良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

国立歴史民俗博物館(佐倉市)

 

佐倉城址公園 散策2 と国立歴史民俗博物館

 2016年3月20日 千葉県佐倉市 佐倉城址公園 散策

 「国立歴史民俗博物館」(「歴博」)を見学した後、歴博がある佐倉の城跡を散歩する。 


  本丸の跡から出丸への道は急な坂道だった。下ると、田んぼの見える平地に出た・・・。出丸は本丸と同じ標高の台地の上にあると思っていたのでが、図らずも城の下に出てしまったのだ・・・・・。仕方無いので再び台地の上へと崖の坂道を登る。本当に「崖」なのだ。決して誇張の表現では無い(苦笑)。千葉の「洪積台地」のヘリを登るのだ。
 上へ戻ると先ほど、本丸に行く途中に横を通ったお茶屋が見えた・・・・。お茶屋は、歴博の建物から本丸へと向かう道の途中にある空堀の近くにあった。なんだ、ずいぶんと遠回りしたな・・・・。本丸から、平地(台地の上)の道をまっすぐ来れば、(崖を登り降りする必要はなく)近くだったよ・・・・。「下って、登って」疲れたよ(笑)。

 城跡の台地に戻ると、草地の広場になっていて、たくさんの人が遊んでいる。植物園もあり、遠くには別の駐車場もある。先程も来るときに迷った、佐倉武家屋敷の方面から入場できるようになっている。


↓ 新しい案内看板。


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 ↓ かつての聯隊の図。
  ことのきは「歩兵第二連隊」とある。兵舎の配置は、歴博の館内に展示されていた模型、図とほぼ同じ。
 今いるのは、兵舎などの建物なかった広場と思われる場所。戦前も広場だったと思われる。


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 ↓ 明治天皇御駐〇記念碑。
   昭和時代に入ってから、建立された碑のようだ。かつては、連隊の敷地の中にあったのだろう。

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 ↓ 「佐倉兵営跡」記念碑

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 記念碑は、元々連隊の兵舎や連隊本部などかあった跡地に建てられたが、歴博が建設されることになったので、同じ旧佐倉城内のここに移されたと説明にある。 
上の写真の案内看板にも説明があったが、記念碑の揮毫はかつて大佐時代に57連隊の聯隊長を務めた今村均・元大将のもの。

 広い広場の合間に浅い谷がある。子供がワーっと走って下って、遊ぶのに最適(笑)
 写真の右手が本丸、左が植物園側なのだが、かつての堀か空堀の跡だろう。
 落葉している木は、ケヤキかな・・・。

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 植物園の入口や温室の横から、遊歩道を散歩して、駐車場に戻る。昔は城の中の窪地だったと思われる谷もになっている。窪地の底には、池がある。丘陵公園のような景色でかつての城跡とは思えないくらいだ。昔は、城の中の池だったのか?。再び坂道を登る。坂を上り、やっと車の所まで戻る。


 ↓ 館の横、かつての城跡の二の丸との境にあった空堀付近より。
  春めいてきたとはいえ、まだまだ寒空。が、ビンクの花が明るく咲いていた。水色の空に映えるな~。春はすぐそこにあると感じた。
   

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 さて、帰ることにする。本当は佐原まで行くことが出来るかなと思ったが、到着する頃には午後5時を過ぎてしまう。見るべきところも閉まってしまいそうなので、やめておく。都内方面に戻ることにした。

 城跡の中にある駐車場を出て、城門(明治~昭和戦前期は連隊の営門)を下る。一般道路に出るところには信号がある。堀もあり、水がある。京成線の線路も通っている。城門を下ると、台地の下の道だった。
 佐倉の旧市街は、佐倉高校から、南西方面に傾斜になっている。すべて台地の上にあるのではない。しかも城跡は、台地の南西の端にあるようだ。城跡の南側一体は、たんぼ、湿地、川の平地だ。城は岬のように、台地したの平地に突き出ている。かつての戦での要害だったのだろう。 
 
 四街道のインターへ向かう。 インターへ道なりに進む。佐倉のはずれの平地の道である。進むとやがて台地の上の道となる。実は、佐倉~臼井の街などへ遠回りしたようだ。台地の上は、整然と区画整理された新興の住宅分譲地となっている。
 やがて道は再び畑と林 廃棄物置き場など混在地の風景となる。関東の郊外地域の雰囲気(笑)。「ザ・カントーの台地」。田んぼと雑木林の混合エリアー。
 インターの手前にあるY字路のところのガスステーションででガソリンを入れる。リッター99円。私の地元では104円くらいであり、ここは安いな。さすがチバ!。

 四街道インターから再び 高速道路に入った。

佐倉城址公園 散策1 と国立歴史民俗博物館

 2016年3月20日 千葉県佐倉市 佐倉城址公園 散策

 国立歴史民俗博物館」(「歴博」)を見学した後、歴博がある佐倉の城跡公園を散歩する。 


 佐倉城址公園の看板 ↓
 


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 歴博の館内も午後になると人がだいぶ増えてきた。駐車場も満車で、城跡の更に奥にある別の駐車場に誘導している。かつての二の丸だ。草地であり、アスファルト舗装ではない。
 城跡は、公園になっていて、たくさんの人がいる。気軽に来れる公園になっているようだ。

 衛戍病院跡の碑 ↓

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 歴博の建物を出て、お城の本丸へ。かつての佐倉連隊の建物は、館内の展示によると二の丸の更に手前の三の丸と思われる付近にあったようだ。
 かつての本丸付近には、ほとんど近代以降の連隊の建物は無かった。

 途中、かつての二の丸付近には、衛戍病院跡の碑がある。病院は、連隊の門から入り、コの字状に配置されていて兵舎や連隊本部の奥に位置していたようだ。

 ↓ オオカンザクラ。まだ咲いていない。



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 城跡を歩く。桜はまだ咲いていない・・・。咲くのも、もうすぐだが。
 最近の桜は速い。三月開花は、もはや当たり前だ。

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 散策路を歩いて本丸方向に行くと、お茶屋もあった。休憩して軽く飲食できる。

↓ 堀田正睦像。と散策路。

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 ↓ ハリス像。幕末の関連人物ということで、ともに展示ですね。

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 ↓ 本丸付近。 本丸御殿の台所用の門のあったところかな。

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 歩いていくと、その先に空堀がある。過ぎて更に進むと、本丸の跡だった。公園のようで子供達が遊んでいる。

 バトミントンをしている人もいる。憩いの場だ。ここがかつての城跡とは思えないくらい。
 天守台らしき盛り土、石垣もあるが、あまり大きい天守ではなかったようだ。

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 本丸付近の土手。早咲きの桜の花が少しだが、咲いている。

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 ↓ 道に沿って坂を下る。急坂だ。
   歴博のパンフには城址公園の地図もついていて、それによると「出丸」への道となっている。

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↓ 出丸に行ったつもりだが、城跡の下に出た。低地だ。かつての堀のような川と同じ目線というか、標高に。

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 いつのまにか、散策路を下り、台地の下に出たのだ。本丸との標高差は、30~40メートルくらいだろうか。
図らずも佐倉の洪積台地を下ってしまった・・・・。
 出丸なので、本丸と同じ標高の台地の上の要害のような城跡だと思ったが、低地の田んぼ、湿地とほぼ同じ標高。本丸の下で、敵と同じ高さで奮戦を予定する場所が「出丸」なのかな(笑)。
 オレは、ヤダな。出丸で戦うのは・・・・・・。これじゃ、討ち死に必死だよ・・・・↓(と、テンション下げ。)。
 JRの佐倉駅も近いはず。付近には、田んぼや田を埋めて造営されたと思われる住宅がある。


国立歴史民俗博物館」 常設展示 見学12 (第1展示室 「原始・古代」の「沖ノ島」に関する展示) 

 2016年3月20日 千葉県佐倉市

 国立歴史民俗博物館」(「歴博」)。常設展示 見学 (第1展示室 「原始・古代」) 

 原始時代から始まり、縄文、弥生と経て古墳時代以降から奈良時代くらいまでの展示。

 ※ この訪問の後、2016年5月から当面の間、第1展示室 「原始・古代」はリニューアルのため閉室していると博物館のウェブサイトに掲載されています。


 「古代」の展示内にある別室で「沖ノ島」に関する展示があった。
 特筆すべき展示である。一番印象に残ったかも・・・。

 ↓ 「沖ノ島」に関する展示スペースの入口。独立した部屋での展示であった。
 

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 入って正面に沖ノ島の写真が展示してある。
 島は、  福岡県の沖合にある神域であり、現在世界遺産登録を目指しての暫定リストに掲載されていることは有名。テレビでもたまに紹介されるし。私も見たことがある。島は女性の上陸が禁止で、神職や許可を得た男のみが入島できるそうだ。上陸の際、身を清めるために海に入る映像を私も見たことがある。
 
 遺跡は、島の中腹にあり、船上、つまり沖合からも見えるそうだ。島の山の中腹の巨大な石の下に祭祀の遺跡がある。
 ↓ 島の社の様子の模型。

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 石の下に社殿が現在もあるそうだ。一般人は、入ることが出来ないので知るすべは他にない。鏡、土器などの模型や、遺跡様子の写真の展示がある。↓

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 説明ボードなどによると、遺跡は古代のうちは、山の中腹の比較的高い所にある。奉納品などが散乱している。遺跡は、だんだんと、現在、着岸用の港と堤防が建設されている場所に近い、平地の方向に移り、平安のはじめの遺跡で終わっているようだ。
 祭祀の場として、次第に役割を終えたのであろうか。つまりは、「古代」の終わり、中世、新しい国風文化の始まりを意味するのであろうか。または、唐の国の勢力が弱まり、のちに滅亡したことに大陸との交流が途絶えたのであろうか。

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 最初は鏡、金具、装身具?、土器などの奉納品があるが、のちの時代はだんだんいい加減になっている様子。
「祀る」といっても、石のカゲに無造作に置いたような感じだ。数百年も放置のような形式で安置されていたのだろうか。
 奉納としいうかたちで、置いておいて、数百年間そのままなっていたような印象を受けた。人の立ち入りは制限されているので、風雨にさらされる以外には、奉納物が破損することもなかったということか。

 ↓ 遺跡群の地図。

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 古代の人は、上陸できる、つまり舟着き場から、人の足で行ける一番奥まで行って、物を奉納して祭祀を行ったが、だんだんと平地に近い、歩いて登りやすい場所に簡単に安置という形式で物を奉納したような。
 時代が経るにつれて、人の生活も忙しくなり、航海技術の発達で島に行き易くなり、秘境感が薄れて、次第に祭祀の場から離れて行ったと感じたのは、私だけかな・・・・。
 仏教の発展や都の朝廷や貴族なとの間で神仏習合が進んだとも関連があるのかな。







国立歴史民俗博物館 常設展示 見学11 (第5展示室)「近代」 

 2016年3月20日 お彼岸
 
 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 常設展示 見学 (第5展示室) 

 次の部屋へ廊下を進む。第5展示室は「近代」。期間は、幕末明治から昭和の始めまでだ。明治維新から「十五年戦争」が始まる時期までということが出来る。大日本帝国の興隆と発展、そしてあの戦争へ向かう時代ともいうべきか。

 展示室ま角に、「つき米(ツキヨネ)学校」の模型がどんとある。以前、訪れたことがある。そのときに現地では写真撮影をしなかった・・・・。2013年6月のことだった。さくらんぼ狩りの後に、富士川に沿って南下し、静岡に出た記憶がある。

 代わりに今回、模型を撮影。思わぬこところでリベンジできた(笑)。

 学校建築の写真がいくつかある。甲信地区の学校についての説明があり、いくつかの当時の学校の写真が。須玉学校の写真もある。


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 鉄道の模型、横浜の港の模型など。 ↓赤レンガは現在でもありますね。
 現在はショッピング、観光スポットだ。

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 展示室内のアーチをくぐり、次の部屋へ。
 その途中で「被差別部落」についても展示がある。博物館で部落問題についてここまで踏み込んだ展示は、なかなかない。展示の性質上、当然であるが写真撮影は禁止だ。
 死後の差別についてまで解説がある。墓石にも刻まれていたと展示があった。その墓石のレプリカの展示がある・・・・。幼児で死んだ子にも 差別的な戒名を授けていた。具体的にどの宗派が差別的な戒名をつけていたかまでは言及していないが、×××宗は、そのような戒名をつけいていたことを私も知っていた・・・。が、その宗派はでけでなく、墓石の戒名から察すると〇宗の寺院、その他の宗派でもつけていたらしいのだ。
 近代以降の水平社についての運動の解説もあった。
 
 アイヌについても展示がある。「二風谷」地域の写真や説明がある。二風谷ダムの様子も写真展示があった。
 屯田兵の家の模型もある。以前、訪れた現在の旭川市周辺ではなく、いち早く開拓に屯田兵が入った琴似地区の模型だった。

 「近代」展示室の最後の展示は 大正か昭和はじめの街の様子の再現。
 遊郭につながっていたという、商店の様子。花柳病予防が目につく。遊郭と花柳病には密接な関係があったのです。(当たり前だけど・・・・。)
 いつも、カユがっていたのかな~(なったコトが無いので分からない~が・・・。)。

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 やっと見終わった。すでに午後3時を過ぎていた。食事の後、3時間近く見ていた。思ったよりも規模が大きい。じっくり見ると1日では、とても足りない。


 「近代」の第5展示室を出る。写真はあまり撮影しなかった。近代の展示は別の博物館などで見たこともあるし、今まで古代~近世の展示室まで、結構撮影したので「ここらでよいかな」と思ったから(笑)。

 半地下の中庭に面した廊下。第六展示室と第五展示室は隣同士だ。
  廊下を最初に入館した入口に戻ると企画展示室がある↓。
  更に構造が分かってきたゾ(笑)。


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 一旦 外に出る。中庭のコンクリ広場だ。

 

国立歴史民俗博物館 常設展示 見学10 (第4展示室) 「民俗」

 2016年3月20日 お彼岸
 
 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 常設展示 見学 (第4展示室)  「民俗」。

 「第3」展示室は、半地下の中庭に面していた。次の第4展示室へは一旦、外に出る構造になっていた。
外に出ると、中庭になっていてコンクリ打ちの広場だ。第4展示室に向かう前に、先に見学した半地下階の第6展示室の廊下も見える。「コ」の字状の建物で、なんとなく館の構造が分かってきた(笑)。

 ↓ 左が企画展示室。写真の右には、第4展示室への入口があった。


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 第4展示室は、上記の通り、中庭に面するゆるやかな階段の途中から入る。「民俗」テーマの展示室だ。
「歴史民俗博物館」であるから、「本領発揮」の展示室かな(笑)。
 「民俗」の最初の展示は、ななんと「現代の スーパーマーケット」で販売されている正月用品の再現。デパートで販売されている正月の「おせち」の模型もある。
 家の様子の展示もある。昭和後期かに平成時代にかけての住宅の部屋の様子。現代に生きる私が、子供の頃から生活して成長した部屋に酷似している(笑)。 学習机、イスなど私が実際に使っていた物と変わらない・・・・・・・。


 これらの現代消費生活の展示コーナーは撮影禁止。色々なメーカー(民間企業)の商品、製品が陳列されているからだろう。いきなり、現代の私達の生活に関する展示なのだった・・・・・。ピンと来ないな・・・。同じ現代生活の展示では江戸東京博物館の「ルーズソックス」「メイド服」などの展示の方がしっくりくるかな(笑)。

 続いて展示室は、階段を降りる先につながっている。スロープのようにもなている。バリアーフリーの構造。お祭りの大画面映像。にぎやかなお祭りの様子の映像が流れている。
 そのスクリーンの横には、広島県の庄原の神楽のお祭りの再現模型があった。
 この付近からは撮影が可能な展示ゾーンであった。
 
 ↓ 庄原の神楽の舞台様子。奥に祭壇がある。しめ縄が立派だ。この祭壇の飾りの内容は、中国山地に共通する習俗ではないかなと感じた。立派なしめ縄は、出雲大社の巨大なしめ縄やその信仰にも共通するのかも。距離的にも近いし。


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 広島県の「庄原神楽」については、映像を見たことがある。
 銀座の広島県アンテナショップ「TAU」の三階、イベントスペースのテレビで放映していた。
 同フロアにあるレストランで食事をしたときに見たことがある。 

↓ 「比婆荒神神楽舞台」の説明。

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 畳の一室に装飾をこしらえ、奥に祭壇を設置し、踊りというか神事、儀式を行い、奉納したのだろう。
 比婆山信仰の一種のようだ。比婆山は、広島県にある山。さほど高い山ではないが、信仰の山のようだ。山岳信仰に一種であろうか。
 「比婆」といえばその名を冠した豆腐もあったな(笑)。

 広島の神楽以外にも展示がある。
 こちらは沖縄のお祭り、というか祭祀の様子も展示がある。

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 「のぼり」には太陽が表現されている。「尊農」の文字も。何を意味すのかは忘れてしまった。
 お面をかぶった人物は琉球かすりを着ているのだろうか。獅子舞も沖縄にあるのですね。
 

 その他の展示としては「河童伝説」がある。その模型もあった。模型はぐろい、グロイ(笑)。各地にかつて棲息した、動物のかわうそではないかな。カワウソが川で水死する例もあり、その死体と河童の姿を重ねたのだろう。
 日本の川にはニホンカワウソがたくさん生息していた、その細長い胴を持った姿は、人の姿と重ねて架空の動物兼人間「カッパ」となったのであろうか。
 妖怪伝説ピリケン人形もある。ビリケンといえば、大阪の通天閣にも人形が飾ってあった。

 葬式ついての模型と解説もある。葬列の様子の写真や用具の説明もある。関連年表もあり、葬儀が式場にひろまったのは1990年代以降とのこととある。葬式の在り方も都市化、核家族化で戦後急速に変わって来たということか。つい先日、身内の葬式も式場であったので私は、しばし展示を見ていた。
 
 日本の民家の模型もある。気仙沼にあった民家のもの。震災後、東北を意識した展示なのか。また、一般的な魚村の写真も。とある海の近くの村と田の様子。説明によると能登地方の漁村のようだ。
 「海の近くにありながら、海に背を向けて生活している集落もある」の説明がある。海の近くまで、田んぼ、つまり棚田が迫っている。漁業は、あまり行わず、稲作と畑作で生活をしていたようだ。
 全国各地の焼き物の解説もある。主な焼き物の展示パネルだ。
 関東地方では「益子焼」。その他の地域の焼き物として、常滑、瀬戸、美濃、四日市の万古焼(ばんこやき)もある。信楽、九谷なども図示されている。こうして地図で見ると中部地方に多い。良質な土が産出されるためであろう。
「萩焼き」はあったかな?、忘れた・・・というか見落とした・・・・。

 九州は、意外にも焼き物の山地が少ない。有田と波佐見?焼。「有田焼き」は全国で一番有名ではないか?。備前について言及がなかった・・・・。備前は、材料となる土が田の底からの採取だからだろうか。山から出る土の産出地ではないからだろうか。沖縄の壺屋焼きも展示されている図に掲載がある。


 合掌つくりの民家の写真もある。現在と昔の集落の様子の比較がある。昔は皆、合掌つくり家だったいうのは本当だ。現在は低いトタン屋根に代わっていまっている・・・・・。観光地、文化財保護地域として指定された地域のみに合掌造りの家が残っている感じ。かつて私も訪れたが、白川郷、五箇山の相倉(あいのくら)などだ。
 住宅としては、現在では維持が難しいのだろう。
 漁業についての展示もあった。更に鰹の一本釣りの船や漁船で使用されるレーダーの模型の展示がある。「民俗」というよりは、「産業」に近い展示かも知れない。

 一通り見て、次の展示室を向かった。







国立歴史民俗博物館 常設展示 見学9 (第3展示室) 

 2016年3月20日 お彼岸
 
 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 常設展示 見学 (第3展示室) 「近世」

 展示室は、まず日本橋などかつての江戸の町の模型がドーンと置いてあり、傍らの畳の部屋で、江戸時代の文化の体験ができるコーナーがある。
 次の部屋には、先の記事で紹介した北前船などの模型の展示があった。
 江戸の模型ゾーンの付近では、警備員(男)が看視の制服の女性と私語をしている。「今日は、人が多いな。先週よりもはるかに多い。」と。急に暖かくなったし、お彼岸の連休なのでそりゃ、人は増えますよ。子供の入館者も多い。春休みも近いし、気候も暖かくなってきたのでお出かけです(笑)。

 展示室の端の部分で近世の「農村」についての展示があった。農村の家や農業の様子、暮らしなどの模型の展示であった。
  北前船の模型と同じ部屋には、江戸の「旅」などについての展示もあった。

 ↓ 「道標」の模型。 奥には、北前船の模型が。

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 ↓ 寺社縁起 の複製品。
  絵図で寺社の由緒などを説明している。現在のガイドブックといったところか。出版技術の発達も旅を後押しした理由の一つと説明にあった。出版物、印刷物により、庶民にも旅に関する情報が広まったのであろう。

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 ↓ 道中日記の模型。
   伊勢参りなど寺社参詣の途中、日記をつけていた。一般庶民も紙に日記を書いていたとは驚きだ。紙は貴重品であったろうし、製紙技術と紙の流通が整っていたことを意味するし、何より、寺子屋に代表されるように庶民でも読み書きができたのだ。高い識字率というのは、日本の文化の特長であろう。


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 ドーンと、当時の旅籠の再現模型がある。大きい。二階には行燈の光が漏れている。人影が写っている。給仕をする女や宿泊しているチョンマゲすがたんおじさん達の姿だろうか。

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 ↓ 帳場の板間。階段の下が収納になっている。
 

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 現在の三重県の津市にあった椋本宿の旅籠の再現だった。
 つまり、江戸を起点とすると東海道から亀山宿で分かれて、更に南下。「お伊勢参り」の途中の宿ということになる。

 企画展示として「和宮ゆかりの雛かざり」があった。この「近世」の部屋の奥での展示あった。明治維新の時期を挟んで、徳川家達の娘とその娘に代々伝わった「お姫様」の「お雛様」の展示だった。古いながらも立派なお雛様がたくさん展示されていた。
 雛人形は家達から「娘の鷹司綏子と松平綾子に伝わった。」と説明にある。鷹司家は、旧五摂家で公爵の家柄。徳川から嫁にいく際に持参したのでしょうか。

 ↓ 企画展示についてのパンフレット(部分)

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 展示期間は2月下旬から4月3日(日)まで。

 すでに、3月3日のひなまつりといえば、(訪問日現在で)日付を過ぎている。しかし、旧暦ではまだ3月3日ではない。江戸時代は現在の暦を使っていなかったので、太陰暦が暦だった。太陰暦ではまだひなまつりを迎えていない。よって、この時期にお雛様を飾ることは当然なのだ。だから、会期も4月3日までなのですね(笑)。

 あっ、ウチでも旧暦で、お雛様を飾っています。理由は「(現在の)3月3日の雛祭りを過ぎてすぐにしまうのでは、寒いので片付ける気がしないから。出してすぐに片付けるのは、面倒だから」というシンプルな理由です(笑)。
 通常、節分を過ぎるとすぐにひな人形を出して、3月3日まで28日程度(笑)、飾るのでしょうが、ウチの場合2月では、まだまだ正月気分の気だるさ(笑)が残って、出す気分がしない。2月の末になって(ようやく)出すので、3月3日を過ぎてから、すぐにしまうと1週間も飾っておく期間がないのだ・・・・。よって、ダラダラと旧暦まで飾るのです(笑)。






国立歴史民俗博物館 常設展示 見学8 (第3展示室「近世」)

 2016年3月20日 お彼岸
 
 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 常設展示 見学 (第3展示室) 「近世」。

 「中世」の部屋を見て、次の部屋へ廊下を進む。廊下になっていて、スロープを下るように歩く。
女性の見学者達が「迷路のようでわかりにくいね。」と話ながら同じく廊下を歩いている。

 ↓ 廊下の途中にあった、休憩スペース。
   他の博物館などの施設のパンフレットなどが置いてある。


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 第三展示室は「近世」。つまり江戸時代。よって、展示内容は「江戸東京博物館」ともかぶるような・・・・・・。部屋に入って、最初の展示は「江戸の日本橋の模型」。
 ↓ 模型と展示室の様子。壁側のガラスケースでは、昔の着物が展示されている。
  模型の「下」側から撮影。

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 なぜ「下」かというと、模型の川に浮かんでい舟が皆、下を向いているので何となく川下が下側で方位でいうと、南というか、東というか、南東というか、隅田川に注ぐ方向であろうと(笑)。

 日本橋??の手前から。↓
  日本橋としすると、橋を渡った左の角地が現在の三越のあるあたりかな?。
  通りの右側は、ええっと、現在外資系のコーヒーチェーンがある辺りかな?。

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 ↓ 日本橋から更に下流の江戸橋付近の様子。

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 模型の端。江戸橋の下流からの(模型の)眺め。
 「江戸橋広小路」と説明がある。明暦の大火の後に町屋などをつぶして、「火除け地」として広い土地をつくった。

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 ↓ 絵図の複製品の展示。
   明暦の大火の前には、広小路も無い。ついでに日本橋はあるが、江戸橋はまだかかっていない。
  時代は下り、18世紀の絵図になると川岸の三角形のような場所に広小路が設けられている。江戸橋もちゃんと絵図にある。

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 ↓ こちらは、上流の常盤橋付近か。火の見矢倉らしき建物がある。
  川岸には河岸があり、鰹節などの海産物が水揚げされていたことも解説があった。
  物資の荷揚げで、舟がたくさん繋留していて、物資がたくさん集まっている。

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  このブロクでも以前書いていますが、日本橋は「鰹節」の町なのです(笑)。
 現在はビルが立ち並んでいるビジネス街、金融街ですが、「現代」においても鰹節のお店が残っています。決して昔の話では無いのです。

  次いで展示を見ていく。
 アイヌなど北方の民族の衣装の展示もある。昆布、干しあわび、干しなまこなど蝦夷の俵物の展示も。

 ↓ 気になった展示。「絵草子屋」の再現模型。
  

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 絵を販売していたそうだ。現在でいう、ブロマイド屋というか写真販売屋というのか。
 当時の江戸の人々の習俗がわかります。

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 北前船の模型もある。蝦夷地、現在の北海道や北方領土まで航路があったという解説している・・・・・。が、本当だうろか。現在、ロシアと日本とピシャリと遮断されている-北方領土の国際情勢の現状においては、にわかには信じがたい。北の海には、あまり国境は無かったようだ。
 北前船は明治時代の始めまで最盛期だったよう。鉄道の開設などで衰えたようだ。

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 北前船で交易をしていた。
 アイヌなど 北方の民族の衣装の展示もある。昆布、干しあわび、干しなまこなど蝦夷の俵物の展示も。
 ↓ アイヌの衣装の展示とともに、「昆布」「干し鮑」「干しナマコ」「干し帆立」などのリアルな模型がある。
 「俵」に入れて運搬したから「俵物」ですね。

   いや~、おいしそうです(笑)。現代においても高級品ですね。

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 「昆布」は利尻か羅臼か?(笑)。
 ↓ 北前船の模型の手前には、当時使用されていた方位磁石の模型が展示されていた。
   当時の高度な航海技術の様子がわかる。

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国立歴史民俗博物館 常設展示 見学7 (第2展示室「中世」)

 2016年3月20日 お彼岸
 
 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 常設展示 見学 (第2展示室)。 


 最初の第1展示室から次の部屋へ。第2展示室は「中世」のテーマ。
 ガラスケースの中に文化財の複製品が展示されている。よって、基本的に撮影が可能。

 ↓ 御堂関白記の複製。5日、6日、7日と日記をつけている。
       説明によると、道長自身が金峯山に参詣したときの日記の部分の複製。
   「経巻を埋納した時の様子は、御堂関白記にくわしく記されている。」とあった。

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↓ 御堂関白記の複製。5日、6日、7日と日記をつけている。丁酉、戊申なども毎日ちゃんと書いてある。
   埋めて奉納?したときの様子はどこに、何と書いているのかは・・・・、読めない(笑)。  

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 藤原道長が奉納した経筒など国宝「金銅藤原道長経筒」の模型があった。京都国立博物館で見たことがある。見たのは、平成知新館の新規オープン「京へのいざない」のときの展示だったと思う。
 金峯山に奉納したお経の金属(金銅)製の筒。経典の文言が缶(つつまり、筒)に刻まれている。
 このときの日記が残っていたのだ。すごいです(笑)。
 京都国立博物館のときは「道長が・・・」と説明にあったが、本当に現地まで行って埋めたとまでは説明になかった。私は「本当に行ったのかな?。誰か使者を派遣したのかな?」と思ったが、ホンマに行っていたのだ。その事実が解かって驚いた。
 いや~、ただ国宝とはいえ、ただ「物」を見ただけでは何のこっちゃ分からない。その背景も知ることが出来てよかった。

 もちろん、京都国立博物館では国宝のオリジナル品は撮影禁止であった。しかし、ここでは複製なので撮影をした(笑)。

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 ↓ こちらも経典を奉納した箱(複製)だった。

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 現在の福井県にあった、朝倉氏のお屋形の模型もあった。庭園部分だけ現在残っているのだが・・・・。一乗谷へは、ちょうど二年前の2014年3月に行った。そのときの写真は、掲載省略です(笑)。リンクを張るのが大変なので・・・・。

 朝倉氏のお屋形の近くには、戦国時代の街の様子も模型で再現されている。板葺と板塀の家々だ。一乗谷の様子を再現したのかな。一乗谷でも屋外で一部だけ復元していた。

 ↓ 写真の手前が実際方角でいうと西。
  屋形は東西に広がり、南側が空いている。陽当たりをよくするためであろう。
 西には、山が迫り、模型では建物に隠れているが、湧水と斜面の地形を利用した庭園と池がある。
 模型にもあるが、上の敷地に行く狭い階段通路は現在も残っている。上の庭園跡も現在は石組みと池の遺構として残っている。


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 上空から見た写真が展示されている。
 現地を訪問したとき、堀にかかる橋を渡って、館の跡地を散策した。

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 模型の拡大。(左側の)西には、山があり山の下に湧水と斜面の地形を利用した石組の庭園と池がある。
 が、屋敷の建物に隠れて、庭園部分が実際、縮尺を考慮しても小さいのではないか?。
 模型にもあるが、上の敷地に行く狭い階段通路は現在も残っている。
 上の庭園跡も現在は石組みと池の遺構として残っている。

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 有名な「徳政の記念碑」の模型もあった。「ほうそう地蔵」全体の実物大と思われる複製品の展示があるが、さすがに撮影はしない。現物を撮影したことがあるから(笑)。 2013年に現地(奈良市柳生)に行ったことがある。

 複製には「疱瘡地蔵」と説明がはっきりある。徳政を記念する碑ではなく、石に刻んだお地蔵さんの右下の部分に文字を刻んだもの。メインはあくまで「ほうそう(天然痘)」の撲滅?、治癒?を祈願する、お地蔵さん。碑文はのちの時代のオマケみたいなものか・・・・・?。


 「柳生徳政磨崖碑文」 部分の複製。↓
 

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 ↓ 2013年11月撮影。奈良市柳生の「ほうそう地蔵」の様子。
  碑文の部分だが、現物では全く分からない・・・・・。
  当時、本当にその文字が刻まれていたのかと疑ってしまうくらい、摩耗している・・・・・・。


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↓ 2013年11月撮影。奈良市柳生の「ほうそう地蔵」の様子。
 保護のとめの屋根がある。碑文は右下にあるが、判読は出来ない。

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 展示の大きさに比べて、現地(奈良市柳生地区)での扱いは小さい。つまり、観光目的での訪問は、とても行きにくい。まず、案内の看板がでていない。場所を見つけることが難しいのだ。
 柳生の観光案内看板に「ほうそう地蔵」とだけあり、これでは普通のお地蔵さん扱い。道端でも案内はない。小さく「ほうそう地蔵」の「→」看板のみ。これでは、よそから来た人には分らない・・・・。


 「洛中洛外図屏風」は重要文化財指定の「歴博本」がここの所蔵である。その模型の展示があった。現物は、東京国立博物館で開催された「京都展」で見たかな。
 ↓ 「洛中洛外図屏風」歴博本の複製。
  清水寺とその東を流れる鴨川の様子の部分。
  

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「洛中洛外図屏風」ではまず清水寺の舞台で位置を確認(笑)。
 ↓ 内裏?。


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 戦国時代から信長、秀吉の天下統一、南蛮船までがこの「中世」展示室だった。

 ↓ 起請文の複製。
  西暦の1572年に信長が近江南部の村人達に一向一揆に味方しないことを誓わせたもの。
  

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 タイトルに「・・・・起請文事」とある。文字がびっしりと書かれている。途中「・・日本国六十余州大小神祇・・・天照大神・・・・大原野大明神・・・・大明神住吉大明神・・・・伊豆・・・・権現・・・・」と書いている。
 カラスがたくさん集まっている起請文の用紙の模様、書き方は、以前永青文庫で企画展細川家「起請文の世界」で見た戦国末期~江戸時代にかけてのものと同じ。文字は「とにかくたくさんの神仏の名前」を書いている。書式、用紙はほぼ決まっていたのだ。 
 
 ↓ ポルトガル インド副王信書の複製
   以前、妙法院の公開時に宝物収蔵庫(龍華蔵)で現物を見た。いや、京都国立博物館で見たことがある。見たのは、平成知新館の新規オープン「京へのいざない」の第2期展示で見た。妙法院では複製品が公開されていて「現物は、京都国立博物館で現在展示されています。」ということだった。

  

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 秀吉あてに来た、お手紙の複製品。本物もさほど色あせていなくて、色彩が鮮やかな信書であった。
 

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 南蛮船までがこの第3「中世」展示室だった。
 今まで、現物を見たり、現地に行ったことがある文化財の複製、模型、レプリカを中心に見学した。
 特に絵画、書など屋内展示の文化財は、オリジナルの展示は例外なく撮影禁止なので、複製ながら撮影できるのはありがたい。

 ↓ 遣唐使船を思わせるような南蛮船の復元模型。
   大砲が船体に装備されているが、わかる。

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 次の部屋へ歩く。

国立歴史民俗博物館 常設展示 見学6 (第1展示室)

 2016年3月20日 千葉県佐倉市

 国立歴史民俗博物館」(「歴博」)。常設展示 見学 (第1展示室 「原始・古代」) 


 「原始」の縄文時代から展示が始まる。縄文と弥生時代のはサラッと見る。
 次は「古代」の展示。古代は、古墳時代以降から奈良時代くらいまでをいうのでしょうか。

 「古代」の展示では羅城門の模型がドーンとある。大きいレプリカである。羅城門の模型にしても、ここは模型が多く展示されているので、撮影は比較的自由だ。フラッシュは禁止であるが、撮影禁止のマークがなければ基本的に撮影可能だ。
 羅生門と間違えやすい。



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 平城京の宮殿の模型。
 ちょうど内裏というか、天皇の生活する御所や正殿付近の模型。
 長いお堂が直線状に並んでいる。現在、唐招提寺や元興寺に残るお堂は、こうした平城京の宮殿の建物を移築したものだった(と思う。)。

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 ↓ 羅城門の模型の裏側と展示室内の様子。
 


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 薬師寺の仏像の複製品の展示。


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 国宝の仏像は現物は撮影禁止。が、複製なので撮影できる。
 記憶にとどめておくことが出来る。見ただけでは忘れてしますが・・・。こうして見ると、エクゾチックな顔の仏像です。モデルが外国の当時でいう「胡人」なのかな・・・、インドかペルシアの影響か・・・・は分からない。
 撮影禁止なので、本物を見てもすぐに忘れてしまうので、こうして複製品を撮影できるのはありがたい。
 が、そもそも薬師寺の東院堂自体に行ったことすら忘れている・・・・・・・・。いや、そもそも行っていない!!??。


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 特筆すべきは沖ノ島の展示があった。

 ※ 沖ノ島について、別の記事とします。

 多賀城の模型がある。多賀城の碑もレプリカがある。
 「碑を探してみよう」と書いてあった。。「どこにあるでしょう?」とう謎かけかな・・・・。うーん、なかなか見つからないぞ。

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 碑は 城の入口の近くに置かれていた。ちょこんとあるので分からない。城は壁に囲まれたエリアは広い。古代中国のように壁に囲まれた土地、街、役所を守るようなイメージ。


 原始から奈良時代までが第一展示室だった。

 見ごたえがあるので、ずいぶんと見学に時間を消費してしまった。

 ↓ 多賀城の碑。 「西」とあり、京を去ること××里と書いてある。
 最果ての防御の拠点。茫々たる荒野の城だったのだろうか、当時は。


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 展示室を出て、次の展示室へ。「中世」の展示へ。



国立歴史民俗博物館 常設展示 見学5 (第1展示室)

 2016年3月20日 お彼岸
 
 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 常設展示(実際には「総合展示」と博物館では説明している。)を見学する。 第1展示室「原始・古代」

 第6展示室を見たところでお昼の前、11時45分になった。レストランで「古代米」の食事をしてから、戻って来た(笑)。混雑前にお食事確保(笑)。
 食後は一旦、一階(受付のあるフロア)に戻り、最初の展示室つまり「第1展示室」から順番に見ることにする。

 改めて先程入館したときの隣の入口から第1展示室へ。そのまま、(企画展示室と異なりエレベータで地下に行くことなく)廊下で展示室とつながっている。

 ↓  第1展示室の入口。
   順路通り。ニッポンの歴史のワンシーンの切り絵が掲示されている。
  埴輪、南蛮船、戦国武将のヨロイ、中世の一般人?などなど。突き当りの壁には、「ブルーの地球」の写真がある。 


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 ↓ 展示室への廊下の壁。
  明治時代の錦絵にかかれた、礼装姿の警官?、軍人?や西洋服に身を包んでいる女性、先ほど第6展示室で展示をみた、昭和期と思われる兵隊さんの軍装の写真、戦後のモーレツサラリーマンのスーツ姿の写真など。その時代を生きた人々の姿がある。

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 よくよく考えれば、私の祖父は、上の写真にある兵隊サンの軍服姿も戦後、高度成長時代のサラリーマンの姿も両方経験したことになる。否応なく時代に翻弄された世代ですね・・・・。

 縄文時代から展示が始まる。当時の生活の再現など模型や解説ボードによる展示が多い。続いて弥生時代の展示。室内は、結構人が多い。と、小学生くらいの女の子を連れた家族連れが三人でやって来た。女の子は「あたしの好きな時代だ」と嬉しそうに話をしている。
 私のツレらはは・・・というといない・・・・。皆、単独行動だ。「バラバラ家族」です(笑)。
 これら縄文と弥生の時代の展示はサラッと見る。歴史の授業でも縄文、弥生ら熱中するあまり、全然先の時代に進まない・・・・。道理で「近代、現代」の授業が終わらないはずだ・・・・・・・・・・・・・・。

 ↓ 三内丸山遺跡の様子の復元模型。
   新青森駅の近くにある遺跡。以前、青森県を訪れたことがあるのだが、時間の関係で行かなかった。


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 ↓ 弥生時代の高床式倉庫の模型だったかな。

 
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 土器など当時の道具の展示もあるが、ほとんどが模型の展示。現物のオリジナルを展示しているのではない。

 ↓ 縄文人の系譜の解説。
  解説よると「日本の縄文人と同じ遺伝子配列を持つ人々が、モンゴル、朝鮮半島・台湾・ポリネシアなど多くの地域でみられることがわかった」とある。

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 うーん、私のDNAは南方系なのか、北方民族系なのか・・・・。両方を持つのかな・・・・多分。私の顔ひとつをとっても、色々な地域の特徴を持っていると自分でも思います(笑)。
 
 次いで、展示の時代は「古墳時代」に。
 箸墓古墳の現在の様子の模型。古墳に近接して、人家が密集している。道路も幅が狭い。車で通るにも難儀した。国道に戻ろうとしたが、集落の中をうねうね走って、全然違う方向に行ってしまったことがある。
 卑弥呼の墓ともいわれる奈良県にある古墳だ。模型は現在の森に覆われた墳丘と(向かって右半分は)造営当時の様子を対比している。

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 参考 箸墓付近の写真。
 2013年の11月に撮影。かつての古墳の濠は、田んぼになっていた。
 写真左に古墳に近接する集落がある。

 ↓ 


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 撮影したのは「11月」のこと。11月であるのに稲刈りはまだだったのだ。

 古墳を一望できるポイントにあった案内の看板。↓
  この付近は「山の辺の道」で散策路としても有名ですね。


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国立歴史民俗博物館 常設展示 見学4 第6展示室「現代」

 2016年3月20日 お彼岸

 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。
 第6展示室「現代」の展示を見ていく。
 
 戦時中の展示を見る。8月15日、敗戦の日の新聞の一面もコピーが壁に展示してあった。

 次のコーナーは アメリカの占領時代に関する資料展示だった。


 そして、展示は「戦後」のニッポンに移って行く。戦後のニッポンの世の中は劇的に変わる。
 戦後のダム開発の展示。ダムの模型の展示がある。
 ↓ 福島県の田子倉ダムの模型。只見湖だろう。その下には、ダム湖の下に沈んだかつての集落の模型がある。
   このダムの建設には、当時東北電力会長だった、あの白洲次郎もかかわった筈だ。ダム建設現場での写真を見たことがある。


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 戦後、復興を遂げた日本は、生活様式も激変した。戦後の日常生活の様子の展がある。
 住宅団地の様子やその室内の様子。そのまま、室内に入り、「体感」できるようになっている。


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 私が生まれてから最初に住んだ、当時親の勤務していた会社の社宅の間取りにそっくりである。
 昭和40年代に急激に増えていったのではないか。昭和20年の敗戦から、20年あまりで急速に時代は変わったのだ。いかに時代の流れが早かったか・・・。
 

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 戦後の一般市民の展示は、江戸東京博物館とダブルるような内容だ。

 市営住宅として現在も当時に建てられた団地が残っているが、更に平成になってからも世の中は変わった。住宅団地が「文化住宅」とよばれたのは昔のこと。現在では老人世帯やいろいろな事情のある家庭も多い・・・・。
 (個人の見解です。) 


 テレビスタジオの様子の再現で展示は終わっていた。
 マスメディアも急速に発達した訳だ。

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  スタジオの模型の展示と通路を挟んで反対側にはゴジラの模型が置いてある。ゴジラは「ビキニ環礁の核実験の放射能から逃れてきた。」と解説があったような。冷戦下、核戦争のリスクというものも確実にあったのだ。
 実をいうと、私はゴジラ世代では無い。もう少し上の世代の人かな。


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 同じ「現代」のテーマでも、前半は戦前、戦中期の軍隊中心の展示。軍国主義の重苦しさも感じる。戦争という多大な犠牲を払い、戦後の日本は平和な世の中に一変した。もちろん、世界各地では戦争、戦乱は頻発しているし、戦後の日本社会、世の中のありようのすべてがすべて正しい訳では無い。
 ただ、平和を享受して生活できる今の私達は本当に幸せだ。ありがたいことだ。世の中いろいろとあるけれど、感謝しないといけない。

 昭和10年当時とその40年後の昭和50年では隔世の感がある。昭和20年の敗戦、アメリカ、他国軍隊の占領を経て昭和50年では高度経済成長時代ですら終わっているのだ。それから40年後が、2015年、平成27年。
 パソコン、携帯電話などIT機器の普及をのぞけば、この40年間はさほど変わっていないのではないか。
 そして、私の人生と重なっているのである。しかし、パッと見、「変わっていない」ようであっても、この20年で世の中の仕組・システムは激変したと思う。私は、ちっとも(気持ちも含めて)変わっていないのに・・・・・・・。歳はとったけどね(苦笑)。

 第6展示室を一通り見たところで11時45分になった。昼食に行かないと、満席の恐れが・・・。博物館では昼食場所が限られるので・・・。レストランの席の確保は最重要課題。レストランへ急いだ(笑)。


 


「国立歴史民俗博物館 常設展 見学3 第6展示室「現代」

 2016年3月20日 お彼岸

 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。

 第6展示室「現代」の展示を見ていく。

  昭和11年5月に、佐倉の歩兵第57連隊は満州に移転している。1その満州移転の日程表が、満州の地図上に示されていた。船で大連に着き?、鉄道(つまり、満鉄)で移動し、チチハルに着いて、その後、本渓湖という南満州の炭鉱町に移動している。一旦、北満州に行き、南満州に戻っている。その後、再び北のチチハルに戻っている。

 昭和11年の満州移動当時の聯隊の将校、下士官の職員表の展示がある。連隊長で階級が大佐が山口直人大佐。連隊本部には連隊付の中佐がいて、副官の少佐がいる。旗手の少尉の名もある。
 「教主」の中佐が1人いる。「教育係主任」という意味だろうか。少佐は、あと二名くらいいる。隊長として少佐が三人いる。第一、第二、第三大隊の長。つまり、大隊長。その下に中隊がある。第一から第十一までの番号。第十二中隊はなく、「機関銃中隊」?がある。中隊長は大尉だが、代理の中隊長は中尉の階級の人もいる。「陸大」と書いてある隊長も。普段は不在で陸軍大学校に在学しており、籍だけ連隊の中隊長なのだろう。

 移動の翌年、つまり昭和12年にソ連国境にも近い、「孫呉に移動した」とある。移動は、大興安嶺、北安経由の線路だった。
 孫呉には、12年の8月以降に駐屯したようだ?。すると、当時でいう支那事変が拡大した後のことだったようだ。連隊の名前は「山口部隊」と書いてある。数字での「57連隊」の文字はない。アムール川沿いの国境の地帯に駐屯している。
 アムール川(つまり、黒龍江)の中国側、黒河の街の対岸にソ連の「ブラコビヒチェンスク」の街がある。この付近の地図は初めて見た。川が三本、アムール川に合流するところに「ブラコビ」の街があり、中国側、アムール川沿いに黒河の街がある。この街にも北安経由であろうか、鉄道(満鉄)の線路が開通している。

 黒河の南には、昔の条約で有名な愛軍(字が出ないので・・・・)アイグンの街がある。その南のやや奥地に南と北に分かれて孫呉の街がある。 更に川に沿った地域に、聯隊は駐留したようだ。同地での駐屯地の兵舎の模型もある。三角形の木造な兵舎を建てた簡素な陣地といったかんじだ・・・・・・・。

 次の展示は戦時下の生活の様子。物資が配給制となり、どんどん戦時体制が強化されている。日本全体としての展示として全国各地への空襲や広島・長崎への原爆投下に関するものがあった。
 敗戦の日の新聞の一面もコピーが壁に展示してある。昔、学校の資料集で見たことがあるな。たしか、このときは紙不足で、新聞は一枚だけだったはず・・・。「終戦のご聖断くだる」のような見出しだった。歴史の資料集には結構載っていることが多いので、私以外にも見たことがある人は多いだろう。見出しの記事についで社説が紙面の左側に掲載されていますね。
 
 その近くの天井から、日本各地を空襲したアメリカ軍のB29の航空機の模型で天井から吊り下げ展示されていた・・・・。私は、その写真を撮る気持ちにはなれなかった・・・・・。ただ展示模型を見上げるのみだった。

↓ 第6展示室「現代」の順路。
  向かって右の黄色のゾーン、戦前から見て、占領期を経て、ブルーの「戦後」の展示を見る順路。
  黄色のゾーンが細くなっていて「5.占領下の生活」に至る途中にB29の模型が吊るしてあった。


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 「戦後」へと展示を見ていく。


↓ 第6展示室「現代」の前の廊下。

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国立歴史民俗博物館 常設展 見学2 (第6展示室「現代」)

 2016年3月20日 お彼岸

 千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。
 
常設展示は、地下(実際は半地下だが)の「第6展示室」から見ていくことにする。第6展示室のテーマは「現代」である。 「現代」といっても、実際に部屋に入ってみると戦前の昭和時代以降の展示だった。
 「膨張する帝国」と「兵士の誕生」から展示が進む。
  「兵士の誕生」のコーナーに佐倉連隊の兵舎の模型などがあった。
 
 展示室の最初は、戦前期の日本、主に地元佐倉に駐屯していた佐倉連隊のことについての展示だった。「歴史民俗」といえば日本全体のことについての展示とイメージが湧くが、かなり「地元の千葉、佐倉」を意識した展示だ。

 佐倉に駐屯していた歩兵第57連隊についての展示。まさに、この歴博があるかつての佐倉城の敷地は、連隊の衛戍地であった。まず、ドーンと室内に兵営の様子の模型がある。
 展示室内の写真撮影は可のようだ。例の紺色の制服を着た係員の女性(50歳台くらいかな?)が、一人立っているので、念のため確認してみた。「撮影禁止」と書いてなければ、撮影はフラッシュなしで撮影はできるそうだ。 
 
 一通り展示を見てから、あとで写真を撮った。展示模型によると、現在博物館となっているこの場所、かつての佐倉のお城全体が連隊の兵営であった・・・・・。かつての城の石垣、廓の内部に木造の兵舎がいくつか建っていたことが模型から分かる。ただし、お城の旧本丸には、兵舎は建っていない。かつての二の丸に兵舎など主要な建物が建っている。

 
 ↓ 兵営の模型。写真の奥、上が佐倉城の本丸の跡。手前に兵舎がコの字状に建っている。
 兵舎の真ん中にある通路の下には門がある。先程、車で通って来た石垣の合間の道のところだ。門そのものは無くなっているが、間違いなく、現在の博物館の入口の道路と連隊の門が同じ位置である。


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 ↓ 別の角度から。模型。展示室内には、私以外には見学者がいなかった。例の係員が一人いるのみ。
 後から、男性の見学者が一人やってきた。よって、写真を撮影するとオトが響く・・・・・。

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 見学している間、「57連隊に弟が入隊して戦死したという人がさっきいた。誰かに話したいんだろうな~。」と。老齢の男性の監視員が巡回してきて、先の女性の監視員に「他人事のように」話していた・・・。余計な私語は、つつしみましょう、看視員、監視員の方々。

 兵舎の室内を再現した展示もある。実物大とのこと。「内務班の様子」と説明文にある。カーキ色の兵士の軍服、軍装の展示があるが、これは再現であろう。木製のベット、棚などの兵舎の室内の様子と食事の模型がいくつかある。明治村でも見た。食事の模型も。キャベツに汁、カツレツに白米の模型。明治時代よりも進んでいる。が、副菜まだは少ないような・・・・。改善されたとはいえ、現代と比較すると、パランスはまだまだ考えられていないようだ・・・・・・。汁の中には豆腐や青菜。何もないコンソメスープのような汁はお茶の模型だった・・・・・。




 ↓ 佐倉での兵舎の大きな模型。

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 軍装の様子の再現人形。↓
 兵室の様子も実物大で再現。ベッドが小さい・・・・。手前には、食事の模型も。
 明治村の旧歩兵第六連隊兵舎の内部で昨年の暮れに明治時代の食事の模型展示を見た。おかずは増えているようだ。かつては、森鴎外(林太郎)に代表された陸軍軍医部の栄養バランスに関する考えに基づいて、明治時代に比べると改善されたのでしょうか?。

 ↓ 上でも書いたが、カツレツ以外に味噌汁の具も多い、野菜が付いている。漬物は無いもよう。

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 昭和11年、満州へ移動した当時の写真も展示がある。室内においてある、展示に関するパンフレットにも掲載がある。タイトルは「山口部隊の頓営出発」とある。当時の連隊長の名前をとった部隊名だ。
 「奉祝門」が建っている。写真で見るとこの場所は、先ほど、ここ博物館の門を入り、車で登ってきた城の入口の所に間違いない。
 連隊旗手が軍旗を持って、奉祝門をくぐり先頭に歩き、まさに出発している場面だ。続いて兵士や乗馬の人が・・・・。日の丸を持った着物姿の見送りの人が多数写っている。明治時代の写真といってもよいくらいの着物だ。この写真、明治時代といっても区別がつかないくらい。
 服装を含めて、戦後にガラリと生活様式が変わったことを感じる。

 ※「現代」の展示は更に続く。
  長くなるのでここ「第6展示室」、その他の展示室の見学記事は、後日書くことにします。

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国立歴史民俗博物館 常設展 見学1 (入館)

 2016年3月20日 お彼岸

 ようやく、春めいてきました。千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきました。
  「東洋文庫」の記事でも書いたように、この日は夕方まで歴博を見て神奈川に戻る途上で都内の東洋文庫の「解体新書展」に行ったのだった。

 ↓ 館の建物の横には、春先の光の中、花が咲いていた。
 2016年の桜は、開花が早かった。が、この日の開花宣言はまだであり、晴れていてもまだ冬の気温であったが、日差しは明るくどことなく春めいていた。


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 企画展「万年筆の生活誌-筆記の近代-」の記事は先に投降しました。
 

  歴博を訪れるのは、今回が初めてだった。よって、その道のりから記すことにする。
 神奈川県の自宅から、佐倉に向かう場合、首都高湾岸線を通ることになる。しかし、お台場を過ぎると、道路は渋滞である。江東区から浦安の先まで混雑している・・・・。お彼岸の連休、暖かくなってきたので、皆さんお出かけかな?。やっとのことで、千葉県内、市川付近に来ると車は流れるが、千葉方面は交通量が多いのだ・・・。
 更に幕張の手前から再び混雑。流れているときは、スピードを出す車が多いし、渋滞やノロノロ運転中では無理な車線変更が多い。交通マナーが随分悪い。混んで動かないと、スっと急に入り込んでくる。「ハッ」とするが、特にはクラクションは鳴らさないでいる。と、ツレは「さっきは、なんで鳴らさないのよ。危ないのに。」と文句を言われる・・・・。鳴らすと、「あんまり鳴らすと、報復されるよ。」と文句を言うくせに・・・・。私は、車間距離を開けて運転するクセがあるので割り込まれやすいのだヨ。

 更に宮野木で房総に行く車が渋滞している。分岐点なのだ。よって、房総方面へ行く車が渋滞しているため三車線のうち、二車線のみが通行可。真ん中車線から房総方面へ車列に突っ込み車が止まる場合があるので
危ない。さっと 走行車線に入り込むことも想定されるし。この付近は、千葉の北地域の感じで、ここから房総に行くイメージは無いのだが、東京、千葉の西エリアから房総に行く車は、多いのだと知った。

 分岐点を過ぎる、その先はすいた。順調に走行して四街道インターで下りる。久々の千葉だ。千葉といえば、「丘陵地帯」。洪積台地というのだろうか。インターを降りてからしばらくは、台地の上の道だったが、進むと坂道を下り、台地の下に出る。田んぼの中の道を行く。周囲には田と洪積台地の林と家々が点在する風景が広がる。まさに「ディープチバ」。台地の上の街、成田にも、とんと来ていないな~。

 一般道を走行し、二時間半以上かけて佐倉市の歴史民俗博物館に到着した。市内でも迷った。JRの佐倉駅方向から市内のアプローチした。周知のようにJRの佐倉駅は台地の下の周囲には田んぼが広がるエリアにある。が、佐倉の市街地は、台地の上にある。台地の上に出る坂道を車で登る。市街地に入ると道が狭い。よって、迷ってしまった。市街地をウロウロし、さらに台地の下へ(来た方向とは別の方向へ)下る道を進む。

 やっと「国立歴史民俗博物館」入口の看板を見つけて、曲がる。入口は、市街地のはずれ、台地の下にあった。駐車場までは、城跡の坂道を更に上る。博物館の入口付近には石垣がある。かつての佐倉城だ。博物館は台地の上に築かれた、城跡の石垣の中にあった。

 博物館の駐車場には、空車があった。訪れる人は少ない。駐車場に車を停めて、博物館の建物へ歩く。

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 ↓ 駐車場の付近。

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 思ったよりも、博物館は大きい建物だ。まるで神殿のようなコンクリートの建物だ。建物までは、ゆるいスロープのような長~い階段を登る。館内に向かう人は、少ない。お彼岸とはいえ、まだ寒いからだろうか。

 建物の中に入る。中は、広いロビーだが、人が少ないのでガランとした感じ。視線の先に、受付の横長のカウンターがある。高い天井に、広いロビー。紺色の制服を着た女性係員がカウンター内にいる。他にも、同じ制服を来た女性の係員が多数いる。
 実をいうと、みなさん40歳~50歳くらいの女性のパート職員のようだ。近くに住んでいる主婦がここで働いているのかなというのは、考えすぎか。実をいうと、展示室内の看視員も含めて係員で40歳くらいだと若手の部類に入るのではないか?。
 ロビーの内部には、大きな模型の展示がある。お寺の門の模型があり、内部構造も見ることが出来るようになっている。
 どこかの奈良の大きなお寺の門かと思った。

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 ↓ 京都の東福寺の三門の模型であった。
   巨大な門で、国宝に指定されていた筈。三門の内部公開を行っているとき、東福寺に私も行ったことがあるが、三門の内部には入場しなかった。

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 中庭の池に面したところにある、お寺の塔の模型。
 高野山の多宝塔かな。と思った。金剛三昧院の多宝塔は国宝に指定されていて、私も外観を見たことがある。
 あの多宝塔は、だいぶ古くなっていて、部材は色あせていたが、創建当時を復元して模型を制作したのかなと思った。

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 ↓ 説明を見ると根来寺の多宝塔であった。
   高野山と根来寺は同じ和歌山県だし「同じようなモノだな。」と勝手に自分を納得させる(笑)。
  
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 ↓ ロビーに面した中庭の池。コンクリートが打ちっぱなしの中庭である。
  休憩できるようになっている。ロビーには、書籍などを販売する売店があった。

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 地下の企画展から見学した。企画展と常設の第一展示室では入口が違う。企画展へは「そのまま地下へ降りるように」と係の女性に言われる。指示に従ってエレベータで下った。
 企画展「万年筆の生活誌-筆記の近代-」を見学して、同じフロアにある第6展示室を見学する。

 地下の同じフロアに第6と第5の展示室がある。企画展示室Bの隣にある「第6展示室」から見てみることにした。第6のテーマは「現代」である。



 

国立歴史民俗博物館内 「レストランさくら」 「古代米」 「古代カレー」の食事

 2016年3月20日 お彼岸

 ようやく、春めいてきたある日のこと。千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきた。
 館内の「レストランさくら」で「古代米」の食事をすることに。
 下の子に言わせると「この前、テレビで紹介していた。」そうなので。かなり前ではなく、今週先週のことだったようだ。

 展示室六、現代(昭和戦前期から最近の時代についての展示室)を見たところで、11時45分になった。ここは、お城の跡地にある博物館。周囲には、食事をとれる場所は無い筈・・・・。よって、館内レストランで食事をするには、早めに行かないと、満席の恐れが・・・・・・と、恐怖心が湧いてきました(笑)。

 繰り返しになるが、博物館では昼食場所が限られるので、レストランの席の確保は最重要課題だ(苦笑)。

 第六展示室のある地下(と、いっても半地下だが。)から出口へのエスカレータを登ると売店に出た。ここが、地上と同じ高さの一階部分。
 売店から、先ほど入場した「入口、入館受付フロア」(エントランスフロアと呼ぶべきか。)からは一フロアか、半フロア下がったところ。つまり、入口は外からゆるやかなスロープを登った一階半か二階部分に相当する。
 ともかく、エスカレータを降り、売店内の本のコーナーを抜け、急ぎ隣にあるレストランへ。レストランにまだ空席があった。というか、まだ席に余裕はあった。早速店内に入り、テーブルを確保!。(勇み足が過ぎたか・・・・・(苦笑)。)

 ↓ レストラン「さくら」の入口。 狭い廊下を挟んで売店(ミュージアムショップに隣接しています。)

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↓ レストラン「さくら」の入口とメニュー。 

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 店の接客の女性もパートの主婦の方のような感じだ。私が席を確保して待っていると、次いでツレがやってきた。展示室は、第一(古代)から見ていたそう。全然見れていなくて、どこから、(食事の後も)見学を再開してよいかわからないそうだ。確かに館内の展示室の配置は、迷路のようで広い・・・・・。

 テレビを見たウチの子によると「古代米カレー」が有名らしい。「古代米」のごはんの定食もある。私は古代米カレーの大盛りを注文。カレーがもう一つ別容器できた。サラダもついている。コメは古代米。赤い色をしたお米。
 「カツ」の定食をツレは頼んだ。

↓ 私が注文した「古代カレー 大盛り」。メニューでの名称は「古代米カレー」ではなく「古代カレー」。
  お米が赤いというか、あずき色、紫色。古代、日本でいうと弥生時代の人はこのような米を栽培して食べていたのだろうかは、分からない(笑)。

 カレールーも「別盛り」で来ます♪♪。お肉は「チキン」でした。ハヤシライスもあった。カレーは、やや辛くて子供には、少し辛いかな。

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↓ こちらは「おろし豚カツ」の定食。
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 定食は、魚の包み焼きのセットもあった。魚がよい人は、包み焼きの定食に。「包み焼き」を古代から調理法として行っていたかは、分からない・・・・。

↓ 大盛りカレーもバクッとすべて食べました。定食もすべて完食。御馳走様でした。
 「古代米」は、雑穀の入ったごはんのようだった。もち米のように、白米と比べるとモチモチ感があった。
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 食後は一階というか、エントランスフロアに戻り、最初の展示室(第一)から見ることに。売店を通り抜け、エスカレータを登り。エントランスフロアに。

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国立歴史民俗博物館 企画展「万年筆」 見学記2 と常設展 第6展示室

 2016年3月20日 お彼岸

 ようやく、春めいてきました。千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきました。
 先日、「東洋文庫」の記事でも書いたように、夕方まで歴博を見て、神奈川に戻る途上で都内の東洋文庫の「解体新書展」に行きました。


 ↓ 企画展のパンフレットより。順路の解説図。

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 奥の部屋に進む。「日本の万年筆の技」の展示コーナーがある。万年筆の軸心を装飾する技術が発達し日本古来の「蒔絵」の技法を施した物もあるそうだ。西洋から輸入された万年筆が日本の伝統文化と結びついたといったところかな。蒔絵万年筆は輸出もされたそう。
 画面を操作して蒔絵の万年筆のデザインを体験できるコーナーがあった。先客のカップル(中年で男女とも明らかに40歳台半ば以上・・・。特に、だからなんだということは無いが・・・・。)がいた。が、二人が仲よく??操作しているので、長い・・・・・、ので、私は体験できなかった。
 蒔絵技術を施した万年筆の展示があった。金粉などをまぶした軸心の万年筆などが展示されていた。「プラチナ箔」の万年筆もあった。
 そこから、企画展示室Aの出口へ歩く。展示は、主に戦後発売された軸装の美しい万年筆などの製品、商品の展示。一旦、展示室の外に出る。エレベータのある廊下だ。

 企画展の「展示室B」は、廊下を挟んで斜め前にあった。再度、チケットを提示して入る。
 実際に万年筆を使用して描いた手紙、ノートなどの展示がある。

 日中戦争か太平洋戦争時の手紙がある。戦地から出されたもの。出征した兄から、弟にあて、万年筆で書いたものだ。1通は、中国の大陸の戦地から出された手紙。これは、どことなくのんびりした様子も感じる戦地からの手紙だ。現地の住民の様子なども書いてあった。
 もう1通、南方から出された手紙には「体にきをつけて」などとあり、重要なことは書いていない。所属は、××部隊と場所のわからない部隊名だ。切迫した戦況が伝わってくる。ハガキには、「検閲済み」というスタンプが押してある。書きたいことも書けなかったのだ・・・。熱帯の戦地で書いたものであろうが、インクはにじんでいない。文字もはっきりと判読できる70年を経過しても全く劣化していない。
 差出人はこの後、南方の戦場において26歳で戦死したそうだ。その説明を読んで、思わずハッとした。この方は、祖父とほぼ同年代だ・・・。というより祖父よりも年下だ・・・。これらの手紙は、戦時中は子供であり、当時受け取ったご本人から戦後に寄贈されたものであろう。
 その他、昔の大学で、万年筆で書いたノートの展示もあった。しかし、戦地から出された手紙ほど私の胸を打つものは無かった。

↓ 第6展示室の入口とその前の廊下。「現代」とテーマが天井に電光表示されている。
その奥に企画展示室AとBがある。

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 ※「現代」の展示「第6展示室」や、その他の展示室の見学記事は、後日書くことにします。

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国立歴史民俗博物館 企画展「万年筆の生活誌-筆記の近代-」 見学記

 2016年3月20日 お彼岸

 ようやく、春めいてきました。千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にやってきました。
 先日、「東洋文庫」の記事でも書いたように、夕方まで歴博を見て、神奈川に戻る途上で都内に行きました。

 企画展のことから先に書きます。初めての訪問ということで、常設展示は見学にかなり時間がかかったのですが、ここに来るまでの経緯や常設展の見学記などの記事は、また後日にアップします(笑)。

 ↓ 外壁に「歴博」と大きく文字がドーンとあるので(笑)、「ここは、歴博というのか。」と分かりました(笑)。


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 自宅から二時間半以上かけて、佐倉市の歴史民俗博物館に到着した。途中、渋滞していたもので・・・・。
 駐車場に車を停めて、博物館の建物へ歩く。
 建物の中に入り、カウンターで券を買う。企画展を開催していた。テーマは「万年筆の生活誌-筆記の近代-」。
 「うーん微妙なテーマの展示だな~。」と思いつつ、滅多にここ(国立歴史民俗博物館)に来ることは出来ないため、見学することにして、企画展込みの料金のチケットを買う。大人一人820円くらいだった。

 地下の企画展から見ることにする。企画展と常設の第一展示室では入口が違う。企画展へは、入場すると(そのまま地下へ降りるように)係の女性に言われる。指示に従ってエレベータで下る。と、地下に展示室がある。地下ではあるが、天井がとても高い。
 文字通り「万年筆」が展示のテーマだ。かなり異色のテーマ。昨年、来ようと思って、ここ歴博の企画展を調べると「重要文化財指定 大久保利通関係文書」、「日本ドイツ修好150周年記念・・・」などのテーマだった。今回、訪問したのは、突然でもあったので、企画展についてはあまり調べていなかった。。。。。。うーん、文具メーカーの宣伝ではないのかな、と思ったのは私だけでしょうか(笑)。

 まずは、いろいろな万年筆の展示がある。解説には「ボールペンの均一性とは異なる 書くよろこびがある」
の文が。
 展示の最初は、昔の万年筆の販売の様子など。美術館で万年筆の使用が禁止されている理由の説明ボードもあった。(これは昔だけではなく、現代でも禁止だ。)
 大正時代 デパートの展覧会で、とある観覧客がメモを取ろうとして万年筆を取り出し、ふとしたはずみで インクが展示品の屏風についてしまい汚れてしまったからだそうだ。インクは取れないので大切な展示品の屏風が汚損してしまったとか・・・・。

 ↓ 企画展のパンフレットより。

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 明治、大正時代の万年筆の展示がある。更に、製作過程では軸心を削る際に「ろくろ」を使用していたと説明にある。更に進むと、スクリーンがあり、製作工程の映像が流れていた。
 この映像コーナーでは 万年筆の職人の作業の様子が映画化、というか映像化されている。軸心として、材料の「丸いセルロイドの塊というか、棒」を、ろくろで回して芯をくりぬいている。くり抜いていたのだった。考えもしなかった。すると、削りかすは捨てているのかな、と思ったが特に説明はなかった。捨てているとしたら、現代の「エコ感覚」からするとかなり無駄のある工程ではないかなと思った。
 自動のろくろもあるが、足踏みでろくろを回している作業の場面が写っている。微妙なまわし方で軸心の出来栄えが変わってくるそうだ。
 「ろくろと万年筆」の碑の写真が掲示してあった。滋賀県東近江市のお寺にある。ろくろ職人の神様といわれる親王のゆかりの地であるから、ろくろ職人が建立したようだ。観光ガイドには載っていないであろう、場所はちよっと分からない。東近江の「トマオニ」ならば、すぐにわかるが・・・・。八日市のインターから更に山間部にあるお寺なのかな。

 ↓ 企画展のパンフレットより。


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 ↓ 地下1階(といっても、半地下の中庭に面しているが)の廊下、第6展示室の前にあった
  企画展の告知看板とポスター。


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