良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

岡山県

 

2019年1月 岡山県立博物館 「冬季展」 見学2

2019年1月 岡山県立博物館 「冬季展」 見学2
 

 ここは、岡山県岡山市。正月、無料公開中の後楽園に行った。(旅行記は後述する。)
 隣接している「 岡山県立博物館 」も無料となったので、に行くことにした。

  ↓ 常設展示室における刀剣の展示。

 まずは、1Fの右手に刀剣の展示室がある。刀剣ブームの影響か、見学者は多い。室内の撮影は不可であった。室内の真ん中の平ガラスケースには、刀剣の付属品、鍔などの展示がある。
 「刀の重さを体験しよう。」というコーナも。刀剣の見本が持ち上げられるようになっている。勿論、鎖で繋がれ、強化プラスチックケース内にある見本。片方の手だけを入れて持ち上げることができるようになっている。鉄なのでやはり、重い。片手では、ずっと持っていると手が疲れるなあ、と思った。
 太刀の展示が中心である。短刀やなぎなたなどの展示もある。現在、ここ岡山県立博物館に寄託されている国宝 太刀、通称名「山鳥毛」(個人所蔵)の購入に関する寄付のお願いのチラシもあった。

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 刀剣の展示室、刀剣の重文は2点あった。展示リストがないので分かりにくい。(あとで、ウェブサイトを見たら、展示リストが掲載されていたが、博物館内には置いていなかったように思う。見つけることは出来なかった。)
 「備前」は刀剣の生産地として大変有名である。美濃などと並んで、備前は重要な生産地であった。「五箇伝」という言葉は昨年知ったばかりだ。相模もそのひとつとは、知らなかった・・・。
 現代において、刀剣といえば、美濃、次いでここ備前ではないか?。しかし、岡山在住中は「備前の刀」も、もうひとつの岡山名物「備前焼」にも全く関心がなかった・・・・・・。でも長船(おさふね)周辺が刀剣で有名とは知っていたよ(言い訳)。

 重要文化財 「太刀 銘 則宗」 鎌倉前期。福岡一文字派の祖。反りは高い、3.3センチ。「そほ身の刀身。刃文は、小乱と小丁子のある直刃調。直刃という。持つところの穴は二つあった。長さは80センチという。

 重要文化財 「太刀 銘 長光」 鎌倉中期 。長光は、衰退した福岡一文字派のあとの長船派の人という。持つところの穴は一つだった。反りは、2センチ、長さ73センチ。
 福岡一文字派は、鎌倉時代の前期から中期にかけての時代までで、長く続かなかったようだ。

 次いで別の展示室では、戦国から藩政時代の展示。原則として撮影は可能であった。昔の船の展示もあった。
 藩政時代、藩祖 池田光政の事績の紹介がかなりの部分をしめた。光政の事績の説明では「池田利隆の嫡男で、姫路、鳥取を経て、岡山に入部したと。」いうような紹介の展示だ。名君とたたえられている。
 後楽園を創設したのは、光政の子の綱政であるが、あまり紹介はない。(綱政には、子供がたくさんいたはず。)
 「初公開」として木山神社の「神狐」像が展示されていた。
 特に文化財指定はないようだ。↓ 博物館のポスターにその写真が掲載されている。
  このフロアの展示物のなかでも「神狐」像は撮影禁止であった。

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  館内の様子。 後楽園の木製の水道管。
 園内には木の管を通して水を供給していた。

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 続いて印象に残った展示を挙げていくと、法然上人絵伝の複製があった。48巻のうちの巻1の複製。
 
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 池田利隆の書状の展示があった。異母弟の忠継が1603年の小早川秀秋の死亡後に岡山の領主となった。利隆自身は、姫路領主。
 忠継は家康の孫(娘の子)なので優遇されて独自に岡山領を与えられたようだ。

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 閑谷学校の絵図。複製品。

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 後楽園の説明や歴代 池田家の当主の系図や説明があった。
 光政を祖とする岡山 池田家の当主は、「左少将、伊予守」が多い。位は、従四位下だったであろう。
 侍従の当主もいる。左少将になる前に死亡したのだろう。備前 岡山藩なのに「備前守」ではない。
 幕末の当主 茂政は、掲示の系図を見る限り、初めて備前守となっている。

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 同じ室内の別のコーナーはうってかわって、昭和初期??の民家の復元。

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昔の船の展示。高瀬船であるので、川の渡船のようだ。
てっきり、瀬戸内海の漁のためだったかと思った。
詳細は忘れた・・・・。
一番、目立つ展示品であった。

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2019年1月 岡山県立博物館 「冬季展 岡山藩主の書画」 見学1

2019年1月  岡山県立博物館 「冬季展 岡山藩主の書画」 など見学1
 

 ここは、岡山県岡山市。
 愛媛県松山市にも行ったが、岡山にもやって来た。(旅行記は後述する。)

 毎年「後楽園」の正月無料公開があるので、正面門の近くにある「県立博物館」も「無料公開」であるのでついでに行くことにした。後楽園に来たのは、十何年ぶりだ・・・・・。
 かつて、後楽園の無料公開には来たことがあったが、県立博物館が隣接していて、同じく無料公開を実施しているとは、知らなかった・・・・、というより、覚えていないのかも・・・・。 
 県立博物館、県立美術館ともに在住中は来たことが無かったと記憶する。博物館については、無料公開のときにこの日と同じく見学したのかな~?、全く記憶にない・・・・・。

 ↓ 入口の正面を撮影。「無料開館」の大きな告知。

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 寒い日だったので、博物館の入口を入って、ロビーで温まる。と、戦国のカブト、体験コーナーがあった。


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 お正月らしく「岡山藩主の書画」でも見学しようか、と二階の展示室に階段を登る。右手の展示室は、原始時代から古墳時代などの土器など出土品の展示。

 岡山で一番有名な藩主は、池田光政であろう。その子、綱政、更にその子、継政の書も展示があったと思うが、覚えていないのだ・・・・。
 綱政は、後楽園を造営した当主とされているが、実際はフツーというか、凡庸な殿さまだったようだ。子だくさんとしても有名であるが、あとを継いだのは、将軍綱吉の諱を賜った吉政ではなく、小さい子どもの継政。継政の後継はうまく行かなかったと思える。
 (旧閑谷学校にも行ったのだが、光政の子、綱政については暗愚だったというような説明の看板を掲示していた・・・。)
 
 継政の次の藩主、池田宗政の書もあったと思う。

 更に次の藩主は池田治政。大きく「亀」の、一字の書。崩して書いてある。読めない。

 「思秋」とある書は、池田齊政のもの。解説には「治政の嫡男」とある。小さい横書きの書である。

 次の当主は、斎敏である。説明には「齊政の養子で、島津齊興の次男。」とある。
 島津齊興の長男は、有名な斎彬であるが、展示の説明にはない。
 実は、先(12月のミニ旅行で行った)に展示を見た佐賀 鍋島家の当主、直正(将軍 家斎から、拝領した片諱を返上するまでは、斎正)の母方のいとこにあたる。鳥取の池田家の娘が、島津齊興の正室であり、その子が、島津齊彬と池田斎敏。家系としては200年くらいさかのぼるので遠いが、池田輝政の子孫でもある。(女系で別の池田家の血筋もあるかも知れないが)
 その縁で、岡山 池田家の養子となったようだ。この時点で、光政の子孫の男系当主は絶えることになったのだろう。

 斎敏の「寿福」の書は「壽」と旧字である。(昔の書だから、当たり前であるが・・・・。) 説明によると「長寿を願う言葉」とのこと。斎敏の「楽園」の号も、揮ごうの横にかいてある。しかし、斎敏は、わずか31歳で死去したとある。長寿を願う書を書いていたのに、何とも皮肉である。元々病弱だったから、かえって健康長寿を願ったのではないだろうか?。 

 次は、奥平昌髙の子、慶政。(つまり、有名な島津重豪の孫)
  自分の号は朱色で書いている。「鶴宝」と縦に豪快に書く。しかし、「鶴」が崩し文字で読めない・・・・。「豪快」(いろんな意味で、しかも、子だくさんの)な重豪の孫らしい、自由な書だ。


 次の代の茂政や章政の書がある。共に養子である。茂政は、水戸藩の斎昭の子、つまりのちの最後の将軍、慶喜の弟である。

 次の藩主 章政は「人吉藩主の相良頼之の子」と展示説明にある。相良家の当主は、宗政の子が養子に入り、その子孫なので男系で輝政、光政の血筋の筈。男系が維持されたことになる。

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 今回の冬季展示での一番の目玉展示は、岡山藩主 池田家 歴代当主の書のようったので、他の展示はざっと見たのみて、覚えていない。


 ↓ 博物館の反対側に、後楽園の正門がある。
   無料公開中だった。

   
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足守 旧城下町の街並み 散策

 2015年8月

 ここは岡山県岡山市。旧城下町足守の散策です。岡山市は政令指定都市になる以前から市域がかなり広く、ここ足守も岡山市になっています。バスでは中心部から50分くらいかかると思います。本数がどれだけあるか、分かりませんが。鉄道で無電化の単線路線に乗り、ディゼルカーに揺られてとある駅(確か足守駅)で降りて来る方法もあったと思いますが、ローカル路線の駅前からバスがあるかは分かりません。駅からも数キロの距離があります。
 
 近水園近く、足守小の前の駐車場のすぐ近くには、市役所の足守センターがあります。公民館のような機能もあるので、こちらに来る人もちらほら。人が出入りしています。陣屋跡の前の道や近水園は私達が訪れた時間帯はほとんど人がいませんでした。
 
 足守小の前の観光用駐車場付近から。

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駐車場の様子。車はほとんど停まっていませんでした。小さい売店もありますが、閉まっていました。
駐車場のお隣の白壁の建物は昔の商家の蔵のようです。

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 移動して足守プラザまでやってきました。陶芸、工芸などの体験コーナーや物産販売があります。足守観光の拠点となる所です。カフェもあります。暑い夏の日に必須のアイスもメニューにあります(笑)。「アイス食べたいな~」と指をくわえてしまいましたが(笑)。
 この日は閉館した後で、中では係の人が片付けをしていました。

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 足守ブラザの前。駐車場と土蔵造りの家が残る町並みの様子。先ほどの陣屋の周辺は武家の居住地区で、こちらは商家街だったようです。昔の家や蔵なのどの建物は足守プラザ周辺の方がよく残っています。明治以降も商売で繁栄したからでしょうか。

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 足守プラザは閉館時刻のあとでしたが、久しぶりに訪れました。
東の方向。この先を行って左に曲がれば、先ほどの小学校や旧陣屋跡、足守センターです。


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 さ、もう一度街並みの写真を撮影して帰ることにします。現在は遠くに住んでいるので、もはやここにも、そうそう来ることはできませんね。

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 緒方洪庵の記念碑もあるのですが、立ち寄りしませんでした。街の外れ、足守川を渡った空港側の山の麓にあるのですが、割愛しました。

 足守の街並みは、岡山空港を離発着する飛行機の中から見ることも可能です。風向きによって進入路は違うのですが、離陸するとき、西に向かって離陸すると、すぐ眼下に足守の街が見えます。ただ、小さい街なので「あの街は足守だ。」ともともと知っていないと気付きません(笑)。離陸するときは一気に上昇するので、見えるのは一瞬です。あっ、もちろん窓側の座席に座る必要はあります。
 着陸するときは、東京路線の場合、空港上空を通過して西に行き、ターンして高度を下げて滑走路に進入するので、比較的よく街並みを見ることができます。
 先日の記事でも書きましたが、近水園にいる間、岡山空港に離発着する飛行機が上空低いところでで爆音を轟かせていました。封建時代の遺構と現代の先端技術の見事な対比を間近に見ることができました。







足守 近水園と吟風閣

 2015年8月

 ここは岡山県岡山市。足守 近水園の散策です。
 池のほとりに建つのは吟風閣です。庭園の北西の端に山を背にして建っています。南東に池が開けています。

 ↓ 池の中の島から眺めた吟風閣。
   二階建ての風雅な建物です。

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記念碑。文字までは読んでいませんが・・・・。

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吟風閣に近づいてみます。雨戸が閉じられていました。

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数寄屋造りというこで、どこか京都にある寺社仏閣の建物のような感じです。雨戸が開放されるときもあるようです。以前来たときは開いていたと思います。
そのとき、写真や園内で子供を歩かせてビデオを撮影して記憶があります。そのときの写真やビデオを探しましたが、見つかりませんでした・・・。デジタルカメラではなかった時代なので(デジカメは勿論あったが、私が持っていなかっただけです。)、今となっては所在が分かりません。
ネガが残っていないかな・・・(古い・・・)。

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吟風閣正面。二階の正面に「吟風閣」と額があります。
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 池を眺める縁側(廊下というか、正式な呼び方が分かりませんが・・・・)。今では誰でもここに来ることができますが、昔はお殿様や限られた者しか入ることはできなかったのでしょうか。池に近い縁側の上に立つと、池の水上から庭園を眺めるような感じです。まさに「良き眺め」であったと思います。

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吟風閣の前から池を眺める。池の向こうには借景の山々が見えます。写真で見る限り電線も写り込んでいません。昔のお殿様が見た風景とほぼ一緒ではないでしょうか?。
もちろん、当時利玄の碑は島に無く、庭園の整備状況なども異なりますが。

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園内には「マリア燈籠」があるとのことでしたが、どれか判別できませんでした。木下家のご先祖、木下家定は、キリシタン大名の一人だったと思いますので、そのときの物が現在まで伝わったのでしょうか。


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かつての陣屋の方向。空地になっていて、その向こうに屋敷があります。
先ほど門越しに眺めた利玄の生家だったと思います。

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庭園の説明。

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 庭園の平面図。池の島で大きい島は「亀島」、小さい島は「鶴島」というようです。足守川の上流から庭園内の池に水を引き込んでいる様子が分かります。
 足守川が丘陵地帯(現在はその頂上部を削り空港になっている場所もあるが)から平野部に出てくるたもとに造られたのが、足守の陣屋町であり、近水園です。上の写真で見たように借景の山は現在もほぼ、昔のままです。借景の山は足守川越しに庭園の東から南東にかけて連なっています。まるで、足守川を京の「鴨川」になぞらえ、借景の山を東山になぞらえ、「洛中のとある地点のお屋敷の庭から、鴨川を渡った先の東山の峰々を眺める」ような雰囲気です。
 仮説ですが、高台院様の甥、太閤秀吉の係累である木下氏は、徳川様の天下となった後に封ぜられた備中の領地の周囲の風景にかつて屋敷を構えた「京の街」を見出したのです。

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 「歴史公園」として、もっと整備はできないでしょうか。ここ近水園はかつての大名庭園の貴重な遺構ですし、お隣、現在は草の生えた空地になっている部分もありますが、陣屋跡も貴重な史跡です、落ち着いた足守の風情とともに保存していきたいものです。
 まずは、現在なんとなく踏み荒らされて地面が露出し「自由公園化」している庭園の整備と、庭園敷地を塀で囲う等の入場時間帯制限、吟風閣の建物保存措置が必要と思いました。その際の入場料は・・・・・無料がありがたいです(笑)。
 整備された後の有料でよいではないかと言う人もいるかと思いますが、100円など安価な入場料でもお金を取る以上、それなりの施設管理をしないといけませんし、人も配置して現金管理をしないといけないので、中々大変なようです・・・・。
 現在足守文庫は無料で公開されています。今回の訪問時、吟風閣の雨戸が閉まってしたので、開閉したり管理する人がいるようです。(委託だと思いますが)
 入場無料の庭園の例としては、東京の新江戸川公園(永青文庫の隣)があるのではないか、とひらめきました。柵で囲われて、入園時間が決まっていますが、無料です。整備されており、池とお庭は美しいです。庭園に隣接する建物も保護措置がとられています。(建築年代は、吟風閣とは全く異なりますが。)
 くしくも、昔の細川家のご当主、護立侯爵は白樺派の芸術家と親しく(しかも学習院の同窓)、白樺派の歌人で旧足守領主、木下家のご当主、利玄子爵とも年齢も近く、親しかった筈です。
 近水園と吟風閣が整備され永く保護されることを願います。岡山市、政令指定都市の指定記念新規事業でドーンと打ち上げましょう(笑)。しかし、「予算が無い」という返事が返ってくると思いますが・・・・。






足守 近水園 探訪

 2015年8月

 ここは岡山県岡山市。足守の散策です。
 足守の陣屋跡の前を通り、突き当りに公園のような庭があります。
 その名も「近水園」(おみずえん)です。足守の領主だった大名 木下氏の庭園跡です。陣屋の跡地に隣接しています。陣屋跡と庭園の端の間は空地になっていて、今は夏草が生えているのみです。
 
 ↓ 池の中の島。記念碑が建っています。

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 庭園の入口にある碑。現在は公園のようになっていて、入場は自由です。門も特にありません。小学校の傍らの道路から自由に入ることができます。つまり夜でも入場できる訳で・・・。真っ暗で何も見えないでしょうが。
 それゆえ、管理はあまりされていなくて、木、生垣、芝生などはあまり整備、手入れされていなくて、雑草もかなり伸びています。園内も土が露出しています。犬の散歩などで来る人もいるでしょう。「動物の散歩禁止」となっていたかも分かりませんが。
 ボール遊び、自転車乗り入れなどは禁止されていると思いますが、自由に走ったり、運動したりでききるので、江戸時代から300年以上も続く庭園なのに、有料管理の庭園、岡山の後楽園のように「美しく整備された庭園」ではないのが残念です。

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 ↓ 庭園の説明。
 同じ岡山市内には、「後楽園」があります。ここ近水園も規模は小さいですが、立派な、かつての大名庭園です。
  国指定の史跡や名勝にはなっていません。県指定の名勝になっています。「知られざる庭園」だと思います。
 「園内にはカエデや桜の木が多い」の説明の通り、春には桜の花が咲き乱れ、秋はカエデの美しい紅葉が見られることでしょう。
 夏のこの日は、桜の木の樹液を吸って鳴くセミの声で充満しています。

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 東側。山が雲に隠れています。雷鳴が遠くでしています。雨こそ降っていませんが。山の向こうには空港があります。

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 島の中の記念碑は、明治大正時代の当主、歌人 木下利玄の顕彰碑です。
昔、この島は「蓬莱島」と呼ばれていたかも知れません。

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 島から池ごしに吟風閣を見る。

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 池の反対側。足守文庫があります。早い時間帯で閉館してしまうため、見学できませんでした。木下家、足守の文化財、歴史資料が展示されています。以前来たときも閉まっていました。以前は、開館している時間や期間がかなり限られていたような・・・。
 ウェブサイトによると現在は分かりませんが、過去は「時間内に管理事務所に声を掛けて開けてもらい見学」だったようです。足守出身の有名人といえば、適塾の緒方洪庵。洪庵の資料も展示があるはずなのですが、見学できなかったのが残念です。

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 ↓ 池の様子。錦鯉?が泳いでいます。

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 島を出で、石橋を渡り、「陸地」に戻ります。更に別の島に移動し、池と庭を眺めます。

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 もうひとつの島。「鶴亀島」でしょうか。


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 ↓ もうひとつの島から、記念碑のある島を。借景の山が正面に見えます。


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旧足守藩木下家陣屋跡と足守の街並み

 2015年8月

 ここは岡山県岡山市。足守の散策です。高梁から山の合間を通る国道180号線を川沿いに下り、岡山平野に出て、視界が開けた所で、川を離れて曲ります。お盆休みに近い夏の夕方、道路を往来する車は多いです。

 そして足守にやてきました。岡山空港のある丘から真下のも当たります。空港に離着陸する飛行機が間近に見えることもあります。
 
  ↓ 足守藩 木下家の陣屋跡。

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 足守藩木下家といえば、白樺派の歌人で明治~大正にかけての当主、木下利玄。志賀直哉、武者小路実篤の友人としても知られています。堀のそばには、「利玄みち」と標識があります。矢印に沿って歩くと、利玄の生家跡に着きます。ここから100メートルもありません。
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陣屋の端のお堀。お城のように深い堀ではありません。江戸時代に領地の政治を執る場所として造営されたので、戦闘に備えた堀は不要なのでしょう。

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↓ 屋形遺構の説明。

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↓ 生家の説明。明治時代になっても、旧領地の陣屋の跡にかつてのお殿様の一族が住んでいたとは驚きです。いや、驚くまでもなく、普通だったのでしょうか。維新からしばらくは、新政府から俸禄が支給されていたのか、近代的な産業がない当時のこの地で生活の収入をどのように得ていたのかは分かりません。

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生家の門。以前も来たことがありますが、修理されたようで壁が新しくなっています。
以前来たときは、門が開いており、奥の家屋まで行くことができました。もっとも奥の家屋は戸締りをしていて見学をすることはできませんでした。
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門と堀。堀はかつての陣屋の南面。つまり、正面に堀のはずですが、細いです。形式的なお堀のようです。

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陣屋の敷地の更に先、近水園の方向。
復元された??屋敷が建っています。
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↓ お堀の前には小学校があります。かつては重臣などの屋敷だったと思います。
写真 すぐ右にはお堀があり、陣屋跡です。

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学校の校庭の一角にある昔の建物。屋敷の門の遺構です。
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↓ 門の説明。


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駐車場近くの街の様子。

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足守の観光用の駐車場。夕方の時間帯で誰もいませんでした。お店も閉まっていました。

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かつての侍屋敷の遺構。現在も見学できるようですが、この時は時間外でした。

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↓ 侍屋敷の説明。家老のお屋敷の跡です。
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 足守藩の石高は2万5千石とあります。現在の岡山市の中心部のお城を中心とした岡山藩に比べても小さい藩です。
 この侍屋敷にはお殿様が来邸したこともあったようです。陣屋にも近いので、歩いてすぐです。それとも駕籠で来たのでしょうか。小さい街なので、お殿様との距離も近かったのでしょうか。お殿様というと、御殿の奥深くにいて中々御目通りのかなわない存在とイメージしがちですが、ここは街の規模も小さいので、御殿奥深くに・・・・、という感じがしません。


高梁 旧武家屋敷地区(石火矢ふるさと村)など散策

 2015年8月

 ここは岡山県高梁市。備中松山城から降りてきました。「下」の市内の散策です。
 
 重伝(重要伝統的建造物群保存地区)指定かな、と思いましたが、違いました。誤解していました。
 しかし県の「ふるさと村」に指定されています。城から降りてくる道の途中にも「石火矢ふるさと村」の表示が出ています。岡山県にはいつくか「ふるさと村」があり、古い町並みなどを残している地区が指定されています。

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 お城から武家屋敷街の跡に向かう道路途中。車で登る途中にも通りました。石垣が組んであり、その上は更地になっています。「山田方谷先生家塾」と記念碑が建っています。
 武家屋敷街の上、御殿の上の方の立地なので、かなりよい場所に屋敷を拝領したのだと思います。この位置から上の家臣の屋敷はほとんどなく、上級の家臣の屋敷よりも坂道で登った上にあたる場所です。すべての家臣の屋敷を見下ろすことができるような立地です。
 それだけお殿様に信頼されていたのでしょうか。

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 武家屋敷街の様子。城、かつての御殿跡からやや離れたところ。石垣と壁は残っていますが、土地に建つ住宅は現代のハウスメーカーのものに変わっています。空地もあります。かつての武家屋敷といっても現在では、ふつうに住民が暮らしている私有地がほとんどであり、車が一台すれ違うのも困難な道では現代の生活には大変です。
 庭園で有名な「頼久寺」は写真の右、標高が上の方です。頼久寺には以前訪問したことがあるし、この日は夕方で拝観時間も過ぎていたので、行き(け)ませんでした。

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 武家屋敷街を過ぎて、離れた場所にある教会堂。同志社の新島襄は明治時代ここ高梁に伝道に来たことがあるそうです。現在まで教会が残っています。

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 サイディング壁の教会。岡山県指定の史跡になっています。新島が来た後、明治22年に建設されたとあります。県内では最古の教会建築と書いています。カトリックではなくプロテスタントの教会です。どことなく、外観がアメリカの教会を思わせます。
 教会の周囲は、普通の宅地です。昔の面影はあまりありません。

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 ↓ 教会の敷地の前を流れる川。景観を守るため、かなり整備されています。

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 同じく、方向を変えて 川のお城側。武家屋敷街の方向には学校があり、かつての藩校もあったようです。

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 ↓ 藩校「有終館」。「有終の美」を飾るべく名づけられたのでしょうか。

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  ↓ 既出。お城のある山の上から高梁市街地。
    教会のある場所は・・・・写真の手前の方で、林に隠れて山の上からき見えないようです。

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備中松山城(臥牛城) 見学記(天守閣、本丸と城跡からの眺望)

 2015年8月

 備中松山城。 
 現在、全国に12ある現存古天守(現存天守)のひとつ。
  「臥龍」ならぬ「臥牛城」の異名もあります。このお城が立つ山を「臥牛山」というそうです。確かに、牛が臥せったような山頂です。城郭群も牛が伏せたように見えます。しかし、山の上の城郭群は、龍が地を這うように建てられているといえます。私としては「臥龍城」と名付けてもよいくらいです(笑)。
 城郭が山の尾根にそって細く、長く続いており、天守閣が敵に奪取されても、更に奥の二重櫓に籠れば、まだ戦えるのではないかと思うくらいの「縄張り」です。

 本丸、天守閣いた頃には、遠くで雷鳴が聞こえていましたが、やがて雷雲は去ったようで、雲も薄くなってきました。雷雨の中、下山するのは、危険を伴うので安心しました。ましてや、ここは日本有数の山城、山の上に角を生やしたように天守と櫓が屹立しています。雷が落ちる可能性だってあります。雷に打たれることをあるかも知れません・・・。現在では避雷針も整備されているのでしょうが、危険です・・・・。

↓ 山道の途中で見える高梁市内の風景

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  ↓ 天守閣の二階には神が祭られています。「社壇」と説明があります。

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二階の急階段の様子。

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二階からの眺め。本丸です。

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天守閣を見終わり、外に出ました。よく見ると天守閣に附属して石落とし(違うかな)が付いています。
ともかく、石垣よりでっぱりがあるので、何らかの「仕掛け」があるに違いありません(笑)。

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天守閣の外に出ました。もう一度 振り返ります。

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↓ 真正面に天守閣を捉えて撮影できました。

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そして、本丸を出て、二の丸に下り、坂道を戻ります。
途中、市内の絶景を見下ろすことができます。最近、備中松山城は「天空の城」としても有名になりました。標高の高い山の上にあるため、景色は抜群。下に広がる市街地は盆地のため、春や秋には霧が発生しやすい。霧の上の浮かぶ姿が見れるため、兵庫県にある元祖「天空の城」に次いで有名になりました。この日は真夏なので、霧はかかりません(笑)。霧の上に浮かぶ城の写真も観光案内にありますから、この城をほぼ同じ標高で別場所から見ることができる場所があるのでしょう。

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大手門の外の部分あった説明板。崩れやすい崖の上にも櫓が建っているため、補強工事をしていました。

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もろそうな岩盤の上に石垣があります。本当に崩れそうです。長い年月、風雨にさらされているので確かに工事が必要ですね。中国山地は比較的もろい岩が露出しています。住んでいた頃も時折、道路の崖から落石があったというニュースがありました。国道で落石による死亡事故も発生していたように記憶しています。それだけ、頻繁に崩れるということなのでしょうか。

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かつての城の石垣。望楼のようになっています。きっと絶景が見えるだろうと行ってみました。

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↓ 市内を見事に見下ろすことができます。

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↓ 高梁川の様子。倉敷、水島工業地帯の近くにそそぐ川ですね。写真の奥が下流、南の方向です。

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下りは、すいすい、という訳ではありませんが、登りよりも楽に歩くことができます。(当たり前ですが。)閉館時刻に近いので、登城の道を登ってくる人はほとんどいなくなりました。車に戻ります。シャツの襟までびっしょりと汗をかきました。もうぐしょ、ぐしょです(笑)。






備中松山城 見学記(天主閣内部と二重櫓)

 2015年8月

 備中松山城。 
 現在、全国に12ある現存古天守(現存天守)のひとつ。
 真夏の蒸し暑い日でした。訪問したのは、閉館時刻に近い夕方です。天守の内部にいると、遠くで雷鳴が聞こえてきました。今にも雨が降りそうな空になってきました。

 天守閣の奥の部屋の小窓から城の奥を見る。更に建物があります。
 ミニ天守のようです。この天守も小さい。「あれっ、ここは櫓で、あの建物が天守なのかな?」と思いました。受付でもらったお城のパンフレットを改めて確認します。建物内の高気温と高湿度のため、手は汗だらけですが・・・(笑)。
 天守閣ではなく「二重櫓」であることが判りました。「やはり、今いる建物が天守閣だ。」と理解しました。二重櫓は天守閣と同じく江戸時代の建物で、重要文化財に指定されています。奥まった所に鎮座しているのであたかも天守のようです。

 

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 ↓ 小窓から見た二重櫓

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 天守閣の奥に突き出たようにある部屋。「装束の間」です。一段高くなっており、上座かなと思いましたが、やはりお殿様の部屋でした。普段は使用することは無いのでしょうが、いざ籠城となると奥方や姫はここに籠るのでしょう。 ↓ 詳しくは説明書きをご覧ください!。

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↓ 装束の間の入口の様子。それほど広くありません。いざというとき、殿様とその奥方、御子が籠ればいっぱいになってしまいます。

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昔はいざというときの自害の間だったのですが、現在ではテレビが置かれています。平和です(笑)。地元の商工会の人が制作して映像を流していました。

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「装束の間」の角の様子。この部屋の上には床(つまり上階)がありません。屋根になっています。
天板も張ってなくて、天井もむき出しになっています。忍びの者が入らないようにするためでしょうか。
床下は石垣で、忍びの者を防いだそうです。まさに「忍び返し」。

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「装束の間」の角の様子。
天井もむき出しになっています。太い柱でくぎを使わず、木組みとなっています。横に
太い材木は、天守を支える梁ですね。

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格子から見た二重櫓。天守から更に木戸があります。戦(いくさ)で天守が危ないときのサブの籠城場所でしょうか。太平の時代は倉庫だったような気がします。城郭の一番奥にあるので「お宝」を隠しやすいような(笑)。

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改めて二重櫓。あそこには行けないのかな、と思い天守の中を歩きましたが、つながっている出口はありませんでした。行くことは不可能で、ここからの外観のみでした。櫓につながる門も固く「かんぬき」で閉じられています。

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↓ こちらは、一階の広間というか、広い板の間にぽっこり開いた、囲炉裏です。

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囲炉裏から天守閣の出入り口りの方向。写真奥の口から、観光客は出入りします。

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いろりと内部の様子。写真の奥にわずかに二階に上る急な階段が見えます。

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天井の木組みの様子。丸太わ荒削りして、そのまま使用しています。丈夫そうです。

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備中松山城 天守閣内部 見学

 2015年8月

 岡山県高梁市にある備中松山城にやってきました。 
 現在、全国に12ある現存古天守(現存天守)のひとつです。ついに全十二城「制覇」を達成しました
 真夏の蒸し暑い日でした。訪問したのは、閉館時刻に近い夕方です。時間がたつにつれ、どんどん雲が出てきました。本丸まで来た頃には、遠くで雷鳴が聞こえはじめました。

 本丸跡に復元された櫓の脇にあった冷茶コーナーで無料のお茶をガブ飲みした後、パワーを回復して天守閣に入城ました(苦笑)。

↓ 天守閣のたつ石垣(天守台)の下部は、盛り土のようです。自然の岩が露出している場所に石垣を組んでその上に建築したようです。向かって左側に出入口が開いています。

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 駐車場には登城者用の「杖」があります。かなりの人が杖をついて登って来ていました。昼間の時間帯は駐車場も満車で、入城者も多かったと思いますが、この時間帯は混雑というほどではありませんでした。幼稚園、小学校低学年くらいの子連れのグループもいました。一番下の子でしょうか、お母さんが小さい子を胸に抱いて登って来ていました。この暑い中、大変です。
 その他、高校生~成人しているくらいの子を連れた家族連れ、中年~老年の夫婦などがいました。

 ↓ さささ、天主閣の中に入ります。
   小さく、天主閣に入ろうとしている黒いワンピース姿の女性が写っていますが、私のツレではありません(笑)。 やはり、杖をついていますね。

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 私も出入り口の手前まで来ました。狭くて勝手口のようです。

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 天守閣の出入り口の手前から。高台、階段の上からなので、見晴らしが良好です。こうして見ると本丸はあまり広くありませんね。

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 出入り口内部の様子。靴を脱いで、中に入ります。が、ここはあくまで外付けの玄関のような場所。出入り口の横には石垣があり、石垣を更に登って天守閣の内部に入ります。
 ちなみに内部はすごい熱気です。冷房はありません。自然の温度です大汗です。

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天守の内部の様子。写真りの奥が、先ほど天守を見上げた本丸の広場。光が差し込んでいます。

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 ↓ 内部の展示パネル。パネルがたくさん設置させており、詳しく色々な解説がされています。

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木組みの天井。梁が太いです。木を格子に組み合わせて、瓦の思い屋根を支えています。
一階はパネルなどの展示室です。お決まりの全国の天守閣の写真の展示もあります。現存天守だけでなく、復元の天守の写真もあったように思います。(天守閣内の壁のどこかに。)

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 写真下は、修理工事の際に分かったことをパネルで解説していました。

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小窓。

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藩政改革を行った山田方谷について。

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修理で替えた、発見されたと思われる屋根などの部品?の展示。

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かつて屋根についていたしゃちほこです。

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↓ なぜか、高梁とかかわりが・・・。高梁と安中はともに板倉氏の領地だったので、両領主家とその家臣は交流があったのでしょう。実際に、明治時代になってから本人もこの地を訪れて伝道活動を行ったそうです。

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↓ お城の山の麓の「御根小屋」の解説。
つまり、普段お殿様が暮らして、領地のまつりごとをつかさどる御殿、庁舎のことのようです。独特な呼び方です。後世では「藩庁」といわれますね。太平の時代、ここ山の上の天守にはほとんど用事はなかったと思います。つまり、麓の「御殿」がお城のことだったでしょう。

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小窓から城の奥を見る。更に建物があります。(続きは次の記事で・・・。)


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備中松山城 見学記 (現存古天守 全十二城 登閣達成)

 2015年8月

 岡山県高梁市の備中松山城にやってきました。 

 ↓ 天守閣の道。
   大手門を過ぎても、まだまだ石段と道は続きます。上を見ると幾重にも石垣が連なっています。

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 石垣を登ります。大手門の石垣を登り、三の丸を過ぎた付近の道です。
 ↓ 写真左の石垣の平地は「厩曲輪」とあります。馬を飼育していた跡なのでしょうか。それとも名前だけなのか。むっとも太平の徳川様の天下の時代は、櫓の建物はあったでしょうが、山の上で馬は飼育しておらず、厩舎はすべて麓の御殿などにあったと思います。

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 道の途中から。高梁周辺の山が下に見えます。

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 チケット売り場の手前。もう一息です。地図によると「御膳棚」から二の丸に向かう石段です。
 写真下が「御膳棚」ですが、現在は公衆トイレがあります。昔は「御膳」の字の如く炊事をしていたのでしょうか。

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↓ 案内看板。

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 券売り場の直下。写真には写っていませんが、左への石段を登ったところにチケット売り場があります。
本丸の入口に当たる部分です。小屋があり、係の人が中にいます。この暑さの中、小屋に籠ってチケットを販売し、お金のやりとりをするのも大変でしょう。この時点で登城者はヘバって思考回路がおかしくなっている人も多いでしょうからね(笑)。チケットの販売小屋のすぐ脇には小門があり、扉が開いています。くぐると本丸の壁内に入ります。

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↓ やっと見えたぞ、天主閣。拡大画像です。



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 ついにやって来ました。「現存の古天守十二城」は、ここ「備中松山城」ですべての登閣達成です。実は「自宅から一番近い古天守のある城」は以前、岡山に住んでいたので、ココでした。先の記事にも書きましたが、住んでいると「生活が第一」となって意外にも観光では訪れないものです。
(どっかの政党のスローガンのようですが・・・・。)
 岡山に住んだのも転勤による仕事の都合でしたからね。その後、転勤により更に引っ越して現在は自分の出身地である神奈川に住んでいます。神奈川から近い「古天守の城」は松本市にある松本城でしょうか。かなり、距離はありますね。

 特に意識して「全国現存古天守めぐり」をやってきたわけではありません。観光であちこち訪れているうちに自然に達成しました(笑)。
 最初に訪れた現存古天守は 幼稚園のときの「松山城」でした。そしてラストを飾ったのがここ「備中」松山城です。実に足掛け30年をかけて達成した訳です。最初と最後が「松山城」というのは何かの因縁でしょうか?。
 なぜ、最初の古天守の登閣が松山城であったかというと、母方の曾祖父の法要のついでに訪れたからです。曾祖父は伊予松山の出身で、晩年は松山に住み、同地で亡くなりました。長命で私が幼稚園のときまで存命でした。

 「現存古天守十二城制覇を達成して感無量です。」と言いたいところですが、この日は暑くて感慨に浸るどころではありませんでした(苦笑)。
 「全国 現存古天守(現存天守)のある十二城 制覇」をテーマにしたウェブサイト、ブログなどは多数あるので、今さら私が強調しても仕方ないです。よって、このブログでも特にカテゴライズしていません。
 
 ↓チケット売り場の隣の門。復元です。入って平地があります。ここが本丸です。

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  チケット売り場を過ぎ、ようやく有料エリア(かつての本丸)に入ります。門に附属して櫓が復元されており、内部には簡単な展示品があります。

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 櫓のような建物の脇にあった。冷茶コーナー。無料で冷たいお茶を飲むことができました。ガブ飲みしました(苦笑)。皆、この木のベンチに座って休憩です(笑い)。

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 鉄砲の穴が開いた本丸の土塀。本丸の壁は復元と説明にありました。


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↓ 天守台脇の門「東御門」。パンフレット説明によると復元の門で天守の勝手口とのこと。本丸唯一の引き戸になっているそうです。天守には常時人がいなかったそうです。
引き戸ということは、カギで開閉をしていたと思います。と、徳川様の時代、普段は無人で必要なときだけ、家臣が山を登って天守に行き、管理をしていたということなのでしょう。


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↓ 眼前には天守閣が。

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備中松山城 見学記(駐車場から山道を登る)

 2015年8月

 ここは山陽、岡山県。
 鴨方から山を越えて高梁市までやってきました。高梁は山陽と山陰を結ぶ国道や鉄道の途中にあたります。
 高梁までの道は、井原からの山越えの道でした。中国山地は深い急峻な山ではありませんが、山また山で人家が沿道に全然ない地域もありました。ゆえに、比較的人里の光が入らない山間地域もあるので天文台もあるのでしょう。事実この道中、天文台の近くも通りました。「美星町」という町もありますから。

 高梁市の市内から、更に山の上へ細い道を登って行きます。目指すは「備中松山城」です。城への登山口にある駐車場に行きます。途中、山麓で警備員が立っています。混雑するときはここで別の駐車場に誘導しているようですが、私達が訪問したときは、通行ができました。土日祝日はシャトルバスが運行され、先に行くことができません。麓の駐車場に誘導されるようです。

 (城までの)登山口へ車で山道を登ります。細いので対向車には注意しながら、山腹を登っていきます。標高はどんどん上がり、林の合間の眼下に市街地が見えるようになりました。やがて、山の中腹に切り開かれたわずかな平地があります。駐車場になっていて、ここが車で到達できる行き止まりの地点です。

 ↓ 駐車場の様子。
 到着した駐車場。夏の混雑時期のためか、警備員が出て、整理していました。麓の警備員と無線で連絡を取り、空きがあると車を上げています。しかし、土日祝日はここまで車で来ることはできません。一般車は通行禁止です。
 が、この日は夏休み期間とはいえ、平日です。山の上の駐車場まで来ることができました。

 

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↓ 駐車場の様子その二。
 写真の右の先には道路が続いていますが、管理用の道路です。一般車の通行は禁止です。天守閣にいる職員は車で容易に天守閣まで移動できますが、一般の私達は不可!!です。自分の足で歩かないといけません。

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↓ 城までの道の案内板。
 実はこの駐車場までは来たことがあります。季節は真逆で冬だったような・・・。夕方の閉館時刻近くだったので、城まで行かずに引き返した記憶があります。その後、この城に来ることはありませんでした・・・・。更にその後、引っ越して現在は神奈川県に住んでいる私です。来ようと思えば、比較的簡単に来ることができたのに、来ることをせず、遠くに住んでいる現在になって、思い出したようにやって来た私でした。

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 山道は駐車場から一旦下がります。あれっと思いましたが、すぐに登りの山道となります。

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 道に沿って歩きます。と、眼下に先ほど車を停めた駐車場が見えました。更に登りは続きます。




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↓ 途中の様子。

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 道の途中から斜面の下を見る。意外にも急です。他の歩いている人が写真に写っていませんが、この暑さの中、登って来る人、登城を終えて下りてくる人は結構います。下って来る人々がうらやましいです(笑)。

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 駐車場から城までは約700メートル。徒歩で20分くらいでしょうか。しかし、この暑さの中、想像以上にきついです。この看板を見たときの感想「え~、まだ半分と少ししか来ていないのぉ~」が正直な心の叫び「偽わざる心境」でした

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 急斜面の中腹での「急カーブ」の山道。実は近くを管理用道路が通っていて、軽トラが走行していました。管理人の車なのでしょうが、「あ~、あの車に乗せてもらえないかな~」とついつい思ってしまいます

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 汗だくです。夕方近くになり、曇ってきました。直射日光こそありませんが、この日はかなり蒸し暑かったです。
 ようやく石垣の下に到着しました。石段を登った後に振り返って撮影。

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 ↓ 上の写真の位置から上方を写す。大きい石垣と立派な通路。かつての大手門の跡ですね。
   石垣の上には大手門の櫓が建っていたのでしょう。

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 大手門を過ぎて更に登って行きます。


「かもがた茶屋」 国道二号線沿い 食事

 2015年8月

 岡山県里庄町の仁科会館と仁科博士生誕地をあとにして、移動します。国道二号線を東へ。 
 この辺りを通るのは久々なので、道沿いのある所を見学を兼ねて食事をすることにしました。 「鴨川そうめん」があったからです(笑)。
 在住しているときは、あまり気にしなかったのですが、離れてみると気になります。(笑) しかし、この日は休みでした。夏休みなのですが、お盆の期間の少し前の平日だったので開いていませんでした。駐車場の車もまばらで、従業員らしき人しか歩いていません。鴨方そうめんの食堂の建物はあるのですが、土日しか開いていないようです。プレハブの建物で、内部にはたくさんの長テーブルとイスがあり広いです。団体さんが来るときは対応しているようです。鴨川そうめんの工場もここにあります。工場は稼働しているようでした。
 そこで、同じく国道沿線にある「かもがた茶屋」の店へ。この道は以前、通ったことはあるので、お店があることは知ってはいませたが、ここで食べるのは初めてです。(お店の看板は「かもがた亭」だったような。)
 うどんと天ぷらと寿司というか簡単な握りりのオーソドックスのランチセツト。「天ざる寿司セット」だったと思います。地元のチェーン店舗、地元のファミレスメニューですね。お値段も首都圏近郊の店と比べるとお得です。
 暑いのでもちろん(選択するうどんは)「ざる」です。「ざるざるざる!!」というテンションでした。私は・・・・・(笑)。

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 上の写真には、わずかにお茶のコップが写っています。暑いのでガブ飲みしてしまいました・・・・。

 夏空と駐車場の様子。遠くに中国山地の山々が。
 昼食の後には、山道を越えて高梁まで行くことにしました。

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 ↓ お店の外観


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 ↓ 高梁への途中の道。
   といいますか、鴨方町から矢掛に出る途中の風景だったと思います。

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飛行機雲が低いです。丘陵地帯の中を曲がりながら走ります。

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岡山県里庄 仁科芳雄博士生家

 2015年8月

 岡山県里庄。
 明治時代、この小さな集落から天才的な物理学者が生まれました。その名は仁科芳雄。日本物理学史上最高の天才のひとりといってよいでしょう。山陽の交通の要衝の沿いといはいえ、現在ものどかな田園地帯が広がる村から稀代の天才が出たとは。その仁科芳雄の記念館、仁科会館の近くには生家があります。仁科会館の展示を見たあとに寄ってみることにしました。

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 博士の生家は仁科会館から国道2号線を挟んで南にあります。国道から直線距離で100メートルあるかないかの南に位置しますが、狭い集落の中の道を通らないといけないので、迷ってしまいそうになります。特に道が狭く、車で行った場合には対向車が来るとすれ違い困難です。私は、狭い路地なので、本当に辿り着けるのかな、と不安になってしまいました(笑)。 が、路地をなんとなく、道なりに進み、とある交差点を曲がると駐車場に着きました。
 ↓ 生家の前にはある駐車場と小路
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 門に続く、お屋敷を囲む白壁。大きな邸宅です。地主だったそうです。子供に教育を受けさせる財力も相当にあつたと思われます。
 現在、公開は日曜日のみのようです。訪れた日は夏休みの期間中でしたが、8月もきっちりカレンダー通りで、この日は公開日ではありませんでした。門は固く閉ざされていました。現在、仁科家の人は住んでおらず、屋敷や敷地は町に寄贈された?か仁科記念財団が持っている?ようです。
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↓ 仁科会館の二階から見た。二号線の様子。
ひっきりなしに車が往来しています。
博士の生家は写真には写っていませんが、右(西)の方向です。


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仁科会館の一階の屋根部分が写っていますが、里庄の「里」の様子。
海(南)の方向には山があります。山の先はすぐ瀬戸内海です。
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↓ 仁科会館の二階、仁科記念ホール前の廊下から見た里庄の風景。
博士の生家も屋根だけですが、わずかに見える筈です。

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仁科記念館 「仁科芳雄博士」展示室 見学

 2015年8月

 岡山県里庄。物理学者 仁科芳雄博士の記念館が生誕地の近くにあります。

 二階の展示室の廊下から吹き抜けの一階ロビーを見る。

 戦後、ノーペル物理学賞を受賞する、湯川秀樹、朝永振一郎の写真とともに仁科博士の写真が中央に展示されています。湯川氏、朝永氏ともに仁科博士の弟子ともいうべき人です。

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↓ 外の風景。のどかな田園地帯です。

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↓ 外の風景。のどかな田園地帯です。


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↓ 展示室の廊下。博士の写真が掲示されています。


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↓ 原爆研究に使用されたサイクロトロンについて。

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↓ 日本に投下されて原爆についての解説展示。

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↓ 博士が子供の頃に描いた「馬」の絵わ再現するロボット。複数の博士が子供の頃に描いた絵を選択することができます。


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↓ エアマシン。子供も楽しく遊ぶことができます。

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岡山 仁科記念館 見学

 2015年8月

 岡山県里庄。カブトガニで有名な笠岡の隣の町です。鴨方郡といいましたが、現在では笠岡に合併されているかも入れません。現在も国道二号線や山陽線が通っています。明治時代、ここから天才的な物理学者が生まれました。その名は仁科芳雄。日本物理学史上最高の天才のひとりといってよいでしょう。
 この稀代の天才が山陽の交通の要衝の沿いといはいえ、現在ものどかな田園地帯が広がる村から出たとは、「才能は出身地に関係なく、本人の努力、向上心次第である。」ことを示しています。その仁科芳雄の記念館が生誕地の近くにあります。 
 以前、岡山に住んでいたときは、この近くの国道二号線は時々通ったので、仁科記念館(会館)のことは知っていました。二号線をを通るのは久々なので見学してみることにしました。ちなみに、最初にカブトガニ資料館に行ってから、こちらに来ようかと思いましたが、子供達はカブトガニには行かないというので、直接仁科会館に来ました。カブトガニは私が子供の頃、一時期ブームとまではいかないものの、話題になったような記憶があります。昔、通っていた小学校でも別のクラスで水槽に飼育していたのか、巡回展示でやって来たのか、カブトガニを見たことがあります。

 ↓ 記念館が入っている公民館のような仁科会館の建物。夏休みなのに入館者は少ないです。

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「環境は人を創る。人は環境を創る。」とある仁科芳雄の記念碑。
会館の前には広い駐車場があります。

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 入館しても特に受付はありません。入口の傍らには事務室がありますが、特に事務室で受け付けをする訳ではありません。入場は無料です。
 二歳か三歳くらいの子供を連れたお母さんが遊びに来ていました。こども向けの簡単な遊具や遊ぶコーナーがあります。どうみても展示室を見学に来た母子ではありません。三歳の子に「サイクロトロン」といっても分かり
ませんし。(もっとも、私も分かっていませんが・・・・・。)
 公民館のような感じで、記念館というよりは地元の人が会議や談話、稽古ごと、生涯学習、子連れで遊びなどに来る
場所のようです。公営のコミュニティセンターのような雰囲気です。

 仁科芳雄の事績に関する展示室は二階です。階段を登ると二階のフロアの案内があります。
展示室は三室あり、自由に見学できます。
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 二階が展示室になっています。二階の階段裏の一番広い部屋は、講義室になっていました。「仁科記念ホール」と名前が付いています。歴代の仁科賞の受賞者、ここで講演を行った学者の写真が掲示されています。
 博士の子孫もここで講演をしています。某国立大学の理学部か工学部の教授でした。

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 階段に近い、第二展示室。「欧州留学期」に関する展示です。

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 長岡半太郎に宛てた手紙。日本物理学の大家の一人で、昭和12年の第一回文化勲章受賞者。大正以降では日本物理学者の中での第一人者でしょう。のち、昭和戦前期に大阪帝国大学の総長になっていたと思います。

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仁科博士はヨーロッパに留学し、「ニール・ボーア」のもとで研究したことがわかります。

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原子爆弾の研究、仁科博士の名前からとった「に」、つまり「二号研究」の説明です。

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日本の敗戦後、占領下で学者を迎えています。

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第一展示室は一階の奥にあります。生い立ちなどに関する展示です。まずは、ここから見学していくべきですね。テーマは「学びの時」です。

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 子供の頃の写真。


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第一展示室の様子。子供の頃の写真、通った学校の写真、当時の地元の風景などの展示もあります。

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