良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

東洋文庫ミュージアム

 

「ロマノフ王朝展」 見学4(最終)とロシア関連資料の展示 東洋文庫ミュージアム

  2017年4月2日 「ロマノフ王朝展」 見学4
 副題「-日本人の見たロシア、ロシア人の見た日本-」

 東洋文庫ミュージアム、開催中の「ロマノフ王朝展」を見学した。
 会期は4/10(日)までで終了している。東洋文庫ミュージアムの休館日は月曜日であるが、企画展の最終日は日曜日に設定されていた。私は最終日のちょうど一週間前の日曜日に見学した。

 最後の展示は、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世の紹介パネルと関連展示であった。ニコライ2世の時代に勃発した日露戦争の写真の掲示があった。
 日露戦争後は、数次にわたって「日露協約」を結ぶなど、友好関係になったのだが。その後、ロシア革命でロマノフ朝は倒れ、やがてソ連が成立。友好国のひとつを失い、日英同盟も第一次大戦後に失効。のちの日米開戦にもつながっていくのだが・・・・・。

 ニコライ2世は父、アレクサンドル3世と同じく家庭にあっては、よき父だったようだ。最期は家族揃って銃殺されたといわれている。悲劇の一家であった。
  ニコライ2世が皇太子時代に日本で遭難した「大津事件」の解説もあった。当時の日本にあっては、大事件ですよね。現代以上に国の信用にかかわる。父皇帝にとっては、事件の一報を聞いたとき、更にその父(ニコライ2世にとっとは祖父)のアレクサンドル3世の爆殺のことが一瞬頭をよぎったのではないか?。
 ニコライ2世の妻はヴィクトリア女王の孫と説明がある。生物学上でも有名な話だが、血友病の遺伝子が妻を経由してその子 ロシアの皇太子に遺伝した訳で・・・・・。歴史の皮肉というか、「皇子の血が止まらない・・・・。」というのはあまりにも有名なエピソードだ。怪僧ラスプーチンも登場し、歴史は混とん・・・・・。現在でも「××のラスプーチン」と呼ばれる場合がありますね。我が国においても・・・。皇子の病気と怪僧の暗躍が国が亡びる原因のひとつとなったことは、あまりにも皮肉だ。
 展示の解説には、更に「・・・・殺害されたニコライ2世と思われる遺骨は、大津事件で着ていたときの血染めのシヤツ、ハンカチが日本に保管されていて、DNA鑑定に使用され、遺骨のDNAとピタリと一致した。2008年に確認された・・・。」とある。近年ニュースにも話題を提供したとは、何とも皮肉なことだ。

 二階の企画展示室「ディスカバリールーム」の見学を見学し、一階の「オリエントホール」に階段を降りる。


  ↓この日、入館直後の日没前に撮影した庭の様子。


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 二階から階段を降り、一階へ。受付やミュージアムショップの様子。日没をすぎてだいぶ暗くなってきた。閉館時刻が近づくと入館者も帰っているらしく、展示室内で観覧している人は少なくなってきた。
 

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 階段下には、テレビが設置され「上坂すみれ」ちゃんの登場する今回の企画展の解説映像があった。ネットでも動画配信しているが、年配の男性の館員と作品について語り合っているシーンだった。すみれちゃん(と愛称で呼ぶが)は、萌え系のフリルのついた衣装で登場している。某アイドルグループのメンバーと思ったが、違うようだ。大学でロシア語を学んだ「ロシア通」アイドルだそう。年齢は19歳か20歳そこそこに見えるが、既に大学は卒業していて、年齢は24歳か25歳くらいですね。

 展示室内でも、すみれちゃん吹き込みによる説明のナレーションが時折、天井のスピーカーから流れていた。しかし、すみれちゃんの声が小さくて聞きにくかった・・・・。芸能人だから音量の出し惜しみをしているのかな?。契約で音量制限があったりして(笑)。それとも閉館時刻間際なので音量を絞っていた??。よって、見学している間、ナレシーションはあまり参考にならなかった

 一階の「オリエントホール」の展示をざっと見る。「ロマノフ王朝展」に関連してロシアや東方探検関連の展示が多かった。まさに「ロマノフ王朝、ロシア尽くし」の展示です(笑)。

 ↓ 「北東シベリアにおけるマンモス発掘調査」 1926年 ロンドンで刊行
  当時のシベリアでのマンマス発掘の様子。
  写真は白黒なので判別しにくいが、皮膚が残っているマンマスの死体も発掘されていたようだ。目やキバまでほぼ完全な状態で残っていたようだ。この固体標本が残っているのかは、分からない。
 
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↓ カムチャツカ紀行。
1925年 パリで刊行
冬は極寒の地、カムャツカでの調査記録。写真には現地の先住民族の様子がうつっている。
調査したのは、ロシア帝国の時代か、第一次大戦後、シベリア出兵の時期であろうか。

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↓ 「近藤正齋全集」 近藤重蔵の 1905年刊。
「正齋」は重蔵の号のこと。西暦1829年に没しているが、日露戦争の時代に刊行されたようだ。
実際の探検から100年近く後のこと。当時の国策を反映していたのかも。

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↓「ニコライ2世の東方旅行記」

 皇太子時代にニコライ2世が日本を訪問したことはあまりにも有名だ。大津で警官に切り付けられた大津事件は前回の記事でも書いたが、当時の日清戦争前の日本では国の根幹を揺るがすくらいの大事件であった。明治天皇が直ちに列車で京都に向かったことからも事件の重大さがわかる。
 解説文には「悲劇の皇帝、若き日の思い出」とある。


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 説明には二階の展示でも解説があったが「2008年に実施されたニコライ2世一家の遺骨のDNA鑑定には(大津事件のときに)付着したシャツの血痕が用いられ、見事に符合した(確認された)」と解説がある。

 ↓ その一ページの展示部分。サムライが行進している??。ロシアから見た明治20年代の日本とは、このように徳川様の時代の様子とあまり変わらなかったのかな?。


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 閉館の15分前に館を出た。来ていた人は、まだ残っている人がいて二階の企画展示室には、まだ二人くらいいたと思う。
 カウンターには先に私が入館したときにいたMAの女の子がいる。シッョプのテーブルの上においてあった図録を購入した。値段は560円と、とてもお得だ。ショップのグッズも少し見る。閉館近くなり、外は真っ暗だ。白熱灯の灯りで、ぼうとっと館内が照らされる。

 と、事務室から女性が出てきた。どこかで見たことがある人だ。学芸員の人で以前、私が製本の実演を見たときに司会をしていたし、この1月だったかNHKの番組で東洋文庫を、お笑い芸人が取材して紹介をしたときにも出ていた方だ。閉館前の確認か、二階の展示室を見に行って、再びおりてきた。レジのMAの子と話をしている。楽しそうですね(笑)。

 退出後、六義園の正門の前を通るが大行列だった。夜桜見物は諦めて、帰路についた。



「ロマノフ王朝展」 見学3 東洋文庫ミュージアム

  2017年4月2日 東洋文庫ミュージアム
 開催中の「ロマノフ王朝展」を見学する。 

 二階の展示室、 長方形の「ディスカバリールーム」内のメイン壁面には、ロマノフ朝の歴代皇帝(ツァーリ)の紹介パネルがあった。
 有名なエカチェリーナ2世やアレクサンドル1世、ニコライ2世までの皇帝の紹介であった。
 展示の最初にもロマノフ朝の系図の掲示があったが、エカチェリーナ2世は、妻としてドイツ貴族からロシアに来た人。
 「エカチェリーナ1世」も系図に載っていたが、ピョートル大帝の妻だった人。大帝の娘が「女帝 エリザヴェータ」。エリザヴェータは、プロイセンのフリードリッヒ大王のライバル。戦争のさなか、エリザヴェータが死去したので、追い詰められたフリードリッヒは、自殺を免れたようなものだし・・・。その後に、ピョートル大帝からみて娘の子、エリザヴェータの甥であるピョートル3世が即位。彼の父系は、ドイツ系ですね。フリードリッヒに親近感があったのも分かる。しかし、ピョートル3世はすぐに死亡、というか殺害され・・・・。ロシアが帝位を巡る大混乱に陥ったので、フリードリッヒ大王は、強運の持ち主だ。

 なぜ、「妻」であったエカチェリーナ2世がこれだけ権力のある女帝になったのかは、不思議・・・・。元々、王家の人じゃないではないか。しかも、外国人だ。夫のピョートル3世を殺して、帝位についたようなモンだ。愛人の男も数百人?いたそうで、政治的にも一人の人間としても大層精力的です。パワフルな人って、こんなモノかも・・・・。一般庶民、かつ、ヘタレのボクちゃんとは大違い・・・・・

 そして、時代が下ったアレクサンドル1世の説明は大体次の通りだった。
 「アレクサンドル1世の時代はナポレオン戦争に勝利したが、・・・・・その後、信仰にはまり、・・・保守反動政治家が実権を握り・・・・・政治は停滞し、・・・・ 民衆の生活は苦しくなった・・・。」
 せっかく、ロシア国内に侵攻したナポレオンを撃破したのに、何やってんの?!という感じ・・・。
 次はニコライ1世。アレクサンドル1世が急死した後に即位したそうだ。前皇帝の弟。子ではない。後継となる子がアレクサンドル皇帝にはいなかったようだ。ニコライ1世は1855年まで30年在位している。「30年1世代」の言葉のごとく「一世代間」皇帝に在位していたので、てっきり子かと思っていた。
 説明によると兄皇帝は、政治的に「ゆるかった」ので、不届き者を生んだとし、恐怖政治を敷いた・・・。バシバシ、反対派??、をシベリア送りなどの流刑にして政治的に弾圧した・・・・。デカブリストの乱を鎮圧し、首謀者は容赦なく死刑にしたり、まさに強権政治、恐怖政治そのもの。が、治世の後半にはナイチンゲールで有名なクリミア戦争が勃発して、ロシア不利の中、死去・・・・。いや~大変だ。のちのソ連時代の時代といい、ロシアは強権力に弱いというか、独裁になりやすいというか、ロシアの皇帝(ツァーリ)をはじめ、ソ連、ロシアの権力者は怖い人多すぎ・・・ようですね、と思うのは私だけかな・・・・??。

 ↓ 写真はニコライ一世の紹介。


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 室内には数名の見学者がいるため、あまりに盛んに写真をパシャパシャとるとデジカメの音が響くので、皇帝紹介のパネル撮影はやめておいた。
↓ 「プチャーチン来航図」
 「ヘダ号」の建造の図だ。巻物になっていて、公開されている部分は

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 ↓ 巻物のそばにあった写真と解説。前年の暮れに、アベ首相の地元、長門の温泉旅館で行った首脳会談前のお出迎えのときの様子。ニュースでも放映していたが、プーチン大統領が、かなり遅刻してやってきたときの様子。

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 首脳会談のときに、この複製を贈呈したことで有名になった。「ロマノフ王朝展」は日ロ首脳会談の翌月、今年1月からの開催だからマサにタイムリーな展示となった。一部報道によると「北方領土の一部の返還が決まる。」のような希望的観測があったが、その後の会談の成果は寡聞にして知らない・・・・・・・・・・・・。

 ガラスケース内部には「大槻玄沢」関連の資料の展示があった。
 大槻玄沢については、先に見学した早稲田大学中央図書館の企画展示で所蔵資料の公開があった。重要文化財に指定されていた。玄沢の肖像画も展示されていた。私は杉田玄白の肖像画に関心が向いて、あまり注目していなかった・・・・。反省・・・。
 うーん、お互いに東洋文庫と早稲田大学図書館とで、コラボ企画をすれぱ面白かったのですが・・・・・・・、せめてお互いに「現在、展示中!!」と告知すれば分かり易いです(笑)。

  漂流してロシアに到着した「若宮丸」の乗組員についての聞き取りの記録。光太夫の帰国から約10年後のこと。更に10年間くらいロシアに滞在して1800年代にレザノフと一緒に渡航し日本に帰国している。
 アレクサンドル1世に謁見をしていたそうだ。ナポレオンもいた時代のことだ。
 若宮丸は仙台領の石巻から出航したとのことで、仙台・伊達侯家臣の大槻玄沢が聞き取りに当たったのだろう。

 ↓ 大槻玄沢 「環海異聞」の展示の様子。環海異聞は重要文化財指定であるかは、表示は無かったので不明だ。重要文化財に一括指定されている大槻家文書とは別のようだ。仙台の殿様か幕府=ご公儀に提出された公式記録だから大槻家の私文書ではない。
  手前のガラスケース内が「環海異聞」。後方の壁沿いのガラスケースが光太夫の記録の展示。

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寄港した先の人々の様子を描いた彩色画だった。舟を漕ぐ、南洋の人だ。

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 「若宮丸」の乗組員は、日本人としては初めて世界一周をしたそうだ。ヨーロッパから、カナリア諸島、ブラジル、太平洋を横断したそう。大西洋と太平洋を横断しているのだ。まるでマゼランのようだ。この話、以前、聞いたことがあるがすっかり忘れていた・・・・・。日本人初の偉業なのにあまり知られていないのは、何故だろうか。
 上の写真の絵は、「マルケイサ・・・」のように読める。ポリネシアのフランス領の島の住民であろうか。


 ↓「安政の五か国条約」
 原文は旧字体だが、「第一条 安政元年  11月21日  下田・・・べし」と書いてあるようだ。
第二条は「・・役人と・・・又魯西亜国の各港の・・・人及び貿易と・・・役人・・・ 」とある。
 その後の日本の運命を決定づけたのがこの条約である。今だに北方領土が日本の領土である重要な根拠が、この安政の五か国条約だったかな・・・・。

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↓ 「蝦夷・北蝦夷歴検真図」

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 安政時代に作成された蝦夷の地誌。函館山の様子が描かれている。
 写真のような細密な風景画だ。函館山の様子も現在は違うし、函館の砂洲の部分も埋め立てられて現在とはかなり異なっている。

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 さて、皇帝の紹介はニコライの次のアレクサンドル2世になる。
 農奴解放で知られる改革を行った皇帝だが、暗殺されたことでも有名である。暗殺というよりも、爆弾を投げつけられての爆殺であった。警備が手薄であったのだろうか。
 改革が、かえって失業者を生み、政府に対する憎しみを増大させ、テロリズムを生んだとは、皮肉というか、現代に通じる政治上の教訓というべきか・・・・。

 次の皇帝はアレクサンドル3世。紹介パネルには「父、アレクサンドル2世が暗殺されたので、自らも暗殺を警戒し、サンクト・ペテルスブルクから離れた宮殿で・・・ほとんど過ごした・・・・貧富の差は激しくなり、社会不安は増大した、・・・反対派は弾圧した・・・・。」というパネルの解説。また「統治者としては専制君主であったが、家庭にあってはよい父であった。」という解説があった。
 父を暗殺されたからこそ、改革政治はやめて、強権的な政治に逆戻りして、反対派は弾圧したが、父を非業の死によって失ったことから、家庭は大切にしたのであろうか。

 二階から階段を降り、一階へ。受付やミュージアムショップの様子。日没をすぎてだいぶ暗くなってきた。閉館時刻が近づくと入館者も帰っているらしく、展示室内で観覧している人は少なくなってきた。
 

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「ロマノフ王朝展」 見学2 東洋文庫ミュージアム

  2017年4月2日

 東洋文庫ミュージアム、開催中の「ロマノフ王朝展」を見学する。
 二階の展示室を見学です。
 (東洋文庫ミュージアムでは「常設展示」という言い方はしていないです。)

 国宝 古文尚書のガラスケースの右端に近い所に、「トバエ」という展示があった。つまり、教科書にもよく載っている日本の明治時代の国際関係を表現したビゴーの風刺画だった。
 中学校の教科書には必ず載っていた。言論弾圧される日本の自由民権運動家?。


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 ↓ これまた有名な風刺画。
 えーっと、子供の頃に見た教科書の解説では橋の真ん中にいるのがロシア。左のサムライが日本、右手のメガメの男は当時の清国。魚は・・・・(以下略)。日清戦争前夜の東アジアの国際情勢だったかな?。


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 私は「ビゴーの風刺画」というタイトルと思っていたが「トバエ」という雑誌に掲載されていたのですね。
 このガラスケースでは「ロマノフ王朝展」とタイトルされていないが、当時の日露関係を表現する重要資料だ。

 ↓ 展示室の入口の「ロマノフ王朝展」の懸垂幕。

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 懸垂幕の裏手のガラスケースから展示が始まる。まずはドーンと「ロマノフ王朝」の系図だった。
 「ロシア皇帝」といえば誰が有名だろうか?。昔の皇帝といえば「イワン雷帝」が有名だ。イワンの解説も展示に少しあったと思うが、ロマノフ朝ではなく、その前のリューリック朝の君主。マジでイワンは怖い皇帝だったそうで・・・・・。日本の「雷おやじ」どころではなく、かなりの残虐性を感じる。

 リューリック朝の断絶後、血縁によってミハイル・ロマノフがすんなり即位した訳ではなかった。説明文には「・・空位の時代」とある。偽皇帝も登場するなど、混乱を極めたらしい。ミハイルは1613年に即位してロマノフ朝が開始されたのだが、その後300年も続くほど、安定した政権のもとで即位したとは展示の解説を読む限りでも、とても思えない・・・・。
 1613年といえば、日本では徳川家康がいて、豊臣家が滅亡した大阪夏の陣の2年前。日本から海を渡って、ロシアと陸続きの大陸のはるか東方、大明帝国は滅亡したか、しそうな時期。北方では満州族の(後)金=チン(清=チン)が関内を窺っていた時期。ロシアからみて大陸の西、フランスでも王朝交代があった時期。ヴァロワ家が断絶して、男系ではかなりヴァロワ家からでは遠い、ほとんど他人の貴族 ブルボン家が王朝を開始した時期。フランスから海を渡って、イングランドでもエリザベス女王が死去して王朝が変わってから10年くらいしかたっていない時期。この時期はあちこちで、王朝、権力の交代が相次いだ時期だったのでは?と考えた。偶然の一致ではなく、何かの関連性があるかも・・・・。地球規模の環境の大規模な変動か、大航海時代に代表される初期グローバルリズム(このような用語はあるのかは知らない。ボクちゃんオジナルの造語のつもり。)の影響か、大航海時代とも関連があるかも知れないが、疫病の流行か??。

 ↓ ミハイル皇帝の肖像のある書籍のページ。
 随分とあどけない表情だ、と思ったら、ミハイルは16歳で皇帝となったそう。

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  少年皇帝の誕生であった。元々、ロマノフ家はドイツ系?ともいわれる下級貴族の出であったが、一族であったアナスタシアがイワン雷帝の「第一夫人」であったこと、モスクワ奪還に功績があったからアナスタシアの血縁であるロマノフが皇帝に推されたとのことである。この辺、神聖ローマ帝国や東ヨーロッパなどにみられる選挙王政に似ているかも・・・。有力貴族、領主の中から、選挙で王様を決めるという点は、東洋的感覚からいうと理解しにくいかも・・・・。

 次いで、16世紀に出版のモスクワ大公国の地図などの展示がある。以前、ここで開催された「ブラウの大地図帳展」で展示された地図の展示もあり、ロシア、モスクワのページが開いてあった。この箇所は以前、私が東洋文庫を初めて訪れたときに見たことがある。

 展示はピョートル一世(大帝)関連へと変わる。写真は撮影していないが、ピートルの肖像が載った書籍の展示があった。ピョートルによって当時の清国に派遣された使節の旅行記だ。解説によると、この書籍に掲載されている肖像は他のピョートルの肖像とよく似ているので、実際に皇帝はこのような姿をしていたのだろう。
 ネルチンスク条約を締結したのは、ピョートル大帝の時代だったのですね。いや~、陸続きでユーラシア大陸のはるか東方まで進出しているとは、のちの大ロシア帝国の版図はまさにピョートルが築いたのだ。だから「大帝」なのだ。 

 続いて、展示されている部屋へ通路を歩きます。通路は「回顧の〇」と名付けられている。続いて企画展の中心となるいつもの展示室「ディスカバリールーム」へ。入口にはまず「ロシア帝国の版図」の展示ボードが設置してある。
 

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 最初はモスクワ周辺の「大公国」だったが、どんどん広がって「ロシア帝国」となっていった様子がわかる。
ベーリング海沿岸など、ヨームッパからはるか離れた北極圏の寒冷地まで17世紀には進出してしまうのだから、ロシア人のパワーはオソるべきものがある。

 「左手よりご覧ください」の表示に従い、壁沿いの展示ケースを見ていく。
 
 ガラスケースの中に「大黒屋光大夫」達の漂流記「魯西亜国漂泊聞書」(おろしやこくひょうはくききがき)の展示があった。今回の企画展のメインのひとつである。

 ↓ アムチトカ島に漂着したときの様子。無人島ではなく、島の陸側には現地の人の姿がある。ロシア人ではない、アイヌ民族とは違うが、北方のツングース系の民族のようだ。日本人も広義にはウラル=アルタイ語族の一員と思うので、民族的には日本人にも近いのではないか。

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 ↓ カムチャツカ、シベリアでの横断時?の様子。
  ロシアの都 サンクト・ペテルスブルクを目指して移動している道中の図と思う。虻などの大型の虫が飛び交っていた。「大自然」とは聞こえがいいものの、実際に人間が住むにはかなり厳しい環境であったろう。

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 ↓ 日本に帰還した後の様子。
  ロシア風の衣装の人物が騎乗している。てっきり外国使節の日本の行進と思ったが、違う。
  光大夫一行が、日本に送り届けられた後、江戸城に向かう途中の絵なのだ。乗馬でお付きの者を従えている。漁民であった光大夫が、である。大出世したような絵だ。民衆が沿道に出て見物もしている。
 「鎖国を破ったので、帰国後も冷遇された」というような感覚もあるが、事実は全く違うのだ。凱旋した武将のようだ。実際は厚遇されていたこが判る。
 しかも、一行は時の将軍 家斉に吹上御苑で拝謁しているのだ。国禁を破ったモノが、どうして「上様」に拝謁することが出来よう。特別な待遇まで受けたのだ。

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 10冊の展示には、ロシアの街や人々の様子、ロシアの都 サンクト・ペテルスブルクの巨大な建物群、 日本に帰還するときの船の絵などのページが開いていた。 
 サンクト・ペテルスブルクの様子は、どうみても当時の清国の北京の宮殿のような感じで、ロシア風ではない。「水の都」のサンクト・ペテルスブルクの様子も描かれていない。サンクト・ペテルスブルクの街の水辺の風景は展示がなかった。


↓ 「魯西亜国漂泊聞書」の展示の様子。
 全10冊が初めて同時公開されたそうだ。10冊の展示があるが、書籍なので一か所、つまり二ページ分しか展示できないので、全部を見るには程遠い。

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 日本人の記録のみならず、西洋人の記録もあった。「レセップス旅行記」の展示があった。書籍を開いて一ページだけの展示。 解説によるとレセップスは「スエズ運河」のレセップスが甥にあたるそう。道理でどこかで聞いた名前だ(笑)。カムチャツカで偶然、光大夫と知り合ったそう。太平洋探検隊の通訳していて、展示されている部分には確かに「Koda・・」と光大夫ノフランス語?表記の活字があった。

  長方形の企画展示室(ディスカバリールーム)内のメイン壁面には、ロマノフ朝の歴代皇帝(ツァーリ)の紹介パネルがあった。
 有名なエカチェリーナ2世やアレクサンドル1世、ニコライ2世までの皇帝の紹介であった。



「ロマノフ王朝展」 見学1 東洋文庫ミュージアム

  2017年4月2日 「ロマノフ王朝展」 見学1

 夕刻、東洋文庫ミュージアムにやって来た。駒込駅から歩いた。駅近くの六義園の入口は、園の壁に沿って行列・・・・。ならば東洋文庫に近い六義園の正門ならば、すいているだろうかと思ったが全くの見当違い(笑)。大大行列だった・・・。
 六義園の正門を通り過ごし、駒込警察署の目の前の横断歩道を渡り、東洋文庫に向かう。
 ここで「ロマノフ王朝展」を観覧し、その後、六義園に入園して「しだれ桜」を観覧する予定です(笑)。

 東洋文庫ミュージアムは「19時閉館」。比較的遅い時間まで開いているので、便利だ。他の美術館、博物館が閉まった時間帯の後でも来ることが可能だ。が、最近国立博物館などでは特定の曜日などの夜間延長開館を実施しているので、何ともと言えくなって来ているのだが。

  ↓ この日の東洋文庫ミュージアムの入口。


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  入館す。受付には、艶やかな深紅の民俗衣装をまとった『MA』さまがいらっゃる。静嘉堂文庫で入手した、スタンプラリーの台紙を提示する。と、200円引きになった。静嘉堂文庫美術館では、スタンプを押し忘れた(台紙の置き場とレジが別だったので、入館後台紙を入手した上で改めてリジに言わないといけなかった・・・・・。)のだが、スタンプを押していなくても台紙を提示すれば200円引きになるとのこと。助かりました
 (と東洋文庫ミュージアム様にハートマーク。) 

 展示室に進みます。東洋文庫ミュージアム内では室内はフラッシュ禁止、撮影禁止の表示のある展示品以外は基本的に撮影できます。

 ↓ 階段下の一階展示室にはこの季節にちなんだ「桜」関連の展示があった。
 桜の花の様子を絵で記録した書籍の展示があった。

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 「寒緋桜」や「樺桜」の絵がある。「樺」のような文字だが、読めない・・・・。
 黄色い花びらだ。

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 当時の桜は、花が咲くとともに葉も出る種類が主流だったよう。現代日本の私達は、明治大正以降急速に広まったソメイヨシノの「花びらオンリー」の桜のイメージがあまりに定着してしまっている。

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 ↓ 桜の花びらが挟み込まれている。当時の植生を知る貴重な資料だ。
   当然この時代の資料であるから「染井吉野」は無い。「桐谷」など優雅な種類名だ。
 

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↓ 六義園の名前の由来に関する資料の展示と解説があった。
  「六義」についての解説。中国の古典によっている。

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 文化財の説明は私がしても仕方ないのでここでは省略します。
 六義園の名前の由来の出典である??、「毛詩」の書籍の展示があった。

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 二階の展示室に階段を昇る。モリソン書庫の前を通り、展示室内へ。ガラスケースの向かって左端には、ありました!、国宝の「古文尚書」が。
 以前、2015年6月に初めてここ、東洋文庫ミュージアムにやって来たときにも鑑賞した。再び国宝とのご対面です(笑)。
 ↓ 今回訪問時 2017年4月展示の部分。 

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 何回も言及しているが、東洋文庫ミュージアム内では室内はフラッシュ禁止であるが「撮影禁止」の表示のある展示品以外は基本的に撮影可能だ。展示部分は違うようだ(笑)。

 ↓ (参考画像) 2015年6月展示の部分。 

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(参考画像) 2015年6月撮影
↓ 現物の隣に展示のあった 国宝指定書。

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 続いて、展示ガラスケースを見ていく。





 

駒込 六義園、東洋文庫付近散策と「ブロシェット ナミオカ」 (東洋文庫、北側道路の反対側真正面) 食事

  2015年11月1日

  東洋文庫に向かった。駒込駅まで地下鉄でやって来た。
地下鉄で表参道から移動したのだが、永田町駅で南北線に乗り換えをした。駒込駅の地下より、階段、エスカレータを乗り継ぎ?、地上に出た。本郷通りの歩道を徒歩で歩く。途中、住宅地の中、六義園の壁沿いの道を歩いた。六義園の正門は、駒込駅近くの入口とは反対の、むしろ東洋文庫、駒込警察に近い、園の南側にある。

 ↓ 六義園の「正門」。

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 ↓ 六義園の「正門」の先には公園がある。公園の入口の門。子供達が遊んでいる。

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 と、六義園の壁沿いの道を歩いていると、あんぱんまんのキャラクターの置いてある建物に気付いた。
 この会社であんぱんまん関係のキャラクターの管理?、販売?をしているようだ。

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 東洋文庫ミュージアムに向かって、交差点を曲がる。目の前には、駒込警察、日本医師会前を通る道路が視界に入る。警察署に向かって、左手の手前に目指すお店はある。
 
 前回、東洋文庫の初訪問時に行った鶏肉、名古屋コーチンの料理店だ。
 「ブロシェット ナミオカ」(brochette Namioka)。
 実をいうと、フルファベット文字での店名表記のため、最初に来たときは、お店の名前が分からなかった・・・・。

 ↓ お店の入口。「名古屋コーチン」と木の看板がかかっている。

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 店頭には、メニューが置いてある。店にやって来たのは、12時50分頃。12時前に、表参道の新潟アンテナショップで食べ物を買い、軽く食べた。さて、ここで本格的にランチとしよう。
 このお店は6月に初めて来た。あれから、半年も経っていないうちの再訪となった。妻は、この店を気に入ったそうで、妻のリクエストで再びやって来た。

 店の外にメニューが置いてある。 ↓

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 店の中に入る。幸い、待っている人はいなかった。前回と同じ席に案内された。一番奥の壁側、窓から二列目のテーブルだ。「やきとり定食B」のセットを注文。女性など、少ない量の定食を食べたいときは、。「やきとり定食A」を注文することになるだろう。
 「B定食」は、卵ごはんとヤキトリ三本、つくね二個 大根おろしが付く。赤だしもある。
 「卵かけごはん」をウチの妻は大変に嫌うのだが、このお店の卵かけごはんは、良いと気に入ったそうだ。卵が新鮮なので臭みが無いそうだ。ウチの妻は非常に「臭い」にこだわりが強い。気にくわないとすぐに「臭い」の一言で片づけようとする・・・・。

 ヤキトリに肉は、結構コクがあるというか、なんと表現してよいか、胃に残る味というか、肉質だ。
ごはんの大もりは50円プラス。追加は100円だ。店内は満席だったが、午後の1時15分になると急にすいた。
お店には、12:50-13:30までいた。注文をしてから、料理が出てくるのに比較的時間がかかる。炭火で鶏肉を焼いているためだろうか。


 ↓ 私が注文した「B定食」。ごはんは大盛りで名古屋コーチンの卵かけごはん。
  特筆すべきは、トッピンクだ。「ゆず胡椒」があることに注目。私は「ゆず胡椒オトコ」と呼ばれるくらいの(笑)、「ゆず胡椒」好きであるので、これは欠かせない。
 「ゆず胡椒あるところにに我あり。」だ(笑)。


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 横断歩道を渡り、道路の反対側から撮影。

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 妻と子は、先に東洋文庫ミュージアムへ行ってもらう。私は、会計をして、遅れて向かった。館内に入ると、すでにミュージアム1階では「製本の実演」が始まっていた・・・。

 ↓ 製本の実演会場から見た中庭と「小岩井のレストラン」。


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 東洋文庫の後は、駒込駅ではなく、警察署、日本医師会会館の前を通り、小石川の中高一貫校の前を通って、都営地下鉄の千石駅に歩いた。再び、地下鉄に乗り、神保町まで移動した。


 

「解体新書展」 見学2 東洋文庫ミュージアム

  2016年3月20日

 東洋文庫ミュージアムにやって来ました。年明けの1月中旬から開催されている「解体新書展」の見学です。

 開催中の展覧会は、4月上旬までの約3か月弱の会期です。早いもので、ここ東洋文庫にやって来るのも「ブラウの大地図展」、「幕末展」に続き3回目となりました。初めて来たのが、昨年の6月のこと。何回も書いているが、もっと早くに知っているべきであった。

 まずは、1階から観覧しました。次いで、階段を昇り、2階の常設展示室を観覧です。今回の「解体新書展」は常設展示室も使用して、展示が展開されています。
(正確には東洋文庫ミュージアムでは「常設展示」という言い方はしていないようですが。)
 
  まずは国宝。国宝が撮影可能とは「太っ腹」です。 

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 さらに中国関係で清朝の「大清聖祖仁皇帝実録」と「大清徳宗景皇帝実録」の展示があります。
タテ1メートルまではありませんが、かなり大版の本です。
 その名の通り皇帝の実録ですが、廟号が「聖祖」について「仁」とは最高の諡り名です。康熙(カンシー)帝です。
「祖」が付くのは異例ですが、事実上漢の地の統一王朝の皇帝としては初代ということで「聖祖」として奉ったのでしょうか。
 「徳宗」とはずっと時代が下って光緒帝です。日本でいえば明治時代のこと。まもなく清朝は崩壊しているためいつ実録が編纂されて、どのような経緯でここ東洋文庫に収蔵されているのでしょうか。
 また、明の「永楽大典」の展示がありました。そのまんま明では一番有名な皇帝永楽帝が編纂させた大典ですね(笑)。

 写真は撮影していませんが、解体新書の展示もありました。国立科学博物館でも展示がありますし、津山の記念館でも見たことがあります。津山出身の学者、箕作一族と杉田玄白、前野良沢とは密接な関係にありますからね。 

 もう一度、モリソン書庫の前に移動して改めて書庫の前に展示している文化財を観賞します。
書庫に収納されている書籍類は手にとることができません。書庫の手前に展示品がいくつか置いてあり、観賞するという形式です。「四庫全書」の目録が収蔵されていました。あの乾隆(カンロン)帝が編纂させたという清朝最大級の文化事業の成果物です。東洋史を研究するためには、「四庫全書」のコレクションは必須なのでしょうが、ここでは収録されなかった書籍類の題名のみ書いている本の展示であり、中身そのものではないと解説があります。最初に来た時は、本物と誤解していました。早とちり・・・・・。 書棚の本は背表紙を眺めるのみで中を閲覧することはできません。
 
  ↓ 解体新書

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 と、書庫の前のイスにラオス民族衣装もモデルにしたという赤を基調とした艶やかな彩(いろどり)と美しい模様の制服を纏った『MA』の方が座りました。ここで展示室内を監視するようです。東洋文庫のウェブサイトによると「看視」といいます。
 余談ですが、この艶やかな民俗衣装をまとった『MA』。肩から小さいポシエットを身につけています。貴重品を入れるハンドバッグの代わりに貸与されているものでしょう。
 ふと、MAに男性が応募してきたらどうするのか?。制服はあるのか?。肩から小さいポシエットを身につけるのか?とも思いました。余計なお世話ですけどね(笑)。
 




 

「解体新書展」 見学1 東洋文庫ミュージアム

  2016年3月20日

 ※ この日は、先に千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」に行きました。夕方まで同館を見て、戻りました。「国立歴史民俗博物館」の見学記は後日アップします。

 佐倉市から自宅方向に帰るには、途中、首都高の湾岸線が渋滞していました。羽田方面は混んでいるようだ。お彼岸なので、みんなお出かけしていたのでしょうか!?(笑)。
 そこで、都内に寄って(時間調整をして)から帰ることにしました。夕方5時以降でも入館できる所か買い物をするはどこだ?ということで、まずは「銀座を中心とするアンテナショップ群」が候補に挙がりました(笑)。もっとも、いつでも行くことは出来る??ので、この日は割愛して、夕方5時以降も開館しており、更に行く元々予定にしていた「東洋文庫」に行ってみることにしました。東洋文庫ミュージアムは、毎日午後7時まで開館しているため、夕方5時か5時半で閉館する美術館、博物館を見学してからでも訪問可能なのです。

 更に無料の駐車場まであります。ただし、駐車台数は限られますが、今まで来たときに駐車場の混雑具合は、というと、土日の日中でも満車のことはありませんでした。恐らく、徒歩、自転車圏内から来る人を除いては、電車、バスで来る人が多いのでしょう。よって、夕方5時以降でしたら、確実に駐車できる筈と確信していました。

 首都高をお台場の手前、辰巳から都心部の道へ。箱崎付近は渋滞していた。渋滞は、神田橋手前まで。更に飯田橋の上を進み、池袋方面へ。護国寺ランプで下りる。下の道に降り、駒込法目面へ。結構、一般道も起伏がある。と、お茶の水女子大の門の前を通る。この通り沿いとは、車で通るとまた違って見える。日曜だが学生らしき人がキャンパス周辺を結構歩いている。女子大から更に起伏のある坂道を通り、ここを過ぎるとな道になり、すぐに、例の高層マンションと一貫教育?学校と駒込警察が見えてくる。
 東洋文庫には、右折で駐車場にうまく入れた。高速道路、首都高と経由し、四街道のインターから一時間と少しで来ることができた.

 さて、東京 駒込、東洋文庫ミュージアムに(車で初めて)やって来た。年明けの1月中旬から開催されている「解体新書展」の見学のためです。
 開催中の展覧会は、4月上旬までの約3か月弱の会期です。早いもので、ここ東洋文庫にやって来るのも「ブラウの大地図展」、「幕末展」に続き3回目となりました。初めて来たのが、昨年の6月のこと。何回も書いているが、もっと早くにこのミュージアムの存在を知っているべきであった。

 まずは、1階から観覧した。

↓ 入館して、入口付近を振り返る。  展示のガラスケースに館内の淡い照明が反射して幻想的です(笑)。
 写真で見ると、入館受付のMAの皆さんがいるカウンターの台は照明が付いているようで、全体が光っていることに気付きませんでした。見学中に気付くことは無く、写真を見返して初めて気づいたのです(笑)。

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 「MA」とは「ミュージアムアテンダント」の略称で、ラオス民族衣装もモデルにしたという赤(というか深紅)を基調とした艶やかな彩(いろどり)と美しい模様の制服を纏った東洋文庫の係員のこと。15時開始のツアーの説明係も務めるようであるが、たいていは入館受付を兼ねるレジにいる。
 当初はレジで『MA』に前回の見学時にもらった「解体新書展」の「20%オフ」の専用割引券を提示。が、購入したあとで、「スタンプラリー」のスタンプを貰っていないことに気付いた。
 と、スタンプを押してくれて、「三菱系博物館」三か所のラリー完成となった(笑)。すると、MAの彼女が、券が200円引きなると言い、隣のMAの子に確認し、レジを打ち直してくれた。
 対応した「見習」と腕章をつけたMAの子がレジを打ち直し。割引率が違うのだそう。スタンプラリーの台紙を見せると「200円引き」となるそう。スタンプを押してもらい、返して貰った台紙を見ると小さい文字で今年の9月までは「200円引き」と書いてある。「20%」か「200円」なのかどちらでもええやんと思うが、そこは優しくてよく気付くMAさまです(笑)。

景品は隣の指導係のメガネの小柄な子が渡してくれる。黒髪。打ち直す子は まだ入ったばかりのようで、
目が一重で メガネをかけている。まだ19歳 大学ならば一年生くらいかな。指導役の子よりも背が高い。聞きながら、レジを操作。おつりをさらに返してくれる。次回 儒教展の割引券は景品をくれた子と同じく指導役の子が渡してくれた。二人とも まじめそうで いかにもミュージアムのバイトにお似合いです。MAは三人いる。その奥に 応対はしない 一番各上そうなMAが。


 17時半頃に到着して入館。まずは、1階から観覧した。1階から展示室内から、ガラス窓越しに芝生のお庭と小岩井のレストランを見る。お彼岸となり、日も随分と長くなりました。

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 一階の展示室では、日本の医学書「解体新書」にちなんで医療関係の資料を中心に展示。
 まずは、マンスールの解剖図。梅毒誌もある。新聞では現在でも梅毒が増えているそうだ。デカメロンの本も。
発刊の時代は忘れた。埋葬の様子のようです。北里のペストに関するレポトも香港で流行したときの患者の数の推移について。
 北里柴三郎の展示が。写真や 年賦、論文などの展示。年賦によると北里は、阿蘇の人。明治18年3月にドイツ留学。鴎外と時期がかぶる。
 男爵は鴎外の死後、二年後のことだった。長命であった。


北里研究所に関する展示も。もちろん 中心は大村教授の業績について。昨年の明治村でも見た。

ガラスの展示ケースでは イスラムなどの医療に関する展示がある。

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 駐車場の様子。(帰るときに撮影)
 このたびの訪問時は、ほとんど車が停まっていなかった。ただし、駐車場に停める場合は「受付に申しでしてください。」と注意書きがあり。「無断駐車は厳禁で、もし無断駐車したら5万円?かの罰金で、警察に通報??」かどうかは忘れたが、かなり厳しいことが書いてあった。ほとんど脅迫じゃねっ!?てくらいの(笑)。

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 続いて、見て行きます。





 

「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」トークショー(拝聴記 最終) 東洋文庫

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会(トークショー)。続きです。

高名な探検家にして医師、文化人類学の大学教授 関野氏のお話の続きです。
 「ミトコントリアDNAはデータベースがある。自分のものを調べると母系は礼文島のそれと近かった。礼文島に縄文人の住居遺跡があり、出土品にはヒスイがあったり大陸にしか無い貝の殻があった。ヒスイは新潟県の糸魚川が産地であるし、昔(海面が低かったので)サハリンは大陸と繋がっていた。」
 「日本人はどこから来たのか?。 縄文人は二重まぶたで背は低い。顔の彫りが深いのは沖縄の民族やアイヌ民族にみられる。弥生人は一重まぶたで背は高い。メインのルートで、朝鮮半島から渡ってきた。最後に来たルートは沖縄の海のルートではないか。」

 映像が流れました。「グレートジャーニー」が完了した後の新たな海の旅の様子でした。この映像は二年前に開催された国立科学博物館の「グレートジャーニー展」で見たことがあると思い出しました。
  航海に使用する舟は、すべて手作りで道具も手作りしていました。まずは道具造りから。千葉の九十九里海岸で磁石を使って砂鉄を集めています。たくさんの人が作業しています。学生のような若い人が多かったです。
 砂鉄を集めて、たたら製鉄の手法、ふいごで空気を炉に送り、ドロドロに砂鉄を溶解させ、型をとり、斧の形に鉄を鍛冶師が打っていました。『キンコン キンコン』と鉄をたたく音が(映像から)聞こえてきました。
 道具を製作すると、インドネシアで大木を切り、くり抜いて舟の本体をつくります。帆やロープも植物繊維から作っていました。舟の防水のたの塗料もヤシの油だったと思います。
 「砂鉄は120キロ集めた。実際の斧などの道具の重さは5キロ。製鉄をするための炭を焼く必要がある。300キロの炭が必要で炭を焼くために3トンの木を切る必要がある。つまり、5キロの鉄をつくるために3トンの森林伐採が必要です。鉄というのは、文明の発達、軍事力の象徴でもある。人類の文明の歴史は森林伐採の歴史でもあった。」
 のようなお話もありました。

 映像が終わったところで、再びお話が。
 「自然に抗うことはできない。科学で自然を変えることはできない。航海は『五感』でわかる。チャートは必要としない。例えば月の大きさなどで分かる。
 医療も同じで五感に頼るところがある。まず顔を見て、座る様子を見る。打診、触診、内診などで診断する。最近の医者はCTを取って、採血して、モニターを見て・・・・、患者を見ない・・・・・・・。昨日は医師の集まり(学会?)で講演したので、そのようなことを医師から聞いた。」 
 ここ隣の隣には既述のとおり日本医師会もあるので、医師でもある氏にとっては(東洋文庫のある)駒込界隈はなじみ深いのでしょうか。

 「航海は最初の1年で舟の製作、次の1年で航海の予定だった。(大学の自分のゼミの)ゼミ生の2名が航海に参加した。航海は試験航海では1日に40キロ進んた。しかし、目的地に向けて航海すると思うにように風が吹かない。なぎの日もあった。試験のときのように、風を探して方向を決めずに航行するのとは違った。航海は足掛け3年かかった。途中で『3.11の震災』もあった。ゼミ生はずっと航海に参加してくれた『僕たち、もうまともに就職できません。』と言っていた。(会場、笑)。その後、彼らも就職したが『(先生)また何かやりませんか?』と言ってくる。(会場、笑)」
 砂鉄集め、道具造り、舟造りで多数いた若い人は学生のゼミ生だったのだと分かりました。
 最後にまとめのお話です。
 「人間は二本の脚で歩いたから『家族』を作った。言葉というものを生みだした。人間は10か月に一回、出産をすることができる。ゴリラは5年に一回しか(子を)生まない。ゴリラは握力が500kgもある。とても強い生き物。森の中を支配しているので子孫をたくさん増やす必要がない。
 現在、新宿区では生まれる子の4人に1人はどちらかの親が外国人だそうです。新たな人間の移動が始まっています。現代の『グレートジャーニー』です。」

 ↓ 2013年の国立科学博物館「グレートジャーニー展」で撮影した舟の写真。
   実際に航海した舟の実物だったと思います。この舟で小さい舟で
   インドネシアから石垣島まで、航海をしていました。
  
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 お話の終了後は、再び司会の女性職員が立って場を仕切ります。最後に質疑応答の時間がありました。
 3人くらいが質問に立ちました。一人はかつて氏が所属した大学探検部の学生と名乗る若い男性でした。
質問内容は忘れてしまいましたが「探検とは?」というような観念的な質問でした。続いて年配の小柄な女性が「2年前の科学博物館でのグレートジャーニー展も拝見させていただきました。」と前置きをしてから質問をしました。
  終了したときは、16時を過ぎていました。
 終了後、聴衆はどっと会議室を出ていきました。私も階段で一階の下りて、図録を購入し、館外へと出ました。

※このブログに書いたトークショーの内容は、私が当日聞いた記憶や聞きながら時折とったメモを中心に書いています。そのため、実際とは異なる点や記憶違いもあると思います。

 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会 その4

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会(トークショー)。続きです。

高名な探検家にして医師、文化人類学の大学教授 関野氏のお話の続きです。
 アマゾンのお話
 「(先住民の)マチンガ族には名前がない。名前がある人もいるが、一人くらい。たとえばタローがいて、他の人はタローの弟、兄、子といった具合に呼ぶので(名前は一人くらいが持っていればよい)。
 『川』が彼らの共通の地図。『アンタどこの川から来たの?』と聞かれる。川には名前がついている。(彼らの世界は森と川でできている、というようなお話もあったと記憶します。)」
 「当時、私は国立に住んでいたので『多摩川から来た』と答えた。」(会場、笑)
 「その川はどこか?」などと聞かれた。(××日くらいかかる、と答えて先住民が目を丸くしていたというようなお話がさらにあったと思います。)

 「アマゾンの先住民は私達にとって『別の地図を持つ人達』。私達は共通の地図を持っている。(ペルーのアマゾン流域地帯から山脈を越えて)アンデスに行くと学校がある。シベリアにも学校はある。(つまり共通の地図を持ち生活をしている)。ソ連は医療と教育は無料。才能のある人は高い教育を受けることも可能だった。
 私達と共通の地図を持っていない人は、エチオピアの南部、アマゾンのジャングル、ニューギニアの奥地など1000人くらいではないだろうか。残りの99.99%の世界の人は『共通の地図』を持っている。」

 話は少し替わります。
 「(関野氏は)最初、大学の文系の学部を卒業した。その後、大学の医学部に入学した。医学部の夏休みなどの期間はアマゾンに行った。卒業後、外科の医師となった。アマゾンの先住民達とは友達付き合いをすることをしてきた。治療対象としてではない。
 現地に伝統医療がある所ではそれを壊さないように心掛けた。西洋医学を持ちこめばよいのではない。アマゾンにはシャーマンがいて医療行為をする。動物の鳴きまねをして悪霊を追い払う。あるとき、(氏が医師であることを知った)シャーマン『あたまが痛い』と言ってきた。実は(シャーマンは)幻覚剤を服用していたで頭痛がしていたのだった。(シャーマンは氏に対して)敵視はなかった。薬はあまりあげないようにしている。西洋医は薬を与えて治らないけど『頭痛を治す』。
 チベットにはラマ僧がいる。五人に一人が僧と言われるくらいチベットは僧が多い。ラマ医は『アムチ』という。漢方医に近い。アムチが真っ先に私のところに治療に受けに来た。
 伝統医療は『治ればなんでもよい』。たとえば、腰痛のある人がいるとする。整形外科に行く。整体に行く。カイロプラテックに行ってみたりする。実は日本人(の考え)とよく似ている。日本は神道と仏教。ありがたければ何でもよい。アマゾン、アンデスにも自然信仰があった。南米はカトリックが主流。カトリックは一神教だが自然信仰も残っている。スペイン人が入ってきたときに神殿を破壊したが。」
 

 ↓ トークショー終了後の会場の様子。
 
 
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「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」 講演会 その3

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」のトークショー。
 高名な探検家にして医師、文化人類学の大学教授 関野氏のお話の続きです。

 ↓ 「ブラウの大地図展」の告知バンフ。
   関連する講演会や私が聴いた「記念トークショー」の案内が掲載されています。
   すべてはこのパンフを公民館でたまたま入手したことから始まりました。
 
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 南米(の先端部)にいた人はどこから来たのか?。人類はアフリカで生まれた。(ルートを)逆にたどりアフリカへ辿る旅が「グレートジャーニー」とのお話です。

 「グレートジャーニーは近代動力に頼らない旅。 」
 ここで映像が流れました。会議室の照明が落とされ、前方に垂れ下がったスクレーンに写しだされます。(つまり、プロジェクターです。)
 オリノコ川の激流の様子やアラスカからシベリアに渡るときのカヌーを漕ぐ様子の映像などだったと記憶します。 
 実は旅の最初の方の南アメリカ編や北アメリカ編のテレビ放映は当時見たことを記憶していますが、アジアに入ってから、特に中央アジア編やゴールに近い中東やアフリカ編は見ていなかったと思います。

 なぜかというと、旅の(番組放送が始まった)最初の頃、私は学生である程度視聴する時間があったからです。私自身も少年の頃から、世界の色々な地域の様子について興味を持っていたので(番組を)見ました。その後は社会人となったので見る時間(と気力)が無かった(無くなった・・・)から見ていなかったような・・・。学生の頃は『自分もいつかは世界を巡る旅に出てみたいな。』と思っていました。自分に重ねて投影することが可能でした。若い頃は・・・・。
 しかし、いざ社会人になると現実の仕事に追われて、次第に興味が無くなっていってしまいました。夢を持つことが難しくなり、「現実直視型」になりました。さらに家庭を持つと一層「毎日の生活中心」になってしまいますからね(笑)。
 
 話は戻りますが、トークショーの合間に投影された映像は、当時のテレビ放映とは別の機会(予告編など)にたまたま見た一部の映像や二年前の科学博物館の「グレートジャーニー展」で見た映像などと記憶が重なり「テレビ放映自体は見ていないが、少しばかり見た記憶のあるな。」と感じました(笑)。
 旅のゴール近く、アフリカの「ンゴロンゴロ自然保護区」を自転車で走る映像も流れました。

映像の後、氏が解説します。
「 ンゴロンゴロ自然保護区では本来車で走るのみで、途中で車を降りることも許可されていない。どうしてもゴールは自転車で走りたいので『南アメリカから自転車、カヌーなど人力でやってきた。』と説明したら、驚いてタンザニア政府はレンジャーの同行を条件に特別に許可してくれた。保護区ではヌーやガゼル、ゼブラなどが野生で暮らしている中を(自転車で)走った。ライオンやヒョウはいないことを確認してから走った。」

 シベリアのお話
「トナカイのソリを使用した。動物は言葉がわからない。(動物の)1.5m先にエサを付けて(つりさげして)ムチを打って走らせた。トナカイにも賢いトナカイト賢くないトナカイがいる。賢いトナカイはムチをたたくふりをすれば走るが、賢くないトナカイはムチで打たないと走らない。」会場「笑」。トナカイは犬そりよりもパワーがあるそうです。
 「犬ソリは言葉で操作できる。ただし、言葉は四つだけ。右、左、進め、止まれのみ。」

「ヒトは熱帯生まれた。ヒトに近いサルの場合 日本サルは下北半島が北限。(そこより北には日本のサルはいない。) 
 (人類は)寒いのが苦手。ヒトの皮膚は(温度が)ゼロ度でもよい。肝臓、腎臓、心臓などは体温が30度以下になると死んでしまう。機能が停止してしまう。水中も怖い。水中で体温が低下すると命の危険がある。
 人類が北緯60度を超えたのは3万年前。一番重要だったなは何か?。それは『縫い針』の発明だ。熱帯では服を羽織るだけでよい。(しかし、寒い地域ではそうはいかない。)ブーツ、毛皮の服、帽子など『暖かい空気層』のある衣服をつくることができるようになったから。もちろん、その他に住居などの条件もあるが。 食べ物は寒い地域にも大型動物はいるので困らなかった。」
 医師ならではのお話もありました。

 「なぜ、寒い地域にもヒトは行ったのか?。『好奇心』や『向上心』ではないのではないか?。『弱い人』だったからではないでしょうか?。ある土地に定着すると人口が増える。そうよると(ジャマになった?)出ていく人がいる。弱い人が突き出しされて出ていく。(例えば)南米の先端に住む先住民(先端まで行った人)は好き好んで行ったわけではない。ただし、(追い出しされた人が)必ずしも弱い人ではなく、イギリスや日本のように軍事力や経済力を付けて追い出した人よりも強くなった例はある。アメリカもそうで、イギリスを追われて新天地を求めたピルグリムファーザーズの例もある。」

 ↓ トークショーが終わった後の会場。東洋文庫二階の会議室での開催でした。

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「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」講演会 その2 

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会。続きです。
 正確には「トークショー」なので固苦しいお話ではありません。
 高名な探検家にして医師、文化人類学の大学教授 関野氏のお話の続きです。
  アマゾンには学生のとき以来20年間通っていたそうです。
 だいたい次のようなお話でした。
 「アマゾンに学者やジャーナリストの人を案内することがあったが、何もないところで(彼らは)感動していたので不思議だった。(アマゾンは本流ではなく、支流などが面白いのだが。)
 南米の先住民族は日本人と、似てハニカミ屋。顔付き、体格、しぐさなども、似ている。あいさつをこちらからしても、一回しか返さないし、握手をこちらからしてもあまり握り返さない。
 なぜ似ているか? (南米の先住民族は)獲物の動物を追いかけて、(アマゾンに)やってきたことは知っていた。
 (ひちくちに人種を)モンゴロイドとくくることはできない。モンゴロイドは蒙古班があると言われている。が、蒙古斑がない民族もいる。モンゴロイドと言われているくらいだから、元々はモンゴル、シベリアのあたりの民族だろうが、シベリアに行っても(蒙古斑のある、ないは)分からない。
 シベリアのチュコト半島にチュコト人という、民族がいる。チュコトの伝説に『人間は死ぬと天に昇り、また精霊になってもどってくる。おかあさんのお腹の中でお尻もたたいたから、青くなる。』というみのがある。お尻が青くない赤ん坊もいるといることだ。(つまり蒙古斑がない)
 西洋人、いわゆるコーカソイドには2-4%くらいのおしりが青い人がいる。(蒙古斑がある)。モンゴロイドでもおしりが青いとはかぎらない。
 ネグロロイド、コーカソイド、肌の色の黒さは紫外線によるものだし、血液型でも分けることはできない。遺伝子でも特有なものはない。ただし遺伝子としては、九州の人やチリの先住民族に白血病の一種が多いことが知られているが。」
 という医師ならではのお話も。
 私も四国~九州に白血病が比較的多いという話は実は「家庭の医学」等の市販の医学書でも読んだことがあります。
 

 「どこかで人種を切ることはできない。(関野氏自身は)自転車で旅したが、(中国で)漢人の地域を通り、ウイグル族自治区に入ると人々の顔立ちはだんだんエキゾチックになる。
 国境を超えて、旧ソ連の国、キルギスに入ると日本人に似ている、次のカザフスタンに入ると日本人に似ていない。
 (次の国の)トルクメニスタンに入ると、ここは独裁国家。終身大統領がいて、食堂などに入ると大統領の肖像画がある。ここでは『ソ連』が残っていて、旅行するには大変厳しい。旅程はあらかじめ決められていたが、宿がないときは民家に泊まってよいと、言われていた。(宿がないところで現地の)民家に泊まったら、その家の人々は日本人によく似ていた。

 カザフスタンからやってきて、人々を見てみると、グラデーションというか、徐々に(人種が)混ざっている。
 元をたどれば、みなアフリカで生まれた。
 700万年前に猿人が登場した。身長はは120センチくらい。脳の重さは500グラムくらい。直立歩行をしていた。アフリカのチャドで発掘された。私が子供の頃は猿人の誕生は100万年前と言われていたが。現在は学説が異なっている。
 次に原人。原人はアフリカを出た。ジャワ、北京原人などがいる。20万年前にホモサピエンスが登場した。改めてアフリカで生まれた。(ホモサピエンス)6万年前にアフリカを出た。ネアンデルタール人と1-2%混血している。」

「6万年前は現在の白人も同じところにいた。紫外線・・・ないと困る。ビタミンD。これは皮膚で作られる。(肌が)白くなった人は(適応して?)北欧で生き残った。

 ただし、急激な変化は起こらない。たとえば、北オーストラリア・・・今から100年くらい前にイギリス人が来た。彼らは皮膚は日焼けして赤くなるが、黒くはならない。

 皮膚の色は紫外線の強さ(などで決まる)。皮膚の色で人種を区別して優劣をきめることほどバカらしいことか。もとをたどればみな同じです。」
 「皮膚の色で人を区別することがどれだけバカらしいことか・・・。」というフレーズが私の脳裏に焼き付けられました。
 講演は、内容盛りだくさんです。更に続きます。



「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」関野氏トークショー IN東洋文庫ミュージアム

  2015年6月6日

 東洋文庫 「グレートジャーニー : 地球を歩いて気づいたこと」の講演会(正確には「記念トークショー」)。
 「ブラウの大地図展」に関連しての企画です。
 前述のとおり妻が偶然見た告知パンフを見て知ったのでやってきました。事前に電話して予約を入れていました。氏が旅をした「グレートジャーニー」を私もテレビで見ましたし、「グレートジャーニー 」展がちょうど二年前に国立科学博物館で開催されました。私も子供を連れて見学したので、当時の企画展を補完する意味でもやってきた次第です。
 講演会は14時から。その前に一時間くらいで駆け足で「東洋文庫ミュージアム」内の展示と「ブラウの大地図展」を見学しました。結構慌ただしかったです(笑)。次回はもっとゆっくり見たいですね。
 
 「東洋文庫の名品」の展示室を見学し、「回顧の路」を通って「ブラウの大地図展」の展示室へ。何とか一通り展示を見て、一階に下りて出口を出て、再び二階に登って講演会の受付へ・・・と思いしまたが、モリソン書庫前の通路から、二階の会場の会議室へと抜ける通用ドアが開いていました。実は壁一枚で有料の展示室と会議室はつながっていました。ドアを開ければ(通れば)すぐ到達です(笑)。このとき開演の5分前でした。展示室内にいた人も次々に通用ドアをくぐって会場へと向かいます。年配の男性が多かったように思いました。皆、展示を見ながら開演を待っていたのですね。
 しかし、必ずしも講演会参加は有料入館が条件ではありませんでした。会場の二階会議室は有料ゾーンに入ることなく、建物の入口に直結している階段から登ってくることができることに気付きました。そのため、(有料入館はせずに)講演会だけ聞きに来た人も多数いました。

 (講演会が終わった後、有料ゾーンとを結ぶドアを通って有料展示室内に戻ろうとしましたが、閉まっていました。講演会前にしか開かない『本来は関係者用のドア』のようです。)
 受付で名前を告げて会議室内に入ります。すでに席は配置されていていました。と、前にはプロジェクターとスクリーンが用意され、すでに関野氏の姿がありました。氏は係の人と打ち合わせをしています。Tシャツ姿のずいぶんラフな格好です。前の方の席には余裕があるので前方の席に座ります。後方で講演会の模様を撮影するビデオカメラがすでに設置されていました。

 やがて室内はほぼ満席になりました。席の数は100以上はあったでしよう。学校のように机とイスの教室形式ならば100名が入るくらいの大きさですが、机はなく、イスだけの設置だったので150名はいたでしょう。
 実はこの講演会のためだけに来た人もいるようです。会場の会議室は自由に入れるゾーンにあります。よって入場しなくても講演会を無料で聴くことは可能でした。
 講演会の司会は、「MA」ミュージアムアテンダントの方ではなく、職員証を提げた私服姿の若い女性でした。学芸員の方かは分かりません。

 ↓ 二階部分の渡り廊下の上に置いた机で講演会の受付が始まっていました。 

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 講演会が始まりました。席は満席となりました。まずは、関野吉晴氏の紹介から。医師で探検家であることはテレビを通してもよく知られています。私も元々知っています。現在は、武蔵野美大の文化人類学教授。医師であるのに美大の教授とは異例です。先に見学した鴎外記念館の「森鴎外」と同じような「医師にして二足のわらじ」を履いている方です。

 氏のお話が始まりました。本講演会は「ブラウの大地図展」に関連する講演会です。関連講演会はいくつかあって、この日は関野氏の講演ですが、別の日には大学教授の方によるフェルメールが地図を作中に描いた理由についての講演会など、専門的な内容です。
 冒頭で氏からは「今日は(こちらで、と展示室の方向を指して)地図展をしているが、地図の無い時代のお話をします。」といきなりのカウンターバンチのようなお言葉。「大地図展」に関連する講演(正確には「記念トークショー」)ですが、確かにグレートジャーニーの旅はその通り「地図のない旅」でありました!!。これは、すごいツッコミです(笑)。

 続くお話の内容の概略は次の通りでした。

 「20代はアマゾンに通った。当時通っていた大学には探検部がなかった。そこで、早稲田の探検部に入れてもらった。ナイル川を下ったが退屈だった。流れがゆったりで、その上、川幅がひろいので。しかし、上流の源流部は面白かった。次いでアマゾン川下りをした。本流を下っても大体しか分からない。(面白くない)。(支流の方がも白い。支流沿岸にはには原住民の生活がある。)文明化していない人をアマゾンでみた。その後10年くらいアマゾンに通った。ペルー(のアマゾン側)が一番面白かった。
(世界各地を探検したのではなく)20年間南米しか(行ったことがないので)知らなかった。
 
 「ペルーのアマゾン地域が面白かった。」という理由は、その支流地域での原住民の生活を体験し、彼らと交流を重ねたからなのでしょう。
 講演は更に続きます。

 ※このブログに書いたトークショーの内容は、私が当日聞いた記憶や聞きながら時折とったメモを中心に書いています。そのため、実際とは異なる点や記憶違いもあると思います。



「ブラウの大地図展」 東洋文庫ミュージアム 見学記(最終)

  2015年6月6日

 「東洋文庫ミュージアム」の『ディスカバリールーム』で開催中の「ブラウの大地図展」を見学します。
 
 アジアはというと、インドは正確なほうですが、日本はあまり・・・。でも大きく島が描かれています。実測よりも大きく描かれているとは、それだけ当時の日本の様子がヨーロッパに伝わっていたのでしょう。
 当時は清朝だった中国本土は意外にも小さく描かれ、むしろ東南アジアの方が詳しく描いてあります。マレー半島にベトナム、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、フイリピン群島など。特にジャワはオランダ領東インド統治の中心となる島ですから実際よりも大きいです。当時はイギリスもここに進出してきていたし、激しい植民地獲り合戦が繰り広げられたと思います。従って、より正確地図が必要だったのでしょう。『地図を制する者は国を制する』といったところでしょうか。
 現在のニューギニアより東が空白です。オーストラリアとその周辺地域のヨーロッパ人進出はもっと後だったと思います。測量が進んでいなかった様子が分かります。
 しかし、1600年~1620年代の時点で、熱帯の島々、ボルネオ、セウェラシ、ジャワ、スマトラまでかなりオランダの支配が進んでいたことがわかります。
 小さい島の都市ですが、重要な香辛料の産地であったモルッカ諸島に近い都市「アンボイナ」も形成されていたのでしょう。ただ、地図ではアンボイナの様子までは判読できませんでした。

 ↓ 東洋文庫発行の「ブラウの大地図展」図録より。
   アジアの様子。中国と東南アジア、インドなどが一緒に描かれています。

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 写真は展示の後半部ともいうべき箇所です。右の平ガラスケース内には日本の重要文化財に指定されている「ジョン・セーリスの航海記」が展示されていました。
  ↓「ジョン・セーリスの航海記」の現物。こちらもフラシッュ禁止ならば撮影可能です。

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  ↓ 写真は展示室(ディスカバリールーム)。
    向かって左のガラスケースに「大地図」が展示されています。
     向かって右の平ガラスケース(上部がやや斜めになっているが)に重要文化財
     「ジョン・セーリスの航海記」が展示されています。
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 「セーリス」は1600年代のイギリス航海士で、家康にも謁見したことがあると説明にはありました。
 オランダ、ブラウの地図よりも数十年早い、イギリス人でした。イギリスを出航し、日本に航海し再びイギリスに戻った記録とのこと、今までセーリスについて知りませんでした。

 ブラウの地図帳、2011年に再発見されてから今回の公開となったのですが、「ブラウ」とは出版社の経営者の名前でした。今まで知りませんでした。親子で出版業を営む一族であり、測量をブラウ一族が行ったわけではありませんでした。現在知られていないのは、後年火事で地図の原版を焼失したからなのでしょう。火災の翌年、当主のブラウさんも失意のうちに亡くなった、と説明にはありました。

 展示室内には常時私も含めて二~数名がいるといった混雑度合でした。看視用の席もありましたが、MAの方は座っていませんでした。この展示室『ディスカバリールーム』一室が「大地図展」の会場でした。細長い、あまり大きくない部屋です。外観のビルの大きさと比べると展示スペースは広くないので、やはり東洋文庫はあくまで図書の収蔵・研究がメインなのだなと理解しました。2011年という、つい最近まで一般公開されていなかった理由も分かったような気がしました。

 実は、講演会(トークショー)終了後、受付で図録を買いました。500円台と安価です。A5サイズのコンパクトな図録で助かります。特に国立博物館や大きな美術館などで開催される展覧会の図録。実は大きな図録というのは、あまり必要でなくミニ図録はないかといつも思っていました。ここの小さい冊子の図録はピッタリです。 
 しかし、図録に掲載された地図は文字が小さくて地名が読めないです・・・。実際の展示はガラスケースに顔を近づけて地名を判読しようとしていましたから、図録に期待したのですが、文字が読めなくて残念でした。図録は地図の雰囲気を楽しむような物、という位置付けになってしまいました(笑)。












「ブラウの大地図展」 見学記続き 東洋文庫ミュージアム

  2015年6月6日

 「東洋文庫ミュージアム」の『ディスカバリールーム』で開催中の「ブラウの大地図展」、正確な主題と副題は「大地図展 フェルメールも描いたブラウの世界地図」を見学します。

 「フェルメール」作品に描かれている地図の展示がありました。ガラスケースの手前にフェルメール作品の複製品が置かれています。説明には「地図の色が反転して描かれている」とあります。
 どういうことかというと、ブラウの地図を色彩もそのままに、まるごと写している(いわゆる『丸写し』)のではなく、フェルメールは海の部分を色を濃くして描いています。フェルメールの作品中では、どちらが海でどちらが陸が分かりにくくなっています。地図をそのまま写すのではなく、背景としての装飾性を重視したようです。
 余程詳しい人でなと、説明文を見ずにフェルメールの作品中、絵の中心たる女性のうしろの壁にかかる物が「地図」、しかもネーデルランドの地図であるは判別できないです。
 私も「どれが地図なのか?」と複製のフェルメール作品を目をこらしてみました。ネーデルランドの地図といっとも広域の地図ではなく、とある入江、内海の『輪中』を含む複雑な海岸線と北海に面したまっすぐ伸びる砂浜海岸の地形を拡大で描いています。海岸線の弧を確認して、ああこれが陸地でこっちが海なのだなと分かりました。

 ↓ 東洋文庫発行の「ブラウの大地図展」図録より。
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 続いてアフリカやアメリカ大陸などの地図。大陸が一ページの地図にまとまっています。北アフリカは文明が福から開けてヨーロッパ史とも深く関連しているので、実際の縮尺よりも大きく、詳しく描いてあります。現在のサハラより南、特に南半球のアフリカは小さくなっていて、海岸線はかなりわかっているが、内陸の測量までは進んでいないのだなと分かります。
 地図の両脇には、大陸の先住民族と思われる人々が描かれています。
 特にアメリカ大陸の先住民族の描写はリアルです。衣装をまとい、道具をもっています。髪や肌、体格、衣装が写実的に描かれています。
 当時のヨーロッパ人から見た先住民族の様子が分かります。当時の先住民族の習俗、文化まで知ることがてせきます。

 ↓ 東洋文庫発行の「ブラウの大地図展」図録より。
     アフリカとアメリカ大陸の部分。

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アフリカ大陸やマダカスカル島の地図は現代のものとあまり変わりません。
 当時でも相当に沿岸の測量が進んでいたことが分かります。






























  南北アメリカの地図は、アフリカと比べると、探検や測量が進んでいない様子が分かります。
 北アメリカは現在のアメリカ南部、カリフォルニアくらいまではカラー印刷ですがその北は白く空白地帯が多いです。当時の植民地の状況が分かります。

  南北アメリカはスペインとポルトガルの植民地ですが、いかんせん地名の文字が小さいので都市の名前が判別しにくい。銀山有名なポトシや南米地域統治の主要都市リマなどは読めたような・・・。ポトシには鉱山のようなマークがあったようなも見えました。
 ヌエバ・エパスーニャの主都 シウダー・デ・メヒコを探してみました。なんとか判別できました。文字や絵記号は小さいので分かりにくいです。昔のアステカの都、ティノティティトランの跡地に建設されたのがスペインの植民都市シウダー・デ・メヒコなのです。
 当時の副王領やアウディエンシアごとに境界線で区別されているようです。現在の中南米の国境とも似ています。

 イベリア半島の地図の説明で当時は「スペインとポルトガルは一体化していた。」とありました。
  ↓ 東洋文庫発行の「ブラウの大地図展」図録より。
 
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 スペイン・ポルトガルのイベリア半島の部分はエスコリアル宮も描いてあるようですが、分かりにくかったです。イベリア半島のほぼ中心部にあるフェリ二世が建設した大宮殿です。
 カスティーリヤ、グラナダ、カタルーニャナヴァラなど当時の境界も描いてあります。ひとくちにスペイン、エスパーニャといっても別々の王公領地の集合体だったのですね。
 スペインとポルトガルの王を兼ねたのはフェリペ二世からで、ブラウの地図の時代もスペイン・ハプスプルク家がポルトガル王だったのでした。
  フェリペ二世の母でカルロス・キントの妃イザベラ(イザベル)はポルトガル王の娘ですから。もっともカルロス・キントと妃イザベラはその母親同士が姉妹だったはずです。「いとこ婚」でしたね。

 











「ブラウの大地図展」 東洋文庫ミュージアム 見学記

  2015年6月6日

 6月の土曜日のこと。文京区駒込の東洋文庫にやってきました。
 「東洋文庫ミュージアム」で開催中の「ブラウの大地図展」を見学します。
 「東洋文庫の名品」の展示室を見学し、案内表示に従って「ブラウの大地図展」の展示室へ。細い廊下のような通路を歩きます。ちようど、モリソン書庫の裏側にあたる部分が通路になっていました。「回顧の路」と名付けられています。この通路で写真は撮っていないのですが、通路の突き当りには大地図展にちなんで「オランダ東インド会社」のコインが多数展示されていました。日本語では「会社」と翻訳されいますが、「東インド会社」の実態は通貨の発行、貿易の独占、居留地経営などなど実は「国家」のような体裁だったのではないでしょうか。
 回顧の路を抜けると「ブラウの大地図」が展示されています。

 ↓ 写真は展示室。向かって左のガラスケースに「大地図」が展示されています。

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写真は展示の後半部ともいうべき箇所です。右の平ガラスケース内には日本の重要文化財に指定されている「ジョン・セーリスの航海記」が展示されていました。













 展示の最初は関連展示パネルから。いきなりブラウの大地図の展示ではなく、16世紀後半の地図や航海記探検記の説明がありました。
 「アントワープからアムステルダムへ」の説明で、なぜアムステルダムが発展したかを理解できました。世界史では「フランドルのアントワープは重要な貿易港だった。」と説明されますが、その後は(アントワープ)なぜかパッとしません。土砂が堆積して港が海から遠くなったのも理由のひとつと思いますが、もっと重要な理由があったのです。
 アムステルダムの発展の歴史=オランダ独立の歴史であったのです。フランドルといえば、ブルゴーニュ公ヴァロワ家の領地を経てタナボタで婚姻による相続によりエスパーニャ・アプスブルゴ家の領地だったはず。なぜオランダになったかというと、カルロス・Ⅴ(キント)の息子、フェリペセグンドがカトリックを強制したそうで・・・。独立戦争を起こすほどですから、相当だったのですね。
 現在オランダは歴史ある王国というイメージが強いですが、私に言わせればオランダは「新しい国、新天地、権力にも支配されない、自由の国なるぞ。」です。(オマエが言うなって。笑。)いわば『北方のヴェネツィア共和国』です。その後、ナポレオン時代を経て変わっていったのでしょうけどね。
 現在でも日本で禁止されているコトがオランダでは合法化されています。例としては、え~っと・・・に、×××に、〇〇など、これ以上書くのは『憚れるので』ヤメておきますね(笑)。「自由の国 オランダ」考えは現代においても受け継がれているのではないでしょうか。
 説明によると16世紀初めのアムステルダムの人口は一万人程度。当時フランドルのガンで生まれたハプスブルグ家のシャルル(のちのカルロス・Ⅴ=カール五世)が少年の頃です。100年以上後の1620年には20万人、1650年には20万人。単に独立戦争による人口流入のみならず、その後のオランダの海外進出と貿易による繁栄とも密接に関係していることが分かりました。
 
 続いてガラスケースの中に「ブラウの大地図」があるページを開いて展示されています。タテ1メートルまではいかないと思いますが、大きな装丁の本です。書籍展示のむずかしさでガラスケースの中では、たくさんあるページのほんの1ページのみしか見ることができないのが残念です。
 ヨーロッパの地図が開いてあります。地形は現在の
地図に似ていますが、現代の地図と比べると正確ではありません。が、当時の高度な測量技術の一端を知ることはできます。地図中には、細かく地名が記入されています。豪華なカラー刷りです。海には船の絵を描いていたりと、装飾性が高いです。縮尺の大きい(広範囲を示している)地図では、当時の衣装をまとった人物の絵が地図の両端などに描いてあり、当時の風俗を知ることができます。

 上の写真にもある通り、展示室内は細長いです。決して広くはありません。他の二階の展示室や一階の展示室も含めて決して「ミュージアム」のスペースが広いとはいえません。東洋文庫はどちらかというと、公開、展示よりも専門図書館としての研究に力を入れていると感じました。ではその研究活動の財政的な裏付けはというと、以前は、(先ほどここに来る途中に見た)道路看板にあったように「国立国会図書館東洋文庫支部」としての交付金がありましたが、現在は国会図書館の支部ではないようです。すると税金から運営資金がでているわけではない。(研究事業などの補助金はあると思いますが。)やはり、強力な三菱グループ企業の寄附でしょう。だから、私のような一般人(パンピー)が入場する「ミュージアム」の料金収入は当てにせず、公開部分をあまり広くとる必要はなく、運営できるのでしょう。恐れ入りました!!!。
 余談ですが・・・・、
 室内には空いているイスがひとつありました。「ミュージアムアテンダント」が看視のときに座るイスと思いますが、無人でした。MAの方も忙しいのでそこまで看ていられない、といったところでしょうか。



東洋文庫ミュージアム モリソン書庫と「東洋文庫の名品」 見学

  2015年6月6日

 私は今、東洋文庫ミュージアムにいます。
 開催中の「ブラウの大地図展」を観覧し、講演会を聴講するべくまずは常設展示室を観覧です。
(正確には東洋文庫ミュージアムでは「常設展示」という言い方はしていないようですが。)
 
 モリソン書庫に続いて「東洋文庫の名品」の展示室に進みます。東洋文庫ミュージアム内では室内はフラッシュ禁止、撮影禁止の表示のある展示品以外は基本的に撮影できます。
 まずは国宝の「古文尚書」。国宝が撮影可能とは「太っ腹」です。
 文化財の説明は私がしても仕方ないのでここでは省略します。

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 隣に展示のあった 国宝指定書。

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 東方見聞録の各言語での翻訳本の展示がありました。
 いや~シルクロードへの探検記の展示もありましたし、子供の頃これらの探検記を少しばかり読んでに夢踊った私(今はタダノ変なおっさん)としては大変興味があります。子供の頃の夢が蘇ってきました。

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 さらに中国関係で清朝の「大清聖祖仁皇帝実録」と「大清徳宗景皇帝実録」の展示があります。
タテ1メートルまではありませんが、かなり大版の本です。
 その名の通り皇帝の実録ですが、廟号が「聖祖」について「仁」とは最高の諡り名です。康熙(カンシー)帝です。
「祖」が付くのは異例ですが、事実上漢の地の統一王朝の皇帝としては初代ということで「聖祖」として奉ったのでしょうか。
 「徳宗」とはずっと時代が下って光緒帝です。日本でいえば明治時代のこと。まもなく清朝は崩壊しているためいつ実録が編纂されて、どのような経緯でここ東洋文庫に収蔵されているのでしょうか。
 また、明の「永楽大典」の展示がありました。そのまんま明では一番有名な皇帝永楽帝が編纂させた大典ですね(笑)。

 写真は撮影していませんが、解体新書の展示もありました。国立科学博物館でも展示がありますし、津山の記念館でも見たことがあります。津山出身の学者、箕作一族と杉田玄白、前野良沢とは密接な関係にありますからね。 

 もう一度、モリソン書庫の前に移動して改めて書庫の前に展示している文化財を観賞します。
書庫に収納されている書籍類は手にとることができません。書庫の手前に展示品がいくつか置いてあり、観賞するという形式です。シベリアなどの昔の探検記の展示がありました。と、書庫の正面に写真パネルの展示もありました。天皇、皇両陛下がここ東洋文庫ミュージアムを視察されたときの写真でした。今の企画展のときではなく、視察はもっと前のことです。しかし、先の根津美術館、プリジストン美術館も両陛下は視察されているので、私はいずれも両陛下のあとに訪問していることになります。
 一階から二階に階段を上がってモリソン書庫が最初に目につく書棚に「四庫全書」が収蔵されていました。あの乾隆(カンロン)帝が編纂させたという清朝最大級の文化事業の成果物です。東洋史を研究するためには、「四庫全書」のコレクションは必須なのでしょう。ただし、ここでは背表紙を眺めるのみで中を閲覧することはできません。閲覧しても理解できませんけどね(笑)。
 
  ↓ 館内地図。(向きが・・・・修正できません。)

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 ↓ 東洋文庫の新名物「モリソン書庫」。

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 と、書庫の前のイスにラオス民族衣装もモデルにしたという赤を基調とした艶やかな彩(いろどり)と美しい模様の制服を纏った『MA』の方が座りました。ここで展示室内を監視するようです。東洋文庫のウェブサイトによると「看視」といいます。
 余談ですが、この艶やかな民俗衣装をまとった『MA』。肩から小さいポシエットを身につけています。貴重品を入れるハンドバッグの代わりに貸与されているものでしょう。
 ふと、MAに男性が応募してきたらどうするのか?。制服はあるのか?。肩から小さいポシエットを身につけるのか?とも思いました。余計なお世話ですけどね(笑)。
 この訪問前のことですが『MA』の募集がウェブサイトで告知されていました。時給××××円、学生は100円低い時給となっていました。基本、最初は学生も含めて時給制アルバイトとして募集ということなのですね。

 続いて、「ブラウの大地図」が展示されている部屋へ歩きます。





 

「ブラウの大地図展」と東洋文庫ミュージアム 常設展見学

  2015年6月6日

 東洋文庫ミュージアム。
 昼食を食べてから、開催中の「ブラウの大地図展」と常設展示を見るべく入場します。
(後述しますが常設展示という呼び方はしないようです。)
 入館料は900円。受付は赤い模様の入り、ラオス民族衣装もモデルにしたという制服を纏った『MA』(ミュージアムアテンダント)の方でした(♪♪)。これが噂の制服なのか、と艶やかな彩(いろどり)と美しい模様にうっとりしました。どことなく、ベトナムのアオザイに似ていますし、タイの民族衣装にも似ているように感じますし、一番似ているなと思ったのは、「シンガポール航空」のCAの制服です(笑)。
 本当にこの艶やかな赤を基調とした色彩の服は「いかにも熱帯アジア地域の民族衣装」という感じがします。ついでに書くと・・・・・・、私は決して怪しい人ではありません(笑)。

 実をいうとチケット購入に際して、入場券は渡されませんでした。MAの方からシールを貼るように言われました。私は左胸に貼りました。これが入場券代わりのようです。少し驚いたのがパンフレットを渡されなかったこと。パンフレットではなく、A4版の白黒印刷の展示室の案内図と展示品リストを渡されます。レジの周囲を見ましたが、セルフでパンフを取るようにもなっていないようです。「パンフレットは無いのだな」と理解しました。(本当はあるのも知れませんが。)
 たしかに、ミュージアム内の展示室は大きくないし、展示品目は変わるので、上質紙に印刷した館の案内パンフよりもその時々の展示品リストを渡した方が合理的ですね。
 また、次回企画展の割引券を渡されました。入場料金が100円引きになります。次回はというと、8月下旬スタートでまだ先のことです。割引券をとっておくのが大変かも・・・・。忘れてしまいそうです(笑)。
 テーマは「幕末展」。おそらくは、東洋文庫に所蔵される幕末~明治初期の文献を展示すると思います。(幕末展の)内容はというと、シーボルトの著作に始まり、ペリーの「日本遠征記」、次いでやってきたハリス、イギリス公使のパークス、オールコック、通訳のアーネスト・サトウ、フランス公使のロシュ、武器商人トーマス・クラバーなどなど幕末~明治期に活躍したそうそうたる人物達の著書、文献、資料などが総合的に展示されるのだと思います。日本人としては、「幕末への胎動」として西洋関係の研究を志した者、杉田玄白らの「解体新書」、渡辺華山、高野長英などに関する展示もあるかもしれません。さらに数年前訪問した宇和島でその事績を知った二宮敬作、適塾の緒方洪庵などの資料の展示もあるかも知れません。
 もちろん、東洋文庫のコレクションの元となったモリソン関係の資料も展示されると思います。(以上はすべて私の勝手な想像ですが・・・・(笑)。)

 ↓ 東洋文庫の新名物「モリソン書庫」は二階にあります。一階の天井が吹き抜けになっているため、
   一階から書庫を見上げることができます。
   写真は二階から撮影しています。
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 ↓ モリソン書庫の前と一階をつなぐ階段上から。入口方向。
  入口のガラスドアとその右に受付カウンターがあります。ここでチケットを買います。MAの方も少し写っています。このときは二~三人受付にいました。シッョプコーナーはこじんまりしています。レジも受付でありチケット購入と一緒です。 

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 ↓ 二階の階段下にあるチェンバロの復元。かたわらにフェルメールの絵画の複製が展示されています。
   有名に「ブァージナルを弾く女」です。今回の「ブラウの大地図展」に合わせての展示と思います。

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↓ ガラスけケースに展示された書籍。
  三国史演義(満州語本) 何を書いているか全く分かりません。清朝の時代に発行されたと思います。
  支配者の満州族が漢文化を取り入れるために編纂したのでしょうか。
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 ↓ 二階から今度はお庭の方向。
   庭には芝生があり、その先に通路があり、小岩井のレストランと繋がっています。
   先ほどは入館前だったので、庭の外の通路を通って敷地の奥にあるレストランに歩いたのですが、
   一旦入館をした後でも、庭に面したドアから出て、芝生の庭の傍らを通り、直接レストランに行くことが
   できます。

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 一階の展示室は「オリエントホール」と名付けられています。

 ↓ 「オリエントホール」と展示ガラスケース、奥は入口。
   写真右の階段で二階の「モリソン書庫」の上がります。

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ガラスケースには東洋、とっいっても日本の書籍もありました。上田秋成「雨月物語」、「南総里見八犬伝」
江戸時代に刊行されたのでしょう。
あのインドの大叙事詩「ラーマ・ヤーナ」の書籍もありました。
中国関係では「水滸伝」も。





















 アジアの探検誌も展示がありました。アフリカを探検したリヴィングストンの日記や有名なヘディンの「さまよえる湖」も。私は昔、子供版のリヴングストンやヘディンの著作を読んで、冒険心を煽られたものです。特に「シルクロード」関連で「さまよえる湖」、タクラマカン砂漠の東に位置するロプ・ノールに関するヘディンの探検記は深く印象に残りました。「いつかボクもこんな探検をするぞ。」と大いなる夢を持ったですが、今ではすっかり世俗化して日々の生活に追われる、しがないおっさんになってしまいました(笑)。「日銭を稼いで糊口を凌ぐ」とは今のボクのことです(笑)。いつから夢の無い大人になってしまったのでしょうか!?、子供の頃の夢って実現しないものですね(笑)。

 話は戻って、リヴングストンやヘディンの著作がコレクションにある・・・。つまり、当時、岩崎久弥は西洋人の探検に関する書物にも関心を持っていたのでしょうか。とすると「大谷探検隊」との共通性を見出すことができます。当時、探検隊を派遣した西本願寺の大谷伯爵と岩崎久弥はほぼ同年代だったはず。恐らく当時の上流階級や華族、更には政治の関係で面識があった、どころか親しく交際していたのではないか、と想像も膨らみます。
  
 ↓ 東洋文庫の庭。奥が小岩井レストランの建物。写真右には樹木の下のレストランに
   つながる通路があります。更に右は・・・・敷地の外で一般のマンションのようです。
  実は写真の奥の小岩井レストランの建物の奥の方向には、アイソトープ協会もあるのですね。
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旧三菱財閥、医師会、アイソトープ
協会、何らかのかかわりを感じます。


















「ブラウの大地図展」 見学へ 東洋文庫ミュージアム

  2015年6月6日

 6月の土曜日のこと。文京区駒込の東洋文庫にやってきました。
 通常はJRか地下鉄の駅から歩きますが、この日は先に見学した千駄木の鴎外記念館から歩きました。今から思えばバスを利用しても良かったのですが・・・・。
 鴎外記念館の見学記は後日書きます。まずは、東洋文庫ミュージアムで開催中の「ブラウの大地図展」から。

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 ↓ 東洋文庫の建物。立派なビルです。 
    写真に写っていないですが右側は警察署です。
   
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 「東洋文庫」が公開されていることは最近まで知りませんでした。知ったきっかけは、ある公共施設(美術館や博物館ではない)で見た「ブラウの大地図展」のパンフレットです。
 東洋文庫、その存在は以前から知っていました。「確か、巣鴨付近にあったはずだ・・・」と。正確には最寄駅は駒込駅でしたが・・・・。それに、三菱のグラウンドかスポーツクラブが巣鴨付近にあったはずだと。もちろん「三菱財閥系のオリエント、中国関連のコレクション」ということも知っていました。「三菱系」ということは、即ち創業家たる岩崎家のコレクションです。
 パンフレットには企画展だけでなく、関連する講演会、ワークショップなどの案内が掲載されていました。講演会はいくつかテーマがありますが、基本的に無料です。パンフレットに掲載のとある講演会を聴いてみたい!、ということで事前に電話で講演会の申し込みをしてこの日の訪問となりました。講演会の内容も後日記事に書きます。

 ウェブサイトを見たところによると東洋文庫が公開されたのは2011年のこと。つい最近です。道理で公開されていることを今まで知らなかった訳です。もう少し詳しく書くと、東洋文庫の建物の新築を機会にミュージアムを設置して所蔵する書籍、典籍、文化財の一般公開を開始した、というのが正しいようです。
 つまり、私が見学するのは「東洋文庫」ではなく、「東洋文庫ミュージアム」になります。「東洋文庫」は書籍、典籍、文化財などを研究している機関であり、民間専門図書館ということができるでしょう。「東洋文庫ミュージアム」年に三回程度企画展を開催しているようです。そのため一回の企画展示の期間が長い。
 今回は4月下旬から8月上旬までが「ブラウの大地図展」。前回は「イスラム」に関する企画展示だったようです。
 ミュージアム新規オープンの目玉のひとつに「MA」があるようです。「ミュージアムアテンダント」のことで、ウエブサイトによるとミュージアム内のチケット販売、監視、説明などの役割を持ってい職員のことをいいます。名前からすると「CA」キャビンアテンダントを連想させます。ウェブサイトによるとMAはオリジナルの制服を着用しているそうです。基本は女性のようです。ウェブサイトにブログを交代で書いています。その記事の内容がいかにも女性らしい内容です。ひとでいうと「カワイイ」文章です(♪♪)。
 注意事項として「MAは学芸員ではありません。」とあります。

 千駄木から春日を経由して近くまで歩いてきました。と、交差点で東洋文庫の方向と距離を示す標識看板がありました。私有地に独自に立てる看板ではなく、公共施設を示す青い文字の看板です。「国立国会図書館東洋文庫支部」とあります。国の機関の一部であったわけです。現在では国立国会図書館の支部ではなくなっているようですが、看板そのままになっていました。

 ミュージアムに着いたにはちょうど正午過ぎ。お昼をまだ食べていないので、食事は東洋文庫の敷地内のレストランにしようかと思いましたが、満席で待つとのことでした。三菱系なので「小岩井農場」のレストランです。
 講演会の時間もあるので、別の所で食べることにしました。隣には警察署があります。警察署の近くや道路を挟んで反対側にはたいてい定食屋かラーメン店が何軒かあるはずなのですが、ありません・・・・(笑)。では、取り調べのときに差し入れするカツ丼はどこで出前を頼むのかを心配するのは、余計なお世話ですが(笑)、道路を挟んで反対側に一軒レストランがあるのを発見しました。「鶏」の洋食レストランのようです。
 店内はほぼ満席です。名古屋コーチンの玉子がイチオシのお店のようです。焼き鳥の定食セットを頼みました。(写真はありません。) 生玉子が付いていて「たまごごはん」にします。客は思い思いに玉子を自分で割って「玉子ごはん」にしています。ツレに言わせれば「生玉子をごはんにかけて食べるなんてありえない・・・・。」というくらい生玉子が大嫌い(というか、サルモネラ菌を異常に警戒している・・・。)なのに、定食セットを注文しました。もっとも、私が二個の生玉子を割って玉子ごはんにするのですが・・・・。と思いきや「良い玉子は生でも大丈夫」と玉子ごはんにして食べました。子供は焼き鳥丼を注文。
 焼き鳥の定食なので時間がかかるかと思いしまたが、案外早く料理がでてきました。串焼きが二本とつくも団子もついています。焼き鳥をゆず胡椒につけて食べるようにもなっていました。ゆず胡椒好きの私には満足でした。ツレはこのお店の料理を気に入ったそうです。人気店のようで、私が出る頃には待っている人もいました。
 ツレは料理店、レストランにはウルサイ人なので私はホッとしました。私からすれば何を基準においしい、マズいを決めているのかサッパリ分かりません(苦笑)。
 私は先に食事をして、東洋文庫ミュージアムに入館しました。

 すでに書きましたが、東洋文庫の隣は警察署です。更にその隣は日本医師会館です。「日本医師会」はここにあったのでした。そういえば、ここだったのか、と思い出しました・・・・・。都心からやや離れた所にあるのは意外です。本来は霞が関の近くに医師会館があってもいいくらいです。厚生省(現在は厚生労働省)にも近いですから。日本の医師『界』の「総本山」でありますが、勤務医で特に関係は無いという方も多いと思います・・・・・。
 ↓ 警察署の建物。
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プロフィール

りょうげつ

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