周よりも年長に見える。実年齢は両者ともに、さほど変わらないと思うが・・・。
 いち早く、欧州留学をはたし、時代の最先端の知識を得て、新政府にも地位を得ていた周の自信の程を写真からも感じた。津和野の「森鴎外記念館」での展示でだったか、どこか別の場所で見たと思うが、西周は、明治のご一新の後、一旦津和野に帰っている。その際に、親戚筋で、自分の旧居からもほど近い森家(森の本家)を訪ね、当主の静男や、嫡男の林太郎(鴎外)とも会っている筈だ。
 この上京も周のススメによるものだった。
 対して、津和野の「森鴎外記念館」で見た幼少期の鴎外の写真は、確か(上京の途上)防府にて父の実家の一族と撮影したものだったと記憶する。 よって、今回ここで見た写真よりも少し前の時期に撮影したものであるのだ。

 以下「 」内は、以前のプログの記事で書いた内容。引用しながら、今回の見学記を書いていく。
  「鴎外が10歳で上京したことはよく知られています。一家で上京したコースをパネルで図示してありました。それによると、津和野を発ち現在の山口県にある三田尻付近に逗留しています。『三田尻』とは幕末の歴史の地名でよく聞ききます。現在では防府市周辺です。ここは、林太郎の父、静男の実家のある所で数日滞在したと説明にありました。静男が森家の養子であったことは、よく知られていますが、長州出身(正確には周防国だが。だから現在は防府市。)とは知りませんでした。」

 → 今回の訪問時、コースの図示は、展示室の壁には無かった。やはり、展示は変わっているようだ。
 やはり、津和野の「森鴎外記念館」と混同している!!??(笑)。

 「さて、森家は「一家をあげて」上京したことがわかりました。ただし、このときの上京は父と鴎外達が先発し、母と妹達はあとから東京にやって来たようです。父の実家に滞在後、ほど近い三田尻の港から船に乗り瀬戸内海を横断、東京に向かっています。東京の旧藩主亀井家の屋敷に入っています。その後は千住に住んでいます。当時では東京といっても千住はかなり郊外だったのではないでしょうか。父、静男は千住で医院を開業したとあります。」
 → 向島に家を借り、その後、家を購入したそうだ。

 「大学卒業・・・よく知られるように「8番」で卒業のため大学に残る道は絶たれたそうです。  当初は就職せず千住の父の医院を手伝っていたと説明あります。東京大学医学部を卒業したのに、いわば「ニート」とはいかずとも「家事手伝い」だったのでしょうか?。」
 → 当時の新聞のコピーが展示してある。「読売新聞」で明治14年7月12日?の記事。明治14年7月9日に大学り卒業式が行われた。
 式でお祝いを述べた人の名前がある。法学部、鳩山和夫、工学部 某  、理学部 菊地大麓、医学部 ベルツ(お雇い外国人で有名なお方)、文学部 外国人の名前・・・・。文部卿は、福岡孝弟(たかちか、文字が違うかな・・・。)、先の(東京国立博物館で見た)紅白芙蓉図の所有者だ。
 鳩山和夫の子孫は、言うまでもない現代でも有名な政治家一家。菊地大麓とは親戚だったと思います。ルーツは、美作の勝山、津山だったかな?。

 →続いて展示品の新聞のコピーを見る
 「法学士 法学分 ・・・」、「理学士 化学分・・・・、 生物分・・・・、 機械工学分・・・・、 土木工学分・・・・」
 「医学士 医学分 三浦守治、高橋順太郎、中浜東一郎。」ここまで医学部の卒業生の名前は三人。森林太郎は八番目。
 つまり、新聞に掲載されている名前の順番は「成績順」だ。当時の新聞にも成績が記載されているとは・・・・・、成績とは、一生付きまとうという訳か~(苦笑)。
 続いて「十番目に賀古鶴所。十二?番目に小池正直」。成績は、のちの森林太郎の上官 小池の方が下だった。
 中浜は、有名なジョン万次郎の子ですね。万次郎は自分の子を医者にしています。更に下ってその子孫の方も時折、マスコミに登場して、私も記事を読んだことがありますが医師の方でした。東一郎以降の子孫は代々医師のようです。三番で卒業ということは、彼は林太郎を差し置いて、外国留学の権利を得たことになります。

  最後は「文学士・・・・ 理財分、政治分」がある。掲載されているのは、卒業する学生全員の名前だろうか。随分と少ないな。限られた者のみが、高等教育を受けることが出来たのだ。彼らは、ス-パーエリートだ。
 当時の学部には「工学部」は無かった。しかし、理学士の箇所に機械と土木の学科があったと記憶する。文学部にも「理財と政治学科」があった。(見まちがえたかな??。)
 理学部に舎密(科学)、物理、文学部に英文、国文の学科は無かったような・・・・。

 以前の展示では、職員名簿があったと思うが、今回は無かった。それとも名簿は、津和野での展示だったかな?。
 → あとで、過去のブログの記事を読むと、「津和野」での展示であった。
  なお、全学部がそろった卒業式はこの明治14年のときが初めてだったそうだ。

 「その後陸軍軍医に採用されて、その辞令などが展示してありました。辞令は複製品で原本は国立公文書館蔵とありました。」 
 →同じく展示があった。

 「そしてドイツ留学。有名なエピソードですが帰国直後、女性が追いかけてきて来日、一か月あまりの後ドイツに返し、その後ほどなくして結婚しています。」
  →ドイツからやって来た女のことは、展示にはあまり無かったような。展示を無くしたか、元々展示が無かったかな・・・?。

 「(結婚は)西周の仲介でした。早く結婚させてしまおうという親族の意志があったことがわかります。しかし、長男於兎氏が誕生してすぐに離婚してしまいます。」
 → 結婚願い「申進」の複製がある。 現物は、防衛省防衛研究所図書館の所蔵。旧軍の公文書は、現在防衛省が保管しているらしい・・・・・。願には「 海軍中将 従×位 勲×等 男爵 赤松則良 長女 登志子 」とあり、「陸軍一等軍医 森林太郎」、宛先は「陸軍大臣? 伯爵 大山厳殿」となっている。
  「 問題無く 仰付候」と添え書きをしているのは、当時の陸軍省医務局長 橋本綱常だ。願には、林太郎の住所や族籍は書いてない。本籍は、東京であった筈だ。よく鴎外は「島根県士族」と間違えられるが、すでに学生のとき(かそれ以前に)に本籍は東京に移していたのだ。
  妻は明治4年×月×日生、満17歳×ヶ月。」若いな~。現在の高校二年生が、三年生に相当する年だ。いいな~、というのは冗談(笑)。しかし「すぐ離婚した。」と展示の説明にある・・・・・・。
 日清戦争で会った、正岡子規の写真も展示があった。子規とは「俳諧について論じた」と説明にあった。

 「小倉転任・・・(展示によると)鴎外自身は「左遷」と考えていたそうです。 しかし、軍にあっては転任はつきもの。とくに左遷というわけでは無いと思いますが、察するに鴎外は「東京勤務」であり続けることが軍界での栄達と考えていたのではないでしょうか。鴎外の強いこだわり(の性格)をかいま見ることができます。オレは帝大(鴎外が卒業した当時は「東京大学」で、日本で一か所だけ。)出だというエリート意識が相当強かったような・・・。」
 → 赴任前日の写真の展示があった。以前も見た。

 再婚のときにも「結婚願」を出しているが・・・・。
 「軍医監 森林太郎」の名前。附属して「願」に、朱書きで「陸軍将校同相当官 結婚条例」が薄い茶色に変色した紙に手書きで書いてある。漢字は旧字体だが 「・・・婚姻をせんとするときは、将官、同相当官の者に於いては、勅許を仰ぎ・・・・、准士官の者以上については、陸軍大臣の許可を得ることとす。」とある。
 この条例がいつからあったかは、知らないが、(ドイツからやって来た女性)エリス(仮名)との結婚を阻んだのは、この規則だろう。鴎外が陸軍の所属ではなく、当時、大学の教授職や内務省などの文官であったならば、(外国人女性と)結婚できたかも・・・・・。もっとも、大臣の許可の以前に家族(というか、旧民法の戸主)が反対すれば当時は結婚は出来なかったと思うが。

 「(小倉から)東京に戻り、その後日露戦争に出征。」
 → 第二軍の従軍記者であった、田山花袋の写真の展示があった。「文学論について議論をした」と説明があつた。

 ↓ 記念館の敷地内、建物の前。
   木は落葉していて、寒そう・・・・・。実際に寒かったのだが・・・・。
 

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須藤公園 散策 (旧大聖寺藩前田氏屋敷 庭園跡)

 2017年1月10日 
 東京国立博物館を訪れた後、徒歩で千駄木方面に向かった。次の目的地は森鴎外記念館。上野公園から千駄木までは、根津駅よりも徒歩でやや遠い程度だからだ。 
 年初めの「谷根千」(やねせん)散歩である。だんだん、陽が西に傾いてきて、寒いので散歩という気分では無いのだが・・・・(苦笑)。

 地下鉄の千駄木駅を越え、「団子坂下」の交差点信号から団子坂の上の方向に歩く。森鴎外記念館に行く前に寄り道をすることにした。
 「須藤公園」という千駄木にある公園が、かつての大名庭園の跡地なのだそうだ。森鴎外記念館からも程近い。以前、森鴎外記念館に行くため、文京区のウェブサイトなどで調べていたときに知った次第。今回、少しばかり寄ってみることにする。

 千駄木駅の地上出入口付近から坂を上がり、「団子坂上」の信号があるので、北に道をに入る。区立の図書館があり、人が出入りしている。更に先は、台地上の住宅地だ。広いお屋敷もある。マンションも建っている。「須藤公園」への看板は無いが、適当に交差点を曲がって歩く。と、壁に囲まれた大きなお屋敷に「須藤」と表札があった。公園の名前と関係する家なのかな?、と思いつつ歩く。マンションもあり、道路上で親子が数組遊んでいる。車は来ないのかな?、大丈夫かな?、と交通安全を気にしながら通過。すると、少し歩いた道の先に公園の看板があった。
  
 入口には自転車数台が停まっている。公園内では子供達が遊んでいるようだ。
 今いる所からは、公園の上から、下を見下ろすようになっている。「はっ」としたが、先程通ったの千駄木駅の地上出入口付近から、歩道添いに数分歩いて、交差点を曲がれば、すぐに須藤公園の下の入口に着いたのだ。わざわざ、団子坂上から、一旦台地の上に出て、公園に来る必要はなかった・・・・。
 実をいうとてっきり、千駄木の台地の上に公園はあると思っていたが須藤公園は、台地の「崖線」の地形を利用した、高低差のある公園であったのだ・・・・。つまり、台地の上と下に公園の出入口があるのだ。
 「崖線を利用した旧大名庭園の公園」には新江戸川公園がある。実際、崖の上から見ると新江戸川公園に地形や池の配置が酷似している。

 公園内を歩く。というより、崖(がい)の斜面の小みちを下るような感じです。
 せっかく、台地を登ったのに再び下る・・・。

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 ↓ 公園の案内看板。
  児童公園のようになつていて、遊具もある。子供が数名、公園内で遊んでいた。小学生は明日から、また学校だ。私が見た看板には、ここが、かつての大名屋敷の庭園跡であることは書いていなかった。


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 斜面の階段を下る。
 池の上の階段斜面から見た公園内の様子。地下鉄千駄木駅方面にマンションが見える。

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 斜面途中から眺めた、斜面の上の様子。
 公園に近接して、住宅やビルがある。かつては、屋敷地や庭園の一部だったろうが。


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 さらに、公園を散策します。滝があった。「須藤の滝」と名付けられている。
 見上げると、先程入ってきた、入口がある。台地の上は平坦だが、住宅が建ち並んでおり、とても、ここから現在も水が湧いているとは思えない。
 昔は崖から豊富な湧き水があったのでしょう。現在でも湧き水なのか、地下水のくみ上げか、水道水かそれともポンプ循環かは分かりません。
 あとで、文京区のウェブサイトを見ると、午後4時まではポンプで水をくみ上げして、滝水を流しているそうだ。


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 池のほとりまで、下って来ました。日差しは、なくどんよりとしている。
 

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 石畳の道を歩いて池のほとりまでやってきました。池の中の島には、弁財天がある。
 初詣のときに掛けたのだろうか、絵馬がいくつかかかっていた。

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 ↓ 石段を登り、崖の上に戻る。 

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  斜面から別方向。崖上の住宅地。

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 遊具のある中腹の広場とその上に広がる住宅地。


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 さて、「崖の上」の出入り口に戻り、元来た道を歩いて、鴎外記念館に向かった。「須藤邸」の近くの路上では先程の親子が遊んでいた。

 文京区のウェブサイトの説明文は、下のリンクのページからの引用した。

防災・まちづくり・環境>みどり・公園>公園等の案内>区立公園一覧>須藤公園

駒込 六義園、東洋文庫付近散策と「ブロシェット ナミオカ」 (東洋文庫、北側道路の反対側真正面) 食事

  2015年11月1日

  東洋文庫に向かった。駒込駅まで地下鉄でやって来た。
地下鉄で表参道から移動したのだが、永田町駅で南北線に乗り換えをした。駒込駅の地下より、階段、エスカレータを乗り継ぎ?、地上に出た。本郷通りの歩道を徒歩で歩く。途中、住宅地の中、六義園の壁沿いの道を歩いた。六義園の正門は、駒込駅近くの入口とは反対の、むしろ東洋文庫、駒込警察に近い、園の南側にある。

 ↓ 六義園の「正門」。

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 ↓ 六義園の「正門」の先には公園がある。公園の入口の門。子供達が遊んでいる。

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 と、六義園の壁沿いの道を歩いていると、あんぱんまんのキャラクターの置いてある建物に気付いた。
 この会社であんぱんまん関係のキャラクターの管理?、販売?をしているようだ。

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 東洋文庫ミュージアムに向かって、交差点を曲がる。目の前には、駒込警察、日本医師会前を通る道路が視界に入る。警察署に向かって、左手の手前に目指すお店はある。
 
 前回、東洋文庫の初訪問時に行った鶏肉、名古屋コーチンの料理店だ。
 「ブロシェット ナミオカ」(brochette Namioka)。
 実をいうと、フルファベット文字での店名表記のため、最初に来たときは、お店の名前が分からなかった・・・・。

 ↓ お店の入口。「名古屋コーチン」と木の看板がかかっている。

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 店頭には、メニューが置いてある。店にやって来たのは、12時50分頃。12時前に、表参道の新潟アンテナショップで食べ物を買い、軽く食べた。さて、ここで本格的にランチとしよう。
 このお店は6月に初めて来た。あれから、半年も経っていないうちの再訪となった。妻は、この店を気に入ったそうで、妻のリクエストで再びやって来た。

 店の外にメニューが置いてある。 ↓

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 店の中に入る。幸い、待っている人はいなかった。前回と同じ席に案内された。一番奥の壁側、窓から二列目のテーブルだ。「やきとり定食B」のセットを注文。女性など、少ない量の定食を食べたいときは、。「やきとり定食A」を注文することになるだろう。
 「B定食」は、卵ごはんとヤキトリ三本、つくね二個 大根おろしが付く。赤だしもある。
 「卵かけごはん」をウチの妻は大変に嫌うのだが、このお店の卵かけごはんは、良いと気に入ったそうだ。卵が新鮮なので臭みが無いそうだ。ウチの妻は非常に「臭い」にこだわりが強い。気にくわないとすぐに「臭い」の一言で片づけようとする・・・・。

 ヤキトリに肉は、結構コクがあるというか、なんと表現してよいか、胃に残る味というか、肉質だ。
ごはんの大もりは50円プラス。追加は100円だ。店内は満席だったが、午後の1時15分になると急にすいた。
お店には、12:50-13:30までいた。注文をしてから、料理が出てくるのに比較的時間がかかる。炭火で鶏肉を焼いているためだろうか。


 ↓ 私が注文した「B定食」。ごはんは大盛りで名古屋コーチンの卵かけごはん。
  特筆すべきは、トッピンクだ。「ゆず胡椒」があることに注目。私は「ゆず胡椒オトコ」と呼ばれるくらいの(笑)、「ゆず胡椒」好きであるので、これは欠かせない。
 「ゆず胡椒あるところにに我あり。」だ(笑)。


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 横断歩道を渡り、道路の反対側から撮影。

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 妻と子は、先に東洋文庫ミュージアムへ行ってもらう。私は、会計をして、遅れて向かった。館内に入ると、すでにミュージアム1階では「製本の実演」が始まっていた・・・。

 ↓ 製本の実演会場から見た中庭と「小岩井のレストラン」。


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 東洋文庫の後は、駒込駅ではなく、警察署、日本医師会会館の前を通り、小石川の中高一貫校の前を通って、都営地下鉄の千石駅に歩いた。再び、地下鉄に乗り、神保町まで移動した。


 

印刷博物館 「ヴァチカン教皇庁図書館展 Ⅱ」 見学

 7月12日 印刷博物館、英文表記は「Printing Musium,Tokyo 」で開催の「ヴァチカン教皇庁図書館展 Ⅱ」 。
 最初は「Ⅱ」の意味が分からなかったのですが、 ヴァチカン教皇庁図書館展は二回目の開催とのことです。しかも一回目の開催は15年くらい前のこと・・・・。知りません・・・・・。当時の私のナニをしていたのかな?(笑)。

 「ルネサンス」に非常に惹かれるワタクシなので(笑)、訪問は必須でした。しかし、この日が最終日です。4月の下旬から開催されていたのにあまりに遅い訪問です・・・・。

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 屋外のモニュメント。

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Printing Musium,Tokyo 印刷博物館訪問記

 7月12日 飯田橋駅で電車を降りて、徒歩で印刷博物館にやってきました。英文表記は「Printing Musium,Tokyo 」。
 だんだんと太陽が西に傾いて来ました。日没時刻が一年で一番遅いこの時期、ジリジリと強い西日が照りつけます。汗だくとまではいきませんが、暑い、暑いです。飯田橋からは10分くらいは歩いたでしょう。意外と遠いです。
 と首都高の高架の向こう側にきれいなビルが見えてきました。トッパン印刷の本社ビルです。その下層部分が印刷博物館となっています。
 
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 博物館入口のモニュメント。オフィス棟と博物館とホール(劇場)もあります。ホールでは何かのイベントが終わったようで、観客が出てきていました。そういえば、音楽コンサートで『トッパンホール』で開催と告知されていることもあります。音楽愛好者にとってはおなじみのホールです。
 
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 飯田橋駅から歩くと、神田川を渡った『橋の向こう側』にトッパン印刷のビル、印刷博物館があります。神田川の水は緑色に澱んでいます。首都高を通るクルマのオトが響いてきます。コンクリート護岸の無機質な川沿いの光景・・・・。ビル、マンション建ち並んでいます。

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 この付近は、祖父の生家から徒歩で10分もかからない地域。祖父が少年時代を送ったのは大正時代、関東大震災の前後の時期です。恐らくこの神田川の付近は祖父の遊び場のひとつであったことは間違いありません。当時と現代では全くその風景が違うでしょう。ただし、コンクリート化された風景は年老いた晩年の祖父も知っていた訳で、祖父にとっては別世界、隔世の感じがしたでありましょう。

駒込 東洋文庫 見学終了後 鶯谷、上野 国立博物館へ移動

  2015年6月6日

 東洋文庫で開催された「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会(トークショー)が終了しました。すでに16時を過ぎていました。実は私は気が気でなかったのです(笑)。16時までには終わり、国立博物館「鳥獣戯画展」のため上野に移動する予定だったからです。
 移動に30分かかるとして、16時30分までには国立博物館に入場。約一時間半で常設展と特別展の「鳥獣戯画以外」の展示を見て、鳥獣戯画の「行列」に並ぶつもりだったからです。

 東洋文庫を出て、駒込駅方向に向かいます。
 東洋文庫近くの道路からは、六義園の壁(塀)を見ることができます。この一帯は現在巣鴨に残るスポーツクラブも含めて岩崎家の「三菱村」だったようです。駅に向かう途中六義園の門の前での説明などによると、一時期は岩崎家の所有だったそうです。

 ↓ 敷地内から見た東洋文庫のビル。
  壁の内側はミュージアムからも見えた芝生の庭です。
  建物の向かって左の部分にあるガラス窓の内側がミュージアムのスペースですね。

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 駅に向かう交差点の途中、信号待ちをしていると先のトークショーで質問をしていた背の高い「探検部の学生」がいました。待っている間、ツバをペッと植え込みの中に吐いて、信号が青に変わると早足で私達とは別の方向に去っていきました。探検に行っても彼らは同じことをしているのでしょうか。アマゾンなど探検先でも。ただ、未知の世界に行けばよい、好奇心を満たせばよいというものではないと思います。探検とは・・・・。少し残念な学生の姿でした・・・・・。
 
 駒込駅までは歩いて10分とかかりませんでした。山手線に乗って鶯谷駅で下車します。この間に「行列待ちの時間」をスマホでチェックしたのは既述のとおりです(笑)。
 鶯谷駅から坂を登り、谷中の墓地のかたわらを通ると博物館の広大な敷地の裏に出ました。博物館の敷地と平行して寛永寺の塔頭と思われる「××院」という表札のかかった寺が並んでいます。
 雨も降ってきました。10分近く歩いて博物館の門に着きました。博物館敷地の裏から表に回る程度の距離だと思っていましたが、思ったよりもかかりました。
 ↓ 敷地の横を歩いて正門へ。路駐が多いです。
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「谷根千(プチ)散歩」 森鴎外記念館→駒込へ 

  2015年6月6日

 文京区区立森鴎外記念館を出ました。次に駒込の東洋文庫に向かいます。
 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」のタイトルでもわかるようにこの付近を「やねせん」というそうです。かつて文学者が数多く住んだこの地域。私も特別展のタイトルにちなんで散歩しながら移動します(笑)。
 ただし、厳密には駒込の東洋文庫に到達することが目的であり「谷根千 散歩」ではないので「プチ」をタイトルの途中に付けています(笑)。
 
 森鴎外記念館のウェブサイトによると軍医時代の鴎外は通勤でここ千駄木の自宅を出て白山から電車(当時の市電)に乗ったとあります。
 写真に残っている通り、馬丁を従えて馬で通勤していたのでは無いのですね。昔は馬でのちに電車で通勤していたのか、たまに馬で通勤していたのか、その辺は分かりません。
 白山から電車ということは現在の都営地下鉄三田線のルートに近いのでしょうか?。
 通勤先は陸軍省時代は三宅坂であったでしょうから、白山から水道橋に出て、現在の大手町から皇居(当時は「宮城」)お堀の近くを通り、霞が関か三宅坂で電車を降りていたのでしょうか。
 第一師団軍医部長時代は更に先の青山、今の乃木坂付近まで通っていたことになります。当時の通勤ルートとしてはかなり時間がかかったと思います。
 小倉転任前は近衛師団軍医部長だったと年賦にありましたから、今の東京国立近代美術館の工芸館(鴎外勤務当時とは建物自体は建て替えされているので場所も変わっているかもしれませんが。)、つまり竹橋、北の丸。千駄木からは一番近いはずです。
 軍医学校勤務のときは、おそらく戸山でしょうから、どのように通勤したのでしょうか?。現在では外堀から市谷を通り・・・といった経路で行くのですが・・・。
 
 ↓ 記念館前から鴎外の通勤経路方向の道路「大観音通り」です。
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 ↓ 「大観音通り」を記念館から少し進んだところ。マンション、商店、ビルなどが建ちならび
   鴎外が暮らしていた当時の面影は全くといってよいほどありませんね。

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 ↓ 「大観音通」を過ぎ駒込方向へ歩きます。6月の梅雨入り直前の太陽が照りつけて蒸し暑いです。
   この道路の下には南北線が走っています。
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 駒込に向かう途中にはお寺が何軒かありました。広い敷地を持つ寺院もあります。現在は都市化が進んでかなり縮小していると思いますが、昔の寺の敷地は相当に広かったと思われます。門構えも立派です。
 ここは高燥な、江戸の後背地にあたる台地です。つい数十年前までは畑や民家、お屋敷、寺院などが混在している地域だったと思います。現在でも表の通りから少し脇道に入ると広いお屋敷やまだのこっている畑などを見ることができます。
 ↓ お江戸の昔から、市民はこのような寺院に葬られていたのでしょうか。
 
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 30分以上かかってようやく東洋文庫に着きました。暑かった・・・・。途中から都営バスに乗るべきでした。



森鴎外記念館  「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」など見学記(最終)

  2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館。
 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」を見た後、もう一つの展示室に廊下を通って移動します。展示室2も、ほぼ常設展示で特別展に関連すると思われる幸田露伴の子孫の資料の展示もありました。
 廊下の壁には鴎外の一族と子孫の系図が掲示してありました。子孫の方々も医者に学者に作家にとエリート揃い。現代の華麗なる一族を形成しているといって過言ではないでしょう。

 展示室2では鴎外の子供達に関する資料も展示がありました。
 子供達は・・・・・というと、再婚した妻しげとの娘(長女 茉莉)はなんと17歳で嫁に出しています。娘を溺愛したと知られる鴎外ですが、17歳で嫁に出すとは、やはり「家長」としての意識も強かったのでしょうか?。生まれた孫は「爵」(ジャック。厳密には漢字は旧字体で違うようですが。)
 鴎外死去当時、茉莉は洋行途中で異母兄の於兎も同行して洋行していたと説明にあります。つまり死去当時は長男は不在だったわけで。葬儀当時の写真を見ると、まだ小学生くらいの年齢だった三男(次男は夭折)の類が喪主となっています。相当な会葬者があったはずで10歳とそこそこだった類にとっては大任だったのではないでしょうか。

 現在、鴎外は「元祖・キラキラネームの名付け親」とも言われています。現代社会に生きる子を持つ親として、命名には私も多少の関心もあります(笑)。
 当時、鴎外が子供や孫につけた名前が現代でいう「キラキラネーム」に当たるかは議論の余地があります。ただちに「キラキラネーム」ということはできないと思いますが・・・・。ただし、ヨーロッパ風の当時としはてはかなり変わったというか斬新というべきなのか、そういう名前ではあります。外国人の名前を漢字で当て字をするところに多少の無理もあるような気がしますが・・・・・。
 長男にオットー、次男(夭折)にフリッツ、三男にルイ(類)。娘のマリー、アンヌ(杏奴)は現在でも女子の名前としてはある命名なのでそれほど違和感はありません。
 外孫にも「ジャック」などなど。ドイツ系とフランス系の名前を交互に付けています。自分が留学したドイツを第一にしつつフランス語の命名をしている点はフランス、パリにも思い出があったからなのでしょうか?。

 館内に記念館の広報誌がありました。読んでみると、この前の企画展示は三男の類に関する資料展示であったそうです。類に関する展示資料や広報誌の(類に関する)記事を読んでみると、類は父鴎外と異なり勉学の道はあまり得意ではなかったようです。が、鴎外も当時は小さかった類をかわいがっていたようです。勉強もあまり長続きせず氏自ら「不肖の子」と呼んでいたそうです。画家を目指したようですが、戦後は書店主や作家として生活をしていたようです。
 思い出しましたが昔、類の死亡記事をたまたま読んだことがあります。当時私は少年であり、一応新聞を毎日読んでいました。読むというより、テレビ欄を見ていただけといった方が正しいです(笑)。ただし、テレビ欄の裏の社会面くらいは読むことがありました。私の感覚としては社会面は「テレビ欄の次のページ」といった位置づけですが(笑)。
 社会欄の下の方に「森類(もり るい)氏(森鴎外の三男、作家)。〇日〇時〇分××のため××で死去。〇歳。自宅は千葉県××町・・・。喪主は・・・。著書に「・・・・」などがある。」とあったと記憶します。
 当時なぜ森鴎外を知っていたかというと中学校の「国語の資料集」に載っていたからです。つまり私は当時「中学校以上」でありました(笑)。
 資料集は中学入学時に配布され、三年間使用しました。といより、御多分に漏れず授業ではほとんど教科書のみで資料集は使用しなかったと思いますが・・・・。
 資料集には「二大文豪」としてまず漱石が。次に鴎外の紹介が載っていました。
 当時の私は「鴎外の子が今まで存命であったこと」に驚きました。個人情報保護などはなかったときなので(死亡した人物の)自宅の住所まで掲載されていたので印象に残りました。どうして自宅が千葉のとある町なのか?とも思いましたが、やはり父が文豪だと子の職業も作家なのだな、と(当時の私は)思いました。ただし代表的な著書が父、鴎外関するタイトルだったので父親のことを主に書いていた作家だったのかな、とも思いました。

 話は戻りますが、木下杢太郎も展示や広報誌の記事に出てきます。鴎外と年齢は親子ほど違いますが、医師で文学者という点で鴎外と共通しています。鴎外の死後も類の子の名づけ親になるなど世話をしていたようです。
 観潮楼の模型もありました。母屋と離れがあり、母屋は二階建てです。ただ、二階部分はさほど広くありません。鴎外が再婚し、東京に戻った後は母屋に鴎外と妻しげとその子供達が住み、離れは母や長男於兎が住んでいたそうです。継母のしげと於兎との間は良好ではなかったことがうかがえます。

↓ 敷地内の壁にあったアクリルパネル「観潮楼跡」の表示。
  写真では判別しにくいですが門前で撮影した軍服姿の鴎外の写真もあります。
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↓ 敷地内の壁にあった碑。「沙羅の木」と題する「永井荷風」の書。
   建立は昭和29年7月9日、鴎外の命日の日付で長男の於兎。
   「父鴎外森林太郎33回忌にあたり弟妹と計りて供養のためこの碑を建つ。(日付) 嗣 於兎」とありました。

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 関東大震災の前年の鴎外が死去した当時とは、第二次大戦の戦後10年近く経過した建立当時とは、かつての観潮楼周辺の風景は激変していたでしょう。空襲で焼けた後のこの敷地の写真も掲示されていました。本当に焼け野原になっていました・・・・・。大戦争を経て、世の中も随分と変わっていた筈です。
 観潮楼の家と土地は、後に人に貸していたと説明にありました。空襲で焼けたときは他人が住んでいたようです。
 年賦によると長男の於兎は鴎外が満28歳くらいのときの子ですから、(碑の建立時)すでに父の没年を超えて還暦も過ぎていたはずです。「弟妹と計りて・・・」の言葉にも、父の再婚後に生まれた母の違う弟妹達に対する配慮が感じられます。反面「嗣 於兎」には「森家の嗣子」という父、鴎外が持っていた意識を更に受け継ぐという意志表示を感じます。
 偉大な父を持ち、自らも東京帝大医学部を出て大学医学部教授とエリートコースを歩み、実母とは生まれてすぐ生き別れ、その生母も少年の頃に亡くし、母の愛情をあまり感じることができずに育ったでありましょう。老境に入りつつあった当時の嗣子 於兎の心境はいかなるものだったのでしょうか。

(文中の登場人物については敬称略)





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森鴎外記念館 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」など見学記

  2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。
 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」として地下の展示室内で開催されていました。常設展示は室内の壁に沿って「L」字状に配置されていますが、室内中央部と常設展示と反対側の壁側が特別展示になっていました。
 近くには幸田露伴や尾崎紅葉らと鴎外の書簡の展示が個人別にありました。「露伴の交流」、「紅葉との交流」といった具合です。
 正岡子規との書簡もありました。近年放映された「ドラマ 坂の上の雲」で鴎外は少しだけ登場していました。日清戦争のときに戦地で子規会った設定でしたが、実際に交流があったのですね。確か、現在の根岸あたりに子規は住んでいたと記憶します。ここ千駄木からも近いです。
 漱石に関する展示もありました。漱石とも手紙のやり取りをしていました。しかし、展示によると実際に会ったのは四回ほどだそうです。お互い知ってはいるが、いつも交流しているわけではないので、「二大文豪」とはいうものの、二人は深い交友関係ではなかったようです。

 ↓ 記念館の南西方向。正面入り口とは反対側の出口付近から。
   ビルの合間に東京スカイツリーが見えます。奇跡ともいえる角度で一直線に見えます。
   スカイツリーに向けて見通しのきくように「わざと」ビルをよけて建てられているかのようです。
   「観潮楼」といわれるように、記念館の南方向は崖になっていました。高台で眺望がききます。
   高いビルがなかった当時ここから「海が見えた」ということに納得しました。

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ちなみに、写真の右、
崖下に立つのは
区立中学校の建物です。















 ↓ 敷地内の壁に掲示していた観潮楼の図面。

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 そういえば、鴎外の(恐らく)最大の庇護者で陸軍のボスであった山縣有朋はというと、大正11年2月に死亡。鴎外はその半年あまり後に死去。有朋の死で燃え尽きてしまったというのは言い過ぎですが、親子ほども年上の有朋と比べてもあまりに早い鴎外の死でした。
 先の記事では「母の影響が大きかった」と書きましたが、職業生活においては有朋の存在が大きかったと思います。「公にあっては有朋、私にあっては母」。この二人の死亡後ほどなくして亡くなっているのは何かの因縁でしょうか・・・。




森鴎外記念館 見学記続き(常設展 後半)

  2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。
 
 地下展示室にある常設展の見学です。
 退官後・・・帝室博物館総長に就任します。
 洋画家 黒田清輝らと写った会議の様子の写真が展示してありました。上座には鴎外が座っています。
 
 小さいモニター映像に生前の鴎外の姿がありました。短い映像です。(繰り返し、反復して映像が流れています。)
 当時、皇太子であった昭和天皇が欧州視察旅行を終えて横浜港帰着時の、お出迎えのときの映像でした。大正10年の秋の映像です。つまり鴎外死去の前年のことです。数多くの官吏がお出迎えをしたことがわかります。お出迎えを終わり?、別の場所に徒歩で歩くときの映像のようです。お出迎えを終えた官吏と思われる大勢の人々が歩いて移動しています。背の高い軍服を来た人物が2人で歩いている様子も映っていました。鴎外は映像画面の手前のほうに、ほんの「おまけ」のように映り込んだようでした。
 映像中の鴎外は、フロックコート姿です。現在私達の見る鴎外の公的な写真は軍服ですが、このときは、予備役陸軍軍医総監ではなく、文官、つまり(宮内省管轄の)帝室博物館総長兼図書頭としてお出迎えに参集したのでしょう。
 映像で見る限り、着用しているフロックコートなどと比較して推測すると鴎外の身長は160センチ前後ではないでしょうか。現代の感覚でいうと小柄です。歩く鴎外の姿は右半身を傾けて引きずるように歩き、どこか苦しそうです。健康ではなかったことが推測されます。どちらかというと、「右に体が開いている」のが彼の身体的特徴のように思われました。
 モノクロ画像で(判別は困難で)すが、やや禿頭である彼の顔色は、あまりよくないです。映像で見る限り黒ずんだような顔色・・・・。眼力にも覇気がありません。精力を使い果たしてしまっているかのような姿です。
 実際のところ、実にスタイリユッシュな生涯を送った彼は、死去前年当時では相当に精力を使(い切)っていたとと思います(笑)。
 右足をかばうようではなく、右半身を傾けるように歩く・・・・足腰が悪いのではなく、結核のためすでに呼吸器系や内臓が悪かったのではないでしょうか。内臓といっても胃腸系や心臓系ではなく、肝臓か、確かに(当時の公式発表のように)腎臓が悪いのではないかと思わせるような姿でした。このとき彼は満59歳のはず。現代の感覚でいうと、とても還暦前とは思えない・・・・・・。もっと年齢が上に見えます。

 死去前は6月に初めて医者にかかったと(説明板に)あります。死去当時は腎の病気(萎縮)と発表されたはずですが、今日では結核であったと知られています。受診から死去まで一か月もないくらい・・・・。が、元々この年は体調が悪かったと(説明に)あります。医者でもある彼は自分が結核であることを知っていたのでしょう。
ようやく受診した医者は賀古鶴所の親族(賀古の姪の夫 額田医師)とありました。結核であることが発覚することを憚り、それまで受診をしなかったそうです。かなり、意地を通しています・・・・。

 7月に入り有名な遺書を口述筆記させ、7月9日に死去。61歳。満でいうと60歳。決して長くはない生涯でした。
 死去時の写真やデスマスクの展示がありました。
 墓碑は「中村不折」が揮毫しています。遺言の内容の展示もあり、その中で揮毫を指名していました。「中村不折」の名は漱石の年賦でも登場しますし、「碌山美術館」の彫刻家 荻原守衛の年賦でも登場していました。

 返り見ると、鴎外の人生で「母」の存在は非常に大きかったと思います。館内掲示の年賦によると父、静男は明治29年かに死去。母は、なんと大正に入って、鴎外死去の数年前に70歳台で死去。生まれてから、軍を退官するくらいまで、彼は母と生涯を歩んだことになります。母は「家付の娘」ですから、ことさら森の家内を仕切っていたのではないでしょうか?。
 鴎外の祖母も長命です。館内には父、母、弟、祖母も写った一族の写真も掲示されていました。この祖母の娘が鴎外の母。森家は「女が強かった」ことになります(笑)。


 ↓ 観潮楼の跡地の敷地内の庭。かつての鴎外邸の庭の跡地ですね。
   庭園の中は立入禁止です。初夏のためか草の丈がかなり伸びていました。
   かつての鴎外邸の正門は写真奥の扉の付近だったようです。

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 ↓ 観潮楼の跡地の敷地内の庭を反対側から、表通り方向と記念館の建物。
   隣のビルとも接近しています。

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森鴎外記念館 見学記続き(常設展 前半)

  2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。
 「森鴎外」本名、森林太郎。医師でありながら文学者。そして陸軍軍医官しても軍医総監の階級に昇り、栄達を極めた人物。

 展示室は地下にあります。階段を下ります。先にも書きましたが、コンクリート製の要塞に吸い込まれるかのようです。
 地下の展示室の脇に休憩室があり、地上から陽光を取り入れる造りになっています。
 「要塞」の底から上を見上げているような。やっぱり圧迫感を感じてしまいます。土地が限られているせいでもありますが(笑)。

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 ここ森鴎外記念館は、鴎外の旧居、観潮楼の跡地に建設されたとあります。鴎外が30歳から60歳で死去するまでここに住んだと説明にありました。

 旧居には地下室は無かったと思いますが現在の記念館の建物は旧居の地下を随分と堀り下げています。現代建築の手法からすると、暗くなりがちな地下のフロアにも「陽光を採りいれた」斬新的な設計といったところでしょうか。

 展示室は、鴎外の誕生から解説しています。
 順番を追って見ていきます。
 壁沿いに設置されたガラスケースの展示品や説明パネルを見ます。10歳の頃の「かむろ姿」の鴎外の写真もありました。まだかわいい子供でまるで女の子のような姿です。それが数十年もするとやや禿頭で髭を生やしたいかめしい顔つきのおっちゃんになってしまうのですから、老いというのはリアルというか、ちょっと怖いですね(笑)。誰でも平等に老いは来るのですが・・・・。

 鴎外が10歳で上京したことはよく知られています。一家で上京したコースをパネルで図示してありました。それによると、津和野を発ち現在の山口県にある三田尻付近に逗留しています。『三田尻』とは幕末の歴史の地名でよく聞ききます。現在では防府市周辺です。ここは、林太郎の父、静男の実家のある所で数日滞在したと説明にありました。静男が森家の養子であったことは、よく知られていますが、長州出身(正確には周防国だが。だから現在は防府市。)とは知りませんでした。
 父はいわゆる長州藩、萩毛利氏の領地内の出身だったのでした。林太郎がのちに出世した理由のひとつが分かりました。(独断ですが。・・・・。)
 「なるほど林太郎は(長州のすぐ隣の小藩)津和野の出であるが、父の出身は長州であるから『準長州閥』として扱われたのかな。」と感じました。長州出身の元勲や高官は必ずしも萩に武家屋敷を構えていた武士の家の出身ではなく、農民階級や萩以外の領内に住まう足軽や郷士身分(毛利家中に郷士身分があったかは分かりませんが。)、長府や徳山などの支藩出身の武士、その領民であった人も少なからずいたはずです。といいますか、長州出身で最も有名な伊藤博文自身、武士の家の出ではなく、山縣有朋もそれほど高くない身分の生まれだったはずです。
 山陽の交通の要衝『三田尻』が父の出身地であるとは、長州出の高官と地縁、血縁の繋がりでコネクションを取りやすかったでしょう。「薩長の天下」であった明治時代の郷党意識は現代と比べると相当なものであったはずです。こと陸軍のボス「山縣有朋」のヒキを得るうえでは大きなアドバンテージであったはずです。「長州閥」(と認定された)ならば「本流」を歩くことができます。

 さて、森家は「一家をあげて」上京したことがわかりました。ただし、このときの上京は父と鴎外達が先発し、母と妹達はあとから東京にやって来たようです。父の実家に滞在後、ほど近い三田尻の港から船に乗り瀬戸内海を横断、東京に向かっています。東京の旧藩主亀井家の屋敷に入っています。その後は千住に住んでいます。当時では東京といっても千住はかなり郊外だったのではないでしょうか。父、静男は千住で医院を開業したとあります。
 のちに津和野の自宅は売却しているので、何も残さず相当の覚悟をもって(旧主 亀井家にお仕えするという理由もあったでしょうけど)一族で上京をしたようです。

 大学卒業・・・よく知られるように「8番」で卒業のため大学に残る道は絶たれたそうです。
  当初は就職せず千住の父の医院を手伝っていたと説明あります。東京大学の医学部を卒業したのに、いわば「ニート」とはいかずとも「家事手伝い」だったのでしょうか?。
 その後陸軍軍医に採用されて、その辞令などが展示してありました。辞令は複製品で原本は国立公文書館蔵とありました。 

 そしてドイツ留学。有名なエピソードですが帰国直後、女性が追いかけてきて来日、一か月あまりの後ドイツに返し、その後ほどなくして結婚しています。西周の仲介でした。早く結婚させてしまおうという親族の意志があったことがわかります。しかし、長男於兎氏が誕生してすぐに離婚してしまいます。
 以前(といってもずっと昔、学生の頃に読んだ鴎外の伝記だったかも)読んだ書籍では離婚の件で西周とは絶縁(状態)になったと記載してあったと記憶します。一族の出世頭、西周を「切る」とは相当な覚悟が必要だったはずです・・・・。

小倉転任・・・(展示によると)鴎外自身は「左遷」と考えていたそうです。
 しかし、軍にあっては転任はつきもの。とくに左遷というわけでは無いと思いますが、察するに鴎外は「東京勤務」であり続けることが軍界での栄達と考えていたのではないでしょうか。鴎外の強いこだわり(の性格)をかいま見ることができます。オレは帝大出だというエリート意識が相当強かったような・・・。

再婚・・・小倉での新婚生活。
 18歳年下の「美人」といわれた若い細君、荒木しげを自慢する「ノロケの手紙」の複製?が展示してありました。
 が、前妻が(結核で)死亡してから再婚しているのでそれなりに配慮しているようです。再婚は西周の死後でもありました。
 が相当に「面喰い」だったのですね(笑)。

 やがて東京に戻り、日露戦争に出征。
 戦後、ついに軍医総監、陸軍省医務局長に。
 常盤会の歌会の写真の展示がありました。陸軍のボス「山縣有朋」や賀古鶴所が写っていたと思います。柳田国男の兄、井上通泰も写っていました。当時の人脈が分かります。
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文京区立森鴎外記念館 見学記

  2015年6月6日

 6月の土曜日のこと。文京区千駄木の森鴎外記念館にやってきました。
 アクセスは、地下鉄千駄木駅を降り、地上に上がります。地上に出て歩道を少し歩き、交差点を曲がり坂を登ります。沿道にはビルやマンションが林立していますが、その合間には老舗と思われるお店もあります。坂は、団子坂というようです。なぜ団子の坂なのかは理解をしていません・・・。ともかく坂道を登ります。
 
 ↓ 坂(団子坂)の途中から下(千駄木方向)を見る。  

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 坂といっても、すごい急坂というわけではありません。坂を登ると平坦な道になります。急に視界が開けます、といいたいところですが、道の両側にはマンションやビルが多いので見通しはいいとはいえません。

 「森鴎外」本名、森林太郎。おそらく彼は近代日本における最高の天才、秀才の一人でしょう。医師でありながら、文学者。そして陸軍軍医官としても軍医総監の階級に昇り、栄達を極めた人物。
 近代・現代社会で「二足のわらじをはく」人物のはしりともいうべきお方。鴎外については、その作品のみならず第三者による評伝など様々な書籍が発刊されていますし、テレビなどマスコミでも取り上げられることがあり、その生涯は比較的知られています。が、彼は一体どのような人物だったのか?、私は改めてこの「多才の天才」の生涯と事績について知るべくやってきました。
 (ホントはもっと早く少年の頃に知っておくべきだったのでしょうけどね・・・。)

 ↓ 坂を登り切ってすぐのところに「森鴎外記念館」はありました。

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 コンクリートの要塞のような建物。なぜこのような無機質な外観になってのかは分かりません。デザインとしては斬新な近代建築とったところなので、公募か何かでコンペしたのでしょうか?。
 悪いですが、この建物が「鴎外の記念館」とは連想がつきにくいです。
 
 訪問したときは、企画展として「谷根千 寄り道文学散歩」が開催されていました。
 鴎外記念館は開館して3年くらいです。よってまだ建物は新しい。以前は同じ場所に鴎外記念図書館、図書館鴎外記念室があったようですが、記念館として建物を新築し、リニューアルオープンしたようです。

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 道沿いのエントランスは駐車できるようにも見えますが、「駐車禁止」です。記念館には駐車場はありません。
 下の写真は登ってきた団子坂の方向です。入口も見えます。

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 入館料を支払います。館内は撮影禁止。建物入口に鴎外の胸像がありますが、これも撮影禁止でした。
 大人は500円。特別展開催期間中の料金のようです。あとで知ったのですが、文京区内の博物館、資料館などの公共施設と「相互割引き制度」があり、半券を提示すれば入館料が割引になる制度です。
 対象には「東洋文庫ミュージアム」もあったので、ここ森鴎外記念館を見た後に見学した「東洋文庫ミュージアム」の入館料900円が実は割引きになったのです・・・・。今となっては仕方ないですね(笑)。
  
 展示室は地下にあるそうで、いきなり階段を地下に降ります。潜っていくような感覚です(笑)。
 
 下の写真は記念館の入口の自動ドア。
  人が写っていないのでドアの高さが分かりにくいですが、巨大に感じます。
  高さ三メートルはあるような感じです。
 
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 あたかも、コンクリート製の要塞に吸い込まれるかのようです。ドアがガラス製でなく、館の内部が全く見えない。道路沿いの外観を撮影した写真を見てもわかりますが、建物の壁窓にもが無いので圧迫感、威圧感があり、一層「要塞感」をかもし出しています。
 ドアの高さは隣に置かれた「自転車」の大きなから逆算してください(笑)。




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