良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

鎌倉

 

「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞4(最終) 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 2020年2月29日
「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞4(最終) 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 (追記 「新型コロナウィルス感染症拡散防止のため3月4日から15日まで休館します。」と館のウェブサイトで告知されている。)
  (3/15(日)追記 : 16日以降も休館と延期と告知されている。休館のまま会期終了となった。
 今から丁度100年前のスペイン風邪の大流行期、恐らくは結核との合併症で20歳で死去した画家の展覧会が、それ以来最大規模ともいわれる感染症の流行の影響で突然閉幕してしまうとは、何ということであろうか。)

  

 関根正二 作、重要文化財「信仰の悲しみ」。2003年に重要文化財に指定されている。

 前述の通り「大原美術館展」の際に国立新美術館で見たことがあるが、今回の展覧会の目玉作品である。今回は通期ではなく、「後期」の展示である。私もこの「信仰の悲しみ」を再び鑑賞するために、「後期」にやって来た。
 あのとき(「大原美術館展」のとき)の作品解説は忘れたが、今回の展示解説によると、キリスト教の信仰ではなく、「日比谷公園のトイレから出てきた女性を見て思い立った描いた・・・・」というようなことが書いてある。タイトルも全く別で、あとで「信仰の悲しみ」とつけたそうだ。絵の中の連なる女性達は「殉教者キリストに連なる女性をおもわせる」が、実際は用を足して出てきた女達・・・・!?。

 神秘的な絵だなと感じていたが、なんだか拍子抜けしてしまうような、作画エピソード!?。


 最初のうちは、来館者は数名だったが、そのうちに午後2時頃となった。たいてい、この時間帯は、来館者が一番増加する時間帯であろう。60-70歳台くらいの男性が多い。夫婦で来ている人もいた。 
 次いで、70歳くらいの老人男性2名や70くらいの小柄の女性3人連れなどもやってきた。一人で来ている30歳台とおぼしき女性もいる。彼女はグレーのチェック柄のスカートに、黒いタイツ、黒っぽいセーターに黒髪である。(すべて黒のような。)マスクをつけてる人が多い。看視員は全員マスクをしている。やはり「まだ、(ここは)開けているの?。」と聞いている老人の男性もいた。国立の博物館、美美術館は、既に臨時休館しているからであろう。誰か聞く人はいるだろうな、と思っていたヨ・・・・。
 すると大きいマスクをつけた女性の監視員は「今のところ、休館の措置はとっていませんが、いつ閉まるかわかり(休館してもおかしくあり)ません。」と答えていた。

 鑑賞者に学生らしき人はいない。退出するとき、順路の最初の第一展示室では、合計して15人-20人くらいの入館者いたのではないか?。私がきたときは、第一と第二合計しても、入館者は10人いなかったと思う。
 「信仰の悲しみ」を再びじっくり見てから展示室の外に出る。廊下にも展示品があった。壁に関ねの年譜などがはってある。(図録の年譜と同じ内容であった。)実は、これらを先に見てから展示作品を鑑賞した方が、展示室内の画家の作品などについて理解できたのではないかと思った。
 関根正二の祖父、利左衛門は、白河藩の3人扶持だったという。明治以後の族籍は(士族ではなく)平民という。父の弟は、第二次大戦後の1968頃まで存命している。正二の父は尾根関係の職人。小屋のような生家の写真がある。白河の城下町の郊外の、農村地帯に住居を構えていたようだ。正二の父は先に、白河から東京に出ている。当時、小学生で8歳くらいの正二は白河に残り、9歳で東京に家族を追って出て、深川に定住してる。

 階段をはさんで、反対側の壁、廊下の部分には、正二の手紙などが展示がある。主に鶴岡黒影との書簡である。壁に解説のバネルなどがあり、階段脇の廊下に平ケースに手紙などが展示されている。手が子には鶴岡に対して「貴兄」などと親しく書いている。色々な制作に関する自分の考えなどを手紙に書いているようだ。山形の、鶴岡黒影の実家に滞在中、「お世話になった家族によろしく」なども書いてある。差出人である、関根の住所は「東京 深川」と書いてある。

 解説によると鶴岡黒影歌人で、「黒影」は号。誰かの門下生という。70歳台後半の年齢で、1978年(昭和53)に死去している。のちに、山形県庁に勤務したそうだ。
 鶴岡は、山形県西川郡河北町?の出身らしい。字は溝延?といういかにも東北らしい地名。
 正二は東京・牛込の四(余丁)町の人物にも手紙を出している。あの
永井荷風の自宅(のちに売却)近くである。牛込区なので当時の私の祖父の家からも近い。1916年頃というと、大正の初めのころ。祖父は子供であった。
 「上野山と遊んだ・・・・。」などと手紙に書いてある。「上野山」は人の名前で友人である。上野の山で遊んだというわけではない。一見すると、上野で遊んだようなイメージだが・・・。

 正二の年譜は、当時の東京市内の地図とともに 階段近くの廊下の壁にはっている。図録に掲載されれていたものと同じ。先に展示室内の図録でも見たが、伊東深水の自宅は、のちに恵比寿に移ったのだが、深川からだと遠いな。
 廊下の突き当り、奥の小テーブルに1999年に開催された「生誕100年 関根正二展」の資料が展示してある。当時のチラシ、チケットなどがある。展示室内の観覧の風景の写真もおいてある。写真はデシタルではなく、フイルム写真である。デジタルカメラが急速に普及していた時期だ。私も当時は、フイルムカメラを使用していた。当時、神奈川を離れて遠いところに住んでいたので、開催は知らなかった・・・・。 写真に写っている、1999年当時の観覧者の服装は確かに当時のまま。夏に開催されていたようで、観覧者は白いポロシヤツにジーンズの人など当時の服装だな。(今でもあまり、変わっていないと思うが・・・。)

 当時のチラシのメイン掲載作品は今回も展示のある「姉弟」。少女が男の子を背負う横顔の絵の写真だ。姉が弟をいつくしむ、暖かさ、家族の愛を感じる絵だ。ほのほのとしている。たとえ、弟が夭折しても、弟に対する愛情は変わらない、永遠不変のものだ。
 当時、「信仰の悲しみ」は重文に指定されていなかった。1999年も2020年今回の展覧会ともチラシに「信仰の悲しみ」の画像掲載が無い。大原美術館の所蔵なので権利の関係でしょう。
 20年後の今回は「生誕120年・没後100年」なので、正二が僅か「20歳」で夭折したことを改めて感じる・・・・。
 神奈川県立近代美術館では1979年頃にも「靉光と関根正二展」として展覧会を開催している。今回が3回目の開催だった。


 今回の展覧会は、没後120年にあたる今年2020年に巡回するのかと思っていたが、三重と福島では昨年既に開催されていて、神奈川が最後の開催であった。

↓ 入口付近のモニュメントのブロンズ像。奥のガラス張の建物はカフェになっている。
  コロナウイルス拡散が言われている世相のためか、すいている。



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 館を出て、鶴岡八幡宮方向に戻った。
 連れと合流する。連れ達は、小町通りにある某喫茶店に行ったのだが、いつもは行列しているのに、待ち時間無く入店できて、しかも「お店はすいていた」と。
 コロナウイルスのため、鎌倉の観光客も激減しているようだ。
 来週から学校も休校になるというし。何か突然、いろいろなことが起こったような感じだ。


 神奈川県立近代美術館鎌倉別館の庭の様子。↓

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「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞3 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 2020年2月29日
「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞3 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 (追記 「新型コロナウィルス感染症拡散防止のため3月4日から15日まで休館します。」と館のウェブサイトで告知されている。)
  (3/15(日)追記 : 16日以降も休館と延期と告知されている。休館のまま会期終了となった。)

  
  神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で展示室内を順番に鑑賞していく。壁に作品が展示されている。
 

 同じ部屋の角、監視員のイスの近くにはデッサンなどが展示されている。イスの下には看視員の荷物が置いてある。時折、荷物を持って別の監視員と場所の交代をしていた。室内がすいているせいか、時折座り、時折立って巡回している黒いパンツスーツに白い大きなマスクを顔いっぱいにした看視員が妙に目立つ(苦笑)。

 少女の死の横顔のデッサンの展示がある。2歳くらいの幼女の死のデッサンである。解説には「年齢よりも大きくかいている」とある。

 風景の画がある。海岸の風景の画の展示がある。「銚子海岸」というタイトル。千葉の銚子の風景だという。銚子に5歳上の姉が嫁いでいたそうだ。福島県出身だが、どうして銚子の家に姉が嫁いだのかは、不明である。実質、東京・深川で生育したので、姉は東京から千葉の銚子に嫁に行ったのであろうか?。

 先の記事で書いた自画像など、壁に沿って順に見ていくと、第一展示室(つまり、最初に見る長方形の展示室)の終わりほうの展示で、「白いロングドレスを着た女性二人が連れだって歩いている姿の絵」が目を引く。まるで、殉教者の列のような、キリスト教の信仰を思わせる作品だ。
『神の祈り』 1918年頃 福島県立美術館 所蔵
 まさに神に祈る、二人の女性を描いてある。白いロング丈の服が一層信仰心を引き立てるような。地面に描かれている花は、チューリップだろうか。ヨーロッパの女性の信仰を表現したのか?。
 焼けたため断片を集め、撮影された白黒写真とつないだ作品もあった。
 「天使」(断片) 三重県立美術館 所蔵

 姉と弟の絵「姉弟」。少女が子供の男の子を背負う絵。背負われる子は、関根本人、少女は関根の姉という。先の銚子に嫁いだ姉でろあうか?。カラフルでカワイイ色使いの絵だ。姉が弟を慈しむ絵である。

「小供」という作品もある。幼児の自画像のよう。「子」ではなく「小」の表記。関根本人であろう。

 伊東の紹介で関根は1914年に「東京印刷株式会社に就職した」と年譜には記載があった。
 
↓ 展覧会チラシ。左は「自画像」。ゴッホの自画像を思わせるタッチだ。真ん中は「姉弟」。
  右が『神の祈り』 1918年頃。3点ともに福島県立美術館 所蔵と表示がある。


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 次いで、隣の展示室に。扉で仕切られてはいない、つながっている展示室である。便宜上、以下「第二展示室」と書くことにする。
 第二展示室は、ほぼ正方形で、第一展示室よりも狭い空間。関根に関連する画家の作品などの展示がある。幼馴染の伊東
深水の作品もある。

 奥の壁に、大黒天1918年 絹本著色(軸装)がある。そのまんま、まん丸いふくよかな(お腹!!??)大黒天の絵。
 個人現存唯一の日本画作品と解説。近くには、監視員の女性のイスがあり、私が近づいて展示をみていると 邪魔になると思ったのか、席を立って、見やすいようにしてくれた。

 第二展示室は真ん中に当時の美術雑誌などの展示が平ケースにあった。平ケースでの資料の展示は先の展示室にもあった。有島生馬の書いた雑誌の当時の記事の展示もあった。年齢としては、有島は17歳上、伊東は1歳上という。有島は、友人といいうか、先生ともいうべき存在だったようだ。


 出入口の近く、順路の最後には、油彩画が3点ある。一番端、ドアの横には、重要文化財「信仰の悲しみ」がある。前述の通り「大原美術館展」の際に国立新美術館で見たことがあるが、今回の展覧会の目玉作品である。今回は通期ではなく、「後期」の展示である。私もこの「信仰の悲しみ」を再び鑑賞するために、「後期」にやって来た。
 その最後の3点のうち1つの展示は「三星」という。三人の人物が描かれている。真ん中は、関根本人。左の女性は、姉。画面に向かって右の女性は、田口真咲という関根と知り合った新潟・新発田出身の女性ともいわれるが、写真で当時の田口の比較しても姿は、違うらしい。
 解説文らよると田口は、東郷青児に取られてしまったそうだ。フラれした当時の関根は落ち込んだらしい。おそらく、伝え聞く東郷の性格というか、「性向」からいうと、相当強引に田口をモノにしたのだろう。押しに負けたのかな?、田口は・・・。関根は、自画像から察するに大人しい性格のようなので、東郷のように強引に女(田口真咲)をモノにすることは出来なかった!?。
 ↓ 展覧会チラシに掲載。「三星」 東京国立近代美術館 蔵。


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 「信仰の悲しみ」の展示の前のソファでは髪がボサボサの白髪の老女が座って、設置してある展覧会の図録をずっと見ていた。顔を近づけてい見ている・・・・。老眼であるが、老眼鏡が無いので顔を極端に近づけて見ていたようだ・・・・。来館者は 数名だったが、午後2時頃となり、たいていは、来館者が一番増加する時間帯であろう。60-70くらいの男性が多い。夫婦できている人もいた。 70歳くらいの老人男性2名や70くらいの小柄の女性3人連れなどもやってきた。一人で 来ている 30歳台とおぼしき女性も。 グレーのチェック柄の スカートに、黒いタイツ、黒っぽいセーターに黒髪。

学生らしき人はいない。順路の第一室では 15人-20人くらいいたのではないか。私がきたときは、第一と第二合計しても 10人いなかったと思う。


↓ 展覧会の看板「少年」(個人蔵)1917年 の拡大画像。

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「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞2 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 2020年2月29日
「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞2 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

 (追記 「新型コロナウィルス感染症拡散防止のため3月4日から15日まで休館します。」と館のウェブサイトで告知されている。)

 (3/15(日)追記 : 16日以降も休館と延期と告知されている。休館のまま会期終了となった。)

神奈川県立近代美術館 鎌倉別館のエントランス。券売窓口は1つしかない。
 ↓ エントランス付近には展覧会の看板が無い。
   

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 展示室に入り、解説パネルを読む。関根正二の画家としての活動期間はわずかに「5年程度」という。その画業を前期と後期に分けて展示をみていくというコンセプトであった。

 順番に鑑賞していく。壁に作品が展示されている。最初の展示作品から3番目くらいに1915年の作品「菊川橋辺り」という油彩画がある。「菊川橋」とは、現在地下鉄の菊川駅のある付近の地名のことのようだ。大正時代当時の東京の都会の街並みと思われるところの、水路にかかる橋の風景だ。東京の下町のような感じだ。
 関根正二が、どこの生まれの人だったのか、予備知識のないまま入場したので、彼は「東京の下町の人だったかな?。あれ、どこの人だったかな?。という感想をまず持った。
 ある作品(風景画だった。)では解説に、医師 福原道太郎の所有だったという。画家と交遊をもっていた著名な医師なのかな?、私は知らないなと感じた。  

 続いて「菊川橋辺り」と同年の作品、16歳の時に描いた「死を思う日」が展示されている。「第2回二科展に入選」と解説文にある。タイトルとは裏腹に、人の姿は画中になくて、葉のある糸杉?と枯れた木2本が真ん中に描いてあるろ・・・・。糸杉(と勝手に判断したのだが)はゴッホの作品を思わせる。深緑の色使いで、暗いタッチである。結核で死の予感が既にあったのか?。当時の死といえば思い浮かぶのは「結核」である。彼は若年の結核患者ではなかったのかと直感した。(壁面ではない)通路にも立てた状態でデッサン画の展示がある。その裏にも作品を展示している。  


 続いて壁面に沿って展示を見ていく。展示の解説を見ていると関根正二は「福島県白河の生まれ、幼少期に東京(当時)の深川に移住し、東京・深川で成長している。」ことがわかる。 

 東北旅行に出かけている。村岡黒影という、東京で知りあった?人の実家にも行っている。現在の山形県北部、最上川流域の村らしい。旅行の帰路には、自分が生まれた白河によっている。

 東北に旅行したときのデッサンなどの作品がある。東北地方の山形県に旅行して、世話になった家族の画の展示がある。

 老女の絵もある。「村岡みんの肖像」解説では「・・・女性は紋付をきて、正面を見て画家と向き合っている。・・・老女のシワなどを美化することなく、ありのままを描きだしている。」とある。お世話になった山形県出身、村岡黒影の実家、村岡家の母堂の肖像である。冠婚葬祭などに着用するであろう、村岡家の紋付の黒い羽織をまとった、日本髪の老女である。一番よい着物を着てモデルとなっている明治・大正当時の日本人の女性の服装がわかる。
 「真田吉之助夫妻像」の油彩画も、当時の山形県の夫婦の正装らしき着物のカラフルな絵である。

  ↓ 展覧会チラシ。 左の作品は「井上郁の肖像」福島県立美術館寄託


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 長野県にも旅行している。河野通勢、という人物と旅行しているらしい。放浪の旅で、その途中で描いている。河野は長野県出身の人物である。その旅行や河野との交友ためか、長野県の信濃美術館の所蔵品が何点か展示されている。

  展示作品には福島県立美術館の所蔵、寄託作品が多い。その理由は白河の生まれということでわかった。次に長野県にある信濃美術館の所蔵か寄託作品が多いようだ。

 来館者は、数名だった。白髪の男性や50-60歳くらいの女性など。順路の反対には、別の部屋もあるようだが、入口を挟んでつながっている。特に扉はなく、長方形の展示室である。看視は小柄で黒髪を束ねてメガネをかけた黒いパンツスーツをはいている女性が部屋の隅に立っている。こんな時期なのでマスクをしてほとんど顔が隠れれいる。

 展示室内のソファの横に展覧会の図録を置いてあるので、見てみる。図録では、関係者の住所などを示す地図が掲載されている。先の作品の解説文にあった 医師 福原 の自宅は、関根の当時の自宅近くの水路の橋を渡って、北西の方向で近所である。パトロンとしての資産家医師ではなく、関根とは近所の知り合いの医者だったようだ。 

 掲載地図の恵比寿付近の拡大図に、伊東深水の自宅の表示がある。すぐ近くに恵比寿ビールの工場 現在の「恵比寿ガーデンプレイス」と書いてある。

 正二が交際していたというか、好意を抱いていた女の自宅は、現在の品川区というか、荏原の方向にある。「当時は(現在と比べて東京は)遥かに市街地が小さかった・・・・。」という説明が書いてある。

(あとで見たが、関係者の地図は、展示室を出た2階廊下脇の壁に大きく掲示してあった。)

 図録に掲載されている年譜によると正二は「結核で1919年6月に死亡」している。年譜の横の欄に社会の動きとして「・・・・・1918年の秋から1919年の春にかけて、スペイン風邪が猛威を振るい、(日本だけで)約38万8千人が死亡、・・・罹患は約2800万人(実際はもっと細かい数字が記載されていた)・・・・・・」と書いてあるのが、目を引いた・・・・。
 現在進行形の「コロナウルス」を想起させるではないか!!。


 順路最初とは反対の壁に、自画像の油彩画が展示されている。当時10代。若いな。デサッサンの自画像もあった。彼は卵型の面長顔である。伊東深水が所有していて、正二の死後に両親に返還したそうだ。「伊東深水」といえば、日本画家として著名な人物である。ジャンルは違うが、深水と交遊関係があった。東郷青児、有島生馬とも交流があったことがわかる。同じく夭折の画家、村山槐多との交流もあったという。

 室内の真ん中には平ケースが設置されている。当時の雑誌、新聞記事、正二のデッサンの展示など関連資料の展示がある。書簡の展示もある。

 展示の資料の中の記載に「・・・・正二は 発狂した・・・・。」ともかいてある。冬のある日、深川の野外で叫んで、倒れたのだという。結核の病気が進行していたのであろうか?。
 死亡記事のコピーも展示があった。写真入りの当時の記事で「関根正二氏死亡」とある。既に20歳にして新聞に記事が出るだけの画家であったのだ。
 村山槐多との交流については「(どれだけ交流があったか)不明である・・・・」と(解説文には)書いてあっが、村山は「・・・スペイン風邪で死亡」と書いてあった・・・・。
 当時の感染症の猛威が伝わってくる・・・・・。コロナウイルスの流行が叫ばれる現代(2020年2月の今、現在)の比ではないぞ!!。
 


 





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「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞1(プロローグ) 神奈川県立近代美術館鎌倉別館

 2020年2月29日
「関根正二展 生誕120年・没後100年」鑑賞1(プロローグ) 神奈川県立近代美術館鎌倉別館 

(追記 「新型コロナウィルス感染症拡散防止のため3月4日から15日まで休館します。」と館のウェブサイトで告知されている。)
  (3/15(日)追記 : 16日以降も休館と延期と告知されている。休館のまま会期終了となった。)


 関根正二は、その作品1点が重要文化財に指定されている(記事投稿日現在)夭折の画家である。以前、国立新美術館で開催された「大原美術館展」で、重要文化財「信仰の悲しみ」を鑑賞したことがある。
 元々は今回の「関根正二展 生誕120年・没後100年」の開催を知らなかった・・・・。何故知ったのかというと普段はほとんど閲覧することのない神奈川県のサイトで、たまたま見つけたからである。
 神奈川県のサイトのトップページのスライド画面で「関根正二展」のポスターイラスト画像が出ていたので「ハッと」と気づいたのだ。開催は、神奈川県立近代美術館である。サイトの告知画面は切り替わってしまうので、ほんの数秒のことだった・・・。「新型コロナウイルス」の相談、連絡先の告知などもスライド表示されていたので、すぐに「新型コロナウイルス」の画面をクリックして(別のサイトページに移動して)いたら、気づかなかったであろう・・・

 これ程に重要な画家の展覧会を国立の美術館ではなく、神奈川県立の施設で開催するというのに何故神奈川県は大々的に広報しないのかと不思議に思った・・・・。サイトで(開催に)気づいた後、神奈川県の広報誌、おなじみの「県のたより」(つまり紙ベースの媒体)を見てみたが、最新号は既に捨ててしまっていた・・・。前号はなぜか残っていて自宅のリビングにおいてあった。しかし、前号の記事を見ても「関根正二展」については掲載していない・・・。改めて県のウェブサイトに「県のたより」最新号の PDF版のテータがあったので開いて見てみると、小さい枠に文字のみの記事で「関根正二展」の開催の告知があった・・・。
 あまりに扱いが小さい・・・・。これじゃ、気づかずに見落としてしまうョ・・・

 開催場所は、神奈川県立近代美術館の鎌倉別館である。鶴岡八幡宮の境内内にあった「鎌倉館」?が閉館して久しい。「葉山館」は、現在改装中?らしく、長期閉館しているので、今回は鎌倉での開催となったのであろう。
 会期は2月1日の土曜日から3月22日の日曜日まで。開催に私が気づいたときは、既に2月の10日くらいであった。前期と後期で展示替えがある。後期に岡山県倉敷市の大原美術館所蔵 重要文化財「信仰の悲しみ」が展示される。前述の通り、見たことはあるのだが、せっかくなので「目玉」(つまり重要文化財「信仰の悲しみ」)が展示される「後期」に行くことにした。

 ところがである・・・・。「新型コロナウイルス」関連で公共の博物館、美術館などの施設も臨時休館が続出となった。状況を振りかえると2/27(木)に 国立の博物館(東京・京都・奈良・九州)が2/28金曜からの休館の発表。次いで、2/28(金)には2/29(土)からの休館を上野にある国立の西洋美術館や都立の施設(都美術館)などが発表。
 先週行った台東区立の書道博物館は2/28から休みだった。「新型コロナウイルス感染症の感染予防・拡散防止のため、2月28日から3月16日まで臨時休館」と。行っておいてよかったョ。1月に行った台東区立朝倉彫塑館も2/28から休み。
 
 「はて、神奈川県立の施設は?。」と事前にサイトで開館しているか、調べてから来た。もしかしたら「閉まっているかも」と思ったが、開いていた!!。神奈川県立の施設としては、横浜に歴史博物館があるが、今のところ開館していた。(2/29の午前中の段階。でも、3/2の月曜日から休みなのかなあ。)
 しかし、同じ鎌倉市内でも市立の博物館施設、文学館、鏑木清方記念館、鎌倉国宝館などは既に休みに入っていた・・・・。神奈川県立近代美術館鎌倉別館と同時に鎌倉の国宝館(鶴岡八幡宮の境内にあるが、鎌倉市立の施設)も見学しようと思っていたのだが、不可能となった次第です(笑)。
  

 鎌倉市内の道路は空いているとおもわれたので、車で移動した。確かに普段よりはすいていた。鎌倉駅前から若宮通りの方法へ向かった反対車線の大船方向から鶴岡八幡宮前に至る道路は少し渋滞していたが、普段はもっともっと混雑している筈。
 車線沿いに神社(鶴岡八幡宮)の駐車場、料金1時間600円があるが、停めなかった。ほとんど駐車している車は無く、すいていた。この駐車場には停めなで更に先、一番、鎌倉別館に近いコインパーキングに停めた。1時間あたり330円だった・・・・、時間単価で30円違う。ここも、空車ばかりであった。

  神奈川県立近代美術館 鎌倉別館
 ↓ 道路に沿った壁に展覧会の看板があった。
   

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 館の敷地に入る。空いているようで、入口付近には誰も人がいない・・・。建物の入口の横にひとつだけ、窓口があって券を販売していた。一般700円。
 入口付近は、ガラスの壁でシースルー?である。入口に接続してカフェが、1Fのロビーの横にあるが店内には誰もいない。中に入ると館内ロビーにもカウンターがあり、女性係員が一人いるが、ここは売店。ロビーの棚に今回の展覧会の図録がおいてあり、絵葉書なども販売していた。

 チケット窓口で「2階でもチケットを提示してください」といわれる。階段で2階に行く。比較的こじんまりとした階段だ。

 2階に行くと、すぐ展示室の入口がある。赤い書体で「関根正二展 生誕120年・没後100年」と大きい表示がある。若い女性係員がいてチケットを提示する。展示室内に入る。「入って、左から見てください。」と言われた。
 来館者は、順路に沿って左手の壁に一人、反対側の壁の展示を見ている来館者が2-3人くらいいる。老人の男性と年配の女性だ。

 しかしである。室内を見まわしても展示リストを置いていない・・・・。来館者もリストを手にしていない・・・。一旦、展示室入口の自動ドアを出て「展示リストはないの?」と聞くと、先の女性係員は受付台の下から青い文字で印刷されて いる展示リストを出して私に手渡した。「希望者にだけ配布しています。」という。

 
 解説パネルを読む。関根正二の画家としての活動期間は5年程度という。その画業を前期と後期に分けて展示をみていくというコンセプトであった。



 





「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞5

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞5
 

 静寂の展示室内である。 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」を見ていく。

 ・「鎌倉府侍所禁制(覚園寺文書)」
  うーん、鎌倉幕府の「サムライ所」と最初は誤解してしまったが、幕府滅亡後、足利幕府の「鎌倉府」の禁制。鎌倉府も「侍所」という組織を鎌倉幕府から引き継いだのでしょうか?。足利氏の鎌倉公方の政治を司るところかな。
 ・「足利尊氏御判御教書(覚園寺文書)」「当寺仏殿〇〇銘位〇事・・・件」が本文で、「文和三年十二月八日 田香氏」と書いてある。末尾に尊氏の花押がある。更に宛名を書いている。「覚園寺長老」と。覚園寺の(今でいう)住職にあてた文書である。
 仏殿を再建?することについての文書(御教書)らしい。仏殿に滞留し、師範をするよう命じている。覚園寺長老とは.「朴がい思淳」(ぼくがい しじゅん)というお坊さんである。
  (「がい」の文字が出ない・・・・のでひらがな表記しておく。)

 この文書は注目ですよ!!。「田香氏」とは足利「尊氏」のことですよ。「高氏」「尊氏」以外にも優雅に「田香氏」と名乗っていたのですよ。最初は「でんこう」という家の人のことかと思ったが音読みしてハッとした。ただ、こうした異音?読みは昔から当たり前だったのかな?。
 同じく覚園寺長老に宛てた別の文書もあり、覚園寺長老「思淳」(しじゅん)師に「××事・・・丁寧に・・・・」と祈祷に関することを命じているらしい。

 上記の「足利尊氏御判御教書(覚園寺文書)」とは別の場所、出入り口に近い壁沿いのガラスケースに尊氏の筆になるという「地蔵菩薩像」が展示してある。縦長の、描け軸になっている。文字が書いてあり、下にお地蔵さんの絵がある。展示リストによると第2章の展示品である。
 文字は尊氏の直筆ということだろう。上手ではないが、丁寧に筆で書いてある。(筆で書くのは当たり前だが・・・。)ただし、達筆ではない。本当に尊氏はこのような文字を書いたのだろうか。下には「尊氏+花押」がある。歴史教科書と同じ「尊氏」と書いてある。花押は、間違いない、「田香氏」と書いた「足利尊氏御判御教書(覚園寺文書)」と同一である。素人目にも同一人のサインした花押と判るぞ!。
 地蔵菩薩像は西暦でいうと1349年のもの。。「田香氏」と名前を書いた御教書は西暦1354=文和三年のもの。「田香氏」の署名の方が年長になってからのものだ。なぜ、あて字をしたのかは分からない。説明も無かったと思う。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
  左端の文書の写真、浄光明寺の敷地絵図の上には「田香氏」と名前の入った御教書の画像がある。

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 第4章 「鎌倉に残る基氏の記憶」
 この特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のメイン展示は「1章」に集中しているため、軽く見ていく。展示室の中心付近の展示ケース内に少しばかりある。
 江戸時代以降の鎌倉の絵図がある。以前も写真などで見たことがあるかもしれない絵図だ。寺院と農村に帰した田園の??鎌倉である。
 基氏の位牌も展示してあった。「瑞泉寺殿・・・」と戒名が彫られている。「院号」でない。「寺号」である。江戸時代以降だと、このような戒名は「瑞泉院殿」と院がつくのだろうが、位牌の文字は「瑞泉寺殿・・・」である。この位牌自体、展示目録によると江戸時代18世紀のものなので、何らかのときにつくられたのだろう。所蔵は「称名寺」となっている。あの金沢文庫に隣接するお寺だ。瑞泉寺ではない。

 今回、瑞泉寺所蔵の文化財が多数展示されていた。基氏の菩提寺であったのですね。全く、基氏と瑞泉寺の関係について理解していませんでした・・・・(苦笑)。そして、瑞泉寺がどこにあるのか、知らないのです。行ったことも無い・・・・
 3章と4章の展示は、ほぼ同じ展示ケース内にあるので、区別がつかない・・・。順路もごちゃごちゃになってしまうので・・・。
 館内はすいている。私のあとから入場してきた女性が1人いたが、先に出て行ってしまった。更にあとから入館してきた男性1人がいた。私は退出して、帰途につきました。
 帰宅した後、地図や自宅にある鎌倉のガイドブックなどで瑞泉寺の位置を確認した。拝観もできるそうだ。鎌倉時代の作になる庭園があることが分かった。
  今回の特別展のタイトルの一部には「東国の王」とある。鎌倉公方は、足利家の分家でまさに東国の王だったりですね。

 (鑑賞記 おしまい。)



「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞4

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞4
 
 第2章「鎌倉公方と禅宗寺院」 を続けて見ていく。次いで

 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」の展示に続く。
 第2章と第3章の展示はほぼ似ていて、同じ場所に展示されていて、区別はつきにくいが。
 上総国の土地の争いに関する文書の展示があった。上総の国の湯井郷の土地で争いが発生していたらしい。現在の千葉県の房総半島の付け根付近の台地の谷間の肥沃な土地(現在ではすいかの名産地となっているが。)か、九十九里浜に面した地域かな。それとも市原、茂原の辺りかな?。

 「足利基氏御判御教書」、基氏の名前と花押のある文書で年号は貞治二年(西暦では1363年と説明にある。)の二月二十七日(実際の文字は「廿」と墨書している。)の日付だ。「光明寺」文書である。
 「上総国湯井郷事~」と書いてある。宛先は「光明寺長老」となっている。湯井郷はある御家人が勝手に??支配してしまっているが、この文書によって光明寺の領有を認めたのであった。

 尊氏と基氏親子の御教書が描け軸になっていて、連続している展示品があった。「浄光明時文書」である。後世の人が、二人の御教書をありがたや、と軸装したのであろうか?。
 末尾に尊氏の名前と花押のある文書では宛名は「千葉介殿」となっている。
 末尾に子の鎌倉公方、基氏の名前と花押のある文書では年号は 貞治三年(西暦では1364年と説明にある。)四月十六日の日付があり宛名は「伊予守殿」となっている。
 湯井郷の押領をやめさせ、尊氏の御教書の通り、寺の雑掌を渡せという意味だそう。(私の誤解かもいれないが。)
 上記した貞治二年(西暦では1363年)の基氏花押のある御判御教書と「対」になっているそう。同二年(つまり前年のこと。)の御教書に従って、土地は覚園寺に渡しなさい、という命令であった。なかなか、引き渡しをしなかったのですね。あわよくば、そのまましれーっと自分のモノにしようとしていたことがミエミエ!?。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 「光明寺」文書の写真。「湯井郷」のことが書いてある。鎌倉市指定文化財である。

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 第3章 「鎌倉公方と鎌倉の寺社」の展示で重要文化財指定の「浄光明寺敷地絵図」がある。昔のお寺の伽藍配置図である。簡単に墨で和紙に書いてある文書、絵図にしか見えなかったのだ・・・。
 同じく第2章の展示では「明月院」の昔の絵図の展示があった。明月院は「あじさい寺」として有名だし、先の6月に行ったことがあるので、明月院の絵図に見入ってしまったが、「浄光明寺敷地絵図」は特別展のパンフレットにも掲載があるので重要な絵図らしいとあとから、気付いた・・・・。
 明月院は元々「禅興寺」というお寺の塔頭だったと説明にある。読んで字の如く禅宗の振興のための信仰篤き寺であったのだろう。現在の北鎌倉の山の付近、北鎌倉駅から見て建長寺の手前に広大な伽藍を構える寺院であったのだろうか?。

 、「浄光明寺敷地絵図」に描かれていた「浄光明寺」も鎌倉公方 足利家にゆかりの深い寺のようだ。瑞泉寺と並んで重要なお寺だったので、文書が残されているのであろう。今まで、知らなかった・・・今まで知らなかったお寺にも、実はかなり重要な歴史資料が遺されていると改めて気づいた・・・・・。

 「浄光明寺」と「光明寺」とふたつのお寺の文書が展示されている。同じお寺かとおもいきや、違うらしい。展示室内では両寺の違いについて詳しい説明は無かったと記憶する。(説明文はあったが、私が忘れてしまっただけかも・・・。)

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
  左端の文書の写真、実は文字ではなく浄光明寺の敷地絵図である。

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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞3

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞3
 

  ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」の看板。
 足利基氏の坐像や国宝「上杉家文書」など展示される文書の画像が掲載されている。


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 鎌倉公方足利基氏の御教書に続いて、展示ガラスケース内には、「足利家文書」 米沢市上杉博物館所蔵の展示があった。文書の国宝一括指定のため、点数は膨大なものであろう。よって、1枚1枚文書を読み込むとは不可能だ。文書がまとめて国宝指定されている点は、金沢文庫で保管されている称名寺聖教の文書群と同じであろう。ただし、称名寺聖教が国宝指定されたのは、昨年か一昨年だったと記憶するので「上杉家文書」の国宝指定はもっと以前のことだろう。
 国宝の文書の傍らには重要文化財の「上杉重房坐像」が展示してあった。鎌倉公方を補佐したのが関東管領上杉氏。よって、「上杉重房」の木像が特別展のスペースに(平常展示から)移動して展示されているのだと理解した。
 今回の特別展の目玉はこの国宝だろう。うち2点のみが今回展示されている。前期は11/12(日)まで、後期は12/3(日曜)までとなっていて、2点ずつ展示替えされるようだ。私が見たのは前期の展示品だ。
 国宝文書の1点目は「足利直義書状」
 「若御前が鎌倉へ下る・・・。」ような内容。「六月二十日 民部? 大輔 」と書いてあるような・・・。日付は「二十」ではなく「廿」文字。昔の文書は皆そうなのかも知れないが、京都国立博の特別展「国宝」にて展示のあった文書などの日付も同様の書き方であった。「民部? 大輔」は尊氏のことか、直義のことか忘れた・・・・。
 解説によると「若御前は」尊氏の嫡子「義詮」のこと。京にいた尊氏は、子の義詮をかつての幕府所在地であった、鎌倉に送り込んで自分の代理として東国支配の拠点としたのだ。 

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
   国宝上杉家文書のうち「足利直義書状」ではなく後期展示の「基氏文書」の画像が掲載されていた。
  

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 続いて 国宝上杉家文書のうち「足利基氏御判御教書」の展示がある。建武の新政の時代から下って西暦でいうと1366年のこと。鎌倉の幕府が滅亡してから30年以上経過した後の文書。すっかり足利の天下となっていたのでしょうか。南北朝に分かれていた時代ではあったが。
 内容は「武蔵国 六浦・・・・事・・・補也 ・・・ 件、貞治五年十月十六日  基氏 花押  上椙×部少輔殿」と書いてある。解説によると「六浦本郷の支配を認めた文書」だそう。そのまんま、現在の横浜市金沢区六浦付近の土地の支配を認められたのだ。よーく見ると今日使用される「上杉」の文字ではないのだ。「椙」である。名古屋に「椙山学園」という学校があるが、同じ「椙」を用いている。椙山を私は「しょうざん」と読んでいたが、実際は「すぎやま」と読むのだ・・・・。
 文書の宛先の「×部少輔」は当時の上杉家の人物の官位だったのだ。だから、現在に至るまで(旧米沢藩主)上杉家に保管されていたのだ。
 ガラスケース内の壁面には「足利尊氏公家譜」の展示がある。江戸時代のもので尊氏や江戸時代の喜連川家の当主、喜連川尊信までの花押の写しを記載した文書である。歴代の足利家の人物の名前の横に花押の見本が記載されている。

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
    「実際に展示されていた文書」の画像もある。

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 展示の第2章に。第1章が国宝の展示もあって導入部の展示ではあるが、実はメインである。
 「鎌倉公方と禅宗寺院」 を見ていく。
 瑞泉寺所蔵の夢窓疎石の座った姿の木像の展示がある。重要文化財指定で、4尺はあろうかという大きな像であった。足利基氏らの小さい木造とは違う。同じく瑞泉寺所蔵で
 夢窓疎石はいうまでも無く、京都 天龍寺の開基として知られるし、基氏の父、尊氏と深い関係にあった僧だ。その縁で展示されているのでしょう。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 夢窓疎石の木像の画像の掲載がある。

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↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。

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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞2

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞2
 

 常設展示(平常展示)から見ていく。平日なのですいている。私以外、展示室内には主婦らしき40歳くらいの私服の女性がひとり見ているだけ。展示室内はシンとしていて静かだ。
 平常展示スペースの端、受付の部屋の裏手には 重要文化財指定の 「木造須弥壇 建長寺所蔵」が展示してある。こちらも以前来た時から展示してあった。昔は仏像を安置していたのだろう。室内の中央にある受付の部屋には係員の女性(2人ともに60歳前後かな)が二人いるようだ。小窓がついているので室内の様子がうしろから.判る。室内の看視カメラのモニターが受付のカウンターの手元にあるようだ。よって、私ら見学者の様子がまる判りなのであろう・・・。展示室内があまりにシンとしているので受付の女性2人の話し声というか、何か雑談をしているな、というかすかな声というか声の振動が俺の耳にまで聞こえてくるのだ・・・・。何か気になるなあ~。黙っていることは出来ないのかな??、と思いつつ順番に見学する。平日のすいているときは、話声の気配まで聞こえてくる、伝わってくるので、静かにしていてくれよ・・・!。鎌倉国宝館の受付のおばちゃんは(苦笑)。
 
 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。足利基氏の坐像と絵画が掲載されている。

 特別展の 第1章「足利基氏とその一族」
 基氏の木造の坐像が最初の展示作品であった。鎌倉 瑞泉寺の所蔵。ただし、瑞泉寺がどこにあるかは、知りません・・・・・・し、行ったとこは無い(苦笑)。1尺くらいの小ぶりな像だ。パンフレツトにも画像が掲載されているが、白いお顔が目立つ。お公家様の姿で正装して白粉(おしろい)を塗ったのかな。

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 基氏の木像、肖像画の展示がある。展示リストには「伝足利基氏像」とある。続いてかけ軸のようになっている肖像の展示がある。展示リストには「伝足利基氏像」とある。解説には「基氏は28歳で没したのであるが、年をとった姿である・・・」というような文章が書いてあった。制作は江戸時代となっているし、「伝」の肖像なので基氏と確証はないのであろう。作者は基氏ということにして、テキトーに描いたと思う。「昔の武将だから、年をとっているだろう。こんな感じかな~。ヒゲを入れて・・・」と。ホントだとしたら、マジ、テキトーだなぁ(苦笑)。
 そうか、基氏はわずか28歳の若さで没したのか。ところで「足利基氏って誰?。」すっかり忘れていたぞ。室町幕府に「鎌倉府」と「鎌倉公方」が置かれたことは覚えているが、公方様の名前までは覚えていない・・・。基氏は、二代目くらいの鎌倉公方かな、つまり尊氏の甥・・、程度に軽く考えていた。ということは「初代 鎌倉公方は尊氏の弟(直義か直義とは別の弟がいて・・・。)」と誤解していたのだ。オレは・・・・(苦笑)。
 展示室内の解説にも「足利基氏は、尊氏の四男?で・・・。」と何男だかは忘れたが尊氏の子であると書いてあった。
 兄の足利義詮の坐像もあった。小さい木造だ。解説には「2代将軍の義詮は、基氏の同母兄で・・・。」と書いてある。よって、同じ母の兄弟なので親しかったと推定される。父尊氏と叔父直義はのちに仲たがいしたと思うが・・・。

 父、尊氏の坐像もあった。栃木県喜連川のお寺の所蔵。さくら市指定の文化財となっている。今回の特別展で貸与展示されている。鎌倉公方 足利氏の末裔は、江戸時代に喜連川の領主として存続したので、ゆかりの品が喜連川(平成の合併以後はさくら市)に伝わっているのだ。
 ガラスケース内の壁面には重要文化財指定「足利尊氏願文」の展示がある。軸装されている。描け軸のように表装されていたと思う。あの「常磐山文庫」の所蔵だ。同文庫の所蔵する国宝の書跡2点は京都にて、残りの1点を鑑賞コンプリートしたのが、ついこの前のこと(笑)。
 書いてある文字はよく分からないが、なにかを祈願しているというよりも手紙のような感じ。末尾に「八月一九日」の日付と花押がある。「尊氏」の字も判る。

 展示を見ていくと3番目の木像の展示として「足利氏満」の木像もある。同じく鎌倉の瑞泉寺の所蔵。解説によると氏満は「基氏の子で、9歳で基氏のあとをついで鎌倉公方となった・・・。」とある。28歳で没したときに子の氏満は9歳。満でいうと7歳かな。二代目にしていきなり、幼君。大変だなあ・・・。よくよく考えると「満」の字は、足利本家の将軍 義満の片諱を拝領している。(考えなくても、義満から貰っていることは容易に推定できるが。)
 
 続いて国宝「上杉家文書」の展示があった。傍らには重要文化財の「上杉重房像」が展示してある。平常展示に以前はずっと展示されていた筈だ。歴史資料集にも写真が掲載されることのある有名な木造だ。今回は「上杉関連」で特別展のスペースに移動していました(笑)。
 上杉家は、足利尊氏の母の実家であり、関東管領として鎌倉公方を補佐したそうだ。関東管領というと関東地方のトップという感じがするが、鎌倉公方様の家臣ということでしょうか。

 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
   重要文化財「上杉重房坐像」の画像もある。

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  その後「鎌倉公方関連」では、京のみやこの足利将軍とも含めて、関東でも結構戦乱とかありましたよね~、鎌倉から別のところに公方が移ったり・・・、と見学しながら軽く考えて流すオレ・・・・・。
 ガラスケースの下側に展示されている国宝「上杉家文書」を読む。

↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットから。
 氏満の木像の画像の掲載がある。「基氏像」と似ている。親子だから似せて制作したのかな。

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「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞1

 2017年11月 没後650年記念特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」 鎌倉国宝館 鑑賞1
 

  今年6月以来の鎌倉国宝館だ。
 11月の平日に訪問した。関西方面に出かけたついでに三連休を挟んで平日も含んで休暇を取得した。今年最後の「三連休」だからね(笑)。 

 先の鎌倉国宝館の展覧会鑑賞においては、例年6月頃に展示されることが恒例の常盤山文庫所蔵の墨跡2点がまさかの展示無し・・・・(笑)。すっこけた感満載だったな(苦笑)。
 うち1点は、昨年の6月東京国立博物館で開催された特別展「茶の湯」で鑑賞した。「後日、鎌倉国宝館で再合会だよね。」とあまり詳しく見ないで、通り過ぎながら簡単に見ただけたった。なのに「約束通り」その同じ月に鎌倉国宝館に行ったが、なんと国宝の展示は2点の墨跡ともに無かったのだ・・・・。同館の展示リストやポスターでは国宝展示は掲載されていないのに、事前(平成29年度が始まった直後くらいに??)に掲載された展示品リストのみ信用して最新情報を確認して行かなかった俺が悪いんだけどね
 東京国立博物館で貸し出し展示したので、今年は鎌倉国宝館で展示しないのは、解かる筈なんだけどね。「察して」いなかったよ。しかし、今回11月に鑑賞した京都国立博物館で開催の特別展「国宝」では常盤山文庫所蔵の墨跡2点うち1点が展示されていたのだ。たった1週間限定で。しかも、私が特別展「茶の湯」見ていなかったものが展示されていた。
 ようやく常盤山文庫所蔵の墨跡2点を鑑賞することが出来たのだ。「鎌倉の恨みを京都で晴らしたぞ!。」という訳で勇躍、鎌倉国宝館にやって来た。(何言ってんだか・・・・。)

 しかしながら、自宅から簡単に行ける場所(鎌倉)でお目当ての国宝文化財を見ることができなくて、遠く400キロ離れた京都でやっと鑑賞できたとは、皮肉というのかな・・・・。あー、疲れたよ(苦笑)。でもアホだな、俺は・・・。

 鎌倉国宝館の入口と特別展の懸垂幕。 ↓


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 高床式の国宝館の階段を昇る。以前来た時に感じたのだか、結構急な勾配だ。特に前回は梅雨の時期、雨の降る中の訪問だったので、滑らないか気になった。昭和戦前期の建物なので、バリアーフリーかは確認していません。同館のウェブサイトによると「受付に声をかけてください。」と書いてある。

 平日なのですいている。受付で入館券を購入。600円。静かに展示室に入る。常設展示(平常展示)から見ていく。平常展示スペースの中央、須弥壇には同じく「薬師三尊」が安置されている。中央の薬師如来??立像は大きいが、両脇の二体は小さい。
 仏像の顔からして、丸い顔なのであるし、後背に丸い輪を背負っているので地蔵菩薩像と勘違いしてしまうが、薬師様なのである。周囲には、十二神将の像が四角い長方形の壇の周りを囲んでいる。
 
 ↓ 特別展「鎌倉公方足利基氏-新たなる東国の王とゆかりの寺社」のパンフレットに
   平常展示の様子の写真があった。中央に薬師三尊の立像。

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 入口をはいって、並びに展示されている仏像は変更があったような。彩色されている「木造 弁才天坐像」鶴岡八幡宮蔵は、以前別の場所に展示されていたような。勘違いかな・・・。水色の鮮やかな彩色の衣が印象的だ。
琵琶は、外して展示されている。木造の傍らには琵琶をを持った姿の同坐像の写真があった。
 展示室の奥、平壇の上の展示も(以前来た時と比較して)内容が変わっていたような・・・。
 「上杉氏坐像」は、無くなり別の像の展示がある。
 それらの像の中に「木造 明庵栄西坐像」寿福寺所蔵の展示があった。く彩色されている感じの坐像。別の栄西の像と顔かたちが酷似している。臨済宗の開祖、栄西の姿を映した像に違いない。栄西は確かにこのようなお姿と顔だったのだ。現代までその姿が伝わってくる。82歳から83歳頃の姿を彫ったそうだ。解説文には「栄西」と書いて「ようさい」とふりがなをふってある。「えいさい」ではなく「ようさい」の読み方は定着しているのだ。

 続いて特別展のスペースに移動する。

(参考画像)
 ↓ 鎌倉国宝館に向かう途中の鶴岡八幡宮の敷地内。向かて、右奥が国宝館の方向。
  平日なので人は少ないが、遠足の生徒も結構いた。平日の鎌倉は「遠足需要」もありますね。ボクも中学生のときも小学生のときも遠足で鎌倉散策をしたことがあります。


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