良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

東京都心部の記念館・資料館

 

「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」森鴎外記念館 見学4(終章) と「谷根千」散歩

  2017年1月9日

 この日は、年が明けて間もない冬の一日。東京国立博物館を見てから、徒歩で千駄木まで移動した。
 今、マスコミでもとり上げられている「谷根千」(やねせん)散歩である。この時期は寒いけどね(笑)。

 上野桜木から、北に歩く。谷中を通る。住宅やマンション、雑居ビルの合間には寺院の門が見える。進行方向右手には、谷中の墓地の高い壁がある。老舗と思われるお店もあるが、休日なのかお休みのところもある。
 谷中から更に、台地に沿って歩くと日暮里方向、朝倉彫塑館などがある方向だ。桜並木も見えるが、冬のこと。すっかり落葉していて、枯木が立ち並んでいるのみ。が、春4月ともなれば満開の桜で美しく彩られるのでとろう。そんなことを想像しながら、道を歩く。
 千駄木方向に坂を下る。地下鉄千駄木駅は、ちょうど谷の底を通る道路の地下を走っている。駅の近くになと、急に賑やかになり、人どおりが増えた。
 商店などがあり、買い物をしている人がいる。日常の生活の一シーンである。信号の交差点の名称は「団子坂下」。私は、そのまま直進し、団子坂を登る。
 台地の上から須藤公園に少しばかり寄り道し、団子坂上にある文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきたのだった。

 コレクション展「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」を見学した。
 さて、展示の末尾に協力者、団体の名前の掲載がある。筆頭に「賀古〇次」と女性の名前が。鶴所には、子はいなかったようだ(展示では特に書いていなかったが。)。よって、名前が出ている賀古氏は弟「桃次」の子孫のようだ。 
 桃次は、井上通泰と親しかったというから、和歌をたしなんだのだろう。恐らく医師でもあったろう。井上も医師であったので。

 一通り展示を見たので、階段を昇り、一階に行く。この階段が長いのだ。地下奥深くに地下室を掘っている・・・・。
 一階に戻ると事務室から二名くらい黒服の女が出てきた。すでにいた、同じ黒服の係員女性とともに走って作業している。皆、50歳前後くらいのの女性である。(本日最後の入館者)私が帰るので、閉館準備を開始したのだろう。 地下一階には看視の女性が一人いて、展示室の入口に立っていた。時折、室内を巡回していた。その立ち位置は企画展示室も廊下ごしに直接看視できる位置だ・・・・。ずっと、企画展示室内にいる私の帰りを待っているようだ・・・。展示を見た後は、映像室は見なかった。看視女性係員から「早く帰れオーラ」が出ていたので(笑)。
 外に出ると、すでに真っ暗だった。閉館時刻間際の慌ただしい見学となった。
 ただし、日没時刻はだんだんと遅くなって来ている。「冬来れば春遠からじ」かな。

 森鴎外記念館の入館前に撮影。 ↓
 「団子坂上」の信号付近から、「団子坂下」方向の「大観音通り。

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 森鴎外記念館を出た後、
 ↓ 団子坂下、地下鉄千駄木駅の地上出口付近の通り。どこにでもある、都会のとある街並みだ。
 かつての風情は写真で見る限りはあまり無い。
 
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 千駄木駅から地下鉄に乗り、帰宅した。


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「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」 森鴎外記念館コレクション展 見学3

  2017年1月9日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」の見学です。
 まずは、地下展示室にある常設展を見てから、企画展示室へ行った。

  ↓ 企画展のチラシ。

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 続いて展示を見ていく。室内は私だけになってしまった。入館締切時刻の17時半を過ぎても、あとから人はやってこなかったので、この日の入館者は私が最後ということになる。

 鶴所は、神田の小川町に自分の耳科医院を開設している。場所は小川町の51番地だ。50番地が家で隣に医院があったそう。当時の錦絵にも掲載されている。 絵を見ると、現在の靖国通りらしき通りの両側に、木造、瓦屋根で二階建てくらいの高さの家が並んでいる。現在の鉄筋コンクリのビルがひしめく風景とは隔世の感がある。
 鶴所は、医術開業試験を受けたのか?。その受験願か「医院の開業願」に、鶴所は「安政3年×月×日生」と書いている。鶴所は、実は安政2年生まれとの説があったが、この資料で生年月日が判明したそうだ。現在のような医師免許の制度ではなく、開業には別の開業試験があったのだろうか?。それとも、大学卒業者は「願」のみで開業できたのかは、分からない。

 「島」状に設置されている室内真ん中の展示ガラスケースの中には、賀古がモデルとなっている「ヰタ セクスアリス」の本がある。鶴所は、登場人物「古賀」のモデルとある。よく言われるように「賀古」と「古賀」で「そのまんま」だ(笑)。

 鶴所は、自分の医院(耳科院)を開いて、軍医として勤務していた。「二足のわらじ」というか、開業しながら軍務に服していたとは、随分とおおらかな制度??だ。
 日清戦争後に第五師団軍医部長に任ぜられたので、東京を離れることをきらい、年賦によると休職になっている。その後、明治34年に予備役になっている。鶴所は「鴎外よりも一足先に軍を退いた。」そうだ。
 日露戦争では召集され、一等軍医に昇進、最初は第二軍兵たん軍医部長、次いで遼東守備軍軍医部長に。
 従軍中の写真の展示があるが、写真には「賀古軍医部長」との文字が入っている。撮影した人が、賀古部長に名前入りで渡したのだろう。また、レンガ壁の建物の前で、イスの傍らに軍刀を持って立つ姿の写真もあった。
満州のどこかで撮影した写真であろう。
 日露戦後、明治39年の大学の同窓会の写真もある。同窓会の参加者のサインが書いてある。小池のサインもある。この同窓会に「賀古は欠席したようだ」とある。欠席した人に出席者がサインをして、後日送ったものだな。
 続いて鶴所が50歳のときの写真の展示がある。それなりに歳をとっているが、丸顔でおだやかな容貌、人ぶりだ。
 明治43年にも新聞の記事で「森鴎外という男」という記事が掲載されたり、生前、軍務の現役の頃から鴎外の作家としての、その人となりは報道されていたのだ。
 「常磐会」の写真もある。政府と軍の最高実力者 山縣有朋の歌会というのだろうか。元々、鶴所が参加していて鴎外はあとで鶴所から誘われて参加したのだったかな???。メンバーには井上通泰もいた。今回の展示によると、元々は鶴所の弟と井上が親しかったそうだ。井上の弟は、いうまでもない、柳田國男である。

  鶴所の妻が大正6年に亡くなったとき、友人総代は鴎外。事前に総代となることの依頼を手紙でしていた。そして新聞に死亡公告を出している。鶴所や親族の名前に続いて「友人総代」として森林太郎の名前があった。

 千葉にあった別荘、鶴荘と鴎荘の変額の写真の展示もある。鴎外の「鴎荘」の額は、現存しないとのこと。千葉の現在のいすみ市に300坪の土地を鴎外が先に買い、のちに鶴所が土地を買ったそう。しかし、鴎外はあまり、別荘に来ることはなく、母静子の療養生活用だったそう。「カモメ」と「ツル」がともにお隣で別荘を構えている。
 「鴎外」のペンネームは、親友の鶴所にひっかけて付けたのではないかと感じた。だって「鶴」と「鴎」で共に酉だから。いや「鳥」か?。今年は「酉年」(笑)。

 鶴所のめいの子は「しげる」。「淋」のような文字。「愛姪」の命名を鴎外が依頼されたそう。子がいなかったので、姪を子のように育てていたのだろうか。鶴所の書いた長い巻物の命名を依頼する手紙には、その末尾につけたしで「父 晋、母 カツラ、(めいのこと)。伯父に豊ゆたか、坦ひろし」と書いている。
 「伯父」と書き、恐らく年下の額田家の兄弟も「叔父」とは表記していない。鶴所の兄弟の名も書いてある。鶴所の弟は、桃次で、この姪の父らしい。親族にはこのような人がいるので、名づけのときに参考にしてね、という意味だろう。

 鴎外は「死去の前は6月に初めて医者にかかった。」と以前来たときに展示で見た。ようやく受診した医者は、この命名を依頼した子の父、つまり鶴所の姪カツラの夫、額田晋だったのだった。
 → 鶴所は「(鴎外は)決して診察に同意せず・・・。」と回想に書いていた。
 そして、鴎外の臨終。あの遺書を口述筆記することになるのだ。
 
 鴎外の死後も鶴所は生きた。時代が変わり、昭和5年の写真も、晋やその子しげる(漢字の文字が出ないので、以下ひらがなで表記)も後列に写っている。しげるは、10歳くらいかな。写真は東邦大学額田記念室の所蔵だ。
 小川町の賀古医院は、火災で焼けているのですね。大正時代にも焼け、火事の翌年には復旧と年賦にもあった。二回被災していた。
 そういえば、かつて神田錦町3丁目4番地住が、(鴎外の最初の妻の実家)赤松家だった。
 展示の写真の撮影された翌年、昭和6年「鶴所は急逝した」と説明にあった。

 鴎外の後妻、しげ子とも親しくしていたと資料にある。家族ぐるみで交流があり、子を連れて小川町の鶴所の家を訪れたこともあるそう。
  映像の放映もある。写真、資料の静止画が、数秒ごとにかわる映像(スライドショー)。賀古の写真や資料が上映されている。

 展示の末尾に協力者、団体の名前の掲載がある。筆頭に「賀古〇次」という方の名前が掲載されている。鶴所には、子がいなかったようだ。よって、弟「桃次」の子孫のようだ。 
 一通り展示を見た。
  階段を昇り、一階に行くと事務室から二名くらい黒服の女が出てきた。すでにいた、同じ黒服の係員女性とともに走って作業している。皆、50歳前後くらいのの女性である。(本日最後の入館者)私が帰るので、閉館準備を開始したのだろう。 地下一階には看視の女性が一人いて、展示室の入口に立っていた。時折、室内を巡回していた。その立ち位置は企画展示室も廊下ごしに直接看視できる位置だ・・・・。ずっと、企画展示室内にいる私の帰りを待っているようだ・・・。展示を見た後は、映像室は見なかった。看視女性係員から「早く帰れオーラ」が出ていたので(笑)。
 外に出ると、すでに真っ暗だった。閉館時刻間際の慌ただしい見学となった。

 晩年にいたるまで、鶴所の風貌は、おおらかな性格を感じさせる。いつも、ニコニコしていて穏やかな人だったのかな。なんとなく、おおらかな風貌は中村不折とも似ている。不折は小柄だったが、鶴所は当時としては大柄な方だった。
 

 


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「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」 森鴎外記念館コレクション展 見学2

  2017年1月9日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」の見学です。
 まずは、地下展示室にある常設展を見ていく。

 ※「  」内の文章は、前回の記事の引用です。 

 「小さいモニター映像に生前の鴎外の姿がありました。短い映像です。(繰り返し、反復して映像が流れています。)」
 「当時、皇太子であった昭和天皇が欧州視察旅行を終えて横浜港帰着時の、お出迎えのときの映像でした。大正10年の秋の映像です。つまり鴎外死去の前年のことです。数多くの官吏がお出迎えをしたことがわかります。お出迎えを終わり?、別の場所に徒歩で歩くときの映像のようです。お出迎えを終えた官吏と思われる大勢の人々が歩いて移動しています。背の高い軍服を来た人物が2人で歩いている様子も映っていました。鴎外は映像画面の手前のほうに、ほんの "おまけ" のように映り込んだようでした。
 映像中の鴎外は、フロックコート姿です。現在私達の見る鴎外の公的な写真は軍服ですが、このときは、予備役陸軍軍医総監ではなく、文官、つまり(宮内省管轄の)帝室博物館総長兼図書頭としてお出迎えに参集したのでしょう。」

→ 映像は、前回見た内容と変わっていない。再度見ると前回の記事に書いた<背の高い軍服を着た人物が2人>は、見間違いで、互いに敬礼している軍人がいる。一人で歩いている軍人も見えるが、背は高くない・・・・。よーく見ると、鴎外の奥に背の高い、大礼服姿の人物が歩いている。

 ゴマシオ頭の白髪の人物だ。なんだか、西園寺公望のように見える。鴎外は、フロックコート姿で大礼服ではない・・・。鴎外よりも、もっと高位の文官のようだと推測。
 明治村に移築されている西園寺の別荘「坐魚荘」の玄関内部には、等身大の公望のパネルが置いてあった。身長は「169cm」と説明にあった。
 鴎外は見たところ160センチくらいと推測されるので、映像内の人物はだいたい、その位(公望)の身長だ。10cmくらい鴎外よりも大きい人物だ。よって、奥に映っているのは公望と(勝手に)断定(笑)。

 ガラスケースの端(見学者から向かって展示室の左の端にあたる)に、鴎外の遺言書の展示があり、改めて読んでみる。展示品が原本なのか、複製なのかは分からなかった。
 末尾に「言 森 林太郎  書 賀古鶴所 」とある。今回の企画展の主人公、賀古鶴所が筆記したことが分かる。鴎外は病臥しており、もはや起きて筆記することは出来なかったのである。
 更に下の部分には「男 於兎」とある。遺言の場に長男 於兎がいたような書き方だが、展示での説明にあるように、彼が没する年、大正11年の、春先3月に於兎と長女 茉莉は、欧州留学に出発しており、日本にはいなかった。そのとき、鴎外は港で見送っている。長男は留守だったが、嗣子ということで書きくわえたのだ。
 (あとで、展示リストを見ると遺言書は「複製」と書いてあった。)


 ついで、書簡などの展示を見ていく。前回も、作家、詩人などとやりとりした書簡の展示があった。(露伴などとの)。 今回展示があったのは、与謝野寛、伊藤左千夫、上田敏などからの葉書書簡。宛名面のコピーも展示されていて鴎外の住所は「千駄木団子坂上」で、番地が無くても鴎外の自宅にハガキはちゃんと届いている。
 木下杢太郎からの葉書もある。が、差出人は太田正雄と全く別人の名前。丁寧な文字で書いている。つまり、木下杢太郎はペンネームであった・・・・・・・・・・。 前回の訪問記でも書いたが、木下は、のちに鴎外の三男、類とも密接な関係にあったのだった。

 上田敏に関するミニ企画展示があった。上田とも誌上で論争をしている。が、個人的には親しくしていたそうで、上田は鴎外よりも10歳以上も年下。鴎外に師事?していたそう。大正5年、上田が急死したときも鴎外は、上田の家に駆け付けたそうだ。臨終には間に合わなかったらしい。

 常設展示室を見終えて、次の部屋へ。
 途中の壁に森家の系図がかかっている。前回も見たが、改めて見ると森家のある当主は西暦で1801年に死亡。
 覚馬の父は、森 高亮で1831年に死亡。次男で、西家に養子に行った覚馬の子が、かの「西周」。
 森家は、覚馬の兄が継いだが(または家督相続前に)、死亡した。その年は西暦で1819年のこと?。
 覚馬の兄弟には別の人物もいるが、一人は西家の親族である別の家の養子になっている。別の兄弟である更にその弟が「出奔」している。つまり、西周の叔父が、家を出て行ったことになる。その後、養女として木嶋家の娘がやってきた。この娘の夫が「森白仙」。つまり、林太郎の祖父。木嶋家出身の祖母は、明治39年まで長命であったことは周知の通り。祖父、白仙は西暦1861年11月に近江の土山で客死。その二か月後、1862年1月に林太郎が誕生。
(西暦と旧暦の対比がされていないので「11月」というのが太陽暦なのか太陰暦なのか系図の解説はっきりしない。)
 鴎外の母、峰子(みね)と周が「いとこ」のような「感じ」かな(みねは、養子の子なので西周と血縁は無い)。
 系図を見て、企画展示室へ廊下を歩く。

  ↓ 館の外にあった企画展のポスター。


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  「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」は、順路の先の小さい方の部屋での展示であった。
 「賀古鶴所」は一般には「森鴎外の親友」として知られる人物。それ以外に、彼の人となりや経歴を知るすべはほぼ無い。
 「余は、少年の時より老死に至るまで一切秘密無ク交際シタル友は賀古鶴所君なり。」は非常に有名な遺書の一節だ。「・・・余は石見人 森 林太郎として死せんと欲す。・・・・」
 更に遺書は「墓には森 林太郎の墓以外には、一切刻むべからず。墓の文字は、中村不折に依頼し、・・・宮内省、陸軍からの栄典などは固辞して一切受けるべからず。」と書いてあるのである。

 人生の最期に臨んた鴎外をして、そこまで言わしめた「賀古鶴所」は、いかなる人物であったのか?。

 今回の企画展の期間は長くない。前年の12月上旬から、年末年始を挟んで1月29日(日)までの二か月足らずの会期である。

 賀古鶴所は、写真でみると随分とおおらかな表情の人物である。人懐こい性格を感じる。目がキッとしていて、生真面目そうで、痩身で神経質で細かそうな鴎外とは、顔の表情が随分と違うような・・・・・・。

 まずは、展示室に掲示してある鶴所の略年譜を見る。(展示リストにも掲載されているが)
 鶴所は現在の浜松の出。医師の長男で、鴎外と共通点がある。展示の解説にもあるのだが、年齢は鴎外よりも6歳も上。大学南校?、東京大学で同期になった?ので親しくなった。
 が、鴎外が入学した当時は満15歳くらい。鶴所は20歳を超えている。鶴所が兄のような存在で、鴎外はまだ思春期のうぶな少年であったのではないか。友情というよりも、兄弟愛、師弟愛に近いものではなかったか・・・?。

 展示品を見ていく。
 身長、頭長に関するメモ書の展示がある。同窓生と書いたのかな。(展示リストでは、どれを指すのか判然としなかった。)それによると
 森 161.2cm。 頭長は忘れた。 「〇頭身」なのかも書いている。
 賀古 164.7cm 解説に鶴所は「当時の平均身長は160cmくらいであり、当時としては、賀古は大柄だった。」とある。
 小池 158.5cm 小池正直と賀古は同じ6頭身くらい。森がやや小さい。6.4くらいかな。寸尺法ではなく、西洋医学を学んだ者らしく「cm」で書いている。
 鴎外の身長が161と分かった。常設展示の映像や津和野で展示されていた大礼服から推定して「160cm
前後」と推測していたが、大体当たっている。鴎外は当時の平均よりもやや高かったとになる。
 
 次いで、奥の壁のガラスケースを見る。鴎外が軍医を決意した手紙がある。展示リストによると「明治14年11月20日付」だ。この年の7月に大学を卒業しているので、四か月後のこと。鴎外は、就職がしていなかった時期だ。「昨日は、来てくれてありがとう・・・・。」という書き出しで、書いてある内容は、難解なので理解しにくいが、「いろいろ悩んだけど、陸軍に入ります。」という内容なのでしょう(笑)。
 「軍医になるか迷っていた」という手紙も、津和野の記念館に展示あったが、書かれた時期は、どちらが先なのかな?。
 鶴所は、卒業後は軍医になる予定であり「在学中に陸軍の委託学生になった」と展示の説明にあった。よく知られるように「先に陸軍軍医になっていた賀古に薦められて」軍医部の高官に会ったりして「遂に軍医となることを決意した」のでしょう。
 鴎外、賀古、小池と同じく谷口謙の名前も先の常設展示での読売新聞のコピーに卒業生としてあった。医学部の同期卒業生は相当数、軍医になっている。

 賀古は、山縣有朋に随行して欧州に旅行をしている。そのときの写真の展示がある。陸軍のドン、長身の山縣を中心に随行者が写っている。旅行時期は、鴎外がドイツ留学から帰国したした後のこと。展示リストによると山縣有朋に随行しての欧州行は明治22年3月のこと。
 鴎外の小説「舞姫」で「天方伯爵に随行し、欧州にやってきた、主人公 太田豊太郎の友人 相澤」とは、このときの旅行のこと(山縣伯爵に同行した軍医 賀古鶴所)を指しているのだろうか?。
 
 私が企画展の室内に入ったときには、先客は既に出ていってしまっていて、隣のシアター室で映像を見ていた。その後、先客は、一階に戻っていってしまった。
 いつのまにか、展示室内には私一人だけとなってしまった・・・・。


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「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」 森鴎外記念館コレクション展 見学1

  2017年1月9日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館に再びやってきました。
 前回の訪問は、初夏の昼間のことだった。対して、今回は冬の夕方のこと・・・。
 すでに午後5時。記念館前の団子坂上の通り(大観音通り)を歩く人は多い。しかし新たに記念館に入館する人はいない。
 通りら敷地の中に入り、一旦庭を抜けて、脇道に出る。敷地内には誰も人がいない。
 戻って入口の高い分厚い自動ドアをくぐり入館。入館料300円を支払う。
 コレクション展「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」 の見学がメインです。

 ↓ 崖側から見た記念館の入口の門。
  かつて、鴎外の自宅「観潮楼」の表門があったところ。


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 「地下の展示室に行って下さい。」と言われ、本当はおトイレに行きたいのだが、やむなく地下への長い階段を下る・・・(苦笑)。
  展示室に入る。地下の展示室のドアの前には、看視の女性が1人いる。黒い制服を着ている。 
 順番を追って見ていきます。室内には、二組くらい見学者がいる。うち、一組は小学生くらいの女の子がいて、祖父母、母親と来ているようだ。

 あれ、展示室内は改装された??。撮影禁止なので、室内の様子は想い出すしかないが、展示品が少なくなったような・・・・・。展示室内や展示ケースは「白」を基調とした内容になっている。以前はもっと手前の平と壁の垂直ガラスケースが大きかったような感じたが・・・・。
 それとも、津和野の「森鴎外記念館」と混同している!!??。

 白い壁沿いに設置されたガラスケースの展示品や説明パネルを見ていく。10歳の頃の「かむろ姿」の鴎外の写真があった。まだかわいい子供でまるで女の子のような姿だ。
 
 これは、前回訪問時も見たが、鴎外一家の「上京後」の写真であった。写真の左端には西周(にし あまね)がうつっている。周は、座って横を向いているが痩身。長身のようで、今でいうイケメンである。写真の中央左は、鴎外の父の静男で、白髪、あごひげを生やし、周よりも年長に見える。実年齢は両者ともに、さほど変わらないと思うが・・・。
 いち早く、欧州留学をはたし、時代の最先端の知識を得て、新政府にも地位を得ていた周の自信の程を写真からも感じた。津和野の「森鴎外記念館」での展示でだったか、どこか別の場所で見たと思うが、西周は、明治のご一新の後、一旦津和野に帰っている。その際に、親戚筋で、自分の旧居からもほど近い森家(森の本家)を訪ね、当主の静男や、嫡男の林太郎(鴎外)とも会っている筈だ。
 この上京も周のススメによるものだった。
 対して、津和野の「森鴎外記念館」で見た幼少期の鴎外の写真は、確か(上京の途上)防府にて父の実家の一族と撮影したものだったと記憶する。 よって、今回ここで見た写真よりも少し前の時期に撮影したものであるのだ。

 以下「 」内は、以前のプログの記事で書いた内容。引用しながら、今回の見学記を書いていく。
  「鴎外が10歳で上京したことはよく知られています。一家で上京したコースをパネルで図示してありました。それによると、津和野を発ち現在の山口県にある三田尻付近に逗留しています。『三田尻』とは幕末の歴史の地名でよく聞ききます。現在では防府市周辺です。ここは、林太郎の父、静男の実家のある所で数日滞在したと説明にありました。静男が森家の養子であったことは、よく知られていますが、長州出身(正確には周防国だが。だから現在は防府市。)とは知りませんでした。」

 → 今回の訪問時、コースの図示は、展示室の壁には無かった。やはり、展示は変わっているようだ。
 やはり、津和野の「森鴎外記念館」と混同している!!??(笑)。

 「さて、森家は「一家をあげて」上京したことがわかりました。ただし、このときの上京は父と鴎外達が先発し、母と妹達はあとから東京にやって来たようです。父の実家に滞在後、ほど近い三田尻の港から船に乗り瀬戸内海を横断、東京に向かっています。東京の旧藩主亀井家の屋敷に入っています。その後は千住に住んでいます。当時では東京といっても千住はかなり郊外だったのではないでしょうか。父、静男は千住で医院を開業したとあります。」
 → 向島に家を借り、その後、家を購入したそうだ。

 「大学卒業・・・よく知られるように「8番」で卒業のため大学に残る道は絶たれたそうです。  当初は就職せず千住の父の医院を手伝っていたと説明あります。東京大学医学部を卒業したのに、いわば「ニート」とはいかずとも「家事手伝い」だったのでしょうか?。」
 → 当時の新聞のコピーが展示してある。「読売新聞」で明治14年7月12日?の記事。明治14年7月9日に大学り卒業式が行われた。
 式でお祝いを述べた人の名前がある。法学部、鳩山和夫、工学部 某  、理学部 菊地大麓、医学部 ベルツ(お雇い外国人で有名なお方)、文学部 外国人の名前・・・・。文部卿は、福岡孝弟(たかちか、文字が違うかな・・・。)、先の(東京国立博物館で見た)紅白芙蓉図の所有者だ。
 鳩山和夫の子孫は、言うまでもない現代でも有名な政治家一家。菊地大麓とは親戚だったと思います。ルーツは、美作の勝山、津山だったかな?。

 →続いて展示品の新聞のコピーを見る
 「法学士 法学分 ・・・」、「理学士 化学分・・・・、 生物分・・・・、 機械工学分・・・・、 土木工学分・・・・」
 「医学士 医学分 三浦守治、高橋順太郎、中浜東一郎。」ここまで医学部の卒業生の名前は三人。森林太郎は八番目。
 つまり、新聞に掲載されている名前の順番は「成績順」だ。当時の新聞にも成績が記載されているとは・・・・・、成績とは、一生付きまとうという訳か~(苦笑)。
 続いて「十番目に賀古鶴所。十二?番目に小池正直」。成績は、のちの森林太郎の上官 小池の方が下だった。
 中浜は、有名なジョン万次郎の子ですね。万次郎は自分の子を医者にしています。更に下ってその子孫の方も時折、マスコミに登場して、私も記事を読んだことがありますが医師の方でした。東一郎以降の子孫は代々医師のようです。三番で卒業ということは、彼は林太郎を差し置いて、外国留学の権利を得たことになります。

  最後は「文学士・・・・ 理財分、政治分」がある。掲載されているのは、卒業する学生全員の名前だろうか。随分と少ないな。限られた者のみが、高等教育を受けることが出来たのだ。彼らは、ス-パーエリートだ。
 当時の学部には「工学部」は無かった。しかし、理学士の箇所に機械と土木の学科があったと記憶する。文学部にも「理財と政治学科」があった。(見まちがえたかな??。)
 理学部に舎密(科学)、物理、文学部に英文、国文の学科は無かったような・・・・。

 以前の展示では、職員名簿があったと思うが、今回は無かった。それとも名簿は、津和野での展示だったかな?。
 → あとで、過去のブログの記事を読むと、「津和野」での展示であった。
  なお、全学部がそろった卒業式はこの明治14年のときが初めてだったそうだ。

 「その後陸軍軍医に採用されて、その辞令などが展示してありました。辞令は複製品で原本は国立公文書館蔵とありました。」 
 →同じく展示があった。

 「そしてドイツ留学。有名なエピソードですが帰国直後、女性が追いかけてきて来日、一か月あまりの後ドイツに返し、その後ほどなくして結婚しています。」
  →ドイツからやって来た女のことは、展示にはあまり無かったような。展示を無くしたか、元々展示が無かったかな・・・?。

 「(結婚は)西周の仲介でした。早く結婚させてしまおうという親族の意志があったことがわかります。しかし、長男於兎氏が誕生してすぐに離婚してしまいます。」
 → 結婚願い「申進」の複製がある。 現物は、防衛省防衛研究所図書館の所蔵。旧軍の公文書は、現在防衛省が保管しているらしい・・・・・。願には「 海軍中将 従×位 勲×等 男爵 赤松則良 長女 登志子 」とあり、「陸軍一等軍医 森林太郎」、宛先は「陸軍大臣? 伯爵 大山厳殿」となっている。
  「 問題無く 仰付候」と添え書きをしているのは、当時の陸軍省医務局長 橋本綱常だ。願には、林太郎の住所や族籍は書いてない。本籍は、東京であった筈だ。よく鴎外は「島根県士族」と間違えられるが、すでに学生のとき(かそれ以前に)に本籍は東京に移していたのだ。
  妻は明治4年×月×日生、満17歳×ヶ月。」若いな~。現在の高校二年生が、三年生に相当する年だ。いいな~、というのは冗談(笑)。しかし「すぐ離婚した。」と展示の説明にある・・・・・・。
 日清戦争で会った、正岡子規の写真も展示があった。子規とは「俳諧について論じた」と説明にあった。

 「小倉転任・・・(展示によると)鴎外自身は「左遷」と考えていたそうです。 しかし、軍にあっては転任はつきもの。とくに左遷というわけでは無いと思いますが、察するに鴎外は「東京勤務」であり続けることが軍界での栄達と考えていたのではないでしょうか。鴎外の強いこだわり(の性格)をかいま見ることができます。オレは帝大(鴎外が卒業した当時は「東京大学」で、日本で一か所だけ。)出だというエリート意識が相当強かったような・・・。」
 → 赴任前日の写真の展示があった。以前も見た。

 再婚のときにも「結婚願」を出しているが・・・・。
 「軍医監 森林太郎」の名前。附属して「願」に、朱書きで「陸軍将校同相当官 結婚条例」が薄い茶色に変色した紙に手書きで書いてある。漢字は旧字体だが 「・・・婚姻をせんとするときは、将官、同相当官の者に於いては、勅許を仰ぎ・・・・、准士官の者以上については、陸軍大臣の許可を得ることとす。」とある。
 この条例がいつからあったかは、知らないが、(ドイツからやって来た女性)エリス(仮名)との結婚を阻んだのは、この規則だろう。鴎外が陸軍の所属ではなく、当時、大学の教授職や内務省などの文官であったならば、(外国人女性と)結婚できたかも・・・・・。もっとも、大臣の許可の以前に家族(というか、旧民法の戸主)が反対すれば当時は結婚は出来なかったと思うが。

 「(小倉から)東京に戻り、その後日露戦争に出征。」
 → 第二軍の従軍記者であった、田山花袋の写真の展示があった。「文学論について議論をした」と説明があつた。

 ↓ 記念館の敷地内、建物の前。
   木は落葉していて、寒そう・・・・・。実際に寒かったのだが・・・・。
 

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気象庁 気象科学館 大手町 見学

 2015年8月15日
 
 ここは大手町、気象庁の建物内にある気象科学館。
 国立公文書館の平成27年度の第2回企画展「昭和20年-戦後70年の原点-」の見学後に訪れました。竹橋の公文書館から気象庁までは歩いて来れます。真夏の暑い日、午後の一日で一番熱い(敢えて「暑い」ではなく「熱い」)時間帯、直射日光を避けて、街路樹の下やビルの影で太陽光が遮られる歩道をなるべく歩きました(笑)。
 気象庁の庁舎の一階にあります。職員、関係者が入ることのできるゲート内にあるため警備員に告げてゲートを通過します。一階の庁舎ロビーは閉庁日のためか、閑散としています。が、科学館は土日でも開いています。
 開館時間は16時までと短いです。最終入館が15時40分までなのでギリギリに近い入館でした。

 ↓ 科学館の入口。マスコットキャラクター「はれるん」がお出迎えです。

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 入口を入ってすぐ横にある記念スタンプを置いてある机。パンフレットなども置いてあります。南極観測船しらせのバンフも南極観測において気象観測は非常に重要な任務ですので、紹介しているのでしょう。船の運用そのものは自衛隊ですが、観測の主体は気象庁や様々な学術研究機関です。もちろん民間企業も参加しているのですが。 

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 夏休みの最中なので子供達や親子連れが多かったです。熱心に展示品を見たり、検索できるバソコンで調べものをしたり、ノートをとったり。自由研究のテーマに選んで来館している小学生も多かったです。ウチの子といえば・・・。一向に関心を示しません・・・・(苦笑)。
 子供達が熱心に見学して勉強をしているので、館内の様子はあまり撮影していません。

 ↓ 乾湿計の展示。
   入ってすぐの気象観測についての展示の一品。

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 ↓ 展示の最後の方にあった津浪シュミレーター。
  波を起こして津浪について実験をしています。

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 館内には説明員の方もいます。質問すれば解説をしてくれます。自由研究の児童達は熱心なのですが、ウチの子はイマチイチなもので・・・・・(苦笑)。小学生のうちからこれで将来大丈夫でしょうか!?。
 展示としては「地球環境、海洋」「天気予報が届くまで」「防災気象情報を知ろう」「地震のこと」「火山観測」「緊急地震速報」などがあります。
 お天気やテレビなどで毎日随時に流れる天気予報の仕組みだけでなく、全国各地の火山や噴火被害などについても写真、パネルなどの展示がありました。
 映像コーナー(ミニシアター)もあるのですが、閉館時刻も近いので上映はしていませんでした。

 庁舎と入口付近。敷地はある程度の広さがあり、車で来ることができそうな気もしますが、一般来館者向けの駐車場としては一切開放していません。地下鉄東西線で行きましょう(笑)。

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 気象庁の敷地内、駐車場。その奥の土地に以前は百葉箱があって、東京の公式の気温をここで測定していたのでいすが、現在は移転しています。大手町の元祖 百葉箱は・・・・、写真では判別できません・・・・。

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 ↓ 庁舎。 一階に気象科学館があります。窓に案内表示が貼ってある箇所の建物内にあります。

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 気象庁の庁舎内 お天気相談所。開所時間は決まっていますが、土日も開いています。
 いまだかつて私はここにお天気について相談に行ったことがありません・・・・。普通に生活している場合には、ここに相談にいく人は限られると思います。通常は天気予報のみで十分です。職業上使用することがなければ今はネットでの気象予報も充実しているのでまず公的機関に相談はしません。

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 ↓ 庁舎内の廊下と食堂(右)。 この日は土曜日で職員はあまりいないようですが、役所自体は24時間稼働している筈です。

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 ↓ 庁舎内の廊下。一階のゲートを入ってすぐのところに「記者会見室」がありました。
   気象科学館の入館者は勝手に入ることはできないと思いますが、よくテレビで見る
   地震や噴火のときの緊急記者会見はこの部屋で行われるようです。
   マスコミが入りやすいにように、ゲートのすぐ近くにあるのですね。

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森鴎外記念館  「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」など見学記(最終)

  2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館。
 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」を見た後、もう一つの展示室に廊下を通って移動します。展示室2も、ほぼ常設展示で特別展に関連すると思われる幸田露伴の子孫の資料の展示もありました。
 廊下の壁には鴎外の一族と子孫の系図が掲示してありました。子孫の方々も医者に学者に作家にとエリート揃い。現代の華麗なる一族を形成しているといって過言ではないでしょう。

 展示室2では鴎外の子供達に関する資料も展示がありました。
 子供達は・・・・・というと、再婚した妻しげとの娘(長女 茉莉)はなんと17歳で嫁に出しています。娘を溺愛したと知られる鴎外ですが、17歳で嫁に出すとは、やはり「家長」としての意識も強かったのでしょうか?。生まれた孫は「爵」(ジャック。厳密には漢字は旧字体で違うようですが。)
 鴎外死去当時、茉莉は洋行途中で異母兄の於兎も同行して洋行していたと説明にあります。つまり死去当時は長男は不在だったわけで。葬儀当時の写真を見ると、まだ小学生くらいの年齢だった三男(次男は夭折)の類が喪主となっています。相当な会葬者があったはずで10歳とそこそこだった類にとっては大任だったのではないでしょうか。

 現在、鴎外は「元祖・キラキラネームの名付け親」とも言われています。現代社会に生きる子を持つ親として、命名には私も多少の関心もあります(笑)。
 当時、鴎外が子供や孫につけた名前が現代でいう「キラキラネーム」に当たるかは議論の余地があります。ただちに「キラキラネーム」ということはできないと思いますが・・・・。ただし、ヨーロッパ風の当時としはてはかなり変わったというか斬新というべきなのか、そういう名前ではあります。外国人の名前を漢字で当て字をするところに多少の無理もあるような気がしますが・・・・・。
 長男にオットー、次男(夭折)にフリッツ、三男にルイ(類)。娘のマリー、アンヌ(杏奴)は現在でも女子の名前としてはある命名なのでそれほど違和感はありません。
 外孫にも「ジャック」などなど。ドイツ系とフランス系の名前を交互に付けています。自分が留学したドイツを第一にしつつフランス語の命名をしている点はフランス、パリにも思い出があったからなのでしょうか?。

 館内に記念館の広報誌がありました。読んでみると、この前の企画展示は三男の類に関する資料展示であったそうです。類に関する展示資料や広報誌の(類に関する)記事を読んでみると、類は父鴎外と異なり勉学の道はあまり得意ではなかったようです。が、鴎外も当時は小さかった類をかわいがっていたようです。勉強もあまり長続きせず氏自ら「不肖の子」と呼んでいたそうです。画家を目指したようですが、戦後は書店主や作家として生活をしていたようです。
 思い出しましたが昔、類の死亡記事をたまたま読んだことがあります。当時私は少年であり、一応新聞を毎日読んでいました。読むというより、テレビ欄を見ていただけといった方が正しいです(笑)。ただし、テレビ欄の裏の社会面くらいは読むことがありました。私の感覚としては社会面は「テレビ欄の次のページ」といった位置づけですが(笑)。
 社会欄の下の方に「森類(もり るい)氏(森鴎外の三男、作家)。〇日〇時〇分××のため××で死去。〇歳。自宅は千葉県××町・・・。喪主は・・・。著書に「・・・・」などがある。」とあったと記憶します。
 当時なぜ森鴎外を知っていたかというと中学校の「国語の資料集」に載っていたからです。つまり私は当時「中学校以上」でありました(笑)。
 資料集は中学入学時に配布され、三年間使用しました。といより、御多分に漏れず授業ではほとんど教科書のみで資料集は使用しなかったと思いますが・・・・。
 資料集には「二大文豪」としてまず漱石が。次に鴎外の紹介が載っていました。
 当時の私は「鴎外の子が今まで存命であったこと」に驚きました。個人情報保護などはなかったときなので(死亡した人物の)自宅の住所まで掲載されていたので印象に残りました。どうして自宅が千葉のとある町なのか?とも思いましたが、やはり父が文豪だと子の職業も作家なのだな、と(当時の私は)思いました。ただし代表的な著書が父、鴎外関するタイトルだったので父親のことを主に書いていた作家だったのかな、とも思いました。

 話は戻りますが、木下杢太郎も展示や広報誌の記事に出てきます。鴎外と年齢は親子ほど違いますが、医師で文学者という点で鴎外と共通しています。鴎外の死後も類の子の名づけ親になるなど世話をしていたようです。
 観潮楼の模型もありました。母屋と離れがあり、母屋は二階建てです。ただ、二階部分はさほど広くありません。鴎外が再婚し、東京に戻った後は母屋に鴎外と妻しげとその子供達が住み、離れは母や長男於兎が住んでいたそうです。継母のしげと於兎との間は良好ではなかったことがうかがえます。

↓ 敷地内の壁にあったアクリルパネル「観潮楼跡」の表示。
  写真では判別しにくいですが門前で撮影した軍服姿の鴎外の写真もあります。
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↓ 敷地内の壁にあった碑。「沙羅の木」と題する「永井荷風」の書。
   建立は昭和29年7月9日、鴎外の命日の日付で長男の於兎。
   「父鴎外森林太郎33回忌にあたり弟妹と計りて供養のためこの碑を建つ。(日付) 嗣 於兎」とありました。

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 関東大震災の前年の鴎外が死去した当時とは、第二次大戦の戦後10年近く経過した建立当時とは、かつての観潮楼周辺の風景は激変していたでしょう。空襲で焼けた後のこの敷地の写真も掲示されていました。本当に焼け野原になっていました・・・・・。大戦争を経て、世の中も随分と変わっていた筈です。
 観潮楼の家と土地は、後に人に貸していたと説明にありました。空襲で焼けたときは他人が住んでいたようです。
 年賦によると長男の於兎は鴎外が満28歳くらいのときの子ですから、(碑の建立時)すでに父の没年を超えて還暦も過ぎていたはずです。「弟妹と計りて・・・」の言葉にも、父の再婚後に生まれた母の違う弟妹達に対する配慮が感じられます。反面「嗣 於兎」には「森家の嗣子」という父、鴎外が持っていた意識を更に受け継ぐという意志表示を感じます。
 偉大な父を持ち、自らも東京帝大医学部を出て大学医学部教授とエリートコースを歩み、実母とは生まれてすぐ生き別れ、その生母も少年の頃に亡くし、母の愛情をあまり感じることができずに育ったでありましょう。老境に入りつつあった当時の嗣子 於兎の心境はいかなるものだったのでしょうか。

(文中の登場人物については敬称略)





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森鴎外記念館 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」など見学記

  2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。
 「特別展 谷根千 寄り道 文学散歩」として地下の展示室内で開催されていました。常設展示は室内の壁に沿って「L」字状に配置されていますが、室内中央部と常設展示と反対側の壁側が特別展示になっていました。
 近くには幸田露伴や尾崎紅葉らと鴎外の書簡の展示が個人別にありました。「露伴の交流」、「紅葉との交流」といった具合です。
 正岡子規との書簡もありました。近年放映された「ドラマ 坂の上の雲」で鴎外は少しだけ登場していました。日清戦争のときに戦地で子規会った設定でしたが、実際に交流があったのですね。確か、現在の根岸あたりに子規は住んでいたと記憶します。ここ千駄木からも近いです。
 漱石に関する展示もありました。漱石とも手紙のやり取りをしていました。しかし、展示によると実際に会ったのは四回ほどだそうです。お互い知ってはいるが、いつも交流しているわけではないので、「二大文豪」とはいうものの、二人は深い交友関係ではなかったようです。

 ↓ 記念館の南西方向。正面入り口とは反対側の出口付近から。
   ビルの合間に東京スカイツリーが見えます。奇跡ともいえる角度で一直線に見えます。
   スカイツリーに向けて見通しのきくように「わざと」ビルをよけて建てられているかのようです。
   「観潮楼」といわれるように、記念館の南方向は崖になっていました。高台で眺望がききます。
   高いビルがなかった当時ここから「海が見えた」ということに納得しました。

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ちなみに、写真の右、
崖下に立つのは
区立中学校の建物です。















 ↓ 敷地内の壁に掲示していた観潮楼の図面。

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 そういえば、鴎外の(恐らく)最大の庇護者で陸軍のボスであった山縣有朋はというと、大正11年2月に死亡。鴎外はその半年あまり後に死去。有朋の死で燃え尽きてしまったというのは言い過ぎですが、親子ほども年上の有朋と比べてもあまりに早い鴎外の死でした。
 先の記事では「母の影響が大きかった」と書きましたが、職業生活においては有朋の存在が大きかったと思います。「公にあっては有朋、私にあっては母」。この二人の死亡後ほどなくして亡くなっているのは何かの因縁でしょうか・・・。




森鴎外記念館 見学記続き(常設展 後半)

  2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。
 
 地下展示室にある常設展の見学です。
 退官後・・・帝室博物館総長に就任します。
 洋画家 黒田清輝らと写った会議の様子の写真が展示してありました。上座には鴎外が座っています。
 
 小さいモニター映像に生前の鴎外の姿がありました。短い映像です。(繰り返し、反復して映像が流れています。)
 当時、皇太子であった昭和天皇が欧州視察旅行を終えて横浜港帰着時の、お出迎えのときの映像でした。大正10年の秋の映像です。つまり鴎外死去の前年のことです。数多くの官吏がお出迎えをしたことがわかります。お出迎えを終わり?、別の場所に徒歩で歩くときの映像のようです。お出迎えを終えた官吏と思われる大勢の人々が歩いて移動しています。背の高い軍服を来た人物が2人で歩いている様子も映っていました。鴎外は映像画面の手前のほうに、ほんの「おまけ」のように映り込んだようでした。
 映像中の鴎外は、フロックコート姿です。現在私達の見る鴎外の公的な写真は軍服ですが、このときは、予備役陸軍軍医総監ではなく、文官、つまり(宮内省管轄の)帝室博物館総長兼図書頭としてお出迎えに参集したのでしょう。
 映像で見る限り、着用しているフロックコートなどと比較して推測すると鴎外の身長は160センチ前後ではないでしょうか。現代の感覚でいうと小柄です。歩く鴎外の姿は右半身を傾けて引きずるように歩き、どこか苦しそうです。健康ではなかったことが推測されます。どちらかというと、「右に体が開いている」のが彼の身体的特徴のように思われました。
 モノクロ画像で(判別は困難で)すが、やや禿頭である彼の顔色は、あまりよくないです。映像で見る限り黒ずんだような顔色・・・・。眼力にも覇気がありません。精力を使い果たしてしまっているかのような姿です。
 実際のところ、実にスタイリユッシュな生涯を送った彼は、死去前年当時では相当に精力を使(い切)っていたとと思います(笑)。
 右足をかばうようではなく、右半身を傾けるように歩く・・・・足腰が悪いのではなく、結核のためすでに呼吸器系や内臓が悪かったのではないでしょうか。内臓といっても胃腸系や心臓系ではなく、肝臓か、確かに(当時の公式発表のように)腎臓が悪いのではないかと思わせるような姿でした。このとき彼は満59歳のはず。現代の感覚でいうと、とても還暦前とは思えない・・・・・・。もっと年齢が上に見えます。

 死去前は6月に初めて医者にかかったと(説明板に)あります。死去当時は腎の病気(萎縮)と発表されたはずですが、今日では結核であったと知られています。受診から死去まで一か月もないくらい・・・・。が、元々この年は体調が悪かったと(説明に)あります。医者でもある彼は自分が結核であることを知っていたのでしょう。
ようやく受診した医者は賀古鶴所の親族(賀古の姪の夫 額田医師)とありました。結核であることが発覚することを憚り、それまで受診をしなかったそうです。かなり、意地を通しています・・・・。

 7月に入り有名な遺書を口述筆記させ、7月9日に死去。61歳。満でいうと60歳。決して長くはない生涯でした。
 死去時の写真やデスマスクの展示がありました。
 墓碑は「中村不折」が揮毫しています。遺言の内容の展示もあり、その中で揮毫を指名していました。「中村不折」の名は漱石の年賦でも登場しますし、「碌山美術館」の彫刻家 荻原守衛の年賦でも登場していました。

 返り見ると、鴎外の人生で「母」の存在は非常に大きかったと思います。館内掲示の年賦によると父、静男は明治29年かに死去。母は、なんと大正に入って、鴎外死去の数年前に70歳台で死去。生まれてから、軍を退官するくらいまで、彼は母と生涯を歩んだことになります。母は「家付の娘」ですから、ことさら森の家内を仕切っていたのではないでしょうか?。
 鴎外の祖母も長命です。館内には父、母、弟、祖母も写った一族の写真も掲示されていました。この祖母の娘が鴎外の母。森家は「女が強かった」ことになります(笑)。


 ↓ 観潮楼の跡地の敷地内の庭。かつての鴎外邸の庭の跡地ですね。
   庭園の中は立入禁止です。初夏のためか草の丈がかなり伸びていました。
   かつての鴎外邸の正門は写真奥の扉の付近だったようです。

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 ↓ 観潮楼の跡地の敷地内の庭を反対側から、表通り方向と記念館の建物。
   隣のビルとも接近しています。

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森鴎外記念館 見学記続き(常設展 前半)

  2015年6月6日

 文京区千駄木の区立森鴎外記念館にやってきました。
 「森鴎外」本名、森林太郎。医師でありながら文学者。そして陸軍軍医官しても軍医総監の階級に昇り、栄達を極めた人物。

 展示室は地下にあります。階段を下ります。先にも書きましたが、コンクリート製の要塞に吸い込まれるかのようです。
 地下の展示室の脇に休憩室があり、地上から陽光を取り入れる造りになっています。
 「要塞」の底から上を見上げているような。やっぱり圧迫感を感じてしまいます。土地が限られているせいでもありますが(笑)。

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 ここ森鴎外記念館は、鴎外の旧居、観潮楼の跡地に建設されたとあります。鴎外が30歳から60歳で死去するまでここに住んだと説明にありました。

 旧居には地下室は無かったと思いますが現在の記念館の建物は旧居の地下を随分と堀り下げています。現代建築の手法からすると、暗くなりがちな地下のフロアにも「陽光を採りいれた」斬新的な設計といったところでしょうか。

 展示室は、鴎外の誕生から解説しています。
 順番を追って見ていきます。
 壁沿いに設置されたガラスケースの展示品や説明パネルを見ます。10歳の頃の「かむろ姿」の鴎外の写真もありました。まだかわいい子供でまるで女の子のような姿です。それが数十年もするとやや禿頭で髭を生やしたいかめしい顔つきのおっちゃんになってしまうのですから、老いというのはリアルというか、ちょっと怖いですね(笑)。誰でも平等に老いは来るのですが・・・・。

 鴎外が10歳で上京したことはよく知られています。一家で上京したコースをパネルで図示してありました。それによると、津和野を発ち現在の山口県にある三田尻付近に逗留しています。『三田尻』とは幕末の歴史の地名でよく聞ききます。現在では防府市周辺です。ここは、林太郎の父、静男の実家のある所で数日滞在したと説明にありました。静男が森家の養子であったことは、よく知られていますが、長州出身(正確には周防国だが。だから現在は防府市。)とは知りませんでした。
 父はいわゆる長州藩、萩毛利氏の領地内の出身だったのでした。林太郎がのちに出世した理由のひとつが分かりました。(独断ですが。・・・・。)
 「なるほど林太郎は(長州のすぐ隣の小藩)津和野の出であるが、父の出身は長州であるから『準長州閥』として扱われたのかな。」と感じました。長州出身の元勲や高官は必ずしも萩に武家屋敷を構えていた武士の家の出身ではなく、農民階級や萩以外の領内に住まう足軽や郷士身分(毛利家中に郷士身分があったかは分かりませんが。)、長府や徳山などの支藩出身の武士、その領民であった人も少なからずいたはずです。といいますか、長州出身で最も有名な伊藤博文自身、武士の家の出ではなく、山縣有朋もそれほど高くない身分の生まれだったはずです。
 山陽の交通の要衝『三田尻』が父の出身地であるとは、長州出の高官と地縁、血縁の繋がりでコネクションを取りやすかったでしょう。「薩長の天下」であった明治時代の郷党意識は現代と比べると相当なものであったはずです。こと陸軍のボス「山縣有朋」のヒキを得るうえでは大きなアドバンテージであったはずです。「長州閥」(と認定された)ならば「本流」を歩くことができます。

 さて、森家は「一家をあげて」上京したことがわかりました。ただし、このときの上京は父と鴎外達が先発し、母と妹達はあとから東京にやって来たようです。父の実家に滞在後、ほど近い三田尻の港から船に乗り瀬戸内海を横断、東京に向かっています。東京の旧藩主亀井家の屋敷に入っています。その後は千住に住んでいます。当時では東京といっても千住はかなり郊外だったのではないでしょうか。父、静男は千住で医院を開業したとあります。
 のちに津和野の自宅は売却しているので、何も残さず相当の覚悟をもって(旧主 亀井家にお仕えするという理由もあったでしょうけど)一族で上京をしたようです。

 大学卒業・・・よく知られるように「8番」で卒業のため大学に残る道は絶たれたそうです。
  当初は就職せず千住の父の医院を手伝っていたと説明あります。東京大学の医学部を卒業したのに、いわば「ニート」とはいかずとも「家事手伝い」だったのでしょうか?。
 その後陸軍軍医に採用されて、その辞令などが展示してありました。辞令は複製品で原本は国立公文書館蔵とありました。 

 そしてドイツ留学。有名なエピソードですが帰国直後、女性が追いかけてきて来日、一か月あまりの後ドイツに返し、その後ほどなくして結婚しています。西周の仲介でした。早く結婚させてしまおうという親族の意志があったことがわかります。しかし、長男於兎氏が誕生してすぐに離婚してしまいます。
 以前(といってもずっと昔、学生の頃に読んだ鴎外の伝記だったかも)読んだ書籍では離婚の件で西周とは絶縁(状態)になったと記載してあったと記憶します。一族の出世頭、西周を「切る」とは相当な覚悟が必要だったはずです・・・・。

小倉転任・・・(展示によると)鴎外自身は「左遷」と考えていたそうです。
 しかし、軍にあっては転任はつきもの。とくに左遷というわけでは無いと思いますが、察するに鴎外は「東京勤務」であり続けることが軍界での栄達と考えていたのではないでしょうか。鴎外の強いこだわり(の性格)をかいま見ることができます。オレは帝大出だというエリート意識が相当強かったような・・・。

再婚・・・小倉での新婚生活。
 18歳年下の「美人」といわれた若い細君、荒木しげを自慢する「ノロケの手紙」の複製?が展示してありました。
 が、前妻が(結核で)死亡してから再婚しているのでそれなりに配慮しているようです。再婚は西周の死後でもありました。
 が相当に「面喰い」だったのですね(笑)。

 やがて東京に戻り、日露戦争に出征。
 戦後、ついに軍医総監、陸軍省医務局長に。
 常盤会の歌会の写真の展示がありました。陸軍のボス「山縣有朋」や賀古鶴所が写っていたと思います。柳田国男の兄、井上通泰も写っていました。当時の人脈が分かります。
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文京区立森鴎外記念館 見学記

  2015年6月6日

 6月の土曜日のこと。文京区千駄木の森鴎外記念館にやってきました。
 アクセスは、地下鉄千駄木駅を降り、地上に上がります。地上に出て歩道を少し歩き、交差点を曲がり坂を登ります。沿道にはビルやマンションが林立していますが、その合間には老舗と思われるお店もあります。坂は、団子坂というようです。なぜ団子の坂なのかは理解をしていません・・・。ともかく坂道を登ります。
 
 ↓ 坂(団子坂)の途中から下(千駄木方向)を見る。  

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 坂といっても、すごい急坂というわけではありません。坂を登ると平坦な道になります。急に視界が開けます、といいたいところですが、道の両側にはマンションやビルが多いので見通しはいいとはいえません。

 「森鴎外」本名、森林太郎。おそらく彼は近代日本における最高の天才、秀才の一人でしょう。医師でありながら、文学者。そして陸軍軍医官としても軍医総監の階級に昇り、栄達を極めた人物。
 近代・現代社会で「二足のわらじをはく」人物のはしりともいうべきお方。鴎外については、その作品のみならず第三者による評伝など様々な書籍が発刊されていますし、テレビなどマスコミでも取り上げられることがあり、その生涯は比較的知られています。が、彼は一体どのような人物だったのか?、私は改めてこの「多才の天才」の生涯と事績について知るべくやってきました。
 (ホントはもっと早く少年の頃に知っておくべきだったのでしょうけどね・・・。)

 ↓ 坂を登り切ってすぐのところに「森鴎外記念館」はありました。

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 コンクリートの要塞のような建物。なぜこのような無機質な外観になってのかは分かりません。デザインとしては斬新な近代建築とったところなので、公募か何かでコンペしたのでしょうか?。
 悪いですが、この建物が「鴎外の記念館」とは連想がつきにくいです。
 
 訪問したときは、企画展として「谷根千 寄り道文学散歩」が開催されていました。
 鴎外記念館は開館して3年くらいです。よってまだ建物は新しい。以前は同じ場所に鴎外記念図書館、図書館鴎外記念室があったようですが、記念館として建物を新築し、リニューアルオープンしたようです。

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 道沿いのエントランスは駐車できるようにも見えますが、「駐車禁止」です。記念館には駐車場はありません。
 下の写真は登ってきた団子坂の方向です。入口も見えます。

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 入館料を支払います。館内は撮影禁止。建物入口に鴎外の胸像がありますが、これも撮影禁止でした。
 大人は500円。特別展開催期間中の料金のようです。あとで知ったのですが、文京区内の博物館、資料館などの公共施設と「相互割引き制度」があり、半券を提示すれば入館料が割引になる制度です。
 対象には「東洋文庫ミュージアム」もあったので、ここ森鴎外記念館を見た後に見学した「東洋文庫ミュージアム」の入館料900円が実は割引きになったのです・・・・。今となっては仕方ないですね(笑)。
  
 展示室は地下にあるそうで、いきなり階段を地下に降ります。潜っていくような感覚です(笑)。
 
 下の写真は記念館の入口の自動ドア。
  人が写っていないのでドアの高さが分かりにくいですが、巨大に感じます。
  高さ三メートルはあるような感じです。
 
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 あたかも、コンクリート製の要塞に吸い込まれるかのようです。ドアがガラス製でなく、館の内部が全く見えない。道路沿いの外観を撮影した写真を見てもわかりますが、建物の壁窓にもが無いので圧迫感、威圧感があり、一層「要塞感」をかもし出しています。
 ドアの高さは隣に置かれた「自転車」の大きなから逆算してください(笑)。




明治神宮文化館 昭憲皇太后百年祭記念「明治の皇后」 見学と明治神宮

 5月の4連休の3日目、5月5日のこどもの日、明治神宮にやってました。前日までの2日間は絵に描いたような「快晴」。しかし、イザ本日外出してみると「曇天」で、しかも雨が降りそうだとの天気予報。
 まずやって来たのは、渋谷区立ポニー公園。久しぶりです。このとき、午前10時過ぎ。10時半からポニーの乗馬体験があるのですが、下の子は興味を示さず。一言「いい。」
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  「ポニーさんだ~。」と言って無邪気にはしゃいでいたころが、今となっては懐かしいです・・・・・・。「あの頃はよかったな~。」というとろでしょうか。もはやここで「ポニーに乗る」ことは無いのでしょう。(乗馬は無料なのに『乗ることは無い・・・』ナドとアツかましいこというな、ってとこでしょうかね。笑。)
 少しだけポニーさんたちを見て、公園をあとしに、明治神宮の森の中に入っていきます。
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 神宮の森の中を歩きます。今までこちらの門から来たときとは、まっすぐ正殿の方に歩いて行っていたのですが、今回は少し遠回りのルートを歩きます。と、宝物殿の前にやってきました。この建物を見るのは初めてです。重厚な建築物で、重要文化財にも指定されているそうです。付近には武道場もあります。普段、柔道などの講習も開かれているようです。
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 正面の門からは、建物を撮すことができないため、入口の横から撮影します。写真には写っていませんが、正倉院のような高床式です。正倉院の何倍の大きさがある巨大なコンクリート造です。
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 続いて参道を歩きます。宝物殿近くの広場では学生さんらしき若い人が何かのイベントの準備をしていました。神宮公認イベントなのでしょうか。
 更に、森の中を正殿のほうに歩きます。警備の車両が通ったり、警備員が徒歩で巡回しています。「なぜそこまで警備をするのか?」と思いましたが、先日、オバマ大統領が明治神宮に来たとニュースで放映していたことを思い出しました。保安上、原宿方面の正面入口ではなく、こちらの裏からの道の方が目立たず警備しやすいでしょう。この参道の先に、社務所の正面玄関と駐車場があったので、裏門、つまり代々木方面から入り、この道を通ったのか!?と思いました。別に警備や巡回はいつものことで、大統領が来たあとの「アフター警備」というわけでは無いでしょうけどね・・・。(そもそも「アフター警備」という語があるのでしょうか!!??)
 と、雨が降ってきました。予報では夕方からということだったのに・・・。
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 雨の社殿。今日は外国人が多いように感じます。結婚式の列もここを通ることがありますが、本日が式の場合はちょっと大変かも・・・、というより外は歩かないのでしょうか。
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 と社殿の脇に「こどもの日」のイベントの告知が。子供達が並んでいます。しかし、受付をしている様子が無いので、何かの会員限定か予約者限定なのでしょうか。ともかく、今日訪れて参加できるイベントではなかったです。雨が強くなってきました。写真でも雨が強く降っている様子が分かりますね。
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 DSC09260社殿も多くの人でにぎわっています。




















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 社殿をあとにし、原宿駅の方へ歩きます。途中の参道には「昭憲皇太后百年祭」の告知と、説明のボードが掲示されいます。写真はその中のひとつです。
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 大鳥居を抜けて、行きます。
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 新しい建物までやってきました。「文化館」というそうです。数年前に完成したと思います。それ以前はなかったと記憶しています。昭憲皇太后百年祭記念「明治の皇后」の展示の告知があります。先月、天皇皇后両陛下が見学されたというニュースをテレビか新聞で見たことを思い出しました。
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 円形の建物の一角に入口があります。二階に階段を上ります。入場は500円。先ほど通ってきた宝物殿も入場できるとのことですが、戻らなくてはいけないので、本日は無理です。一か月間は券が有効のようなのでまたの機会にします。当時の宮中の衣装の展示や、使用していた調度品、皇后の姿を描いた絵画の展示がありました。展示してある絵は明治~大正にかけての日本画の大家が描いたものも多かったです。
 富岡製糸場を訪問した皇后の絵の展示がありました。女工が繭から絹糸を取り出す作業工程の中を女官と歩く皇后の姿が描かれています。明治時代の当時、群馬まで皇后がわざわざ足を運んで視察されていたとは驚きです。同時に富岡製糸場が世界遺産に指定されることが、先日ほぼ決まったそうで、非常にタイムリーな展示でした。
 ↓写真は入口の様子。外国人も見学に訪れています。
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(追記)この二三日後の平日、秋篠宮さまも訪問したとニュースで見ました。非常に「タイムリー」な見学でした。
 次に、代々木体育館方面へ向かいます。雨もほぼやんできました。
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りょうげつ

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