良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

中国四国地方の記念館・資料館

 

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学6(最終)

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学6(最終)
 

 ここは、愛媛県松山市。「坂の上の雲ミュージアム」にやって来た。
 4階の企画展示室で、企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」を見学する。

 秋山真之の結婚写真などを展示しているケースの近くに秋山家の系図と親と兄弟姉妹の生没年の解説ボードがある。
 兄の「好古は三男で(のちに秋山家の)家督を継いだ。」と小説「坂の上の雲」で読んだが、本来、家督を相続した長男は、大正時代まで存命している。病弱で弟の好古が家督を継いだのだろう。
 次男も大正のはじめまで存命している。次男は、養子で他家に出た?。説明は見落としているかも・・・・。真之のすぐ上の兄(四男)は、養子に出た。確か、養子先の家は、横浜の貿易商の家だったと思う。四男は日露戦争の前年、明治36年に没している。
 秋山の5人の男兄弟では、三男、家督を相続した好古が、唯一、昭和時代まで存命、長男、次男、五男真之 らは、ほぼ同じ大正5年から8年くらいに没している。四男が一番早く死亡している。

 同じ室内の別の壁面の展示では、真之が死亡した屋敷の所有者 山下亀次郎の写真も展示してある。山下は 「秋山真之と親友であった。」と説明にある。
 療養のため小田原の山下邸で滞在し、同所で死亡している・・・・・。死亡当時、真之は待命中で、現役の軍人であったが、小田原で療養していたのだ。ともに同じ愛媛の出身とはいえ、真之は現役軍人でありながら海運商とも深い付き合いがあったのだ。
 この山下亀三郎の山下汽船の支店長であったのは同じ愛媛の出、石原氏である。有名な石原兄弟の父にあたる人物だ。山下、石原は、ともに南伊予、宇和島(かつては宇和島の伊達家領)か八幡浜(かつての大洲藩領)の出だったと記憶する。旧松山藩の出身ではないので、厳密には「同県出ではあるが、同郷(同旧藩)出」ではない。
 付言すると、真之は少将、中将の進級は同期でトップだったそうだ。少将のときには、海軍省軍務局長をつとめている。日露戦争後、大正時代には少将に進級したが、欧州に出張したときの写真があった。時代は第一次大戦前の時期かな。
 
 一通り展示を見た。入口までスロープ、階段をおりる。2階(実は3階)の三角形の吹き抜けの展示室下は、ギャラリーのようになっている。別の地元に関する展示がある。
 また、別の壁には、入館者がどこから来たのか、都道府県名のところに、シールを貼るようになっている。「シールのグラフ」をみると地元、愛媛からの来館が多いが、次に一番多いのは東京。ついで大阪、兵庫が多い。帰省の時期なので皆、地元に戻ってきているのだろうか?。
 松山からは、東京、ついで大阪に出ている人が多いのだろう。神奈川からの来館者シールも多く貼ってある、関東地方では埼玉、千葉の順番。北海道の人もいる。広島が意外にも多い。しまなみ海道で、海を渡った対岸だからかな。反対に、同じ四国でも高知県は、来館者シールの貼付けがゼロである。お隣、香川は数名いた。香川よりも、九州・福岡からの人が多い。福岡から帰省しているのだろうか?。大分から、フェリーで佐多岬まで来れるので、比較的簡単に帰省できる。

 1階(本当は2階)ロビーの出入口のところでお正月「ガラポン大会」があった。入館者は全員ガラポンが出来るという。参加賞が「お菓子すくい」である。私は「参加賞」に当選。アメとか、小さい個別包装のチョコをスプーンで、すくうことができるようなっている。係員は、おまけで落としたものも、袋に入れてプレゼントしてくれた。お年玉である。
 ツレは、全部で5等くらいあるうちの、三等位を当てた。が、古い「本」だった。子規の俳句関連の本であったが、初版が昭和47年だ。従って、掲載されている松山の街の様子の写真も古い。私の曾祖父(松山出身)が戦後(外地から引き揚げてきて故郷に)在住していた当時の風景だろう。
 係員の主婦のパートらしき「研修中」の腕章をつけた女性が「どちらから、いらしたのですか?。」と私にきいてきた。正直に「神奈川です。」と答えておいた


 坂の上の雲ミュージアムのチラシを観ると「四電ビジネス」の発行となっている。四国電力の関連会社が運営しているのか、市営なのか、ここの館は「市立」と書いていないので、ここ坂の上の雲ミュージアムの運営主体は分からない・・・・。

 帰ってから、ウェブサイトをみると 松山市(役所)に坂の上の雲ミュージアム管理する事務所があるので、建物は市立で指定管理者制度??のようだ。(違うかも。)

↓ 著名な建築家、安藤忠雄氏の設計。
 坂の上の雲ミュージアム の外観。2階の展示室内部、窓に面して「子規の白い像」の背中が見える。
 「坂の上」の青い空と白い雲が反射してガラスに映る設計のようであった。
 1階は、入ることが出来ない。2階が入口になっている。駐車場は障がい者等以外は禁止であった。
 一般車は駐車が出来ない。


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2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学5

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学5
 

 ここは、愛媛県松山市。「坂の上の雲ミュージアム」にやって来た。
 緩いスロープを昇った先に、平らなスペースがある。その脇に4階(見た目では三階)の展示室がある。

 ↓ 坂の上の雲ミュージアムの入館券販売機。館外にあった。
企画展示のポスターが掲示されている。

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 4階は、企画展となっている。弟、秋山真之に関連する企画展示である。昨年の2月から今年の2月まで一年間の期間展示である。
 館内に置いてあるパンフレットや(あとで見たウェブサイトによると)企画展は、開館以来、年1回開催しているそうだ。

 展示室に入ると最初は真之の生い立ちに関連する資料の展示。海軍兵学校時代の真之の成績などの展示もある。兵学校の「大試験」の成績表がある。それによると「愛媛県士族 秋山真之」の軍事関係や一般の学科の科目の点数が記載されている。英語も細かい評価項目になっている。英語の文法、構文もあるし英作文?、英文和訳もあったような。成績、つまり「席次」は「一番」である。
 真之は、ずば抜けた秀才であったようだ。成績表の順位は、活字で印字されているのでスタンプのように押したか、個人別に印刷したかのどちらかだろう。当時、成績表は順位の入ったものを生徒全員に配布さていたのだ。

 当時の海軍兵学校の写真の展示もある。広島県、江田島の学校の敷地の様子だ。写真を見ると校地は海に面しているのだが、その波止場には、船が停泊していて、校地内にあのレンガ造の本館が無い・・・・・。海軍兵学校は、明治22年に、東京の築地から江田島に移転したが、校舎が完成したのは、明治25年のことだったそうだ。それまで生徒や教官は、波止場に停泊した船にて起居したそうだ。グラウンドは広いが建物は少ない。工事中の様子であった。
(兵学校の当時の写真は、下の階の常設展示だったかも・・・。どこの展示であったか、忘れた・・・。)
 
 2018年11月に築地から、東京都の卸売市場が豊洲に移転した。盛んに築地の歴史もマスコミで紹介された。魚市場が築地にできたのは昭和時代にはいってからのことで明治維新以降、元々築地付近、は海軍用地だったのだと広く紹介された。海軍兵学校も元々は今までの築地市場の敷地にあったことが、広く知られるようになった。これほど築地の歴史がマスコミで紹介されることは、日本の歴史上最後であろう!?。以降、紹介されても小さい扱いかな??。(考え過ぎかな・・・。)
  
 続いて企画展示を見ていく。室内は三角形である。室内の真ん中に兵棋演習の平板と軍艦の形をした棋(駒というのだろうか?。)がある。傍らに黒板があり、状況を書いていく方法だ。兵棋演習についての解説がある。 
 演習部は2つある。統監部が1つ。演習は、青軍と赤軍で戦うのである。演習部が各自、10動までできる。つまり、10回運動できるという意味か。 「第5動××する」、「第6動 大砲を発射」のように、動きを紙に書いて貼っていくようだ。統監部が判定し、軍艦同士の砲弾命中や撃沈などを判定するようだ。各、演習部の間には、幕、衝立をして、互いの作戦は、わからないようにする。
 以上のような演習を真之が考えて?、教官として指導したそうだ。

 壁面のガラスケースの展示に「智謀 沸くがごとし」の書がある。東郷平八郎の書だ。もうひとつ東郷元帥の書があり、「秋山真之墓」の揮ごうだ。真之の墓の碑文で、墓誌はない?そうだ。揮ごうは、墓碑の原本で拓本をとって墓石に刻んだ。真之の実際の墓の写真のバネル展示があった。東郷元帥は、昭和時代まで生きたので、かつての部下、真之の早世を惜しんで、揮毫したのだろう。 
 真之の結婚写真も展示がある。結婚は、秋山真之36歳のときとかなり遅い。当時、宮内省に勤務していた 稲生氏の娘である。
 小説「坂の上の雲」によると兄の好古も結婚が遅かった筈。
 子息の秋山大の絵画の作品の展示がある。真之の子とのこと。すると、真之は、子息もちいさいうちに、死亡したことになる。末子は5歳くらいで(父、真之が)死亡していることになる。末子は、ほとんど父、真之の顔は覚えていないであろう、幼少期に死亡しているので。
 平ガラスケースに真之の海軍での辞令などがあった。「海軍中将 秋山真之」の名刺も、。シンプルに階級と氏名のみ印刷している。サイズは、現代の名刺とほぼ同じサイズか少し大きいかな・・・・。
 展示の説明文では、大正6年12月1日に中将に進級し、同日に待命となっている。同期ではトップの中将進級である。既に病気であったそうだ。待命なので実際の仕事はせず療養したようだ。
 翌年、大正7年2月に秋山真之は死去している。


 









2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学4

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学4
 

 ここは、愛媛県松山市。「坂の上の雲ミュージアム」にやって来た。

  緩いスロープを昇った先に、平らなスペースがある。その脇に中3階??の展示室がある。のぞいてみると、小さいが長方形の展示室があるので、入ってみる。室内には10人くらい見学者がいるだろうか。正月、早速見学者が来ている。
 この展示室は松山出身の「秋山兄弟と正岡子規の生涯」の展示のようだ。

 当時の松山の地図、風景写真がいくつかある。子規の家族や、秋山家の一族の写真が展示してある。
 展示としては、兄、好古の展示、説明ボードなどをみると・・・・・
 好古は、大阪の師範学校を出て、17歳らいで代用教員になった。其の後、士官学校に入ったという。士官学校の募集要項も複製と思うが、活字を印刷してあるものが展示してあった。要綱によると願書の様式は自由であるが、用紙に縦書きで府県 華士族平民の別、氏名を書き、生年月、住所も 書くようになっていた。
 更に身元引受人を2名書くようになっていた。自分のみではなく、他にも人が必要。現代の「保証人」ということではないようだ。「身元を引き受ける」人2名が出願に必要であった。それらの決まりに従って、作成された願書(複製??)も展示してあった。
 願書に記入する生年月日は他の誰かの証明が必要だったようだ。証明するのは、自分の入っている戸籍の戸主だったか、近所の人だったか?・・・・・。自己申告で戸籍を作成した名残であろう。テキトーに年齢を書いて出願する例も多数あったから。
 たとえば、森 林太郎という明治時代に出世した人物は、年齢を2歳くらい偽って当時の大学に入ったし。


 好古はフランスに留学している。久松家の殿様(旧藩主家のご当主)の留学に随行する意味もあったそうだ。この展示室だったと思うが、正岡家と秋山家の系図があった。子規の母の実家、大原家の父は漢学者である。このことはしられてるいる。大原観山という。正岡子規の叔父、加藤恒忠 (大原家から 加藤家に養子に入る) が当時フランスに 外交官として駐在していたので、好古と現地でも交友したと展示解説にある。好古と 恒忠は、ほぼ同じ年。松山の秀才は「正岡の恒忠か秋山の好古(当時の名前は違う)か 」といわれていたそうだ。


 正岡と秋山の両家の、藩政時代の石高の変遷グラフも展示してある。グラフでは両家の石高の推移を表示している。 60石くらいの正岡家は目付 ?身分で幕末まで変遷はない。
 秋山家は、3人扶持くらいで、石高は10石くらいだったか??。足軽よりは上の家格であるが、徒士身分。 しかし、父、久敬は藩政時代に昇進している。西暦の1847年くらいには40石くらいに加増。馬廻番か徒士目付だったかな。1868年か維新後の1870年くらいの廃藩直前期には、秋山家は60石くらいで、ついに正岡家と石高がならんでいる。
 司馬氏の小説「坂の上の雲」によると「・・・・秋山家は馬に乗れない身分であった・・・だから好古は軍で(歩兵ではなく)騎兵科に進んだ・・・・・」と書いてあったと記憶している。


 真之と子規が共に東京で通った学校は、大学予備門とある。当時の大学予備門の生徒の名簿が展示してある。名簿は活字で印刷されているのだが、芳賀矢一や南方熊楠が同級生であったことが判る。
 更に名簿を見るが「夏目」、つまり夏目金之助(漱石)、の名前は分からずじまい・・・・。名簿の別のページに名前があるのかも・・・・。それとも当時は「塩原金之助」の名前だったので、「夏目」で探していたので見落としていたかな!?。
 
 展示の説明には無いが、正岡(子規)の隣の隣に「平岡定太郎」の文字がある。出身地は「兵庫」となっている。
ハテ、どこかで見たことのある名前だ・・・・・・・・・・・。同じ苗字の人物に「平岡 公威」がいる。大蔵省(当時)に採用されるも1年足らずで退職した元官僚・・・・。「平岡定太郎」は、つまり作家 三島由紀夫(平岡 公威)の祖父であった。

 名簿には各科目の点数や合計の成績の平均点がかいてある。科目は、無機化学や、幾何学などだったかな。数学、物理のような科目ではない、もっと細かい科目。平岡定太郎は平均72.2点である。正岡は70.2。更に左のページに南方熊楠の名前 和歌山出身。南方の平均点は65点あまりで、同級生の中では高くない・・・。
 全体的には平均68~70点くらいの人が多い。すると三島由紀夫の祖父、兵庫出身の平岡定太郎は大変な秀才であったのだ。

 秋山真之と正岡子規に注目するのもよいが、作家、三島由紀夫の祖父「平岡定太郎」にもっと注目してもよいのではないだろうか?。

 更に隣りのガラスケース内には、明治43当時の愛媛県出身の軍人の名簿がある。日露戦争後の名簿。陸軍から書いてある。中将は2名いる。 騎兵監 秋山好古と仙波太郎 下関要塞司令官の名前がある。

 少将は1名のみで「歩兵12旅団長 小倉 恒吉忠道」とある。名前のような苗字であるが、この人物、子規の妹、正岡律の最初の結婚相手・・・・だった筈。展示の説明にはないが・・・・・。日露戦争終結5年後で少将の階級、出世しているでは、ないか!?。何がいけなかったのかな?。女にとって男は出世すればいいのではなかった!?。家同士の不和か、病気か??。

 大佐は 仙台 歩兵29連隊長が1名。白川義則(のちの張作霖爆殺事件当時の陸軍大臣だった人物であるが説明はない。)は静岡 歩兵第34連隊長である。
 名簿には、官職名とともに任地の地名が書いてある。
 中佐の欄に「歩伯」と書いてある人物は、かつての松山のお殿様のご当主、久松 定謨(ひさまつ さだこと)。
 つまり「歩兵」と書いてある。伯爵で「東京 歩兵第3連隊附」である。(近衛連隊附では無かったと思う。)

少佐 は、川島義之 独逸国 駐在(のちの二、二六事件当時の陸軍大臣だった人物であるが説明はない。)ら。

大尉は、東京 経理学校生徒隊長 櫻井忠温 などの名前。同じく説明にはないが、日露戦争後、旅順攻略戦を書いた「肉弾」で有名になった人物だ。

 中尉、少尉の人数は多い。各数十人はいる。


 次いで海軍の部が下にある。士官は大佐が一番上で、将官がいない。

××艦長 秋山と、××艦長 山路一善とある。
 この名簿が作成された背景には「明治以降になっても 旧藩意識があった・・・・・。」と説明がある。

 櫻井真清は 「第1艦隊参謀」とある。


 続いて展示を見る。真之、明治42年?? の元旦、年賀状には「恭賀新年」とある。「軍艦 音羽 秋山真之」と差出人に書いてある。村上×× 宛てのハガキである。
 子規の展示では夏目漱石の回想記の展示があり、「正岡は、なんでも大将にならないと気のすまないものであった。・・・・・・」と書いてある。子規の性格は、郷土の友人にたいしても、東京に出てからの友人に対しても変わらなかったようだ・・・・。すぐにイバる、ちょっと「俺様感」が強い人物であったようだ。悪く言えば「わがまま」かな??。
 妹、律なども含めた子規の家族の写真の展示があった。正岡子規16歳くらいのときの写真もある。友人と撮影した 上京直前の撮影だったかな。正岡氏の系図によると 外祖父は「大原観山」と強調されている。祖父は「松山藩第一の漢学者であったので文才が育まれた・・・・。」というような解説があった。
 加藤恒忠(拓川)は 叔父とはいうものの子規にとっては、年の近い兄のような叔父であった。




 ↓ 展示室は写真の左手にあった。
「順路」と看板が出ている。

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2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学3

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学3
  
 最初は展示は、3階のこの付近のみかと思った。「あれっ、展示室はこれだけかな?。」と多少不安に
 しかし、まだ先の別の展示室に続くスロープがあった。なんだかホッとした。スロープを歩く。

↓ 軍艦 ボロジノの模型とミュージアム内部の様子。スロープを歩いて上のフロアへ。
  コンクリートの打ちっぱなしのスロープの壁には、掲示物がある。

  
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 と、上の階の展示室に至るスロープの壁にNHKのアナウンサーであった松平定知氏の文章の掲示があることに気付いた。氏の直筆の文書のコピーのようで、団子のような丸まった文字で書いている。
 「・・・・松山市は私の本籍地であるが。住んだことはない。・・・・・。」と書いてある。「・・・・・徳川家康の異父弟の久松定康の子孫で、松山藩の殿様の分家の旗本の(松平氏の)出で、明治維新後、大名の本家は「久松」に復したが、旗本の家は「松平」姓のまま」だというようなことが書いてある。以前、NHKのニュースなどに出演していた有名な方であるが、確かに昔の大名のようなお名前である。ここ旧松山藩の殿様の大名家の分家の出身であったと知った。
 更に「10年前に102歳で亡くなった父は、陸軍幼年学校から士官学校にすすんだ軍人であったが、幼年学校の保証人に秋山好古大将になってもらったことを自慢していた・・・。父は軍人らしく怖い人だった・・・・。」と言う意味のことが書いてあった。
 松山の旧藩主の一族出身であり、父が秋山真之とゆかりのある著名人ということで、松平氏の文章をここ坂の上の雲ミュージアムに掲示しているのだろう。
 この文章が書かれたのは、いつなのか日付を私は覚えていないが開館した後の平成20年頃であろうか?。「10年前に亡くなった・・・」というと平成10年頃、氏の父は102歳の長寿で亡くなったと思われる。
   
 展示室に続くスロープを昇る。壁面には、小説「坂の上の雲」が連載されていた産経新聞の切りぬきがびっしりと貼ってある。上の方は読めない・・・・。
 実際には、スロープを昇った先の廊下に設置している机の上にファイルがおいてあって、すべての連載記事のコピーを閲覧できる。壁面の記事をパッと見たが、以前、私が文庫本で少しばかり読んだ部分の連載も展示されていた。
 机の脇には「トン・ツー」のモールス信号の電信機の模型が展示してある。「トトツーツー」とレバーを適当に押すと音が鳴る。傍らにモールス信号の五十音の「長短表」(正式名称は知らない・・・。)が置いてある。
 日露戦争の日本海海戦で世界で初めて無線電信が使用されたことにちなむ展示物なのであろう。
 例として「の」は、「・・--」であった。何かの本で読んだが、日露戦争後の海軍ではモールス信号を覚えるときに「の」は「ノギ・トーゴー」と覚えたそうだ。まさに「トントン・ツーツー(・・--)」だ。
 本物は、高圧電流で電波を飛ばすそうだが、模型ではその部分の機械は復元を省略している。
 高圧電流の部分、白い円形のガイシ部分は写真パネルのみの展示であった。 
 
 緩いスロープを昇った先に、平らなスペースがあり、その脇に中3階??の展示室があった。のぞいてみると、小さいが長方形の展示室になっているので、入ってみる。ようやく「展示室」らしい「展示室」があった。
 入口の手前には上記の通り、小説「坂の上の雲」が連載されていた産経新聞の切りぬき閲覧用ファイルとモールス信号の電信機の模型が設置されている。
 



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2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学2

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学2
 

 ここは、愛媛県松山市。松山城に行った。(旅行記は後述する。)
 次は、どこに行こうかと考えた。特に決めていなかったので、お城のロープウェイ・リフトの駅から徒歩で比較的近くにある坂の上の雲ミュージアム」に行くことにした。


 三階(入館した感覚では2階であるが、案内パンフレットによると3階とある。)に真ん中か吹き抜けの三角型、廊下のような展示室がある。「坂の上の雲」とは関係なく、当時の松山の昔の写真などの展示。かつての城下町の街の様子、路面電車の写真、城の写真、人々の暮らしの様子の写真パネルなどだったと思う。

 全面ガラス窓に面した、展示スペースがある。窓の外を見ると万翠荘がよく見える。途中、スロープの通路の壁には、原作者 司馬遼太郎の原稿の写しの展示があった。

 司馬遼太郎(以下、「司馬氏」)は、既に私が中学の時に配布された国語の資料集でも、小説「坂の上の雲」の冒頭の文章が紹介されていた。当時、司馬氏は存命であったから、当時から代表作であったのだ。私が覚えている限り、ドラマの放映にあわせて、文庫本も大々的に販売されていました。「坂の上の雲」は文庫本でも8巻くらいの分量だろうか。 私も一部は読んだことはあるが、全部は読んでいない。
 

 全面ガラス窓に面した、展示スペースは、当時の時代背景を説明する写真や年表のパネルが設置してある。
基本的に撮影は禁止。一部、模型などで撮影可能な展示物は「撮影OK」のマークがついている。

 乗馬体験コーナーがあった。「なぜ、乗馬」といえば「坂の上の雲」の主人公、秋山好古は「日本騎兵の父」であるからだろう。
 NHKのドラマでも好古は「日本騎兵の父」と盛んにナレーションが入っていたし。
 説明によると「日露戦争の当時、日本騎兵の乗っていた馬の多くは日本在来の種で(背の)高さは4尺寸、約140cmくらいであった・・・。」そうだ。
 日露戦争当時の日本の軍馬の高さを体感できるという訳。
 

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 ↓ 西南側の窓。松山市沖の島 興居島の沖にあった釣島灯台の模型。明治6年開設という。


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 絵葉書作成コーナーがあった。
 このミュージアムを訪れた感想などを書いて記録しようといなっている。
 秋山真之の似顔絵が描かれている。

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 展示スペースと大きな窓ガラスの様子。映像コーナーもあった。
 軍艦の模型は「ボロジノ」という。ロシアの軍艦の模型であった。バルティック艦隊で日本海海戦を戦った軍艦だった。 連合艦隊、日本海海戦といえば、戦艦 三笠が有名であるが、三笠の模型は無かった。現在においても本物の戦艦 三笠は横須賀市に保存されている。


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 年表などは撮影禁止だったと思うので、撮影していない。「明治35年5月19日 子規 没 享年×歳」、「明治38年5月 日 日本海海戦 連合艦隊 パルチック艦隊を破る。」、「昭和5年 月 日 好古 没。」のような時代順の歴史と正岡子規と秋山兄弟の生涯の年表。
 他の入館者は、熟年夫婦、三世代の家族連れ、帰省してきて久々会った友達同士なのか若い女の子の二人連れなどもいた。

 ここまで見学し私は「あれ、展示室はこれだけかな?。思ったよりも狭いな。」と思ったが、室内の壁に沿って更に上の階に向かうスロープ通路があることに気付いた。
  




2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」見学1

2019年1月 坂の上の雲ミュージアム 企画展テーマ展示「明治青年 秋山真之」 見学1
 

 ここは、愛媛県松山市。松山城に行った。(旅行記は後述する。)
 次は、どこに行こうか?、と考えた。特に決めていなかったので、お城のロープウェイ・リフトの駅から徒歩で比較的近くにある坂の上の雲ミュージアム」に行くことにした。
 
 ↓ 入口の門の正面を撮影。

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 坂の上の雲ミュージアムは、オープンが比較的新しい施設である。実は、松山の市街地の中にあるかと思ったが、観光マップを見ると、かつての松山城内の敷地にある。
 本当に、たまたま思いついて訪問しただけだが、「日露戦争」関連の人物といえば、前年の秋に学習院長「乃木希典」に関する展示会を見たな、と思い出した。

 ミュージアムは少し奥まったところである。表の道路側の隣のビルには、予備校があるようで、制服姿の高校生が自転車を駐輪している。正月から冬期講習であろうか。特に受験生は、正月どころではないな。

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 路面電車の通りを歩いていると、ブルーの「坂の上の雲ミュージアム」の看板があった。「坂の上」の青空をイメージした看板である。看板の先の敷地は、広々とした駐車場である。すいているなー、こちらに駐車できないかな、と考えた。。お役所の駐車場のようだ。正月休みなので、当番?、当直?以外の人の車以外は入れないので、もとより観光客は駐車できないようだ。
 路面電車が通っている道路の対岸(反対側)には三越がある。思い出したが、30年前はたぶんこの上階にあった食堂で食事をしたと思う。


 坂の上の雲ミュージアムは、NHKスペシャルドラマ(スペシャル大河といっていたかな??。)が放映されたので開館したのだろう。ドラマは、複数年に 分けて年末に放映されたと記憶している。大河ドラマが放映期間を短縮しての放送だったと思う。

 第一回のドラマ放送は、既に10年以上前だったと思う。

 (・・・・・・後日ネットで調べたら、2009から東日本大震災のあった年、2011年の年末までの放送だった。当時、私は震災のあった年の年末に、昔のお話のドラマとはいえ、軍艦で大砲同士がドカンドカンするシーンを大々的に放送するのは、どうかな、とも思ったものだ・・・・・。)
 当時マスコミ発表されていた視聴率は、10%なかった思う。時代考証、衣装、軍艦などのセット、CGなどには物凄く制作費を投じていたと当時視ていて感じた。その割に数字は、・・・・・、NHKで数字は関係ないか、それともあるのかな!!??。

 ドラマでは「・・・・弱肉強食の帝国主義の時代・・・」のナレーションがあったと記憶している。
 「この時代の国家は必ずしも国民の幸福を約束するものではなく・・・、・・時には血(命)による貢献(犠牲だったかな?)を求めた・・・・・・・。」という意味の「ナレ」も衝撃的だった。これは、司馬遼太郎の原作の小説「坂の上の雲」の中の作者の言葉だったと思う。
 国が国民の幸福を(無論すべてではないが、ある程度)約束してくれる現代日本は本当にありがたい・・・・・。今の時代に生きているボクは幸せだよ。

 坂の上の雲ミュージアムの近くには、万翠荘があった。もっと、城跡の平地にあるのかと思った。万翠荘は、以前からある観光スポットである。この記事のトップの画像を見れば判るが、入口の門が坂の上の雲ミュージアムと同じだった。
 門をはいってから少し緩やかな坂道を登り、入場券の自動販売機が館外に設置されているので購入、スロープを歩いて入館した。
 入ると エントランスとショップがある。先程入館前に歩いて通った道に面してカフェがある。
 スロープを昇って展示エリアに。



 ↓ 一面のガラス窓である。
   正岡子規の人形がある。机に座って書き物をしている。
   窓の先には、洒落た洋館の万翠荘が目の前に見える。



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 ↓ 万翠荘についての説明。
   お城の山の中腹にあった。地図で見ると、かつての城の二の丸の平地にあるのかと思ったが、誤解であった。

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 近代の洋館を、かつてのこの城の主であった大名家の当主が、近代国家の伯爵となり、住まい(別邸)として建てたのだった。万翠荘はレトロな建物。ここ、坂の上の雲ミュージアムの建物は全面ガラス張りの現代的な建物。万翠荘は「明治大正ロマン」、坂の上の雲ミュージアムの建物は「現代モダン」と対象をなしている。
 

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 拡大。中世の城のようだ。

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岡山県里庄 仁科芳雄博士生家

 2015年8月

 岡山県里庄。
 明治時代、この小さな集落から天才的な物理学者が生まれました。その名は仁科芳雄。日本物理学史上最高の天才のひとりといってよいでしょう。山陽の交通の要衝の沿いといはいえ、現在ものどかな田園地帯が広がる村から稀代の天才が出たとは。その仁科芳雄の記念館、仁科会館の近くには生家があります。仁科会館の展示を見たあとに寄ってみることにしました。

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 博士の生家は仁科会館から国道2号線を挟んで南にあります。国道から直線距離で100メートルあるかないかの南に位置しますが、狭い集落の中の道を通らないといけないので、迷ってしまいそうになります。特に道が狭く、車で行った場合には対向車が来るとすれ違い困難です。私は、狭い路地なので、本当に辿り着けるのかな、と不安になってしまいました(笑)。 が、路地をなんとなく、道なりに進み、とある交差点を曲がると駐車場に着きました。
 ↓ 生家の前にはある駐車場と小路
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 門に続く、お屋敷を囲む白壁。大きな邸宅です。地主だったそうです。子供に教育を受けさせる財力も相当にあつたと思われます。
 現在、公開は日曜日のみのようです。訪れた日は夏休みの期間中でしたが、8月もきっちりカレンダー通りで、この日は公開日ではありませんでした。門は固く閉ざされていました。現在、仁科家の人は住んでおらず、屋敷や敷地は町に寄贈された?か仁科記念財団が持っている?ようです。
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↓ 仁科会館の二階から見た。二号線の様子。
ひっきりなしに車が往来しています。
博士の生家は写真には写っていませんが、右(西)の方向です。


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仁科会館の一階の屋根部分が写っていますが、里庄の「里」の様子。
海(南)の方向には山があります。山の先はすぐ瀬戸内海です。
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↓ 仁科会館の二階、仁科記念ホール前の廊下から見た里庄の風景。
博士の生家も屋根だけですが、わずかに見える筈です。

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仁科記念館 「仁科芳雄博士」展示室 見学

 2015年8月

 岡山県里庄。物理学者 仁科芳雄博士の記念館が生誕地の近くにあります。

 二階の展示室の廊下から吹き抜けの一階ロビーを見る。

 戦後、ノーペル物理学賞を受賞する、湯川秀樹、朝永振一郎の写真とともに仁科博士の写真が中央に展示されています。湯川氏、朝永氏ともに仁科博士の弟子ともいうべき人です。

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↓ 外の風景。のどかな田園地帯です。

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↓ 外の風景。のどかな田園地帯です。


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↓ 展示室の廊下。博士の写真が掲示されています。


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↓ 原爆研究に使用されたサイクロトロンについて。

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↓ 日本に投下されて原爆についての解説展示。

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↓ 博士が子供の頃に描いた「馬」の絵わ再現するロボット。複数の博士が子供の頃に描いた絵を選択することができます。


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↓ エアマシン。子供も楽しく遊ぶことができます。

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岡山 仁科記念館 見学

 2015年8月

 岡山県里庄。カブトガニで有名な笠岡の隣の町です。鴨方郡といいましたが、現在では笠岡に合併されているかも入れません。現在も国道二号線や山陽線が通っています。明治時代、ここから天才的な物理学者が生まれました。その名は仁科芳雄。日本物理学史上最高の天才のひとりといってよいでしょう。
 この稀代の天才が山陽の交通の要衝の沿いといはいえ、現在ものどかな田園地帯が広がる村から出たとは、「才能は出身地に関係なく、本人の努力、向上心次第である。」ことを示しています。その仁科芳雄の記念館が生誕地の近くにあります。 
 以前、岡山に住んでいたときは、この近くの国道二号線は時々通ったので、仁科記念館(会館)のことは知っていました。二号線をを通るのは久々なので見学してみることにしました。ちなみに、最初にカブトガニ資料館に行ってから、こちらに来ようかと思いましたが、子供達はカブトガニには行かないというので、直接仁科会館に来ました。カブトガニは私が子供の頃、一時期ブームとまではいかないものの、話題になったような記憶があります。昔、通っていた小学校でも別のクラスで水槽に飼育していたのか、巡回展示でやって来たのか、カブトガニを見たことがあります。

 ↓ 記念館が入っている公民館のような仁科会館の建物。夏休みなのに入館者は少ないです。

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「環境は人を創る。人は環境を創る。」とある仁科芳雄の記念碑。
会館の前には広い駐車場があります。

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 入館しても特に受付はありません。入口の傍らには事務室がありますが、特に事務室で受け付けをする訳ではありません。入場は無料です。
 二歳か三歳くらいの子供を連れたお母さんが遊びに来ていました。こども向けの簡単な遊具や遊ぶコーナーがあります。どうみても展示室を見学に来た母子ではありません。三歳の子に「サイクロトロン」といっても分かり
ませんし。(もっとも、私も分かっていませんが・・・・・。)
 公民館のような感じで、記念館というよりは地元の人が会議や談話、稽古ごと、生涯学習、子連れで遊びなどに来る
場所のようです。公営のコミュニティセンターのような雰囲気です。

 仁科芳雄の事績に関する展示室は二階です。階段を登ると二階のフロアの案内があります。
展示室は三室あり、自由に見学できます。
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 二階が展示室になっています。二階の階段裏の一番広い部屋は、講義室になっていました。「仁科記念ホール」と名前が付いています。歴代の仁科賞の受賞者、ここで講演を行った学者の写真が掲示されています。
 博士の子孫もここで講演をしています。某国立大学の理学部か工学部の教授でした。

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 階段に近い、第二展示室。「欧州留学期」に関する展示です。

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 長岡半太郎に宛てた手紙。日本物理学の大家の一人で、昭和12年の第一回文化勲章受賞者。大正以降では日本物理学者の中での第一人者でしょう。のち、昭和戦前期に大阪帝国大学の総長になっていたと思います。

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仁科博士はヨーロッパに留学し、「ニール・ボーア」のもとで研究したことがわかります。

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原子爆弾の研究、仁科博士の名前からとった「に」、つまり「二号研究」の説明です。

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日本の敗戦後、占領下で学者を迎えています。

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第一展示室は一階の奥にあります。生い立ちなどに関する展示です。まずは、ここから見学していくべきですね。テーマは「学びの時」です。

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 子供の頃の写真。


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第一展示室の様子。子供の頃の写真、通った学校の写真、当時の地元の風景などの展示もあります。

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津和野 史跡 森鴎外旧宅 見学

 2015年8月

 森鴎外記念館にやって来ました。
    第二展示室を見学し、時間も無いので資料館を出て隣接する生家(旧宅)に向かいました。一階の別の部屋では企画展を開催していましたが行きませんでした。記念館の二階にも行きませんでした。ただし、二階には展示室はありません。
 旧宅の入場料は単独で入ると100円です。記念館側の入口のかたわらに自動券売機があり、券を購入して入場できます。記念館が休みのときも旧宅は券売機で購入すれば見学できるようです。

 ↓ 記念館に隣接する鴎外の生家。
 写真で見たことがある人も多いと思います。元々あったのはこの生家のみで記念館はあとから建設されました。私も写真で生家は見たことがありましたが、茅葺だったような気がします。今回、訪問して見たのは石州瓦ぶきの屋根でした。実は、生家を囲む塀の向こうには民家が隣接しています。

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 居間と思われる部屋。日差しが入り込んでいます。
 三間並んでいます。

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 玄関と思われる場所。内部は立入禁止で部屋ごとに詳しい説明はありませんでした。建物の周囲を歩いて回りながら見学します。

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 ↓ 北側に門がありました。碑も建っています。
  北側に玄関があります。 門の向こうは公道で、一般の民家が建っています。

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 説明板。鴎外は10歳でこの上を出た後、この家には戻ることがありませんでした。一度くらいは帰郷したことがあったのかと思っていましたが、記念館での映像や説明であった通り60歳で死ぬまで津和野に来ることは無かったことが分かりました。
 なぜ、そのような人が死に臨んで「余は石見人 森 林太郎として死せんと欲す。」と遺したのでしょうか。石見人としての意識があったのならば、なぜ一度も帰郷しなかったのか。または帰郷できなかったことを悔いたのか、または自分の原点に戻るという意味を込めて人生の最期にあのような遺言を遺したのか・・・。謎です。

 ともあれ、その旧宅が国の史跡に指定されているとは、もはや鴎外は、一作家、一官僚というよりも歴史上の活躍した人物なのですね。

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 北側からの様子。玄関や土間への入口があります。黄色い土壁が他の地域の民家と異なると感じました。屋根は・・・・というと、先にも書きましたが、鴎外が住んでいた当時は茅葺だったのではないでしょうか。
 記念館で見た江戸期の津和野の街並みの想像図をみても茅葺屋根がほとんどであり、特産品とはいえ、石州瓦のベンガラの瓦の屋根に変わったのは近代以後のことではないかと感じました。

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 ↓ 建物の東側のあまり日当たりの良くない角部屋に鴎外の勉強部屋の表示がありました。
   この部屋だったような・・・。

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 記念館に隣接する南の出入り口に戻りました。
 鴎外旧宅は南側、下の写真のアングルからのものが知られています。よーく見ると、南側なのに窓が全くありません。今回見学して、北側に玄関や窓が付いていることが確認できました。なのに、南に窓が無いのはこの地域特有の造りなのでしょうか。日本家屋はもともと採光はあまり考慮されていません。日当たりがよい筈なのに、窓がないため、なおさら家屋の内部が暗く感じます。日本海にも近い山間地、冬の北からの冷たい季節風を遮る必要があるため、むしろ北側に窓は造るべきではないと思うのですが・・・。
 この疑問は解決していません。

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 鴎外記念館をあとにします。
 ↓ 記念館の看板

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 ↓ 記念館の建物。 写真の右(北)が正面入口です。

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津和野 森鴎外記念館 見学記2

 2015年8月

 森鴎外記念館にやって来ました。

 第一展示室の見学の続きです。
 展示の最後に家族写真がありました。鴎外と後妻のしげ夫婦と子ども全員が写っています。家族全員の写真で現在伝わるのはこの1枚のみだそうです。
 大正7年、長男、於兎(オト)の結婚式の写真。鴎外の死から遡ること三年前のことです。面長で痩身の於兎とややふっくらした夫人、富貴。小さい類(ルイ)には、母しげが寄り添っている。写真右の端に軍服の鴎外。その隣、この日の写真の主役、於兎に近い方に(鴎外の)妻しげ、三男類などが。小さい類(ルイ)には、母しげが寄り添っている。少学生くらいの類を抱くように坐していて・・・・・という構図です。
 写真の左側前列には、おそらく妻の両親であろう夫婦も写っています。この一枚しか家族全員の写真が無い・・・・・・・ということは、「長男の於兎と彼にとって継母のしげが一緒に写真に写る機会がほとんどなかったから・・・。」という理由ではないでしょうか。
 しげは、継子(ままこ)の於兎に相当つらく当たったようですので・・・・。(写真の中の)長男、於兎は恐ろしく痩身で顔が細いです・・・・。エリート教育を受けて、恐らくは父以上の秀才だったのでしょう。脳にすべてのパワーが集中しているかのような容姿です。

 鴎外の子どもの著書の展示がいくつかありました。於菟の父鴎外について書いた本が展示されています。長女マリは、離婚し再婚と(展示の)説明にありました。次女 アンヌの著書も展示がありました。三男 類は「不肖の子」だったそうです。そのまんまですが、「不肖の子」というタイトルの類の著書の展示もありました。

 従軍記章や大礼服の展示もありました。文官としての鴎外のものでした。鴎外の大礼格は小さい。身長は158から160センチくらいか。現代感覚でいうと、体格はかなり小さかった人のようです。


↓ 第一展示室の先にある通路。川沿いにあるガラス張りの廊下です。
    第二展示室に続いています。川の反対側と南の方向です。

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第二展示に進みます。
 10歳までの鴎外と森家についての展示です。鴎外の系譜上の高祖父の子の三男が西周。1862年にオランダ留学をしていました。(ただし、よく言われる日本最初のフリーメーソンンとしての西周についての説明はなし。)

 森家の曽祖父は出奔し途中で死亡。一旦断絶したようです。つまり、西周の伯父が出奔したのでしょうか?。系図の展示がありましたが、親子、養子関係が分かりにくく、忘れてしまいました・・・・。
 (出奔した人物のあとは、その弟か子が跡目を継いで、その後に断絶していたように系図が読めましたが、誤解かもしれません・・・。)

 鴎外の祖父は養子として森家を継いで「再興」したようです。名は白仙その妻である鴎外の祖母は、日露戦争後まで存命。祖父は幕末の時代に客死し、その翌年 林太郎が誕生。客死したのが東海道の土山宿。現在は新名神高速の土山SAがある付近です。
 祖父の生まれ変わりと言われたそうです。待ちに待った嫡男の誕生でした。祖母も養子。その娘が峰子。峰子の夫で鴎外の父静男は婿養子。
 父、静男は、三田尻の吉次家の生まれ。森の家の出ではなく「吉次」という豪農の家の生まれだったのでした。武士の家の生まれではありません。白仙に見込まれて森家の娘、峰子と婚姻し婿養子になったそうです。
 つまり、父は長州の出です。子の林太郎が明治の世、長州閥の陸軍において出世した理由のひとつもここにあったのではないでしょうか?。
 鴎外が10歳の上京のとき、途中三田尻の父の実家で4日-5日滞在しています。この展示は東京でもありました。
 上京後は千住に住む。(やはり、東京でも同様の展示あり。)

 江戸時代の津和野の復元図面のパネルありました。現在の旧居とは別のところに森家があるが、ここが森の本家かはわからないそうです。津和野には三軒の森氏があるようでした。西周の家の更に南と思われるところの森家があります。が、鴎外の森本家か・・・は分からないそうです。本家から枝別れした分家の森家もありました。
 分家と本家の禄高の変遷図がパネル展示でありました。石高は分家の方が高い時期があった。60-80石くらい。本家は42石?か46石。パネルで比較されていました。森の分家の子孫もいます。昭和40年代の死亡した分家の当主まで掲示がありました。森分家の血が続いているならば、男系で「元の森家」の血筋を引く、西周の血縁ということになります。

 
 東京にあったモニターテレビでの鴎外の生前の映像はありませんでした。東京で見た映像ではモーニングで正装。文官の恰好。横浜へ東宮の帰国を出迎えた写真。背の高い軍服の人物も写っていた。右肩が下がって引きずるように歩く鴎外の姿でした。
 時間も無いので資料館を出て生家に向かいました。

 ↓ 記念館に隣接する鴎外の生家。

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津和野 森鴎外記念館 見学記

 2015年8月

 ここは島根県鹿足郡津和野町。森鴎外の記念館にやって来ました。郷土が生んだ偉大な天才です。
 西周の旧居から鴎外記念館までは川を渡らなくてはなりません。その道は狭いです。住宅地の中の狭い道を通り、車がすれ違うことが困難な橋を渡り、津和野駅に戻るような経路で向かいます。直線距離では100メートルないかもしれませんが、車、徒歩だと川を渡る関係で遠回りする必要があります。

 館の外に胸像がありました。像の鴎外の姿は若いです。東京の記念館の胸像は入り口の内側にあり、撮影禁止でした。ここ津和野では屋外にあり、撮影は自由です。
↓ 故郷の山を背に建つ鴎外の胸像

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 ↓ 記念館の正面。エントランスはガラス張りです。写真には写っていませんが、左に入口があります。
   向かって右の建物が展示室です。石州のベンガラの瓦を使用しています。

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↓ 隣接する旧居の見学はあとにして、先に記念館から。

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 最初の第一展示室は、10歳から60歳で没するまでの展示です。上京の10歳のときの家族写真が掲示されていました。かむろ姿、子供の鴎外と父母などが写っています。これと同じ写真の拡大版が東京の鴎外記念館にありました。
 展示が始まる前、(展示室の)最初に映像コーナーがあります。ふたつの人生、「二生」とタイトルのある映像でした。組織(官僚)と個人、作家と医者の「二生」がテーマの映像でした。映像中のナレーションで
「鴎外は死ぬまで帰郷することはなかった。(津和野を離れて上京した)当時10歳の鴎外は、故郷に二度と帰ることはなかったなど、このとき想像すらしなかったでしょう。」と言っていました。
 
 続いて展示を見ていきましたが、東京の記念館と内容が重複するものもあります。
 
 展示内容を以下箇条書きで書いていきます。

 当時の東京大学の教員の名簿がありました。
 名簿の筆頭に総長の名前がある。総長心得(代理みたいなもの)は津和野の人。法学部、文学部など学部ごとに名簿がありました。
 法、文などの学部は日本人の教授が多い。医学部の教員には、ベルツの名前がありました。医学部の教員はほとんど外国人です。その他の学部と比べても外国人の教員比率が突出して高い。科目は外科、内科学、解剖学、衛生学、生理学などでした。
 軍医の辞令などの展示も。(ただし、公文書館の複製品)当時の鴎外の書いた手紙の展示も。内容については「陸軍で採用が決まってもまだ軍医になってよいか迷っていた。」と説明がありました。採用が決まっているのにまだ迷っていたとは・・・・・・優柔不断です。ホントはあまり軍医になりたくなかったのですね。結構プライドの高そうなヤツです(笑)。
 軍医になった当時の上官は津和野の人でその写真もありました。この人はのちに37歳で死亡したとのことです。

 児玉セキという女性の写真が掲示してありました。二人の妻の間の間にセキの写真が・・・。セキは「結婚までの間身の回りの世話をした女性」と説明があります。セキは、日本髪で目は細いが、キリっとした顔の女です。現代にも通用する日本美人といってよいでしょう。つまるところ、確実におメカケさんです・・・・・再婚するまでの。
 モチロン説明にはそうとは書いて無いですが・・・・。
 
 更に展示を見ていくと、勲章の展示が。勲一等、勲×等など複数(の勲章の展示が)あります。金鵄勲章功三級も。以外にも低い功級です。功一級は、大山、乃木などの元帥、大将クラス。二級は恐らく中将クラス。三級が少将クラス。鴎外は日露戦争当時に少将相当だったので、戦後に三級を授けられたのでしょうか。
 勲章のヒモは長い。胸に勲章をつけるには長いひもが必要のようです。

 医務局長時代の写真あります。庭で撮影しています。軍医のトップとして得意満面だった時代ですね。
 有名な軍服で馬上の姿の写真ありました。馬丁の兵士は、島根鹿足郡 ××村出身の・・・と説明ありました。この写真は鴎外の紹介では必ずといってよいほど掲載される写真で、以前に私も書籍で見たことがあります。

 帝室博物館時代の写真もありました(東京の記念館にも同じものがあり。)上座に館長の鴎外、左に黒田清輝。右手前、末席に近いところに竹内栖鳳が写っていました。(ただし、大観の姿はなし。)

↓ 第一展示室の先にある通路。川沿いにあるガラス張りの廊下です。
   第二展示室に続いています。民家の屋根はベンガラの瓦ですね。

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↓ 川に面したガラス張りの「小憩ホール」
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↓ 川の対岸をアップで。実は西周旧居の方向です。木々や家の合間から屋根を見ることができます。

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りょうげつ

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