良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

各地の民間運営の美術館

 

開館60周年記念「コレクションの歩み展」 鑑賞3 大和文華館

 開館60周年記念「コレクションの歩み展」 鑑賞3 大和文華館  2020年7月(新型コロナ感染症流行下)

   ↓ 2020年7月 未だ梅雨のあけない曇天下の 大和文華館 外観。

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 重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵「小大君」。

 昨年の京都国立博物館 特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵」では、前期に行ったので、後期展示の「小大君」は見ていない。展示替えがあったので、私が見たときは女性の肖像は「小野小町」の「後ろ姿」だけ・・・・。正面きって、女性のお顔を拝することができなかった・・・・。今回、やっとお顔を拝することができた。 
 
 「いわはしの・・・よるのち××も たえぬべし ・・・・ かつらぎの神」と歌が書いてあると説明なあるが、実際のところ歌の冒頭の「い」と「・・かつらぎ・・」しか文字が読めない・・・・・。

 歌の意味はよくわからないが、しばし、小大君を見つめた。当時の平安美人の例にもれず、目は細いので、表情はよくわからない。
 黒い髪の彩色はよく残っている。すごーく長い髪で、十二単の裾、腰のずっと先まである。十二単の赤も鮮やかに残っている。美しさを引き立てている。比較的よくのこっていて、鮮やかな緑色の部分の顔料は、銅の緑青でしょう。
 肖像の上に書いてある略伝はあの「斎宮女御」と、間違えて書いてあるそうだ。「醍醐天皇の孫、三品の娘」とある。なんだか、いいかげん
 「重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵「斎宮女御」 個人蔵」 の展示は、昨年の京都国立博物館 特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵」では無かったことは周知のとおり。昨年放映の紹介テレビ番組でも「斎宮女御」を詳しく解説していたので、大変残念であった。「斎宮女御」は、皇族であるとは昨年、特別展の解説で知った。醍醐天皇の孫にあたる女性。「三品」とは、「斎宮女御」の父親の親王の官位のことで、「三品親王」といったところか。唐風の官位名かな。
 

 書は、九条良経と伝えられるという。実際はたぶん違うと思うけど、ハクをつけるため適当な当時の有名人が書いたことにして伝える??と感じるのは、ボクだけだね。似た名前の人物でのちに鎌倉将軍になった、頼朝の傍系子孫 九条頼経がいる。
 ともかく、九条家の人物が書いてあるということは、藤原氏の嫡流が近衛と九条に分かれた後のこと。この佐竹本絵巻の成立は頼朝がいた時代を含むの鎌倉時代初期の頃だったのでしょう。


 ↓ 昨年2019年の京都国立博物館 開催の特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵」 
   大和文華館所蔵 重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵「小大君」の画像の掲載のあるパンフレット。


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 重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵「小大君」をじっくりと見つめて鑑賞した後、
  窓の外、眼下の池を見ながら、次の展示へ。次の角のところに 可翁作の水墨画の展示がある。ここからの順路は、主に中国関連の作品であった。

 国宝「寒山図」の作者としても知られる 可翁作 重要文化財「竹雀図」。竹が両脇に、雀が画面下に描いてある。つまり、そのまんま「雀と竹の図」。あの可翁の四角い落款の印がある。下に小さい四角い「仁賀」という落款も押してある。説明によると「仁賀」と落款のある作品は 可翁の作品で数点確認されているという。「幻の画家」可翁の「幻の落款」とも言うべきか。


 伝趙令穣 筆 「秋塘図」は、水墨と赤っぽい絹本の図で、秋らしき渓谷の風景。北宋時代。説明によると作者は「太祖の5世の子孫」という。「太祖」は宋国の初代皇帝の趙匡胤のこと。次代皇帝は、弟の太宗。皇帝位は、太宗の子孫に受け継がれたので、遠い親戚ということか。宋の不思議は、弟の太宗の子孫に皇帝位が移ったことでもある。兄だから、皇帝位を継ぐのではないことは、のちの明、清でもあったので、この点はのちの日本の長子相続とは異なるということか。
 当時の北宋の皇帝は、徽宗(きそう)。為政者としては失格で、捕虜でとらえられて、金に連れ去られて、宋(北宋)は滅亡したときの皇帝。その徽宗とも交友があったという。

 国宝 「雪中帰牧図」の展示があった。「隠しサインがある」というが、目をこらして見たがわからなかった・・・・。 2017年の 特別展「国宝」でも展示されていて、見てもわからなかった。すいていて、独占して鑑賞できた本日でも発見できなかったので、老眼鏡を掛けない限り!!??、発見は無理でしょう(笑)。
 隠しサインは画中の「下の「土破(字が違うが盛り土のことか)」の切れ目の下」にあるらしい。
 
 日本の作品であるが、以前も鑑賞した 雪村の重要文化財「呂洞賓図」もここに展示があったと記憶する。

 最後の展示が、中国絵画や陶磁器。 景徳鎮や 建窯など 中国 各地の窯の解説ボードがあった。


 一通り見て13:15頃、館を出る。 館内は、すいていて出入口付近には人がいない。先ほどの母子は、庭を通って散策して帰るようだ。
 私は坂道を下る。

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 前回は、春の気候のいい時期の訪問であった。今回は、梅雨の季節、夏で蒸し暑い。
 文華苑は、夏の緑色。常緑の松は、いつも緑色。
  ↓  大和文華館の 門付近と券売り場と駐車場。

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開館60周年記念「コレクションの歩み展」 鑑賞2 大和文華館

 開館60周年記念「コレクションの歩み展」 鑑賞2 大和文華館  2020年7月(新型コロナ感染症流行下)

  順番に鑑賞する。今回の企画展では、館が所蔵する国宝指定の文化財4点すべてを展示する。
 更に、昨年 京都で特別展が開催された 「佐竹本三十六歌仙絵」のうち、最重要作品(断簡というべきか)「小大君」の公開がある。

 ↓ 今回の展覧会 大和文華館のパンフレット。
   60年前の開館記念のパンフレットの写真をそのまま使用している。

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 国宝 「一字蓮台法華経」。2017年 京都国立博物館での特別展「国宝」では 番号25  、
 「絵巻物 一字蓮台法華経 普賢菩薩勧発品第二十八 一巻」として、第4期に展示されていた。よって、このときは見ていないが、2014年の東京では国宝展の展示リストに掲載されている。よって、当時見たのだが、覚えていない・・・・

 「一字 蓮台 法華経」の名の通り、お経の文字が蓮の花の台の絵の上に一文字ずつ載っている。「蓮台」は、ロウ、金泥、銀泥のような材質なのだろうか?。文字と混じって文字が、消えないように先に蓮を描いて乾燥させ、経典の文字を書き込みしたのだろう。文字が1文字ずつ「仏様」のようだ。
 巻物の経文の前部に美しい装飾の絵がある。作品解説によると「真ん中に 読経する僧、その右となり、絵の中の人物としては左に、貴族と思われる男がいる。法要の施主と思われる。」と。 反対に僧を挟んで 御簾の奥に十二単の優雅な衣をまとった女。おそらく施主の妻であろう。

 「僧は9人」描かれているという。目をこらしてみる・・・・。寝殿の部屋の外の板の間の廊下に僧がいるが、4人くらいしか描かれていないようで、よく判別できない・・・・。9人、僧侶を見つけることはできなかった。

 施主の烏帽子姿の貴族の男の前の板戸か板壁には、何かの「絵」というか、掛け軸がかかっていて、その前にも僧がいて、施主や読経僧の方を向いている。 絵には、仏の姿が描いてあるのだろう。当時制作された「仏画」であろう。現在までつたわっている仏画は、国宝や重要文化財などに指定されているわけだ。
 経典の内容からして「普賢菩薩が描かれた仏画」を掛けて読経しているらしいと解説にあった。

 長さは322.2cmだが、わずか1尺、90cmくらいしか、開いて公開をしていない・・・。少し残念。

 経典の部分の冒頭には「妙法蓮華経観普賢経 第二十八」 とタイトルのように書いてある。よって「普賢菩薩」の仏画を掛けて、祈祷していると推測されるのだろう。

 とある部分を読むと「・・・男子 善女人於 滅複 能得是 ・・・・ 」と書いてある。


 国宝「寝覚物語絵巻」

2017年 京都国立博物館での特別展「国宝」では 番号24 「絵巻物 寝覚物語絵巻 一巻」と掲載されている。 第3期展示だったので、鑑賞した。時折特別展で展示されるので、鑑賞機会はある。
 長さは533.0cmで、ほとんど開いて公開している。よって、隣の国宝 「一字蓮台法華経」がスペースの関係で1尺くらいしか公開していないのかも。

 絵の解説は「中の宮の子、まさこ君が、女二の宮を訪ねる」というシーン。十二単姿の女が寝殿の屋敷の部屋の中にいて、男は、画面の右下、つまり屋敷の入口の外にいて、女をまさに訪ねるというシーン。当時の「妻問い婚」というか「通い婚」の場面と感じた。 男が女のもとに通うのだ。


 展示場所は以前の訪問時と同じ場所に 国宝「婦女遊楽図屏風」(松浦屏風) があった。
 やはり、大きい屏風絵だ。毎年4月中旬から5月にかけて展示されていることが多いようだが、今回はコロナの影響もあり、夏のこの企画展での展示となっているようだ。2017年4月に初めて見た感想は「大きい。」であった。
「ほぼ等身大で・・・遊女とかむろの姿を描いた・・・・口には鉄漿(おはぐろ)をし・・・・髪をすき、手紙を書き、三味線を弾き、・・・・タバコ、キセル、カルタ、ガラスの器などが描かれている・・・・・・・。」とは前回の訪問時に聞いた音声ガイドの説明。

 ↓ 2017年4月の訪問時に入手した、国宝「松浦屏風」と安土・桃山の絵画 展観のチラシの写真。 
  「婦女遊楽図屏風」(松浦屏風)の部分。左双の左の部分かな。

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 左双の屏風・・・・
 一番左にカルタをしている女。簡素な着物もいれば美しい着物をまとった女も。
 右手のキセルを差し出している女が一番くらいの高い遊女かな。キセルの下でひざまづくかむろの少女は幼い。幼い少女の姿が見事に表現されている。年齢は現代でいうと中学生、14歳くらいかな。
 女たちは楽しそうな顔をしているのだ。現代の私が想い浮かべる遊郭の裏の一面を感じさせる表現描写は微塵も無いのだ。かむろの少女はうっすらと笑みすら浮かべている。
どこかダーク。秋なのかな?。しかし、画面を見る限りは秋の様子は無い。 


 と、母親に連れられて、鑑賞に来ている小学校2-3年生くらいの女の子かいる。屏風の前のイスに腰かけている。お母さんと一緒にこの国宝を見ている。
 画中の「禿の女の子」と同じ年か、少し画中の女の子が上くらいではないか。画中には、遊郭で生まれた女の子が描かれている。400年前当時の8歳くらいの女の子と、現代の小学生の8歳くらいの女の子が対峙している。
 私も国宝「婦女遊楽図屏風」(松浦屏風)の前の長イスに座りガラスケース内の作品を鑑賞する。というより、先ほどの奈良市内より、暑い中、歩き疲れて、体力を著しく消耗しているのである・・・・

 さらに見て行く。戦国時代 の「婦人像」がある。有名なお市の方の肖像画ににている。重要文化財に指定されている。「婦人像」 は典型的な桃山時代の高貴な女性の肖像画なのだろう。

 その隣に重要文化財 佐竹本三十六歌仙絵「小大君」の展示があった。
 展示室内のガラスケースに、安土桃山時代の屏風絵、戦国時代末期の絵、鎌倉時代作の平安美人の絵と展示されていたことになる。
 
 すぐ近くは、展示室の角(コーナー)になっていて、尾形光琳作の 重要文化財 「中村内蔵助像」の展示があった。他の光琳作品、弟の乾山の墨画(乾山の自賛の文章が書いてある)の展示があった。




開館60周年記念「コレクションの歩み展」鑑賞1 大和文華館

  開館60周年記念「コレクションの歩み展」 鑑賞1 大和文華館  2020年7月(新型コロナ感染症流行下)

  近鉄奈良駅から電車に乗って移動した。学園前駅で下車した。前回来たときに覚えたので、ホームから階段をおりて南口の改札を出る。駅前のロータリー広場は、ガランとしている。その先には帝塚山学園の校舎がある。この朝、奈良に行ったときは、ここで制服姿の生徒がおりていった。部活に行くのであったのだろうか。休日の昼のこの時間帯は、生徒が誰もいない。本来は、夏休みの時期であるが、コロナの休校の影響で一学期の授業はおそらく続いているだろう。

 駅前から坂道を下り、不動産屋の角を曲がると、目線の先に大和文華館の看板が見える。駅から門までは私の足で徒歩5分とかからないくらい。大和文華館に到着した。

 私に先行してあるいている中年のおっさん(俺もそうなのだが)がいた。そのおっさん、実は駅前広場前の赤信号を無視をして、道路を渡りずんずん坂道をおりて歩いて行ったのだ。学園前駅を利用したことのある人は知っていると思うが、駅前広場と道路を挟んで、反対側に交番があるのだが、おまわりさんがいないことをいいことに渡っていったのだ・・・。「この人も(俺と同じく)大和文華館に行くのかな」と思った。直感で
 おっさんは案の定、大和文華館の門まで来ると、展覧会の看板を撮影して、門を入って行った。チケットを買い、坂を登って館に歩いて行った・・・・。

 俺は、門の脇にある展覧会の看板は撮影しないでチケット売り場の建物に歩みを進めた。
 広い駐車場には、数台の車が停まっている。前回は「1台しか停まっていない」と記事に書いたが。
 チケットを購入して丘の坂道を歩いて登る。曇天で蒸し暑い。汗が出るよ
 
 美術館の建物まで坂道を登る ↓ 坂道の途中に咲く白い花。
 ヒルガオのようなと思ったが、説明には「ムクゲ」とあった。 


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 大和文華館の花咲く庭園を「文華苑」という。案内図によると撮影したポイント付近には、「スイフヨウ」の花が咲いていて、7月-8月はシーズンて゜白い花が咲くようだが、わからなかった。見る限り、撮影した花はスイフヨウではないような。ほかに花は咲いていなかったと思うが、わからなかった。

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   ↓ 建物が現れた。蔵屋敷のような建物だ。壁は黒か緑のなまこ壁の模様が入っている。
    改めて見ると入口玄関付近には、展覧会の告知看板は無い。
    大名屋敷の通用口??のようであるが、自動ドアで入る。

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 遮光ガラスになっているので、外の眩しい光を遮断し、内部は適度な照度になっている。 

 検温は無かった。建物に入っても人はいない。向かって、右手の奥に売店があり、商品が並べてあるか゜、奥のレジの係員が1名いるだけだった。

 12:45過ぎに入館する。お昼休みの時間帯なので、検温は実施する職員がいなかったのかも。音声ガイドの貸出しは、(コロナの影響のためか??)無かった。
 ガラス張りの通路を歩く。数名の来館者の姿がある。展示室の正面入り口の大きなガラスの自動ドアをヴィーンと開ける。
 正面に独立した島状の設置された三個のガラスケースが「三連」で並んでいる。
 今回の展覧会の案内を読むと、これら正面の独立ケースは60年前の開館時はなかったという。
 当時の「開館案内」の展示がある。記載されている入館料は50円だ。この日の入館料は630円である。60年前とは「隔世の感」がある。

 前回2017年当時の訪問記事でも書いたが、各地の博物館、美術館の特別展、企画展では展示リストに「大和文華館 蔵」と書いてある文化財が少なからずある。しかも、ここ大和文華館は他館への貸し出しにも積極的である。特に所蔵文化財が限られる民間の美術館は、他館への所蔵文化財の貸し出しを行わない傾向がある。特に国宝や、有名に所蔵品はなおさらである。メインの展示文化財を貸し出ししてしまうと、公立の施設ならばともかく民間の美術館では、来館者数にも影響があるからであろう。
 対して、大和文華館は他館へメイン所蔵品の国宝など文化財の貸し出しを多く行っている。
 2014年の東京での日本国宝展には「寝覚物語絵巻」が出品されていた。
 2015年10月京都国立博「琳派展」では、尾形乾山の工芸作品(香合、火入など)が多数展示されていた。
 前回2017年の訪問は芸大美術館での「雪村展」に行った二週間後であったが、メインの展示作品は大和文華館の所蔵作品だった。今回の展示リストにも雪村の作品が展示されている。
 2017年秋の京都国立博での特別展「国宝展」にも「寝覚物語絵巻」と別の国宝が交互で出品されていた。
 何といっても、特筆すべきは昨年(2019年)秋の京都国立博物館で開催された 「特別展 佐竹本三十六歌仙 において、メインの展示作品が、ここ大和文華館所蔵の 重文 「小太君」であったことであろう。
 展覧会ポスター、チラシなどの露出媒体のメイン写真もこの 「小太君」であった。 国立博物館ではなく、同じ関西地区の民間美術館から貸出しされた作品が、天下の国立博物館の特別展のメインを張るとは、すごいことです。いっそのこと、ここで開催してもよかったのでは?、思うのは言い過ぎかな?。
 大和文華館は、日本の美術館において大変重要な位置を占める館である。

 大和文華館の説明では「・・・当時近畿日本鉄道の社長であった・・・・・によって、・・・・昭和21設立され、実際の開館までは14年の準備期間を要し・・・」とある。「・・・現在では国宝4点を含め・・・・」多くの文化財を所蔵していますという解説。敗戦直後の設立から、14年後に開館して今年で60周年である。
 
 最初、順路の表示と逆に見てしまった。順路は「ロ」の字状の展示室を反時計周りに見るようになっていた。
 最初の壁のガラスケース内には埴輪の展示がある。次いで、国宝「一字 蓮台 法華経」の展示がある。
 その先に、国宝「寝覚物語絵巻」が展示してあった。
 60年前と同じ展示構成を再現したそうだ。所蔵品を時代を追って展示しているようだ。

  入館者は、「ロ」の字の展示室の右半分のスペースに、10~15名くらいだろうか。前回来たときよりも、入館者は多い。


「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞6(最終、エピローグ) 

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞6(最終、エピローグ)  2019年2月

 静岡県三島市。佐野美術館へ初めて来館である。

  

 夕方の4時半を過ぎた。館の外に出る。
 外から外観を撮影しているおっさんがいる。入館のときも、太った中年の男が盛んに外観を撮影していたし。
 結構、外観を撮影している人も多い。よって、オレも他の刀剣男子、又は女子のSNSなどに姿がアップされているかも・・・・・。
 歩いて、Pに戻る。駐車している車もだいぶ少なくなった。
 館のそばに、梅の花が咲いていることに気付いた。まだまだ2月の寒い時期ではあったが、季節は花の季節、春に移ろうとしている。


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 庭園を歩いて戻る。

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庭園の端。付近の住宅地を撮影したつもりが・・・・、あまりよく撮影出来ていない・・・。

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 隣接する庭園は「隆泉苑」という。
 湧水の街、三島らしく、この付近から湧き出ているのであろう。


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 駐車場の近くに、別館の料亭らしき一角があった。「せせらぎ亭」とある。
 庭園がある。小川が流れていて、橋がかかっている。
 園内は、早咲きの河津桜??の花が咲いていた。

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 白い花は梅の花であろう。

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 駐車場に面した「松韻」の入口と看板。
 先程、美術館で展覧会を鑑賞していた人もこちらの駐車場に戻って来て、帰っていっていた。美術館の建物近くではなく、ここ「松韻」のPに停めたのであろう。
 私も再び車に乗って、帰った。

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「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞5(国宝 太刀 銘「一」など)

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞5(国宝 太刀 銘「一」など)  2019年2月

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。

 
 次の展示室に移動する。 この展示室は小さい。
 時期不明の焼身の刀剣の展示があった。
 次の部屋に国宝の刀剣の展示があった。順路最後の展示室であった。第三展示室である。「伝世の名刀」
 国宝「国宝 太刀 銘 一」の展示がある。ここ佐野美の所蔵の刀剣が展示されている。企画展の「REBORN 蘇る名刀」とは、直接関係の無い、通常の焼身、再刃ではない刀剣の展示がメインである。
 この部屋は、階段のからほど近い所にある。最初、二階に上がって来たときに間違って最初に入ろうとした・・・・。出口付近には、イスが、置いてあり、傍に図録が置いてあった。


 さて、第三展示室て゜あるが、入口付近のガラスケースに、平泉出土の刀剣の展示が2口あった。
 重要文化財に指定されている。「REBORN 蘇る名刀」での焼身、再刃の刀剣で重要文化財指定は、他に「義元左文字」だけだった。基本、焼け身となった刀剣、再刃された刀剣は、文化財指定は難しいですよね。
 平泉の刀剣、一本は「刀子」。小さい刀である。長さは15.5cm。柳之御所の井戸の跡から出土したそうだ。

 現代感覚でいえば、鉛筆や小道具を作製するとめに木材を削り出すような、「こがたな」だ。正滅によると「井戸仕舞い」で井戸に落としたらしい。つまり、井戸を閉じるときに、おまじないで小刀を落としたのだろう。
 鏡が展示品の奥においてあり、裏側の刀身が見えるようになっている。表面は、再研ぎされているが、裏はそのままで、青く錆びている。長年、水につかっていたのであろう。

ついで、同じく重文「長さ48cmの刀」。刀身にはやや「反り」があるのだが、かなり欠けている。刀身は太い。時代は平安時代と説明にある。
 刀身、茎もへこんでいたり、えぐれていたり。片面を研いだ。刃文は無い。「地沸は淡くつき・・・」と説明に書いてあったと記憶するが、「沸 にえ」がついているのだろうか?。
 鏡に映る裏は、黒くというか、深い青色に錆びて劣化して朽ちている。焼けたのではない。ざらざらした感じだ。平泉の金色堂の須弥壇から出土した、藤原秀衡の副葬品という。発掘品を片面だけ研磨したそうだ。文化財に指定されているので、研磨は現状を損なわないように細心の注意をはらったということが書いてあった。

 展示室の端に図録が置いてあった。2千円。
 国宝、銘「一」 は福岡一文字派の刀工のこと。「刃文は丁子が連なり、豪華絢爛である。」と書いてある。図録の解説によると長篠の合戦で、織田信長から、家康の家臣、奥平信昌、つまり娘の婿に与えられたそうだ。奥平家に昭和の初めまで伝来したそうだ。奥平家なので、中津藩主であった、奥平家のことであろう。現在は個人蔵。
 茎には「一」とのみ、シンプルな銘が刻まれている。刃文は、刀身のなかほどは、丁字が深くて、へこんでいる。茎に近い刀身の刃文は、丁字の幅が狭い。茎と刀身の境界には、金色の金属をはめこんでいる。三つ葉葵の紋がある。
 鑑賞を終えて、1階に戻った。展示の最初の部屋を少しばかり再び見るが、刀剣女子の新たな入館者もいて、ガラスケースの前には、人がつらなっている。

 ↓ ロビーの撮影コーナー。 幕の裏側が、ショップ。棚がうっすら、透けて見える。
  

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 1階のロビーは 撮影できるところがある。
 ショップは 刀剣の絵葉書ポストカードなどがある。絵葉書の背景は黒い。白銀色に刀身が浮き出すように撮影されている。ここの渡邊館長さんの刀剣に関する著書もある。刀剣グッズのキーホルダーなどもある。
 その他は、小もの類など。本館所蔵の重文「大日如来像」のポストカードも販売があった。
 

 外に出ると夕方4時半。入館締切の時刻となった。
 Pの警備員が2名いて、引き揚げしていた。美術館の建物の階段の上からPの様子を見下ろすことができる。付近は住宅地である。正門は表通りに面していない。よって、何回もこの付近は車で通行したことがあったが、美術館のことは気づかなかったのかも。いや、名前は見たことがあったが、「三島」の「佐野」美術館のことをあまり認識してなかったのかも。


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 入口付近の外観。

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庭園を歩いて、Pに戻ることにした。

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「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞4  2019年2月

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞4  2019年2月

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。

 
 日光東照宮宝物館に所蔵されている文化9年に火事で焼け身となった刀剣を見た。
 再刃された「正恒」、「国行」、「了戒」、「備前国住雲次」などである。


 続く、第三のガラスケースは、展示室の一番突き当り部分だ。
  関東大震災で焼けた刀が展示されている。徳川御三家のひとつ、水戸家の倉庫で保管されていたそうだ。再 
 関東大震災で焼けた刀剣は、この水戸家と彦根 井伊家の刀剣の展示であった。
 水戸と彦根といえば、幕末の安政の大獄、桜田門外の変などでお互い遺恨のある藩同士だったような・・・・・・。大正時代になって、ともに所蔵する刀剣が大震災で被災するとは何とも因縁がある。
 水戸家伝来の刀剣は、小石川の徳川家屋敷で保管されていたそう。大正時代は、徳川侯爵家。かつての水戸・徳川家の上屋敷、現在は小石川後楽園になっている。東京ドームや遊園地もかつての水戸家の屋敷の跡である。当時も引き続き水戸徳川家の屋敷であったようだ。伝来の刀剣は、旧領地の水戸ではなく、東京で保管していたのだ。
 真っ黒になっている刀剣の展示がある。「太刀 銘 包永」・・・兵部大輔 藤孝磨上之異号・・・という銘があるそうで、説明によるとその銘文の通り、細川藤孝から徳川家康に献上され、水戸家に伝わったそう。藤孝が磨上げた?、短くしてすり上げした?ことが刻まれている。煤のせいか、真っ黒である。
 ガラスケース内には「太刀 銘 光忠」 。水戸ではなく、尾張の徳川家でも光忠の太刀は所蔵されている。国宝に指定され、名古屋の徳川美術館で時折展示されるのであるが、この尾張の「光忠」は見たことがあるぞ。
 目の前に展示されている「太刀 銘 光忠」 は火事のためか、まっ黒である。備前 長船、福岡一文字派の刀工と説明がある。
 平のガラスケース内には「太刀 銘 国宗」がある。 同じく水戸ではなく、尾張の徳川家でも国宗の太刀は所蔵されている。国宝に指定されているが、尾張の「国宗」はまだ見たことが無いのだ。「国宗」は13世紀、鎌倉時代の備前の刀工で、人気が高いそうだ。

 彦根藩、井伊家の「短刀 銘 来源国次」と「刀 無銘 左」は再刃されている。鈍く刀身が光っている。刃文もある。しかし、茎(なかご)の部分は、焼けたときのそのままのようだ。共に再刃された時期は不明とのこと。
 大震災の火事で焼身となった後、ほとんどはそのままで保管されたそう。数本が再刃されたと説明にある。
 「太刀 正恒」・・・国宝に指定されている刀剣を別の所でも見たことがある。昨年の秋に、鎌倉 国宝館で国宝の正恒を見たが、同一刀工かな。刀工の銘は判読できなかった・・・。焼けたためか、赤茶色に錆びでいる感じ。
 「太刀 助平」・・・説明によると「備前三助」の一人で、つまり、名工ということ。
 「太刀 銘 宗近」もある。あの東博所蔵の「太刀 三日月 宗近」の刀工で、「三日月」は秀吉の正室、ねねの愛刀だったと説明にある。
 平ケースにも井伊家の焼けた刀剣の展示がある。「太刀 銘 国吉作」・・・やはり、茶色く錆びたような刀身である。

 秋葉神社の所蔵で、火事で焼けた刀剣の展示もあった。火事は時代がずっと下がって、昭和18年のことだった。佐野美術館と同じ静岡県の神社所蔵の焼けた刀剣ということで展示されているのであろう。戦時中なので、恐らく神職、氏子、地元山林関係従事者らは相当数が出征していて、境内地の管理、付近の山林の管理が行き届いていないのが大きい原因ではなかったか。しかも、金属は供出、化石燃料は不足し、薪を燃料とする自動車も当時登場していたそうだから、山林から木材の切り出しのため、多くの神社と無関係な人も付近で行動していたろう。よって、何等かの失火が大火になったのではないか。

 この展示室は、部屋の面積が一番大きかった。
 入館者であるが、刀剣女子世代も多いのだが、比較的年齢層は高い。本日、展示最終日ということもあろう。
 ざっと見ると室内は40人弱ではないか。男性も多い。15-16人くらいは男性。男性は老年、中年などが比較的多いような。若者の男はいないかな・・・、親と一緒に来ていた小学生くらいの子はいるが。女性の入館者は年齢層はバラバラ。10歳台から20歳台前半くらいの「刀剣女子」のコア世代??は4-5人くらいではなかったか。制服を着ている女子高生もいた。刀剣女子世代はあまり、多くはないと記憶する。20歳台後半から30歳台前半くらいの人が、1-2人くらい。40-50歳台くらいが5-6人くらい。明らかに60歳以上の女性は5人前後ではなかったか。比較的、刀剣女子がブームとなる前のここの館のコアな入館者世代も多く見学していたと思う。
 次の展示室に移動する。 この展示室は小さい。
 時期不明の焼身の刀剣の展示があった。
 太刀 銘 則宗 ・・・元々は公家の鷹司家に伝来したという。1693年?の折り紙によると代は金150枚?という。
 (具体的な値段表示は忘れた。)
 短刀 銘 行光 号 不動行光 個人所蔵 ・・・元々小倉藩の小笠原家に伝来したという。
 その号の通り、刀身には不動明王と両脇の二童子の姿が刻まれていた。背後の炎も刻まれている。1717年の本阿弥光忠の「折紙」によると金100枚と評価されているそう。焼けた時期も不明で、再刃した時期も不明とのこと。一見して、焼けた刀とは見分けがつかない。

 と先程、男性職員に色々聞いていた黒いタイツのオカッパ頭の女の子が入って来た。小さい部屋なので、話声が響く。引き続き解説付きで会話しながら、展示品を鑑賞している。やっぱり、ここの特別会員か研究関係の大学院生?兼刀剣女子かな??。
 次の部屋に国宝の刀剣の展示があった。順路最後の展示室であった。

 ↓ 玄関付近壁の表示。 ポスターと同じ画像である。
  太刀 銘 友成 平安時代 日光東照宮宝物館の画像だ。

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「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞3  2019年2月

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞3  2019年2月最終日

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。今まで三島には何回も来ているのに佐野美術館のことを知ったのは、ほんの3年か4年前のことだった・・・・。「刀剣女子」がブームのおかげです。


 明暦の大火で焼けた刀の展示に続き、長方形の展示室の、長辺、つまり長いガラスケースの展示品を見ていく。 お江戸の時代の文化年間の「日光の 東照宮」の火事のことについての解説ボードがある。
 「文化9年」に火事があって焼け出されたそうだ。西暦でいうと1800年以降、19世紀に入ってからの火事。明暦の大火からだと、150年くらい経過している。火事のときに奉納された刀剣を保管している箱を神官、輪王寺僧侶?(当時は神仏習合なので)らが持ち出ししたが、家康の遺品、歴代将軍が奉納した刀剣をはじめ、ほとんど焼けたそうだ。残ったのは、解説では書いてあったか?、その数は忘れたが、1箱くらいだったらしい??。
 (別室の国宝の展示があった展示室においてあった図録の解説文には、文化9年の東照宮火災では、徳川家の将軍などから、多数の奉納されている刀があった。火事のときは(保管していた)一箱5口(の刀)のみ持ち出しされた。残り200口の刀は焼けた。昭和58年から62年にかけて、再刃された。人間国宝など数名の刀工が、再刃を担当した、ということが書いてあった。)

 展示品は日光東照宮宝物館からの貸与品である。

 ガラスケースの前は、人だかりである。と、紺色の短いスカートに足は黒タイツ、ベージュのスブリングコートを着た女の子が入ってきた。学芸員らしき40歳くらいの男性職員?とともに見ながら色々聞いている。職員は、色々と説明して女の子とやりとりしている。話し声が目立つ。女の子は、学生か20歳台なかばくらいの年齢。なぜ、この人だけ解説付きで会話しながら、展示品を鑑賞しているのか、ちょっとわからない。専属説明ガイド制度があるのだろうか?、ここの何かの特別会員なのか、(年齢からして)何かの関係がある大学院生なのか?、ともかく特別待遇っぽかったです。

 壁沿いのケースとともに室内の平ガラスケースにも展示されている。「日光東照宮焼身茎押形集」という資料も展示してある。焼けた刀は「焼身」というらいく、そのまんまの呼び名・・・。刀剣の根本、茎(なかご)がわかるようにカタログのようにイラストを墨書したもの、見本だったと記憶する。
 太刀「一」の展示がある。備前一文字の太刀なので「一」。国宝の「一」の展示もある筈なのだが、この刀剣では無い。1663年に水戸徳川家の当主 光圀が奉納したものだそう。せっかく、奉納したのに焼身になってしまって・・・・。失火の責任は、当時誰ががとったのだと思います。
 太刀 銘「国行」、「正恒」、「助平」、「了戒」、「備前国住雲次」があった。特に「正恒」「国行」は、国宝に指定されている作品も鑑賞したことがあるぞ。いずれも再刃されていた。「助平」と言う名前が気に入ったが(苦笑)、「助平」は現存作品があまりない、名工らしいのだ。再刃したものとはいえ、大変貴重な名品とのこと。昭和61年に再刃されている。再刃は、「刀身」の部分を行うようだ。茎の部分は、焼けた後らしく、赤茶色になっているものもある。よって、「ああ、やはり火災に遭っているのだな。」ということが判る。
 再刃の年は「正恒」は昭和62、「国行」は、昭和61、「了戒」は、昭和58、「備前国住雲次」は昭和60年である。いずれも昭和の終わりころ、つまりボクが子供の頃に再刃されている。
 景気の比較的よい、安定した時代になって、文化財の刀剣を再刃して、保存しようという機運があったのではないか?。文化庁の許可も必要であったろう。再刃の刀工は、人間国宝の天田昭次氏と説明にある。
 再刃した後は 心なしか、刃文がうすくなっているような・・・。 

 エントランスにあった撮影コーナーの垂れ幕。 ↓
 キャラクターの背後の画像は、太刀 銘 作友成 平安時代 日光東照宮宝物館だ。
 茎の部分が焼けた後らしく、やや赤茶色になっている。

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 室内には監視員が1人いる。小柄の男性が立っている。「S」と名札をしている。てっきり、本館の創設者 佐野氏の子孫、つまり本館の運営財団の理事の一人かと思ったが苗字は違う。その看視員に盛んに質問をしている中年の女性がいる。若い女の子も盛んにSさんに質問をしている。Sさんも色々と解説を交えながら、答えている。
 私は刃文を見ながらメモを取ったりする。他の博物館、美術館と同様に鉛筆ならばメモをしても監視員は特に 注意されないようだ。
  「文化財は 現状保存が 前提・・・」と再刃したときのことをSさんは話をしていた。更に「×× 先生は・・・」と 再刃を担当した人間国宝の刀工の作風の特徴なども解説していた。「信長・・・」や「細川幽齋から ・・・」というような話もしている。

 上記したが「日光東照宮焼身茎押形集」は、茎(なかご)の見本が28口(書いて)あるという。展示されている平ガラスケースの3つのケース分のスペースをとって、ワイドに展示されていた。


 続く、第三のガラスケースは、展示室の一番突き当り。
  関東大震災で焼けた刀が展示されている。徳川御三家のひとつ、水戸家の倉庫で保管されていたそうだ。再 
 関東大震災で焼けた刀剣は、この水戸家と彦根 井伊家の刀剣の展示であった。
 


 ↓ 玄関付近の表示。 
  垂れ幕の掲載画像が、日光の火事で焼けとなった 銘 「助平」 日光東照宮宝物館所蔵であった。
  不動明王が持つ剣の形の溝が風間れているが、見事に再刃されていた。
  茎の部分は、あまり赤くなっていない。

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「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞2

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞2  2019年2月

 ここは、三島市。佐野美術館へ初めて来館である。今まで三島には何回も来ているのに佐野美術館のことを知ったのは、ほんの3年か4年前のことだった・・・・。「刀剣女子」がブームのおかげです。

 展示室は2階だった。高床式のようになっている。広い階段を昇ると2階の廊下に。長方形のコンクリートの建物、1階部分はエントランスと受付、高床式のような2階にある展示室の造りは、規模はかなり違うが奈良国立博物館のようだ。
 最初に常設展示を見る。小さな通路のようで、通路に沿ってガラスケースが設置されている。
 重文の 大日如来坐像が展示されている。仏像の展示スペースは、ガラスケースは無い。目の前に昔の仏像が展示されている。 平安 木造乾漆造と解説にある。隣に重文の蔵王権現像。所謂いまで見た蔵王権現と同じお姿の仏像だ。1尺くらいの像の高さかな。大日如来よりは小さい仏像だ。

 ↓ 料亭側の駐車場に設置されている看板に国の重文指定の 大日如来坐像

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 ついで、通路沿いのガラスケースには、花籠印籠など印籠がある。説明には19世紀、江戸時代とある。解説には蒔絵印籠と書いてあるが、黒い漆地の蒔絵?のようだ。かんざし?もある。かんざし?は、鼈甲のような飴色。矢立もある。小さい茶釜などのアクセサリがついていた。矢立についている小さい茶釜はつまり、墨壺になっているのだろう。

 「』」字状の常設展示スペースだった。ここ佐野美術館の創設者、佐野氏の個人収集コレクションの展示なのであろう。
 常設展示スペースを取り巻く(囲う)ように、企画展の展示室があることに気付いた。コの字にようになっている。
 ↓ 退出時に撮影した、佐野美術館の建物入口と外観。2階が展示室。

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 映像コーナーがあるが、設置されているテレビには電源が入っていなかった・・・・。ソファがあるので、しばし休憩。同様に見学者が休憩している。女性の二人連れなどの入館者がいた。
 映像室の隣は、展示室があり展示物も見えるのだが、退出してくる人のみ。順路最後の展示室のようだ。企画展の最初の展示室入口は階段を挟んだ別の所にあったので、その入口から企画展を鑑賞開始する。
 
 室内に入ると人が多いことに「おおっ」と感じた。館の外では、多くの人が出入りしている様子はないが、展示室内は被とが多い。ガラスケース内の展示品の前には、すべて人がはりついていて、鑑賞している。
 第一のガラスケース。長方形の展示室の「短辺」の部分。展示順番の最初にあたるので、ここから見ていく。

 最初の展示は「短刀 無銘正宗」 徳川美術館所蔵。「正宗」で有名なアノ正宗から展示開始。以前、国宝の「正宗」作品も同館で鑑賞したことがある。
  現在の「刀剣ブーム」が起きる前から「正宗」くらいは知識として知っていた。あと、妖刀として名高い、徳川=松平家因縁の「村正」くらいは知っている。ただ、正宗と村正は「正」の字は共通しているが、時代も住地も全然違う。
 展示を見ていったのだが、刃は光っていても、持ち手のところというか、茎(なかご)というのか、根元の部分が黒ずんている展示品が多い。展示のタイトルは「大坂城落城」。説明文には「豊臣氏の滅亡、大阪城の落城に際して、多くの刀剣も同時に焼けた・・・・・。」という意味の内容が書いてあった。
 次の展示は同じく「短刀 正宗」。こちらは、銘が彫刻されていて、判読できる。「相州住正宗」とあり、今の私と同じく、相模の国在住だ。俺は、言うなれば「相州住良月」だな・・・・

 説明では、細川家(つまり、細川幽齋)から豊臣秀吉に献上され、大阪落城の際に焼けたが、徳川家のものとなり、(刀工)の康継によって再刃され、御殿守?、御守殿?、に置かれたとある。同じく徳川美術館所蔵なので、戦利品として、尾張家に伝わったものだろう。茎の部分は赤茶色で鉄の成分が酸化して露出している感じ。銘は読める。

 別の短刀「銘 正宗」 徳川ミュージアム所蔵は「焼身」とある。企画展のパンフレットによると「やけみ」と読む。
 「徳川ミュージアム」所蔵なので、水戸徳川家に伝来した刀剣である。大阪の落城で焼けて、康継が再刃したが、1923年の関東大震災で再び焼身となったらしい。
 「康継」という刀工の名前が登場した。越前の刀工とのことだ。「脇差 貞宗」の焼けたものと、それを復元して、銘文を刻印した作品が展示されていた。。「脇差 貞宗」は、越前 丸岡の城主だった本多成重の所持した短刀。その短刀を越前の康継が写して、作成したものらしい。丸岡城は以前行ったことがある。「一筆啓上」でも有名だ。
 写しの短刀には「越前国康継」と刻銘されているのが読める。焼けた刀は錆びているというか、赤茶けている。刀剣は火災の高温でも溶解することなく、原型はとどめている。鍛造するときに高温で鍛えているので、一般の火災では溶解することが無いのだろうか?。

 説明には「再刃」という言葉が何回も登場した。文字通り、一度焼けた刃を直して刃文を復元するというか、造り直すという意味なのであろう。
 今回の企画展の名称にある「REBORN」とは、「現代に蘇る昔の刀剣」のことかと思っていたが、全く相違した。一旦焼けたが「再刃」して文字通り「再び蘇った」刀であったのだ。私は誤解していた。

 室内の柱の横に短刀の展示の独立ガラスケースがある。「短刀 銘 宗近」である。名古屋の徳川美術館の所蔵であった。独立したケース内の展示なので、特別な刀かと思ったが、特段印象に残る来歴は無かった。

 第二ガラスケース。
 まず「明暦の大火」の解説ボード。大火の説明には「・・・・・江戸城にも 飛び火した。 西の丸は類焼を逃れたが、このとき本丸、二の丸、三の丸が焼け、本丸天守閣も焼け落ちた。其の後、江戸城の天守閣は再建されなかったと書いてあったかは・・・・、忘れた。実際に、再建されずに現代に至っているし。

 この明暦の大火で焼けた刀が展示してあった。
 かの桶狭間の戦いのときに今川義元を討ち取ったという刀なのだそう!!。「桶狭間」といえば尾張の「信長」の戦いである。どうして、西暦で1657年、桶狭間から100年近く後の大火、しかも江戸の火事で焼けたのか?。
 重要文化財の「刀」、その名も由来からとって「義元左文字」 建勲神社所蔵。金象嵌で、「織田尾張守信長」と本当に彫刻されている。裏には「義元討捕・・・所持刀」とあるそうだ。一度、焼けたので、同じく茎の部分は赤茶色で鉄の成分が酸化して露出している感じ。再刃しても、根元の茎の部分は再刃していない。切る「刃」の部分ではないので当たり前か・・・。
 討ち取りに使用した後、武功を残すため、彫刻したのだろう。金色の文字は鮮やかだが、大火で焼けた後に再び入れたのだろう。説明によると由来は「豊臣秀頼から家康に渡り、徳川家が所蔵したが、明治時代になってから、信長を祀る京都の建勲神社に奉納された」そうだ。「刀」なので太刀のように刃は下向きの展示ではなかったと思う。








「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞1

 「REBORN 蘇る名刀」 佐野美術館 (三島市) 鑑賞1   2019年2月

 佐野美術館に初めて来ました。今まで三島には何回も来ているのに佐野美術館のことは知らなかったのだ・・・。知ったのは、ほんの3年か4年前のことだ・・・・。「刀剣女子」がブームとなり、関連して重要な刀剣を多数所蔵している佐野美術館が取り上げられるようになったからだ。
 特に昨年、京都国立博物館で開催された「京のかたな」展では佐野美術館の館長さんもテレビ番組で解説に出演された。よって佐野美術館がマスコミでも広く紹介されたのは記憶に新しい。最近まで知らなかったのは、本当に恥じるべきことだ。
 しかも当初「佐野美術館」は栃木県佐野市にあるのかとも誤認してしまい、実際の所在地、静岡県三島市と結びつかなかった・・・。本当にお恥ずかしい限りだ・・・。
 
 今回は、車で御殿場経由で三島に向かった。三島市街地の手前、新幹線の線路や東海道線のガードをくぐる道路は渋滞して、混雑している。三島大社付近の道路などを通過。久しぶりの三島だが、何回も来ているので慣れているぞ

 「市街地を南下し、修善寺への鉄道線路の踏切を渡る。と、道路沿いに「佐野美術館」と小さい看板がある駐車場に車を入れた。15時頃に着いた。
 Pには、車がたくさんある。「松韻」の料理店と併設であった。「なーんだ、いつも通っていた、この料理店の駐車場が、美術館の駐車場だったのか!!。」と改めて思った。三島のうなぎの店を探していたときに、この店の前は何回も通ったことがあった。特に「三島うなぎ」と看板は出していなかったので、今までここで食事をしたことは無い。「随分、車が停まっていて混雑しているお店だな。」という印象はあった。

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 駐車場(P)の端には美術館の案内看板があった。「ああ、本当にここにあるのだ。」と再確認に、なんだか安心(笑)

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 門のような通路があり「入口は、ここかな?。」と思うが、美術館自体は「庭園を抜けた先」と表示が出ている。 建物の脇の通路を通り、庭園へ。と、母と娘らしき女性二人が庭園を散策している。
 庭園から、料理店の店内の様子が見える。昼食時なので、店内は混雑しているようだ。庭園側はガラス張りになっていて、眺めながら食事ができるようになっている。
 事前にサイトで確認した通り、美術館は庭園に隣接している(というよりも庭園内にある)のだ。

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庭園から、料理店の建物外観

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 庭園を抜けるとコンクリートの建物が見えた。四角いコンクリートの高床式の無機質な建物。この日は企画展の開催最終日だ。またしても、最終日の訪問となってしまった・・・・。
 駐車場は館の建物の周囲にもあった。
 
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 階段を昇り、館内に。結構、観覧者が建物の外観を撮影している。美術館の建物に隣接するPは、表通りの道路とは反対の住宅地側から入ることができるようになっていた。「気付かなかったな。今までも、来ていればよかったな。」と思いつつ、階段上から目の前のPの様子と周囲の住宅地を見ながら入館した。
 と、ロビーには、小さいながらもショップがある。いましたよ~ここにも刀剣女子が。というよりも、既にここ佐野美(と以下略称する。)は「刀剣女子」の重要な聖地のひとつである。
 女子の入館者がショップに数人いる。皆、グッズなどを見ている。
 受付はメガネをかけ黒髪を後ろで束ねた黒いスーツ姿の女性が1人立っている。受付係員は1名のみで入館券の販売も「短刀」ならぬ、「担当」していた。1000円丁度の入館料金。千円札1枚を出して購入する。
 ロビーの柱には「(この企画展で) 二万人入館達成!!」と垂れ幕がかかっている。
 企画展「REBORN 蘇る名刀」の会期は、1月の上旬から休館日も含めて1ヶ月半くらいである。2万人という数字が多いか少ないのかは、何ともいえなはが、ここ佐野美では、恐らく空前の入館、鑑賞者なのであろう。 以前は、大勢の入館者が押し寄せる美術館ではなかったであろう。
 三島市内の他の観光施設と連携したスタンフ゜ラリーの台紙が置いてあった。しかし、スタンプラリーも本日が最終日であった・・・。よって、スタンプを集めることは不能だ・・・。でも台紙は貰った・・・。



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敦井美術館 「陶聖 板谷波山展」 鑑賞3 新潟市

 敦井美術館 「陶聖 板谷波山展」 鑑賞3 新潟市 2018年8月

 新潟市にある「敦井美術館」(つるいびじゅつかん)、会期は、7月9日から9月22日の土曜日まで。
 
 私が入館したのは、開館時刻直後の午前10時01分くらいであったので、本日最初の入館者であったが、あとから 70-80歳台くらいの女性と息子夫婦と思われる組が入館してきた。次いで、60歳くらいの夫婦が入ってきた。

 波山は、ざくろを好んで用いたようだ。重要文化財「彩磁禽果文花瓶」や「葆光彩磁珍果文様花瓶」と似たモチーフの作品がいくつか展示してある。しかし、どれも小さい作品である。果実や葉の表現が似ている。上記二点が波山の代表作なのでろあう。小さい作品がいくつもあって、大作を制作したのだろう。

 美術館の所蔵作品図録が展示室内のイスの横に置いてあったので見る。今回の出品作品のうち、代表的なものの解説と写真の掲載があった。

 波山の妻も制作を手伝ったそう。「板谷玉蘭」の名で、作品の皿の展示が1点だけあった。「マジョリカ 蕪皿」と作品名が書いてあって、カラフルな彩色の蕪の絵が底に表現されているお皿だった。

 展示の最後の方に、敦井産業創業者、美術館創設者、敦井氏77歳喜寿の祝いの茶碗があった。小さいが波山がオリジナルで制作した作品で「喜寿」の文字が木の枝のような文字に浮かびあがるようにデザインされている。「仙桃茶盆」(「盆」は当て字。正確には違う文字。)。長寿を祝う、桃の果実と枝の作品であった。
 波山の晩年の作品でもあり、敦井氏と波山の深い親交を物語る作品である。敦井氏は、波山に作品を注文していた、いわばヘビーな顧客だったのだ。
 絶筆となった波山の小さい「鉄線花」絵(スケッチ)もあった。波山は満91歳の長寿で没していた。文化勲章を受章した時の写真や最晩年の写真もガラスケース内の壁に掲示されていた。

 他の人はまだ展示室を見ていたが、私はもう一回、重要文化財「彩磁禽果文花瓶」と「葆光彩磁珍果文様花瓶」をじっくりと見て、退出した。
 


↓ 美術館の外、入り口の横に掲示してあった看板。
左、重要文化財「彩磁禽果文花瓶」と右、「葆光彩磁珍果文様花瓶」など。
バスと通行人がガラスに反射して映っている。
  

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 車を取りに戻る。あとで、美術館パンフレットを見て知ったのだが、40分間無料になる指定パーキングがあった・・・。気づかなかった・・・・。

↓ 北陸ビルの一階に美術館はある。車を取りに戻る際に道路の反対側から撮影。
 


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敦井美術館 「陶聖 板谷波山展」 鑑賞2 新潟市 2018年8月

 敦井美術館 「陶聖 板谷波山展」 鑑賞2 新潟市 2018年8月

 新潟市にある「敦井美術館」(つるいびじゅつかん)、初訪問である。
 
 会期は、7月9日から9月22日の土曜日まで。
 入館したのは、開館時刻直後の午前10時01分くらい(笑)。本日最初の入館者である。室内には私以外に誰もしない。シーンという静寂に展示室内はつつまれている。曇天であるため、今までよりは幾分気温が低い。が、この夏の猛暑である。美術館に向かう途中で既に汗をかいているため、室内は冷房が効いていて涼しいので助かった。
 茨城出身の板谷波山の展覧会である。入口横に波山の経歴が掲示されている。現在の筑西市(合併前は下館)の出。北関東の関東平野のドマンナカの出身だ。「波山」の号は「筑波山」からとったことは容易に想像できる。彼の故郷からは雄大な筑波山が間近に見えるのだろう。
 以前、つくば市(つくば研究学園都市)に行ったときも北の方向にそびえる、筑波山が大変大きく見えたものだ。
 明治5年に生まれ、東京美術学校を卒業している。横山大観とは5年違いであるが、出身学校は同じ、出身県も同じ茨城である。が、波山は下館、大観は水戸と離れているし、陶芸と絵画とジャンルは違う。二人にどれだけ交友があったかは、展示からは分からない。年賦によると波山は岡倉天心を尊敬していたという点では大観と共通しているので、それなりの交友はあったと思うが、推測でしかない。
 
 順番に展示室を見ていく。順路が定められている。ほぼ、長方形の展示室を時計と反対まわりに見ていく。
 最初は、花瓶や香合、壺?などの比較的小さい作品。いわば、イントロダクション展示。展示品リストには50点の波山作の展示作品が掲載されているが、掲載は制作年代順であり、実際の展示の順番とは異なっていた。
 ガラスケース内部の展示作品を見ていくのだが、ガラスケースに展示室外のロビーや外の道路を通行する車が反射するのだ・・・・。先程私も開館前に通ったのだが、外の通りを走る路線バスが反射して目にはいってくる。実をいうと展示室内は全くの「静寂」という訳ではなく「ブブーン」という、バスの走る音も聞こえて来ることもある。


 重文(重要文化財)作品は、展示室が折れ曲がるところにあった。展示室は長方形ではなく、くぼんでいる所がある。その角のガラスケース内に大作の展示があった。
 「彩磁禽果文花瓶」

 大きい。高さは1メートルはないが、デカい。「さいじ きんかもん かびん」とふりがなが振っている。その名通り、禽獣、鳥の姿が表現されている。果実は「ザクロ」だそう。

 鳥は、人間のような顔つきをしている。鳳凰だ。「禽」は伝説の鳥であった。実在の鳥ではない。
 鳳凰の横に植物は、ざくろの実とその周囲の葉が描かれている。解説によると、鳳凰はむかいあっているそうだ。作品の「展開写真」の掲示が傍らにあった。オスとメスの鳳凰だ。オスは勇ましく、羽を広げていて、メスはオスの方向をかいがいしく見ていた。(というより、見つめ合っていた。)
 展開写真のメスの鳳凰は、残念だが、どんなに私が首をのばしてガラスケースの後の壁にかくれてその顔は 見ることができなかった。オスの鳳凰を正面に向けて展示しているため、真裏のメスは鑑賞不可能なのだ。
 ざくろのも向かい合ったて表現されている。花瓶は全体的に薄い彩色がされている。濃い彩色ではない。何となく、淡い彩色。

 解説パネルによると、戦後昭和34年、東京のデパートの日本橋高島屋?で開催された波山の個展に出品され、波山自身も代表作と、い並ぶ見学者に解説したそうだ。その模様の写真が掲示されている。死去数年前、齢(よわい)80何歳に達した波山と作品の大きな花瓶とたくさんの見学者のモノクロ写真だった。
 泉屋博古館所蔵の作品に続いて、波山の二番目の重文指定の作品と説明文にある。指定は平成18年なので、指定から10年と少ししか経過していない。


  重要文化財「彩磁禽果文花瓶」の隣に展示してある花瓶も大きい。首の部分が無いだけ、隣の花瓶よりも低い程度の高さ。「葆光彩磁珍果文様花瓶」。「ほうこう さいじ ちんか もんよう かびん 」と読む。
 青い色と花の淡い赤が目立つ。色彩が濃いので重要文化財「彩磁禽果文花瓶」よりも目立つ。
 「ほうこう」が最初、読むことが出来なかった。この「ほうこう」についての説明も書いてあった。


↓ 館外の看板から。
左、重要文化財「彩磁禽果文花瓶」と右、「葆光彩磁珍果文様花瓶」。
実際の展示ケース内でも左右の配置が同じで並べて展示されていた。

  

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 「ほうこう」はその通り、淡い光を保存する技法という意味だった。説明文によると波山は素焼きして、保存料?をその都度落とし、赤、青などの色ごとに焼いて色づけしたそうだ。大変手間のかかる技法であった。


↓ ビルの一階に美術館はある。建物角には「敦井美術館」の表示がある。
 この画像の撮影位置の角度からだと、外からも展示品が見えてしまうくらい、外光が展示室内に入る館であった。


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敦井美術館 「陶聖 板谷波山展」 鑑賞1 新潟市 2018年8月

 敦井美術館 開館35周年記念「陶聖 板谷波山展」 鑑賞1 新潟市 2018年8月

 新潟市にある「敦井美術館」にやって来た。
 久々の新潟市だ。実に2009年8月以来9年ぶりの訪問。前回は、マリンピア日本海に直行し、他の場所を見ずに帰ったので駅周辺の市街地は初めてだ。

 夏の新潟、今回の企画(特別)展の目玉は、板谷波山作の重要文化財指定の「壺」。波山の作品は2点が重文に指定されている。うち、1点がここ新潟の敦井美術館に所蔵されている。今回の展覧会では重要文化財指定作品が「特別展示」されるというので、やって来た

 車で新潟までやって来た。本当は新幹線がよいのだろうけどね・・・・。
 新潟亀田インターをおり、一般道を市内へ。新潟駅の北側道路にやって来た。左手に同駅を見ながら、交差点の先、進行方向の左手のビルにシャッターがおりていて、シャッターには「敦井美術館」の文字が見えた。ここだったのだ、と理解した。

 開館時刻(午前10時)まで少しある。万代橋を渡り、オークラホテルの前を通る。オークラは信濃川沿いのビルで目立つ。某政治党の会合か講演会があるらしい。その先を曲がったりして、市内を走行視察。屋台のある通りを抜けて とある店の前でツレおろした。美術館には行かないため、この付近をプラプラするそう。

 私は美術館の方向へ車を走らせる。もう一度、万代橋を渡る。橋は「まんだいばし」と思っていたが、「バンダイ」と発音すると知った。
 さて、車を停めるコインPを探する。と、伊勢丹がある。開店直前で近くのPに停めた人が店舗へ続々歩いて移動している。新潟では一番大きいデパートのようだ。と、ある一角にPを見つけて停める。広いPですいている。
 道路を渡り、少し歩くと広い通りに出た。さらに適当に歩くと「新潟駅まっすぐ」の表示。と、先ほど通った交差点、駅の方向に美術館の入っているビルが見えた。
 「北陸ビル」とある。ビルに入る。「美術館は奥」と表示がある。ビルの廊下には警備員がいるが、他の人の出入りは無い。この日は、お盆期間の平日である。北陸ビルは古いオフィスビルのようで、会社のオフィスがテナントで入居している。
 ビル1階の廊下を歩くと、「← 敦井美術館」の表示がある。美術館入口に鉄製の重い扉があった。扉には「本日、墓参のため15時で閉館」と張り紙がある。
 扉を開けると、明るい部屋に出た。入口のエントランスがある。明るいロビーである。チケット売り場のカウンターがいて係員の女性が座っている、カウンターの人にクールビズ初老の男性が立っており、その女性係員とおしゃべりしていた。私が入ると「いらっしゃいませ。」と。
 券を購入する。入館料500円である。男性はカウンターの横にある二階への階段を昇って去っていった。上のフロアに事務所があるらしい。敦井美術館の母体企業の敦井産業のオフィスだろうか。
 敦井美術館は「日曜休館」である。この日は、お盆期間中の平日なので開館していた。うっかり、日曜日に来てしまうと「本日休館」なので要注意だ。

 「展示室は、こちらです。」とカウンター横のガラス壁の内側の部屋を示された。時刻は10:01に入館。本日、最初の入館者である。ロビーから展示室内の様子がわかる。見ると、室内にはガラス展示ケースが壁に沿って設置されていて、展示品がある。外光が入る展示室になっていた。
 ガラス戸をあけて展示室に入る。展示室はこの一室のみらしい。しかも、明るい外の光が思いっきり入る。てっきり、出光美術館やかつてのブリジストン美術館のようにオフィスビルに入居している美術館なので、二階以上の上層フロアにあると思っていた。

 改めて展示室の中のことである。室内には私以外誰もいない。余計だが「ビルの一階で大丈夫かな。」と思った。新潟の市街地図を見ると信濃川の砂州に発達したのが新潟市の中心部。先ほどの(通った)万代橋の先にあるエリアが、かつての新潟の港町の中心だったらしい。よって、ここ駅付近ではなく、駅から見て川を渡った先が かつての新潟の旧市街ということになる。水害があると、この一階部分しかない展示室ではどう防ぐのであろうかと、余計な心配をしてしまった。(苦笑)
 二階はオフィスで階段で繋がっているようなので「災害時は二階以上に収納するのだろうか。」と思った。

  

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 ↓新潟駅前の通りに面した北陸ビルの入口。
 美術館の表示とポスターは掲示されているが、実質的にテナントの会社事務所の入口。

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↓ 敦井美術館に入る前に撮影。
  画像奥が、新潟駅。新潟駅から万代橋に方面にまっすぐ伸びる新潟のメインストリートに北陸ビルはあった。


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 メインストリートと交差する道路。
 開館時刻前に美術館の前を通ったときは入口のガラスドアはシャッターが閉まっていた。
 
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国宝 可翁筆「寒山図」公開 特別企画展「禅宗と茶の湯の美」 サンリツ服部美術館 見学3

 2016年7月17日 日曜日 
 
  長野県、諏訪湖畔にあるサンリツ服部美術館の特別企画展「禅宗と茶の湯の美」。国宝の可翁筆「寒山図」が特別公開されている。 

  可翁筆「寒山図」の修復の模様が、写真パネルで解説されていた。展示室のガラスケースとは反対側の壁に掲示されている。作品の裏打ちの紙をはがして、新しい裏紙を貼り付けしている。作業をしている様子の写真がある。若い女性が作業をしている様子が写っている。筆を使って、表面の汚れを落としていっている。作品の表面も修復前は、どこか黒ずんで、水墨の輪郭が分からなくなっているが、修復後は輪郭線がはっきりとしている。
 寒山のお顔の横も以前は、赤っぽい複数の線のような汚れがあったように見えるが、修復後はきれいに落ちて、画面がすっきりしている。数年間はかかったであろう、修復を経て今回の「初公開」となったことが分かった。
 修復は所蔵者が支出し、国も補助金を支出しているのだろうが、いくらかかったのか、企業や個人の寄付金を募って修復したのか、修復機関はどこであったのか、何人で修復を担当したのか、までは解説が無かった。
 このたびの「特別出品」はある日突然、「初公開」と称して行われたような感じなので、尚更謎を呼ぶ。

 可翁筆「寒山図」の真正面の壁側に看視員のイスがあって、警備員か美術館の人でろあうスーツ姿の男性が看視係となっている。
 ただし、先程じっと単眼鏡を見たまま作品の前で動かなかった「おっちゃん」に大しては、看視員は何も言わなかったが・・・・。すいているので、その人が陣取っても真正面から見れないだけであって、鑑賞に支障をきたすものでは無いからだ。
 警備員のイスのうしろの壁には、美術館の開館に寄せての故・服部一郎氏夫人のことばの掲示があった。開館以来、常時展示室内に掲示されているのであろう。
 「・・・・・・・・亡き夫、服部一郎は、出張のたびに訪れるここ諏訪の風景と自然を愛していました・・・・このたび、亡き夫の・・・・」というような挨拶文である。
 創業家とはいえ、服部家の生活基盤は創業の地で主力工場のある諏訪ではなく、すでに東京であり、経営者として諏訪に出張していたということだろう。

  第二展示室には、その他茶道具や陶磁器などの展示があった。美術館の展示室は、すべて2階。高床式のような造りだ。

 1階入口のロビーに降りた。販売コーナーには、美術館の図録や絵葉書などが販売されている。が、国宝の茶碗の絵葉書はあるが、「国宝 寒山図」の絵葉書は「7月下旬入荷予定」の表示があり、私の訪問時には、販売されててなかった・・・・。
 図録までは詳しく見なかったので、この国宝絵画の来歴や所蔵者は分からなかった。ただ、図録に詳細が記載されてるかは、分からない。
 作品前の解説文にも載っていなかったが「国宝 寒山図」の所有者はここの美術館の所有ではなく、故・服部一郎氏の親族の所有だろう。しかも故人の夫人や子女ではなく、一族のうち個人の誰かではないだろうか。
 
 後日見た、文化庁のサイトからリンクできる国宝サーチのウェブサイトによると国宝指定は昭和27年。所在地、所有者は「東京都 個人蔵」とある。やはり、本美術館の所有ではない。服部セイコーグループ創業者の子孫で現在もグループ企業の大株主である個人の所有なのであろう。よって、創業の故地、一族の代表者であった故・一郎氏の没後30周年と(恐らく、数年に渡る)修復を終わったことを機会とし、故・一郎氏の収集美術品を所蔵している諏訪の本美術館での公開となったのであろう。

↓ サンリツ服部美術館の前の道路。空がどんよーりしている。

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 ↓ サンリツ服部美術館(以下、主に「本美術館」と書く。)の1階、外側にある入口スロープ。パリアーフリーになっている。(上の写真とほぼ同じアングル)
  右の桜並木(葉桜だが・・)の向こう側が諏訪湖だ。湖畔道路は渋滞をしている。
  並木の向こうに諏訪湖「間欠泉センター」の建物が見える。

 が、美術館の駐車場はご覧のようにすいている。渋滞している車列の中かから、見学に入って来ないのが不思議なくらいだ。 国宝「寒山図」は、かつて切手の図案になったとはいえ、知名度からいうと低い。よって、その「初公開」といつてもあまり話題にならなかったのかも・・・。

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 湖畔の駐車場は、すべて満車で駐車する余地が無かった。サンリツ服部美術館に来る途中、湖畔近くで信号待ちしていると、目の前をアノ「水陸両用車」がお客さんを乗せて、通過して行った。湖畔の停泊場の広場に入って行ったようだった。すぐに、ドボンと湖に入るのだろう。オープンバスのように屋根が無かった。満席のようたっ゛た。デレビでも紹介されているので、おなじみですね(笑)。
 反対にここサンリツ服部美術館がガラガラなのは寂しい限り。せっかくの貴重な国宝の特別公開だというのに。
 道路を渡ると諏訪湖畔の桜並木のある土手なのだが、湖畔には行かなかった。この付近(上諏訪)で諏訪湖畔に来るのは、小学生の時以来かも。昭和60年代のことだった(笑)。今から30年近く前のことになる。
 先程も美術館の2階から見たところ、湖水には「アオコ」(藻)が増殖しているようだった。当時購読していた「小学〇年生」で「諏訪湖の富栄養化による藻の繁殖」読んだ記憶があって、実際に見て「ああ、藻が繁殖していて緑色の水に濁っているな。」と感じた。今回、大人(というか、すっかり歳を重ねてオッサン)になってから改めて見たが、改善はされているようだが、遠目に見ても、藻が発生して水中に漂っている感じだった。
 ただ、当時は道路はたの駐車場のような所から水面を眺めたが、今回着てみて、道路、歩道は整備され、温泉ホテルの立派な建物が並び、湖畔には桜の並木もある。美術館なども立ち並び、ずいぶんと変わったようだ。(ほとんど、覚えていないが。)
 「間欠泉センター」にも行ったことがあるような気がするが、覚えていない・・・。他の記憶と混同しているかも知れない(苦笑)。
 サンリツ服部美術館の今回の展示は「服部一郎氏没後30年」を機会としているので、財団や美術館設立はその後のことだろう。従って私が小学生当時、訪れたとき、この美術館は開館していなかったと思われる。

 美術館を出て、車に乗り込む前、しばし周囲の風景を眺める。
 ↓ 美術館の敷地の北側。上諏訪の市街地と山々。

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↓ と、水が流れ出ていた。湧水かな?と思い、手を当ててみると「熱い!」。なんと、お湯だった。温泉が湧き出ている。(この付近のどこかにある源泉から引いているのだろうが。。。)。
 しかし、温度は40度くらいで、物すごく熱い訳では無いのでヤケドはしません(笑)。
 ここは、上諏訪の温泉街のはずれにある。電車で簡単に来れる標高750メートルの高原の街と温泉街だ。


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↓ 南側。高床の下側のパーキンク゛。向こうは諏訪湖。
  霞んでいて見えない。今年の梅雨明けは遅い。この三連休のうちに梅雨明けするかと思ったが、まだだ。
 その代り、湿度は高いものの涼しいのとは助かる。標高750メートルの高原地帯とはいえ、炎天下では暑いだろう。

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↓ 南側。高床の下側。向こうは諏訪湖。

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↓ 本美術館の建物の裏側から。細長い高床の建物。
  西隣は「北澤美術館」がある。ガイドブックには、たいてい「北澤美術館」は紹介されているが、ここ「サンリツ服部美術館」は地図のみの表示であることが多いようだ。
 知名度という点でも「サンリツ服部美術館」はもうひとつといったところか。同じく湖畔にある重要文化財指定の建物、片倉館は混雑していた。テレビで取り上げられたこともあるが・・・・。


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 ↓ 東側。お隣のタンクは「信州みそ」の工場だった。駐車場の敷地は広いが、車が全然停まっていない。


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 ↓ 二階の展示室の外観。東側の第二展示室。この中の中央壁側に国宝 可翁筆「寒山図」の展示があった。
  柱の上には、「ネズミ返し」がついていて、正倉院を思わせる造りだ。

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 再び、「高床式」の建物の下に停めた車に乗り込み、出発する。道路に出て、渋滞の車列の中に入り込む(笑)。
 先程通って来た諏訪湖畔の道を通るのだが、湖畔道路の「外回り」は渋滞しているので、途中で細い道に入り、上諏訪駅の前の道を通過。上諏訪駅横の踏切で中央線を渡り、国道20号に出た。
 次に「尖石遺跡」に向かう。茅野市に向かう道を途中で分かれて、山の方向に進むことになる。意外にも茅野市と諏訪は距離がある。茅野市までの国道20号線は、交通量が多くスピードが出ない。30分以上かかった。「尖石縄文考古館」を見学したが、閉館は16時30分と、30分も見ることが出来なかった。本美術館も早足で見たつもりだったが、諏訪湖畔の間欠泉センターは断念した。子供達も興味が無いらしい・・・・。そのためか分からないが、「尖石縄文考古館」の開館時間帯には間に合った(笑)。

 
 なお、サンリツ服部美術館で今回の特別企画展のチラシは置いていなかった。配布していないのか、配布終了したのかは、分からなかった。しかし、「尖石縄文考古館」には、サンリツ服部美術館の特別企画展「禅宗と茶の湯の美」、国宝 可翁筆「寒山図」特別公開のチラシが置いてあった(ラッキー)。
 美術館ではなく、別の文化施設などにおいているのですね(笑)。

 ↓ サンリツ服部美術館の特別企画展「禅宗と茶の湯の美」、国宝 可翁筆「寒山図」特別出品のチラシ
   (A4サイズ)、尖石縄文考古館で入手。

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 ↓ サンリツ服部美術館の特別企画展「禅宗と茶の湯の美」の展示リスト。

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国宝 可翁筆「寒山図」公開 特別企画展「禅宗と茶の湯の美」 サンリツ服部美術館 見学2

 2016年7月17日 日曜日 
 国宝 可翁筆「寒山図」公開 特別企画展「禅宗と茶の湯の美」 サンリツ服部美術館 見学2
 
  三連休の真ん中の日曜日。長野県、諏訪にある「サンリツ服部美術館」にやってきた。7月10日から始まった企画展。服部一郎没後三十年 特別企画展「禅宗と茶の湯の美」。8月2日までが前期。前期の目玉「初公開」の「寒山図」を見にやって来た。

 ↓ サンリツ服部美術館の2階のテラスから、窓ガラスごしに諏訪湖。
   湖畔の木々に隠れて、水面が写真では判りにくい。しかし、実際には、湖水がよく見えて、眺めが良い。
ただ、岸辺に近い所では水中に藻のような植物が浮遊しているようだ。緑色に水面がゆらゆら揺れている。
 うーん、天気は雲が多い。梅雨明けは、まだだ・・・。

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 眺めのよいテラスの前は、カフェになっている。長方形の建物のちょうど真ん中の部分だ。席数は多い。諏訪湖が一望できる。カフェには、一組しかお客がいない。2階のカフェと展示室につながる通路はガラン、シーンとしている。
 
 展示室内は撮影禁止なので、写真は無い。
 カフェの奥に入口がある第二展示室に入る。室内に入ると長方形の横に長い展示室である。室内全体を見ると、ありましたね~。国宝可翁筆「寒山図」が。遠目にも「あれだ。」と分かった。大きさは・・・・というと、思ったよりも小さい。遠目には、床の間に飾る掛け軸と同じくらいの大きさだ。
 
 ↓ 美術館入口前の柱の装飾。帰る際はこの柱の横で記念撮影をした(笑)。
   撮影禁止のため、美術館の外に掲示された写真を基に、国宝 可翁筆「寒山図」(以下主に「国宝寒山図」と書く。)などを鑑賞した感想を書いていくことにしよう。

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 まずは、展示室を最初の作品から見て行った。
 「偈頌」(漢字が・・・・)、「法語」など墨蹟の展示がある。読み下しの解説文も配布していた。禅宗の僧の筆になるもの。掛け軸になっている。「餞別偈」は「月庵宗光」とある。南北朝時代の墨跡。「・・・万事休・・・」と読める。
 テーマが「禅宗と茶の湯の美」であるので、茶室、床の間?に掛ける掛け軸や茶器が展示されている。

 下の子は、すいている室内をさーと見て、展示室を出て行ってしまった・・・。下の子は国宝「寒山図」の前をも一瞥しただけで通り過ぎてしまった・・・・。このとき、この国宝の前には、誰も観覧者はいなかった。貴重な国宝を独占して見れる機会は滅多に無いのに・・・・。こんなことするのウチの子だけです(涙)。この国宝、もしかしたら、下の子自身がおぱさんかお婆さんになるまで、公開される機会は無いかも知れないのに・・・・。
 ウチの子が「国宝」の前を「スルー」した直後、50歳~60歳くらいの男性が、その前に陣取った。単眼鏡を片目にあててじっと国宝「寒山図」を眺めている。すぐ、又は長くても数分で移動すのるかと思ったが、国宝の正面に直立して、ガラスケースの前から全く移動しないのだ・・・・。これには困った・・・・。
 私は、展示品をほぼ順番通りに見ていった。そのうち、私が国宝「寒山図」の前に来る迄には、どくかな?、と思ったがトンダ見当違いだった。このおじさん、入室は私よりもあとだったのだが、全く移動しない・・・・・・。
 私が順番に展示品を見て、国宝の前に至ろうとした(考えた)のに、この人は入室するや否や、スーっと国宝「寒山図」の前にやってきて、陣取ってしまったのだ・・・・(愕然)。


↓ 美術館入口前の柱の装飾より。

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  国宝 可翁筆「寒山図」の隣は「伝周文」の「望海楼図」だった。国宝「寒山図」と同じく水墨画で、こちらは風景を描写している。大きさは、国宝「寒山図」とほぼ同じだ。
 「望海楼図」の名の通り、昔の中国の楼閣と岩山と川のような流れと海が表現されている。

 先ほどの「おっちゃん」は全然移動する気配が無い。単眼鏡を片目にあて、じっと国宝「寒山図」を眺めている。正面に陣取ることが出来ないので、 「望海楼図」の横から「寒山図」をまずは拝観。

 作品の前の解説文には次のような説明があった。「可翁は南北朝時代の画僧で、現在、世界で作品数は十数点しか確認されていない。まぼろしの画家である。・・・・本作品は、今回が初公開となります。」と。
 企画展のコピーに「まぼろしの国宝」とあるが、作品の「初公開」による「まぼろしの国宝」という意味と、作品数が極めて少ない画家の筆になる「まぼろしの作品」という意味とを「引っかけて」いる。
 この作品「紙本墨画」なの水墨画であることは分かる。が、説明文には大きさが書いていないし、展示リストにも記載が無い。お隣に展示している「望海楼図」とほぼ同じ大きさ。高さは1メートルくらいだろうか。見上げるように展示してあるので、実際よりも間延びして見える。横幅は30センチくらいかな。

 「寒山」は、「寒山拾得」として表現されることが多い。近世まで、寒山拾得の画は数多く制作されただろう。この画は「寒山」のみのアップの画。「寒山は・・・僧で・・・」と解説文にある。
 髪がボサボサ。カッパのようだ。奇人、変人と言われた?、寒山の人物像を見事に表現している。現代風にいうと、頭はキレて知恵者ではあるが、ちょっと行動のおかしい人というところか・・・・。

 南北朝時代というと、戦乱が続いていた時代。同時代の僧は、絶海中津や夢窓疎石など、現在も残る禅宗の寺を創建した僧がいた時代と重なる。可翁は、当時の有名な僧とも交流があったのかは、全く分からない・・・。
 大徳寺の祖、「大燈国師」とも同時代の筈。現代においては、経歴、生没年すら不明の謎の画僧は、自身、奇人「寒山」に相通じるものを感じていたのだろうか?。

 さて、しばらく「国宝寒山図」の真正面が空くまで、別の展示ケースを見る。
 独立したガラスケースには重要文化財「玳皮×天目」茶碗がある。(一文字漢字が出ない)
 「タイマイの甲羅の模様のような」茶碗であるから、「たいひ」なのだそう。黒地に白っぽい、まだら模様が広がっている。確かに「タイマイ」の甲羅だ。
 別の独立ガラスケース内には重要美術品指定 南宋時代の「唐物肩衝茶入 銘 筑紫」が。小さい茶入れの陶器?。銘がどこに入っているかは、分からないが・・・。この「茶入 銘 筑紫」の独立ガラスケースの脇で、可翁筆「寒山図」の真正面に陣取る機会を待つ。平らのソファも傍らにあるので、ここに座って、遠くからも鑑賞する。
 展示室内は、私達を入れて十人と少しといった感じ。私達が入館した後、入館者も増えて来たような感じが。  
 
 鑑賞者は、(真正面に陣取っている人とは別の)60歳くらいの男性や先程、第一展示室にいた子連れの女性、50歳くらいの夫婦。若い背の高い男性など、必ずしも年配者とは限らない。
 妻は、必ずしも美術関係に興味がある訳ではないが、さすがに「寒山図」の前に陣取って離れない男性に苦笑していた。15分位して、やっとその男性がどいた。かなりのマニアであった(笑)。男性は、展示室の最初のガラスケース内の作品を順番に見て行っている。どくや否や、サッと私は「国宝寒山図」の前に陣取る(笑)。国宝の前には、私も含めて2人か3人くらい。ゆっくり鑑賞できる。でも、ずっと真正面に陣取るのはヤメましょう(笑)。

↓ 美術館入口前の柱の装飾より。
  (以下、鑑賞した感想も含めて書いていく。)

 下半身部分の拡大。わらじと足の指の描写が精密だった。足の指の向きがあれえへんくらいに曲がっている。
「これじゃあ、足の指が地面に当って、痛くないのなかな。」と思った。奇僧の寒山ならではの、姿だ。風体を寒山は気にしないのであろう。
 「可翁」と書いているような落款が鮮やか。「隷書体」の落款なのか。「幻の画家」であるのに落款が鮮明に残っているのはギャップがある。

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↓ 美術館入口前の柱の装飾より。

 寒山の顔は、現物では、写真ほど良くは観察できない。
 展示室では、上方にあり、私の身長でも見上げるような感じでの鑑賞になるから。
 やはり、くちびるが特徴的。くちびるとお鼻の高さがあまり変わらない。
 元祖、キャラクターの「クチパッチ」のような感じだ。(たとえが悪いか・・・・。)

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 ↓ 美術館入口前の柱の装飾より。 寒山のお顔の部分の拡大。
  作品を見るとき、まず最初に顔の部分を観察した。
  上述の通り、現物では写真ほど良く観察できない。

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 ↓ 美術館入口前の柱の装飾より。

   画面の上には、木が水墨で表現されている。木の枝が垂れ下がる様子が見事だ。
   木の下で笑っているのか、考えているのか、正気でないのか、奇人の寒山の様子が表現されている。
   木と人物が見事に調和している。木の下の絶妙なアングルで寒山が佇んでいるのだ。

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 「この国宝、もしかしたら、ウチの子自身が、おぱさんかお婆さんになるまで公開される機会は無いかも知れない。」と書いた。が、今回鑑賞して、「服部一郎氏没後30年」の機会のみならず、修復を契機に公開されたことが分かったので、今後は、毎年とまではいかないまでも、数年に1回は本美術館で公開されることが期待出来るかも!?。
 展示のガラスケースと反対側の壁側には、警備員が座っている。そのイスの横の壁には、修復をしている様子の写真の掲示があった。
お 顔の部分が、かなりきれいに、鮮明になっている。修復前は、寒山のお顔の左横には、(写真で見る限り)赤いヨコ縞のような汚れが付いている。顔の輪郭線も汚れていて、鮮明では無かった。


  





まぼろしの国宝 可翁筆「寒山図」公開 サンリツ服部美術館(長野県諏訪) 見学1

 2016年7月17日 日曜日 
 
  三連休の真ん中の日曜日。長野県、諏訪にある「サンリツ服部美術館」にやってきた。7月10日から始まった 服部一郎没後三十年 特別企画展「禅宗と茶の湯の美」。この期間の会期は8月2日までが前期。後期は9月上旬まで。
 前期の目玉は何といっても 「特別公開」と銘打たれた国宝の可翁筆 「寒山図」であろう。
 美術館のウェブサイト内の告知では「初公開」とある。5月の下旬に同サイトで「国宝 寒山図」の公開が公表された。なぜ、この時期に公開されるのだろうか。勿論、服部一郎氏の没後三十年の節目の年の公開ということもあろう。
 今まで公開されなかったのは、何故なのか。所蔵者は誰なのか?。同サイトでは、これらの疑問には答えてはいない。後期の展示作品である「国宝の茶碗」は、服部サンリツ美術館の所蔵であることは公表されている。しかし、ウェブサイトを見る限りは「国宝 寒山図」については特に書いていない・・・・。あたかも「茶碗」と並んで美術館「自己所有」のような書き方。ということは、同館が寄附や購入の方法で所有したことも推測できるが・・・・。又は「寄託」なのか?。謎、というか疑問は尽きないままの訪問となった。

 この3連休に長野行きを企画したのはなこと急だった。手軽に宿泊予約ができる市民山荘が野辺山にあるためだ。上の子は、学校や塾の関係で今年の夏はお盆の期間も含めて旅行は出来ないようだ。空いているのは、夏休み直前、7月の3連休ぐらいなのだそう。ならば、市民山荘を(上の子にとっては)久々に予約し、少しばかりの家族旅行とした次第。料金が格安だし、予約を取りやすいということがあるので、決まりです。
 3年前は、休暇村乗鞍を予約したが、すでにこの時期は満室だった。しかし、乗鞍は遠い。今回は下の子の希望で、乗鞍など松本、安曇野付近までは行かないことになっている・・・・・(笑)。 
 初日は、市民山荘にチェックインをする時間帯の関係上、山梨県北部や長野県では諏訪、野辺山周辺に行き先が限られる。お決まりの「シャトレーゼ」の工場にプラスして、初日の行き場所を山梨、長野の八ケ岳付近で探していたところ、諏訪のサンリツ服部美術館の国宝展示を見つめた次第です(笑)。

 2016年7月の3連休、全体の旅行記は後日書く(いつになるやら・・・(笑))として、サンリツ服部美術館の見学記から書くことにする。

 圏央道から中央道を経て、山梨県入りするのは、今回が初めて。出足が遅くて、圏央道~八王子JCT~小仏トンネルまで、渋滞にはまり、1時間以上はロスをした。更に「シャトレーゼの工場」でも入庫待ちの車の行列。
 シャトレーゼの工場を「見学」した後、北杜市からは、国道20号線を通り、諏訪盆地へ。途中、富士見峠の標高は1000メートルを超えている。峠を過ぎて、少し下った所に、「カゴメ」の工場の入口があった。この工場は夏休みの間、見学を受け付けしているようだが、倍率は高いようだ。よって、行ったことは無いし、多分今後も予約は取れないだろう。諏訪盆地に入り、茅野市を過ぎ、途中で昼食。モチロン、諏訪での昼食はB級のグルメの「みそ天丼」です。(その記事は後日書きます。)
 よって時間が押してしまい、諏訪湖畔にやって来たのは、午後2時半を過ぎていた・・・・(苦笑)。

 ↓ 美術館の入口。左の土手の向こうが諏訪湖。

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 (上の写真の「P」は、お隣の「北澤美術館」の駐車場のこと。)

 諏訪湖の湖岸道路は混雑していた。特に湖岸道路の「外回り」は渋滞。テレビでも以前紹介された重文の建物がある片倉館の駐車場は混雑している。ホテルも係員が出て、入ってくる車を待っている。
 湖岸道路を走る。美術館はどこかな、と注意して見ながら運転。と、看板を見つけた。渋滞している道路を右折して敷地に入る。渋滞している車は、サンリツ美術館に入るのではない。警備員が出てきて「美術館の見学ですか?」と聞かれる。「オブ コース」とは言わないが(笑)、「はい」と答えて入る。
 駐車場はすいている。というより、キャパに比べてガラガラだ。もっと混雑しているのかと思ったが・・・。
 中央線の特急に乗って、上諏訪駅で下車すれば徒歩でもここまで来れる。よってもすいているのかな?とも思った。
 美術館の建物はすべて2階。高床式のような造り。建物の下の1階の部分が駐車場になっている。ただし、駐車場は建物の真下だけでは無い。建物の下に停まっている車が10台も無い。ウチの車も入れて、6台くらいかな。
 三連休であるが、思ったよりもすいている。今回の「国宝 初公開」は話題にはなっていないのだろうか?。

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 ↓ サンリツ服部美術館の1階にある入口。
   柱にある「寒山図」の写真入り今回の展覧会のポスターとご対面だ。

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 美術館の中に入る。受付カウンターがあり、係員が一人いる。入場券を買う。大人は一人1,100円。小中学生は700円。ウチの場合1100が3人に700円が1人で合計で4,000円ちょうど。
 下の子は、入館にゴネるかと思ったが、案外素直についてきた。入館しない場合は、道路を挟んで反対にある諏訪湖畔で遊んでいてもらおうかと思った。近くの湖畔には、「間欠泉センター」があり、多くの人で賑わっていたし、遊ぶところは結構ある。
 で、下の子が一番興味を示したのが1階のロビーに置いてある「金魚の水槽」。小さい水槽である。が、「金魚ちゃ~ん」と興味を持って金魚を眺めている(苦笑)。
 展示室は2階。受付の横には、小さい販売コーナーがあり、その脇に階段がある。階段の更に横、駐車場が見えるガラス戸やガラス窓の近くの壁には故・服部一郎氏の写真が掲示されていて、胡蝶蘭の花が飾られている。今回の企画展のあいさつ文が書いてあるボードも掲示されている。ロビーには、可翁筆「寒山図」の写真の入った、今回の企画展のチラシは置いていない。ポスターも貼っていない。
 階段を昇ると第一展示室がある。西洋画の展示がある。まずは、こちらから見学する。展示室は私達の家族だけ。次いで、子連れの若い女性が入って来た。子供は小学生低学年くらいだ。女性は順番に熱心に絵を見ている。どんどん子連れの方が気軽に来れるとよいですね。
 展示作品は「ラウル・デュフィ」の作品など。音楽の教科書によく掲載されている画家k作品だ。1点だけだが、ダリの作品もあった。
 本美術館の一番有名な作品では「ルノワール」もあるようだが、今回の展覧会では展示が無い。
 次に、湖の見えるテラス(テラスに面した館内にカフェがある)の前の通路を通り、第二展示室へ向かう。
 











大山祇神社 国宝館 見学

 2015年8月

 ここは愛媛県大三島。大山祇神社の境内にある国宝館にやってきました。正確には、紫陽殿と国宝館に分かれています。
 紫陽殿から、渡り廊下を歩いて、国宝館に移動します。紫陽殿から下るような感じで、国宝館へスリッパをはいたまま移動します。国宝館の方が平屋の神社の社か倉庫のような建物なので、古いようです。紫陽殿はあとから建築して、渡り廊下でつなげたのでしょう。
 国宝館の扉の感じは古いです。内部のガラスケースも古い感じ。ガラスケースの中に鎧がズラリと横一列に陳列されています。 

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 渡り廊下の格子窓から。休憩室の屋根のようです。その先には、神社の敷地外の民家の瓦屋根が見えます。
と鶴が飛んでいます・・・・。鳳凰かも?と思いましたが、平等院(お寺)と混同してしまいました・・・・。はてと思いきや、実は窓に描かれた絵でした(笑)。


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 鎧で国宝指定されている物件は、こちら(国宝館)には展示が無いようです。重要文化財指定の鎧はありました。先の紫陽殿での刀剣類は、重文であるのに「その他多数の展示品のうちの一品」となってしまうくらい、たくさん収蔵されていましたが、ここ国宝館の鎧は、文化財指定されていない物も多いです。
 ガラスケースは古くて、木製?の枠。地震が来た場合に割れてしまわないかとも感じてしまいます。 が、陳列品の中でも文化財指定されていない物は多いです。

 展示で一番目立った物は、女性用の鎧でした。パンフレットによると唯一の女性用の鎧のようです。肩や胸元を守る防具がありません。元々無かったのか、外したのか?。パンフレットのイラストでは元々、肩と胸元の防具は無かったように描かれています。
 現代でいうと、タンクトップのように紐で肩からかけるだけの簡易な鎧のように見えました。茶色で(今まで見た鎧と比較すると)シンプルです。女性用だからでしょうか。特段、女性用で小さいな、とは感じませんでした。ただ、キャミ(ソール)のようだなと感じましたが・・・・。

 国宝の銅鏡は国宝館に展示がありました。(私の記憶による。紫陽殿の三階にも古代の銅鏡はあったので場所が混同してしまっている。)
実物は小さかったです。古代の遺跡から出土して展示される銅鏡よりも小さいようなたしかに、唐草模様で、鳳凰のような鳥と獅子か伝説の獣のようなレリーフです。型に流して製作した鏡なのでしょう。すると、動物や草花の彫刻を施した型を造る高度技術があったことになります。斉明天皇の時代といいますから、想像がつきません。西暦650年くらい、大化の改新の時代かなと思いました。航海で大陸へも兵を進めていた時代なので、天皇がここに奉納したことも説明がつくのかなと(勝手に)思いました。

 こちらが、国宝館。朱色でぬられて、新しい感じがしますが、元々は国宝館のみだったようです。正面に入口が付いています。昔はこちらが入口だったのでしょう。

 休憩室もあります。渡り廊下の下をくぐって移動するようですが、行きませんでした。
 

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 紫陽殿に戻り、一階に階段を下ります。紫陽殿の二階と国宝館がつながっています。
紫陽殿一階の売店で図録を購入しました。例の巫女姿の女子高生(多分)がレジを打って、渡してくれました。休憩時間なので、奥のカーテンで隠れた部屋にこもっていて、レジ、商品陳列ガラスケースのとろに、なかなか出てきてくれません(笑)。

 ここに来たのは前年(2014年)の東京国立博で開催された「日本国宝展」も影響しています。そのときの記事でも書いたのですが、代表的な国宝として「義経の鎧」も展示されるのかな、と思いましたが、展示はありませんでした。展示替えは、ありましたが、島根の日御碕神社所蔵の鎧は展示がありましたが。 また、その以前の「大神社展」でも(義経の鎧の)展示は無し・・・・。あの「七支刀」でさえ展示になったのです。(ただ、七支刀は結構博物館の特別展では過去も公開されているようですが)
 「国宝展」では、展示に協力する団体、寺社がはっきりと分かれていました。「大神社展」は、文字通り神社が協力してなり立つものなのですが、姿勢は神社によって大きく異なっていました。大山祇神社は、協力しないのだなと思いました。
 そんなことで、本日代表的な国宝といえる、教科書でもおなじみの「義経の鎧」を見て、私は溜飲を下げたのでした(笑)。



大山祇神社 紫陽殿及び国宝館 国宝などの展示見学

 2015年8月

 ここは愛媛県大三島。大山祇神社です。拝殿の外れにある国宝館にエリアに入場しました。まず、正面にあるコンクリートの建物の中に入ります。
 ここが国宝館です。と、思いきや、正確には「紫陽殿」というようです。国宝館は、渡り廊下で続く、別の建物とのことでした。
 
 紫陽殿に入ります。靴は脱いで入ります。内部の撮影は禁止でした。

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 写真には、誰も写っていませんが、たくさんの入場者があります。四角い建物の中央部には、売店があります。店番の巫女の女の子があます。朱色の袴に白い装束。まさに「巫女」様です。皆、あどけない表情です。明らかに地元の高校生のアルバイトです。ここは都会から離れた島です。学生のアルバイトは高校生がほとんどでしょう。ちなみに巫女さんが写っている写真は一枚もありません(笑)。ちょうどお昼どきで、交代で休憩しているのか、建物の中と外を巫女さんが出入りしています。

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 売店の脇の階段を二階に昇ります。ここにも展示がありますが、メインではありません。神社の社号の額縁、神社の幟(源氏の旗のように白い地に、黒い模様というか、マーク)など比較的大きな展示品があったと思います。神門を守る、武器を持った人形が何体かありました。階段を昇ってすぐのところなので、目立ちます。目がくりっとしていて、睨むような感じです。
 二階は四角い回廊になっていて、休むためのベンチもありました。階段部分は吹き抜けになっています。
 二階か三階かは、忘れましたが、弓と矢の展示もありました。矢の羽根の部分には、装飾があります。が、劣化してかなり朽ちています。

 更に上の階がありました。さほど広くない部屋に鎧や刀剣の国宝、重要文化財の展示がありました。

 三階の壁沿いに、刀剣の展示がありました。重要文化財などの太刀です。鞘と刀身が展示してあります。
と、大内義隆奉納の太刀もありました。あの大内氏ですね。まさか、その後滅びてしまうとは思ってもいなんかったでしょう。時代を経て、人が滅びて刀だけ残っているとは不思議に感じます。

 なぎなたの展示もありました。さやがついていない状態で、いくつか展示されていました。刀身は鮮やかで、刀紋もすっきりしています。銘の読めるもの、銘の入っていないものもあります。どれが、価値があるのかは、分かりませんが・・・。刀の持つところ、ツカの部分はサメの皮を張っているような感じです。つりさする所には、ヒモを吊るす金具がついています。

 国宝の展示としては、護良(もりなが)親王奉納の太刀がありました。鞘の装飾はかなり色褪せしています。が、ツカの部分はサメの皮で装飾しているのでしようか。その名の通り、唐草模様の黄銅かの金属がついています。紐は当時のものかは分かりませんが、附属していました。昔の太刀のように螺鈿を散りばめているかは、分かりません。

 鎧は、国宝のものを探しました。アイランドのガラスケースの中に国宝のような鎧がありました。頼朝奉納のものでした。あれ、教科書などて有名な義経奉納の鎧はと探しましたが、その反対側、うしろから見えない木製片面のカ゜ラスケースに展示がありました。展示室の中央、360度見回りできるガラスケースの中に頼朝の鎧があったので、こちらがメインの展示品のように感じました。

 義経の鎧は、赤色です。全体的に、胸あてには、扇の彫刻があります。細かいところまで、製作しています。胴体を守る部分は布をあてているのですね。布は退色したり、シミがついていて、数百年の古さを感じます。草と花の模様がありました。左右上下四つのスソ板の端には、布でしょうか、丁寧に織り込みをしています。また先端の端の部分は×××と糸を織って装飾しています。とても細かい仕事です。戦闘用ではなく、芸術性が高いです。

 改めて頼朝の鎧も見ます。茶色がかっています。胴の部分は、布を貼り付けしています。緑色で草と、よーく見ると獅子が二頭?います。驚きです。獅子が浮かび上がるように織ったのでしょう。この時代獅子の姿が伝わっていたか、知りませんが、虎でしょうか?。 ネコ科の動物であるこは間違いありません(笑)。
スソ板の端には、義経奉納の鎧と同じく×××と装飾しています。が、やや織り込みが粗い感じ。経年劣化かと思いますが。

 と更に古代のものと思われる鉄カブトと、鉄でしょうか、防具の帷子がありました。カタビラはバラバラになっています。鎧のようにはなっていなく、残っている部分のみの展示という感じです。平のガラスケースに展示されています。こちらも国宝でした。

 国宝の鎧は保存状態もよい。重文指定の鎧は、肩や腰の付近の鎧の部品が欠落しているものもあり、劣化が進んでいるようにも見えました。
 ガラスケースも木製で、ガラス戸の隙間もあり、空気が入り込んでしまうような造り・・・・。スチール製の頑丈なケースにしないのかな、と思いました。国宝も酸化して劣化していきそうな気が・・・・。館内は冷房が効いていてね涼しいです。湿度管理もしていないような感じです。大丈夫でしょうか。
 国立、公設の施設ではないので、補助金は受けているとしても基本は所蔵団体(神社)が自前で管理、保管しないといけないので、維持していくのが大変かも知れません。
 




「全巻一挙公開 国宝 源氏物語絵巻」 徳川美術館 名古屋

 2015年12月6日

 「全巻一挙公開 国宝 源氏物語絵巻」のことを知ったのは、最近ことです。東京国立博物館の廊下かどこかでパンフレットを見ました。以前、ウェブサイトを見て知ったのですが、いつのもにか忘れていました。急ぎ 徳川美術館に向かいました。とはいっても、家からは遠隔地のため、結局公開最終日の訪問となってしまいました・・・。
 公開は11月14日から12月6日までの3週間余りでした。「源氏物語絵巻」は言うまでもなく徳川美術館のメインの所蔵品のひとつです。学校の教科書、資料集で「徳川黎明会蔵」と必ず書いています。
 全巻公開は「10年ぶり」のようです。行ってみて気付いたのですが、東京の五島美術館所蔵の「源氏物語絵巻」も展示されていました。夕方に会場に着いたのですが、最前列で絵巻を見る通路の入場待ち時間は「60分」でした。後列ならば「待ち時間なし。」展示室の廊下に「最前列鑑賞待ち」の行列ができていました。

 すでに全巻を見たことがある人は多いでしょう。全巻見たことがある人はこのたび、名古屋の徳川美術館まで行く必要はありません。しかし、私は全巻を見たこことは無いので「この機会は逃すまい。次回はいつあるか分からないし、あと10年は待てないな。」と思い、名古屋に遠征しました。「明治村」にも行ったことがなかったので、初訪問の機会を得ることができました。
 先に明治村へ、次に夕方着で徳川美術館に。4年ぶり2回目の徳川美術館でした。徳川園に隣接する市営駐車場も満車。近くのコインパーキングも満車。そして、最前列の鑑賞待ちの行列・・・と混み合っていました。注目度の高さがうかがえます。
 美術館は17時閉館ですが、並んでいる人には「五時前の入室になります。特別に開館時間を延長します。」と説明をしていました。図録は前日の土曜日で完売したそうです。

 先程ようやく自宅まで帰ってきました。「ひつまぶし」「みそ煮込みうどん」そして「徳川美術館」の「ナゴヤたび」でした











碌山美術館 春季企画展「荻原守衛の軌跡をみる -書簡・日記・蔵書-展」 見学

  2015年5月4日

 信州・安曇野。春季企画展「荻原守衛の軌跡をみる -書簡・日記・蔵書-展」
 「碌山美術館」の見学記です。

 企画展の建物に入ります。
 故郷て゜の手紙、東京に出たときの手紙、欧米に留学中の手紙などが写真とともに展示されています。手紙を見ていくと、守衛の生涯についてかなり理解をすることができます。
 今まで信州の農家の五男?だった守衛、20歳近くになって東京に出て絵の勉強を始めます。守衛は地元の旧中学に通ったわけでは無いようです。東京に出て美術学校に入ったわけでもない。展示によると実家の農作業に従事していたが、「画家になる」と決意して故郷を離れたようです。

 ↓ 「しなの木」。若葉の鮮やかな木々の名前でした。
   萌黄色というのでしようか。美しい葉の色が心に残ります。
   木の幹の色こそ違いますが、白樺のような木です。

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 展示室とその前の彫刻。
 

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 企画展の建物の入口には守衛の親友、孤雁(字が違うかも)の言葉が刻まれています。やはり、守衛に最も大きな影響のあった友人かつ、芸術家仲間だったのではないかと思います。

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 展示を見ていくと留学中に「ウォルター パッチ」という人物がでてきます。
 フランスでロダンに面会の仲介をしたのもパッチのようです。面会を約束する手紙をパッチが代筆したようだとあります。
 また、帰国時、守衛はフランスからイタリアを経て、エジプトに寄港して観光して日本に帰国しています。イタリアでガイド役をした女性が出てきます。二人で観光名所 フィレンツェなどを回ったようです。この女性はのちにパッチの妻となった、と説明にありました。おそらくパッチが仲介したのでしょう。
 パッチは画家ではなく、美術史家のようで、大学の教授などを務めた人物のようです。第二次大戦後の1950年代に亡くなっています。大戦後、彼は敗戦国となった日本の美術界をどう見ていたのでしょうか。その後、残された守衛の作品には関心を持っていたのでしょうか。

 帰国後、二人は会うことは無かったのでしょうが、守衛にとって重要な人物であると分かりました。
 エジプトではカイロまで汽車で移動し、ピラミッドやスフィンクスを見物しています。現代の観光者と変わりませんね。




(荻原守衛)碌山美術館 見学記3 安曇野市

  2015年5月4日

 信州・安曇野。荻原守衛の個人美術館「碌山美術館」の見学記です。

 碌山と深い関係にあった作家の彫刻が展示されています。
 有名な人物では高村光太郎の作品がありました。


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 企画展示を見た後は売店で買い物です。相馬黒光(星 良)と高村光太郎の回想の冊子を買いました。
黒光なる女性と守衛はどのような関係だったのでしょうか。横恋慕でしょうか!?。回想を読むと、黒光自身はそれほど守衛を特別な存在とは見ていないような・・・・。「私より三歳下なので・・・」と弟のような存在だったような回想です。「女」にしろ「デスペア」にせよ黒光に恋焦がれて燃えるような魂の叫びを彫刻にぶつけたような守衛の作品ですが、恋慕の対象だった黒光当人にとって守衛は「ワン ノブ ゼフ」の一人であったような印象を受けたのは私だけでしょうか?。


 碌山館の前では、見学者が次々に写真撮影をしています。
 新緑の中にたたずむ建物の屋根の上には鐘楼の尖った屋根。教会堂のような屋根の先端は、まっすぐ天上を指して、若くして死去した守衛を鎮魂しているかのような感を受けます。

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 美しく、静かな安曇野の野にたたずむ美術館・・・・・・といいたいところですが、実は線路のすぐ脇にあります。
時折電車が走り、近くに踏み切りもあるのでその都度「カン カン カン カン カン カン・・・・」と音が響き、「ガタン ガタン ガタン ガタン ガタン ブイーン ガタン ガタン・・・・  」と電車が通ります。結構騒々しいです(苦笑)。
 と、「特急あずさ」も走っていきました。モチロン、「ガタン ガタン ガタン ガタン ガタン ブイーン ガタン ガタン・・・・  」と。学生時代、クラブの合宿の際に大町線は利用したことがあるのでここ碌山美術館の脇を通ったことはあるのですが、気付きませんでした(更に苦笑)。
 ああ、もっと早くに訪れるべきでした。
 
 最後に休憩室に置いてあった見学者ノートの記載を紹介したいと思います。
「・・・・20(歳)台からほぼ10年おきに碌山美術館を訪れて、今回で4回目になります。・・・・・。」と几帳面な女性の字で書いてありました。彼女は守衛の作品に魅せられて若き頃からここ碌山美術館を訪問し、齢(よわい)は恐らくは50歳台~60歳台、還暦を迎えられているか、それに近い年代なのでしょう。 現代でもなお、時空を超えて人々の心を惹きつける守衛の作品と生涯なのです。






























(荻原守衛)碌山美術館 見学記2 安曇野市

  2015年5月4日

 信州・安曇野。荻原守衛の個人美術館「碌山美術館」の見学記です。

 碌山館の裏から。建物の一番奥は、細長い別の小さい部屋になっていて展示室ではありません。守衛の生涯を解説した資料室でした。壁には、守衛の年表を掲示し、下のガラスケースには遺品や資料を展示しています。
 アメリカ滞在時代の資料もあります。戸張弧雁との交友についても説明がありました。
 戸張は、アメリカ滞在中に親しくなり、帰国後も深い交流が続いていたと分かりました。中村屋サロン美術館でも戸張の作品、肖像画が展示されていました。サロンに集う仲間だったのですね。しかし、戸張もまた長命ではありませんでした・・・・。

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 別棟に入ります。ここは二階が図書室や研修室になっていて、講演会や研修ができるようになっています。図書室は時間の関係もあるので、割愛して一階の展示室を見学します。
 守衛の絵画の展示室でした。展示室が守衛などの絵画作品です。彫刻は一点もありませんでした。意外にも守衛は絵を多数残しています。もっとも最初は「画家」になるとの志を抱いて東京に出たのですからね。


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 美術館敷地内の様子。緑の木々に囲まれています。
 写真右は守衛と深い関係にあった作家の彫刻が展示されています。

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(荻原守衛) 碌山美術館 安曇野市 見学記

  2015年5月4日

 信州・安曇野。荻原守衛の個人美術館「碌山美術館」。

  DSC01874「碌山美術館」といえば、この教会風の本館(碌山館)です。この中は守衛の彫刻作品の常設展示室になっています。建物内の撮影は禁止でした。



























 碌山館の建物の脇には、水汲み場がありました。北アルプスの豊富な伏流水を汲み上げしているのでしょう。
本来はポリタンクを持ってきて汲むところですが、ここは美術館の敷地内。勝手なことはできません。
と、碌山館の「定礎」の石が外壁に埋め込みされているのが見えます。建築は昭和33年と50年以上前のようです。


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 本館の前から、敷地外の道路を見る。道路の更に先は、美術館の広い駐車場になっています。
 そば屋さんもあります。ここで昼食を食べました。その記事は後日アップします(笑)。

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 「碌山美術館」は教会風の本館の外観が有名なため、森の中にたたずむ小さな美術館と思っていましたが、敷地のすぐ脇には一般道が通り車が往来しています。本館の奥側は学校になっています。穂高の街のはずれの一角にあります。

 碌山館のドアを開けて内部に入ります。林立するように展示台の上に彫刻が置かれています。個々の展示作品にガラスケースはありません。展示台の高さは、1メートルくらいで見やすい位置にあります。そのため、目の前で像を観察することができます。もちろん作品に触ることは厳禁です。
 
 館内の中心線上、出口に近いところ、まっすぐに建物奥に向いて「女」と「北條虎吉像」のブロンズ像がありました。「重要文化財」と銘板が展示台に取り付けされています。「女」はいまさら私が言及するこはありますまい。
 「女」は近代彫刻としては初めて重要文化財に指定された、と説明にありました。その翌年に「北條虎吉像」が重要文化財に指定されています。
 近代彫刻作品の場合、石膏原型が「重要文化財に指定」されているのであって、今目の前に展示されているブロンズ像が指定されているわけではありません。「女」の石膏原型は東京国立博物館に所蔵されているはずです。「北條虎吉像」の石膏原型は東京国立近代美術館ここの所蔵だったと記憶します。
 よく展示されるのは東京国立近代美術館で、「女」です。でも、石膏原型は東京国立近代美術館には無い。中村屋サロン美術館では、1970年代に鋳造されて「女」像の展示がありました。東京国立博物館の近代美術コーナーのフロアでもブロンズ像は見たことがあったような・・・・・。そのため、「女」の石膏原型は東京のどこだったかな??と分からなくなってしまいます(笑)。
 「北條虎吉像」の(ブロンズ像を)見るのは多分初めてです。安曇野の碌山美術館に来れば「北條虎吉像」は石膏原型は見ることができなくても、プロンズを見ることができるわけです。

 碌山館の裏から。

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碌山美術館がある地、信州・安曇野 へ行く。

  2015年5月4日

 信州・安曇野。荻原守衛の個人美術館である「碌山美術館」にやってきました。
 ゴールデンウィークの真っ只中。実は松本城の入場のために並んでいたのですが、あまりの行列と待ち時間のために、再入場券(数時間後に見学できる時間指定の整理券)をもらい、一旦松本市内を離れて安曇野へ移動しました。
 この「信州たび日記」は、後日アップすることにします。先に美術館の見学記を書いていきます(笑)。
 碌山の故郷にある美術館。大都市中心部の立地ではないため混雑する、というほどではありませんが、絶えず見学者がやってきます。私もその一人です。
 実は「碌山」が荻原守衛の号であると知ったのはここ数年のことです。(二~三年くらいかな・・・(震)。)荻原守衛といえば、教科書にもその作品の写真が載らないことは無い、近代日本における最高の彫刻家です。作者の名は知らなくとも、その作品の写真は必ず見たことがある筈です。 
 二年前の夏に安曇野を訪問したことは書きましたが、このときは「碌山美術館」に来ることができませんでした。今回、やっと「宿願」を果たしたことになります(笑)。
 東京・新宿にも「中村屋サロン美術館」が昨年の秋にオープンし、ここ「碌山美術館」所蔵の多数の作品が展示されていました。同じく昨年秋には美術関係のテレビ番組でも取り上げられましたし、改めて注目の集まる荻原守衛と「碌山美術館」です。

 ↓ 労働者。 フランス留学から帰った後に作成された晩年の傑作です。
   入口近くの屋外に展示されています。若葉がまぶしい木々の緑の中で輝きを放っています。  

 DSC01885  が、労働者はどことなくやせ衰えて、人生の苦衷にさいなまれているようなポーズです。どことなく、この時代の社会問題を反映しているような・・・・。

労働によって疲弊したと思われる荒々しい男の肉体をあますことなくとらえた作品はどことなく、ロダンを思わせます。
  






















 ↓ 美術館入り口のチケット売り場。敷地内にはいくつかの建物が点在し、展示室になっています。

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レオナール・フジタ ポーラ美術館 

 続いて、箱根のポーラ美術館に初めて来ました。開館10周年なので、まだ新しい美術館です。
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箱根の山中はすでに紅葉も終わっていました。枯れ木がならんでいます。すでに冬の装い。

ポーラ美術館の駐車場は横に細長い。車がずらりと並んでいます。


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ガラス張りで大変モダンな美術館の建物。
モネやルノアールなど印象派コレクションが充実している美術館です。過去、都内で見た印象派の展覧会でも本館からの貸し出しが多数ありました。国内で印象派の展覧会を開催するには、ポーラ美術館の貸し出し作品無しでは成り立たたないのではないしょうか。






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入口
を入り、下に進みます。
展示室はこの先にありました。

最近収蔵された藤田嗣治の作品が展示されています。
第二次戦後、日本からフランスに渡った後、子ども達を描いた小さいミニチュアの絵が多く展示されていました。日本国籍を捨て、フランス国籍を取得した後の時期にあたります。戦前の絵とはあきらかに異なり、子ども達を描いた作品が大変多いです。今まで見た作品中では ネコ が多くえかがれていて、「猫の画家」というイメージがありました。 が、明らかに 子どもが多い作風にかわっています。色使いも白の乳白色というよりは、よりカラフルになっている。 年賦によるとフジタ自身は4度結婚したが子はいなかった。戦争画について非難され、故国を捨てざるをえなかった老画家が未来を担うであろう子ども達を暖かい目でとらえ、夢と希望を託したのでしようか。
 また、目を引いたのは、土門拳が撮影した嗣治の写真でした。白黒なので色はわかりませんか゜、白髪短髪の嗣治がモダンな半袖シャツを着て、アトリエで制作している様子の1枚です。戦後の撮影かと思いましたが、撮影年はなんと昭和17年。太平洋戦争の最中です。日本に帰国し制作に従事していた当時、戦時下にかかわらずこれだけモダンな恰好をして被写体になっていたとは驚きです。嗣治の趣味がうかがえる一枚です。同時に戦前から土門拳が著名な文化人を撮影していたことを知り、興味深かったです。

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美術館のあとは、仙石原から箱根湯本方面に下るところですが、混むことを予想して、乙女峠から御殿場に出ました。
写真はアウトレットに近い、御殿場線の踏切です。






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アウトレットに寄った後、足柄から246号線を抜けて帰りました。










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りょうげつ

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