良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

永青文庫美術館

 

「長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽齋」 鑑賞2 永青文庫

  2017年11月26日(日) 永青文庫 平成29年度秋季展 「重要文化財 長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽齋」
  展覧会の名称が長いので「天授庵 長谷川等伯障壁画」展と略称でも書く。

 4階の展示室を見る。大きな障壁画がガラスケース内にドーンと展示されている。「南禅寺天授庵の長谷川等伯筆になる障壁画」は4階にあった。室内には常時10-15人くらいの観覧者がいる。「春画展」ではこの4階展示室は「肉筆画」などが展示されていた。後期ではあの応挙の肉筆画が展示されていた。男女が香合交合する生々しい画の端に几帳面そうな「応挙」の署名が書きこまれていて印象に残っている。
 障壁画は「商山四 白告 図」(文字が出ない・・・)。水墨画のような白黒の絵である。解説には「ロバに乗った易士と童子がいる」と書いてある。中国のどこかの山の中、か村で童子がいる。 障壁画を見ていくと左の場面でロバに乗った老人が描かれている。
 
 後期の展示は室中「以外」の左右の部屋の障壁画が展示されていた。前期は方丈の真ん中の部屋、室中り障壁画が展示されていた。
 ガラスケースの横に 配置図が展示されていた。

 ↓ パンフレットより。
  
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「長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽齋」鑑賞1 永青文庫

  2017年11月26日(日)

 永青文庫の平成29年度秋季展 「重要文化財 長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽齋」にやって来ました。9月末からの会期もこの日が最終日となりました。またまたの最終日のドタバタ鑑賞だ(苦笑)。
 会期終了後なので速やかに記事掲載することにする
 展覧会の名称が長いので「天授庵 長谷川等伯障壁画」展と呼ぶべきかな。

 永青文庫、前回は平成27年12月に「春画展」SHUNGA(以下「春画展」と書く。)の後期に来て以来ほぼ2年ぶりの訪問だ。あれから2年たったか、早いものだなぁ・・・・・、オレは2歳も歳を取ったよ・・・・。中年になっての2歳は大きいな・・・。歳はとりたくないヨ、そう思う歳になってきた

 永青文庫の展示会を初めて見たのは27年2月に見た「信長の手紙」展。あのときは、テレビで紹介された直後なので真冬にもかかわらず混雑していた。次は、その2か月後の4月、春霞のなか「細川家起請文の世界」展にやってきた。副題は「神の使い八咫烏に誓う」だったが、平日の日中の訪問とあってか見学者は少なかった。
 よって平成27年は都合4回も永青文庫の展示会(展覧会)を鑑賞したのだが、翌年の平成28年の訪問は皆無だった・・・。同年の夏であったか、永青文庫所蔵の国宝刀剣の企画展示が開催されたのだが、知らなかった・・・。あとから気付いた・・・。「刀剣女子ブーム」で開催されたのだろう。(刀剣に関する)チェックが甘かったゾ(笑)。「刀剣」に関する展覧会が多数開催されているのでインターネットで検索していたら、気付いた次第だ。

 今年の展示会も行っていなかったが、秋季展示会は「天授庵 長谷川等伯障壁画」だと知った。よって、事前に訪問することは決めていた。先だって、10/28(土)には「予習」を兼ねて京都・南禅寺の塔頭 天授庵を拝観した。必ず予習→授業(実際の鑑賞)です
 胸突坂を登って永青文庫へ。敷地に入ろうとすると門が新しくなっていた「春画展」のときは以前の古い門だったと記憶しているので、その後新しく工事をしたようだ。 

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 入館者は切れ目なくやってきている。落葉の時期なので、敷地内や門塀の外の道路で写真撮影をしている人が多い。よって人がいるので敷地内での撮影が難しいのだ。
 ↓ しかし、人がいない瞬間を狙って撮影した。

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 入口に入る。入口付近を含めて建物は春画展のときに改装している。入口ホールの上に空いている.「穴」もそのままだ。春画展以前に使用していた出入り口は閉鎖されていた。春画展のときと同じく(当たり前だが)チケット売り場の窓口カウンターがあり、奥は事務室になっている。券売り場には、楕円形の細い黒ぶちメガネをかけた、まじめそうな若い女性がいる。どう見ても学生のアルバイトにしか見えないが、(本当のところは)わからない。その女性には、いつものごとく「四階の展示室の展示室から見てください。」と言われる。ここの決まり文句なので、もはや驚かない(笑)。
 入場料は1000円である。窓口カウンターは一つというか、受付にはこの女性1人しかいない。受付は玄関ホールで販売している書籍、冊子、図録類の販売も兼ねている。永青文庫私が券を買う直前は年配の小柄な女性が書籍を購入をしていた。その女性は「えーと」とお財布を探して、ゆっくりお金を出して支払いをしているので、数名の列はすぐに受付前に出来てしまう。ともかく、私は券を買い「四階」の展示室に階段を登ります。
 しかし「長谷川等伯障壁画は3階の蔵のような展示室に展示しているだろう。」と勝手に解釈し「四階」への階段の途中、踊り場のような所にある「蔵の内部」のような「3階」の展示室に一旦入った。過去の経験からすると企画展は、3階の展示室で主に開催されていたから。
  このとき3階の企画展示室??には、細川家の文書類や甲冑、刀の鞘(「拵」というべきか。)が展示されている。室内を見回している
 やはり「4階の展示室の展示室から見てください。」と言う言葉は正しかった。まさに「愚者は(過去の)経験に学ぶ・・・。」であった。オレは本当に愚者だ・・・
  
 4階の展示室を見る。大きな障壁画がガラスケース内にドーンと展示されている。「南禅寺天授庵の長谷川等伯筆になる障壁画」は4階にあったのだ!!。室内には常時10-15人くらいの観覧者がいる。
 重要文化財の中国の石像(石仏)は以前と場所は変わったが、展示室の端に展示されていました。細川家の大きな「長持」もそのまま、展示室の入ってすぐの所に大きなガラスケースに入って引き続き展示されていたのでした。
 「長持」は私が初めて永青文庫に来たときから展示されているのだが、明治元年?に当時の細川家当主、護久の正室が婚礼の際に持参したと説明にある。鍋島直正の娘、宏子が細川家に輿入れしたそうだ。
 よーく見ると展示室内のガラスケースの下部、土台部分??のところにもガラスが張ってあり、内部には黒い漆塗り?の長持ちが置いてある。長持ちに説明はないが、うち1個には昔付けたような付せんようなものが貼ってある。「××、〇枚」のように衣服の品名と数量が書いてあるので、当時の(長持の)中身について記入したものがそのまま残っているのだろう。

 展示室内は当然撮影禁止。気のせいだが廊下の窓から以前見えていた、永青文庫の奥の敷地、現在は和敬塾の施設である旧細川邸は、和敬塾の新しい鉄筋の建物に隠れて見えなくなっているような・・・・。カーテンで廊下から外はあまり見えないが・・・・。
 旧細川侯爵邸、和敬塾本館は、先日の「東京文化財ウィーク」で1日だけ公開があった。10/29(日)に事前申し込み、定員制、有料で公開された。元々10/28と10/29は出かける予定であったので、今回は申込みしなかった。しかし、1日だけの公開なので定員に達して断られることもあるだろうし、年に1回だけの公開は見学のハードルは高い・・・。
 結局、私は10/28(土)は台風の迫る京都に行って、天授庵を「予習」のため拝観し、京都国立博物館の特別展「国宝」で大徳寺龍光院の国宝「曜変天目茶碗」などを鑑賞したのだった。翌日の29日の日曜日は台風の影響で雨であった。私はほとんど家で過ごして、買い物に出かけたくらいだった。午後か夕方には台風の影響は関東地方から無くなってきたのだが、和敬塾本館(旧細川侯爵邸)の公開が予定通り公開されたのかは寡聞にして知らない。
 
  






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「春画展」 SHUNGA 「世界が先に驚いた」 鑑賞⑤ (エピローグ、クラウドファンディング)

平成27年12月12日(土)

 「春画展」 SHUNGA 「世界が先に驚いた」 後期展示 永青文庫 会期は12月23日まで。

 鑑賞した総括です。
 二階の展示室に「エピローグ」のコーナーがありますが、この記事でいうエピローグは私にとっての春画展の「エピローグ」 = 終章のことです(笑)。

 春画の「版画」は、西暦1800年前後から急激に増える。版画技術が進歩し、展示の説明にあったように「貸本屋」などにより大衆に広まったこともあるだろう。「需要」を満たすために、「供給」が増えたのかも知れない(笑)。少し前の年代、1780年頃の明和年間の春画も展示があった。春画の発展は、のちの町人文化「化政文化」の発達とも関連するかも。

 江戸前期は(春画の中心は)肉筆画であったが、その全盛期は元禄の頃までかな・・・・・・。徳川の世が安定した(する)頃から版画技術が発展するまでの間といえる。

 しかしながら、江戸時代の末期に春画が急速に増えたのは、「乳児死亡率が上がった」「子が育たない」ことも関連があるのでないかと私は推測する・・・。印刷技術は向上したが、医療技術の向上は追いつかず、乳幼児の死亡率が高い。「多産多死」の著しい世の中で、子が育たなかった。

 幕末期が過去の日本の歴史の中で、日本人の身長が一番低かったと言われている。飢饉や疫病の流行で栄養が悪く身長が伸びなかったのであろう。栄養が不足していることは死亡リスクが高くなるので、体力的に弱く、免疫力の無い乳幼児の高死亡率に直結する。
 つまり、死亡率の高さは、この時代に頻発した飢饉とも大いに関連がある。世界的な気候変動などで飢饉が勃発。西洋では革命が起きた時代と一致する。この時代に「何か」があったのだ。
 今、私は「関連」と書こうと(パソコンの)キーボードをたたいたのだが、「寒冷」と間違って変換しまった。はっと気づいたが、単なる間違った入力ではなく、「寒冷」と「飢饉」は大いに関係しているのだと気付いた。(今さらだが・・。)
 なぜ寒冷だったかとういと、現代では「浅間山の大噴火」が地球環境に大きな影響を与えたことが知られている。ヨーロッパ、フランス革命の発生やその後のナポレンの登場による戦争の勃発などとも関連があると言われている。アメリカ独立戦争(革命)もあった。つまるところ、飢饉の発生による食糧(領地)争いだったという一面もある。
 同時に現代でも大きな影響を与えている欧州の偉大な芸術家達もこの時代に生きた。危機の時代だからこそ、新たな芸術が生まれたのかも。偉大な芸術家達とは、モーツァルト、ベートーベン、ゲーテ達だ。

 同時代の日本に話を戻すと、まさに春画(特に版画)が急速に発達した時代なのだ。大名家でも実子が育たず養子を取る例がこの時代に急激に増えている。当主の若死にも増えている。
 御三家や親藩、有力外様大名で、「齋」の片諡(かたいみな)を賜っている大名がとても多い。この時代、将軍 家齋が、長期間その座にあったことも理由のひとつだが、当主の死亡、交代が相次いだことにも理由があろう。
 (嗣子として)養子入りしたり、末期養子で家督を継いで将軍にお目見え「片諡を賜って死亡」、次の当主がまたまた家齋公にお目見えする相次いだのだ・・・・。お目見えする前に(片諡を頂く前に)死亡した嗣子、当主も多かったろう。(当主がお目見え前に死亡したら取り潰しでお家断絶だろうが、何とか取り繕いをしたのだろう。)

 「跡継ぎ」がいないとは、「家」を基盤とする社会では大問題だ。増幅増大する不安・・・・・。生と死が隣りあわせの時代。そんな時代に急速に春画が普及したのは、単に印刷技術の発達、町人文化の爛熟だけではあるまい。娯楽の少ない時代、しかも「死」が日常と隣り合わせの時代、「性」は最も重要な実益とともにエンターテインメントだったと思う。
 今回の春画展、確か豆本展示コーナーでの説明で「着物を着ている女がほとんど。全裸はめずらいしい。」とあった。確かに女性の乳房は強調されていない。地物が着物で隠れている春画がほとんどだ。何かで読んだ春画の解説の本には「混浴が当たり前だったので、女の乳房が珍しくないため、ありがたくなかった。」と説明があった。本当にそれだけだろうか?。
 江戸時代前期が中心だった「肉筆画」では、女が全裸の作品もいくつか(展示が)あった。例えば長谷川等仙の「モロに股を開いた女の絵」だ。「片目だけ出した男がうしろから女をまさぐっている絵」は横向きになった女の乳房が垂れ下がっている様子がリアルに描かれていた。

 全裸、巨乳をやたらと強調する現代とは異なる表現だ。しかし、私は現代のこの考え(「全裸、巨乳主義」)には反対ですけどね(笑)。
 (春画展に関連する書籍なども読んだが、それらによると)昔は、着物を着てすそをを開いて交合することが通常であったようだ。当時の木造の住宅事情、防音ではない、襖を開けばすぐにと隣の部屋、という家屋の構造の問題というのもあるが。
 「全裸、巨乳」礼賛は、科学、医療技術が進んで、死と隣り合わせでなくなった現代ならではの「ありがたい」主義主張ではないかと仮説を立てる。実にショーモない仮説かもしれないが・・・・・・(苦笑)。
 「全裸、巨乳主義」は第二次大戦後の食生活の急激な変化に伴う、動物性たんぱく質や脂肪分の大量摂取も関係していると思うし、特に「巨乳」礼賛は、死亡リスクが少なくなった男の「幼児帰り」の現れか・・・・?。春画(特に版画)において女性の乳房は実にシンプルに描かれていました。胸の部分に腺(線)をゆるく半円程度に引いて、突起の部分に乳首の点を軽く描くだけ。
 他方、「何でもあり」の春画は西洋人のキリスト教感覚とは異なるので「ストレンジ」でしょう。ただし「子孫繁栄」観点からすると同性愛などの春画は合致しない。一概には言えないが、多神教の国、八百万の神がおわす日本ならではの「何でもアリ」とも関係しているのでしょうか?。色々あるな~(笑)。


 春画では性器が強調されている。ことさら大きい男性器は、古来から日本にある「男根信仰」にもつながる。ことさら赤い充血したような強調された女性器は、男のモノに対する「女陰信仰」でしょうか。真っ赤な女性器は、男性器を受け入れる準備を象徴していたのでは?。
 ペストが大流行した中世ヨーロッパの「デカメロン」の時代にも共通する認識だ。「男と女、とにかく性を楽しんで精一杯生きましょう。」というメッセージだ。
 性器を結合させて、男性器から白い液体を発することにより子ができるという原理は昔から知られていたのだ。いつのころからか知られているのか、恐らくは文明の誕生の前、原始時代から本能として刷り込まれていたのではないか。女は性交によりどの男の子でも妊娠しえることは、経験則というより、本能で源氏物語の頃から当たり前だった。だから、「不義の子 薫の君」という描写があるのだ。子を産む行為を尊び、生殖器官を強調することは、性を知るとともに、信仰に近いものがあったのではないだろうか?。
 写真、ことデジカメの発達した現在は容易に性器の様子を記録して見ることができる。(しかし、法、道徳という規範はあるので、これらは何でも自由ではない。)今の時代、春画は実用ではなくなった。だから、現代の私達は「芸術だ。」ということができるのだろう。


 春画は、性欲の満足だけではなく性の喜び、悦楽、そして「生」を楽しむものではなかったか。人間の性交はコミュニケーションという重要な要素もあるが、それ以上に「死が身近であった時代」の本能、生殖と一致していたのではないか。生物として、子孫を残すことは、最大の本能だ。男女の交わりにより、子孫繁栄を強く願った。  
 「嫁ぐ娘の教科書役割も果たした」との説明もあった。江戸時代の前期は世の中が(ある程度)安定していたので、全裸を描く「余裕」があったのではないか。

 繰り返しになるが、「生は性」ともつながる。安定した結婚関係(一夫一妻制とも関連する)は、安定した社会と生活する人間の健康の獲得、病気の撲滅や長寿、長命と密接に関連しているのではないだろうか?。
 日本でこれらを得たのは、戦後のここ60年くらいのことではないだろうか?。もちろん、江戸時代から庶民は概ね一夫一妻制だったというので、必ずしもこの指摘は当たらないし、現代社会における性の多様化もある。
 反対に世の中が安定しているからこそ、乱れるモノもあるが・・・。


 「春画展」においては、個人でのブログ、ツイッターなどへの書き込みも多いことはすでに書いた。

・女性の感想は・・・混雑している室内で知らない男と春画を見るのは嫌だ。女性限定日を設けてほしい。

・男の感想・・・・・・・女性と ガラスケースの中の男女の接合画をじっと見るのは何ともいえない雰囲気だ。
 
 先にも書いたが、男と女では 脳の構造が違うためか考え方が随分違う。
 「男は誰かと結婚するか。女は誰と結婚するか。」という有名な言葉がある。誰の言葉であるか、私は知らない。春画の中で、男女はともに「対等」とか「性を愉しんでいる」という感想も多いが、結局、男と女は永遠に分かりあえないものなのかもしれません(苦笑)。また、私は男であるため、どうしても男性目線の書き込みになってしまうことはご容赦頂きたい。
 新聞記事によると春画展の12/4までの入場者は、約14万人であったとか。美術館の規模に比べると空前の大盛況といってよいでしょう。
 
 「春画展」クラウドファンディングについて。
 春画展では、スポンサーの企業がつかなかった?ようで、開催資金を得るために「クラウドファンディング」を実施した。会期が始まる前の8月から開始されていたようだ。
 永青文庫は、会場を提供することが主で、主催の中心は「春画展開催委員会」。委員会としては、スポンサーが無いと、今までの永青文庫の企画展と比べて1500円と比較的高額な入場料金を設定しても、なお資金が不足するのでしょう。
 今回の二回目の春画展の鑑賞の前に、春画展の「クラウドファンディング」をウェブサイトで調べるとすでに終了をしていました。会期の最終日までは実施していませんでした。
 1万5千円の寄附が基本のようだ。1万5千円で図録1冊と入場券2枚が付きます。大変お得と思います。1500円の入場券と4000円の図録を買う場合は、15000円の寄付をしても、尚トクかと思います。単純計算(前売り券の割引きなどは考慮せず)で8000円分は返って来るのですから。
 しかし、クラウドファンディング結果は3000万円の目標に対して寄付額は400万円くらい。なんと、二割にも達していませんでした・・・・・。いかに個人から寄付金を集めることが難しく、企業の大口スポンサー様の力が大きいかも同時に知ることとなりました。
 個人の財布のヒモは想像以上に固いです。意外にも個人レベルでは寄付をしないものです・・・・。春画展は「大盛況」といっても、寄附金がこの程度・・・・・。まだまだ寄付文化は、日本に根付いていないようです。
 14万人の入場者うち、1パーセントの1400人が寄附をしたとしても、1400×1万5千円でも2100万円。実績額は、これにも程遠い・・・・。
 しかし、1万円のコースがあれば変わってきたかもしれません。最低1万5千円は個人レベルではハードルが高いかも。「クラウド」だとITに不慣れな人は寄附をしにくい。古典的に現地受付で寄附金を募るならば、もっと集まったかも知れませんが、現金管理や人件費が・・・・・。なかなか、うまい方法はありませんね。
 で、私は・・・・・、というと、寄付はしません(苦笑)。寄附をしたはよいが、図録を自宅に送ってこられた日にゃ・・・・・・・・・・。子どもがいるのでウチには、置く場所がありません・・・・・・。子どものいる家庭では、「春画展 クラウドァンディング」の寄付は困難です。夫婦だけの世帯、子供が大きい世帯、高齢者世帯、独身者、学生(18歳以上の)などでないと寄附は無理ですョ・・・・。図録を辞退すればよいかも知れませんが・・・・・。(ゴメンナサイ。)


↓ この日、帰る前に撮影した敷地内の様子と隣の和敬塾の建物(右)。


  

「春画展」SHUNGA 後期展示 鑑賞④(豆本~エピローグの展示) 永青文庫

平成27年12月12日(土)

 「春画展」 SHUNGA 「世界が先に驚いた」の会期末も迫って来ました。後期展示を見るため、永青文庫に再び行ってきました。
 三階の展示室を出て、階段を二階に下りる。



※ご注意
 この記事の文章には、性的に露骨な文章が含まれます。不快に感じる表現があるため、あらかじめご承知おき頂き、露骨な文章を好まない方は、以下読まないようにお願いします。


 二階の展示室に入る。ここは、豆本コーナーなど。豆本は展示数が多いが、小さいのでなかなかじっくり見れない。実はこの日見た豆本は、あまり記憶に残っていない・・・・。
 前回は、季節ごとの絵もあったが、今回は無い。いろいろな着物を着て性交している場面が多い。青が基調の着物を着ているものが多いような。豆本の絵は、似通っていました。源氏物語をパロディーにしたものもあったような。今も昔も性愛の基本は、同じか。

 豆本コーナーにあった「日清、日露の戦争でも出征兵士に持たせた。」との説明には、ある女性の二人組、多分学生(一人は小柄だが顔がキリっとして美人、やや茶髪で目がキツイ感じ、ジーンズのズボンをはいている。もう一人は、やや背が高いが普通の感じの子。先の三階の部屋にもいた。私と同じ観覧スピードでこの部屋に下りてきたようだ。)が「えー、日清戦争、日露戦争にも持って行ったんだって~。どうして男の人ってそんな物持っていくのかな~?」と黄色い声を上げる。彼女達は、全然わかっていません。男の心理を。男は死地に行くときは、そういうものなのだということを。(死地に行かなくてもそうかナ・・・・。)


 二階奥の部屋。木のテーブルの上にガラスケースを設置している。永青文庫の所蔵の巻物が。場面は変えているようだが、前回見た場面に似ている。二階から一階に下りる。
 春画展もこれにておしまい。出口付近に、過去の図録のリストが置いてある。「信長の手紙」の図録は完売。その他会報のバックナンバーがある。次の展覧会のチラシもあったが、能面か何かの展示。通常の企画展示に戻るよう。とすると、しばらくの間、私がここに来ることはないかも。
 見学者が次々に出てくる。女性の四人くらいのグループも出てきた。二人連れの女性達も出てきた。と、6人くらいいる今出てきたばかりの人は皆女性だ。書き込みなどでもあったように本日は女性率が高い。


 別館の店(ミュージアムショップ)へ。今回は、図録が山積みされていた。白いプラケース容器ではなく、辞典のようなな外見。パソコン用の市販ソフトのような箱です。例のポロシャツも売っている。ちょんまげ姿の男と日本髪の女の交接部をポケットでうまく隠しているポロシャツ。
 これ(ポロシャツ)をさして、先ほど館内でも見た、若い女の子のグループのうちの一人が「あっ、うまく隠している。アハハハ」とまたも笑っていました(笑)。
 店内は圧倒的に女性が多い。早々に私は退出です。と、別館の建物を出たところで、あるおばはん熟年の女性がカメラのレンズをこちらに向けて動画を撮影している・・・・。玄関からでてきた私が、ちょうど写ってしまったた模様・・・・・。私は、(写されたらまずいっと)さっと体を傾けて、顔をそむける。旦那らしき老人の男がそばいる。このおばさん女性は、懲りずに建物の周囲などをカメラを回しながら、他の入場者はお構いなしに動画を撮影している・・・・。先の展示室内での「こっそり撮影」とともに、おばさん中年、熟年以上の女性のマナーの悪さも目立った。


 早稲田駅まで再び歩く。見学者は、あまり早稲田方面には下りてこないようだ。江戸川橋か雑司ヶ谷まで行くのかも。と、永青文庫の門の前の狭い道路にタクシーが一台待っていた。誰かが、見学を終えるタイミングに合わせて呼んだのだろう。


↓ この日撮影した本館。皆さん盛んに建物を撮影しています。スマホでガラケーで(笑)。


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「春画展」 SHUNGA 後期展示 鑑賞③(版画) 永青文庫

平成27年12月12日(土)

 「春画展」 SHUNGA 「世界が先に驚いた」の会期末も迫って来ました。後期展示を見るため、永青文庫に再び行ってきました。
 四階の肉筆画の展示を更に見ていきます。肉筆画の展示室を出て、階段を三階に下りる。版画の展示室へ。



※ご注意
 この記事の文章には、性的に露骨な文章が含まれます。不快に感じる表現があるため、あらかじめご承知おき頂き、露骨な文章を好まない方は、以下読まないようにお願いします。


 展示室内は例の木枠のガラスケースです。列をなしてガラスケース内の展示を見ていく・・・・。鈴木春信の作品「女性器から体液が流れ出ている版画」はそのまま。ただし、ページは替わっているようだ。白黒の版画だが、リアルで躍動感がある。
 前期と同じものも展示があったような・・・。作者が同じ春画の本だと、ページをかえて展示しているので、同じに見えてしまうのかもしれません。
 北斎の「タコと女の絵」は展示がありませんでした。その絵が展示されていた箇所には、別の絵の展示があった。着物を着て、下をはだけた姿の女の性器に男がうしろから挿入している様子。コメント(つまり、男と女の会話)がたくさん書いてある。「・・・入れて・・・」などと書いてあったかも。
 その中で喜多川歌麿の作「女 おまえのようにせわしい者はいなえ。・・・まあまちなよ。」男「・・・ なんぼてめえのまらでも・・おれの自由にならねえ・・・」と画中の会話についての解説ボードが掲示している版画の展示がある。
 「ねがいひの糸ぐち」のタイトルの版画。ふんどし姿の男が、着物を着た女に、「さあこれから」と迫るシーンの絵。展示リストによると、前期も展示があつたが、後期とでは場面替えとある。似た絵を前回来たときにも見た。展示替えとはいえ、あまりシーンは、変わっていないような。これから交わらんとする男と女の駆け引きが伝わってくる。
 実はこの絵は、その一部の写真が今回の「春画展」のポスターにもなっている。あおむけになっている女の片足が鏡に映っているところを描いている。細かい描写です。解説には「亭主と女房」とある。つまり、夫婦の行為なのだろうか。画中に文字(つまり、男と女の会話)も書いている。私でも何とか読むことができる。
 と、このポスターになっている作品の展示されているガラスケースの付近で、中年、といっても50歳くらいの女性の二人連れが「まらって何?」と会話をしている。よく声を出して言えますね~(笑)。ホントに知らないのでしょうか!?。この女性は・・・・。
 片方のもう一人の(ツレの)女性は、返事をしていなかったので、彼女は「まらの意味」を知っているのでしょう。が、それは「男のチ×コ」って意味よ!、とは言えません(笑)。私が、傍らから教えてあげともよかったですが、黙っていました。余計なことは言うまい、口慎むべし、と黙っていました(笑)。
 画中の文章の意味は「自分のまらを制御できないので、はやく挿入したい」が、女は「あんた(男)みたいにせわしくしているのはいない。まあ、急がないで待ちなよ。」ということでしよう。いつの時代も同じです。男の方が欲望にかまけて急いでしまいます(苦笑)。


 ここ三階の展示室内でも笑っている人は、女性に多い。「笑い絵」とはよく言ったもの。と、夫か不倫相手か知人か友人か知りませんが、男と来ている中年の女性がいた。ツレの男と会楽しそうに会話をしています。会話をしていて彼女が笑うと目じりに、シワが寄ります。コレが意外に目立ちました・・・・。画の中の男女の姿とあいまって、ツレの男と会話して笑う、彼女のシワの表情まで妙にリアルに見えてしまいます(苦笑)。

 この部屋では、冷房がきいている。先の四階の肉筆画の室内は暑かった・・・・。この部屋では、なぜか白髪の男性は目立つ。つまり、見学者の年齢が若いことを示している。土曜の夕方から夜の時間帯とあってか、白髪の人はあまりいないのだ。余計に目立つのだ。女性は染めているのかもしれませんが。
 室内の一番奥のガラスケース付近は、人が途切れてすいている。と、男女2と2のグループがいた。ダブルデートでしょうか?。若いカップル率は、私の見たところ、この日も高くはない。(京都での)マグリット展の方が高いくらいだ。反対に女性のグループが多い。学生~社会人、年齢では20歳台から30歳前後らしきグループから熟年層まで。ただ、時間帯の関係で老年層の女性グループは少ないというか、ほとんど見なかったような・・・・。
 次に中年以上、老年未満の男女。子育てが終わった世代くらいの夫婦といった年齢層かな。高校生くらいの女の子が一人できている。ひらひらの青い印刷の花柄の綿かポリエステル製のスカートをはき、ややぽっちゃり体型の子。
 韓国人のカップルも。韓国語で会話をしている。女は整形しているかどうかは知らないが、典型的な某音楽グループメンバーのような顔。男は真っ赤にセーターで長身。女は水色のセーター。
 また日本人のカップルもいた。女は小柄で、茶髪。かえってめ目立つ。韓国人カップルに近い位置で巡回していて、服装が似ている。ショートの茶髪、メガネをかけた小柄な女の子グループもいる。二人か三人連れ。
 前回もリポートしたが、なぜか女の子は、小柄で地味な感じの子が多いような。クリスマスも近いこの季節、ひと肌恋しくなるので春画展の後は、イルミネーションを見に行くのが(私としては)おススメです。
 ボクのような歳になったら、イルミネーションは行きたくてもいけません(苦笑)。


↓ この日撮影した本館。

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「春画展」 SHUNGA 後期展示 鑑賞② 永青文庫

平成27年12月12日(土)

 「春画展」 SHUNGA 「世界が先に驚いた」の会期末も迫って来ました。永青文庫に再び行ってきました。
 四階の肉筆画の展示を更に見ていきます。


※ご注意
 この記事の文章には、性的に露骨な文章が含まれます。不快に感じる表現があるため、あらかじめご承知おき頂き、露骨な文章を好まない方は、以下読まないようにお願いします。






 山楽、長谷川等仙などの肉筆画をて見て進んで行く。が、ガラスケースの最前列は混雑で列が動かない。
 
第二コーナー(展示室に入って最初のガラスケースの角を曲がった次のガラスケース)


 前期の展示で見た「鎧を着てめくると交接している様子が現れる絵」と「目玉だけ出した坊主頭の男が後ろから、乳房をあらわにした裸の女をまさぐっている絵」は、無かった。展示が変わっていた。

 展示室内は撮影は禁止。しかし、行列しながらガラスケースを見ていた見学者の合間で、写真を撮った女がいた。驚くべきことだ。まさに「アメイズ」だ。しかも私の隣で見ていた女・・・・。こそこそと携帯電話(ガラケー)を出して、何をするのかと思ったら、写真を撮影した。「カシャ」とオトが響いた。誰も注意しないし、気付いていない様子。が、オトは確実に響いていた。
 私も特に注意はしませんでしたが・・・・。こういう女は、下手にかかわると騒ぎ出して、何をし出すか分からないので、私も警戒してしまった。混雑して行列しているにもかかわらず撮影するとは・・・。手にたくさん資料のようなものをもっていたので、研究者かなと思ったが、研究している者ならば、美術館の職員立ち合いのもと、堂々と撮影する筈。女は背の低い、年齢が45-50歳くらいのイケてない感じの地味な女だった。
  「看視員はどこだ?」だと思ったが、いない・・・。前回来たときは、会場内の人をじっと見回して「看視」していたのに・・・・・・。この日は人員が不足しているのか看視員がいなかった。というか、混雑しているので私の視界に入らなかっただけなのかも・・・・。

 第二コーナーガラスケースこの辺までは混んでいるが、うしろから最前列の隙間に入り込むことは可能。
 展示されている絵、画中の女は、目を細めて、悦楽の表情だ。


 第三コーナーのガラスケース。
 「圓山応挙の肉筆画の展示が」。二場面あります。あからさまな性器の描写はありませんが。布団に入り、男性上位のいわゆる「正常位」の画とあとの場面は忘れた・・・・・(笑)。タッチはあまり濃くない薄くて軽い。が、とても丁寧な描写です。この描き方といい、画面の左にある「応挙」(実際には旧字体)のサインは、確かに真筆の応挙作品と同一サインです。これを中年の女性「え~、圓山応挙も 描いていたんだね~。みんなあの時代は描いていたんでしょ~。」

 第四コーナーのガラスケース。
 最後に徳川ミュージアム蔵の巻物の展示が。二場面ある。露骨ではないが、横の体位から男性器を入れている男と、挿入されて悦にひたっている女。もう一つの場面は、やせていて、ちょっとキモイくらいの男と女の交わる絵。肌の色が鮮やかで印象的。人物は小さいが、丁寧に描いてある。さすが、御三家の所蔵品だけあり、画材にもお金をかけている感じ。「将軍の家族の家に伝来しただけの作品である。」と展示の説明にもあった。


 四階の展示室内。長持ちの前と同じく、独立したアイランドガラスケース内の展示品。狩野派の巻物だ。こちらは露骨な交接の図だ。

 再度、最初の(壁面の)ガラスケースを見ようとするが、行列が途切れない・・・・。このフロアのガラスケース内の肉筆画は、ほとんど作品や場面が入れ替わっていた。同じ作者の巻物でも、場面が替わっていて、ほとんど別の「春画展」のようだった。二回見に来て正解だった(笑)。

 この日は土曜の夜とあってか、見学者は女性の方が多い。肉筆画の展示室内でいうと、私の見たところ、男性よりも女性の方が多い。ただし、年齢層は男性と女性にそれぞれ分けると、男性の年齢の方が高い。見たところ、白髪の男はいるが、その同年齢らしき女性は少ない。
 私の見る限り、中年の夫婦?(男女)はいるが、老年の夫婦?(男女)は、いなかった。体をぴったりくっつけ、男が女の腰をに手をあてて観覧している中年の男女も・・・・。夫婦ではない感じ・・・不倫かな(苦笑)。
 若いカップルは、前回来たときよりも多い。カップルは学生くらいの年齢かな。子育て世代の20台後半から40台前半のカップル、その夫らしき男性の見学者は、見なかったと記憶する。前回も言及したように、子のいる家庭の場合、家族で来るトコロではありません(笑)。
 たとえば、ガラスケースの最前列の行列、10人をピックアップして数えると男女比は、5対5の場合や男3、女7の列も。列によっては「女10」もある。女の子の単独見学者はいるのだが、前回よりも少ないもよう。この日は、女の子の二人以上のグループが目立った。
 よって、展示室内は若い女性の甲高い声が響く。にぎやかだ。その声とは「うわっ。 これっ、・・・きゃはは・」、「ははッ、スゴイ」、「アハハ、コレヤバイ・・」など、嬉しそうなな声をあげています。「うわっ、入ってる」もあったような・・・(笑)。

 春画の別称「笑い絵」という語はここからきているのではないか?、とようやく気づいた。展示室内で笑っているのは、皆女性です。男ではありません。男は笑って見ていない・・・・・。ただし、画を遺している絵師は皆、男です。
 女絵師の春画はないでしょうか?。展示では、そのような(この絵は女絵師の作であると)説明はなかった(と思う)。
 「春画展」では、「男も、女もともに悦楽にひたっている。春画の世界では男女平等」というコピーも見た。しかし、果たして本当に対等だったか??。当時は圧倒的に男優位の社会。「男女平等」というのは、現代社会の視点から見た春画の価値観ではなかろうか、とも考えた。
 会場でも「絵師は皆、男だよね。」と言っていた50歳くらいの女性がいました。夫らしき人と来ていたような。女性は「(春画は決して男女)対等ではない。男目線だ。」と言いたかったのかもしれません・・・・。
 

 室内の熱気でおかしくなりそう。汗もかいた。ワタクシ「発汗してきました。」(笑)。ガラスケースにも手のアトがついていて曇っていたり・・・。生々しいです・・・・。ただ、この日は、看視員が四階にはいない?。写真撮影をしても注意する人がいない。

 「女性のみの鑑賞日、時間帯はないのか」という人もいるかも知れない。見知らぬ(変な、ワタシのような)男とと一緒に鑑賞したくない女性もいるでしょう。
 ここが男と女の脳の違いです。男の脳の感覚から言えば「ゥエルカム」でしょうが、女は違う。ああ、男はつらいョ。混雑している狭い部屋の中で、見知らぬ男女が、昔のものとはいえ、男女の性愛をモロに表現した絵を見るのは、無理があるのかも。

↓ この日撮影した別館(ミュージアムシヨップ)前のパネル。

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 肉筆画の展示室を出て、階段を三階に下りる。版画の展示室へ。いざ~(笑)。
 

「春画展」 SHUNGA 後期展示 鑑賞 永青文庫

平成27年12月12日(土)

 「春画展」 SHUNGA 「世界が先に驚いた」の会期末も迫って来ました。永青文庫に再び行ってきました。

 9月の連休から展覧会は開始されています。12月23日の天皇誕生日の祝日まで、3か月以上にわたる長期の展覧会も終盤です。
 展覧会の期間中は展示替えの関係で大きく分けて、前期と後期に、更に前期と後期も二期に分けて、合計で4期に区分することができます。
 10月に前回私が鑑賞したときは、前期の後半に、今回の訪問は後期の後半に分類できる時期に当たります。

 東京国立近代美術館の「藤田嗣治の展示」を見学した後、地下鉄で竹橋から早稲田へ。永青文庫へは、早稲田駅の「大手町側」出口からの方が実は近いのではないかと思います。地図をよーく見ると、そのように感じます。試してみてください(笑)。

 さて、私は、おなじみの早稲田の「後ろ側の出口」から地上に上がる。住宅、ビルの並ぶ街を抜けます。早稲田大学前の道路は通らないため、道もこちらのルート方が広くて歩きやすいです。ただ、歩道は無いので車には注意です。
 リーガロイヤルホテル前から、神田川方向への道を歩き、川べりへ。水神社の前の橋に出る。と、胸突坂の階段の上からは、春画展帰りと明らかにわかる人が下りてきている。なぜなら、「図録を持って」いるから。白いプラケースに入った図録を持った男性がひとりで階段を下りてきていた。10月に訪問したときには、在庫切れだった「春画展の図録の販売が再開されているようだ。

 と、私の後ろからも、カップルがやってきている。胸突坂の階段を登る私のあとを、ついてくるように歩いてきてた。コツコツとハイヒールの靴が私の背後で響く。カップルも永青文庫に来るようだ。階段を登り終わり、文庫の前へ出た。反対に、目白台の平地側(向う側)から永青文庫にやってくる人はいない。再び文庫の門を入る。文庫の建物から出てくる人が二~三人いる。皆、建物の前で写真撮影をしている。ちょっとした「撮影ポイント」です。
 文庫の建物の前にあんちゃん(若い男性係員)がいる。(前回来たときと同じように)門から入場して建物にやって来る人を一人一人チェックするようにこちらを見てくる。出口の前に設営されているテントには、ストーブがついている。はや12月の年の瀬だ。夕方、日没近くの時間帯となると寒い。テント内にいる人は二~三人。鑑賞を終えて休憩をしているのだろうか。休憩場所はこちらでどうぞ(笑)。
 と、建物前の係の人が大きい声を出す。「しゅんがてんの入口はこちらでーす。」

 ↓ この日撮影した写真。前回訪問時と比べて特に変わりません・・・。
   館内にチケットを切る係の女性が立っています。

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 チケット売り場の窓口(カウンター)には女性がひとり。今回も1500円を支払って購入。二回も来るならば、事前に前売り券を買っておけばよかった。「ペア券」を買っておけば、一人で二回来ることができた筈(笑)。
 展覧会入口の受付台に女性が一人。チケットをちぎってくれます。入口付近に行列は出来ていない。入場者も私一人のみ。コインロッカーの前で(預けるために)コートを脱いでいると、続いてやせた男性がやってきた。
 係の人にいつものごとく「四階に行くよう」に言われ、館内の階段を登る。と、二階の展示室は混んでいる。二階の展示室を見終わった人なのか「あれっ、ここでおしまいかな?」と言って階下に下りて行く見学者も。階段の途中、三階の例の倉庫の中のような展示室も混んでいる。文庫の建物外、敷地外や一階の入口付近では、あまり人はいなかった。なのに、展示室内は、どうしてこれだけ混雑しているのか?。とても不思議だった。

 四階展示室の前では行列ができていた。しかし、最前列でガラスケース(内の展示)を見る人の列のようで、別に展示室に入るたに並ぶ必要は無い模様。ゆえに、列を追い越して室内に入る。後ろの列から壁面のガラスケース内に展示されている絵を見る。
 四階は肉筆画コーナー。二列目からは人垣越しに見ないといけないため、やや距離が遠くて肉筆画の細密に描写は見えない。が、絵の様子は分かる。
 室内には「むっ」とする。暑い。熱気もすごい・・・・・・・。来ているセーターも脱ぎたいくらいだ。最初の展示作品、二番目の展示作品は、最前列がなかなか動かず見えにくい。「春画渋滞」と言うべきか・・・・(笑)。列の後ろを行ったり来たり。「見えないな~」と右往左往する。
 と、長持ち(以前からある、旧肥後領主・細川家のもの)のところ(ガラスケースが臨時に置かれている)に展示されてる絵がすいているのでこの作品を見る。なんと、狩野山楽の筆の巻物だった。作品は3場面ある。
 第一の場面 向かって右の展示品。
 男が一人。横に二人並んでいる仰向け姿の女が・・・・。ほぼ全裸。男は片方の女に肥大化したチ××をまさに入れようとしている。モロに赤くなった女性器。興奮して充血しているのか?。マ××のひだひだの中まで見えるようだ。マ××の毛もしっかり描いている。あおむけで両足を挙げている。
 第二の場面 中央の展示品
 男と女が一対一。女は同じくあおむけで両足を挙げている。男は女の足を持って、まさに「入れようと」しているところ。チ××は、現実にはありえないくらいに「でかく」て、「棒」はシワシワに描かれている。
 第三の場面 向かって左の展示品
 男が女のうしろ(お尻の方向)から入れていることろ。(既に挿入しているってコト。)しかし、現実にはどうしてもできない体位だ。

 これらの山楽の作品の前に女性の二人か三人組の見学者がいる。彼女達は、小柄だ。まじめそうな感じの女の子。「うわあ~、二人並んでいるよ。ヤバイヨ。ヤバイヨ。」とのご発言。後ろからの「ありえへん体位」の絵については「明日(あした)の方を向いてる~。」。すると「いや、明後日の方って、感じっ。」ともう一人の子がツッコミ。そしてお互いに『笑』。

 と、日本人の男と外国人の女(欧米系)の連れがいることに気付いた。春画展で、初めて外国人の女性を見た。女性は金髪ではあるが顔立ちや体型からして多分スペイン、南米系のようだ。身長は高くない。彼女は山楽の絵を見て「Strange」と一言、感想を言った。直訳すれば「奇妙だ」であろう素直な外国人の感想ではなかろうか?。
 この女性、日本語もある程度できるようで男と日本語で感想を言ったり、英語で絵を見ながら春画の場面の「実況中継」をしている。

 「春画展」には「世界が先に驚いた」とのキヤッチフレーズ(副題)があるが、どのように世界は驚いたのか?
先年開催されたロンドンの大英博物館での展覧会が大きな反響を呼んだことも、指しているのだと思うし、海外では一定の評価を得ていることも理由のひとつであろう。
 
 「驚いた」とは、外国語ではどのように表現するのだろうか?。英語で言うと「Amaze」、「Grate」なのか?。「Beutiful」、「Exiciting」なのか?。それとも「ワンダフル」か?。どの表現かと思っていた。が、案外、彼女が一言発したように「Strange」なのかもしれない。
 例えば、キリスト教文化の国の外国人にとっては、理解できないだろう。日本人の多種多様な価値観、信仰については。ある意味日本は変態でも「何でもあり」です。この日には展示がなかったが、「放屁合戦」もあり、いいろあります(笑)。
 更に、別の外国人女性を展示室内で見た。小柄なアメリカ人(アングロサクソン系)のようだ。彼女は、さっさと展示品を見て、部屋を出て行ってしまった・・・・。実物を見ても興味がわかなかったのかも知れない・・・・。

 次の展示だったか、坊主が布?隠れた画がある。二順目くらいに見ると近くの女の子グループが 「あれ 男はどこにいるの?」「袋に隠れているんだよ。」「え~隠れてるの~?? ワカらなーい!!」。
 男は着物をかぶり、というか袋の中に入り、チ××だけ出して、上から女がのっかている。女は坊主頭。オキテを破った女性の僧侶なのか?。僧侶といっても女は女です。「破戒の尼」かと思った。


 長谷川等仙の肉筆画もあった。あの、モロに股を開いて性器を見せていた女性の巻物。10月に来たときも見た等仙の作品であるが、展示場面が変わっていた。今回の展示場面は、女性器をあからさまに見せつけるのではく、着物を着たままうしろから、男がチ××入れていたり・・・・。背景が茶色なので 外で行為をしているような感じだ。場面は、外で性交していたり。人間や外の草木、土の色彩が美しい。
 と、三人くらいの女の子の見学者のグループがいる。(山楽の作品の前にいた女の子だったかな?)。三人のうち、二人は背が低く、一人はやや背が高くて黒い服を着ている。皆まじめで、おとなしそうな子のグループだ。皆さん私のタイプです(笑)。
 「うあ~」とか「あれ、××だよね~」などと指しながらあれこれ言っている。大学生くらいの年齢で、まだ19歳20歳くらいの年齢ではないか。
 「狩野派作」の巻物の絵も。後ろから男が入れている場面が。女性の尻が丸見え、しかも女性ならではの大きいおしりが強調して描かれている。

 改めて見てみると、リアルに男の性器も女の性器を描いている。女の子たちの会話「ちゃんと(女の)毛も描いているね。」
 
 四階の肉筆画の展示を更に見ていきます。


 

「春画展」 SHUNGA  東京 永青文庫 鑑賞記④(エピローグと別館ミュージアムグッズショップ)

平成27年10月

 「春画展」 SHUNGA 永青文庫。18歳未満は入場禁止です。
 永青文庫での展覧会の後、京都でも開催されると知りました。つまり、永青文庫は春画展の「東京展」の位置づけですね。次いで、来年(28年)の2月から「京都展」が開催されます。通算すると、約半年間開催されます。私も当初は、警察関係のこともあるので、東京のみ一回の開催かと思っていました。

※ご注意
 
この記事の文章には、露骨な表現の文章が含まれます。不快に感じる場合があるため、あらかじめご承知おき頂き、露骨な文章を好まない方は、以下の文章を読まないようにお願いします。


 展示室を順番に、二階まで見て、一旦鑑賞終了しました。しかし、退出はぜす、実は四階に戻り、肉筆画を再度鑑賞しました。やはり鮮明で見栄えがする。
 三階にも再度行った。三階の右側によく見えなかたガラスケースの作品をもう一度見る。そして、その先にある「北斎の例の絵」とセリフをじっくり見る(笑)。つまり、蛸と女の会話です。
 
 そして二階に戻り、ミニ春画を見る。特に季節感のある絵を。と 小柄な女性がまだいた。先ほど三階で目があつた子だ。年の頃は20台前半くらい。学生かもしれない。じっくり作品を見ているようで、私が三階に戻ったときにもまだいて、今やっと二階に下りてきたようだ。

 階段を降り、出口に。出口で私のあとから出てきた人達は、老夫婦、次に三人連れの女性(仕事帰りでしょうか20-30歳くらい)です。うち、一人はカーデガンにメガネに黒髪などまじめそうな人だった。
 親子連れも見た。母とまだあどけなさが残る18歳くらいの女の子。大学生くらいの年齢か・・・。高校生といってもおかしくないくらい。いや~、教育のためでしようかね。母と娘だとしたら、春画展を見てどんな会話を交わすのでしょうか。
 実は、展覧会の入口では、18歳以上か、あまり年齢確認はされていなかったような・・・。私の前後の入場者も確認されていなかったと思います。見た目18歳以上の人のみ入場していれば、年齢確認は必要ありませんね。私は明らかに(年齢以上と)分かるのですが、チョット悔しいです、といのは悪い冗談です・・・(苦笑)。


 永青文庫の建物の出口を出ると、すでに外はまっ暗。先の二階展示室から、窓の外を見ると(別館の)店に出入りする人、新たに入館する人達が見える。私は、一階でロッカーで荷物を出し、出口に出た。テント前には係員が。
 外から建物外観の写真は、歩いている人もいて撮りにくい。ここで、外から建物にかかっている幕を撮影。 と、私の隣で地味そうな女性がスマホで(私と)同じ方向を撮影している。彼女が撮影のために道をふさいでいて通れない・・・。その先の別館の春画展のミュージアムグッズショップに行きたいのですが・・・・。

 ↓ 夜の永青文庫。雨が降ったりやんだりしています。新たに入館してくる男性がひとり・・・。

 一階の部屋の窓の光が煌々と輝いています。写真の一階部分は事務室です。元々は写真の左手に出入り口と小さいチケット販売のカウンターか゜一箇所あったのですが、今回の改装で新たに入口が開口され、事務室に直結するデパートの案内コーナーのようなカウンターが設置されていました。

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 ショップを見るため別館に入る。グッズがたくんさ売っている。春画をプリントしたトランクス4132円など。しかも、トランクスはカラー印刷。よく目立つす。いつ、はくのでしょうかね(笑)。勝負のときでしょうか!?(笑)。
 別の壁にはティーシャツの販売見本も。思いっきり春画がプリントされていて、交接部分は、ポケット部分でうまく隠している。春画を印刷したトートバックも。これを外で持ち歩くのは微妙(笑)。
 「図録はないの?」と年配の男性が係の女性に聞いている。すると「図録は売り切れで配達になる」。とのこと。配達伝票が用意されている。送料は無料。販売の女性は、「前はたくさん積んでいたのですが、全部売れてしまいました。」と説明し、手を出して高さを示した。

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 春画が印刷されたマグネットも。この画では公然とは使えない。子どもがある家庭でも使えない。オフィスでも使えないでしょう(笑)。絵ハガキも売っている。過激ではない絵のハガキの販売。図録以外、グッズを買っているのは、みな女性。話しながら、絵はがきを手にとったり、楽しそうにお買いモノをしています(笑)。
 ウチは子供がいるので、図録、グッズとも買って帰る訳にはいかないです(苦笑)。


 静かに永青文庫の外に出る。門の付近は誰もいない。
 あの館内の混雑がウソのようだ。改めて、門の横の看板を撮影した。 ↓

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 さて、今回の春画展に行く前や、行ってからこの記事を書くまでの間、「春画展」について他の方の書いているプログもいくつか見てみました。普通の美術展よりもブログ、ツィッターなどへの書き込みが活発なようです。
 ある書き込みには「女性の方が多い。」とあったが、私の見たところ、男性が多かった。入館者の年齢層は男性の方が高い。
 時間帯や曜日にもよるが、私の訪れたときは、カップルは少なかった。「若いカップルが多かった。」という書き込みも相当あったが・・・・。が、私が訪れた時は、カップルが少なくてある意味安心しました(笑)。 
 「わー ××だね。 今度 こんど〇〇しようか。」などカップルの会話を書いたもの(他の方のブログ)もあったが、私はそのような「生のリアルな会話は」聞きませんでした。いちいち会話の聞き耳はたてていませんのでね(笑)。
 春画で「四十八手」など(の表現、描写)はなかった(笑)。アレは後世(つまり、近代以降)の創作ですかね(笑)。
 よくよく考えると、画中に描かれた人、画を描いた人(絵師、版画師)は現在、皆皆、死んでいる。春画は「人生の喜び」を表現しているとも言える。「喜び」を知りつつも、皆死んでしまえば、すべては「無」になる。何も無い。何も無くなる・・・・。  
 「生は性につながる」ともいえる。卑猥な言葉を書き残して作品を遺し(北斎など)たが、死んだ後に、後世の人にさらされる。まさか、自分たちの性愛やエロい言葉が「絵」や「詞」になって、後世の衆目にさらされるとは思ってもいなかったろう。それとも、元々広めるために刷ったので、織り込み済みしょうか!?。
 いくらエロいことをしても、エロい画を残しても、死ねば「無」だ。一切は「夢の如く・・・」か・・・・・・。アノ快楽の悦びは幻だったのか?。
 ある歌の歌詞ではないが、人生は、実にそっけない。そして、あっけない。夏の夜にパッと開いて散る花火のように・・・・・・・。「夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり・・・・」。春画を鑑賞して私は人生の儚さを思った。
 ああ、はかないなぁ~。

 すると「人間なんてなぁ、死ねばしめぇなんだ。いつ死ぬかわかんねエ。今を楽しまないでどうすんだょォ。」という声がどこからか聞こえてきた。(しかも江戸弁!!)
 モチロン、自分が楽しむため、愉しむために何をしても許される世の中ではありませんね。特に現代社会は。
 いや~厳しい世の中、大変だなぁ~。 

 永青文庫の門を出て、胸突坂を下る。都電の早稲田駅へ。意外にも遠い、10分弱歩した。地下鉄の駅よりは近いが、さほど変わらないのではないかと思った。都電の車内、座席に座る。あとから、同じ都電の車両に永青文庫帰りと思われるサラリーマン風の男が乗り込んできた。

 都電は1852発、1912頃大塚駅着。大塚駅から山手線の電車に。
               ↓ ネオン輝く大塚駅前の様子。

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 鶯谷駅で下りる。さて次なる目的地は!?。




「春画展」 SHUNGA  永青文庫 鑑賞記③(二階展示室 豆本など)

平成27年10月

 この春に発表になり、このブログでも紹介しました。日本初の本格な春画の展覧会、その名も「春画展」 SHUNGA が開催されている永青文庫に行きました。副題は「世界が先に驚いた」です。

※ご注意
 
この記事の文章には、性的に露骨な文章が含まれます。不快に感じる表現があるため、あらかじめご承知おき頂き、露骨な文章を好まない方は、以下読まないようにお願いします。


 三階の蔵のような展示室を出て、二階へ階段を降ります。といっても、(永青文庫に)行った方ならば分かりますが、半階降りるような感じです。
 二階の展示室は混雑しています。入りにくいです。展示室の手前、廊下に近い所に、豆本の展示台があり、そこに観覧者が集まって滞留しているため、展示室内に入りにくいです。
 二階の展示室の隣の部屋の床には、一階が丸見えの吹き抜けの丸い穴が開いているのに気付きました。観覧者が、係員に「あれっ、これ(床に)穴を開けたの?」と聞いている。係のパンツスーツ姿の女の子「多分そうだとおもいます。」と。知らないのでしょう。20歳前後の学生アルバイトのような感じ。普段ここに勤務している人ではなく、この展覧会に際して企画関係の会社に雇われたアルバイトでなのしょう。彼女は、おしりがピッチリしたパンツを着ており、この春画で満たされた空間においては、妙に生めかしく見えてしまいます・・・・(ゴメンナサイ)。


 島(アイランド)状の展示棚で、四季ごとに場面が異なる春画のミニサイズの展示があります。小さいといってもA6くらいか。もっと小さいミニ本かと思ったが、そこまでとは違う。
 季節ごとに、交接している様子が違う。桜の時期、七輪のハチがおいてある初冬とある絵。夏どれも胸がはだけていて、着物のすそをまくり、男性器をひだひだな女性器に挿入している。

 ↓ 二階の展示室。電気のついている一階の上、カーテンを閉めている部屋が二階の展示室です。

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 正月(の様子を描いた豆本の絵)は「裃を着ている」と説明にあったが、裃が分からない・・・・。女の晴れ着もよくわからない。
 夏の5月は部屋で着物が、はだけているとあるが、あまり薄着の感じもしないし、私の見た感じはだけてもいない。体面座位(というか、向かい合って、座って抱き合っている)で挿入している。男が下位になっている。6月の絵は屋形船での交わり。船の座敷に横になって、うしろから挿入している。今でいうと、東京湾の遊覧屋形船しかイメージがわかないのですが、昔はたくさんあったのでしょうか?。
 豆本は「新年の登城で大名同士でも交換した」とある。江戸城では、毎年正月の諸大名が登城して将軍に年賀の挨拶をした。その様子を描いた絵は現在でも残っているが、その裏では登城した大名達は春画を交換していたのですね(笑)。
 よりすぐりの春画のミニを持参して見せあったのだろう。「相模守殿、それがしは××な絵を持っておるが、貴殿はいかが?」。うむ「右京太夫殿、それがしは、こんなのもござるぞ・・・」といった会話の感じでしょうか?。
 (あくまで想像です。笑。)
 つまり、大名も描かせてたそうです。お抱えの絵師が制作したよりすぐりの春画を持参したのかも知れません。子孫繁栄として嫁入り道具としても持参したそうだ。大名の姫も持参したとか・・・。やんごとなき姫君の「学習」にも使用したのでしょう。侍女が「姫様、このようになせりませ・・・。」と教育したのでしょうか?。
 対して、庶民も持っていったのか?、と思いました。肉筆画は大名、お金を持っている商人などでないと注文できなかったと思います。しかし、時代が進み(どういう、進み方やねん。笑)、版画の技術が発達するにつれて、先に三階の展示室の作品(貸本)ではありませんが、庶民にも広がったのでしょう。
 都市部の庶民には需要があっのかも知れませんが、農村部ではどうだったのでしょうか。作に山間の農村には、まことしやかに現代でも伝えられるように夜這いの風習もあったでしょう。すると、農村部では春画を持つ、貸本を借りる必要はなかったかも!?。というのとは違って、だからこそ当時圧倒的多数を占める農村部での需要は、あったのかも・・・。もうアタマがゴチャゴチャになった分かりません(笑)。

 更に私が思ったのは「描かれているモデルは、娼婦なのか、芸者なのか、一般人なのか?。」という点です。画中の男女は、庶民の夫婦なのか、金持ちとメカケか?、そこまでの説明は、春画展の作品ではない。(図録にはあるかも知れませんが)モデルはいったい誰なのか?。多いのは「吉原」をはじめとする遊郭、公娼での行為なのでしょうか。
 春画は「非合法であった」ともいいます。すると、私娼のような所での行為も描いていたのでしょうか。謎はつきません。


 豆本は明治以降もつくられ、日清 日露の戦争でも出征兵士に持たせたそうだ。「勝ち」にひっかけたとあるが、実際は違うだろう。ウラの話、性欲処理に使用したのだ。おそらく、当時は写真もあったろうが、あからさまに兵士に持たせるわけにはいかない。元々、なじみの深い春画の豆本ならばと黙認したのでしょう。知られざる近代戦争の裏面を知りました。戦争と性とは切っても切れない関係にあります。
 仮に自分がこの時代に生まれて、大陸の戦場に送り込まれる身になったとしたら・・・・、考えさせられてしまいますね。事実、私の曾祖父の一人は日露戦争の戦場に行っています。戦傷の傷の影響で、早くに亡くなったとか・・・・。私はおろか、父の誕生するはるか以前に亡くなっていまっています。
 春画の最盛期は、西暦で1820年-30頃、つまり「子だくさん」「ヤリ手」の将軍 家斉公の御代で、それから間もなく、明治維新となり、近代化の過程で春画文化も終わりを告げたようだ。
 豆本に描かれている男女も着物着ている物がほとんど・・・。ひとつ女が全裸の絵があった。しかし、全裸は珍しい、との解説がある。着物を着ての行為が通常であったようだ。当時の風俗がよくわかります(笑)。
 
 二階展示室の奥の応接室の部屋は、この展覧会ではソファのみを残し、書棚、調度品、テーブルは片づけられ、平ガラスケースが中央に配置されていました。永青文庫所蔵の巻物のような春画の展示がありました。
 二階の展示室まで見て、本来は出るところ、実は四階に戻り、肉筆画を再度鑑賞しました。肉筆画の美しさに魅せられてしまったからです(笑)。

 ↓ 別館(展覧会のショップ)に至る小路にある看板。
   畳の部屋でおくつろぎする男女の姿です。

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「春画展」 SHUNGA  永青文庫 鑑賞記②(三階展示室 版画など)

平成27年10月

 この春に発表になり、このブログでも紹介しました。日本初の本格な春画の展覧会、その名も
「春画展」 SHUNGA が開催されている永青文庫に(遂に)行きました。副題は「世界が先に驚いた」です。

 ↓ 門の前の看板。フラッシユで光ってしまいました・・・。
   まるで、急(せ)いている私の心のようでした(苦笑)。

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※ご注意
 この記事の文章には、性的に露骨な文章が含まれます。不快に感じる表現があるため、あらかじめご承知おき頂き、露骨な文章を好まない方は、以下の文章を読まないようにお願いします。



  四階の「肉筆画」の展示室から下へ
 三階の展示室「蔵」の内部へ。内部は混んでいる。ガラスケースの前には人が列をなしていて、最前列で見ることは難しい。うまく人の間に入らないといけない。
 この部屋は、版画の展示。圧倒的に1800年代前半のものが多い。年代がまとまっているのは、町人文化がさかえ、この頃、大量に制作されて、明治維新後に残ったからか?。説明にはなかったが、将軍家斉時代のものが多い。上様が「あんな感じ」だったから、半ば公認だったのか?。実は将軍もコレクター、というよりも実践??、していたから春画などは不要?(笑)。

 室内は、引き続き女性の係員が常に看視している。一人一人じっと入室者をチエックして見回しているような
感じ。かなりの警戒ぶり。気分が高まり、興奮してトラブルが起きないように注意しないといけないし・・・。特に不特定多数の、お互いに見ず知らずの男女が狭い室内で性的な画を見るのだから、不測のトラブルが起きないとは限らない。係員は無線をつけて通信している。「はい了解しました。」と交信していることもあった。

 ここで、観覧者の状況を。夕方、6時近くになり、職場、学校を終わったと思われる人がやってきている。スーツ姿、ノーネクの男性も多い。年齢は20から40歳台くらいかな。50歳以上と思われるサラリーマン風の人も。老年男性もいる。私服姿は、仕事帰りではない人なのでしょうか?。(当たり前か、もっとも制服のある職場は私服に着替えて退勤するので、私服=仕事帰りではない、と断定はできないが・・・。)
 カップルは存外少ない。カップルがいても、男女とも私服なので明らかに学生。学生らしき若い組は三組くらいか。 
① 女の子は赤いスカートに白いウールのような上着。こぎれいな恰好をしている。
  メガネをかけたまじめそうな子で、黒髪。明らかにデート服。
② 小柄な黒髪の女の子。茶色っぽい服。
  たしかにカップルで来ている人は(展示室内での)会話が多い。夫婦のような50台前後の男女もいる。が、夫婦かはわからない。私だったら春画展、せっかくの夕方の鑑賞に妻とは来ませんよ(笑)。別の人と来たいです・・・・・・・・・・・・。

 老年の夫婦もいる。70歳くらいだろう。私と同年代の夫婦、年下と思われる男女は見なかったような・・・。子どもが18歳未満や小さいので、平日の夕方に家を空けるわけにはいかず、家族連れで来るわけにもいかず(笑)。
 20台後半から40台の子育て中の女性は無理でしょう。その世代でも、仕事帰りで見に来ていたような人はいたが。「今日、仕事帰りに春画を見てきたよ。」と家に帰って子どもには言えませんし・・・・・・・・(苦笑)。

 観覧者の概して年齢は高い。特に男は。18歳未満は禁止だから当り前か。女性で来ている人も、若い人もいるが、年齢は比較的高いのではないか。単独(の観覧者)は、男性が多い。子育て世代の男も多い。仕事帰りの男グループも。彼らは(春画展の後)次は飲みですね(笑)。
 一人で来ている、もしくは連れだって来ている女性は、なぜか小柄な人が多い・・・。身長が150センチもないくらいの人がなぜか多い・・・。平均年齢ではなく、平均身長が低い。まじめで地味そうな女性が多い。そのためか、茶髪率が低い。金曜日の夜に来るならば、カレピーとは「春画展」ではなく、オシャレなデートスポットに来たいです、というのは私の男目線か!?。
 (あっ、カレピーという言葉は私のオリジナルです(笑)。)


 さて、展示室に話を戻す。内部は「人いきれ」である。体臭の強い男もいたり、異様なにおいと熱気。見ながら鼻息が「ハーハーー」と呼吸しているおじさんもいて・・・・(苦笑)。決して呼吸は荒くないが、自然に興奮しているのでしょうか??。私も呼吸が荒くならないように気を落ち着けてみました(苦笑)。

 熱気で暑くなった。私もスーツの上着を脱ぐ。版画は絵が粗い。肉筆画と比べて細密ではない。黒印刷も多い。色彩擦りをしている版画もある。
 北斎の絵もあり、作品内にはセリフが書いてある。タコではなく男が女に×入している様子。他にもセリフ付きの版画があり、じっくり読むと。意味が現代人でもなんとなくわかる。昔も今でも同じか・・・・・。赤裸々な描写である。三階の展示室の木枠のガラスケースはすべて春画、主に版画だった。歌麿など聞いたことのある版画家も春画を作成している。
 北斎の「タコが女性器にくいついている版画」。女性はあおむけ。海女だそう。
「いくいくくい あーあー」と余白にびっしり文章が。「×ら」を・・・などと書いてある。「いい、ぼ×た。××しようか。あれあれ。奥の・・・。」書いてある文章は口語体に近い。文語体ではない。ということは、この版画は、より庶民のものではなかったか。画中の文章も「北斎が書いたと思われる」と説明にある。
↓ 蛸と女の会話は次のような感じでした。
蛸「いつぞは ~ とねらい・・・・・・・。」
女「・・・・・・・・・・・アア フフウ アア フウ・・・・・・・・・。」
蛸「ぐちやぐちやズウズウ、どうだ。・・・・・・・・・・・あれあれ、・・・・・・・・ぬらぬら、どくどく・・・・・・・・・。」

女「アアもう、くすぐっ・・・・・・・・・。」

 鈴木春信の絵も。春信の作品は、人物が背景の部屋の大きなに比べて小さく表現されている。男と女の表現があまり豊かではない。何となく、醒めた表情をしています。が、すごい描写の版画があった。白黒だが、細密な描写をしている。×接部から白い液体がしたたり落ちている様子が、克明に版画で表現されている・・・・。実にリアルです。これは、女性の体×か、それとも(男の体内から出された)××か???。私は、女性の××から分泌された×液でしょう、と思いました(苦笑)。

 北斎の作品の近くに、歌麿の絵もあ。作品内には、北斎ほどではないが、セリフが書いてある。夫婦らしき男女で、二人ともに落ち着いた表情。男「おめえは・・・いい女はいねぇ。」、女「おまえさん・・・」のような会話です。人物も大きく描かれています。男と女の親密な様子が文章から分かります。
 享保以降、春画は禁止されたが、実際は発行されて個人で所有していたとのこと。奥の左のガラスケース付近に説明があったが、 貸本屋があり見料を定めて期間に応じて料金をとったと。本の中には 版画で刷られた 春画本もあり 貸本屋は持ち歩いて貸出をしていたそう。

 江戸期の版画は目の細い。手の細い絵。江戸前期の肉筆画と人相が異なる。江戸期の美人とは目が細くて、 手と足の小さい女が美人さされたのだろうか。実際と比べると女性の顔や体は細いのではないか。もっと実物はふっくらして手足は短いはず。
 明治時代の写真で、女は手が大きいことにびっくりして「手を隠して撮影した」と聞いたことがある。

 版画で「混浴」の様子を描いたものも。風呂から出て涼んでいるようだ。男や女が数人いて、皆、ほぼ
全裸。女性の乳房もあらわになっている。子供が男のチ××を指して笑っている様子が描かれている。江戸時代の混浴文化はこのようなものだったのでしょう。 
 版画でも男性、女性器ともに実際よりは大きく書いている。特にチ××は、とてもグロテスクに見える。
 と、三階の展示室で、ガラスケースを方向をかえて見回してみた。一人で来ていると思われる女性の観覧者と目があった。慌てて目をそらす。彼女は、先に見た展示室にも姿を見た人で、じっくりと作品を見ている方でした。観覧者は結構、周りの様子を見ていますね。誰でも他人が気になるのですね(笑)。特にこの展覧会では。(ボクもです。自意識過剰・・・・。)







「春画展」 SHUNGA  永青文庫 鑑賞記①(入館~四階展示室 肉筆画)

平成27年10月

 この春に発表になり、このブログでも紹介しました。日本初の本格な春画の展覧会、その名も
「春画展」 SHUNGA が開催されている永青文庫に(遂に)行ってきました。副題は「世界が先に驚いた」です。

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 仕事先から直帰して、永青文庫に向かいます。あらかじめ夜間開館を利用しての訪問として、段取りをしました。
 9月の連休から展覧会は開始されています。12月23日の天皇誕生日の祝日まで、3か月以上にわたる長期の展覧会です。特筆すべきは、展覧会の期間中は日曜日を除いて全日、夜8時までの開館。
 通常は夕方5時閉館なので、美術館として夜間を開館している民間施設はありますが、公立、民間を問わず特別展の期間中、これ程まで、開館時間を延長するとは異例の対応です。

 永青文庫へは、地下鉄早稲田駅から歩きました。この日は、曇りだが、雨はやんだり降ったり。ときおり霧雨のような雨も降ったと思ったら、夕方にはやんだり・・・・。雨のためか、気温も下がり涼しい。スーツの上を着ないと寒いくらい。気温は15-16度くらいかな。随分と秋めいてきた。この日は雨と曇天のため気温が概して低かった。
 リーガロイヤルホテルから、神田川への道を直進する。途中、フォークリフトが公道を作業で行き来したりしている。ナンバープレートも無い・・・・。違反ではないのか、と思ったり。出荷すると思われる業務車、ワゴンが何台も停まっていたり・・・・。川べり、水神社の前付近は、何かとせわしいですね。人間の生活の営みです(笑)。

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 17時前、胸突坂を昇る(登る)。春画展の帰りと思われる人も、上からおりてくる。文庫の入口の門前に着くと、70歳台と思われるおじいさんの4人連れが看板の前で写真撮影中だ。その中の一人が撮影、三人が看板の横に並ぶ。被写体までの撮影の距離を道いっぱいにとり、通行の妨げに。
 と、出てきた学生らしきカップルの男女に「撮ってよ」と声をかけていた。男は私服で明らかに勤め人ではなく、学生。女はロングヘア。スカート姿で上着もきれいなお洋服を来ている。かわいらしい恰好です。彼氏とお出かけ しかも春画展に行くための「勝負服」のようです(笑)。
 私は、それを横目に敷地内へ。建物の前には黒いスーツとタイトスカートの係員が立ち、じっとこちらを見ている。入場者はチエックするぞ、という視線を感じる・・・・。
  
 ↓ 永青文庫の前の道。

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 建物の前には、テントが張ってある。テント内にはパイプイスがたくさんある。しかし並んでいる人はいない。カサ置きがあり、預ける。テントの中にも係員がいる。かなり係員を配置し、看視している。チラと係員を見ると、その都度目が合う。一人一人もチエックしている感じだ。

私はテントからやや戻り、館外の仮設トイレへ。汚い。小さいし、荷物をもって入るととても狭い。しかも、床面が糞尿で汚れている・・・・。女性用の仮設もある。
 敷地内の別館が、展覧会期間中は売店になっている。人が行き来している。別館への道の前で本館を撮影する人が多い。撮影ポイントになっている。
 建物の前でiフォンのあの撮影音が響く。「カシャァ」と。私は館内に行くそこで。チケットを買う。改装工事で新しい入口がついていた。従来の入口は出口になっていた。
 奥の階段に直結するかたちで入口をぶち抜いて改装した。新しい券売り場も事務室と連結している。チケット売り場にも女性の係員が一人。「一人ですね 1500円」といわれ支払う。入場口はすいている。係の人が半券をちぎる。「四階へ上がってください・」と言われる。ここでの常套句です(笑)。
 入口付近は係と私以外にはいない。すぐに、私に続いていて若い小柄な男性がやってきた。私と同じようにノーネクで紺のスーツ上下を着ている。
 私は入館し、ロッカーで荷物を預ける。館内の階段前の廊下にロッカーが設置されている。100円硬貨を持っていないので一旦出て、チケット売り場で両替してもらった。次々に観客がやってくる。なんやかんやで入場は17時20分を過ぎていた。
 ↓ かつての入口兼出口は「出口専用」でした。

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↓ 改装後、新しく設けられた入口。
   闇夜に浮かぶ燈火に照らされ、チケットを買う女性が一人・・・・。
   秋の長夜、妖艶な雰囲気です。・・・・というは言い過ぎですね。
  

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 係員の言葉通り、四階への階段を登る。途中、二階のフロアの展示室の前を通るが、展示室内は人が多い。二階の廊下にあった、書棚は移動されている。全館春画展になっているようだ。更に階段を登り、三階へ。
 前にも書いているが、ここが従来の企画展示室。階段途中にある中二階で、蔵のようになっている。本館に増築されて附属しているような建物。中を見ると混雑している。更に上へ。実質三階の「四階展示室」へ。
 三階の窓はすべて閉鎖。遮光して、ついたてのようなパネルを立て、パネルにプロローグの展示品がある。
性愛(を描いた)の作品はないが、男女の愛情を示す作品が数点展示してある。永青文庫敷地内の屋外や前の道路では出入りする人は、ちらほらだったが、館内の展示室内には人がとても多い・・・・。
 
 四階の常設展示室に入る。壁面の大ガラスケースは、すべて春画だった。ついてに「春画」とご対面。
 「肉筆画」の展示だ。以前から展示されている「長持ち」はそのままになっているが、その前にも春画の展示ケースが。着物の男女が、下半身部をはだけて交わっている絵・・・。春画をまともに見たのは初めてだが、ある意味、衝撃的でした。「思っていたより、凄いな。」と。
 室内には、係員が一人立っていて、看視をしている。普段(の展覧会)だと、ただ立っているのみだが、今回は違う。看視員は、常に室内の様子をくまなく見渡している。看視は、ショートヘアのまじめそうな若い女性。学生のアルバイトより少し上くらいの年齢か。
 展示室をざっと見渡す。重要なのが「どのような人が(春画展に)来ているのか?。」だ。「国内初」とあって皆、 関心があると思います。女性は50歳以上が多いかな。(観覧者は)男性の方が多い。分類すると熟年女性グループ、老年の男など。若い人はいるが、少ない。
 長谷川等仙の肉筆画の展示がある。等伯の弟子か自称弟子かは分からない・・・。モロに女性器が書いてあり、赤くなっている。チ××を、もろにさそうとしている。蹲踞(そんきょ)の恰好で女が股を開いている。背景として草木などがカラフル(に描かれていて)で「お外」での情景のようです。室内(の様子を描いたの)ではないですね(笑)。
 (ガラスケース内の)最初の展示品は、平安初期の、密通を題材にしたもの。桃山、江戸初期の人物を描いたタッチに似ている。細い目の浮世絵とは人相が異なる。


 長谷川の作品のあとには「放屁合戦」の絵も。次に、布団に中で抱き合った半裸のキスする男女が・・・・。女の目表情が悦にひたっている様子。男色の絵も。しかし、ソレとはわからない。男と女として書かれている。が、男同士なのだろう。下(の部分)が見えないにように書いている。片方が男と分からないように描くのが粋だったのでしょうか?。
 反対に「女同士」の絵もある。(男同士の反対が「女同士」なのか??。分からなくなってきた・・・・。)

 室内、正面のガラスケースには、(今回の展覧会の)パンフにも掲載がある「うしろから男の片目がのぞいていて、女は横になって××されている」絵。女は喜びの表情。目がイッテいます。


 ガラスケースの角に鎧を着た男の絵。(これまた今回の展覧会のパンフにも掲載があるが)戦場での相討ちかとおもったが、下の鎧姿は女であるそう。鎧の下をめくると、でかいチ××を、モロに女性器に××している様子が表れる。
 この展示室は肉筆画。肉筆画は江戸前期が多い。年表もあったが、今回の展覧会の作品の多くは江戸後期のもの。対して、肉筆画は(前述の通り)江戸前期のものが多い。
 着物を着て抱き合った男女の小さい肉筆画も。男が下になって×入していたり、パッ×で×れていたり・・・。男性器、女性器ともに実際よりは大きく書いている。特にチ××は、しわしわに描かれていて、とてもグロテスクに見える。なんかイヤだな(笑)。男女の結合部を強調すべく、不自然な恰好の絵も多い。皆さん「これは無理やろ~」と突っ込んでいたと思います(笑)。
 かつてのここ永青文庫の展示会で、重文の仏像が置いてあった辺りは、(今回の春画展では)ガラスケースが設置され、小さいサイズの肉筆画の展示コーナーになっていた。
 肉筆画は鮮明で、きれいな絵が多いです。

永青文庫 「細川家起請文の世界」 副題「神の使い八咫烏に誓う」 見学記(最終)

  2015年4月中旬のこと。

 永青文庫の企画展示 「細川家起請文の世界」、副題「神の使い八咫烏に誓う」の見学記も今回の投降で最終です。
 忠興(三齋)没後の起請文、書状に展示が続きます。主なものを挙げていくと・・・・。
 
・忠興没後、その家老が書いた文書。ただし、起請文ではない。
 「二君には仕えません。お暇をいただきたい」という進退伺いです。熊本の家臣にとっては、忠興の威光を着る憎い奴のように映ったかかは分かりませんが、家中で絶大な権力のあったご隠居様の没後、サッと身を引くところは八代の家老も「わかっていた」というところでしょうか。
 説明によると(暇を請わなかった)八代の家臣20-30名は熊本に移されたとありました。

・忠興没後 八代城に入った松井氏に対する起請文
 宛先は(今後の)監視対象の松井寄之も含くめて複数名が入っています・・・。熊本の重臣達宛てなのでしょう。
 忠興没の10か月後、八代城には家老松井氏が入った。つまり、病気にもなった忠興の子で松井氏の養子となった松井寄之のことです。
 松井氏が不正をしないか、監視し、何かあれば報告しますというもの。連判で起請文を差出ししています。60人くらいが血判を押し圧巻です。

 忠利の死後、ご隠居の忠興が没し、その四年後には忠興の孫にあたる光尚も若くして死亡しています。残されたのは幼君。これは一大事です。お家や断絶やお家騒動によくもならなかったものです。

↓ 永青文庫の今回の展示リスト。なぜか写真がヨコになっている・・・。
  二階の常設展では九谷焼の展示がありました。(別館の展示は別料金)
  「北陸新幹線」開通記念とのことです。
  九谷焼は石川県。
  加賀前田氏の参勤交代のルートと北陸新幹線のルートが一致していると、常設展での説明にありました。

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 二階の常設展では私のあとからやってきた背広姿の50歳台くらいのおじさんが熱心に見ていました。たぶん近くの大学の教員のような感じです。
 前回訪問時にも展示があった白樺派の作家と護立侯爵の写真がありました。護立侯は志賀や武者小路達を支援して交流があったが、学習院同級生というわけでは無かったようです。前回訪問時では同級生だったと誤解してしまいました・・・・・。
 護立侯と白洲正子との写真もありました。この写真のことは前回も掲示がありましたが、前回訪問時の記事では言及を忘れていました。ともに壮年以上の様子なので、戦後昭和30年代か40年頃の撮影と思います。年齢としては親子くらいの差があり、むしろ近衛文麿の娘の夫であった子の護貞氏のほうが年が近かったと思います。先年放映されたテレビドラマでも白洲次郎は牛場兄弟長兄ともに近衛側近として登場していましたね。

 前回の「信長の手紙」展よりも今回の「起請文」展の方が、実は見応えがあったも知れません。「信長の手紙」は直筆のものが一点だけで、あとは祐筆が書いて天下布武のハンを押したもの。歴史的には貴重ですが機械的、事務的な感がありました。反対に今回の展示は生身の人間の心や生の人間関係がダイレクトに伝わってきました。

 永青文庫のパンフレットにもありましたが、今回の春季展示「細川家起請文の世界」が6月下旬で終了した後、建物修理のため休館するとありました。再開は9月。再開後最初の企画が先に発表のあった「春画展」。今後大きな話題を呼びそうです。


永青文庫 「細川家起請文の世界」 見学記3

  2015年4月中旬のこと。

 永青文庫の企画展示 「細川家起請文の世界」、副題「神の使い八咫烏に誓う」です。
 
 続いて展示を見ていきます。
 「罰文」、パチモンは、用紙が決まっています。あらかじめ、印刷しておき、起請文の本文と貼り付けして罰文用紙には血判を押します。この用紙は「熊野牛王宝印」といいます。展示室一番奥のガラスケースに展示がありました。まとっまって印刷しておいた物が必要なくなり、明治時代になってからも保管されて現在に至っているのでしょう。説明によると13枚現存しているとあります。もしかしたら、明治初期には前時代の遺産というか、不要になったモノとしてもっと残っていたのかも知れませんが。
 「熊野牛王宝印」の模様に「カラス」がたくさん書いてあります。カラスが何羽も積み重なって、棒のようになった絵です。ちょうど「山」の文字のようにカラスが積み重なっています。起請文はカラスの図柄の裏に描くので、よく見えませんでしたが、説明を読んで改めて見るとたしかに「カラス」です。しかも描き方は「デカい目ん玉」がひとつあるカラスです。ちょっとグロイ感じです(笑)。
 「山」の文字のようにカラスが積み重なった模様の真ん中には縦書きで「天下第一」とあり、その下に「日本」と文字が入っています。「神の使い八咫烏に誓う」とはこのことだったのです。
 起請文の用紙「熊野牛王宝印」の意味がようやく分かりました(笑)。

 永青文庫作成の本展覧会のバンフレットの拡大。主な起請文が紹介されています。
  「熊野牛王宝印」の用紙を貼り継ぎしています。用紙の大きさも違います。
  ↓ なぜか写真が横倒しに・・・・・。
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 印象に残った展示内容としては、

・出入りの商人が書いた起請文
  薩摩など他の領地に行っても熊本領のことは洩らしませんというもの。罰文の貼り付けがありません。商人など武家以外は罰文を貼り付けしなくてもよかったことが分かります。罰文とは武士の特権だったのかも知れません。
・家臣数名が家老松井興長に対して出した起請文
 当主忠利が急死した後に出したもの。忠利は父、忠興よりも先に亡くなっています。先の記事に書いたように「忠興からの毒殺を恐れていた」ことと何か関係があるのでしょうか。
 誓う内容は、「八代の忠興ではなく」新しい当主光尚に忠誠を誓うものでした。敢えて「忠興ではなく・・・」というのが複雑?、深刻?な家中の状況を示しているのかも知れません。
 忠利にしてみれば、せっかく自分の代で小倉から熊本 肥後一国へ表高で10万石以上の破格の加増の上、転封になったのに・・・という思いがあったかは分かりません。すべて祖父、父の功労によるものといわれればそれまででしょうか・・・・・。キョーレツな父の影響下に置かれた生涯でした。「もっと自由に差配したかった・・・・・。父の下に始まり、父の下に終わる。ボクの人生一体何だったの?。」と死の直前に思ったかは、知る由はありません。
 忠興は当時としては異例の長寿の80何歳まで存命。その子達にとっては、キョーレツな性格と相まって大変だったのでしないでしょうか。

・忠利の存命中、父忠興から忠利への書状。
 これは起請文ではありません。忠利の家臣を非難するもの。「・・・何某の借米の利子が〇〇両になっている。トンデモない、やめさせろ・・・・・。」
 非難された家臣がその十年後に書いた起請文もありました。忠利が亡くなった後、忠興には奉公しませんという内容のようです。かつては非難されたが家中では生き残っていたのですね。組織の中でのポジション確保、というか地位キープも必死です。勘気を蒙れば死もあり得たのでしょうか・・・・。
 
・光尚の医師の起請文。
 父、忠利が死亡し襲封した後に差出しされたもの。「江戸や他家に殿様の診察内容などを漏らしません・・・」というもの。医師は他家でも働いていたのですね。
 現代 医局の医師が複数の病院で勤務したり、当直に入ったりしているのと似ていますね。ただ、医局の状況も現在ではかなり変わっていると思いますが。

・家老松井寄之の起請文と医師の様子覚書
 これは極め付けの展示です。一番面白いというか、現代にもつながる内容です。
  八代の忠興と忠利没後、熊本の光尚との間で板挟みになった家老松井寄之の書。病気で出仕できませんといった内容。寄之は忠興の子で、忠利の異母弟。松井氏の養子に入った。実父と実兄、甥、養家の家老の職務で悩んでいたようです。
 病状は「めまい、動悸、多汗・・・」など。うつ病、自立神経失調症のような症状です。
 医師の覚書(つまり診断書)にも同じ症状のことがあると書いています。
 「心の病」は現代社会に大きな問題となっています。が、昔からあったのですね。

 忠利が父に先だって没したのも、実は精神的負荷によるものも多分にあったのではないのでしょうか。毒殺をおそれるくらいなので、かなり精神的に病んでいたような。
 長兄廃嫡、次兄切腹、三男の自分が跡目を継いだものの・・・・といったところでしょうか!?。
 松井寄之は「長岡」姓を授けられていることがわかります。細川を名乗るのは当主と嫡子に限り、他は長岡姓。松井氏が家臣ながら「長岡」姓であるのは、一門として遇したとことの表れなのでしょう。

 ↓ 同じく永青文庫作成の本展覧会のバンフレットの拡大。
   細川氏と松井氏の系図の掲載があります。この養子、婚姻関係が重要なのですね。
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永青文庫 春季展示「細川家起請文の世界」 見学記続き

  2015年4月中旬のこと。

 永青文庫の春季の(企画)展示 「細川家起請文の世界」、副題「神の使い八咫烏に誓う」の見学記続きです。

 「三階」の展示室を見ていきます。
 「起請文の世界」というテーマですが、(江戸時代を通しての起請文の展示ではなく)主に江戸時代前期のものが展示されています。特に、熊本に転封された後、当時の当主忠利とすでに隠居していた父、三齋(忠興)との関係に起因する起請文の展示が中心でした。展示室内の解説パネルには「・・・・八代に入った三齋と熊本の忠利とは緊張関係が続いていた・・・・。」とあります。(本展示会のパンフレットにも同様の記載がありました。)
 なぜ緊張関係にあったか詳しく説明はありませんでしたが、原因は三齋(以下、忠興と書きます。「三齋」は漢字の変換が・・・・。)の激烈な性格にあったようです。
 実の父と緊張関係にあるとは尋常ではありません。封建時代の親子の関係とはこのような他人行儀のものなのだったのでしょうか・・・・。現代感覚では到底理解できません。ただし、これに付き合わされる?、振り回される?、当時の家臣はたまったものではありませんね(笑)。「宮仕え」はホントに大変です(涙)。

 ガラスケース内の最初の展示品の所で起請文の解説がありました。最初の展示は、家老の松井興長が忠利に忠誠を誓う起請文です。宛先は当主の忠利ではなく、忠利の側近。「側用人」といったポジションでしょうか。直接主君に出すのは家臣として恐れ多いということでしょうか?。
 松井興長は信長時代から秀吉時代にかけての家老松井康之の子ですね。以前聞いた「本能寺の変の新説」講演会で言及されていた「細川家の家老」とは、松井康之のことですね。
 起請文に書いてある本文は「罰文」、バチモンというそうです。破るとバチが当たるから「バチモン」ですね(笑)。
 二番目の展示品は、その松井興長に対して別の家臣が差出した起請文。解説によると内容は、「八代の三齋と通じていることはなく、熊本の忠利に忠誠を尽くします・・・・・」というもの。これも尋常ではありません。通常は「ご隠居様は敬いつつ、主君忠利様に忠義を尽くします・・・・」という内容を差し出すと思いますが、全く異なり穏やかな内容ではありません。明らかに八代の三齋を警戒しています。
 起請文の展示は数十ありましたが、「罰文」の解説は最初の展示のみで、他の展示は「罰文省略」となっていました。
  起請文の用紙は先の「信長の展示」で見た、本能寺の変後に光秀に勝利した秀吉から細川家に宛てた起請文と同じような模様です。書いてある内容も同じような・・・。いまでいう「フォーマット」があったのでしょう。
 起請文の書き出しは
 「天罰起請文前書之事」とタイトルのように書き、続いて本文として
 「梵天 帝釈天・・・」と書いてある文字を読むことができます。先に見た「秀吉の細川家宛て起請文」と同じ文章と思います。神仏に誓うといった書き出しなのでしょう。(「天罰」は「天爵」のようにも見えます。)
 続いて「四大王天 三嶋大明神 伊豆箱根両所権現 熊野三社権現 賀茂上下大明神 稲荷祇園 愛宕権現・・・」とありました。続いて各地の神様仏様の名が列挙してあります。諏訪や秋葉、阿蘇もあったような・・・・・・。忘れましたが・・・。「神宮」、つまり伊勢神宮はなかったような・・・、だとすると帝(みかど)の祖先を祀るので恐れ多いと書いていなかったのでしょうか。
 書いてある寺社の順番や「大明神」「権現」の区別は間違って記憶しているかも知れません。とにかく神仏をたくさん列挙して「誓います」という内容でした。
 起請文の書き出しも
 「謹白言上  天罰起請文前書之事」や「起請文前書之事」のように微妙に違います。

 現在ではこれらの寺社は皆、観光名所で世界遺産に指定されている所もありますね(笑)。「稲荷」は「伏見稲荷」のことで世界遺産に指定されてはいませんが、外国人に人気の観光スポットです(笑)。
 本文の冒頭に挙げているということは「梵天 帝釈天」は当時一番ご加護のあった神仏だったのかもしれません。柴又の帝釈天が現在でも有名なのもうなづけます。映画の影響かも知れませんが(笑)。
 意外の点が三嶋神社や箱根神社、伊豆神社の名がかなり上に書いてあることでした。東国の神様にも誓いますという意味があったのだと思います。当時から大きな神社で武士の信仰を集めていたのでしょうか。熊野は「三社」と賀茂神社は「上下」とまとめて書いています。熊野「三社」とはすなわち、現在は新宮市街地近く熊野川のそばの「速玉」、かつては川の中州にあり明治時代以降は山の中腹に遷った「本宮」、一般に熊野神社といえばここ「那智」の三大社ですね。
 「八咫烏」といえば「熊野」です。起請文は「八咫烏」に誓うものであるとのサブタイトルなので「梵天」よりも「熊野三社」が上に来ると思いきや、違います。

 続いて展示を見ていきます。
 
↓ 永青文庫の門  
  春雨に霞んでいます。
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 ↓ 永青文庫の入口。平日とあって入館者は少ない。
   この二か月のうちに緑が深くなりました。
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 ↓ 永青文庫の建物の脇に祠がありました。
   祠の奥の建物一階が本館で事務室、二階が常設展示になっています。

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永青文庫 春季展示「細川家起請文の世界」 見学

  2015年4月中旬のこと。

 永青文庫の企画展示 「細川家起請文の世界」にやってきました。副題は「神の使い八咫烏に誓う」です。

 前回は「信長の手紙」。混雑していました。今回は、平日の日中とあってか見学者は少ないです。門を入ります。胸突坂には幼稚園入学前と思われる子連れの女性が歩いていたり、のどかな春霞の一日です。
 永青文庫の門を入ります。ここには来館者が利用できる駐車場は無いのですが、敷地内には高級外車が一台停まっています。それなりの地位にある役員や職員かの車でしょう。
 入場券を買い、「四階」の展示室に階段を登ります。券売り場にはメガネをかけたまじめそうな若い女性が。その女性はやはり「四階」の展示室の展示室から見てください」と言われました。ここの決まり文句なのですね(笑)。よって、「四階」への階段の途中、踊り場のような所にある「三階」の展示室は一旦通過します。
 このとき三階の企画展示室には老夫婦が見学に来ているくらいで、他には入館者はいませんでした。しかし、見学しているうちに数名はやってきて、全く人がいないということはありませんでした。
 
 四階」の常設展示室から見ます。さすがに常設展示室は私以外に見学者は無く一人占めでした。展示内容も前回訪問時と比べて変わっています。重要文化財の中国の石像はそのまま展示されていました。長持ちもそのままでした。屏風絵は狩野探信の「桜花牧場図」。探幽の子の作品で、古代中国で戦が無くなり崋山に不要になった馬を放った故事にちなんだ絵、と説明がありました。桜はやはり山桜のようで花とともに緑茶色の葉がでています。桜の季節なので桜の描いてある屏風絵を展示しているのですが、現在桜は散っています。説明によると信長の城に永徳の「牧駒図」があったのでそれに倣ったということです。かつて信長の城で永徳筆の実物を見た忠興が後年になって、永徳の子孫に描かせた絵図のようです。忠興が信長を尊敬していたことの表れでしょう。
 三齋、忠利、光尚の細川三代の書状の展示が一通ずつありました。書状にある越中守とは忠利のこと、肥後守とは光尚のことのようです。細川氏は「越中守」として知られています。肥後に移った後、光尚は国持大名として「肥後守」の官位をもらったようです。江戸の町の絵図を見ると「松平薩摩守」や「松平陸奥守」の屋敷などの表示があり、どこの大名?と思ってしまいます。細川氏は松平を授けられていない。あくまで「細川越中守」。松平越中守とは松平定信の家のことですね。「松平肥後守」といえば会津の領主松平氏のことですね。ややこしいです(笑)。


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 展示室内は撮影禁止ですが、館内撮影禁止ではありませんでした。
 ↓ 永青文庫の奥の敷地、現在は和敬塾の施設である旧細川邸。カーテンで見えない・・・・。
  
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 「三階」の展示室は前回「信長の手紙」の企画展示があった部屋です。
 
 「細川家起請文の世界」とタイトルがあるものの、時代は江戸時代を通じての一般的な起請文ではなく主に前期のもの。新聞記事で読んだ内容では毒見役が差出した文書を「・・・・実は毒見役とは毒見をさせることであった・・・」と内容の紹介がありました。この起請文の展示もありました。
 しかし、この起請文が書かれた背景は、新聞記事には記載があったか忘れましたが・・・・。最初私も江戸期を通じて武士の戦(いくさ)や平和な時代の仕事に関する起請文の展示と思い見学に行きましたか。が、「毒見役」の起請文が書かれたのは意外な事情でした。当時の細川家の状況に起因します。
 毒見役が書いた起請文の解説には「・・・・当時 藩主 忠利は(隠居して八代城にあった父三齋の)毒殺を恐れていた・・・・」とあります。殿様が本気で毒殺を恐れていたので、毒見役に差出を求めた起請文だったのです。当時の切迫した状況が伝わってきます。
 現代風にいうと「オレは毒見しないけど、マジ本気で毒見はちゃんとさせます!!。」と誓約書を書いたのです。
 毒見をする役目は料理人とありました。料理を作った人に毒見役が毒見させていたようです。

 毒見役「この料理はそなたが作ったのか?」
 料理人「左様でございます。」
 毒見役「そなんら、食ってみいや。」
 料理人「ハイ!!」・・・食べてみる。食べた料理人に異状なし。
 毒見役「合格!」
 というような感じでしょうか(笑)。

 なぜ、実の父からの毒殺を殿様が恐れないといけないのか・・・。展示を見ていくとその理由が解かってきました。
 現代人の私の視点からいうと、誓約書を書かせたからといってどこまで本気に「仕事」をするかは分かりませんが・・・・・。タダノ紙切れですからね。ただし、当時の人の場合、ミスったら切腹、一族も連座し、お家は断絶でしよう。必死です!!。
 現代の組織だったら、上司「人にさせないで、だったらオマエが直接毒見せい。」と突っ込んでしまうかも知れません。(笑)








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文京区 芭蕉庵、目白台下 神田川付近散策 

 2015年4月中旬のこと。

 桜の花もすっかり散りました。桜の木の枝はすべて緑色に変わりました。
 前回は寒い2月の訪問でした。あれからわずか二か月ですっかり季節は春に移り変わりました。緑の葉がまぶしいというよりも、非常に濃く感じます。
 前回は目白の台地の上からのアプローチでしたが、今回は台地の下、神田川沿いの道から永青文庫を目指します。

 その前に、川沿いに芭蕉庵があるので寄ってみます。川沿いの土塀は芭蕉庵のものです。奥には椿山荘の建物も少し見えます。雨が降っています。春霞の中の散策となりました。

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 芭蕉庵の門は閉じていました。説明文のみ読んで去ることにします。

 
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 芭蕉ゆかりの地といえば、墨田川沿いにも記念館があったと思いますが。山の手の神田川のほとり(関口町)にもあるとは意外です。 藤堂家の屋敷だったようです。家臣であった芭蕉が滞在したのでしょうが、あくまで伝説、伝承??のようです。
 「早稲田の田を琵琶湖に見立てて・・・」とあります。江戸郊外の田園地帯だったのですね。昔は。

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 桜の花びらを探そうにも、すでに散ってありません。

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 芭蕉庵の入口は坂道の脇のようです。本日は休館のようでした。ここ最近は開いていないとか・・・。誤解でしょうか。坂道を登ります。「胸突き坂」です。
 こうして見ると、リーガロイヤルホテルが真正面にありますね。
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 坂道を登ると眺望が開けてきます。坂の途中から。写真右は、新江戸川公園の敷地です。胸突きとはいうものの、坂道は短いです。まだまだ健脚の私にはチョロイもんです!?(震)。・・結構ガタきてますが(笑)。

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 新江戸川公園の森というか、雑木林。公園内を撮影したのですが、うくり撮影できていませんでした。
つつじが早くも咲いています。というより、桜が散るとすぐに躑躅ですね。

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 あと少し坂道は続きます。ここは、坂道の途中の休憩場所のようです。一休みできるように造成されています。


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 坂道の上から。ここは二か月前の二月にも来ました。新江戸川公園は写真右ですが、ここから通り抜けはできません。永青文庫の敷地に直接入る道しか坂の上には出入り口はありません。(開館中に限る)
 さ、永青文庫の門はすぐそこです。


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 ↓ 神田川の上流方向。
   この付近の地図を見ると、写真右奥方向は豊島区です。写真右(川の左岸)は主に文京区。左(川の右岸)は主に新宿区。神田川の右岸でも文京区地域が張り出しをしていて、川を挟んで入り組んでいます。昔とは川の流れが護岸工事などで変わり、文京区と新宿区の区境が複雑になっています。
 上の写真でも リーガロイヤルホテルは新宿区ですが、撮影した坂道側は文京区。では、境目はどこかというと川ではありません。川向こうのどこか・・・です(笑)。

 

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 誰が呼んだか「胸突坂」。神田川沿いから目白の台地へ上る坂道。永青文庫はこの上です。
 上の写真で、左、つまり右岸の地域は場所柄か製本や印刷関係の会社が多いです。ただ、この15年で急速にインターネットが普及してIT時代に突入したので、印刷関係の需要は急速に変化しし、かなり規模は少なくなっているとは思いますが・・・・。工場(こうば)が路地に面していて、フォークリフトが停まっていたりと、ちよっとした軽工業地と住宅地の混合エリアです。帰りは、胸突坂を下り、地下鉄早稲田駅の方へ歩きました。ちょうど昼休みの時間帯だったので、工場(こうば)では作業服姿の人達が休憩していました。
 一見のどかなお昼休みの風景ですが、時代は知らないところで急速に変わっていくのでしょうか。
 
















 

永青文庫 春季展示 見学へ。 「細川家起請文の世界」

 
※ 順番を変えて急遽 「永青文庫」の見学記を先にアップします。
 この記事は5月になってから書いています。先日、永青文庫で「春画展」が開催されると発表がありました。
 会期は今年の9月から12月にかけて。我が国初の開催のようです。警察など関係官庁との調整もあるでしょうし、恐らく永青文庫だから開催できるのでしょう。  


 2015年4月中旬のこと。

 桜の花もすっかり散りました。桜の木の枝はすべて緑色に変わりました。
 神田川沿いの道から永青文庫を目指します。
 今回お目当ての企画展は「細川家起請文の世界」 副題が「神の使い八咫烏に誓う」です。
 前回の訪問は「信長の手紙」。今回の企画展は「信長の手紙」見学時にポスターを入手したのですが、来る予定は無かったです。たまたま新聞記事でこの企画展のことを取り上げていたので訪問してみることにしました。永青文庫では「企画展(示)」や「特別展(示)」という言葉を使用しないようです。タイトルにあるように「〇季展示」と表示しています。便宜上、私が企画展と書いているだけのことです。
  「細川家起請文の世界」の記事は最近マスコミなどで売り出し中の歴史学者が書いていたいたコラムであり新聞記者が書いた記事ではありませんでした。次のような内容でした。
「永青文庫の「細川家起請文の世界」を見た」ことが書いてあり「・・・細川家の毒見役の家臣が書いた起請文があった。・・・・・・実は毒見役は自分が毒見をするのではなく、毒見をさせる役であった。・・・・・」と。
 新聞にも取り上げられているので、「見に行くぞ」と決意したのです(笑)。

 ↓ 永青文庫門前の掲示板。

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 ↓ 神田川。両岸の桜並木は葉桜です。わずかに淡いピンクが残っていますが、桜が満開だった日のことはすべて過去のことになってしまいました。あれは幻だったのか・・・。また来年・・・と思いつつも、つい10日ほど前まで咲き誇っていたピンク色の花が、本当にそこに存在していたのか幻影(イリュージョン)のように感じます。

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 さて、この日は平日。、「再訪するぞ」と決意したのですが、実は仕事の用でこの付近(というか、東西線利用だけかも。笑。)を通ることもあり、私にとって永青文庫訪問は(時間が許す限り)困難ではありません。この日は、昼前に予定よりも早くとある所用が終わり、少しばかり永青文庫を再訪することにしました。

 誰が呼んだか「胸突坂」。神田川沿いから目白の台地へ上る坂道。永青文庫はこの上です。
 写真右は芭蕉庵です。
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 坂の登り口にある「水神社」
 鳥居に「関水」「関口」とあります。この付近の地名は目白台、関口です。から、説明の看板によると神田川と神田上水の関の近くの鎮守様だったようです。この付近は田んぼが広がっていたそうです。川の向こうは早稲田の地名ですからね。文字通り、神田川沿いの低湿地帯は田園で、付近は大名屋敷、旗本御家人や商人などの屋敷、領民の家々が混在している地域だったのでしょうか。現代とは隔世の感があります。

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 神社には、社の前に大きな木が。守り木だったのかも知れません。
 写真左は新江戸川公園。 昔の江戸の絵図を見れば分かると思いますが、この神社は御一新前から都心の入口に鎮座する「水」の神様だったのですね。江戸における水の守り神です。
 神社の参道の前は、貸し駐車場となっています。土地の限られる都心部、キュウキュウです。


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「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念 細川コレクション 永青文庫の見学記、感想など

 2015年2月21日 寒いながもよく晴れた、春の近い訪れを感じさせる日でした。

 平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念 「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 於、細川コレクション 永青文庫に行きました。

(展示会のネーミングが長いで以下「信長の手紙展」と省略して記載します。(笑))
 永青文庫では、季節ごとに年四回の企画展示があるようです。「信長の手紙展」のパンフはすでに品切れでおいていないようです。次回、春の展示のパンフはあります。「細川家に伝わる起請文」の展示です。細川家の家臣などから、お殿様などに提出された起請文の展示とのこと。今回の「信長の手紙展」では一通だけ、起請文の展示がありました。先に書いたように山崎の合戦直後に出された秀吉からの起請文です。

 永青文庫のパンレットと「信長の手紙展」の展示リスト。なぜか、画像が横倒しのまま・・・・。

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 先の記事にも書きましたが、本館(勝手に私がネーミングしたのですが、正面入り口と受付のある建物)の三階から四階に至る階段の途中(踊り場)に、「三階」の入口があります。この「三階」が「信長の手紙」の展示室です。普段企画展示はここで開催しているのでしょう。蔵のようになっていて、階段の踊り場には蔵の扉が附いています。きっと、防火のためですね。美術品を保管するために、あとから増築されたかは分かりませんが、特別な構造になっていることがうかがえます。
 展示室(つまり「蔵の中」)に入ります。中は学校の教室よりもやや広いくらいの部屋。モチロン窓はありません。光で展示品が痛んでしまいますからね。
 室内には、数十人の見学者がいます。広くはない展示室なので、キツキツです。ガラスのついた展示ケースは木枠でレトロな感じです。ただ、気密性など防湿を考えると厳しいような・・・・。テレビで放映されていた展示室はここだったのだと分かりました。木枠の展示ケース・・・・、昨年秋に訪問した京都「妙法院」の文化財収蔵庫「龍華蔵」内のベルギー製展示ケースに似ています。

 展示室内を順に見て行きます。今回の展示は、これらの文書が「重要文化財指定」を受けた記念の展示です。信長からの手紙には「天下布武」の判が押してあります。季節行事の進物の礼状、「信長」と名前の記載があります。楷書ではなく、崩し字、しかも優美に崩して署名??しています。
 「信長と幽齋は同じ年」と解説がありました。相通じるものがあったのでしょうか。
  有名な「天下布武」は「天下」の文字は判読できますが、特に「武」は分かりません。ド素人の私は「コレホントニ『布武』って書いてあるの??」が率直な感想でした。(笑)
 宛名は、「細川兵部太輔殿」となっています。ある時期からは「長岡兵部太輔殿」となっています。「長岡」は細川氏の別姓で京都の長岡京付近の地名にちなんでつけたそうです。明らかに 室町幕府が滅びたあと、足利一族の「細川」と名乗るのを(信長の手前)憚ったのでしょう。明治以降でも細川家一族の華族として「長岡氏」と名乗っていたような。つまり細川幽齋あてがほとんどです。
 手紙のかなりの数は「黒印状」。教科書には通常赤い朱肉を付けて押す「天下布武」のハンコを見ているので、「ハンコって赤のインクではないの?」と思ってしまいます。(笑)
 私の頭の中は「黒印状」と「朱印状」はどう違うのか、の一点に焦点が当たり、グルグル回ってしまいました(笑)。ツレも同じことを感じたようで「黒印状と朱印状ってどう違うの??」と私に聞いてきますが、分かるはずがありません。(笑)
 展示の途中で解説がありましたが、主に知行や領地を与えたり、安堵したり権利の保護には朱印状、いくさの作戦指示や一般的な命令や意志伝達には黒印状が押されている・・・・とのことです。
 たしかに「○○の地の○○の権益を与える」「○○を安堵」のような手紙は赤い印。礼状やとくに戦で「ナニナニしろ、ナニナニをコウゲキしろ、戦ではあれこれ注意せよ・・・」などは黒い印。戦の命令は特に重要なので「朱印」かなと思いますが、これは第二次大戦後の現代社会に生きる者の感覚で、戦国の世では、その都度アレコレ発する指示文書の一種なので黒印なのでしょうか。
 同じ判で黒と朱の色わ使い分けていたのか、そろとも同じ刻印で「黒印用」と「朱印用」があったか、は解説はありません。解説が無いということは「天下布武」の判は一個で、使い分けをしていたのでしょう。 
 右筆(祐筆)の名前も伝わっています。解説には祐筆の筆跡も違うとあります。たしかに同一人物の祐筆が書いた書状は私が見ても同一人の筆跡と分かります。展示されていたのは、三人くらいの祐筆の手紙でした。
 教科書でも有名な幽齋の肖像画は展示室の一番奥、正面のガラスケース内にありました。僧形で上に賛文がありますね。
 手紙の内容は、長島一揆や丹波攻め?、浅井朝倉のと戦い関連?、長篠合戦など信長軍団の戦の内容や領地、知行などに関するものが多かったです。こんにち私達が知るような歴史的事件ではなく、案外、日常の領地経営や行事、贈答品などに関するやりとりが多かったような。

 光秀からの手紙は、前期展示のみで後期は、写真パネルのみでした。後期は「山崎の合戦後、秀吉から細川家に宛てた起請文」の現物展示です。
 秀吉の直筆であることに間違いありません。かなりのくせ字です。漢字が横に広がるような書き方です。
縦書きで、最初は「謀反に加担しなかったことはまことにあっぱれで・・・・感謝いたします。・・・・」のような内容。後半は 「南無八幡大菩薩・・・・」と神仏天命に誓って・・・・・ということが判読できます。
 文字から察するに農民、足軽から身をおこしたとされる秀吉は、仕官して取り立てられた後、あとから身につけた学問で得たと思われる書き方です。幼少のころから教育を受けた武将の洗練された筆跡ではなく、一般庶民のような文字、と感じたのは私でけでしょうか・・・・。また、非常におおらかで、しかし(字は巧くないが)マメな感じの文字です。
 血の判を押し、秀吉と判読できる花押があります。年月を経て、血判はかなりかすれてすうくなっています。起請文では羽柴筑前守と名乗ってあったような・・・。(詳細は忘れましたが。)このころ「ちくぜん」と名乗っていたことはホントだったのですね。(笑)
 
 その近くに、信長直筆の手紙の展示がありました。展示品リストを再度見たところたしかに「前期」展示とあります。テレビ放映で話題になったので、延長したのでしようか。いや~、ラッキーでした。
 宛名は「与一郎」。しかし、「よ~いち~ろ~」みたいな感じ(崩し文字)で書いてあるので読めません。(笑)
 当時の手紙は今でいうA4サイズくらいの用紙を横に使い、半分に折って書いています。つまり縦の行の文字が少ないです。横に折った状態で、上半分から読んで、裏返して下半分を読むのですね。つまり、こんにち展示すると、上半分の文章を読む場合はよいのですが、下半分は「さかさま」になっています。直筆文書では「与一郎」の部分がさかさまです。
 「働きぶり」という冒頭、一段下げた箇所は判読できます。「こたびのいくさではたいそうなはたらきぶりであったと聞いたぞ。これからも油断することなく、これからもがんばれ」
という内容だそうです。丸っこい文字で、几帳面そうな、しかし尊大な印象を受けます。
 当時与一郎は15歳だったと解説にあります。満でいうと14歳、現在の中学二年です。ほとんど初陣だったのでしょう。少年に対する激励の手紙でした。堀秀政の添え状も展示があり、これに「信長公がじきじき書かれたありがたいものであるぞ・・・」というような内容のため「直筆」とされているそうです。この中で信長様と書かれているか、「上様」と呼ばれていたのかは・・・忘れました。直筆に家臣が添え状を付けるとはすでに信長はど偉い、武将の上の更に上の武将=上様、遠い存在になってしまっていたのではないでしょうか。

 そのような超偉いお方がわずかな手勢で油断して京に入ってきた、厳重なはずの警護も緩い・・・・、このあたりが「本能寺の変」の真相なのでしょうか・・・・。



















 

「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」と永青文庫美術館 常設展示 見学

 2015年2月21日 

  平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念
 「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 細川コレクション 永青文庫。
 
 入館します。続々と入館者がやってきます。チケット売り場は、玄関を入ってすぐのところに小さい窓が一か所のみ。普段は混みあうことは想定していないのでしょう。窓の奥は事務室になっています。女性職員が数名います。公益財団法人永青文庫の職員であり、決して細川家の使用人ではありませんね。
 入館は一人800円。
  ↓ 永青文庫の建物。
   手前の蔵のような建物は、二階部分が常設展示の展示室。一階は事務室か収蔵庫でしょうか。入ることはできません。奥のガラス窓の建物の二階以上は常設展の展示室でした。「信長の手紙」の企画展示室は更に奥写真でいうと、向かって右にあり、写っていないと思います。

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 ↓ 写真左の写っていない所が正面の玄関。
  この建物を本館とすると二階と三階(実は四階と呼ばれている)が、常設展示室。
  二階部分の内部は応接間のように家具が置かれ、書籍や資料が置いてあるのみでした。
  写真右は、増築されたような棟で二階部分が常設展示室でした。
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  チケットを買うとき、「奥の階段を登って、四階の展示室から見てください。」と言われます。館内の廊下は狭く、滞留してしまうと混雑するので、上のフロアに上げているのでしょう。一階には展示室はありませんでした。
 二階に上ると、廊下に書棚が置かれておおり、蔵書があります。細川侯爵様の蔵書棚なのでしょう。展示室もありますが、更に上の階段を登ります。戦前期の家政所の建物なので廊下は狭いし、階段はやや急なので現代のバリアフリーではありません。元々家臣用の建物であり、「お殿様」がお客様を迎える施設ではないのです。
 三階が企画展示室になっていました。「信長の手紙」もここに展示されています。本館に附属する蔵のような建物で、部屋への入口には蔵の防火扉があります。三階というよりも「中三階」です。 更に階段を登ると「四階」の展示室前の廊下に出ます。本来はここが「三階」なのでしょう。建物の外観は写真で見ても「三階建て」です。
 館内は撮影禁止です。「四階」つまり、最上階の常設展示室の廊下からは見事な洋館とその全面に広がる庭が見えます。ああ、これがかつての細川侯爵邸なのだなと説明がなくても分かりました。庭はグラウンドのような感じです。和敬塾の寮の建物も見えます。永青文庫と和敬塾の間には小さな通用門があります。別組織ですが、運営は一体化しているのでしょうか。元々細川家の敷地に立地しているが、直接には関係ないようですが。
 鎌倉文学館になっている旧前田侯爵邸のような建物でした。「展示室内撮影禁止」ではなく「館内撮影禁止」のため、あえてこの見事な洋館の写真は撮りませんでした。展示室以外も景色も撮影禁止なのでしょうかね。

 廊下には写真の展示もあり、横山大観の長寿祝いの席の写真がありました。大観夫妻と護立侯爵が写真に写っています。護立侯爵は、非常に面長で痩身の人物です。洋画家の安井曽太郎?との写真もありました。画家と息子の護貞氏と一緒に写っています。護貞氏は特に目のぱっちりしたところが元首相氏とそっくりですね。
 常設展示室は大きくはない。展示作品も多くはない。江戸期の屏風絵が展示されています。重文など、文化財指定は無いようです。昔の鎧や大名家の長持ちなどの展示がありました。中国伝来の仏像が、ガラスケースではなく、カパーなしでそのまま展示されていました。もちろん触ることは禁止です。この仏像は「重文」指定でした。
 二階にも常設展示室が。細川家の殿様の使用した印章の展示がありました。江戸時代中期~後期の殿様、重賢公や治年公のものも。中国で押していたような立派に印璽です。明治時代以降の白樺派の書籍の展示もありました。同級生なのだそうです。大観など画家のパトロンであり、作品を買い上げていたのでしょう。春草の「黒き猫」もそのひとつですね。武者小路実篤らと一緒に写った写真も展示してありました。
 最後に応接セットの置いてある部屋には書籍など関連資料がありました。二階の数部屋が展示室になっています。
 この建物は昭和初期に建てられた家政所とのこで、あまり大きくありません。文化財を収蔵、保管をしておくには小さいのではないかと思いしました。一階の展示室のない場所か中三階の「蔵」の下層か地下室に保管しているのではないかと思いました。文書や絵画などを熊本の大学や県立博物館に寄託しているのも収蔵スペースの関係もあるのではないかと思いました。

永青文庫(文京区) アクセス、周辺散策

 2015年2月21日 

  平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念
「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 細川コレクション 永青文庫。

 永青文庫は、文京区の目白台にあります。有名な政治家の邸宅にあった地名なので、一定年齢以上の方はおなじみでしょう。ただし、私には、よく分かりませんが(笑)。
 昔から付近に豪邸を構える今でいうセレブの方も多い地域。カトリックの日本本部ともいうべき、「東京カテドラル 聖マリア大聖堂」や椿山荘のある通り(目白通り)を入ったところに永青文庫はあります。
 、「東京カテドラル マリア大聖堂」は、モダンなコンテンポラリー建築なので通りからもすごく目立ちます。東京大司教座がここに置かれていたと記憶します。日本には大阪と長崎に大司教が置かれているばすです。長崎はのカトリックの教会は先年訪問しました。
 話は東京に戻り、ここ東京の大聖堂では著名人の葬儀も営まれることがあります。私が生まれる前のことですが、吉田茂元首相の葬儀もここだったような。
 一般的な目印は、椿山荘ですね。
 さて、永青文庫です。実際に中に入って見学したのは、今回が初めてですが、この前の道や付近は通ったことはあります。ただ、通ったのは久しぶりです。
  ↓ 永青文庫の電柱告知。右は和敬塾の建物。

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 「目白の坂」の階段。「崖」がい、になっていて、眺めがよいです。
 ちょうど、都心部の北から南を見るような感じです。基本的に日本の建物は南向きなので、後背地、つまりうしろの高台から東京の街を「見下ろす」ような感じになります。その昔、山縣有朋がこの付近に自分の別荘(椿山荘)を建てたのも、明治政府の権力者として「東京の街を見下ろす」感慨にふけるだめだったのではないでしょうか。
 写真右は、新江戸川公園ですが、この門は普段は閉鎖されていて通ることはできませんでした。
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 ↓和敬塾と目白通り(北)方向。この先にあるコインパーキングに車を停めました。
 永青文庫の敷地内には、車を停めることはできません。土地は広いのですが・・・。車で来た場合、コインパーキングが別の場所に車を停めて歩くくことになります。この日、着いたのは10時の開館時刻を少し過ぎたころでしたが、コインパーキングでは「最後の一台」で私が車を入れると「満車」表示になりました。
 もっとも、工事関係とおぼしき車も停まっているので、すべての車が永青文庫の来館者のもの、といわけではないでしょう。「年度末工事」の車が多いですね。この時期は。
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 和敬塾の広い敷地。若者が寄宿している寮のようで、室内にギターなどの楽器が置いてあるのも見えます。駐車場にはバイクなども置いてあります。元々は細川家の屋敷地で、現在は財団法人にして寮を運営しているのでしよう。
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 永青文庫、敷地内にあるオブジェ。中国風ですね。日本庭園でも「西湖」を模した池などにありますね。もちろん富士五湖の西湖ではありませんね。(笑)
 ここをくぐり、小路を少し歩くと新江戸川公園に出ます。

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 新江戸川公園に出る門。元々、門の向こう(新江戸川公園)も手前(永青文庫)も所有者は細川侯爵家だったのですが、以前は、この門はなかったです。永青文庫はコンクリートの高い壁にかこまれていましたが、この門のおかげで行き来することができるようになったそうです。
 「お殿様」のご配慮のおかけです。
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 永青文庫の入口。人がいないように見えますが、全く違います。続々見学者がやってきていました。テレビの影響は大きいようです。
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  敷地内は、うっそうとした林です。元々は個人の邸宅の敷地なのですからすごいですね。冬ですが、木々は落葉しておらず、常緑樹が多いことに気づきます。林に隠れていますが、小さい別館もありました。別の展示があり、別料金になっています。

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 よく言われるように、地下鉄の駅からは遠いので、たしかに来館には不便です。(個人のサイトやブログなどでも指摘されていますね。)車で来るにも駐車場は無い。近くというか、目白通りの角に「野間記念館」もあります。こちらも賑わっていました。開放的な敷地で、美術品展示コーナーやカフェーなど飲食店もあるようです。展示会は日本画の速水御舟などがテーマのようです。同時期の山種美術館とテーマがかぶっているような気もしました。
 永青文庫で見かけたた人が、野間記念館に入っていく様子も見えました。さらに椿山荘とあわせて「目白散歩」といったところでしようか。
 
 

「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 永青文庫美術館 見学記

 2015年2月21日 

 平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念
 「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 細川コレクション 永青文庫。
 
   会期は年明け1月6日から始まっています。知ったきっかけは「新聞で開催の旨とその解説の記事」を読んだからです。記事を読んだときは「行ってみようかな」と思ったのでしたが、その後(私はニワトリなので)三歩歩いただけで!?、すっかり忘れていましたが(笑)、2月になってテレビ番組でも紹介されたので、改めて気付いて行ってきました次第でございます。(笑)
 放映されたときにテレビをご覧になった方も多いのであまり詳しくは触れませんが、熊本出身のタレント(というか芸人)が司会のパラエティー番組での紹介でした。プラスしてアシスタントの女性が一人出演。私は、キー局か九州の系列局の女子アナかなと思いましたが、女子アナではなく熊本出身の女優、タレントさんでした。どおりで番組中出演している大学教授氏か学芸員氏が「今日は熊本出身の方が多いと聞いているので・・・・。」と言っていたワケです。
 芸人が司会なので、ボケとツッコミのやりとりがうっとおしかったですが(笑)、ともかく永青文庫の展示室内での撮影と展示品の紹介もありました。
 永青文庫はここ文京区にありますが、今回展示される「信長の手紙」は熊本大学の図書館に寄託されているそう。番組で見たのですが、大学には「永青文庫細川家文書研究センター」まで設置されいてほとんど専属研究所のような感じです。戦国期~幕末にかけての熊本領主細川家の文書がまとめて寄託されているのでしよう。保管庫の内部の様子も放映されていましたが、スチール製の棚に文書がボンボンと置かれているような感じで、内部は耐火建築で空調などもあるようですし、それなりにお金をかけた保管施設です。
 古文書といってもすべて見るのは大変なのでしょう。全然整理や解読がされていないようです。しかし何百年も蓄積されてきて、その都度、体系的にまとめる事務の役人がいなかったのでしようか。
 これらの膨大な古文書の中から、今回の信長の手紙がでてきたことは確かなので、今となっては、専属の研究者でないとなかなか本腰入れて解読する時間とお金が無いですね。図書館の中でも保管庫はどこにあるかは非公開だそうです。
 平成26年度冬期展示 「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」も、昨年熊本で開催されており、このたび東京での開催です。 後期の展示は2月10日から3月15日まで、合計でも二か月あまりの短い展示です。
 実は、先の記事にも書きましたが、光秀からの手紙は、前期展示のみで後期は、写真パネルのみ。後期は「山崎の合戦後、秀吉から細川家に宛てた起請文」の現物展示がありました。
 「信長の手紙」とはいのものの、信長直筆の手紙の展示は、事前に同文庫のウェブサイトで見たところ、前期に展示の一点のみ。確かにウェブサイトに掲載されている展示リストを見ると「信長黒印状」とあるが、「直筆」とは書いていない。一般人(パンピー)の感覚かにいうと「手紙は自分で書くから手紙なんだろ」と思うが、お殿様の感覚では、「書かせるもの」なのですね。(笑)
 一般人の悲しい常識でした。(涙)
 後期展示では「信長直筆の展示は無いし、光秀の手紙も展示がない。もっと早く、新聞記事を見た時点で行っておけばよかったけど仕方ないな。でもせっかくだから、行ってみるか。」感覚で今回の訪問となった次第です。(笑)
 しかし、別の記事で書きますが、実際には信長直筆の書状の展示がありました。

 ↓ 永青文庫の建物外観。
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「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念 永青文庫 見学

 2015年2月21日 

 このところ、本能寺の変に関する投稿が続いています。 そんな折、
 明智光秀の縁戚、組下(与力)であり、「本能寺の変」後の軍事的、政治的な動きでも重要な役割を果たし、さらに現代も続く旧大名家、「細川氏」のコレクションが公開されました。これまたタイムリーな展示会であったと個人的には思っています。(笑)
 
平成26年度冬期展示・重要文化財指定記念 「信長の手紙 ~59通一挙公開!~」 
細川コレクション 永青文庫。
  ↓ 永青文庫の入口の告知。
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 今回の展示で「本能寺の変」に関連する手紙は、変の1か月と少し前、信長から細川藤孝にあてた「・・・出陣の後はコレトウ日向守の指図に従うよう・・・」の意味のことが書かれている4月25日?付の手紙くらいです。このとき、信長は甲斐の武田の旧領を巡視中だったと記憶します。その後の毛利攻めに関する指示文書でした。信長は武田攻めの指揮はとっていなかったようで、信濃など武田の領地に入ったのは、武田が滅んだあとで、余裕の巡回、視察だったことがわかります。その途中で細川家に手紙を発したのでしょう。
 手紙の解説には「信長は光秀をこのときも信頼していたことがうかがえる。」とありました。

 信長発信ではありませんが、関連して明智光秀から細川藤孝にあてた手紙の展示もありました。ただし、この手紙は、現物の展示期間は終わり、写真のみの展示でした。まじめそうな字で三か条が書いています。
 「覚 条ゝ」とタイトルがついています。本能寺の変を起こした光秀の心境が分かる第一級の資料でしょう。
 謀反を光秀は「このたび不慮の儀」と呼び、「・・・・与一郎や光秀の嫡男のためだ・・・」「細川が味方すれば ○○国など領地を与える・・・、更に××国を与えてもよい」と書いています。なんとなく、あせっているような文面です。「○○国はあげるよ。しかし、××国は本当はあげたくない。けど、非常時で味方集めしないといけないから、ともかくエサをまいて釣っておこう。」という意図が(私にも)ミエミエです。現代に生きる軽薄人生そのもののキャラの私も感じる文章なので、「これじゃ、味方しないよな。」と思います。

 「家康(当時の呼び方は知りませんが、当時官位は三河守であったかは私は知りません。)と連携して・・・」云々とは一切書いてありません。モチロン「元々、実は家康討ちだったこと」を示唆する内容は一切ありません。とすると「偶発的に討った」通説を裏付けることになります。もっともこの光秀の手紙は従来知られているからこそ、通説の元になっているのでしょうけどね。

 明智憲三郎氏の著書を見るとこの光秀の手紙にも言及があり「・・・・細川家が家記として編纂したいわくつきの・・・」とあり、筆跡、花押から判断して偽物とする説もある、と書いています。
 この手紙が光秀の直筆ということが証明されれば、本能寺の変は偶発的なもので、家康討ちなどの陰謀はなかった通説がぐっと信憑性を増すことになります。4月に細川家に出した手紙が書かれた状況からして、甲斐で「余裕のよっちゃん」で武田の旧領地(と家康の領地)を巡回したので、京都に入ったときもその感覚で油断していたのではないでしょうか・・・・、なんてことをフト思いました。
 が、真相はなかなか分かりませんね。(笑)
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