良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

伊豆北部(沼津、三島含む)

 

「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞6(最終、エピローグ) 

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞6(最終、エピローグ)  2019年2月

 静岡県三島市。佐野美術館へ初めて来館である。

  

 夕方の4時半を過ぎた。館の外に出る。
 外から外観を撮影しているおっさんがいる。入館のときも、太った中年の男が盛んに外観を撮影していたし。
 結構、外観を撮影している人も多い。よって、オレも他の刀剣男子、又は女子のSNSなどに姿がアップされているかも・・・・・。
 歩いて、Pに戻る。駐車している車もだいぶ少なくなった。
 館のそばに、梅の花が咲いていることに気付いた。まだまだ2月の寒い時期ではあったが、季節は花の季節、春に移ろうとしている。


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 庭園を歩いて戻る。

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庭園の端。付近の住宅地を撮影したつもりが・・・・、あまりよく撮影出来ていない・・・。

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 隣接する庭園は「隆泉苑」という。
 湧水の街、三島らしく、この付近から湧き出ているのであろう。


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 駐車場の近くに、別館の料亭らしき一角があった。「せせらぎ亭」とある。
 庭園がある。小川が流れていて、橋がかかっている。
 園内は、早咲きの河津桜??の花が咲いていた。

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 白い花は梅の花であろう。

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 駐車場に面した「松韻」の入口と看板。
 先程、美術館で展覧会を鑑賞していた人もこちらの駐車場に戻って来て、帰っていっていた。美術館の建物近くではなく、ここ「松韻」のPに停めたのであろう。
 私も再び車に乗って、帰った。

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「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞5(国宝 太刀 銘「一」など)

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞5(国宝 太刀 銘「一」など)  2019年2月

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。

 
 次の展示室に移動する。 この展示室は小さい。
 時期不明の焼身の刀剣の展示があった。
 次の部屋に国宝の刀剣の展示があった。順路最後の展示室であった。第三展示室である。「伝世の名刀」
 国宝「国宝 太刀 銘 一」の展示がある。ここ佐野美の所蔵の刀剣が展示されている。企画展の「REBORN 蘇る名刀」とは、直接関係の無い、通常の焼身、再刃ではない刀剣の展示がメインである。
 この部屋は、階段のからほど近い所にある。最初、二階に上がって来たときに間違って最初に入ろうとした・・・・。出口付近には、イスが、置いてあり、傍に図録が置いてあった。


 さて、第三展示室て゜あるが、入口付近のガラスケースに、平泉出土の刀剣の展示が2口あった。
 重要文化財に指定されている。「REBORN 蘇る名刀」での焼身、再刃の刀剣で重要文化財指定は、他に「義元左文字」だけだった。基本、焼け身となった刀剣、再刃された刀剣は、文化財指定は難しいですよね。
 平泉の刀剣、一本は「刀子」。小さい刀である。長さは15.5cm。柳之御所の井戸の跡から出土したそうだ。

 現代感覚でいえば、鉛筆や小道具を作製するとめに木材を削り出すような、「こがたな」だ。正滅によると「井戸仕舞い」で井戸に落としたらしい。つまり、井戸を閉じるときに、おまじないで小刀を落としたのだろう。
 鏡が展示品の奥においてあり、裏側の刀身が見えるようになっている。表面は、再研ぎされているが、裏はそのままで、青く錆びている。長年、水につかっていたのであろう。

ついで、同じく重文「長さ48cmの刀」。刀身にはやや「反り」があるのだが、かなり欠けている。刀身は太い。時代は平安時代と説明にある。
 刀身、茎もへこんでいたり、えぐれていたり。片面を研いだ。刃文は無い。「地沸は淡くつき・・・」と説明に書いてあったと記憶するが、「沸 にえ」がついているのだろうか?。
 鏡に映る裏は、黒くというか、深い青色に錆びて劣化して朽ちている。焼けたのではない。ざらざらした感じだ。平泉の金色堂の須弥壇から出土した、藤原秀衡の副葬品という。発掘品を片面だけ研磨したそうだ。文化財に指定されているので、研磨は現状を損なわないように細心の注意をはらったということが書いてあった。

 展示室の端に図録が置いてあった。2千円。
 国宝、銘「一」 は福岡一文字派の刀工のこと。「刃文は丁子が連なり、豪華絢爛である。」と書いてある。図録の解説によると長篠の合戦で、織田信長から、家康の家臣、奥平信昌、つまり娘の婿に与えられたそうだ。奥平家に昭和の初めまで伝来したそうだ。奥平家なので、中津藩主であった、奥平家のことであろう。現在は個人蔵。
 茎には「一」とのみ、シンプルな銘が刻まれている。刃文は、刀身のなかほどは、丁字が深くて、へこんでいる。茎に近い刀身の刃文は、丁字の幅が狭い。茎と刀身の境界には、金色の金属をはめこんでいる。三つ葉葵の紋がある。
 鑑賞を終えて、1階に戻った。展示の最初の部屋を少しばかり再び見るが、刀剣女子の新たな入館者もいて、ガラスケースの前には、人がつらなっている。

 ↓ ロビーの撮影コーナー。 幕の裏側が、ショップ。棚がうっすら、透けて見える。
  

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 1階のロビーは 撮影できるところがある。
 ショップは 刀剣の絵葉書ポストカードなどがある。絵葉書の背景は黒い。白銀色に刀身が浮き出すように撮影されている。ここの渡邊館長さんの刀剣に関する著書もある。刀剣グッズのキーホルダーなどもある。
 その他は、小もの類など。本館所蔵の重文「大日如来像」のポストカードも販売があった。
 

 外に出ると夕方4時半。入館締切の時刻となった。
 Pの警備員が2名いて、引き揚げしていた。美術館の建物の階段の上からPの様子を見下ろすことができる。付近は住宅地である。正門は表通りに面していない。よって、何回もこの付近は車で通行したことがあったが、美術館のことは気づかなかったのかも。いや、名前は見たことがあったが、「三島」の「佐野」美術館のことをあまり認識してなかったのかも。


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 入口付近の外観。

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庭園を歩いて、Pに戻ることにした。

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「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞4  2019年2月

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞4  2019年2月

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。

 
 日光東照宮宝物館に所蔵されている文化9年に火事で焼け身となった刀剣を見た。
 再刃された「正恒」、「国行」、「了戒」、「備前国住雲次」などである。


 続く、第三のガラスケースは、展示室の一番突き当り部分だ。
  関東大震災で焼けた刀が展示されている。徳川御三家のひとつ、水戸家の倉庫で保管されていたそうだ。再 
 関東大震災で焼けた刀剣は、この水戸家と彦根 井伊家の刀剣の展示であった。
 水戸と彦根といえば、幕末の安政の大獄、桜田門外の変などでお互い遺恨のある藩同士だったような・・・・・・。大正時代になって、ともに所蔵する刀剣が大震災で被災するとは何とも因縁がある。
 水戸家伝来の刀剣は、小石川の徳川家屋敷で保管されていたそう。大正時代は、徳川侯爵家。かつての水戸・徳川家の上屋敷、現在は小石川後楽園になっている。東京ドームや遊園地もかつての水戸家の屋敷の跡である。当時も引き続き水戸徳川家の屋敷であったようだ。伝来の刀剣は、旧領地の水戸ではなく、東京で保管していたのだ。
 真っ黒になっている刀剣の展示がある。「太刀 銘 包永」・・・兵部大輔 藤孝磨上之異号・・・という銘があるそうで、説明によるとその銘文の通り、細川藤孝から徳川家康に献上され、水戸家に伝わったそう。藤孝が磨上げた?、短くしてすり上げした?ことが刻まれている。煤のせいか、真っ黒である。
 ガラスケース内には「太刀 銘 光忠」 。水戸ではなく、尾張の徳川家でも光忠の太刀は所蔵されている。国宝に指定され、名古屋の徳川美術館で時折展示されるのであるが、この尾張の「光忠」は見たことがあるぞ。
 目の前に展示されている「太刀 銘 光忠」 は火事のためか、まっ黒である。備前 長船、福岡一文字派の刀工と説明がある。
 平のガラスケース内には「太刀 銘 国宗」がある。 同じく水戸ではなく、尾張の徳川家でも国宗の太刀は所蔵されている。国宝に指定されているが、尾張の「国宗」はまだ見たことが無いのだ。「国宗」は13世紀、鎌倉時代の備前の刀工で、人気が高いそうだ。

 彦根藩、井伊家の「短刀 銘 来源国次」と「刀 無銘 左」は再刃されている。鈍く刀身が光っている。刃文もある。しかし、茎(なかご)の部分は、焼けたときのそのままのようだ。共に再刃された時期は不明とのこと。
 大震災の火事で焼身となった後、ほとんどはそのままで保管されたそう。数本が再刃されたと説明にある。
 「太刀 正恒」・・・国宝に指定されている刀剣を別の所でも見たことがある。昨年の秋に、鎌倉 国宝館で国宝の正恒を見たが、同一刀工かな。刀工の銘は判読できなかった・・・。焼けたためか、赤茶色に錆びでいる感じ。
 「太刀 助平」・・・説明によると「備前三助」の一人で、つまり、名工ということ。
 「太刀 銘 宗近」もある。あの東博所蔵の「太刀 三日月 宗近」の刀工で、「三日月」は秀吉の正室、ねねの愛刀だったと説明にある。
 平ケースにも井伊家の焼けた刀剣の展示がある。「太刀 銘 国吉作」・・・やはり、茶色く錆びたような刀身である。

 秋葉神社の所蔵で、火事で焼けた刀剣の展示もあった。火事は時代がずっと下がって、昭和18年のことだった。佐野美術館と同じ静岡県の神社所蔵の焼けた刀剣ということで展示されているのであろう。戦時中なので、恐らく神職、氏子、地元山林関係従事者らは相当数が出征していて、境内地の管理、付近の山林の管理が行き届いていないのが大きい原因ではなかったか。しかも、金属は供出、化石燃料は不足し、薪を燃料とする自動車も当時登場していたそうだから、山林から木材の切り出しのため、多くの神社と無関係な人も付近で行動していたろう。よって、何等かの失火が大火になったのではないか。

 この展示室は、部屋の面積が一番大きかった。
 入館者であるが、刀剣女子世代も多いのだが、比較的年齢層は高い。本日、展示最終日ということもあろう。
 ざっと見ると室内は40人弱ではないか。男性も多い。15-16人くらいは男性。男性は老年、中年などが比較的多いような。若者の男はいないかな・・・、親と一緒に来ていた小学生くらいの子はいるが。女性の入館者は年齢層はバラバラ。10歳台から20歳台前半くらいの「刀剣女子」のコア世代??は4-5人くらいではなかったか。制服を着ている女子高生もいた。刀剣女子世代はあまり、多くはないと記憶する。20歳台後半から30歳台前半くらいの人が、1-2人くらい。40-50歳台くらいが5-6人くらい。明らかに60歳以上の女性は5人前後ではなかったか。比較的、刀剣女子がブームとなる前のここの館のコアな入館者世代も多く見学していたと思う。
 次の展示室に移動する。 この展示室は小さい。
 時期不明の焼身の刀剣の展示があった。
 太刀 銘 則宗 ・・・元々は公家の鷹司家に伝来したという。1693年?の折り紙によると代は金150枚?という。
 (具体的な値段表示は忘れた。)
 短刀 銘 行光 号 不動行光 個人所蔵 ・・・元々小倉藩の小笠原家に伝来したという。
 その号の通り、刀身には不動明王と両脇の二童子の姿が刻まれていた。背後の炎も刻まれている。1717年の本阿弥光忠の「折紙」によると金100枚と評価されているそう。焼けた時期も不明で、再刃した時期も不明とのこと。一見して、焼けた刀とは見分けがつかない。

 と先程、男性職員に色々聞いていた黒いタイツのオカッパ頭の女の子が入って来た。小さい部屋なので、話声が響く。引き続き解説付きで会話しながら、展示品を鑑賞している。やっぱり、ここの特別会員か研究関係の大学院生?兼刀剣女子かな??。
 次の部屋に国宝の刀剣の展示があった。順路最後の展示室であった。

 ↓ 玄関付近壁の表示。 ポスターと同じ画像である。
  太刀 銘 友成 平安時代 日光東照宮宝物館の画像だ。

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「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞3  2019年2月

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞3  2019年2月最終日

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。今まで三島には何回も来ているのに佐野美術館のことを知ったのは、ほんの3年か4年前のことだった・・・・。「刀剣女子」がブームのおかげです。


 明暦の大火で焼けた刀の展示に続き、長方形の展示室の、長辺、つまり長いガラスケースの展示品を見ていく。 お江戸の時代の文化年間の「日光の 東照宮」の火事のことについての解説ボードがある。
 「文化9年」に火事があって焼け出されたそうだ。西暦でいうと1800年以降、19世紀に入ってからの火事。明暦の大火からだと、150年くらい経過している。火事のときに奉納された刀剣を保管している箱を神官、輪王寺僧侶?(当時は神仏習合なので)らが持ち出ししたが、家康の遺品、歴代将軍が奉納した刀剣をはじめ、ほとんど焼けたそうだ。残ったのは、解説では書いてあったか?、その数は忘れたが、1箱くらいだったらしい??。
 (別室の国宝の展示があった展示室においてあった図録の解説文には、文化9年の東照宮火災では、徳川家の将軍などから、多数の奉納されている刀があった。火事のときは(保管していた)一箱5口(の刀)のみ持ち出しされた。残り200口の刀は焼けた。昭和58年から62年にかけて、再刃された。人間国宝など数名の刀工が、再刃を担当した、ということが書いてあった。)

 展示品は日光東照宮宝物館からの貸与品である。

 ガラスケースの前は、人だかりである。と、紺色の短いスカートに足は黒タイツ、ベージュのスブリングコートを着た女の子が入ってきた。学芸員らしき40歳くらいの男性職員?とともに見ながら色々聞いている。職員は、色々と説明して女の子とやりとりしている。話し声が目立つ。女の子は、学生か20歳台なかばくらいの年齢。なぜ、この人だけ解説付きで会話しながら、展示品を鑑賞しているのか、ちょっとわからない。専属説明ガイド制度があるのだろうか?、ここの何かの特別会員なのか、(年齢からして)何かの関係がある大学院生なのか?、ともかく特別待遇っぽかったです。

 壁沿いのケースとともに室内の平ガラスケースにも展示されている。「日光東照宮焼身茎押形集」という資料も展示してある。焼けた刀は「焼身」というらいく、そのまんまの呼び名・・・。刀剣の根本、茎(なかご)がわかるようにカタログのようにイラストを墨書したもの、見本だったと記憶する。
 太刀「一」の展示がある。備前一文字の太刀なので「一」。国宝の「一」の展示もある筈なのだが、この刀剣では無い。1663年に水戸徳川家の当主 光圀が奉納したものだそう。せっかく、奉納したのに焼身になってしまって・・・・。失火の責任は、当時誰ががとったのだと思います。
 太刀 銘「国行」、「正恒」、「助平」、「了戒」、「備前国住雲次」があった。特に「正恒」「国行」は、国宝に指定されている作品も鑑賞したことがあるぞ。いずれも再刃されていた。「助平」と言う名前が気に入ったが(苦笑)、「助平」は現存作品があまりない、名工らしいのだ。再刃したものとはいえ、大変貴重な名品とのこと。昭和61年に再刃されている。再刃は、「刀身」の部分を行うようだ。茎の部分は、焼けた後らしく、赤茶色になっているものもある。よって、「ああ、やはり火災に遭っているのだな。」ということが判る。
 再刃の年は「正恒」は昭和62、「国行」は、昭和61、「了戒」は、昭和58、「備前国住雲次」は昭和60年である。いずれも昭和の終わりころ、つまりボクが子供の頃に再刃されている。
 景気の比較的よい、安定した時代になって、文化財の刀剣を再刃して、保存しようという機運があったのではないか?。文化庁の許可も必要であったろう。再刃の刀工は、人間国宝の天田昭次氏と説明にある。
 再刃した後は 心なしか、刃文がうすくなっているような・・・。 

 エントランスにあった撮影コーナーの垂れ幕。 ↓
 キャラクターの背後の画像は、太刀 銘 作友成 平安時代 日光東照宮宝物館だ。
 茎の部分が焼けた後らしく、やや赤茶色になっている。

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 室内には監視員が1人いる。小柄の男性が立っている。「S」と名札をしている。てっきり、本館の創設者 佐野氏の子孫、つまり本館の運営財団の理事の一人かと思ったが苗字は違う。その看視員に盛んに質問をしている中年の女性がいる。若い女の子も盛んにSさんに質問をしている。Sさんも色々と解説を交えながら、答えている。
 私は刃文を見ながらメモを取ったりする。他の博物館、美術館と同様に鉛筆ならばメモをしても監視員は特に 注意されないようだ。
  「文化財は 現状保存が 前提・・・」と再刃したときのことをSさんは話をしていた。更に「×× 先生は・・・」と 再刃を担当した人間国宝の刀工の作風の特徴なども解説していた。「信長・・・」や「細川幽齋から ・・・」というような話もしている。

 上記したが「日光東照宮焼身茎押形集」は、茎(なかご)の見本が28口(書いて)あるという。展示されている平ガラスケースの3つのケース分のスペースをとって、ワイドに展示されていた。


 続く、第三のガラスケースは、展示室の一番突き当り。
  関東大震災で焼けた刀が展示されている。徳川御三家のひとつ、水戸家の倉庫で保管されていたそうだ。再 
 関東大震災で焼けた刀剣は、この水戸家と彦根 井伊家の刀剣の展示であった。
 


 ↓ 玄関付近の表示。 
  垂れ幕の掲載画像が、日光の火事で焼けとなった 銘 「助平」 日光東照宮宝物館所蔵であった。
  不動明王が持つ剣の形の溝が風間れているが、見事に再刃されていた。
  茎の部分は、あまり赤くなっていない。

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「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞2

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞2  2019年2月

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。今まで三島には何回も来ているのに佐野美術館のことを知ったのは、ほんの3年か4年前のことだった・・・・。「刀剣女子」がブームのおかげです。

 展示室は2階だった。高床式のようになっている。広い階段を昇ると2階の廊下に。長方形のコンクリートの建物、1階部分はエントランスと受付、高床式のような2階にある展示室の造りは、規模はかなり違うが奈良国立博物館のようだ。
 最初に常設展示を見る。小さな通路のようで、通路に沿ってガラスケースが設置されている。
 重文の 大日如来坐像が展示されている。仏像の展示スペースは、ガラスケースは無い。目の前に昔の仏像が展示されている。 平安 木造乾漆造と解説にある。隣に重文の蔵王権現像。所謂いまで見た蔵王権現と同じお姿の仏像だ。1尺くらいの像の高さかな。大日如来よりは小さい仏像だ。

 ↓ 料亭側の駐車場に設置されている看板に国の重文指定の 大日如来坐像

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 ついで、通路沿いのガラスケースには、花籠印籠など印籠がある。説明には19世紀、江戸時代とある。解説には蒔絵印籠と書いてあるが、黒い漆地の蒔絵?のようだ。かんざし?もある。かんざし?は、鼈甲のような飴色。矢立もある。小さい茶釜などのアクセサリがついていた。矢立についている小さい茶釜はつまり、墨壺になっているのだろう。

 「』」字状の常設展示スペースだった。ここ佐野美術館の創設者、佐野氏の個人収集コレクションの展示なのであろう。
 常設展示スペースを取り巻く(囲う)ように、企画展の展示室があることに気付いた。コの字にようになっている。
 ↓ 退出時に撮影した、佐野美術館の建物入口と外観。2階が展示室。

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 映像コーナーがあるが、設置されているテレビには電源が入っていなかった・・・・。ソファがあるので、しばし休憩。同様に見学者が休憩している。女性の二人連れなどの入館者がいた。
 映像室の隣は、展示室があり展示物も見えるのだが、退出してくる人のみ。順路最後の展示室のようだ。企画展の最初の展示室入口は階段を挟んだ別の所にあったので、その入口から企画展を鑑賞開始する。
 
 室内に入ると人が多いことに「おおっ」と感じた。館の外では、多くの人が出入りしている様子はないが、展示室内は被とが多い。ガラスケース内の展示品の前には、すべて人がはりついていて、鑑賞している。
 第一のガラスケース。長方形の展示室の「短辺」の部分。展示順番の最初にあたるので、ここから見ていく。

 最初の展示は「短刀 無銘正宗」 徳川美術館所蔵。「正宗」で有名なアノ正宗から展示開始。以前、国宝の「正宗」作品も同館で鑑賞したことがある。
  現在の「刀剣ブーム」が起きる前から「正宗」くらいは知識として知っていた。あと、妖刀として名高い、徳川=松平家因縁の「村正」くらいは知っている。ただ、正宗と村正は「正」の字は共通しているが、時代も住地も全然違う。
 展示を見ていったのだが、刃は光っていても、持ち手のところというか、茎(なかご)というのか、根元の部分が黒ずんている展示品が多い。展示のタイトルは「大坂城落城」。説明文には「豊臣氏の滅亡、大阪城の落城に際して、多くの刀剣も同時に焼けた・・・・・。」という意味の内容が書いてあった。
 次の展示は同じく「短刀 正宗」。こちらは、銘が彫刻されていて、判読できる。「相州住正宗」とあり、今の私と同じく、相模の国在住だ。俺は、言うなれば「相州住良月」だな・・・・

 説明では、細川家(つまり、細川幽齋)から豊臣秀吉に献上され、大阪落城の際に焼けたが、徳川家のものとなり、(刀工)の康継によって再刃され、御殿守?、御守殿?、に置かれたとある。同じく徳川美術館所蔵なので、戦利品として、尾張家に伝わったものだろう。茎の部分は赤茶色で鉄の成分が酸化して露出している感じ。銘は読める。

 別の短刀「銘 正宗」 徳川ミュージアム所蔵は「焼身」とある。企画展のパンフレットによると「やけみ」と読む。
 「徳川ミュージアム」所蔵なので、水戸徳川家に伝来した刀剣である。大阪の落城で焼けて、康継が再刃したが、1923年の関東大震災で再び焼身となったらしい。
 「康継」という刀工の名前が登場した。越前の刀工とのことだ。「脇差 貞宗」の焼けたものと、それを復元して、銘文を刻印した作品が展示されていた。。「脇差 貞宗」は、越前 丸岡の城主だった本多成重の所持した短刀。その短刀を越前の康継が写して、作成したものらしい。丸岡城は以前行ったことがある。「一筆啓上」でも有名だ。
 写しの短刀には「越前国康継」と刻銘されているのが読める。焼けた刀は錆びているというか、赤茶けている。刀剣は火災の高温でも溶解することなく、原型はとどめている。鍛造するときに高温で鍛えているので、一般の火災では溶解することが無いのだろうか?。

 説明には「再刃」という言葉が何回も登場した。文字通り、一度焼けた刃を直して刃文を復元するというか、造り直すという意味なのであろう。
 今回の企画展の名称にある「REBORN」とは、「現代に蘇る昔の刀剣」のことかと思っていたが、全く相違した。一旦焼けたが「再刃」して文字通り「再び蘇った」刀であったのだ。私は誤解していた。

 室内の柱の横に短刀の展示の独立ガラスケースがある。「短刀 銘 宗近」である。名古屋の徳川美術館の所蔵であった。独立したケース内の展示なので、特別な刀かと思ったが、特段印象に残る来歴は無かった。

 第二ガラスケース。
 まず「明暦の大火」の解説ボード。大火の説明には「・・・・・江戸城にも 飛び火した。 西の丸は類焼を逃れたが、このとき本丸、二の丸、三の丸が焼け、本丸天守閣も焼け落ちた。其の後、江戸城の天守閣は再建されなかったと書いてあったかは・・・・、忘れた。実際に、再建されずに現代に至っているし。

 この明暦の大火で焼けた刀が展示してあった。
 かの桶狭間の戦いのときに今川義元を討ち取ったという刀なのだそう!!。「桶狭間」といえば尾張の「信長」の戦いである。どうして、西暦で1657年、桶狭間から100年近く後の大火、しかも江戸の火事で焼けたのか?。
 重要文化財の「刀」、その名も由来からとって「義元左文字」 建勲神社所蔵。金象嵌で、「織田尾張守信長」と本当に彫刻されている。裏には「義元討捕・・・所持刀」とあるそうだ。一度、焼けたので、同じく茎の部分は赤茶色で鉄の成分が酸化して露出している感じ。再刃しても、根元の茎の部分は再刃していない。切る「刃」の部分ではないので当たり前か・・・。
 討ち取りに使用した後、武功を残すため、彫刻したのだろう。金色の文字は鮮やかだが、大火で焼けた後に再び入れたのだろう。説明によると由来は「豊臣秀頼から家康に渡り、徳川家が所蔵したが、明治時代になってから、信長を祀る京都の建勲神社に奉納された」そうだ。「刀」なので太刀のように刃は下向きの展示ではなかったと思う。








「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞1

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞1   2019年2月

 佐野美術館に初めて来ました。今まで三島には何回も来ているのに佐野美術館のことは知らなかったのだ・・・。知ったのは、ほんの3年か4年前のことだ・・・・。「刀剣女子」がブームとなり、関連して重要な刀剣を多数所蔵している佐野美術館が取り上げられるようになったからだ。
 特に昨年、京都国立博物館で開催された「京のかたな」展では佐野美術館の館長さんもテレビ番組で解説に出演された。よって佐野美術館がマスコミでも広く紹介されたのは記憶に新しい。最近まで知らなかったのは、本当に恥じるべきことだ。
 しかも当初「佐野美術館」は栃木県佐野市にあるのかとも誤認してしまい、実際の所在地、静岡県三島市と結びつかなかった・・・。本当にお恥ずかしい限りだ・・・。
 
 今回は、車で御殿場経由で三島に向かった。三島市街地の手前、新幹線の線路や東海道線のガードをくぐる道路は渋滞して、混雑している。三島大社付近の道路などを通過。久しぶりの三島だが、何回も来ているので慣れているぞ

 「市街地を南下し、修善寺への鉄道線路の踏切を渡る。と、道路沿いに「佐野美術館」と小さい看板がある駐車場に車を入れた。15時頃に着いた。
 Pには、車がたくさんある。「松韻」の料理店と併設であった。「なーんだ、いつも通っていた、この料理店の駐車場が、美術館の駐車場だったのか!!。」と改めて思った。三島のうなぎの店を探していたときに、この店の前は何回も通ったことがあった。特に「三島うなぎ」と看板は出していなかったので、今までここで食事をしたことは無い。「随分、車が停まっていて混雑しているお店だな。」という印象はあった。

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 駐車場(P)の端には美術館の案内看板があった。「ああ、本当にここにあるのだ。」と再確認に、なんだか安心(笑)

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 門のような通路があり「入口は、ここかな?。」と思うが、美術館自体は「庭園を抜けた先」と表示が出ている。 建物の脇の通路を通り、庭園へ。と、母と娘らしき女性二人が庭園を散策している。
 庭園から、料理店の店内の様子が見える。昼食時なので、店内は混雑しているようだ。庭園側はガラス張りになっていて、眺めながら食事ができるようになっている。
 事前にサイトで確認した通り、美術館は庭園に隣接している(というよりも庭園内にある)のだ。

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庭園から、料理店の建物外観

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 庭園を抜けるとコンクリートの建物が見えた。四角いコンクリートの高床式の無機質な建物。この日は企画展の開催最終日だ。またしても、最終日の訪問となってしまった・・・・。
 駐車場は館の建物の周囲にもあった。
 
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 階段を昇り、館内に。結構、観覧者が建物の外観を撮影している。美術館の建物に隣接するPは、表通りの道路とは反対の住宅地側から入ることができるようになっていた。「気付かなかったな。今までも、来ていればよかったな。」と思いつつ、階段上から目の前のPの様子と周囲の住宅地を見ながら入館した。
 と、ロビーには、小さいながらもショップがある。いましたよ~ここにも刀剣女子が。というよりも、既にここ佐野美(と以下略称する。)は「刀剣女子」の重要な聖地のひとつである。
 女子の入館者がショップに数人いる。皆、グッズなどを見ている。
 受付はメガネをかけ黒髪を後ろで束ねた黒いスーツ姿の女性が1人立っている。受付係員は1名のみで入館券の販売も「短刀」ならぬ、「担当」していた。1000円丁度の入館料金。千円札1枚を出して購入する。
 ロビーの柱には「(この企画展で) 二万人入館達成!!」と垂れ幕がかかっている。
 企画展「REBORN 蘇る名刀」の会期は、1月の上旬から休館日も含めて1ヶ月半くらいである。2万人という数字が多いか少ないのかは、何ともいえなはが、ここ佐野美では、恐らく空前の入館、鑑賞者なのであろう。 以前は、大勢の入館者が押し寄せる美術館ではなかったであろう。
 三島市内の他の観光施設と連携したスタンフ゜ラリーの台紙が置いてあった。しかし、スタンプラリーも本日が最終日であった・・・。よって、スタンプを集めることは不能だ・・・。でも台紙は貰った・・・。



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世界遺産 伊豆 韮山反射炉 見学2

 2017年4月。 世界遺産 伊豆 韮山反射炉 見学2

 春、桜が満開であるが、今年の桜の季節もそろそろも終わりかな・・・。あと何日かすれば、落花盛んとなってしまう・・・・・。

 入場券を買って、真新しい資料館から見学する。
 
 館内には、展示コーナーが始まってすぐのところに、まず韮山反射炉に関する年表などがある。日本や、徳川幕府、韮山反射炉の歴史についての解説がある。
 展示コーナーの奥には、映像シアターがある。大きいスクリーンがある。ちょうどシアターの上映が終わったところで、人が移動
 しばらくすると、再びスアターのスクリーンで、映像が始まった。ドーーーンという効果音と解説の声が聞こえてくる。私はシアターの映像は見ないで、先に展示室内の年表や石炭、製品の鉄などの実物展示や、各地の反射炉や近代化の工場などの解説バネルを見る。

 ↓ 年表を見た後順路に従い「反射炉の全貌 反射炉の全てに迫る」のコーナーへ。

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 反射炉のある韮山のだ代官であった江川太郎左衛門の絵も。ウチの子は「小学生のときに教科書に載っていた。」と言った。「(絵は)目がギョろっとしていて、怖かった。(太郎左衛門の顔が怖くて目がギョろっとしているので)寝る時も怖くて、寝れなかったそうだ」そうだ。小学生のあどけないというか、ほほえましいエピソートだ。今じゃ「うるさい!!」しかうちの子は言ってこないが・・・・。
 江川太郎左衛門であるが、この時代の当主、江川英龍のことだ。代々「太郎左衛門」を襲名していることは知られている。西暦でいうと1855年くらい、ペリー来航のに二~三年後くらいに死亡している。英龍は明治維新までは生きていない。
 次の当主は、その三男?。次は4男、前当主の弟が継いでいる。英龍の子の二人は、肖像画ではなく撮影された本人の写真が展示されている。英龍は写真を残さず死亡したので絵しか残っていないのだろう。
 英龍の子が当主のときにここ韮山反射炉は廃止されている。
 自邸から近い、水のあるところに 反射炉を造作しのだ。

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見学には、家族連れや子連れも多い。子供達は、小学生から中学生くらいの年齢かな。あとは団体客もいる。大型バスでも来ている。大型バスが何台か先程車を停めた駐車場に停まっていた。

 一旦外に出る。ボランティアガイドの説明が始まるそうだ。しかし、定時の説明があるのではなく、団体向けの案内らしい。
 緩い坂道を歩く。岡に更に上に。、新しいお土産物屋さんや食堂の建物がある。世界遺産指定後 ブーム、特需に沸いているのだろうか。

柵の内側の敷地に入る。桜はやや散っていた。弱い雨が降っている。北海道からの団体がきていた。

再度 入館する。再入場可能。映像シアターに席をとる。日誌から映像で復元。 リアルなCG画像だ。制作にお金をかけている。BGMも立派だ。15分おきで。8分間。よって7分の間があめ。間は、展示を見る。「江川文庫というのがあるね」と誰かが言った。 万延元年のこと。銑鉄をまきのように積んで 点かしている。温度が高くなる。溶け出して斜面がついているので流れ込む。夜10時に開始、徹也で溶かして翌朝6時に。カタに流している。 冷やして 取り出す。グリグリと削っている。18日間で。水車のと瀬宇力で 砲身のくりぬきをした。
ふいごで 人力で空気を送っていたのではなかった。
鉄は網代で陸揚げして馬で輸送した6日間で。 釜石から運んだ。船は江戸を出て、網代に行った。シアターの両脇には、展示がある。 出土した 鉄の残渣 滓など。石炭のかすもある。映像の合間に見た。途中で見たところまで放映されたので、退出する。


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↓ 間に展示を見る。

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 出口付近には、昔の反射炉の写真もある。明治時代初めや30年代、40年代の写真も。
 操業を停止しても、炉は残っていた。地元の人々が羽織はかま姿で撮影されていたり、山高帽、スーツ姿の人が写っていたり、明治以降も韮山付近のランドマークとしての存在ではあったようだ。
 忘れられて、放置されていた訳ではないようだ。
 昭和20年代の写真もある。戦時中はほとんど放置状態だったと思うが、戦後しばらく経過して、ようや保存や開がスタートした。敗戦後の生活が厳しい時代にほぼ放置されていた反射炉周辺の写真が撮影されていたとは驚きである。
 展示されている反射炉の写真は、次に昭和50年代に飛ぶ。子どもの私が訪問したのは、この数年後 昭和6×年のことだ。よって、私が子供のときに見たのは、50年代の写真に近い反射炉の姿であったろう。
 館の外に出る。出口付近には砲弾や砲身の一部の模型展示もあった。




伊豆 韮山反射炉 見学1

 2017年4月のこと。伊豆・  韮山反射炉 見学1

 春、桜が満開であるが、今年の桜の季節もそろそろも終わりかな・・・。あと何日かすれば、落花盛んとなってしまう・・・・・。

 伊豆半島の北、韮山まで熱海市経由でやってきた。何年ぶりのかの伊豆半島北部である。以前は三島の湧水群に来たことがあった。

 
 ↓ 反射炉の遠景
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 珍しく子供を連れての外出。下の子は熱があるというので行かない。新学期になり、環境が変わって緊張しているのかな。「知恵熱」かも。上の子のみ連れて出かけた。

 神奈川県側からのアクセスであるが、海沿いの道を熱海へ。熱海市街地から国道の坂道を登る。ここは、三年前にも通ったことのある、函南町のオラッチェのある盆地を通過し、函南駅の下を通り、病院の前を下り。三島から通じる国道136号線に出る。
 と、伊豆道の新規開通の関係で道路がかわり 高架道の下をまっすぐ行ってしまう。交差点を伊豆方面曲がるタイミングを間違えた・・・・。
 宅地の狭い道から 全く違う道へ。わからないが大体の見当をつけて 丘を左に見ながら 南下。適当に行くと 田んぼの中の道に「江川邸」と出ている。「韮山反射炉」とはない。交差点を 二回曲がり、更に 南への道を進むと 「韮山反射炉 km」と標識がある。江川邸とは2kmくらい距離があるようだ。屋敷地の近く 少し離れたたころに造営したのだろう。

 迷う。韮山反射炉へ。田んぼの中りの道。集落の中を進む。江川邸の看板がある。邸にはいかない。更に進むが道に看板がなくなる。しかし 2kmという看板がある。集落の中の道左折して 山側に入ると 廣井駐車場がみえた。ここだとわかる小学生のときに来て以来だ。蛭小島の跡地も行ったが、田んぼに囲まれた神社のようなところたった。地図で見ると反射炉と江川邸の中間からさらに鉄道側。 徒歩でも行けるところだ。反射炉付近のことは全く覚えていないが、ガランとしたところで、反射炉の塔以外には覚えていない。

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同行している上の子は、以前、修善寺に向かう電車の車窓から反射炉が見えたと言っているが ガセであろう。
きっと、銭湯の煙突ですよ。(冗談)

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資料館が出来ている。立派で新しい。

自動券売機で購入。大人は一人500円。券を見せて、入る。入口付近はロビーになっている。

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ベンチがり 伊豆など近隣地域の観光案内パンフが置いてある。雨なのでここで休んでいる人は多い。



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