良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

九州地方の記念館、資料館

 

佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ、南へ佐賀人が道を拓いた」 見学6(最終)と肥前さが幕末維新博覧会

 2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ、南へ佐賀人が道を拓いた」 見学6(最終)と肥前さが幕末維新博覧会

  ここはかつての肥前の国、佐賀。「薩長土肥」のひとつ佐賀藩(肥前藩)の城下町。
   
  徴古館でも告知があり、同館から佐賀城本丸歴史館に移動の途中、「肥前さが幕末維新博覧会」のパビリオン?があったのだが「明治維新150年」ということで「肥前さが幕末維新博覧会」という博覧会を佐賀で開催していた。
 佐賀城本丸歴史館で見た特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ、南へ佐賀人が道を拓いた」もその一環の開催のようだ。

 特別展の告知看板と、玄関脇には大砲がある。
 アームストロング砲の模型 ↓
 

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 徴古館も佐賀城本丸歴史館も月曜日の開館がある、ということでやって来た。他の施設は月曜日は開館日でない(閉館している)可能性もあるし、時間の関係もあるので、、他の「肥前さが幕末維新博覧会」関連施設の見学は割愛することにした。
 会期は来年(2019年)1月14日の成人式の連休最終日まで。期間限定での開催であった。

 佐賀城本丸の門の内側。よーく見ると石垣に生えているツタ?が、「ハート」マークに刈り込みされている

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 駐車場の付近の広場にある先程も見た銅像は、鍋島直正公の銅像であった。
 本丸歴史館の説明員の方の話していた銅像は、これだったのだ。昨年設置された新しい銅像であるので、新しい。台座のコンクリートも真新しい。


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 明治維新150年、「肥前さが幕末維新博覧会」の開催にあわせて設置したと思う。
 
 佐賀城本丸歴史館の展示でも見たが、幕末の当主 鍋島直正公を特に強調して展示していたし、まさに「英主」と呼ぶにふさわしい殿様だったのだろう。
 佐賀が明治維新以降「薩長土肥」のひとつに数えられるようになったのも、藩主 直正公自身の果たした役割が大きかったのではないだろうか。
 「直正公と幕末佐賀藩」の銘文。
 本丸歴史館の玄関脇に模型があったアームストロング砲の事も書いてある。

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 銅像の脇には、反射炉や製錬所のレリーフ銅版がある。
 直正公の主導によって建設された施設であった。
 電波塔のある建物が目立つのだが・・・・。NHK佐賀放送局の看板が出ていた・・・。佐賀城のかつての本丸付近にあるのだな。本丸歴史館の駐車場の隣である。
 ハテ、ここには、初めて来た筈なのだが・・・、あれれれ・・・・・!?。

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 銅像の奥の電波塔というか、鉄塔が上にのっかっている建物は・・・・・・「あれれ・・・・!?、ハテ・・・・どこかで見たことがあるゾ・・・。」と思った・・・・。そういえば、最近テレビで見たぞ。何かのニュースかワイドショーで見たかな。
 ネットで検索すれば、情報がヒットするかも知れない・・・・・!!??。

 銅像付近から、北側を見る。写真左手に佐賀県庁の高い建物。かつての竜造寺家系の家臣の屋敷なとがあったところ。
 かつての城内なので、民家はあまり無いようだ。県庁をはじめとして、公共関係の施設が多くある。

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車に再び乗って、次は小城(おぎ)に向かった。
大幅に時間が超過してので、まだ昼食を食べていないし、時間もなくなって来たゾ・・・、と思いなか゜ら。





 






佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学5

 2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学5 (佐賀県  佐賀市) 

 
 今、私がいるのは、佐賀藩のまさにその中枢だった、佐賀城本丸だ。本丸御殿が復元された、佐賀県立佐賀城本丸歴史館を見学中。
 なんと、江戸時代の御殿の一部が残っていたのだ。先程見た御座の間は天保年間に建築され、ご当主、つまり殿様の鍋島直正(当時の諱は齋正)が実際に使用していたというのだ。
 昨年行った、名古屋城でも本丸御殿が再建されていたが、佐賀では、すべてが復元ではなく、江戸時代の当時の建物も再び元の場所に移築されて復元されたのだ。
  
 鍋島氏の宝物、文化財などを展示する「徴古館」を見学。10年ぶりに公開されたという、国宝「催馬楽譜」を見た後に、佐賀城本丸歴史館にやって来た。入館料は無料であった。
  
↓ 外御書院の様子。障子の向こう側が、入口から入って見る際の順路。


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 広い畳のスペース(つまり、昔の広間であろう。)もある。その内部の部屋にモニター画面が置いてあった。
 直正公と合成画面で記念撮影できる。
 写しだされて、一定秒数表示されるので、自分のデジカメなどで、モニターを撮影して、記念撮影をセルフで出来る仕組み。
 直正公と場所を合わせる(大きさをそろえて、隣に座る)ことが難しい。ボクは、直正公とかぶってしまった・・・・。


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 直正公と記念撮影できるモニターは、「からくりウィンドウ」という。

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 「からくりウィンドウ」を設置している廊下にも展示がある。

 牛痘を嫡子の直大に接種したときの絵図の展示などがある。大切な嫡子に敢えて、種痘を実施するとは、直正は、当時最先端の医学知識を持っていたのだろうか。当主と嫡子の健康状態と生死は、家、領地の存続に直結するし。特に幕末のこの時代は子の夭折が多く、養子が家を継いでいた例は多い。当時、最高の医療を受けていた筈の将軍家でさえ、跡継ぎ問題が起きていたし、将軍家、三卿の子の夭折も甚だしい。
 伊東玄朴の紹介展示がある。元々、ここ佐賀、神埼(現在の場所でいうと、吉野ヶ里遺跡のある辺りであろうか。)の出身で、長崎に遊学してシーボルトに教わったそうだ。

 佐賀領内で、現在でいう医師免許の制度も実施していた。江戸時代、医師免許・の資格制度が無かったことはよく知られている。弟子入りしてテキトー??修行を積めば医師(くすし、というのかな。)になれたが、制度化したのだ。当時としては考えられない先進的知見だ。

 鍋島家では直系での相続が続いていたのか、明治時代を迎えた直正(齋正)で第10代。父は、同じく在任が50年に渡った家齋から片諱を受けた9代の齋直。鍋島家は、養子が少なく、当主、世継の夭折があまり無かったことを意味するのではないか。特に他家や分家から養子をとるとなると、お家騒動にもなりかねないし。ほぼ直系、他家の血が入らない相続の成功は佐賀が、幕末に雄藩となりえた理由のひとつであろう。(だが、化け猫の鍋島騒動があったかな・・・・・・・。)

 更に廊下を進む。
 城の年表の展示があったと思う。幕末の唐津藩、幕末期の唐津藩や、長州出兵時における藩の立場を紹介?していた。
 幕末の対馬藩田代領の歴史とポサドニック号事件などを紹介していた。領地の図面のパネルが掲示されている。伊万里近くに浜崎領、鳥栖付近に田代領がある。小さい地域であるが、対馬 宗氏の領地だったのだ。先の徴古館、鍋島家の 領地のカラー地図の展示でも浜崎領と田代領は示してあった。
 特に浜崎領地は、海沿いの対馬への渡航の港になっていたのではないかと思われる場所。

 田代領は、13000石だったそう。ここには、対馬藩が代官を置いて統治していたそうだ。つまり、お代官様ががいた。長州戦争の攘夷のときに田代の代官は、なんと下関にて戦争に参加したそうだ・・・・・。
 対馬本島では、石高が1万石くらいしか、なかったのだろうか?。山がちであまり、米はとれなかった・・・、だから本土の肥前田代にも領地があって、合計で2万石くらいは、実米を確保したのだろう。
 対馬は「10万石格」なので、格式は10万石の大名と取扱いされたのだろう。よって、当主の官位は、通常、従四位下だっかな。
 ポサドニック号事件は、ロシアの船が開国後ではあったが、開港された港ではなく、勝手に対馬に進入してきた事件だったそう。田代からも出兵したそうだ。

 7人の佐賀ゆかりの人物の紹介パネルがある。「佐賀の7賢人」とタイトル。
 7人の中では、大隈重信が一番有名かも。他の賢人、佐野常民などと並び、田中久重の写真と紹介があった。 からくり人形の作者として有名で、東芝の源流企業の創設者の一人でもあったと記憶する。
 君主では、直正ただ一人。副島種臣、江藤新平もいる。佐賀の乱で敗れて、死刑になったのは、江藤だったと記憶する。


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 展示室の廊下は、行き止まりなので、引き返す。別の展示室に。

 最後は、鍋島直正に関する展示がある。佐賀藩といえば、「直正」が最も偉大な領主なのであろう。直正の写真の展示がある。写真は、複数の種類がある。直正は、色々と自身の姿を撮影をさせていたのだ。写真原本は、先に見学した「徴古館」も運営する、公益財団法人鍋島報效会の所蔵とある。
 撮影年もはっきりしている。しかし、先のパネルの写真にしても直正公は、姿勢があまりよろしくない・・・・。しかめっ面で、あまり健康的ではなさそうだ。内臓のどこかに病気がありそうな。下顎が出ていて、面長の顔。戦国末期に生きた家康のように顎が張って頭がい骨の骨格がガッチリとしている感じが無い。直正は、戦国の世の武将の直系子孫であるが、平和な時代を経て、貴族的な顔立ちである。出ている下顎は、どこかハプスプルク家の君主 カール5世やフェリペ2世を思わせる。
 
 直正は、実に開明的な諸侯であったことがわかる。装束姿の横の立った写真もあるし、有名な正面からの座った裃の写真(先にパネルで設置してあった。)もある。当時の大名の姿を伝える重な写真である。
 直正が藩政改革でつくらせた反射炉などの解説もある。色々な模型などの展示もある。反射炉で鋳造した大砲の砲身をくり抜く機械の模型の展示もあった。
 韮山の反射炉の展示室でも映像を流していたな。

 ここ本丸歴史館の見学者は、私達の他に年配者が数名いた。もうすこし若い人もいたが、平日ということで、おばあさんか老夫婦が中心。70歳以上のおばあさん二人連れもいたし、70歳以上と推定されるおっさん1人もいた。更に、盛んにデジカメを撮っている(展示物の接写は禁止だが。)、白髪のじいさんがいたり・・・・。40-50位と思われる主婦らしき人もいたが。


 「葉隠」の紹介もあった。今さらここで書くまでもないが、アノ有名な言葉は「・・・・・死ぬことを賞賛するものではなく、 死を覚悟することで生きることを大切にする・・・・。」という解説だが・・・・。本当かな・・・・・・?。
 現在感覚では このような表現しかできないだろうよ・・・・・・。当時の思想をそのまま書いたら、人権無視となってしまうだろうし・・・・・。
 山本常朝の口述の解説も展示してあった。常朝は、晩年、金立(きんりゅう)の庵に隠せいしたそう。庵を訪問した筆者が、7年間常朝のもとにかよい、筆記したのが「葉隠」。
 金立は、現在の佐賀の市街地の北、高速道路にも「金立サービスエリア」がある。「きんりゅう」と読むので、珍しい地名だな、と思っていたが、ここに隠棲したのだなと理解。佐賀平野を見下ろす、山の中腹に庵があったのだろうか?。確かに風光明媚だな。

 展示を見て、玄関に戻る。
 順路の最初にある琉球服姿の「アンドロイド人形」の前は誰もいなかった。先程は係員が集まっていたので、通過したのみだったが、美しい黄色い衣装をまとって、案内の音声を話していた

  ↓ 玄関付近の撮影可能場所。 

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 と、受付のところに、中国人の子供連れの家族がいた。母親らしき女が2人くらいいる。複数家族で来ているようだ。大きな声で話をしているので、すぐにわかる。どうして、平日の昼間に子供連れで来ているのかは、解からない。旅行であろうか、それとも未就学の子を連れた在住者?か。中国語の音声ガイドを借りているようだ。

 結構長く見ていたので、時間がなくなってきた・・・・。早く昼食にしたいな・・・・。

 玄関を出ると、強く雨が降っていた。冷たい雨だ。「冬の到来だな~。」

 ↓ 本丸御殿の玄関部分、拡大。雨が強くなっているので、画像にも写っている。
 うーん、改めて本丸御殿の玄関を眺めると、先に展示していた明治初めの撮影によるかつての御殿と同じだ。
 再建時、地中の遺構保護のため数十cm床を高く復元しているということだが、実に忠実に復元されている。


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 元々30分くらいの予定が1時間以上見学していた。想像以上に展示が充実していた。特別展のパンフも立派であった。
 ツレ「結構 ボリュームがあったね。最低でも入館料100円はとってみてもいいよね。でも、税金で全部運営しているのだよね。」と言った。
 寄附金は募っていたが、確かに無料ではありえないくらいの充実した施設であった。最低でも大人200円くらいはとってよいと思った。 高校生以下は、教育のため無料でいいかな。

 ↓ 本丸御殿の展示室などがあった部分の拡大。展示は行き止まりになっていたので、建物の先端部は、事務室などになっているようだ。
  確かに床面が高い。

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 ↓ 本丸御殿の玄関部分、拡大。
   入館時は、係員の方が立っていたので、いないときに撮影。
       玄関脇に、当時の佐賀藩で製造された?と思われるアームストロング砲の模型がある。


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 ここ佐賀城本丸歴史館に来たのは、月曜日も開館している施設だからであった。たとえば、太宰府の国立博物館は月曜閉館だし。佐賀市内にも他の施設はあるが、月曜に休館の施設はまたの機会に行くことにしよう。
 再び門をくぐり、駐車場に戻った。

↓ 石垣には、ハートマーク


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佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学4(本丸 御座間)

 2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学4 (本丸 御座間) 

  

 特別展の展示を見てから、廊下に戻る。入口とは反対側、通路の先には、更に離れに進むような廊下がある。

 廊下を進む。先の映像のスペースもある部屋とは反対方向。廊下の途中、新旧の建物の接続部がある。廊下の先は、古い木材と漆喰のような白い壁。現代建築のような真っ白い壁ではない。昔の建物の白いくすんだ術。
 特に柱の木材の質感というか、年代が再建建物と違う。
 ここから先が、江戸時代 佐賀藩時代の建築による小御殿だ。(と思ったが、あとで確認すると「御座間」だった・・・・。)。名前が似ているので紛らわしい・・・。でも、奥の居室というか、昔の殿様の私的スペースということで・・・。
 先の展示室の解説の通り、江戸時代の建物が遺されていのだ。

↓ 現代の復元御殿と江戸時代の建物の接続部分。手前は障子などの木材が古い。

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 ↓ 床面の復元御殿と江戸時代の建物の接続部分。柱などの木材部が古い。

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  廊下に会った説明。 ↓ 「密集していた建物群」とある。
  先程常設展示室(御三家座だったかな・・・・、もう名前を忘れたよ・・・・・・。)で見たが、本丸御殿の玄関部分とこちらの小さい御座間との間の空間には、小屋、物置のような建物がいくつかあったり、雑草や木が生えていたり、あまり管理されていないような様子だった。
 幕末か明治初めの頃の撮影だったろう。
 現在は、コンクリートの打ちっぱなしで、白い線を引いて昔の建物跡を示していた。

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 江戸時代の建物の廊下を進む。
  畳は新しい。

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  「御座間 堪忍所」の案内。
   昭和32年まで小学校の作業室?、公民館の広間として使用されていた・・・・、などの由来が書いてあった。


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 更に 廊下を進む。天井や障子の上部の様子。特に装飾は無く、普通の板張り天井である。質素な建築。
 天井は高い。3.5メートルはあろうかと。当時の男子でも平均150cm台くらいの平均身長だった筈なので、かなり高い。しかも、この建物が建築された幕末期は日本の歴史上、一番身長が低かった時代だというし・・・。

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 先の展示でも写真がたくさんあったが、この小御殿は直正の時代、天保年間の建築の建物。当時の玄関などの主要建物は復元の建物だ。天保年間で1850年代の安政年間の建築ではなかった筈。
 今から180年位前の建物。国の文化財には指定されておらず、佐賀市の指定文化財となっている。
 常設展示の城に関する年賦や廊下での標識では、この小御殿は、近代に入って一旦移築されて、小学校の作業室?、公民館の広間などで使用されていた。が、平成に入って佐賀城の本丸御殿を復元する際に再びここかつての場所に移築したそうだ。

 ↓ 廊下の突き当り。
左手が、広い畳の部屋。特に展示品や詳しい解説がある訳ではない。保存されている昔の部屋を見学するというコンセプト。

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 部屋の東の端にも別の間がある。


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 御座間の上座には、鍋島直正の写真パネルが置いてある。
 恐らく等身大ではないかと思われるパネル。身長155cmと仮定して、正座するとこれくらいではないか。

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 ここは、江戸時代の末期の建築ということもあってか、国ではなく、市の指定文化財だ。 しかし、貴重と思いまう。かつての大名の城の御殿の遺構であるから。
 部屋の下座から見る直正(当時の諱は、齋正)公。本当にここに直正公が座っていたのだろう。家臣は皆「殿!」と呼んだのだろうか。
 手前の家臣が控えると思われる間の畳は、「横」に敷いてある。

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柱の説明ボード。
本当に直正公が使用した当時の御殿という。柱には、当時の「御座間」「堪忍所」の墨書があり、移築する際には接ぎ木して、再利用したという。


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 障子についての解説があった。詳細は忘れた。

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 廊下を戻り、再建の御殿の建物に再び戻った。
 本丸御殿は80cm高く建築したというが、昔の建物も同じ高さで、畳の廊下に段差やスロープは無かった。


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佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学3 

 2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学3 (佐賀県  佐賀市) 

  副題が、とても長い企画展が開催されていた。入場は無料。
  「肥前さが幕末維新の「志」 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」は、会期が2018年11月1日~2019年1月14日まで。歴史館の中の一室での開催であった。
  
 ↓ 特別展「肥前さが幕末維新の『志』展-北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」のパネル。


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 廊下を進む。更にいくと映像の スペースもある。
 その先の 奥まった部屋に廊下を進む。更にいくと 映像のスペースもある。
 更にその先の奥まった部屋に。企画展(特別展)のこの部屋は撮影禁止と書いてある。

 ※特別展はここの部屋のみの開催。他は常設展示なので、後日の投稿でもよいが、まとめて投稿することにする。


 佐賀藩の出である、島義勇と齋藤用之助に関する展示。
 両名とも知らない・・・・・のだが・・・・。この特別展についての立派な写真入り解説パンフレットが置いてあった。無料で配布されていた。

 島義勇は、明治維新後に開拓使の役人になった。判官という官職。鍋島家の当主、直大ではなく、隠居であった鍋島直正(齋正の徳川からの諱は返上)が開拓使長官になった。
 直正は、蝦夷地に赴任したのではなかったが、家臣の島は、赴いた。札幌の街の今でいう都市計画に携わった。碁盤目状の街並みの計画は、島の計画が後年、そのまま実行されたというような解説があった。

 札幌の鳥瞰図などの展示があった。

 開拓判官から、(転勤の)命令で東京に移った。実際に北海道に在任したのは、1年くらい。東京に戻った後、侍従にもなっている。
 のちに、官は辞めて、佐賀の乱で敗れて斬首されたという。
 直正は、明治に入って早々に没しているし、開拓使長官に任命されたときは、既に病身ではなかったか。先の徴古館での展示を見ても、直正は徳川時代の末期から、病気がちであったというし。東京に戻った辞令は、かつての主君であった直正が没したからではないか?。


 江藤との書状の展示がある。副島種臣の賛文がある、島の束帯姿の肖像画がある。副島は、同じ佐賀の人で、政府の高官となった人。物凄く、太い、筆で賛文を書いている。
 のちに島は、明治22年大赦されて内乱罪はゆるされたと年表にある。

 島の写真の展示があったが、公家のような束帯姿てある。

 転じて、南に・・・。

 鹿島の旧藩主、鍋島直彬は初代沖縄県令となったそう。洋装の直彬の写真の展示がある。
 次の県令は、更に大藩であった旧米沢藩の当主、上杉茂憲であった。尚氏琉球の後、沖縄県が設置され、サ初期の県令が続けて旧大名家の当主、つまり華族だったことは、あまり知られていないのではないか?。(知っている人は知っているが。)

 藩士だった斎藤 も沖縄に赴任したそう。那覇に9年在任、のちに島尻郡長となり、こちらは16年沖縄で在職したという。
 「島尻郡長」の辞令があった。「依願免本官」の辞令で、退任のときのものだ。大正時代の辞令だが、当時まで郡長という官職があったと知った。辞令には、「内閣総理大臣 伯爵 大隈重信 宣」とある。同郷、佐賀の出身の当時、首相、伯爵であった大隈の名前があった。

 齋藤は、鳥島の噴火から島民をすくったと解説にある。島が噴火したので、島の住民を避難させたそうだ。
 今でも沖縄の人から感謝されているそう。
 鳥島は鹿児島と思っていたが、沖縄の島であった。当時の鳥島の図面があった。
 沖縄の島で火山の噴火とは意外であった。どうしても、沖縄はサンゴの穏やかな景色の島を思い浮かべてしまうので。
 島と齋藤の特集展示であったが、両名は、30歳以上年が離れている。
 島は明治7年に死刑になって没しているが、齋藤は大正時代まで仕事をしている。
 

 幕末から近代の初めに日本の北と南で活躍した佐賀藩人の展示であった。

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 展示室は御小書院という部屋であった。当初は小さい部屋の復元ということで、「小御書院」と誤解していた。ややこしくて、正式なかつての部屋の名前が理解できないよ・・・・・。
 江戸時代は、藩主と御三家の当主が面会した部屋だったそう。つまり、側近との面会の部屋であったようだ。

 御小書院近くの廊下。映像コーナーに続く廊下だ。
 時間が無いので、映像は見なかった。ソファがあり、座って映像を見たり、休憩できるようになっている。

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 ↓ 本丸御殿の前に設置されていた、特別展の告知看板

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佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学2

 2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ南へ、佐賀人が道を拓いた」 見学2 (佐賀県  佐賀市) 

  副題が、とても長い企画展が開催されていた。入場は無料。
  肥前さが幕末維新の「志」展-北へ南へ、佐賀人が道を拓いたは、会期が2018年11月1日~2019年1月14日まで。歴史館の中の一室での開催であった。
  常設展示の方がスペースは広いのだが、まとめて先に記事を投稿することにする。
 撮影については「展示物の接写は禁止」とあるので、廊下や広間などの撮影しかしていない。

 ↓ 順路の廊下に進む。


 と、廊下に人形??があり、袴姿の女学生姿の女性係員がいた。明治文明開化のような絣の着物と袴姿(つまり、大学短大の卒業式で着るようなお着物)の女学生の衣装なので、厳密にいうと、当時の佐賀城にはこのような姿の女性はいなかったと思う。もう一人同様に袴姿の女性係員がいた。
 彼女たちも含めて、職員らしき私服の人も集まって人形の前にいる。アンドロイドの人形のようだ。人型ロボットというのかな。
 アンドロイドの前で、係員達が撮影している。アンドロイドの人形は、沖縄の衣装を着ている。集まって何か話をしている。アンドロイド自身も何か案内のような話をするようだ。
 
 周囲に職員がいるので、このときは、よく見なかったし付近でも撮影はしなかった。
 帰宅後、あとでウェブサイトを見ると、この日から、衣装をかえたらしい。

 見学したこの日も、帰りに改めて、アンドロイドちゃんの前に行ってみた。「ようこそ、佐賀城・・・・・に。私は・・・・で、・・・」と説明と自己紹介をしていたかな??。
 (覚えていないので・・・、テクトーに話したと思われる内容を記載・・・・。)
 私が館内を一巡して、入口広間に戻ってきたときは、昼の時間帯になってしまったので、袴の係員の人も、他の職員もどこかに行ってしまっていた。入口広間から、すぐの廊下の入口付近にいるアンドロイドの前で廊下の風景を撮影した。

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 さて、廊下を進む。特に展示はない。畳敷きである。
 
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 内側の部屋は「外御書院」というらしい。
 玄関から近い部屋。公式の儀式用かな・・・。床の間もある。

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 廊下の突き当りの部屋は、再現された部屋であるとともに展示室であった。
 「御三家座」という奥の部屋。鹿島、蓮池、小城の大名扱いである鍋島の御三家の当主が控える部屋であった。
 常設展示の部屋である。順番に見ていく。
 室内の壁には、昔の佐賀の絵図の掲示がある。絵図を見ると、街の北側には、ちょこんとローソクのように つきでた町がある。「唐人町」とある。先程徴古館で車を停めていた場所の更に北側だ。周囲は水路や田畑だったよう。
 城下町の郊外、現在の徴古館からまっすぐ北に佐賀駅へむかう途中にあった。中国から、呼び寄せた唐人を住ませたそう。よって「唐人町」となっている。現在の佐賀市の地図を見ても、たしかに同じ町の名前が残っている。
 
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 モニターでの画像もある。昔の城や城下町の解説画像。城の南東には、五重の天守もあったそうだ。今いる本丸の所だろうが、天守閣台の石垣は来る途中、解からなかった。
 昔の絵図の中に塔のような建物が描いてある。お寺かなと思ったが、天守らしい。今いる本丸の南東部分には、東御殿という別邸の敷地がある。隠居の当主の御殿のようらしい??。最初は別邸かと思ったが、すると現在は別邸のナントカ園というかつての大名庭園が遺されているのではないかと思ったが、現在東御殿は跡地は、現在の佐賀市内の地図と比較すると残っていないようだ。
 城下町の絵図を更に見る。佐賀の町屋割もかいてる。先程の徴古館の展示とも重なる。
  御殿の設計図も展示してある。(実物ではなく、複製かな・・。) 平成に復元したときの建築中の写真の紹介とその図面も展示してある。
 城下町のお城の付近の 高級武士の屋敷の町割りも掲示している。家の名前も書いてある。大名扱いなのに 鹿島、小城、蓮池の三家の鍋島家の屋敷もたしかに佐賀城下、二の丸、三之丸にある。(先程の徴古館の展示とも重なる。)ここ、かつての御三家座の復元部屋は、その御三家の控えの間だった訳で。

 本丸は絵図によると、比較的、佐賀の街の南東にかたよっている。城のお堀の内側、現在の県庁付近など、北に三家の屋敷があり、南側の堀の先は、家臣の屋敷街。


 御殿の地下を発掘したときの展示もある。再建に際しては、遺構保護のため、本来の御殿よりも、床下を80cn高くつくって再建しているそうだ。
 地層の上にコンクリをしいて昔の礎石を保護し、更にその上に復元の御殿の柱をおいているそうだ。
 城の歴史の年表の展示もあった。御殿再建まで、年表に記載されている。昔は、竜造寺氏の城のあとで、その遺構のあとに江戸時代の鍋島の城を築いたと。
 徴古館の展示でもあったと思うが、竜造寺氏はすべて鍋島など別の氏にかえている。しかし、屋敷は、かつての竜造寺氏の城跡、先程通って来た、現在の県庁の付近、博覧会のパビリオンがある付近など城の北側にあった。
 壁面には、かつての本丸御殿の古い写真も掲示されている。ホントに今いる復元の御殿と同じだ。御殿のうち、一部の建物は当時のものが残っているらしい・・・・。ホントだろうか?と思った。すると、この先の順路に昔の建物があるのかな?、と思った。

 室内、奥の壁側のガラスケース内の展示は、本丸発掘の際に出土した陶磁器の破片、瓦、軒先の瓦などが展示してある。

 地下は一部 見えるようになっている。 一部の床面をガラスをしている。

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御殿建築の構造についての解説。
本丸御殿の再建でも、ほとんどは、江戸時代の建築工法で建てているそう。


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 この常設展示の部屋は「昔、外御書院といったらしい。その名の通り、御殿の橋の小部屋である。」と誤解した・・・・。先の大広間が、外御書院であった・・・・・。「」

 公式行事以外には、通常の藩の政治に関する事務作業、書類作業などを藩士が広間で行ったのかな?。


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佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ、南へ佐賀人が道を拓いた」 見学1

 2018年12月 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ、南へ佐賀人が道を拓いた」 見学1 (佐賀県  佐賀市) 

  ここはかつての肥前の国、佐賀。「薩長土肥」のひとつ佐賀藩(肥前藩)の城下町であった。
  現在は佐賀県の県庁所在地 佐賀市になっている。佐賀市内は2010年8月以来の訪問だ。
  
  公益財団法人鍋島報效会 徴古館(ちょうこかん)を見てから、車で移動する。堀をわたり県庁の横を通りお城の堀の内側に。つまり。、かつての佐賀城内であり、現在は付近には、公共施設がある。
 民家は、ほとんどないようだ。ただし、途中、ビルの1階部分にセブンイレブンの店舗があった。
 途中、「肥前さが幕末維新博覧会」のパビリオン?があった。先の徴古館でも告知があったが、明治維新150年ということで、「博覧会」を佐賀で開催しているようだ。
 

 佐賀城本丸歴史館に移動した。なぜ、ここに来たからというと、この日は月曜日で公共施設はお休みのことが多いからだ。佐賀城本丸歴史館は開いている。徴古館も特別展開催中だからか、月曜日も開館していた。(他の期間は開館日が異なるかも知れないが・・・。)

 佐賀城の一角に無料のPがあった。警備員がでている。車を停めて大手門を入ると、すぐ右手に復元したかつての、佐賀城本丸御殿がある。駐車場所から、少し城の敷地を歩くとおもっていたが、近かった。門を入ってすぐに、見えた。
 石垣に囲まれている。かつては、ここが佐賀の政庁で、奥御殿もあったろう。そうすると、藩主の側室などもこの石垣で囲われた区域で生活していたことになる。
 門を入ってすぐの御殿なので、「あまり、戦闘には向かないなあ。」と感じた。門を破ったら、すぐに御殿。兵がはぃってきたら、マジですぐに落城だと少し心配に・・・・(笑)。
 いくさ用ではなく、その名の通り、領主一族の生活用御殿と領地の統治を行うための場かな・・・。
 
 

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 本丸歴史館に入る。入口には、案内のブルーのジャンパーを着た女性係員がいる。くつをぬいで、下駄箱に入れて、畳の広間に。広い入口だ。玄関広間の復元が、そのまま歴史館の入口になっているのであろう。
 平日、しかも小雨のパラつく、初冬の寒い日とあってか、見学者は私達以外にほとんどいない・・・・。
 入口付近には、係員が数名する。「あれっ」と思ったが、入場券を販売する受付はないようだ・・・・・。「i」マークのインフォメーションはある。iのカウンターで「受付はどこですか?。」と私が聞くと「無料です。ここで 音声ガイト゛は貸し出しはできます。」という回答。なんと、入場無料であった。

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 玄関の様子。隣は、学校のようだ。

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 門を入ってすぐに、御殿。

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 「史蹟 佐賀城址×門」の石碑。以前からあるふるいもの。
 真新しい 特別展「肥前さが幕末維新の『志』 北へ、南へ佐賀人が道を拓いた」の告知看板もある。


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 順路があるようなので、入口の広間から畳の廊下に進む。






鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学5 (国宝 催馬楽譜 公開) (最終)

 2018年12月 鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学5
 (国宝 催馬楽譜 公開) (最終)

  佐賀市 公益財団法人鍋島報效会 徴古館
 「徴古館」が登録博物館としての名称であるが、この記事では便宜上「鍋島 徴古館」とタイトルに記載する。
 
  徴古館で10年ぶりに公開された国宝 催馬楽譜を鑑賞した。
 一階の展示室を見て行く。展示室はものすごく大きいわけではない。入口を入ってすぐに、国宝展示の独立したガラスケースがあり、その奥には、鍋島家で収蔵していたであろう、ボンボニエールが平のガラスケース内に展示されていた。

 先の記事にも書いたが、展示室奥に向かって、左手には 蒸気機関車の模型があった。大きい模型だ。隣に、蒸気汽船など、江戸末期から明治時代の初期にかけての文明の利器の展示があった。展示室奥、正面ガラスケースには 明治時代の舞踏会などて着用していたと思われる洋装のドレスの展示があった。女性用のドレスは150cmないくらいの身長と体格の女性が来ていたと思われるドレスだ。つまり、先に写真の展示ボードがあった佐賀藩最後の藩主にして、鍋島侯爵家の初代当主、直大の夫人、栄子の着用していたドレスであろう。
 佐賀藩主 鍋島家に秘蔵されていた、初代藩主 直茂の鎧(甲冑)は二階に展示されていた。対して、明治時代の当主夫妻の着た洋装のドレスは、一階での展示だった。

 つまり、最初に見るように言われた二階の展示は主に江戸時代のもの。佐賀領主(藩主) 鍋島家の展示。一階は、時代が変わって、近代、明治時代の 鍋島侯爵家の展示のもの。
 まさに今回の徴古館の特別展のテーマ「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」を体現しているではないか!!。
 

 一階展示室、奥へ向かって、右手の壁のガラスケースには百武兼行?、筆による、鍋島直大侯爵の大礼服姿の肖像画の展示がある。百武は、鍋島家の分家の末裔であり、明治時代に入って、洋画を学んだそうだ。

 一通り展示を見た。と、受付の青いはんてんを来た係員の女性が、お茶を出してくれる。受付の横にあるテーブルでお茶を頂く。平日ということもあり、入館者は少ない。私達以外には、地元の佐賀弁で話す老婦人とその娘(50-60歳位か)らしき家族と老夫婦くらい。テーブルの上には、カゴがあり、個包装のあめがある。自由に食べてよいそうだ。私は、お言葉に甘えて、黒糖のあめをもらう
 徴古館の図録、書籍などもテーブルにおいてある。そのテーブルの上でお茶を飲む。
 ツレと「〇〇さま(さる高貴な方)のご実家の母方は、江頭姓で、江頭氏は佐賀の人、海軍の軍人だった筈だよ・・・。」などと佐賀関連の話をする。
 ツレは「×××(とある、化学会社)の人だと言うことしか知らないな。」と。江頭××(芸能人)も、たしか佐賀だったね。」「そうだよ。」など話していると、先ほどの係員の女性から「どちらから、いらしたのですか?。」と聞かれる。(先程、入館時の駐車場のことも含めて)九州の言葉で話していないので、地元ではないなと気づいたのだろう。しかし、私は無難に「福岡です。」と適用に答えておいた。
 ツレは特に反応せず。(他の入館者の)おばあさんと二人連れも テーブルについてお茶をもらう。


 1時間くらい見学していた。11時40分頃、なぜか、私に携帯電話の着信・・・・・・・。会話のため一度、木戸をあけて外に出る。隙間があいているので展示室内にも、電話の声が入っているかも。

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 電話の後、もう一度 扉を押して展示室内に入り、目の前の国宝 催馬楽譜の展示を見て退出する。
 徴古館の玄関。 ↓ 催馬楽譜は入ってすぐに展示されていた。


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 玄関前の車寄席。 と駐車場の様子。

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 ↓ 鍋島徴古館。西側から。
  特別展の懸垂幕がかかっている。奥には、佐賀藩の藩校「弘道館」の記念碑がある。


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 藩校「弘道館」の解説。 かつては、ここ 現在の徴古館付近にあったのであろうか?。
 詳細は・・・・、確認していない・・・・。

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鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学4 (国宝 催馬楽譜 公開) 

 2018年12月 鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学4(国宝 催馬楽譜 公開) 

  佐賀市 公益財団法人鍋島報效会 徴古館
 「徴古館」が登録博物館としての名称であるが、この記事では便宜上「鍋島 徴古館」とタイトルに記載する。

  一階展示室に戻る。入口の正面ガラスケースに展示されている国宝「催馬楽譜」を見る。その名の通り昔の音楽の「楽譜」のようだ。この前京都で見た陽明文庫の楽譜のようなものかなと思った。

 ここ徴古館の入口の扉は、二重になっていない。押し引き両方に開く木戸の扉方式なので、風に吹きさらしになると、開いてしまうのだ。この日は、曇天、冬の初めを思わせる寒い日である。風か゜ぴゅうーと吹くと本当に扉が開く・・・・。すぐ正面に国宝が展示してあるのに大丈夫かな?、と心配してしまう。

 徴古館のパンフレットによると、国宝「催馬楽譜」の公開は10年ぶりのことだという。
 伝宗尊親王筆、平安時代の作品。
 展示されている場面を見る。本のようになっていて、途中のある1ページが開いて展示されている。
 傍らに「催馬楽」と書いてある後世に制作されたと思われる表紙カバー本が立てて展示されている。

 「鷹子 

   安波川女知也・・・・」

 と書いてある。「鷹子」はタイトルである。歌のタイトルのようだ。改行して、続いて歌詞と思われる言葉が書いてある。意味が解説に書いてある。

 「鷹の子は、私がもらいましょう。公達殿よろしいか?」というような問いかけの歌詞だ。

 「たかのこを、現在の大津市付近の粟津の御地(御料地)にいる鶉を(自分の)ものにしてよいでしょうか?、という問いかけの歌。ちなみに、「鶉」も現在の漢字ではなく、万葉仮名でかいている。「宇津楽」のような優雅な漢字三文字だったかな?。


 次いで「道口」というタイトルの歌だった。

 「女」という文字は、「めしや」の「め」ような発音の文字として記されている。「鷹の子」の歌詞の中の文字「御地」(おんち)は「男×知」だったかな?。場所、地名を指す発音でも、万葉仮名の文字を使用して、現在の地名に近い漢字の文字を使用していない。だから、漢字を追っていっただけでは、本文なのか、地名なのか、判読が困難だ。

 文章中「知」の文字は「ち」と読ませている。「也」は、現在では「なり」という表記で使用すると思うが、そのまんま「や」と読ませているようだ。
 これらの女、知、也の文字は文中、「鷹の子」「道口」の両方の歌の歌詞にも多様されていた。文章には現在の大津市粟津を流れる川の名称も記載されていたと記憶する。さすがに「安治川」のように、末尾が「川」の地名、つまり「かわ」は「川」と現代と同じく文字を用いてた。
 「万葉仮名を使用している・・・」と説明にも書いてある。

 特別展の案内チラシに画像の掲載がある場面では、「ない」ところの展示だった。↓
 展示場面はページ替えを定期に行っていたのかは、不明だ。


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 国宝「催馬楽譜」は「直大によって もたらされた。」と説明にある。元々、鍋島家の伝来ではなく、明治時代の当主、鍋島直大が集めたコレクションのひとつようだ。直大は、宮内省の式部官を長年務めたこともあり、雅楽などの音楽をこのんだそうである。宮中の儀式を司るため、日本古来の音楽に関する資料を収集する過程で「催馬楽譜」を入手したのだろう。 
 すると江戸時代までは、雅楽を司る公家が代々所蔵していたのだろうか?。展示の説明を見たところでは、書いていなかった。妻、栄子の実家、広橋家などの関係か、宮内省式部長(部署は式部寮?)での仕事での関係か?。
 展示場面の文字を見ると、大変丁寧に記している。しかし、親王の筆によるものではなく、書風が当時の代表的なものであり、大変な能書家によるものであることには、間違いないようだ。


 直大の式部官の辞令が展示されていたことは、既に書いた。直大は、明治時代に駐イタリア大使となってローマにわたっている。先の記事でも書いたが、(後妻の)栄子とは、(栄子が)イタリアに渡ってから結婚したと説明が書いてある。「・・・・男一人では、外交官という仕事がら支障があるため、早急に妻を求めた・・・・。」そうだ。最初の妻は イタリアで死亡した?かは、分からない。そこまで、詳しく説明は読まなかった。

 国宝を見た後、改めて二階への階段の登り口近いところに展示してあった、式部官の辞令を見る。イタリア大使から任を終えて帰国後、直大が任命されたときの辞令であった。

 
 「正三位 勲二等 侯爵 鍋島直大 任 式部長

 「天皇御璽」

 宮内大臣 従二位 勲一等 子爵 土方久元 奉」
 とある。
 現在の宮内庁では「式部官長」という役職がある。「式部職」のトップである。辞令は「式部長」なので現在とは官職名が少し異なる。

 一階の展示室を続いて見ていく。国宝の展示ケースの奥側は、ボンボニエールなどの展示がある。 

奥に向かって、左手のガラスケース内には、蒸気機関車の模型がある。大きい模型で、入った瞬間に目に入る、目立つ展示である。

特別展の案内チラシの拡大撮影画像。↓
この現物が展示してあった。


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鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学3

 2018年12月 鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学3 (佐賀県  佐賀市) 

  公益財団法人鍋島報效会 徴古館を見学する。案内パンフレットによると「佐賀県初の博物館」という。
  「徴古館」のみでは、何の施設が分かりにくいため、記事のタイトルは便宜上「鍋島徴古館」と表記する。

  
 ↓ 鍋島徴古館 特別展のパンフレットの拡大。直正から娘の貢姫への書状が写っている。
    展示室の室内は撮影禁止である。

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 二階の展示室内、奥の突き当りのガラスケースの展示物を見た。そして、右手の壁面のガラスケースを見る。そこには、嫁入り道具のような鼈甲の道具の展示がある。
 続いて、直正(当時は、齋正の諱だった。)の娘、貢姫の刺繍の展示がある。直正から娘の貢姫への書状もあった。色模様のある和紙に書いている。 のびやかな文字の書状だ。娘を気遣うような書状であった。「やさしいお父さん」が「大切な大切な、かわいい娘」に送っている手紙のようだ。

 明治以降、貢姫は東京に再び住んだようだ。貢姫は、(川越の結城)松平直侯にとついだが、6年で夫と死別して、その後23年ぶりに佐賀に帰ったと説明がある。貢姫が佐賀に帰国したのは、1868年頃のことだったか。
 幕末の混乱期だったから帰国できたのであろうが、この時代に家を差し置いて、実家に呼びよせることが可能だったのか?。すると、夫を早くに亡くした娘を直正は不憫に思い、お家が第一の封建時代においても、敢えて実家に戻したということか。子供を思う親の愛情は実は封建時代も現代も変わらなかったのかも知れない。

 1863年に藩主の正室も、在国が許されたので(例の文久の改革のためだろう。)、直正の正室は領国の佐賀に入っている。正室は、田安(徳川)斉匡の娘 筆姫。
 最初の婚姻、将軍 家齋の姫君との話は書いていない・・・・・。「将軍の姫君との婚姻」といえば「赤門」である。東京大学の赤門(つまり、家齋の姫 溶姫の婚礼)が有名である。 直正も赤門を造営している筈だが、赤門は造作したかは分からない・・・・・・正室の没後に解体したのか、のちの時代に失われたのか。
 掲示している年表では「直正が6歳で将軍の娘と婚約した。」と言う表示だ。溶姫の異母姉妹との婚礼なので、佐賀藩の江戸屋敷にも赤門は造営した筈だ。
 しかし、将軍 家齋の姫君、直正(片諱を賜って当初は、齋正)の最初の正室は、37歳くらいで姫は死亡している・・・・・。次の正室 筆姫の父、斉匡は、将軍 家斉の弟。「田安」といっても、実は一橋家の出で、あの松平定信が養子で出た後、定信の実家 田安家の明屋形を継いだ人物。

 齋匡は、意外にも長命で70歳以上まで存命している。幕末の(一橋治齋系)田安家、興隆の基礎となった当主であろう。福井に養子に入った松平慶永は 齋匡の子で、筆姫と兄弟であるし。明治時代以降大正、昭和期の当主、16代目家達もこの田安家の出、齋匡の子孫であるし。

 直正の家族で出かけた様子の文書の展示もある。 
 「(佐賀に来て)3ヶ月経つのに奥方はどこにも出かけない・・・・・。」と。奥方(筆姫)は、当然ながら江戸の生まれ育ちだった・・・・。嫁いだ後も、鍋島家の江戸屋敷で生活し、いきなり、幕政改革の結果、正室の在国が可能となり、佐賀に下ったので、さぞ、江戸との違いに驚いたであろう・・・・。
 その後は「・・・・・・・・・・・・神野のお茶屋に出かけた・・・・・・・・・・・」などの書状。現在の神野公園にあったお茶屋屋敷に出かけたそうだ。コシに乗り、お供の家臣、女中などを引き連れての行楽であつたろう。
 正室 筆姫の実の姉(異母姉妹の姉)が、佐賀のお隣りの柳川にいたそう。つまり、田安家から、立花家に嫁いでいた姫がいたのだ。よって領地の境界線の筑後川で会うことになったと、当時の役人の書状がある。 
 柳川藩と協議して舟の中で合うことになったそうだ。
 直正が、佐賀に帰国すると子供達もあつまって、花見?などに出かけたという記述もある。個々に(書状に)出ている子供というのは、正室が生んだ子供ではなく、側室なども産んだ子供のようだ。複数いる子供の誰が母親なのかは、展示の解説には無い。
 直正の隠居後も正室 筆姫は、佐賀に住んだが、(維新後の)直正の死後、未亡人の筆姫は、東京に出ている。
 当時は一夫多妻なので「家族で外出」といっても、現在の家族のように、お父さんとお母さんと子供達で仲よく外出、お出かけ、レジャー、という訳ではなかったろう。家族の在り方か当時と現在では異なる。
 
 直正は、30年間当主であって、その後、隠居して直大に譲っている。48歳のとき「閑叟」と号して、江戸を出て、佐賀に入ったようだ。後妻の正室、つまり田安齋匡の娘 筆姫は、直正よりも17-18歳くらい年下らしい。直正は、最初の正室(将軍 家齋の娘)と死別後、37歳くらいで再婚している。後妻の正室 筆姫は18歳くらいで鍋島屋敷に入り3年後に婚姻したそうだ。
 年表によると 直正は幕末のころ体調を崩していたそうだ。明治時代に入って、江戸(東京と改称)で58歳でなくなっている。評は「惜しむらくは、病気がちであったことだった。」と誰かの回想記にあった。

 母方のいとこの島津齋彬も聡明であるが、晩年は病気がちだったようなので、正室の子は貴族育ちで体があまり丈夫ではないのでろうか?。遺伝かも?、と思った。

 特別展のパンフレットの拡大。貢姫の刺繍などの展示品がある。 ↓

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鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学2

 2018年12月 鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学2 (佐賀県  佐賀市) 

  公益財団法人鍋島報效会 徴古館を見学する。案内パンフレットによると「佐賀県初の博物館」という。
  「徴古館」のみでは、何の施設が分かりにくいため、記事のタイトルは便宜上「鍋島徴古館」と表記する。

  
 ↓ 鍋島徴古館 2階展示室の階段の踊り場、展示室前の廊下。
   撮影可能のパネルがあった。最後の藩主で、明治時代の侯爵 鍋島直大の夫人の栄子の写真ボードだった。「ながこ」と読む。ふりがながふってある。「えいこ」ではない。


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  佐賀藩、最後の藩主、明治時代の侯爵 鍋島直大の夫人の栄子の写真ボード拡大。
 ↓ 等身大かな。写真中の人物の高さは150cm弱。当時の女性の平均身長くらいではないだろうか。

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 展示室に入る。室内は撮影禁止である。監視のおじいさんがいる。奥には、机をおいてある一角があり、女性の職員がパソコンをみている。パーテーションで区切って、パイプイスを置き映像コーナーもある。
 最初は、幕末の藩主、直正を中心とした佐賀藩や鍋島家の紹介。(映像コーナーとのスペースを区切る)パーテーションには鍋島家の系図が展示されている。
 直大の夫人は、最初は梅溪氏の娘。妻が亡くなった後、次に再婚しイタリアにきたのは、室外の廊下に撮影可能の写真の掲示があった栄子(ながこ)。栄子は、広橋氏の娘。説明によると、妻を亡くした直大と結婚するため、イタリアに渡航したそうだ。梅渓、広橋とも京都の堂上公卿の家である。
 栄子の娘が、有名な伊都子、のちに梨本宮妃であった。イタリアの首都、ローマの生まれなので「伊都子」。直大の嫡子、直映は先妻の娘。直映の妻は、公家ではなく、大名の旧福岡藩主 黒田侯爵家から娶っている。すると、鍋島家も黒田家と同様、小田原に屋敷を構えた閑院宮と縁戚関係があるのかな??。

  鍋島朗子は、旧加賀藩の前田利嗣の妻。その一人娘がなみ子(漢字がでない)。先に、金沢の成巽閣の展示でも見たが、養子をとって一族の出の利為と結婚している。成巽閣の展示で知ったが、利嗣は、早くに亡くなっているし、子もなみ子一人だけで、男子はいなかった(早世している子はいるかも知れないが)ので、元々病弱であったようだ。

 直正の嫡子、直大の母は、系図では(私が覚えている限り)判然としない。直正の正室の子だったのか、側室の子であったのかは、忘れた。直正の母は鳥取 池田家の娘である。正室の子であり、つまり母方では、島津齋彬といとこにあたる。 系図ではそこまで解説があったかは不明(撮影禁止だったので、忘れた・・・・・)。

 続いて展示を見ていく。系図を見て、ふりかえって二階の室内、向かって左手には鍋島家と佐賀藩に関する年表が壁に掲示してある。領地の地図も掲示している。
 説明によると佐賀藩は「 石高は36万石で、全国の大名で10番目に石高の大きな藩だった。」そうだ。一番目は「加賀 100万石」の前田家、系図にもあるように、直大の娘は前田家の当主 利嗣に嫁いでいる。もっと大きい石高の大名があったと思ったが、「10番目」とは意外と上位である。(列挙すると前田、島津、伊達、尾張、紀伊、細川、黒田、浅野、毛利、鍋島だろうか?。近い石高に井伊、鳥取池田、福井松平かな・・・。)

    
  鍋島家には、三家と四家老 (親類) 親類同格などの家があり、その他の上級家臣の領地が地図に示されている。「三家」は、鹿島 小城 蓮池である。地図で見る領地の広さでいうと蓮池が筆頭かな?。次に領地が広いのは、小城。
 藩主の直轄地の表示もある。佐賀の東側、現在の吉野ヶ里遺跡の南、柳川近くにかけての地域は、藩主の直轄だったようなかんじ。領地の境界線は、丸く曲線で入り組んでいる。肥前の鹿島家だったか、領内内で飛び地もある。鍋島家の領地内に、他の藩の領地もあり、なんと「対馬藩の田代飛び地領」もある。対馬は、本土にも領地があったのだ。何カ所の村が、対馬 宗家領とされたのだろう。


(このあと見学した佐賀城本丸歴史館の展示では、竜造寺の城のあとには、そのまま竜造寺の子孫の家系の屋敷があったと。現在地の 地図でいうと、城の北西だから、堀端の県庁のある付近かな。村田、鍋島という家名で竜造寺という氏を名乗っているのではない。)


 「三家は 大名扱いだった。」とは説明はなかったと思う。皆「鍋島氏」ではなく、地名が家名になっていて、地名で呼んでいたようだ。ちなみに「武雄鍋島家」もある。 以前、武雄で同家の当主が造営した庭園(御船山楽園)を見たことがある。


 展示品を見ていく。パーテーション近くのガラスケース内には、重文指定のお皿があった。大きい皿が2個あり、共に重要指定である。彩色があり、大変カラフルである。
 下は、特別展のパンフレットの拡大。展示されていたお皿と思う。もっと、赤や緑が鮮やかな皿だったような記憶もあるが・・・・。

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 室内の中心にある平らなガラスケース内には秀吉の朱印状がある。 朝鮮出兵のときもので文書中には毛筆で「小西・・・」と言う文字。「小西行長が、先陣して、どこどとを 占領したので援護に行け。」という文書。ただし文章は秀吉の直筆ではないようだ。祐筆が書いて、秀吉の印鑑を押している感じ。

奥のケース内、

 緑色の鮮やかな 屏風絵がある。狩野尚信の絵。山と松の図。室内には鎧があったような。初代の鎧かな。
「直正も見た 甲冑」という表示だった。直正の集めた 食物、鉱石の展示もあったような。まだ整理がされていないようなコレクションか。{ 展示は、1階ではなく2階だったと思うが、詳細は忘れた。鉱物は1階だったかも?。 }

 鉱石は、数段の箱になっていて、細かく分類されている。包み紙には、鉱石についての説明も個々に書いている。別冊子で、箱の内部の どの区画に、どれがあるか、細かく書いてある。鉱石などの塊が展示されている。粉末の水銀の展示がもる。赤い粉である。当時でいう朱であるか。つまり、保存料である。朱は、死体の保存にも使用されていたはず。食べ物も保管されている。ほとんどは、くさってしまっているだろう。 
 鉱石は海外産のもとがほとんどという。薩摩など国内採取のものもあるそう。 包み紙に集めた地名も書いている。金鉱石もある。直径5cmくらいの小さい鉱石の断片だ。黄色がかっている。硫黄があるように見えるが、石英のような白黄色い筋が通っている。


 更に、右手の壁面のガラスケースを見ていく。

 展示のポスター ↓

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↓ 徴古館の建物は登録有形文化財であった。

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鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学1

 2018年12月 鍋島 徴古館 特別展「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」 見学1 (佐賀県  佐賀市) 

  ここはかつての肥前の国、佐賀。「薩長土肥」のひとつ佐賀藩(肥前藩)の城下町であった。
  現在は佐賀県の県庁所在地 佐賀市になっている。佐賀市内は2010年8月以来の訪問だ。
  
    ※公益財団法人鍋島報效会 徴古館は便宜上「鍋島 徴古館」と表記する。
 ↓ 徴古館の建物 正面

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 まずは、道のりから。福岡から車で移動。電車(博多駅から特急)でもよいが、車の方が便利と思ったので、高速道路経由でやってきた。佐賀大和インターでおりる。このインターは、去る5月にも佐世保、黒島方面へ行く途中に通過したので、半年ぶりだ
 一般道を市内へ向かう。信号にかかったり、交通量が多かったりで、意外と市内まで時間がかかる。
 「そろそろかな~」と思いつつ運転する。と、お城の堀の水面が見えたので、左折する。道路を直進する。お堀沿いの道路だ。石垣があり、堀の内側に県庁の建物が見える。立派な高いビルだ。道路の左手は、警察本部がある。交差点の信号で停まる。と、左斜め前の先に目指す鍋島徴古館がある。
 鍋島徴古館の目の前を通るが、目の前の駐車場(P)は「満車」の赤いランプがついている・・・・。その先には神社があるが、整理係が出ていて、停めてはいけなさそうな雰囲気・・・・。既に12月なのであるが、遅い七五三のようだ。
 神社の先を左折する。迂回して、鍋島徴古館の裏手から入ろうとするも、同館のPの入口は、分からない・・・・。道に沿って水路がある。佐賀は、水路が多い。郵便局の横手を通り信号で待つ。信号が長い。また、同じ道を通るが同館の前の満車だ・・・・。確かに建物の 前には車か多数停まってっいるが、この日は平日なのだ。さほど混雑していないのに変だな、と思いつつ通過。先程通った、同館のお隣の敷地の神社の奥にはPの表示があり「空」の緑色のランプが見えたが、通過してしまう。再び裏手の細い道を通る。水路の横の小路になっていて、再び車で通る。仕方無い、たまたま一般のコインPが、あったので停める。先ほど停めようとしたところだった。 これが10:45分頃のこと。結局、10分くらい鍋島徴古館の周辺を車でウロウロしていた。近くには「バルーン博物館」があるようで、看板が出ていた。付近には、銀行のような建物がある。佐賀は「気球」のイベントでも有名だからだろう。
↓ 鍋島徴古館近くのコインP。昔の屋敷の門が残っていた。かつての屋敷跡のPだ。
  かつてあった、屋敷の説明の解説看板もあった。

 

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 「徴古館 150m」という表示がある。水路の橋を渡り、先ほど車でも通った細い道を歩き、徴古館に歩く・・・・。空地のようなところに、県庁用のPがあった。車はほとんど無いのだが、管理人小屋があるので、勝手に停める訳にはいかないです。
 鍋島徴古館はPの敷地の中に建物があるような感じ・・・・。Pは広い・・・・。何故、満車だったのかな?。隣には 郵便局があるので、ここのPにも、赤い郵便車両が何台も駐車している。どうやら、郵便局の契約Pになっているようだ・・・・。しかし、空いている駐車スペースもあるので、表示機械の故障かな・・・・?。

↓ 鍋島徴古館前の駐車場の様子。

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 鍋島徴古館 特別展 「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」
 第4期 11月6日(火)~1月14日(月・祝)の会期中である。注目すべきは「月曜日でも開館している。」
ことだ。しかし、年末年始はお休み。
 開館時間は9時30分~18時と長い。夏に訪れた東北地方では、博物館などの施設は、夏でも16時には閉まってしまうところもあった。西国 九州では、東京に比べると日没時刻が遅い。12月上旬は、一年でも最も日没時刻が早い時期だ。冬でも18時まで開館しているのは、訪問しやすい。

 公益財団法人鍋島報效会 徴古館。案内パンフレットによると「佐賀県初の博物館」という。
 財団法人は、鍋島家伝来の文化財などを保護、管理するために設立されたのであろう。先に訪問した金沢での旧藩主 前田家由来の財団法人は「前田育徳会」である。前田家の家臣 本多家の博物館も見学したが同家由来の財団法人の運営であった。

 徴古館の玄関にやって来た。くつを脱いであがる。木製の扉を開けると、すぐに受付がある。入館料は一人400円だ。
入ると、すぐ目の前は、展示スペースで、受付との区切りのトビラはない。正面、目の前には、独立したガラスケースが設置されている。近づくと、ガラスケースの中には国宝「催馬楽譜」の展示であった。
 
 青いはんてんを着用した係員の女性がいる。「駐車場は?。」と聞かれるが、私は「満車だったので停めていない。」というと「確認します。」と奥の部屋に行ってしまった。一旦、行って再び戻ってくる。実は「満車でも入ることができる。」そうだ。小さいが「徴古館に行く人は停めてください。2時間無料となります。」とPの入口の脇に看板に書いているそうだ。運転しながらでは、しかも初めてでは、分からないな・・・・。係員が立っていることもあるらしいが、先に通ったときには、いなかったと思う・・・・。ここのPは、お隣の敷地の神社の駐車場ではないようだ。係員の話では「徴古館用に駐車スペースをとっている。」と。道理で先に見たところ、スペースがあいていた訳だ。
 
 入館する。入館の半券をみせると別の施設が割引になると。受付のところにある告知によると、佐野常民記念館なども割引になるそうだ。「佐野常民記念館 ここから車で15分」と表示してある。
 世界遺産の、例の「三重津海軍所」も、その近くだった筈。今回は、時間がないので、次回柳川などのついでに 来ることが出来たらよいかな。
 (しかし、ここにも落とし穴があった。時間が無いので、柳川方面には行かなかったが、あとでウェブサイトを見ると佐野常民記念館は月曜日休館だった。この日は、平日、月曜日。うっかりすると、行ったのはよいが、閉館・・・・となってしまう。)
 
 入館の際に「二階から先に見て。」といわれた。一階の受付近くにあった、鍋島直大が明治時代に務めた「式部官の辞令」の展示を少し見て、二階の階段をのぼったところに撮影可能のパネルがあった。最後の藩主で、明治時代の侯爵 直大の夫人の栄子の写真ボードだった。

 ↓ 鍋島徴古館。西側から。


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