良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

各地の公立・公設美術館

 

「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞5

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞5
 

 静寂の展示室内である。 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」を見ていく。

 ・「鎌倉府侍所禁制(覚園寺文書)」
  うーん、鎌倉幕府の「サムライ所」と最初は誤解してしまったが、幕府滅亡後、足利幕府の「鎌倉府」の禁制。鎌倉府も「侍所」という組織を鎌倉幕府から引き継いだのでしょうか?。足利氏の鎌倉公方の政治を司るところかな。
 ・「足利尊氏御判御教書(覚園寺文書)」「当寺仏殿〇〇銘位〇事・・・件」が本文で、「文和三年十二月八日 田香氏」と書いてある。末尾に尊氏の花押がある。更に宛名を書いている。「覚園寺長老」と。覚園寺の(今でいう)住職にあてた文書である。
 仏殿を再建?することについての文書(御教書)らしい。仏殿に滞留し、師範をするよう命じている。覚園寺長老とは.「朴がい思淳」(ぼくがい しじゅん)というお坊さんである。
  (「がい」の文字が出ない・・・・のでひらがな表記しておく。)

 この文書は注目ですよ!!。「田香氏」とは足利「尊氏」のことですよ。「高氏」「尊氏」以外にも優雅に「田香氏」と名乗っていたのですよ。最初は「でんこう」という家の人のことかと思ったが音読みしてハッとした。ただ、こうした異音?読みは昔から当たり前だったのかな?。
 同じく覚園寺長老に宛てた別の文書もあり、覚園寺長老「思淳」(しじゅん)師に「××事・・・丁寧に・・・・」と祈祷に関することを命じているらしい。

 上記の「足利尊氏御判御教書(覚園寺文書)」とは別の場所、出入り口に近い壁沿いのガラスケースに尊氏の筆になるという「地蔵菩薩像」が展示してある。縦長の、描け軸になっている。文字が書いてあり、下にお地蔵さんの絵がある。展示リストによると第2章の展示品である。
 文字は尊氏の直筆ということだろう。上手ではないが、丁寧に筆で書いてある。(筆で書くのは当たり前だが・・・。)ただし、達筆ではない。本当に尊氏はこのような文字を書いたのだろうか。下には「尊氏+花押」がある。歴史教科書と同じ「尊氏」と書いてある。花押は、間違いない、「田香氏」と書いた「足利尊氏御判御教書(覚園寺文書)」と同一である。素人目にも同一人のサインした花押と判るぞ!。
 地蔵菩薩像は西暦でいうと1349年のもの。。「田香氏」と名前を書いた御教書は西暦1354=文和三年のもの。「田香氏」の署名の方が年長になってからのものだ。なぜ、あて字をしたのかは分からない。説明も無かったと思う。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
  左端の文書の写真、浄光明寺の敷地絵図の上には「田香氏」と名前の入った御教書の画像がある。

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 第4章 「鎌倉に残る基氏の記憶」
 この特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のメイン展示は「1章」に集中しているため、軽く見ていく。展示室の中心付近の展示ケース内に少しばかりある。
 江戸時代以降の鎌倉の絵図がある。以前も写真などで見たことがあるかもしれない絵図だ。寺院と農村に帰した田園の??鎌倉である。
 基氏の位牌も展示してあった。「瑞泉寺殿・・・」と戒名が彫られている。「院号」でない。「寺号」である。江戸時代以降だと、このような戒名は「瑞泉院殿」と院がつくのだろうが、位牌の文字は「瑞泉寺殿・・・」である。この位牌自体、展示目録によると江戸時代18世紀のものなので、何らかのときにつくられたのだろう。所蔵は「称名寺」となっている。あの金沢文庫に隣接するお寺だ。瑞泉寺ではない。

 今回、瑞泉寺所蔵の文化財が多数展示されていた。基氏の菩提寺であったのですね。全く、基氏と瑞泉寺の関係について理解していませんでした・・・・(苦笑)。そして、瑞泉寺がどこにあるのか、知らないのです。行ったことも無い・・・・
 3章と4章の展示は、ほぼ同じ展示ケース内にあるので、区別がつかない・・・。順路もごちゃごちゃになってしまうので・・・。
 館内はすいている。私のあとから入場してきた女性が1人いたが、先に出て行ってしまった。更にあとから入館してきた男性1人がいた。私は退出して、帰途につきました。
 帰宅した後、地図や自宅にある鎌倉のガイドブックなどで瑞泉寺の位置を確認した。拝観もできるそうだ。鎌倉時代の作になる庭園があることが分かった。
  今回の特別展のタイトルの一部には「東国の王」とある。鎌倉公方は、足利家の分家でまさに東国の王だったりですね。

 (鑑賞記 おしまい。)



「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞4

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞4
 
 第2章「鎌倉公方と禅宗寺院」 を続けて見ていく。次いで

 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」の展示に続く。
 第2章と第3章の展示はほぼ似ていて、同じ場所に展示されていて、区別はつきにくいが。
 上総国の土地の争いに関する文書の展示があった。上総の国の湯井郷の土地で争いが発生していたらしい。現在の千葉県の房総半島の付け根付近の台地の谷間の肥沃な土地(現在ではすいかの名産地となっているが。)か、九十九里浜に面した地域かな。それとも市原、茂原の辺りかな?。

 「足利基氏御判御教書」、基氏の名前と花押のある文書で年号は貞治二年(西暦では1363年と説明にある。)の二月二十七日(実際の文字は「廿」と墨書している。)の日付だ。「光明寺」文書である。
 「上総国湯井郷事~」と書いてある。宛先は「光明寺長老」となっている。湯井郷はある御家人が勝手に??支配してしまっているが、この文書によって光明寺の領有を認めたのであった。

 尊氏と基氏親子の御教書が描け軸になっていて、連続している展示品があった。「浄光明時文書」である。後世の人が、二人の御教書をありがたや、と軸装したのであろうか?。
 末尾に尊氏の名前と花押のある文書では宛名は「千葉介殿」となっている。
 末尾に子の鎌倉公方、基氏の名前と花押のある文書では年号は 貞治三年(西暦では1364年と説明にある。)四月十六日の日付があり宛名は「伊予守殿」となっている。
 湯井郷の押領をやめさせ、尊氏の御教書の通り、寺の雑掌を渡せという意味だそう。(私の誤解かもいれないが。)
 上記した貞治二年(西暦では1363年)の基氏花押のある御判御教書と「対」になっているそう。同二年(つまり前年のこと。)の御教書に従って、土地は覚園寺に渡しなさい、という命令であった。なかなか、引き渡しをしなかったのですね。あわよくば、そのまましれーっと自分のモノにしようとしていたことがミエミエ!?。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 「光明寺」文書の写真。「湯井郷」のことが書いてある。鎌倉市指定文化財である。

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 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」の展示で重要文化財指定の「浄光明寺敷地絵図」がある。昔のお寺の伽藍配置図である。簡単に墨で和紙に書いてある文書、絵図にしか見えなかったのだ・・・。
 同じく第2章の展示では「明月院」の昔の絵図の展示があった。明月院は「あじさい寺」として有名だし、先の6月に行ったことがあるので、明月院の絵図に見入ってしまったが、「浄光明寺敷地絵図」は特別展のパンフレットにも掲載があるので重要な絵図らしいとあとから、気付いた・・・・。
 明月院は元々「禅興寺」というお寺の塔頭だったと説明にある。読んで字の如く禅宗の振興のための信仰篤き寺であったのだろう。現在の北鎌倉の山の付近、北鎌倉駅から見て建長寺の手前に広大な伽藍を構える寺院であったのだろうか?。

 、「浄光明寺敷地絵図」に描かれていた「浄光明寺」も鎌倉公方 足利家にゆかりの深い寺のようだ。瑞泉寺と並んで重要なお寺だったので、文書が残されているのであろう。今まで、知らなかった・・・今まで知らなかったお寺にも、実はかなり重要な歴史資料が遺されていると改めて気づいた・・・・・。

 「浄光明寺」と「光明寺」とふたつのお寺の文書が展示されている。同じお寺かとおもいきや、違うらしい。展示室内では両寺の違いについて詳しい説明は無かったと記憶する。(説明文はあったが、私が忘れてしまっただけかも・・・。)

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
  左端の文書の写真、実は文字ではなく浄光明寺の敷地絵図である。

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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞3

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞3
 

  ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
 足利基氏の坐像や国宝「上杉家文書」など展示される文書の画像が掲載されている。


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 鎌倉公方足利基氏の御教書に続いて、展示ガラスケース内には、「足利家文書」 米沢市上杉博物館所蔵の展示があった。文書の国宝一括指定のため、点数は膨大なものであろう。よって、1枚1枚文書を読み込むとは不可能だ。文書がまとめて国宝指定されている点は、金沢文庫で保管されている称名寺聖教の文書群と同じであろう。ただし、称名寺聖教が国宝指定されたのは、昨年か一昨年だったと記憶するので「上杉家文書」の国宝指定はもっと以前のことだろう。
 国宝の文書の傍らには重要文化財の「上杉重房坐像」が展示してあった。鎌倉公方を補佐したのが関東管領上杉氏。よって、「上杉重房」の木像が特別展のスペースに(平常展示から)移動して展示されているのだと理解した。
 今回の特別展の目玉はこの国宝だろう。うち2点のみが今回展示されている。前期は11/12(日)まで、後期は12/3(日曜)までとなっていて、2点ずつ展示替えされるようだ。私が見たのは前期の展示品だ。
 国宝文書の1点目は「足利直義書状」
 「若御前が鎌倉へ下る・・・。」ような内容。「六月二十日 民部? 大輔 」と書いてあるような・・・。日付は「二十」ではなく「廿」文字。昔の文書は皆そうなのかも知れないが、京都国立博の特別展「国宝」にて展示のあった文書などの日付も同様の書き方であった。「民部? 大輔」は尊氏のことか、直義のことか忘れた・・・・。
 解説によると「若御前は」尊氏の嫡子「義詮」のこと。京にいた尊氏は、子の義詮をかつての幕府所在地であった、鎌倉に送り込んで自分の代理として東国支配の拠点としたのだ。 

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
   国宝上杉家文書のうち「足利直義書状」ではなく後期展示の「基氏文書」の画像が掲載されていた。
  

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 続いて 国宝上杉家文書のうち「足利基氏御判御教書」の展示がある。建武の新政の時代から下って西暦でいうと1366年のこと。鎌倉の幕府が滅亡してから30年以上経過した後の文書。すっかり足利の天下となっていたのでしょうか。南北朝に分かれていた時代ではあったが。
 内容は「武蔵国 六浦・・・・事・・・補也 ・・・ 件、貞治五年十月十六日  基氏 花押  上椙×部少輔殿」と書いてある。解説によると「六浦本郷の支配を認めた文書」だそう。そのまんま、現在の横浜市金沢区六浦付近の土地の支配を認められたのだ。よーく見ると今日使用される「上杉」の文字ではないのだ。「椙」である。名古屋に「椙山学園」という学校があるが、同じ「椙」を用いている。椙山を私は「しょうざん」と読んでいたが、実際は「すぎやま」と読むのだ・・・・。
 文書の宛先の「×部少輔」は当時の上杉家の人物の官位だったのだ。だから、現在に至るまで(旧米沢藩主)上杉家に保管されていたのだ。
 ガラスケース内の壁面には「足利尊氏公家譜」の展示がある。江戸時代のもので尊氏や江戸時代の喜連川家の当主、喜連川尊信までの花押の写しを記載した文書である。歴代の足利家の人物の名前の横に花押の見本が記載されている。

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
    「実際に展示されていた文書」の画像もある。

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 展示の第2章に。第1章が国宝の展示もあって導入部の展示ではあるが、実はメインである。
 「鎌倉公方と禅宗寺院」 を見ていく。
 瑞泉寺所蔵の夢窓疎石の座った姿の木像の展示がある。重要文化財指定で、4尺はあろうかという大きな像であった。足利基氏らの小さい木造とは違う。同じく瑞泉寺所蔵で
 夢窓疎石はいうまでも無く、京都 天龍寺の開基として知られるし、基氏の父、尊氏と深い関係にあった僧だ。その縁で展示されているのでしょう。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 夢窓疎石の木像の画像の掲載がある。

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↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。

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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞2

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞2
 

 常設展示(平常展示)から見ていく。平日なのですいている。私以外、展示室内には主婦らしき40歳くらいの私服の女性がひとり見ているだけ。展示室内はシンとしていて静かだ。
 平常展示スペースの端、受付の部屋の裏手には 重要文化財指定の 「木造須弥壇 建長寺所蔵」が展示してある。こちらも以前来た時から展示してあった。昔は仏像を安置していたのだろう。室内の中央にある受付の部屋には係員の女性(2人ともに60歳前後かな)が二人いるようだ。小窓がついているので室内の様子がうしろから.判る。室内の看視カメラのモニターが受付のカウンターの手元にあるようだ。よって、私ら見学者の様子がまる判りなのであろう・・・。展示室内があまりにシンとしているので受付の女性2人の話し声というか、何か雑談をしているな、というかすかな声というか声の振動が俺の耳にまで聞こえてくるのだ・・・・。何か気になるなあ~。黙っていることは出来ないのかな??、と思いつつ順番に見学する。平日のすいているときは、話声の気配まで聞こえてくる、伝わってくるので、静かにしていてくれよ・・・!。鎌倉国宝館の受付のおばちゃんは(苦笑)。
 
 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。足利基氏の坐像と絵画が掲載されている。

 特別展の 第1章「足利基氏とその一族」
 基氏の木造の坐像が最初の展示作品であった。鎌倉 瑞泉寺の所蔵。ただし、瑞泉寺がどこにあるかは、知りません・・・・・・し、行ったとこは無い(苦笑)。1尺くらいの小ぶりな像だ。パンフレツトにも画像が掲載されているが、白いお顔が目立つ。お公家様の姿で正装して白粉(おしろい)を塗ったのかな。

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 基氏の木像、肖像画の展示がある。展示リストには「伝足利基氏像」とある。続いてかけ軸のようになっている肖像の展示がある。展示リストには「伝足利基氏像」とある。解説には「基氏は28歳で没したのであるが、年をとった姿である・・・」というような文章が書いてあった。制作は江戸時代となっているし、「伝」の肖像なので基氏と確証はないのであろう。作者は基氏ということにして、テキトーに描いたと思う。「昔の武将だから、年をとっているだろう。こんな感じかな~。ヒゲを入れて・・・」と。ホントだとしたら、マジ、テキトーだなぁ(苦笑)。
 そうか、基氏はわずか28歳の若さで没したのか。ところで「足利基氏って誰?。」すっかり忘れていたぞ。室町幕府に「鎌倉府」と「鎌倉公方」が置かれたことは覚えているが、公方様の名前までは覚えていない・・・。基氏は、二代目くらいの鎌倉公方かな、つまり尊氏の甥・・、程度に軽く考えていた。ということは「初代 鎌倉公方は尊氏の弟(直義か直義とは別の弟がいて・・・。)」と誤解していたのだ。オレは・・・・(苦笑)。
 展示室内の解説にも「足利基氏は、尊氏の四男?で・・・。」と何男だかは忘れたが尊氏の子であると書いてあった。
 兄の足利義詮の坐像もあった。小さい木造だ。解説には「2代将軍の義詮は、基氏の同母兄で・・・。」と書いてある。よって、同じ母の兄弟なので親しかったと推定される。父尊氏と叔父直義はのちに仲たがいしたと思うが・・・。

 父、尊氏の坐像もあった。栃木県喜連川のお寺の所蔵。さくら市指定の文化財となっている。今回の特別展で貸与展示されている。鎌倉公方 足利氏の末裔は、江戸時代に喜連川の領主として存続したので、ゆかりの品が喜連川(平成の合併以後はさくら市)に伝わっているのだ。
 ガラスケース内の壁面には重要文化財指定「足利尊氏願文」の展示がある。軸装されている。描け軸のように表装されていたと思う。あの「常磐山文庫」の所蔵だ。同文庫の所蔵する国宝の書跡2点は京都にて、残りの1点を鑑賞コンプリートしたのが、ついこの前のこと(笑)。
 書いてある文字はよく分からないが、なにかを祈願しているというよりも手紙のような感じ。末尾に「八月一九日」の日付と花押がある。「尊氏」の字も判る。

 展示を見ていくと3番目の木像の展示として「足利氏満」の木像もある。同じく鎌倉の瑞泉寺の所蔵。解説によると氏満は「基氏の子で、9歳で基氏のあとをついで鎌倉公方となった・・・。」とある。28歳で没したときに子の氏満は9歳。満でいうと7歳かな。二代目にしていきなり、幼君。大変だなあ・・・。よくよく考えると「満」の字は、足利本家の将軍 義満の片諱を拝領している。(考えなくても、義満から貰っていることは容易に推定できるが。)
 
 続いて国宝「上杉家文書」の展示があった。傍らには重要文化財の「上杉重房像」が展示してある。平常展示に以前はずっと展示されていた筈だ。歴史資料集にも写真が掲載されることのある有名な木造だ。今回は「上杉関連」で特別展のスペースに移動していました(笑)。
 上杉家は、足利尊氏の母の実家であり、関東管領として鎌倉公方を補佐したそうだ。関東管領というと関東地方のトップという感じがするが、鎌倉公方様の家臣ということでしょうか。

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
   重要文化財「上杉重房坐像」の画像もある。

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  その後「鎌倉公方関連」では、京のみやこの足利将軍とも含めて、関東でも結構戦乱とかありましたよね~、鎌倉から別のところに公方が移ったり・・・、と見学しながら軽く考えて流すオレ・・・・・。
 ガラスケースの下側に展示されている国宝「上杉家文書」を読む。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 氏満の木像の画像の掲載がある。「基氏像」と似ている。親子だから似せて制作したのかな。

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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞1

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞1
 

  今年6月以来の鎌倉国宝館だ。
 11月の平日に訪問した。関西方面に出かけたついでに三連休を挟んで平日も含んで休暇を取得した。今年最後の「三連休」だからね(笑)。 

 先の鎌倉国宝館の展覧会鑑賞においては、例年6月頃に展示されることが恒例の常盤山文庫所蔵の墨跡2点がまさかの展示無し・・・・(笑)。すっこけた感満載だったな(苦笑)。
 うち1点は、昨年の6月東京国立博物館で開催された特別展「茶の湯」で鑑賞した。「後日、鎌倉国宝館で再合会だよね。」とあまり詳しく見ないで、通り過ぎながら簡単に見ただけたった。なのに「約束通り」その同じ月に鎌倉国宝館に行ったが、なんと国宝の展示は2点の墨跡ともに無かったのだ・・・・。同館の展示リストやポスターでは国宝展示は掲載されていないのに、事前(平成29年度が始まった直後くらいに??)に掲載された展示品リストのみ信用して最新情報を確認して行かなかった俺が悪いんだけどね
 東京国立博物館で貸し出し展示したので、今年は鎌倉国宝館で展示しないのは、解かる筈なんだけどね。「察して」いなかったよ。しかし、今回11月に鑑賞した京都国立博物館で開催の特別展「国宝」では常盤山文庫所蔵の墨跡2点うち1点が展示されていたのだ。たった1週間限定で。しかも、私が特別展「茶の湯」見ていなかったものが展示されていた。
 ようやく常盤山文庫所蔵の墨跡2点を鑑賞することが出来たのだ。「鎌倉の恨みを京都で晴らしたぞ!。」という訳で勇躍、鎌倉国宝館にやって来た。(何言ってんだか・・・・。)

 しかしながら、自宅から簡単に行ける場所(鎌倉)でお目当ての国宝文化財を見ることができなくて、遠く400キロ離れた京都でやっと鑑賞できたとは、皮肉というのかな・・・・。あー、疲れたよ(苦笑)。でもアホだな、俺は・・・。

 鎌倉国宝館の入口と特別展の懸垂幕。 ↓


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 高床式の国宝館の階段を昇る。以前来た時に感じたのだか、結構急な勾配だ。特に前回は梅雨の時期、雨の降る中の訪問だったので、滑らないか気になった。昭和戦前期の建物なので、バリアーフリーかは確認していません。同館のウェブサイトによると「受付に声をかけてください。」と書いてある。

 平日なのですいている。受付で入館券を購入。600円。静かに展示室に入る。常設展示(平常展示)から見ていく。平常展示スペースの中央、須弥壇には同じく「薬師三尊」が安置されている。中央の薬師如来??立像は大きいが、両脇の二体は小さい。
 仏像の顔からして、丸い顔なのであるし、後背に丸い輪を背負っているので地蔵菩薩像と勘違いしてしまうが、薬師様なのである。周囲には、十二神将の像が四角い長方形の壇の周りを囲んでいる。
 
 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットに
   平常展示の様子の写真があった。中央に薬師三尊の立像。

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 入口をはいって、並びに展示されている仏像は変更があったような。彩色されている「木造 弁才天坐像」鶴岡八幡宮蔵は、以前別の場所に展示されていたような。勘違いかな・・・。水色の鮮やかな彩色の衣が印象的だ。
琵琶は、外して展示されている。木造の傍らには琵琶をを持った姿の同坐像の写真があった。
 展示室の奥、平壇の上の展示も(以前来た時と比較して)内容が変わっていたような・・・。
 「上杉氏坐像」は、無くなり別の像の展示がある。
 それらの像の中に「木造 明庵栄西坐像」寿福寺所蔵の展示があった。く彩色されている感じの坐像。別の栄西の像と顔かたちが酷似している。臨済宗の開祖、栄西の姿を映した像に違いない。栄西は確かにこのようなお姿と顔だったのだ。現代までその姿が伝わってくる。82歳から83歳頃の姿を彫ったそうだ。解説文には「栄西」と書いて「ようさい」とふりがなをふってある。「えいさい」ではなく「ようさい」の読み方は定着しているのだ。

 続いて特別展のスペースに移動する。

(参考画像)
 ↓ 鎌倉国宝館に向かう途中の鶴岡八幡宮の敷地内。向かて、右奥が国宝館の方向。
  平日なので人は少ないが、遠足の生徒も結構いた。平日の鎌倉は「遠足需要」もありますね。ボクも中学生のときも小学生のときも遠足で鎌倉散策をしたことがあります。


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愛知芸術文化センター展望室 展望と「長沢芦雪展」 鑑賞4(最終)

 2017年10月8日 愛知県美術館「長沢芦雪展」 鑑賞4(最終)と
             愛知芸術文化センター展望室展望台 眺望 夕景

 名古屋・栄にある愛知芸術文化センター内10階の高層フロアにある愛知県美術館の「長沢芦雪展」を鑑賞した。
 鑑賞していると17時30分、閉館の30分前になった。「閉館の30分前です。6時に閉館します。・・・時間までごゆっくりお楽しみください・・・。」と館内アナウンスが静寂な展示室内に流れた。16時20分頃に来たから、1時間あまり鑑賞していた。展示リストによると、展示数は80数点くらいだったので、あまり多くないかな、時間はかからないかなと思っていたが、今回の芦雪展は「展示替え」がほとんど無い。よって、展示リストほとんどすべてを鑑賞するので、存外時間がかかった。
 この日は、別の場所に宿泊するので、移動時間を考慮に入れて、結構駈け足で見たつもりだったが、見応えがあり、かなり時間がかかった。最後の展示室は、本当に急ぎ足で見ることになってしまった。

 芦雪の作品としては、展示の最後に「物凄い小さい絵」の展示があった。パネルに引っかけて展示してあるような・・・展示手法。「方寸五百羅漢図」。
 本当にこれは芦雪の作品なのかな?、と思った。音声ガイドの最後に解説があった。「遊びごころ」の絵らしい。
 五百羅漢とたくさんの人が・・・。「1寸」の大きさで、タテヨコそれぞれ3センチ余り・・・・。カラフルで、細密に人物が描かれている。「五百羅漢図」なので本当に500人もの人が描かれているそう。私が見るところ500人いるとはとても見えないが・・・。
 この作品2010年に再発見され、直近のMIHOミュージアムでの芦雪展でも展示された作品とのこと。

 ↓ 長沢芦雪展チラシの拡大。

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 芦雪は、この作品を描いた翌年、46歳で急死したそうだ。いわば絶筆になった作品。
 芦雪の個人の生活としては、直前に子供も失っているそうだ。当時は、飢饉の時代・・・・、命をつなぐことが困難な時代であった。現代とはくらべものにはならない、生きることに厳しい時代、生活環境であった。
 乳児が育つことの難しい時代、子を失うことが多い時代だったとはいえ、子を失う親の悲嘆、悲劇は今も昔も変わっていない。
 
 鑑賞は17時40分くらいまでかかった。特別展の愛知県美術館所蔵品の展示室も隣にあった。特別券とは別の半券が入場券についているので、入室時には必要になるらしい。しかし、ツレを待たせているので、退出することにした。
 展示室を出ると、撮影可能な黒いパネルが置いてあった。(写真は既出。)老年の男女二人連れが楽しそうにお互いをパネルで撮影をしている。
 と、入館時には気付かなかったが、10階のフロアは美術館のエリアの外に広いロビーがあり、大きな長いソファも置いてある。ツレとは「1階」で待ち合わせをしている。「なんだ10階で(待ち合わせ)もよかったな・・・。」と思ったから、ロビーの周囲はガラス張りになっていて、外の景色、名古屋のビル群が見えることに気付いた。

 ↓ 展望台のようになっているので、10階からワンフロア上に階段を駆け上る。
  展望台は11階にある。
 

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 展望台のガラス窓に近づいてみると、先程通ったテレビ塔や公園通りではなくて「久屋大通り」や名古屋駅近くの高層ビルが見える。日没直後の夕景である。10月に入り、日没時刻も随分と早くなった。神奈川と名古屋で比較すると日没時刻は15分-20分くらい違うのかな?。
 名古屋名物「テレビ塔」と写真の左奥は名古屋駅近くの高層ビル。新幹線の窓から見上げると駅近くのあのビルが物凄く高く感じるが、遠くの高いところから(つまりココ、展望台)見ると、あまり高く感じないのは何故でしょう!?。

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 栄の繁華街と「錦通り」。久屋大通りとの交差点付近が「栄」の中心地かな。名古屋の通りも随分と覚えた。
車で行くと名古屋駅にでるには「桜通り」をまっすぐ行く必要があり、「錦通り」では無い。しかし、名古屋の地下鉄で一番メジャーに路線の東山からの地下鉄(東山線)は「錦通り」の下を通っている。ちよっとややこしい。
 朝は、車で写真でいうと手前から右奥へ走行した。

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 拡大。濃尾平野を囲む、遠くの山地を撮影したつもりだったが、写っていない・・・。
 某デパートのネオンが拡大されるような感じになってしまった(笑)。

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 入館するときに傍らを通った、楕円形の場所。地下街の入口か公園に隣接したイベントスペースか。
 ↓ 楕円形のモニュメント。半地下構造でお店などテナントが入居しているように見えた。
  公園に浮いている船のようだ。公園自体、まだ造成されて間もないようだし、栄の再開発のモニュメントと講演なのかな、と思った。

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 ↓ 10階なのに庭園がある。
  10階の部分が中庭になっていて、庭に面しておしゃれな感じのレストランがあった。

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  ↓ 11階の展望台から見た、10階。
 入館するときに乗って来たエレベータがある。吹き抜けなって、オブジェがある。
 写真左奥のカウンターが愛知県美術館のチケット売り場。

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 おおー、10階から見た吹き抜け。7階から上が吹き抜けになっているのかな?。

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 「1階」で待ち合わせをしているので、急いでエレベータに乗った。これがクセものだった・・・・。
 しかし入館時に私がNHKのビルを横目に見ながら、ゆるやかな公園の丘を登って入った入口は実際には「2階」なのであったでござーる・・・・・。「1階」ではなかったのであーる・・・・。
 私は「1階」でエレベータを降りた。果たして「1階」にツレはいた・・・・。が先程入館してエレベータに乗ったフロアではないのだ。半地下のような構造で、出入りする人がほとんどいない、外には車寄席があるフロアだ。「あれ、おかしいな。」と感じた。

 待ち合わせしていたツレは、私の顔を見るなり言った。「ちげーだろ!!、どうせ勘違いしていると思ったよ!!。さっき入ったのは2階なんだよ!!。自分で1階と言っただろー!!、(あたしは)ちゃんと来たけどよー。1階はここで、さっきのは2階なんだよ!!。ちゃんとわかって言ってたのかよ!!??、ああー!?。オメーはよ!!!。」と罵声を浴びせられたのであった。

 ↓ 入館前に撮影。 楕円形の屋根の下。半地下のスペースがありイベントをしていた。
   芸術文化センターに向かって緩やかな斜面になっていて公園からだと「2階」から入館するのだ。
   分かりにくい。何なの?、ナゴヤの施設・・・・・・・納得いかない・・・・。何でやねん!?(と関西弁)。

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 ここの地下に栄のバスターミナルがあるそうだ。地下鉄の栄駅ともつながっているそう。愛知芸術文化センターにも地下通路から入れるそうだ。美術館に興味が無いツレは、この周辺をプラプラして地下にテナントで入っていた喫茶店で休んでいたそうだ
 
↓ 入館前に撮影。名古屋名物「テレビ塔」と秋晴れの空。
  地下へ降りる階段は、バスターミナルと地下鉄駅への入口なのですね。

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  さて、近くのコインPに移動し、出庫する。名古屋を去り、本日の宿泊地に移動することにした。「錦通り」を通行、南に曲がり、名古屋高速のランプへ。そのまま、東名阪、新名神と夕日を追うように西下した。
 反対車線、名古屋方面の上り線は渋滞であった。


「長沢芦雪展」 鑑賞3 愛知県美術館

 2017年10月8日 名古屋市 愛知県美術館 「長沢芦雪展」 鑑賞3

 愛知県美術館で開催中の「長沢芦雪展」を鑑賞した。

 第2章「大海を得た魚 : 南紀で腕を揮う。」
 解説によると天明6年(西暦1786年)10月頃、当時33歳の芦雪は師匠の応挙の作品を携えて、紀伊の国の南部に滞在した。約4か月間滞在し、臨済宗の無量寺、真言宗の高山寺な度に作品を描いた。
 南紀の旅行は、応挙が注文を受けた作品の納品のためだったそう。応挙も信頼できる弟子の芦雪に任せたそうだ。納品で訪れ、弟子が現地で作品を制作したということか。
 天明といえば、「天明の飢饉」が想い浮かぶ。食糧難の危機の時代に南紀から注文があったということは、生活に余裕がある豊かな地域ではなかったのではないか?。気候が温暖で果実などが実り、海産物が獲れたので南紀は豊かな地域だったのではないかな。
 京のみやこにも、飢饉の様子は伝わって来た筈。現在のように、車や特急列車で簡単に南紀に行くことが出来る現代とは全く違う。お店に行けば簡単に食材が手に入る現在とは隔世であったろう。
 重要な注文だからこそ、応挙は信頼できる弟子を南紀に派遣したのではないか。その結果、貴重な文化財が現代に伝わった。
 
 ↓ パンフレットの拡大。 
 無量寺の本堂、仏壇の間「室中の間」の向かって右の「龍図襖」、「虎」と対になっている。

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  本堂の仏壇は簡素だ。禅宗の仏壇はシンプルで本尊も小さい。臨済宗なので禅宗の本堂の様子をよくあらわしているのではないか?。
 重要文化財指定の「虎」と「龍」の襖絵がこの展覧会の展示のメインだ。しかし、この襖絵の裏側の部屋の襖絵の説明を聞くと興味深い。無量寺の襖絵として重要文化財に一括して指定されている。ちゃんと、裏面の虎と龍、それぞれ意味のある絵を描いている。室中の間の隣には、「薔薇に鶏・猫図襖」が描かれている。水面の中の魚を狙う、猫の絵。薔薇の花を描いているのも斬新的。「魚」は芦雪が落款のハンコにも使用しているし。
 説明によると「虎の襖絵」の裏面に「猫」の絵が描いてあるそうだ。表と裏を行ったり来たりしたが、確かに表裏になっている。ともにネコ科の動物を描いている。昔の人はちゃんとわかっていたのだ。芦雪をはじめ当時の人が実際に虎を見たことがあるのかは、私は知らない。
 

 第3章にも展示は続く。そして、第4章と展示が続いている。展示作品数は結構多いので鑑賞に時間がかかる。
 犬の絵も多い。犬の絵はユーモアに富んだ描写だ。若沖に似ている犬の描き方だ。
 若沖展では「百犬図」は見なかったが、若沖の百犬図に描かれている犬ととてもよく似ていると思う。
 それとも、犬の描写は芦雪自身の師匠の応挙の作風と似ているのかな。若沖と応挙は当時交流があったのかは、忘れた・・・。

 ↓ パンフレットの拡大

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 第5章の展示室。
  ↓ 大きな牛と象の屏風絵があった。 (パンフレットの拡大) 
   黒い牛は実にリアルに表現している。

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 若沖のコレクションで知られるジョー・アンド・エツコ プライスコレクションの所蔵。
 白い象は恐らく想像で描いたのだろう。若沖の作風と似ていると感じた。サントリー美術館で見た若沖の「象の屏風絵」に酷似している、とかんじるのは私だけかな。


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↑ パンフレットの下に写真の掲載があるが
 
 重要文化財指定「群猿図屏風」は、無量寺の重要文化財指定の襖絵と同じく「第2章」に展示があった。
山のピークの上にのっかった白い猿の表情が印象的。深山幽谷にたたずむ猿を表現しているのかな?。
左の屏風には、白い猿を振り返る数匹の猿の姿が描かれていた。

 第4章には重要美術品指定として「蓬莱山図」の展示があった。南紀に伝わる蓬莱山伝説に基づいて描いたのだろう。西暦でいうと1794年の作品なので南紀滞在よりも年数がたったとくのもの。彩色されていて、カラフルな松を描いて伝説上の蓬莱山を表現していた。





「長沢芦雪展」 鑑賞2 愛知県美術館

 2017年10月8日 名古屋市 愛知県美術館 「長沢芦雪展」 鑑賞2

 名古屋の繁華街、栄にある愛知芸術文化センター10階のフロアにある愛知県美術館。


 会場内に入ると結構見学者がいる。最初は大きな長方形の展示部屋で、室内には40-50人くらいはいるのではないか。学生くらいの若い人も多い。
 
 展示は、長沢芦雪の紹介から。展覧会では「長」と「芦」は現代字体で表記している。よって、この記事では展覧会の「公式表示」にならって現代漢字で表記する。本当は「澤」と「蘆」かな?。
 実は私も芦雪は「江戸時代中期~後期にかけて人物」という以外はあまり知らなかった。若沖と同じ時代を生きた人であった。若沖よりも30歳以上も年下なのに、若沖よりも1年ではあるが早く、40歳台で死亡している。いかに若沖が長生きしたかが分かる。
 2年前にサントリー美術館で「与謝蕪村と若沖は同じ年である」というテーマで展覧会があった。この展覧会でも当時の人間関係に注目していた。
 芦雪は応挙の弟子であったことを知った。だから、南紀に「応挙・芦雪記念館」が現在あるのだと(やっと)知ったのだった。

 ↓ 展示リストに居住地の解説地図があった。
   展示室内の解説と同じだったと記憶する。

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 「蕪村と若沖展」では「(蕪村と若沖の)二人を直接むすぴつける資料は残されていない。」と解説されていた。二人は知人ではあったと推測されるが、実際に交流があったことを示す資料は無いのだった。今展覧会の展示リストでは「蕪村と応挙は仲良しでした・・・。」と解説あるし・・・・。蕪村と若沖の関係は不明だが、「蕪村と応挙」は交流があった。「応挙の弟子が芦雪」である。ん~、複雑に交友関係が絡み合うので、「人物相関図」が必要だなぁ(笑)。

 第1章 氷中の魚 応挙門下に龍の片りんを現す
 最初の展示として「芦雪の肖像画」の展示があった。彩色画である。作者は「芦鳳」で弟子で芦雪の養子となった人の子と音声ガイドで説明がある。芦鳳は、生前の芦雪と会ったことはないそうだ。父から、その養父の風貌を聞きながら描いたのだろう。

 ↓ 「長沢芦雪展」ウェブサイトの画面の白黒印刷。 「関羽図」などの掲載がある。
  「関羽図」の展示があり、近くの展示としては、鶴を数羽(鶴は「羽」と数えるのか知らないが)描いた「群鶴図」やヘビを描いた「蛇図」、竹にカエルを描いた「若竹に蛙図」があった。いずれも墨で表現した作品だった(と記憶する)が、関羽図は薄い彩色があった。「降雪狗児図」も着色があるかわいい犬の絵だった。「関羽図」と逸翁美術館蔵の「降雪狗児図」は、初公開の作品という。直前に展示が決まったのか?、音声ガイドには解説が無い。初期の作品だそうだ。


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 順番に作品を見ていく。
 師の応挙の作品との比較展示があった。「牡丹孔雀図」、絹本着色の鮮やかな牡丹の花と孔雀の画。応挙にならいつつも、動物の孔雀を芦雪独自の視点でとらえている。応挙作品にはあの丁寧な筆跡で「応挙」と旧字体で署名している。春画にも同じ署名があるし、几帳面な応挙の性格を現している。
 更に着色の「牛図」や犬を描いた絵などが展示されている。
 芦雪の落款は「魚」と朱肉をつけて作品の左に押してある。自らを「氷の中の魚」と読んだので「魚」の落款印鑑を作成したのでしょう。

 次は第2章の展示室だ。
 南紀、和歌山 串本の無量寺の本堂の展示が再現されている。

 ↓ ポスターの一部抜粋。本尊に向かって、手前から左手に「虎」の襖絵がある。
 
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 芦雪といえば「虎」の絵なのだなと改めて思う。館外、会場内に掲示されている展覧会のポスターも「虎図」を前面に出しているし。

(参考画像)
 「1階」のエレベータ乗り場付近の柱にあった、芦雪展のポスター。ポスターは「虎」の画の写真ばかりである。「虎づくし」かな。
 

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 (実は私が1階と思って入ったフロアは、実は「2階」だった。だから上の写真は「愛知芸術文化センター2階」の柱に貼ってあったポスターというのが解説が正しい。)

↓ 10階の撮影可能場所にあったパネル。「虎図襖」の拡大。

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「長沢芦雪展」 鑑賞1 愛知県美術館

 2017年10月8日 名古屋市 愛知県美術館 「長沢芦雪展」 鑑賞1

 名古屋の繁華街は、栄である。地下鉄が交差する駅があり、テレビ塔で有名だ。私が一番最近で名古屋のテレビ塔を見たのは、数年前のことだった。それまで名古屋を新幹線で通過することは何回もあったが、名古屋で降りて、どこかに行くということは皆無であった。名古屋は産業都市だからね。子供の頃に観光に1回だけ新幹線で降りたことや、新幹線を乗り換えるのに名古屋駅のホームで待機したことがあったくらい。その唯一の観光ときに、名古屋のテレビ塔を見たかは、全く覚えていない・・・・。
 
 今回は車で来た。この日の朝、名古屋駅前の著名な喫茶店に行くため、車で栄を通過した。と、「愛知芸術文化センター」の前をたまたま通った。「ああ、ここの中に愛知県美術館があるのだな。」と理解した。内部は劇場のみと勘違いしてしまうそうだ・・・・。
 名古屋駅へ東西に伸びる通りは「錦通り」。まだ名古屋の通りを理解していないのだが、桜通りと混同してしまうがち。錦通りの南には「広小路」もあるので、位置関係を覚えないといけない。
 有名な100メートル道路は南北に伸びていて、テレビ塔のある公園があるのだが「久屋大通り」というらしい。読み方は「ひさや」というが、最初「くや」かな、とも思っていた。
 一番の繁華街はどこかというと、南北の久屋大通りと東西の錦通りが交差するところ、と理解している。地下鉄の栄駅があるのだが、その近くにあるのが愛知芸術文化センター。
 
 徳川園ショップ「葵」を見て、徳川美術館を鑑賞した後は、名古屋城に比較的近い、洋館などを見た。その後、ナゴヤメシで昼食は食べずに、全国チェーンのファミレスで食事(笑)。
 期間のある展覧会の記事を優先して書くため、洋館めぐりの記事は、後日投稿する。(ただし、いつになることやら・・・。)

 栄のコインパークに車を停め、テレビ塔を見上げながら、愛知県美術館へ歩く。先程見た愛知芸術文化センターの建物を目指す。
   
↓ 西側(大通りの公園側)から見た建物。こんもりした丘の上にある。というか、人工の庭園である。
 左の建物はNHKの入っているビルだ。立派な建物だ。
 写真には写っていないが、楕円形の屋根のある半地下のスペースではイベントを開催していた。人で賑わっている。
 

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 建物に近づくと、愛知芸術文化センターの前に「長沢芦雪展」のポスターがあった。
 愛知県美術館の場所はここであった。大きな看板表示が無いので、分かりにくい。
 
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 館内に入る。エレベータに乗る。館内はガラス張りの美しい建築。斬新なデザインだ。グーンとエレベータは上の階へ。10階で降りる。10階のフロアは広い。エントランスも広々としている。エレベータを降り、廊下を少し進むと正面にチケット売り場がある。購入して会場に入る。会場入口には、ポスターにもあった「虎の水墨画」の看板が設置されている。
 「1階」のエントランス付近では、人はちらほらだったが、いざ10階の会場内に入ると結構な数の見学者がいる。最初は大きな奥に長い展示部屋であったが室内にはざっと見たところ40-50人くらいはいるのではないか。学生くらいの若い人も多い。
 音声ガイドを借りて、鑑賞開始だ。今回の「長沢芦雪展」は名古屋での開催のみ。和歌山県 串本の無量寺「応挙・芦雪 記念館」所蔵の作品が展示される。
 ここ名古屋から串本までは車で5時間では着かないであろう・・・・。近年は、某有力政治家(幹事長経験者!?。)の影響なのかは分からないが、自動車専用道路が順次整備された。以前、伊勢から、那智勝浦まで車で3時間と少しだった。勝浦から串本までは更に距離があるし。
 南紀・串本に「応挙・芦雪」の作品が多数あり記念展示施設に所蔵されていることは、元々知っていた。(ガイドブックにも書いてあるし。)串本に一番最近で私が行ったのは、2011年の3月、あの震災の直後であった。元々、宿泊の予約は震災の前には行っていたのだ。ガソリンの確保が難しい中で出発したことを覚えている。
 日程の関係もあったので、串本と橋でつながっている大島の「エルトゥール号記念館」は見学したが、本土にある「応挙・芦雪記念館」は行かなかった。よって、今回は良い機会なので鑑賞するため愛知県美術館にやって来たのだった。
 
 
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 ↑ 既出。徳川美術館の入場券と「芦雪展」の入場券と「金のカステラ」。



史跡 林氏墓地 一般公開 東京文化財ウィーク 見学2

 2016年11月5日 土曜日

史跡 林氏墓地 一般公開 東京文化財ウィーク

の中に入る。最初の交差点で、停まる。どこかな、とみると、人が出入り
している壁が。あれだとわかった。 古いコンクリの壁に囲まれている。「林氏墓地」公開と紙がはっている。わかりくい立地。

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5時を過ぎたので、門の扉を半分占めた。テントを張っている。墓の端には、スチールの物置を置き、清掃などの資材を置いているらしい。
その壁の向こうには、普通の住宅が迫っている。

南には「11代の夫人」のように妻や子の墓が林立している。無造作に土に墓の石をおいてあるかんじ。
家族には゜「こちらには、なにをしたかを、大きな石に書いています」
2メートル以上ある石碑があり、文字が刻まれている。複数あり、業籍を残した当主については、設置しているよう。

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羅山の暮石の横には無かった。

時間も終了のようで少しばかり見て、退出した。一人一人事績などをみていら、かなり時間がかかる。
林氏の屋敷がここにうつったので改葬したそう。 よって羅山の墓が小さいと説明していたような。羅山の碑は無い。
説明文には、屋敷に一角に墓所をもうけ、維新後 住宅はなくなり、墓所のみ残ったそう。

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例のハカキももらった。
「鳥居要蔵」も林の出と説明文にあった。幕末の岩瀬も。日差しが西に傾いて来た。秋の日は短い。

近くの公園で荷物整理。と、墓所の前で、区役所か、軽ワゴンが停まった。「のぼり」「テント」「机、パイプイス」などの資材の片づけをしているようだ。
小学校の裏手、ゴム地の校庭。テニスコートになっている。更に歩くと 中学がある。女子が軟式テニスの練習
わしている。人数が少ないのかな。ボールをさわることが出来ないくらい部員がいるものだが。
史跡「林氏墓所」は普段は、先の 「新宿歴史博物館」が管理しているようだ。

。ハイツのような敷地がある。マンションになっている。監視カメラが多数設置されている。その先は旺文社と英検協会がある。


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その裏手の道を進む。

歩く。道を間違い、坂を下ると 絵大江戸線の駅のところに出た。



























 






史跡 林氏墓地 一般公開 見学1 東京文化財ウィーク

 2016年11月5日 土曜日 「史跡 林氏墓地」一般公開 東京文化財ウィーク


 「新宿歴史博物館」を見学した後、次の目的地に歩く。現在開催中の「2016 東京文化財ウィーク」の一般公開を見に行く。目的地は、 「史跡 林氏墓地」。

 ※本来このブロク゛では、期間が決まっている企画展、特別展などの記事を優先して投稿し、「年に一回」「年に二回」などの施設などの「一般公開」は後日に投降することにしている。しかし、今回は「2016 東京文化財ウィーク」の見学記ということで、特別にお先に投降することにします!!。
 (特別って思っているには、ボクだけですけどね(笑)。)

「東京文化財ウィーク」
超目玉な公開は無いというのが、私見。23区内、限定でいうと、興味の有無は個人差が大きいが、私としては

「前田邸」 「和敬塾 旧細川邸」が行けたかも。重文優先だと前田邸。が、前田邸は「和館」のみで洋館は工事中とのこと。明示学院もあったかな細川邸は、予約制で定員ありなので、困難だったかも。

根津神社は、平日のみ。公文書館では、宋版の文書の公開があったようだが、インパクトには欠ける。以前よりは、公開に力を入れたかな。


 さて、新宿歴史博物館から「林氏墓地」までの道のりを少々。
 (博物館近くの路上から)正面、ビルや家々の合間に防衛庁の巨大なアンテナを見ながら、坂を防衛庁の庁舎方向に下る。

 広い道路(曙橋付近の)を渡り、今度は防衛庁の巨大な庁舎を横目に見ながら坂を再び登る。と、途中には機動隊の看板がかかっていた。門前では、制服姿の女の子の警官が立っている。立哨というのか、警らというのか、立ち番というのかは、知らない・・・・。女性警察官は、まだ20歳くらいじゃないかな?。
 歩いて通過し、その先はに、防衛庁の門がある。付近の道路は、区画整理をまだ行っている。「まだ」というのは、昨年の2月に永青文庫に行く途中、車で通ったからだ。まだ工事は、完成していないようだ。
 更に歩いて、柳町から東へ交差点を曲がる。ここの地下には、大江戸線が通っていて、駅もある。歩道の脇には、交番がある。古い小さい交番だ。
 交番前を通過し、ゆるい坂道を登り、見当をつけて小学校の手前を住宅地の中に入る。最初の交差点で、停まる。どこかな、と見ると、人が出入りしている壁が分かった・・・。「あれだ」とわかった。古いコンクリの壁に囲まれている。「林氏墓地」公開と紙がはってある。目的地に到着した。
 現在は、住宅と低層のビルの立ち並ぶ地域であり、わかりくい立地だ。

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 新宿歴史博物館から20分以上歩いた。門の前には、公開時間が「10時-15時まで」と張り紙ある。現在1458だ・・・・。公開時間も終わりだ・・・・。急いで門の中に入る。
 門には「史跡」と書いている。告知にもある通りここ「林氏墓地」は、一年でたった三日間の公開だ。
 去る11/3(祝日)に公開があり、この土曜と明日(翌日の日曜)も公開がある。「東京文化財ウィーク」ののぼりも立っている。私にとっては、今年の。「東京文化財ウィーク」目玉の史跡公開地見学かな・・・。

 見学者が出入りしている。小学生の男の子をつれた夫婦がやってきていた。対してウチの場合、ウチの子は、「興味ない」と入ってこなかった・・・・。


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 墓地を囲む、古いコンクリートの壁に貼ってある手作りの告知。三日間の公開の日程案内がある。小学生くらいの子が手作りしたものであろう。
 連絡先は「新宿区立新宿歴史博物館」と書いている。普段は公開されていないので、管理は通常「新宿歴史博物館」が行っているのであろう。

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 門の中に入る。敷地は、思ったよりも狭い。門の内側には、テントが設置してあり資料を貰えた。資料や敷地の説明板によると土地の広さは110坪くらい。約330平方メートルと狭い。一般住宅としては、広い敷地なのだが。「史跡」としては狭く感じる・・・・。売買価格でいうと〇億〇千万円はするであろう、というのは余計な推測か・・・。
 墓地の隣は住宅になっている。北は道路に接しているが、東西南は、一般住宅に隣接している。
 ボランティアガイドの女性が、例の家族連れの男の子に声をかけて説明する。「これは、林羅山(はやしらざん)といって初代の人のお墓。・・・(大河)ドラマの真田丸って見てる?。と る徳川家康がでてくるので、その学問をつかさどる人、顧問だった。大阪の陣のきっかけとなった、方広寺の鐘の文章の解釈を・・・・豊臣家に不利なようにした人・・・・」というような説明だったと思う。
 そのような、初代羅山であるが、初代の墓碑は小さい。が、墓地の端、西を背にして、東を向いているので初代に敬意をはらっているよう。


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 ボランティアガイドの女性が説明を続ける「・・・林氏(りんし)の屋敷は、最初、神田の××にあったが、・・・・・・(中略)その後、ここに屋敷をもらった。谷中?にあった墓地を屋敷の敷地の中に移して、初代も含めて改葬をした。明治時代になって、屋敷は無くなり、住宅地になったが、墓地だけは残った・・・・。昔に比べるとだんだんと墓地の敷地も狭くなっていった・・・。」という内容の説明であった。

 ↓ 写真中央。初代羅山の墓碑。

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 更にボランティアガイドの女性は、男の子の家族に向けて「りんしは、七代で血が絶え、養子ををもらいました。  岩村藩 の松平氏から のりひらというひとが、八代のじっゅさい(述齋) として養子になりました。」と説明。
 「乗」は松平氏のある家の通し字だ。比較的、石高の小さい譜代の小大名から養子になっている。林氏は、大名では無い。よって、石高の小さい、家格の比較的近い譜代大名より養子をとったか。

 ※ 帰宅後、ネットで調べてみると「大給松平氏」から林氏に養子入りしている。岩村田、信濃のペンタゴンの城も「乗」の字のつく松平氏のお殿様が造ったはずだ。一族であろう。
























 






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新宿区立新宿歴史博物館 見学4 常設展示室

 2016年11月5日 土曜日
 

  「新宿歴史博物館」
 
 展示室は、地下にある。完全な地下室ではなく、半地下の石垣に囲まれた庭がある。中庭というべきだろうか。一階から階段を下りて地下へ。
 先に特別展を見学した後、常設展示室に入る。

 まず目に入って来るのは、内藤新宿の復元模型だ。
 室内は撮影禁止だ。しかし、模型など「撮影スポット」と表示のあるところだけ撮影が可能だ。

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 常設展示室は、長方形で、内藤新宿の模型から順路に従って進む形式。天井が高い。地下と一階の部屋も使用しているのではないかと思うくらいだ。入口近くには、原始時代の展示からしばまり、江戸時代の新宿の様子もある。入室して一番目立つには、上述のとおり、「内藤新宿の復元模型」。
 
 ついで、江戸時代の展示がある。
 ↓ 大きな商家の復元がある。土間にも入り、室内の展示も見ることが出来る。
  分厚い壁の土蔵造りだ。「耐火」が一番重要なのだ。


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 江戸時代の新宿の様子が参考になる。明治元年の西新宿の様子も絵図がある。見ると、信じられないことだが、本当にににににににに農村地帯だ。(あまりにびっくりするくらい農村地帯なので「に」を連打してしまった・・・・。)
 家の集まった小さい村があり、祠や寺がある。祠や寺は、現在でも高層ビルの谷間にのこっているそうだ。現在の新宿中央公園の傍らになどに。へ~、驚きです
 絵図に江戸の中心の遠景は書かれていない。現在の高層ビルが林立する風景とと比較すると驚く。戦後でも淀橋浄水場がなくなるまで、高層ビルはなかったからな~。この40~50年で劇的に新宿の風景は変わったのかな??。

 室内の写真撮影スポットは限られている。最初は内藤新宿の模型のところ。次いで、土蔵造りの商家のところにあった。

 展示室の奥は、作家や文学関連の展示がある。「夏目漱石が一番深いかかわりがある」と解説。そりゃ、漱石こと、金之助は、この近くの生まれなのであるから。私のかつての本籍地の番地(つまり、私の祖父や曾祖父の生家)からはやや距離があるが。
 常設展示は、次の予定があるので、軽く見て進む。近代の画家で、区内には佐伯や中村ツネのアトリエ記念館があり、無料公開されていることを改めて知った。山手線の外のエリアで、かつての淀橋区の区域だ。


 ↓ 電車の展示がある。
 新宿付近の電車の交通網の地図もある。地下鉄が発達する前の鉄道の乗り入れの様子も書いてある。

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 さすがに新宿繁華街の大規模再現模型は無い。都電やにぎわう新宿界隈の様子の解説展示はある。
 ↓ こちらは、昭和10年代の文化住宅の再現模型。

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 現在の日本の一般住宅の原型ではないか。父方の祖父は、結婚して世帯を持ったのが昭和10年代であった。(実際はに戦争が始まっていた時期だったのであるが。)次男坊だったので、結婚当初は牛込の家を出て別に家を借りたそうだ。ふと、こんな住宅に住んだのかな?と思ったので、模型を撮影してみた。祖父母ともに亡いので、今となっては知る由も無いが。

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 企画展示室よりも常設展示室の方が広かった。見学者はちらほせいる。室内には20人くらいはいたかな。
年配の男と一緒に常設展を出た。1人くらい中年のやせてスーツを来たノーモクタイの男性がいた。その他は60歳以上の年齢の男性が多いかな。家族連れ、子供の見学者はいるが、残念なことに少ない。
 (常設展示の最初にある)内藤新宿の模型の前で熱心にボランティアガイドに質問しては話を聞いていた人は、60歳-65歳くらいの男性だったし・・・。一組だけ年配と35歳くらいの女性がいた。親子かな。


 常設展示室の一番奥には、更に小部屋があり、玉川上水の「木の樋」や「木製の管」が展示してあった。半地下になっている。「ん、つまりこの半地下のところにかつての上水道が通っていたのかな?。だから、かつての木の水道管を展示しているのかな?」と思ったが、ちがうようだ・・・・。なお、この小部屋の撮影も禁止なので写真はない。


 え~、ウチの子は、(室外のロビーの)マッサージイスに座っていて、常設展示室には見学に来なかった・・・・・(愕然)
 半地下の中庭に出ることが出来るようになっている。電車の運転席の切り取ったものが、マッサージイスの近くに展示してあった。ウチの子は、この付近を見たのみ・・・・。


新宿歴史博物館 見学3 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)

 2016年11月5日 土曜日
 

 新宿区立「新宿歴史博物館」にやって来た。
 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)を見学する。


 保科氏は、転封(しかも、将軍家光の異母弟ということで、異例の大幅加増)されて高遠を去り、続いて内藤氏が領主となった。内藤氏の歴代の殿様のことについての展示が始まる。肖像画の展示ある当主もいる。系図には、「内藤氏は、養子相続が多かった」とある。お殿様は、別の家から来て、内藤の家を継いでいるのだ。

 内藤氏の初代は「清牧」。「清」が内藤氏の受け継がれる字と思ったが、ちがう。名前の字がのちにかわり、歴代の当主は「頼の」字をうけついている。
 「鳥つくし」という彩色画を遺している当主がある。上手い、画である。また、「だれだれに継がせる」という遺言もあったと思います。
 「狩野休真」の筆による黒鷹図の展示がある。時のお殿様と関係のあった絵師のもの??。そして、最後の当主は、明治になって死亡している。名前は「頼直」。
 だいたい、当主一人につき一点程度の展示品が、内藤氏の展示コーナーガラスケース内にある。


 参勤交代の図の展示も。行程は、中山道経由もある。意外にも甲州街道経由とは限らない。中山道は6泊と余分にかかる。甲州道は5泊6日。江戸時代の最初は、中山道経由だったそうだ。遠回りだけど、格式を重視したのかは、分からない。あくまで、行軍なので、時間をかけて、立派の将軍のおひざ元に馳せ参じる、という意味だったのかな??。
 参勤の経路としては、「杖突峠」の脇街道を通ることがあたよう。茅野から、白樺湖への山道かなと思いきや、諏訪湖にダイレクトに下る道であった。いつぞや、車で私も通ったことがある。例の国道「52号線」の道だ。いや、「酷道」かな(笑)。
 甲州街道の経路ではは、当然ではあるが、鶯木宿や台が原宿など、現代に生きる私も通ったことのあるところを経由している。つまり、現在の国道20号線「沿い」ですね(笑)。中山道の経路では「和田」と町の名がてでいる。和田峠、和田宿の道だ。
 高遠領主内藤家は、毎年六月に江戸に参府であり、五月末に高遠を発って、江戸の上屋敷に入ったそうだ。 国元に帰るときは、老中に申し出て、領地に戻るのが、五月末のことらしい。解説によると内藤氏は、高遠と江戸の間を84回参勤をしたそうだ。200年近い歳月をかけて、何代にも渡って往復したのだ。
 掲示されている高遠藩の年賦によると「領地150年の祭典」を実施している。高遠に転封されたのは西暦1689年のことで、150週年祭は西暦1840年?のこと。この時期は、飢饉のときではなかったか。お祝いをする余裕は藩にあったのかは、分からない・・・・。いや~、ちゃんと年数を数えていたのだ。西暦のような通しの年の数え方が無い中で、どうやってカウントしていたのか。年号を記録していたのか、60年周期の「戊戌」かな。昔の文書には、「年号」と「辛亥」など干支を数えているし。
 殿様の初めての入部の際に記述した文書の展示もある。初入部なので家臣も気合いを入れて準備して、お国入りを迎えた様子が文章になっている。また、「分限帳」といって、何の役目?に何人いて、用具は何で、何両かかったかのような帳面もある。


 特別展のもうひとつの部屋は、内藤屋敷の再現。壁に復元した絵を展示している。(特別展では、ふたつの部屋があった。)

 高遠藩(記述の通り、当時「藩」とは呼んでいなかったそうであるが。)の上屋敷の説明もある。順路の最初は上屋敷の解説。江戸の上屋敷にお殿様の一行が入る様子の再現絵が展示されている。今の靖国通りの神田神保町の付近が門になっている。屋敷内には、庭園と池もあり、屋敷の建物がある。隣には、戸田氏の屋敷がある。現在は、靖国通りがやや湾曲していて、スキー店や銀行などのあるところだ。
 内藤氏の屋敷は、現在の位置でいうと「丸亀うどんの店」や銀行の支店のある当りかな。三省堂の南や道路になっている所(すずらん通り)も屋敷だった。面積は、2500坪くらいで、あまり広くはない。
 
 展示室内の反対の壁が下屋敷の様子の展示。関連資料(小文書など)の展示もある。下屋敷が有名な現在の「新宿御苑」の大部分に相当する場所であることは、よく知られている。
 展示されている大きな絵によると、内藤氏下屋敷の屋敷地の南には、玉川水の分水が流れている。畑にもなっているのだ。高低差の表現が絵図にはないので分かりにくいが・・・。実際のところ、現在の上水の分水の付近は、ガケの下であったであろう。黄色い電車の総武線の車窓から、新宿御苑との境界が見えるし、ガケになっているので。つまり、現在の総武線の線路の下、御苑との敷地の境界に沿って上水が流れていたのではないかな??。
 (展示されている)絵図によると、現在の神宮外苑は街になっているが、実際の外苑は、青山地区で大名屋敷もあったのではないかな。
 上屋敷に比べると、下屋敷はかなり広い。
 下屋敷には、甲州街道から入るようになっている。城のほうに近い屋敷地の入口から入ると殿様の屋敷に。下屋敷地の中央にも門があり、その先は「隠居の屋敷」と説明がある。屋敷地の西は、なんと町屋となっていて、藩士の長屋や家だったもよう・・・。
 屋敷地の南は広々としていて馬場や畑になっている。現在の御苑内の庭園の池は、ほぼそのままの形で、表と奥向きの(殿様が普段使用するであろう)お屋敷が建っている。
 「百姓家も敷地内にある」と展示解説にはあった。農民も敷地内に住んでいたのだ。馬場は、敷地内にいくつかあり、馬を飼育している。馬小屋もある。
 展示を順に見ていく。展示の端には、「上屋敷の建物の絵図」もある。高遠で保管されているものであった。国元でも保管されていたのだ。「下屋敷の墨の絵図」もあるが、下屋敷の広い敷地内のだいたいのおおまかな図面で。が、馬場、池、畑なども記されていて、下屋敷の様子を現在に伝える貴重な資料だ。

 ↓ 常設展内の展示品。内藤新宿の模型。

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 屋敷の変遷に関する説明によると、内藤氏の江戸中屋敷として、もう一か所屋敷があった。(実際にはもっとあったかも知れないが。)上屋敷は、以前は別のことろで、その後は上述のとおり現在の神田小川町から神保町にかけての一角。下屋敷は、現在の新宿御苑で、江戸時代、ずっとそのままだったよう。


 あと、高遠ゆかりの人物として「江島」がある。高遠の「江島囲み屋敷」の案内パンフも置いてあった。私もかつて、「高遠の桜」を見に行った際に「江島囲み屋敷」を見学したことがある。


 地下の受付係の女性の横にいた青いジャンパーのメカネをかけた女性がこちらの学芸員?のようだ。時折、展示室内を行き来していた。

 ↓ 半地下の中庭から、地下展示室のロビー。
  館内は撮影禁止。地下のロビーは、広くてイスや資料を置いてあり、閲覧もできるし、休憩も出来る。
  マッサージ用?のイスも数基置いてあり、リラックス出来る??。実際、ウチの子は、そくさと展示室を出て、マッサージ用?のイスに深く座って、休憩していた(苦笑)。

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 半地下の中庭。地下一階の展示室外の廊下にも光が入るようになっている。
 石垣は、かつての江戸城の遺構??、かは、不明・・・・。

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 ↓ 博物館の入口にあった特別展などの告知看板とポスター。


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新宿歴史博物館 見学2 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)

 2016年11月5日 土曜日
 

 新宿区立「新宿歴史博物館」にやって来た。博物館、新しい感じの立派な建築である。
 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)を見学する。

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 展示室は、階段を下りて地下にあった。途中、階段の踊り場には、秀吉や大名、保科正之などの絵の写真の掲示がされている。地下は、半地下で掘り下げされていて、ガラス張りになっている。斬新な造りだ。
 
 特別展の展示室に入る。
 ↓半地下の庭から見たガラス張りの窓の階段。 

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 最初の展示は、1582年の「高遠の合戦」に関するものだった。信長の武田への侵攻がはじまったそうだ。武田勝頼の義弟の「木曽某」か何かの人が、織田氏側に寝返ったことが侵攻の契機だったそう。この戦いで、武田氏は滅亡した筈。その合戦の戦場に高遠城はなったということだった。

 高遠城は、戦国の山城が、その後「近世の城郭になった」と解説バネルにある。江戸時代の高遠の城の絵図の展示がある。武田24将の写真の複写などがあった。その中には、今ドラマでおなじみの「真田氏」の真田幸隆の姿と名もあった。
 勝頼の母の墓?も高遠にある。「勝頼は、当主となるまで 諏訪四郎といった。高遠が最初の城主だった。」とある。信玄の父「信虎は高遠で亡くなった。」と説明にある。父親の信虎を追放した信玄ではあるが、実は信玄よりも、父の方が、あとに死亡したことは、知られている。
 昔のドラマでも見たのだが、信玄よりも父親の方が一年くらい長生きしたのだ。信玄を父が「おい、晴信。起きよ。」とセリフを言うシーンがあったような・・・。とうに忘れたれど・・・・。
 「近年の資料によると勝頼は諏訪本家ではなく、分家を継いだようだ」とある。

 展示室は、何人か見学者がいる。 小学生の男の子を連れたおとうちゃんがやってきた。その親子は、私よりもあとに来て、さっさと見て、出て行ってしまった。あとは年配の男が多い。中年の男もいるが。

 高遠の領地の朱印状の展示が壁に沿ってある。いろいろな村が書かれている。都合 三万石のような書き方。末尾に「源朝臣家綱」の文字と朱印と「正之殿へ」のような書き方。
 領地の絵図もある。領地の石高、三万石のうち、山形村や隣の村も含まれていた。変遷しているので、途中領地になって、その後の時代は料領地ではなくなったようだ。 そば集落も江戸時代の初めの時期は、保科家領地だった。
 解説には「藩」という言葉は正式にはなく、「高遠領」と書いたとある。藩の名はどこにもない。領主の個人名と領地の村が書いてある。


 次いで保科家についての展示品がある。正之の肖像画の写真バネルの展示がある。正之は、将軍秀忠が正室とは別の女性に産ませた子(という表現だったと思う。)で第四子と説明がある。長男が別にいて(えーと、母親は誰だかな・・・(笑))、次男が「竹千代」、のちの「家光」、三男が「徳松」??、のちの忠長なのだろう。が、他の三人の子については、説明がない。ここは、「保科氏」の説明であるので、正之のみの説明。 
 正光と弟の正直のことについて説明などがある。展示によると正光は71歳で死亡し11歳の正之が保科を継いだ。その後、 山形、会津などに転封して、最終的に23万石に大幅加増になった。
 他方、(正光の)弟、正直は、現在の千葉県、下総の国の多古に利用地をもらい、17000石くらいの大名になった。正之のときは、「保科」氏であった。三代 正容(まさかた)以降は松平、以後保科の家名は多古藩主に引き継がれたと説明がある。 
 ここでの展示のどこかで当時「藩という公式名称は無かった。」と文章があったと思う。藩主ではなく、領主というのが正しいのかな。領地も高遠藩ではなく「高遠領」と説明があった。「ここより高遠領」という内容の、どこかで石碑を見たような 記憶がある。

 現在の千葉県の「多古」の領地は、高遠の後に、一旦もらった領地で、10年後に正光が再び戻るまで領主でいたので、全く保科氏と無縁ではなかった土地だった。
 のちに正光が、25000から3万石に加増したのは、正之の養育料の意味があったのではないかと推定していた。

 続いて展示を見ていく。「正之の墓地の写真」の展示がある。神式で、墓所は猪苗代にあった。会津の領地内に墓所を営んだのだ。林の斜面に、銅の筒のような形の墓所だった。対して、正直と正光は故地の高遠に墓所がある。


 短刀と「さや」の展示があった。刀身と鞘をわけて展示している。 短刀には銘がある。天目茶碗と朱色の模様の盆の展示が。正之の使用したものだっかは忘れた。

 展示されている「年賦のボード」で注目すべき記載内容があった。「正光は子が無いので最初、真田昌幸の子 左源太を養子とした。」とある。
 その後、見性院に養育されていた「正之」を養子として迎えたとある。養子として、左源太は17歳で死亡している。嫡子でなくなったよう。ドラマの「幸村」には登場するのだろうか??。つまり、幸村とは、兄弟ということになる。
 正光は遺言を遺している。「正之に相続させる」と。10歳から数歳上になる。が、昌幸と年齢があわないよな気持ちがするが。信之の子ではないかな・・・・。左源太の墓の写真も展示があった。伊那市のお寺にある。
 なんだか、かわいそう。左源太さんが・・・・・・・。


 次の領主、鳥居家に関する展示がある。しかし、何の展示があったかは忘れた・・・・。コーナーが小さいので、あまり展示がなかったような・・・・。

 ※あとで、ネットを見てみた。ネットでは、保科家の養子「左源太」は「左源次」と書いてあるようだが、この特別展の資料では「太」だった。











































 






新宿区立新宿歴史博物館「初訪問」 見学1 「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)

 2016年11月5日 土曜日

 「銀座熊本館」に地震の後、初めてやって来た。「銀座NAGANO」にも行った後、地下に下り、丸の内線の銀座駅から地下鉄に乗。所要時間11分で四谷三丁目に着いた。
 地上に出ると目の前に「消防博物館」があるのが見えた。銀座口には「警察博物館」もあるし「好対照」だ(笑)。

 四谷駅と反対の方へ歩く。が、道路を間違った。途中、夕方のニュースで紹介されたと看板が出ているお店の前を通ったそうだ。ラーメン店だそう。子どもは、以前見たことがあるそうだ。

 方向を間違い、先に行きすぎた。
 と「津の守坂」の道の歩道脇に「新宿歴史博物館」の標識がある。坂の名前の由来の説明板も設置されていた。「美濃高須藩の藩主 松平摂津守義行」の屋敷があったからだそうだ。つまり、御三家の尾張家の分家のお屋敷。御三家の分家の場合、領地の石高は低いが官位は意外に高い。従四位下左少将くらいの任官。外様では40万~50万石前後の細川家、黒田家、浅野家クラス。
 「津」のつく旧国は摂津が真っ先に思い浮かぶし、略して「津の守」坂だ。そのまんまだ。傾斜地に屋敷があったのだな~と率直な感想。この一帯、傾斜地やガケ上の台地平坦部も含めて摂津守の屋敷地だったと思うが・・・。

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 ↓ 博物館への路地。。「津の守坂」の横の狭い道を歩く。

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 細い道を通ると、博物館に出た。思ったよりも新しい建物だ。
 四谷三丁目駅から20分くらい歩いたかも。本当は10分とかからないと思うが・・・・。
 「新宿区立新宿歴史博物館」の存在を知らなかった。いや、知ってはいたが、あまり認知していなかったのかも・・・・(言い訳)。
 現在開催されている「信州高遠藩歴史と文化」(新宿区 伊那市友好提携10周年記念特別展)を見学するためだ。 10月に偶然、とある美術館に今回の特別展の割引券が置いてあったものを入手したのが、訪問したきっかけだ。
 高遠は二回ほど「高遠桜」を見に行ったことがある。高遠藩主内藤氏の下屋敷が現在の新宿御苑の敷地に相当することはよく知られていし、「内藤新宿」が現在の新宿の街に発展したことは知られている。とても興味があるので、初めて見学することにした。

 よく晴れた秋の一日、「2016 東京文化財ウィーク」にあわせて、新宿歴史博物館やってきた。(直接は東京文化財ウィークと関係ないかな!!??。)

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 東京には周知のとおり「江戸東京博物館」がある。よって、こことコンセプトは、かぶるかも知れない・・・。にもかかかわらず、新宿区が、「歴史博物館」を設置しているのは、豊富な財源があるためか、それともバブル時代の遺産(レガシー??)か。ここ新宿歴史博物館の設置年は平成のはじめだったと思う。

 私にとっても生まれたときから子供の頃までの本籍地は新宿区だったから「新宿」とは深いかかわりがある。よって「新宿の歴史」にも関心がある。
 父方の祖父は死ぬまで自分の現在の新宿区の生家の番地を本籍としていた。祖父が生まれた頃は「牛込区」であり、現在の新宿区はなかった。「新宿」というと、現在ではどうしても「新宿の繁華街」や西新宿の「高層ビル群」をイメージしてしまう。しかし、新宿区自体は、かつての「牛込区」と「淀橋区」に相当する地域だ。
 私の父が結婚して、祖父と別戸籍を立ててからしばらくは、同じ番地を本籍地としていたが、のちに神奈川県内の自宅の番地に本籍地を移した。父は海外に行く仕事があったので、パスポートをとるにも本籍地が自宅と離れていると不便だからだという。
 現在の戸籍制度は、日本国内のどこにでも本籍を置いてもよい(らしい)。そこに誰か住んでいても本籍を置くのは構わない(らしい)。たとえば、千代田区千代田〇丁目一番に置いている人も相当数いるそうだ。実際のところ、日常生活ではパスポートの取得以外には本籍地とは、かかわりがあまり無いかも・・・・。


 さて、新宿歴史博物館に入館する。建物は比較的新しい。エントラスから、受付まではアプローチの通路が長い。 別室や会議室などがあるのだろう。
「高須四兄弟」などのポスターが掲示してある。現在の展示ではなく、過去の展示企画のポスターだった。
受付で、私は例の割引券を提示する。すると、大人500円が300円に割引された。子どもは入館無料だった。
 受付で、私の前には75歳くらいの男性二人連れの入館者がいた。彼らは、現金の受け渡しに時間がかかる。彼らの後で少し待った・・・・。
 と、半地下の石垣のような中庭がある。階段を下りて地下へ。秀吉や大名、保科正之などの絵の写真の掲示がされている。

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レオナール フジタ 藤田嗣治 第一次渡欧 研究

 渡欧100周年を記念して開催された「レオナール フジタ」展。
今回の展覧会の絵を見たり、図録を読んだり、過去、東京国立近代美術館で見たフジタの猫の作品や戦争画を見て、よくよく考えると実は、滞欧中 資金(の一部)は、親(藤田陸軍軍医総監)からの仕送りや援助だけでなく、軍から出ていたのではないかと考察することもできます。もちろん海軍からではなく、陸軍からです。
自由に資金を得ることができるわけではなく、軍事探偵の役割も担っていたのでしはないでしょうか。
 これは、彼の家系にも由来するものでしょう。
  この縁が後年、戦争画を描き、あの敗戦後、占領時代のフランス渡航と帰化にもつながってくるのではないかと思われます。
(あくまで推測にすぎず、中学生レベルにも及ばない自由研究です。モチロン論文でもありません。)

静岡市美術館 レオナール・フジタ展 (とさわやかのハンバーグ)

 道の駅とみさわを出発したのは、午後4時前、富士川沿いに国道を南下し、新東名の新清水インターから高速道路に。新静岡インターで降り、静岡市内中心部へ向かいました。途中、道を間違って大回りしてしまいました。市街地の東側から中心部に入ってしまったため、駅前周辺道路は混んでいて時間がかかりました。到着したのは午後5時頃。美術館は静岡駅前にあります。近くのコインパーキングに駐車して歩きました。
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静岡の駅ビル。美術館が入っている高層ビルの前の歩道から撮影。この高層ビルにはホテルや飲食店、お店、オフィスも入居している複合ビルです。おりから6月のジューンブライドの季節。婚礼に参加するのであろう礼服を来た人がホテルに出入りしています。





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美術館へはエスカレータかエレベータを上がります。

入口前のホールにはミュージアムショップがあります。ここで図録を買いました。





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館内に掲示してある展覧会のポスター。
渡仏100周年記念の副題。
大正2年。第一次世界大戦が始まる前年にあたります。

レオナール・フジタ、藤田嗣治。渡仏当時、父、嗣章は朝鮮総督府医院長の職にあり、兄嗣雄も総督府に勤務していたそうです。(図録の説明による。)渡仏直前に、当時の京城を描いた絵が展示されていました。父の官舎の窓からの風景だそうです。当時、父嗣章の階級は陸軍軍医総監であったはずです。渡仏直前の父と兄の任地訪問と滞在は、肉親にあいさつをすることが主目的ではなく、資金についてであったろうとも説明にありました。
 明治の末から大正のはじめにかけての陸軍軍医のトップは軍医総監 陸軍省医務局長の森林太郎であったことはよく知られています。(漢字だけ見るとうっかり、しんりん たろう と読んでしまいそうですが、鴎外林太郎です。)軍医総監とは、いかめしい名称ですが、大将、中将、少将のように階級なので複数いるわけです。現在においても警視総監という役職と警察官としての階級が同じ名称があるため混同してしまいます。ずっとのちに陸軍軍医総監は陸軍軍医中将と変わりますが、軍医大将の階級はなかったので軍医官では最高階級です。説明にもありましたが、父の関係で森鴎外とも面識があり、将来について相談したようです。
 明治時代の資料(陸軍現役将校同相当官実役停年名簿?  正式名称は失念。)を見ると森林太郎は、藤田嗣章よりも序列が上であるが、年齢は何歳か下。林太郎があまりに早く大学を卒業して軍医に任官したからなのか、大学の学閥や鴎外の出身津和野のお隣、長州閥(つまり山縣有朋=「舞姫」の天方伯爵のモデル?)との関係なのでしょうか。
 同名簿には、任官年月日も記載されており、藤田の方が先に軍医補として明治10年に任官している。西南戦争の最中です。戦争当時、軍医官を多数採用する必要があったのでしょう。森は何年かのちに大学を卒業してから軍医副で任官。その数か月前に藤田は軍医副に進級。さらに数年後、同時に藤田と森は二等軍医に進級している。

 軍関係に華麗な閨閥を持つ家に生まれ、第一次大戦と第二次大戦の間のヨーロッパ社会で受けいれられた日本人画家。しかし第二次大戦後、戦争画のことで非難され、占領下の日本を離れて再び渡仏。のちにフランスに帰化し、日本国籍を捨て二度と故国日本に戻らなかった画家・・・。栄光と挫折、光と影、数奇に満ちた藤田=フジタの生涯と画業には、なぜかひかれるものがあります。
 個人的には、私の曾祖父と祖父の成育地は当時の牛込ナントカ町(現在は新宿区で住居表示が実施されている。)であり、明治19年生まれの嗣治の生地は現在の新宿区新小川町8番地。徒歩だと5分程度のご近所。(これが興味をもった一番大きな理由なのかも)
 年齢的には曾祖父のほうが嗣治に近いです。「あそこの偉い軍医さん家の息子さんは・・・。」と当時牛込界隈でご近所話になっていたか、はたまた、通勤途中の軍医 藤田嗣章と子どもの頃の曾祖父は何回かすれ違ったことがあったかどうかは全く想像にすぎないでしょうが・・・・・。。もっとも父、嗣章は転任し一家は熊本に引っ越して、のちに東京に戻って住んだのは、別の場所。(図録の説明による。)嗣治自身は、生地と幼少期が新小川町であるのみで、実際にはここで育ったわけではなく、記憶も無かったでしょう。
 兄、嗣雄(陸軍の法務官など歴任)の妻は、陸軍大将児玉源太郎の娘。児玉秀雄伯爵(朝鮮総督府政務総監、戦時中の陸軍軍政顧問など歴任)や児玉友雄陸軍中将(京都の第16師団長や台湾軍司令官など歴任)とは義理の兄弟あたり、戦争画を依頼されるのは必然だったのでしょう。
 嗣治の戦争画は以前東京国立近代美術館で見たことがあります。2005年に同美術館で嗣治の展覧会が開催されましたが、これは見逃しました。一昨年、箱根のポーラ美術館で開催された嗣治の展覧会を見たのが最初です。
 レオノールという名は、説明によるとレオナルド・ダビンチからとったそうです。フランス語でレオーナールと呼ばれた2人の外国人芸術家、共通点は外国で生まれ、晩年はフランスに住み、そして異境の地で生涯を終えた点でしょうか。ダビンチは、アンヴォワーズの住居(現在は観光名所にもなっていますが)で死去。フジタは、スイスの病院で死去。フランスに移り住みながら、二人ともパリで人生の最期を迎えていない点も共通しています。


 静岡市美術館を出て、再び車で移動します。展覧会見学中、下の子はぷーたれもせず、淡々とついてきました。(内心では興味なかったのでしょうけど・・・。)お目当ては、さわやか。つい最近、テレビで静岡のハンバーグチェーン店を取り上げていました。これが「さわやか」。緑の看板が目印のようです。サイトで調べてみると静岡市内から車で行くのに近い店は東名静岡インターそばの店。実際に車を走らせると10分で着きました。
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緑色の看板。今までこの道は通ったことはありましたが、気づきませんでした。静岡県民ならば誰でも知っている店のようです。
緑色の看板と炭火焼ハンバーグが結びつかず、今まで見落としていました。知らないということはとても怖いことです。












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店についたのは、夕方6時半を過ぎていました。広い駐車場はほぼ満車。店の入り口付近の待ちシートは一杯。店の外まで人があふれている状態です。見た感じ1時間から1時間半の待つなという感覚。名前を書いてひたすら待つ。子どもはDSですごします。
1時間くらい待つと座ることができました。
お店の人も大変忙しそうです。
写真はテーブルのシートです。デザートの充実も売りのようです。



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値段は1000円くらい。げんこつハンバーグ。「かんぱいドリンク」がついていて、若い人のグループはソフトドリンクで乾杯していました。さわやかでハンバーグを食べる前にソフトドリンクで乾杯するのが、静岡県民の流儀なのでしょうか。
 ハンバーグは本格的で、料理が運ばれてくるとお店の方が長いパテ?で、ハンバーグを目の前で切って、じゅーっと鉄板皿に押し付けて焼いてくれます。うれしい演出ですね。子どもも大満足でした。


 食べ終わった後、出発。インターまでは1分かからない。東名を通り帰宅しました。


追記
後日も別のテレビ番組で紹介していました。「さわやかは、さわやかではない。」と街の人の声でした。確かにハンバーグはさわやかではないです。












 

 





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