良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

神奈川県の記念館・資料館

 

JAICAプラザ横浜 ギャラリー 見学 (海外移住資料館 臨時休館中)

 JAICAプラザ横浜 ギャラリー 見学 (海外移住資料館 臨時休館中) 2020年2月29日

 横浜のワールドポータズにやってきた。駐車場に車を止める。いつもは混雑しているのだが、車はすいている。満車の状態から逆算すると、普段の土日祝日の1/5-1/6くらいではないか?。
 連れは買い物である。はて、俺はどこにて時間を消化させるかと考えた。近くには、以前行った日清カップヌードルミュージアムがあるな、と思った。一昨日の休校、休館発表の影響で多分、閉まっているな、とは思ったが、本当に閉館していた・・・・・。
 うーん、JAICAの海外移住資料館に行ってみようかなと。(多分、閉まっているぞと思ったが。)歩いてJaicaに向かう。普段の休日は歩道にも、人があふれているが、少ないな・・・。例の大観覧車のある遊園地もなんと、閉園していた。
 歩いて、海外移住資料館の入口に行ってみると、予想通り資料館は臨時休業・・・・。ただし、入口付近のエントランスのパネル展示は開放されていた。1階と2階のオープンスペースで自由に見学できる。JAICAプラザ横浜のギャラリーというそうだ。
 ギャラリーの脇の1階には受付のカウンターがあり、ここがJAICA横浜の受付なのだろう。老人の男性職員(非常勤職員かな?)と受付のデスクにすわっている女性が、来客がほとんど無いためか、ヒマそうに?、仲良さそうに?、おしゃべりしていた。
 「企画展示」「いまさらきけない、ジェンダー平等って!?」であった。

 ↓ 期間展示の告知。
 
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 私以外に見ている人はいない。
 外の通路は、人が往来している。赤レンガ倉庫も人出は少ないようだ。
 

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 主に1階のパネル展示を見た。2階にも展示はあるが、あまりみなかった。
 2階にある海外移住資料館は閉まっていた。「コロナウイルスの感染拡大をふまえ、・・・・2月28日から臨時休館」であった。
 ここには、レストランが附属している。食事を食べようかと主たが、ランチタイムは過ぎていた。
 
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 アジア、南米、アフリカなど地球上の地域での女性のおかれている現状についての解説パネルがあった。

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 インドでは報道されているように、女の子の誕生が喜ばれない、親が決めた相手と結婚する、夫の家族のために持参金を必要とする、などの習慣が根強いのですね。
 インド北部の農村地帯での暴力、差別についてや逃げ込める家の設置に関する解説。

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 南米パラグアイでの説明。「女性は家にいて家事をするもの」という考えが根強いのだそうです。スペインの植民地から独立した国家なので、意外に感じました。農地を開拓していく過程で、男は労働、女性は家事と子供の世話という習慣がついているのか、と思いました。更に女性も農業社会においては、労働力としての役割を求められているのだと思います。

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 同国での女性の生活環境向上支援に関する解説。

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 アフリカ・タンザニアでの若い女性の人生についての説明。
 19歳までに50%近くの女性が子供を産むと書いてあります。勉強をする機会に恵まれないため、親に生活を頼ったり(して自立が出来ず)、生活をしていくための知識や、お金を稼ぐための技術が無いという弊害があると書いてあります。


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 やはり、教育は大切なのですね。自分が教育を受けている間は、あまり意識しなかったのですが・・・・。いや、自分自身、今でも教育を受けていかねばならぬ(というよりも、自分で学習していかねばならぬ)立場かも知れない・・・・。

 JAICAを出て、ショッピングセンターに戻る。1階のフードコートはすいてる。以前食べた、沖縄のアイス店もあった。店内や付近には、若い人が多い。中学、高校生くらいの子が多いのだ。高校生カップルも来ているぞ。学校が終わった後で部活も中止になったからだろう。私立学校は土曜もあるだろうし。もっとも、月曜日からは休みであろう。今のうちに出歩いているのかな。これじゃ、休校にしても、意味ないぞ。ゲームコーナーも小さい子が遊んでいたし、中学生のグループもいた。通路のイスのあるところで、中学生の10人くらいの集団が皆、スマホゲームをしている・・・・。学校が休みになったため、ゲームセンター、シヨッピンク゛センターの無料で来れるコーナーが中高生、子供たちでいっぱいになるのではないか?。大型遊園地、行楽施設も閉まったし・・・・。これで、ウイルスの感染が拡大したらどうするのか?。
 












































































常設展見学 小田原文学館(旧田中光顕邸)

 2015年3月
 
 小田原文学館の一階で企画展示 「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」がありました。旧住宅の一室での展示なのでスペースはあまり広くはありません。企画展示の隣の部屋が常設展示でした。南の庭に面したおそらく以前は居間か応接室であったであろう部屋。日光を遮るため窓にカーテンをかけています。暖房は壁の上に取り付けられた家庭用と思われるふつうのエアコンです。展示館用に建築されていないため、天井に取り付けの集中空調設備方式を取ることができないようです。
 
 展示について見ていきます。
壁面に北村透谷など小田原ゆかりの文学者の写真パネルや年表などの展示があります。ガラスケースの中には手紙、所持品、作品原稿など関連資料の展示があったように記憶します。北村透谷は小田原の出身ですから小田原文学館にとっては最重要人物です。尾崎一雄の展示もありました。もともと小田原の出の一族だったのですね。
 常設展示室を出て、廊下出ます。事務所の前を通り二階へのを上がります。木板の床なので私が歩くとギシミシときしむ音がします。見学者は私以外にはなく、なんかここの職員に注目されています。なんだか、(閉館時刻も近いので)早く締めたいような雰囲気が伝わってきます・・・・・(笑)。
 二階も展示室があります。三階は休憩室とベランダのみでした。

 ↓ 小田原文学館(旧田中光顕邸)三階のベランダから。外に出ることができます。伊豆大島が見えます。
   先に掲載した二階の写真よりも、より遠くの眺望があります。
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 西の箱根方面。箱根の山の裾が見えます。写真では全部写りませんが、山並みは箱根の山の上の方へ伸びています。

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 ベランダに出てみると「ゴー」と遠くから音が聞こえます。海岸線を走る西湘バイパスを遠る車の音でした。実際私も西湘バイパスは時々走るのですが、ここに昔の元勲の別荘があり、現在は文学館になっていることは知りませんでした。海岸ヘリの道路(西湘バイパス)をただ通り抜けるのみでした。

 二階の展示は、小田原に居住したまたはゆかりのある文学者の展示が中心。北原白秋や谷崎潤一郎について展示がありました。白秋は、城ケ島など神奈川に住んだこともあるので小田原ゆかりと知っていましたが、谷崎も小田原に住んでいたのですね。白秋も谷崎も引っ越しが多かったようで、あちこちに「ゆかりの地」がありますね。
 というより、白秋についてはウチの父がその昔、孫にあたる人と仕事をしたことがあったとか。本人から直接聞いたわけではなく、同僚の人から聞いた話なので確かなことはいえないが、苗字はたしかに北原さんだったそうです。年齢的には、その方は白秋の没年と数年は人生が重なっているようです。孫だったとすると、まだ幼いときに白秋が亡くなったことになります。
その他小田原ゆかりの作家の作品、短歌?など原稿、資料の展示がありました。名前は私も聞いたことがあるくらいで実際には作品を読んだことの無い作家達でした。やはりその中でも、私にとっては白秋が身近に感じますね(笑)。

 三階のバルコニーに展望を見て、一階に下ります。ギシギシ廊下のオトを立てながら(笑)。私が玄関で靴をはいて帰ろうとすると、職員の人が出てきて見送りをしてくれました。三名いて全員女性でした。「さっ、〇〇を閉めて・・・・」など閉館の手順について段取りしていました。予期せぬ私の訪問で段取りが遅れたのでしょうか・・・・(笑)。

 ↓ 三階のベランダ。向こうに水平線が見えます。
  ベランダの手すり部分には屋根と同じスペイン瓦?が載っています。
  床面はタイル張り、ベランダの形状は半 八角形です。
  とても手の込んだ洒落た造りであることを感じます。

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展覧会「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」 見学続き

 2015年3月
 
 小田原文学館の企画展示(展覧会) 「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」の見学 続編です。
 

 展示について詳しく見ていきました。
一、最初のガラスケース。・・・江戸時代からの閑院宮家の歴史とその資料。
 これは比較的知られています。新井白石の献言で創設され、のちに天皇家の後嗣も出した宮家です。
  壁には宮家の系図や年表の掲示があります。

二、次のガラスケース。・・・明治時代から昭和戦前期の当主。閑院宮載仁親王に関する資料。
 陸軍大将の辞令や「元帥府に列し・・・・」という辞令もありました。大正天皇の署名があります。すでに大正時代に元帥までになっていました。
 大正時代、皇太子であった昭和天皇の欧州旅行にも随行しています。一緒に写真に写っています。昭和天皇よりも身長は低いですが、小柄ながらもがっちりとした体格です。この旅行で随行した皇族は載仁親王のみだったそうです。
 昭和に入ってから6年12月に「補 参謀総長」の辞令がありました。 「奉 内閣総理大臣 ・・・犬養毅 」とあります。
   二・二六事件当時の日誌の展示がありました。が、開いているのは、青い表紙の一冊のうちのあるページのみ。数ある資料の中のひとつで、事件の対応や日誌が展示の中心ではありませんでした。
 日誌には2月28日、医師の診察を受けて車で小田原を出発し、東海道を東上。随行員の名も記載されています。その日の夕方に車で東京の「内大臣官邸」に入ったとあります。永田町付近にあった自分の宮邸には入っていません。その後 小田原に戻り、再び 3月に上京、28日に小田原に戻る(帰着)とありました。三月になって一旦小田原に帰ったと書いてあったような・・・。事件終息後もずっと東京にいたわけではなかったようです。
 日誌はこの時期に動静について一冊目が作成され、二冊目は表紙のみで実際の記入は無かったと説明にあります。二冊目の展示もありました。タイトルに「御転地日記」とあります。
 日誌を見ると現職の参謀総長でありながら、小田原で生活しているのが通常だったようです。日誌にも小田原に「帰着」とありました。ふつうは、東京の宮邸に事件後に入ったことが「帰着」と思います。
 すると参謀総長は普段は(小田原にあって)不在で、誰が参謀本部の中心であったかということになります。トップの参謀総長が日常不在でいわば非常勤なのでは統制がきかなくなってしまいます。
 しかも、組織のトップではあるが皇族が重要な作戦などの決定をして責任を負うわけにはいかないため、部下の参謀たちが意志決定し、たいていのことは載仁親王はそのまま承認だったのでしょう。または、総長宮殿下には事後報告で、参謀たちがどんどん事を進めていってしまったような・・・・。よくいわれる「独断専行」もそのひとつでしょうか。(当時の新聞記事を見ると「閑院参謀総長宮殿下」と呼ばれています。)
 これらの事も二・二六事件の翌年の夏には盧溝橋事件が拡大して、戦火が大陸にもどんどん広がっていき、後の対米開戦にもつながったのも理由のひとつではないか?とも思いました。

 
三、載仁親王の後嗣 春仁王についての資料。
 出征した中国大陸の戦地からの手紙もありました。年代の近い皇族から「参謀総長の父宮殿下にあなたから献言してほしい」と手紙を受けてもいました。敗戦の二か月前、昭和20年6月に「陸軍大佐 春仁王 任 陸軍少将」という辞令がありました。天皇御璽が押してあります。こちらも 奉 内閣総理大臣 とあります。

 これらの資料は今回が初公開たそうです。辞令などが今まで保存されてきたとは驚きです。しかし、軍の役職でも 内閣総理大臣の名前を書くのですね。統帥権の独立で内閣総理大臣は関係ないのかと誤解していました。

 展示の説明を見ると小田原の閑院宮邸の敷地は広大です。現在の小田原城の西半分とその山の上、現在、某私立の学校や競輪場、公共施設がある辺りまで宮邸です。「小田原競輪」・・・・・といえば、私が子供の頃から宣伝していましたね。
 新幹線や東海道線のトンネルの上をも敷地が占めています。昭和の戦前当時には現在の東海道線は熱海まで、のちに丹那トンネルが開通しているので、すくなくとも鉄道路線は開通していました。するといつも宮邸の敷地の下をくぐって鉄道で移動することになります。当時の感覚ではまことに恐れ多いことではなかったのでしょうか。

(既出) 企画展のパンフレット。

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 旧皇族では敗戦直後に首相を務めた東久邇宮稔彦王が知られています。敗戦後とはいえ、軍はまだ存続していましたから組閣当時は現役の陸軍大将であり当初数日間は陸軍大臣を兼務したわけで。戦前期、皇族男子は陸海軍人であったわけで、その存在、影響は大きかったのではないかと推測されます。
 先に写真を掲載した小田原文学館敷地内の看板に、閑院宮載仁親王について「昭和激動期の参謀総長」と説明があります。在任期間も昭和6年12月から15年の途中、対米開戦の一年と少し前までと長い。年齢は稔彦王よりも20年以上も上。その軍歴も相当長い。戦前日本の歴史を語る上で載仁親王は最重要人物の一人ではなかったかとも思えます。
 (ずっと以前に見た歴史のテレビ番組では主に近現代史関係の著作を発表して収入を得ている某職業作家が(海軍の伏見宮博恭王と比較して)『お飾りだった』と発言していましたが。)

(既出) 企画展の「のぼり」です。退出後に撮影。
 
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小田原文学館(旧田中光顕邸) 見学と明治の元勲達の小田原別荘群

 2015年3月
 
  小田原文学館の敷地内に小田原に別荘などを構えた著名人の案内があります。
なんといっても筆頭は 山縣有朋、次に 伊藤博文。三番目にこの建物の建築者 田中光顕の紹介がありました。
 明治の後半から大正10年かに死去するまで政界、官界、軍界では「小田原」といえばまず「山縣有朋」を指したのではないでしょうか。「椿山荘」のある「関口」や「目白」が別名だったのではないと思います。(椿山荘は譲渡して晩年はもっぱら小田原にいたのかも知れませんが。)
 その後、昭和期に入り「小田原」といえば、閑院宮殿下を指したのだと思います。地名で政治家や高官を指す例といえば、昭和戦前期 「興津」といえば「西園寺公望」でしょうか。
 

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 旧福岡藩の黒田侯爵家、山下汽船の山下家の邸宅もあったことが分かります。黒田家には閑院宮家の女王が降嫁しており、春仁王(戦後は閑院春仁、のち純人)とも交流があったと先の展示会でありました。
山下家といえば先年ドラマで主人公となった秋山真之と深いつながりがあることが分かりました。ドラマのついでに伝記などを少し読んだところ、実は秋山真之は小田原のここ山下汽船のお屋敷で療養していて死去したのだそう。同じ「愛媛」繋がりですね。しかし、秋山は現在の松山の人、山下家は八幡浜の出。旧領主は違います。ならば松山に母方のご先祖の墓がある私の方が近しいと思います。でも、秋山と同郷の私の先祖に交流があったという記録は一切ありません!!。小田原には瓜生外吉の別宅もありました。秋山真之と同じ海軍の軍人です。
 益田孝の名前も。三井の大番頭。のちに男爵まで授けられた人物。物産、商船などで政界に食い込んだ(日清、日露戦争などで功績を挙げた)のでしょう。

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 看板下の方に「松永安左エ門」(耳庵)の説明もあります。同じく小田原に屋敷を構えた人でした。先年の原発事故、電力不足に関連して一時的に最注目された人物です。「電力の鬼」。現在まで続く戦後の地域分割、発送電一体制を築きあげた人物。茶器など東京国立博物館の展示、収蔵品にも「「松永耳庵氏贈」のものが多数あると思います。

 小田原文学館(旧田中光顕邸)の外観。八角形の部屋がおしゃれです。一階と二階が洋館で三階部分が和風の四角い部屋で瓦の載った屋根です。説明によるとスペイン風建築とのことで(説明によるとスペイン瓦を使用しているとか)、二階建てのイスパニョール風建築に日本の平屋を三階部分の増築したような印象を受けます。

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 八角形の出窓部分と庭園。
 そろそろ春分を迎える早春の夕日に照らされています。

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 駐車場の様子。林の先には小田原文学館の建物があるのですが、よく写っていません。正面の門から見ると立派な車寄せもあります。

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 小田原文学館前の道路。小田原駅からは徒歩で20分以上はかかるでしょう。写真右の北方向が国道一号線で箱根駅伝の中継ポイントも近くです。道路を一本、二本入るとこのような静かな住宅地。桜並木です。あと一か月もしないうちに満開になるのでしょう。が、この日はどことなく暖かいがまだまだ気温は低いです。

 写真左は文学館前の広い空地です。昔はどこかの財閥のお屋敷があったのかもしれませんが、現在は更地です。地図を見ると数年前まで県や市の施設があったようです。移転して今は更地なのでしょう。
 
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小田原文学館の前の住宅地。更地は昔の県などの施設の跡地。
東の空に雲がかかっています。冬から春への変わり目の季節。雲の北(写真でいうと左)は雪雲のように鉛色でした。春を思われる明るい青空と冬を思わせる鉛色の雲が印象的でした。

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展覧会「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」 小田原文学館 見学

 2015年3月
 
 小田原文学館の企画展示 「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」の見学です。
 
 ギイッと小田原文学館の建物の門を開けます。土足は禁止で靴を脱いで上がるようになっています。内部は普通の邸宅のようです。玄関には下駄箱があり、廊下につながっています。下駄箱には靴が一足もありません。訪問者は私以外にいないようです。ちょっと緊張です(笑)。
 玄関を上がると廊下に面して受付のカウンターと事務室があります。玄関の左に今回の企画展 「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」の 展示室があります。カウンターには、女性が一人います。券を買います。庭園の奥には、別棟の展示室があるのですが、そちらに行きますか?、と聞かれました。閉館まで時間も無いので行きませんと答えました。もうすぐ戸締りをするようです。

 ↓ 建物右側が玄関です。

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 展示室に入ります。廊下は板なので歩くとギシギシと音を立てます。「うぐいす張り」の廊下ではありませんが、見学者は私一人のみ。板がきしむ音が館内に響きます。なんだか肩身が狭いです。自意識過剰ですかね(笑)。
 企画展示室は広くはない。一室が閑院宮家の資料紹介であてられていました。窓はありません。文学館に改装するに当たり、閉じたのでしょう。資料に日光が当たり、変色していまいますから。
 展示は大きく分けて三つありました。
一、最初のガラスケース。・・・江戸時代からの閑院宮家の歴史とその資料。
二、次のガラスケース。・・・明治時代から昭和戦前期の当主。閑院宮載仁親王に関する資料。
   二・二六事件当時の日誌の展示もありました。
三、載仁親王の後嗣 春仁王についての資料。
 四番目として、隣の常設展示室との境の壁際に小田原の閑院宮邸の敷地などの説明がありました。
 年表も掲示し、閑院宮家の歴史と載仁親王、春仁王父子の資料展示でした。

 企画展のパンフレットより。載仁親王と子女の女王、春仁王の写真の掲載があります。
 
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 載仁親王は立派な髭を生やした貫禄ある皇族です。


(既出) 企画展の「のぼり」です。退出後に撮影。
 
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展覧会「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」 小田原文学館

 2015年3月
 
 早春のある日のこと。私の姿は、神奈川の西部、小田原市内にありました。
 小田原文学館の企画展示 「小田原ゆかりの皇族 閑院宮を知る」の見学です。
 
 実をいうと、小田原文学館は初めての訪問です。というより、存在を知りませんでした・・・・・・。今回の企画展示は新聞記事を読んで知ったのです。記事の内容には「・・・・・・青年将校らが決起した二・二六事件当時、参謀総長であった閑院宮の・・・・・事件当日などの動静を記した日誌などが展示される・・・・・。」とあったように記憶します。
 訪問前にあらかじめ、ウェブサイトで調べましたが、文学館独自のサイトは無いようです(あくまで私が調べたところによる。)。全くサイトが無いというわけではなく、小田原市の公式ウェブサイトの一部として小田原文学館の案内がありました。
 今回の会期は2月27日から3月18日まで。今年の2月は28日間しかありませんので、会期は3週間もありません。非常に短いです。しかも2月27日から会期開始なので、やはり2月26日に発生した「二・二六事件」に関する資料が中心なのかな、と思いながら訪問しました。

 ↓ 小田原文学館の玄関と展覧会の「のぼり」。閉館後、帰る前に撮影。

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 ↓ 小田原文学館の建物(写真右)前、南面に広がる庭園。
   写真右、つまり西側から夕陽が差し込んでいます。 
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 二階の窓からの眺め。この先は海です。
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 二階のバルコニーの様子。休憩室になっています。八角形の洒落た造りです。

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 訪問したのは、夕方の閉館に近い時刻。入口近くに数台停めることができる駐車場があります。文学館の前の道路で近所の子供達がボール遊びをしていました。見学者は私一人のみです。シーンとしています。敷地内には案内看板があり、文学館は「旧田中光顕邸」とありました。明治政府の旧高官の別邸でした。現代につながるような個人住宅ふうの建築で、顕官の住宅にしては豪華ではないな・・・・という感じ。明治時代のレンガ造りのような洋風建築とは違うなと思いましたが、昭和時代のはじめに建築された比較的時代の新しい建物でした。
 神奈川県内の「文学館」というと「鎌倉文学館」の建物を想像してしまいますが、「鎌倉」に比べると「小田原」は簡素な建築です。
 













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