良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

東京都心部の財団法人などの博物館

 

学習院大学史料館展示室 「学び舎の乃木希典」 見学4(最終)及び乃木希典関連建物 見学

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学4(最終)
 及び乃木希典関連建物 見学

  目白にある学習院大学史料館を見学した。

 小さい展示室であったが、30分弱見ていた。見学者は、途切れることなくやって来ていた。私が入室した時点では、やや太った40歳~50歳台くらいの女性が先に見ていた。そのうち、次いで、フード付のコートを着た小柄な50歳くらいの男性が入ってきた、。男性は、すぐに出て行き、私よりも先に入室していた女性もやがて出て行った。次に、テニスウェアらしき恰好の男子学生。茶髪の兄ちゃんである。ここの学生?でテニスサークル所属?らしい。練習のついでに寄ったらしい??。男子学生は、熱心に見て、アンケートも書いていた。

 私は「オリジナル乃木ハガキ」は入手しなくてもいいや、と思ったのでアンケートは書かずに退出した。

  学習院大学史料館展示室の平成30年度秋季特別展は「学び舎の乃木希典」のタイトル通り、現役軍人ではあったが、日露戦争の後の時期の「学習院院長としての乃木」に関する展示が中心であった。
 明治天皇の大喪という国家の非常時に、学院の最高責任者である院長が突然、自決して死亡し、職務を遂行できなくなってしまったことは、当時の学習院にとっても世間への影響以上に大事件であったろう。 

 学習院の敷地内には、乃木の起居した建物が保存されていた。
 案内看板も設置されていた。


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 乃木は院長時代、「総寮部」に起居したそう。展示でも説明があった。
 現在の乃木神社に隣接している乃木邸が、あくまで当時の自宅であったが、帰ることは月に1-2回、おおくても数回程度??だったようだ。
 共に殉死した静子夫人は、普段は学習院ではなく、赤坂(麻布かな)の自宅にて生活していたのであろう。
 
 旧総寮部は乃木館として保存されている。2009年に登録有形文化財に指定。
 説明には、乃木が院長になった後、学習院に全寮制を導入した、とあるので、寮(寮部)のすべてを統括するという意味で「総寮部」と名付けたのかな?。「寮本部」というべき場所かな。
 生徒にとっては、寮で寝るときも、常にほぼ四六時中、院長が一緒にいたことになる。  

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 実は、最初に展示室を見学に行ったときは、展示室が休みであった・・・・。開館日を勘違いしていた・・・・。
 よって 後日出直しした。
 閉室していて、悔しいので、乃木関連の建物だけ、先に見学をしたのだった・・・・。

 ↓ キャンパスの様子。最初に行ったときなので、季節は秋なのに緑が濃い・・・・。


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学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学3

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学3

  目白にある学習院大学史料館を見学した。展示は三つの章に分かれていた。
 「一章」教育者となった乃木希典
 「二章」武課教育と修身教育の充実
であった。限られたスペースの室内なので、実は展示の順番通りに見ていない。
あとで展示リスト見ると「乃木大将などの軍服」は「二章」であるが、先に見てしまった・・・。

 「三章」は終章であり、殉死についての展示である。

 遺書の展示がある。
 遺書には、9月12日の0時とある。自決は、翌日9月13日の20時過ぎなので、前々日の深夜か。「12日」というよりは、11日の夜に書いたものであろう。
 文章中に「明治10年2月22日に、軍旗を失ひ・・・・・死・・・得・・・・」と書いてあるのが読める。「明治10年の役」とは書いていないようだ。
 乃木神社の遺書「遺言条々」よりも、見にくい字だ。文章中「皇恩」と読める一段上げる文字は一か所だけある。「本来はもっと先に死に場所を得るべきだったが・・・、皇恩に浴したので・・・・・今まで得ることができなかった・・・・・」という文章であろうか。
 ただし、乃木神社の遺言と内容は似ている。有名な、死亡当日、自宅前で撮影している乃木の写真は、コンノート公への贈呈のためだったそうだ。また展示の遺書には「・・・・養子の弊害・・・・・」と読めると箇所がある。絶家にしてほしい旨、寺内に依頼いているのであろう。遺言の文章に見る限りでは戦死した乃木の二人の息子を示す「両典」の文字はない。
 宛名は、寺内盟兄と末尾にある。当時の長州閥の同僚、寺内正毅に宛てたもの。封筒も展示されていて、それには「寺内陸軍大将殿 親展」と書いてある。
 
 ↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 遺書は、自分が接伴員、随行員を務めていた、コンノート公へのものもあったようだ。
 先のイギリスの国王戴冠式の際にイギリスに同行した、坂本海軍中将への遺書も展示している。「坂本 中将閣下」と宛名には書いてある。
 「・・・・コンノート殿下・・・ マクドナルド大使閣下?・・・」なとが読める。恐らく、コンノート殿下に対して申し訳ありません、接伴員の務めを果たすことが出来なくて、マグトナルド大使にもお詫びを・・・・」という内容であろう。マグトナルド大使は当時の日本駐在イギリス大使の名前らしい。
 長州閥のボス、乃木を引き立てた最大の人物、山縣有朋関連の展示はなかった。
 
 室内の柱には、乃木の殉死を批判した志賀直哉の文章が掲示してある。「・・・・・死んだそうだ・・・・・。」という、冷ややかな書き方。以前、志賀直哉の著作で見たことがあるかな・・・・?。その10年くらい前まで、学習院に在籍していたから、乃木には直接教えられた事はないはず。
 当時の新聞記事のコピーも展示してあった。展示の説明にもよると「森鴎外や夏目漱石の作品にも影響を与えた。」とあり、乃木の殉死に影響を受けた著書、著作の名前がいくつも書いてある。
 当時、乃木の死にあたって、森の軍医としての役割はないようだ。殉死した当時の陸軍省医務局長は森 林太郎であったが、最高階級にある現役軍人の急な死亡においても、森が直接検視をしたのではない模様。森に宛てた遺書はないらしい?。戸山の軍医学校か衛戍病院で軍医が現在の司法解剖のような解剖、検視は実施したのであろうか?。

 乃木夫妻の葬儀の写真も展示している。コンノート公も参列したとある。明治天皇の大喪に英国を代表して参列したが、まさか自分の接伴員であった乃木の葬儀にも参列することになると思わなかったであろう。
 遺書を展示しているケースの反対側のガラスケース内には、ラベルのはったワインの空き瓶がある。明治天皇から下賜されたワインで、最期の杯を乃木が静子と交わしたワインのビンとの箱書きがある。
 箱書きは、ずっとあとの時代の昭和11年5月の日付。空びんである。箱に墨書している。箱書きしたのは「海軍少将 御堀××」とある。なぜ、昭和11年に至って箱書きをしたかは、不明。 

↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。
 ワインのビンとの箱書きの展示ケースの横に乃木の胸像も展示されていた。

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 退出した後、展示室棟の目の前には、当時の図書館の一部が残っている。現在は、図書館でなく、史料館の保管室?として使用しているらしい。
 少しだけ、移築移動し、明治時代の当時とは場所がやや違うようだ。
 広場、通路をはさんで、反対側には当時、明治天皇を迎えた本館があった。


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 ↓ 当時の本館の跡地の方向。明治天皇をお迎えした便殿があった。
  その跡地を示すものは無いようだ。
  現在は、グラウンドになっていた。全面ラバーの運動場でクラブ活動の練習をしていて、学生達の声が響いていた。

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学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学2

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学2

  目白にある学習院大学史料館を見学した。
 
 テーマは「学び舎の乃木希典」。入場は無料。他の美術館にチラシを置いて広報に力を入れているし、せっかくの機会なので見学してみることにした。
  会期は9月13日から、年末の平成30年12月2日(日)まで。「9月13日」は言うまでもない、この特別展の主人公、陸軍大将伯爵 乃木希典が明治天皇のあとを追って殉死した「あの日」である。

 ↓ 室外に掲示してあった乃木に関する年表。室内のものは、もっと詳しく記載されていた。 

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 明治天皇の学習院行啓の資料展示を見た。
 優秀生徒の名に松平信×??、溝口正勝?、佐野××などの名前があったと記憶する。(正確ではないと思うが。)
 溝口は越後国の旧新発田藩の溝口伯爵家の子息、松平信×は「信」の字を名前の通し字とする大名松平家の子息だろう。松平家の爵位は子爵かな?。もしかしたら子爵家の分家の出かも知れない。「佐野」は旧佐賀藩の出の佐野常民(のち伯爵)の子孫だろうか?。

  展示室の奥の柱のエピソードボードが面白い。柱に乃木に関する「小話」を掲示してあるのだ。なかなか、興味深いエピソードが記されている。
 武者小路公共の話が掲示されている。「武者小路・・・・」は、どこかで聞いたことのある名前であるが、白樺派の作家 武者小路実篤の兄であり、子爵。確か、実篤の作品の中の年賦でよんだが、武者小路公共と実篤の兄弟は、父を早くに亡くしたので、兄 公共は既に子爵を継いで当主になっていたのだ。
 公共は、外交官となり、のちにドイツ大使(ナチス・ドイツの時代。昭和11年の日独防共協定締結時の大使)を務めた人物として知られる。

 乃木は、イギリス訪問の折にドイツ帝国を訪れたらしい。武者小路が同行して通訳した。すると、乃木が少将当時の明治18年頃のドイツ滞在時ではなく、日露戦争後、東郷大将とイギリス国王の戴冠式のため、随行して訪問した明治44年のときのことらしい。すると当時、武者小路は20歳台後半から30歳台前半で駆け出しか、若手の外交官だったであろう。
 話は「フォン(von)なんとか大将というドイツ帝国の陸軍大臣がいて表敬訪問した。置いてある物(調度品)を見た乃木が、『シェーン、アルバイテ・・・・・。』と言うと、フォンなんとか大将は驚き『シェーン ・・・・・』は、ドイツ語を余程知っておる者でないと、知らない言葉だと驚いた。」というもの。
 訪問を終えたあとで乃木は「アレ(調度品)は、余り出来のよくないものだったが『シェーン・・・・・』と言うしかなかった。」と言うと、同行の武者小路は爆笑したそうだ。

 今でいうと「いい仕事ですね~。」とドイツ語で適当に乃木が大臣にお世辞のホメ言葉を話しをしたのだろう。乃木のユーモアセンスを伝えるエピソードであろう。
 訪問した大臣閣下は、名前に「von」がつくので、プロイセンのユンカー出身の軍人大臣だったのではないか?。
 一般のイメージのように、日露戦争後であっても、乃木はいかめしい、冗談を解しない、謹厳だけの人物ではなかったのであろう。

 奥の柱に年表が二つ掲示してある。学習院の院長になった当初と明治43年から、死後までの二つ。明治40年1月に院長に就任している。満州から凱旋帰国してから、ちょうど1年後のことである。軍人としての現役は、そのままであるが、これは明治天皇の意向だそう。
 「正三位、勲一等、功一級、男爵」で院長に就任している。明治40年、その年の9月21日、一気に伯爵に昇爵(漢字が違うが、以後便宜上使用する)している。伯爵に昇爵の祝賀会を学習院で開催していた。
 その他、小話が小さいボードに掲示してあった。
 
 展示は三つに分かれているようだ。
 「第二章」を見る。「二章」武課教育と修身教育の充実

 覚えている展示を記すと・・・・、
 院長時代、学習院は、鎌倉郡片瀬に水泳場を設けた。片瀬は明治44年まで。明治45の7月から、沼津に移転しただそうだ。沼津は現在も使用されているそうだ。
 片瀬で撮影した写真が展示されている。片瀬の東浜のようだ。背後は腰越の丘かな・・・・?。集合写真には中央の院長の乃木、左が小堀水泳教官、右は、二人目中尉という人がいるが裸だ。教授も写っている。「右端に、舎監が制服でいる」という。軍服の男がいるが、その人かな・・・・。マストにのぼって写っている人もいる。教員か職員のようだ。その人の名も書いてあるが、忘れた。
 別の写真では、乃木はふんどし姿で、実ににこやかな姿であった。沼津の水泳場開設は運命の明治45年7月。明治天皇の重篤な病状が発表され、崩御があった月であり、乃木は沼津での指導はする機会が無かったと記憶する。

 ↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 室内の奥の角には、「中朝事実」の書籍の展示がある。山鹿素行の中朝事実をよく読んだことは、良く知られている。ただ、それらのエピソードは司馬遼太郎の小説「殉死」や「坂の上の雲」にもよる(広く知られる契機になった)ことが多いのだが・・・・・。

 「昭和天皇は晩年(に至る)まで、最も影響を受けた人物として、乃木をあげている。」と説明があった。
 乃木、玉木、吉田(松陰)、杉の系図が展示してある。「玉木家は、元禄年間に乃木家より、分かれた・・・・」と説明がある。乃木の弟の正之が、松下村塾を創設した玉木文之進の養子になっている。養父の玉木文之進は1876年没と書いてある。萩の乱のあとのことである。
 最近のNHKドラマでも登場した人物だ。文之進は「・・・腹をお召しになられた・・・。」とドラマでは、その死についていっていたな・・・・。偶々そのシーンだけ見たことがある。

 「中朝事実」の書籍の展示、その他書籍もあったが、乃木が特に山鹿素行の中朝事実の重視して読解、研究をしていたことが判る。
 吉田松陰についての書籍も寄贈していた。乃木希典が寄贈したことが書かれているページの展示があった。
 著者はあの徳富猪一郎(蘇峰)である。松陰と縁戚である乃木の思い入れの程が覗える。

↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 乃木は、「中朝事実」を筆写していたようだ。司馬遼太郎の小説「殉死」にもそのことが書かれている。
 写して自費で出版して、配布していたそうだ。
 写した原本名が描かれている箇所が実際の展示でもあった。
 肥前平戸(現在の長崎県平戸市)の領主であった「松浦伯爵家の蔵書の中朝事実を学習院総寮部に於いて「源希典」が謹写したことが判る。

学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学1

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学1

  目白にある学習院大学史料館を見学した。元々、学習院に史料展示施設があるとは、知らなかった。以前は、国学院大学博物館や、早稲田大学中央図書館の展示室を見学したことがある。この特別展のことは、とある財団法人の美術館に置いてあるチラシで開催を知ってやって来た次第だ。

 交通は、至便である。 目白駅を降りて、地上の改札に出ると、すぐに学習院大学のキャンパス。キャンパスの中ほどの建物に史料館展示室はあった。
 
 テーマは「学び舎の乃木希典」。目玉展示として、国宝、重文クラスの文化財が展示されるのではない。が、無料だし、他の美術館にチラシを置いて広報に力を入れているし、せっかくの機会なので見学してみることにした。
 
 会期は9月13日から、年末の平成30年12月2日(日)まで。なぜ、9月13日開始なのか?。言うまでもなかろう、乃木希典が明治天皇のあとを追って殉死した日である。
 会期末の12月の2日の理由は分からない(年末に近い日曜だからか)。 

 大学の敷地内の教室棟などいくつもビルがあるのだが、そのひとつの棟の一階のフロア。文学部の研究室などが入ってる?棟のようだ。

 ↓ 特別展の告知看板。

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 展示室の入口の扉は開いている。受付台のうえで記帳があり、氏名を書くようになっている。若い女性の係員が座っている。別展の案内のチラシとアンケート用紙を渡される。アンケートを回答すると、「オリジナル乃木さんハガキ」が貰えるそうだ。係員は文学部の大学院生かな?。
 以下、乃木希典は「乃木」又は「乃木大将」と記す。
 
 
 順番に展示を見ていく。「一章」教育者となった乃木希典
 展示の最初は、乃木の使用していた道具など。食器、箸などの日用品やメガネなどもあったような・・・。
 日露戦争当時の乃木や山縣ら陸軍の首脳の写真、日露戦争の旅順攻略戦での乃木の写真の絵葉書などの展示がある。
 更に室内の壁面にほ、当時の学習院の敷地の地図。元々は、四谷にあったが、明治27年の「明治東京地震」で四谷の校舎に被害があり、その後用地を選定して、目白に移転したという。初等科は、現在も迎賓館の近く、四谷駅から徒歩数分のところに校舎がある。

 「明治東京地震」は知らなかった・・・・・。江戸時代末期、1858年の「安政地震」の後の東京直下型の地震なのだろうか?。すると、今後、断層が動いて、東京の地震というのは、発生する可能性はあるのだ、と感じた。

 明治41年に現在の目白に移転している。当時は東京市ではなく、目白村だったかな?。当時は、明治末期とはいえ、畑、雑木林なども広がる台地だったろう。現在の大都会、東京の目白付近の風景とは隔世の感があるだろう。
 当時の地図を見ると現在の川村学園の敷地には、学習院の職員官舎や、さらに敷地の東には、馬場がある。敷地は、ほぼ現在の川村学園の敷地と一致するのではないか?。学習院の北を通る現在の目白通りに沿って東西に細長い。

 明治41年、乃木が院長に就任した当時の庶務日誌も展示されていた。院長に就任したのは、皇孫 裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育のためだったことはよく知られている。
 「教育者」として学習院長としての展示が中心なので、乃木の院長就任前の軍功に関する展示は限られる。

 乃木大将は、自宅から四谷では、馬で通っていたあと、遠いので、目白の敷地内には住み込みであったという。家を構えたのではなく、起居していたという解説だ。乃木大将の自宅は、地下鉄乃木坂駅(そのまんまだが。)の近くの旧乃木邸として、乃木神社に隣接した敷地にあるし、某アイドルプロダクションの本社もかつては、近年まで乃木神社、旧乃木邸の近くにあった??。
 室内の壁のガラスケースには、乃木大将の軍服、刀は、黒い拵え付きである。刀の銘は見えない。江戸時代の??刀だったかな。軍服には、大将の肩章がついている。星が3つある。明治38年式の軍服で、いわゆるカーキ色である。戦前期(日中戦争や太平洋戦争期を除く)の時代を背景としたテレビドラマで見る軍服は、だいたいこの軍服の形式と色ではないか。軍帽も展示してある。
 「明治18年には、最年少で少将に昇進」と説明文にある。長州閥のおかげと思うが、すごいスピード出世である。
 軍服の布は、陸軍製ジュ所の製造のものを用いて、仕立ては自分の動きやすいようにしたと説明にある。「参考」ということで金鵄勲章も展示してある。勲章の実物はのちの時代、海軍の及川古志郎が昭和17.4.4に受けたものである。乃木は日露戦争の功績で「功一級」最高の金鵄勲章を授与されているので、現物が無いかわりに、別の人物が授与された実物を展示したのだろう。
 昭和17年4月といえば、日米開戦後、日本の占領地域が最大版図まで拡大した時期。恐らく、日中戦争以降の論功行賞が行われ、功一級の金鵄勲章が授与されたのだろうか。
 金鵄勲章は、乃木大将の軍服の下に展示してある。

 続いて見学していく。
 室内の平らなケースには、敷地内の図面と式次第が展示してある。明治42年7月に明治天皇が学習院に行啓したときのもの。行事の次第が書いてある。
 次第をよんでみる。天皇は、学習院の北にある正門から入り、本館に向かう。馬車であろう。正門は現在も同じ場所にあるようだ。
 図書館の向かいにある建物に天皇は入られている。今、私のいる建物は昔の図書館付近らしい。建て替えされているので、建物の大きさも一致しない。一部、敷地がかさなっているだけという感じ・・・・。天皇が建物に入る図も書いてある。天皇の入る建物は「便殿」と書いてある。つまり、天皇専用の建物。この行幸のために、新たに設けたらしいです。手渡された特別展のパンフには、当時と現在の建物配置の比較表がある。私は、手許と展示物を見比べながら、明治天皇の順路を確認した。

 午前10時より式典が開始。高等官、判任官は・・・、など供奉の次第が書いてある。侍従以外に多数の官吏が付き従ったようだ。院長(乃木)の案内にて、授業をご覧になられ、ご覧になる順番に「五年生」など学年を書いてある。
 たとえば、英語の授業では、数名の名が、「優秀学生」と書いてある。生徒の名前は「松平信×??、溝口正×?、佐野××・・・・・」などだったと思う。授業をご覧になった後、正午は食堂に移動。食事をとる。
 一時間の休憩の後、午後1時から午後の参観が開始される。馬術などをご覧になる。
 天皇の御前で馬術を演じる中等科学生、高等科学生の名前が書いてある。
 すべての次第を終えて、お帰りになる。お帰りは「還御」と、書いてある。



「図書館所蔵の国宝・重要文化財」 見学3(最終) 早稲田大学総合学術情報センター

  2017年3月某日

 早稲田大学総合学術情報センター(以下「センター」と記す。)
 「早稲田大学中央図書館 開館25周年記念展示」 「第1期 図書館所蔵の国宝・重要文化財」の見学をした。
 長いタイトルなので以下、主に「展示会」と記す。
 展示会は今後、第3期まであるのだが国宝が展示されるのは大学のウェブサイトによると第1期だけ。同じくウェブサイトによると図書館所蔵の国宝が展示されるのは2007年以来、10年ぶりとのこと。
 
 センター内の展示室のガラスケースで国宝の展示があった。
 「礼記子本義 巻五十九」
 ※「疎開」「疎遠」の文字に似た「そ」の漢字がウェブサイトでは表示されないかも知れない。
 「玉篇 巻第九」
 の2国宝である。

 途中で、見学者が複数名が入室して来た。昼休みの終わる13時(午後1時)に近くなったからであろうか?。人が増えた。一人は50歳~60歳くらいの女性で、私服だ。年配の男性がもう1人来た。男の学生の二人連れも入って来た。二人は、鑑賞して作品の話をしながら見て、私よりも先に出て行った。更に、もう1人、男子学生が入ってきた。私が出た後には、展示室内にはこの男子学生1人だけが残った。

 国宝の展示ケースのコーナーを曲がって左手、展示室の長辺の部分のガラスケースでは、時代が下がって、日本の江戸時代の文化財の展示であった。
 仙台の「大槻家文書」の展示がメインである。一括して重文に指定されている。同時代の人物の肖像画の展示がある。「杉田玄白像」の展示がある。彩色の鮮やかな掛け軸になっている肖像画だ。
 その下には「重訂 解体新書」の展示があった。同じく一括して重文指定文化財の一部である。東洋文庫の展示で見た初版本とは違う版のもっと新しい、改定された版だ。
 「重訂」なので、初版後に改訂して出版された版であろう。内容のページが開いていたが、どこのページだったか忘れてしまった(苦笑)。
 東洋文庫では、顔面の「目」や「耳」の部分のページを開いて展示していたが、別のページの公開であった。ここセンターの展示室で無料配布している展示会の図録に写真が掲載されている部分とも違ったと記憶する。

 「杉田玄白像」は玄白80歳当時の姿と解説文にあった。教科書に掲載されている玄白像は、まさにこれだった。あの肌が衰えて、シワが目立ち、痩せている玄白の肖像画である。本物はここにあった。知りませんでした・・・・(反省)。
 当時としては、異例の長寿である。現在では100歳に相当するのかは断定できないが、見た目現代の感覚でいうと、画中の玄白の姿は90歳から100歳くらいの人にも見える。もっとも、(老化は)個人差が大きいのであるが・・・・。玄白は「医者なので養生した」ので、当時としては長命であったのであろうか?。
 んー、えっ!?。手元の図録のページをめくって、実際の展示作品と比較してみると「杉田玄白像」の写真掲載が図録に無いのだ・・・・・。主要展示作品であるのに、図録に掲載が無いので「杉田玄白像」の写真は、教科書か歴史資料集で(自分の目で)確認してネ、ということだろうか??(笑)。

 ↓ 展示会の図録より。 「重訂 解体新書」が写っている。
  展示部分は表紙の縦書きで「重訂 解体新書」とタイトルが印刷されたと思うが・・・・。
  右は、第1期の展示品の解説文。

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 展示室内、真ん中の「島」の平なガラスケース内部には「運慶の直筆文書」の展示などがあった。「法眼運慶置文」。
 厚みのある和紙の巻物が2巻ある。別の文書をつなぎあわせて、その裏に書いた文章だ。当時、紙は貴重だったので「裏紙」を使用したのだろう。よって、裏に元々書かれていた文字の墨が透けている。
 文書の内容は「運慶の娘が養母から土地の権利を得る際に運慶が保証をしたもの」だそう。仏師の運慶にも個人の生活があったことが分かる。当たり前のことなんだけど、生々しいなぁ。一庶民(法眼だからそれなりの公的地位にあったと思うが)として普通に生活していたのですね(笑)。
 奈良国立博物館で「快慶」、東京国立博物館で「運慶」の特別展が今年、開催される筈である。特別展でこの文書を展示したら、遺した仏像などの作品以外に、彼個人の生活に迫る資料として面白いかも。

 警備員の立っている横に記帳台がある。記帳のページが開いている。少し見てみると「国宝を見るのは 今まで×××件だったが、今回××5件目と××6件目を達成です・・・・。」ように書いてあった。ものすごい数の国宝を実際に見ている。私なぞは、数えてもいないんだけど・・・・(苦笑)。
 「・・・・母校の国宝公開を決断してくださった 総長 (氏名) に感謝します。 記帳者氏名 」とも書いてある。卒業生の記帳であった。
 別の記帳では「文学部3年?」の学生と書いてある。「・・・・自分の通う大学の国宝を見ることが出来てよかった・・・・。」という内容。ただし「図録と違う場面の展示であるので考慮してほしい・・・・。」との指摘も書いてある。やっぱり・・・・・。私も何か違うなぁと感じたので。短い展示期間・・・・、場面替えをするのかは、図録や解説文には書いていないので、せっかくだから図録と同じ部分でよかったのでは?。

 「礼記」の末尾は光明皇后の「印」も重要であると思うので、(図録には国宝巻物の末尾部分の写真を掲載し)末尾部分の巻物の箇所を「印」のところも含めて、スペースが許す限り展示し、または図録の写真掲載分をリアル(実際)に展示するならば、「光明皇后の「印」は(展示できないので)図録をご覧ください」のような展示解説文をガラスケースに掲示してもよかったかな。

 30分くらいで見学を終えて外に出た。
 ↓ 二階のエントランス前より。冬の青空だが、春はすぐそこに来ている。

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 と、昼休みの時間帯、午後1時を過ぎたためか、私の携帯電話が突如として鳴った。仕事の用件だった。建物の外に出て、通話する。二階のエントランス前は広い。先程見学した展示室の前の大きなガラス窓のある廊下の「外側」で通話した。周囲には人がいないので、迷惑は掛けていないです。(笑)
 本日は天気がよい。早春の気持ちのよい青空だ。気温は10度未満のヒトケタ台・・・・・、なので寒いが、センターのガラス窓やレンガに太陽光線が反射して眩しい。
 エントランスの階段を下り、センターの門を出て道路を横断。早稲田キャンパス内を通って地下鉄早稲田駅まで歩いた。
 東西線沿線の駅近くに用があったので、そのまま地下鉄に乗り移動した。
 
(早稲田大学図書館所蔵の国宝 見学記はこれでおしまいです。)


「図書館所蔵の国宝・重要文化財」 見学2 早稲田大学総合学術情報センター

  2017年3月某日

 早稲田大学総合学術情報センター
 「早稲田大学中央図書館 開館25周年記念展示」 「第1期 図書館所蔵の国宝・重要文化財」の見学をした。
 長いタイトルなので以下、主に「展示会」と記す。
 展示会は、第3期まである。国宝が展示されるのは、早稲田大学のウェブサイトによると今回の第1期のみだけ。しかも、同サイトや今回 展示室で無料配布していた展示会の図録によると所蔵する国宝は、なんと「10年ぶりの公開」とのことだ。前回は2007年に大学中央図書館が開館15周年を迎えた際に公開されたそうだ。
 大変貴重な機会である。

 ↓ センターの玄関エントランス部分にあった告知。

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 第1期に展示される国宝の画像部分の拡大。


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 展示室内を見学する。室内には警備員が1人以外、誰もいなかった。ガラスケース内の展示を見ていく。重要文化財指定の「崇光上皇 宸筆願文」と「尾張~百姓等解文」の展示があった。
 続いて、その左、展示室の奥のガラスケースにこのたび10年ぶりに公開された国宝の展示があった。
 まず「礼記子本義 巻五十九」があった。
 ※「疎開」「疎遠」の文字に似た「そ」の漢字がウェブサイトでは表示されないかも知れない。

 解説目録の文章によると「礼記」の注釈本だそう。何を書いているかは、分からない。漢字がたくさん書いてある・・・・。唐の時代の写本。「巻五十九」なので多数ある巻物による注釈のうち、59番目の巻物のみが保存されていて、今、私の目の前に展示されているのだ。
 奈良時代には日本に伝来していて、光明皇后の所蔵印が押してあるそうだ。正倉院の時代には伝来していたので、当然遣唐使によって持ち帰りがされたのだろう。図録の写真には「内家私印」と皇后の印が朱肉で押してある。巻物の末尾に四角い印が斜め、ひし形に押してある。しかし、目の前の展示では巻末の「内家私印」は開いていない。別の部分、巻物の途中の一部の公開である。
 
 展示部分の内容を読んでみる。漢字の羅列なのであるが・・・・。「叶? 」足六衡之第六所××也・・・心也安・・子則即也×士・・・  前有文母而・・・天雨・・・」のような文字。勿論漢字の転写間違いばかりだが・・・。
 ガラスケース脇の室内の壁のパネルには修復したときの様子の写真の展示がある。原本は紙の劣化によってボロボロになっていて、かなり千切れている。というか、巻物として巻いたまま、長い期間保管していたので、ある部分が半楕円形に紙が劣化してえぐられている。裏地の紙に原本を貼り付けして、修復を行っていた。よって、現在は巻物になっている。図録の写真では、裏紙を貼り付けした様子がわかるが、目の前に展示されて、開いている部分は劣化をあまりしていない部分のようで、紙に貼り付けしているようには見えなかった。

 その隣には「玉篇 巻第九」の展示がある。
 
 同じく写本である。
 「玉篇」なので王家、皇帝の伝記や由来書かと思ったが、書いている内容は漢字辞典のようだった。皇帝の伝記ならば史記のように「紀」だろう。「玉」は、皇帝を意味すると思いのだが、勘違いかな。日本では「玉」は天皇を意味するが。または歴代皇帝の伝記ならば「玉紀」というべきなのかは、分からない・・・・。
 
 「玉篇」の内容を読んでみる。漢字の羅列なのであるが・・・・。 「言」のように部首を大きい文字で書き、同じ部首の漢字を列挙して解説している。
 展示して、巻物を開いている部分の文字を観察してみると確かに「言」や「日」が部首の漢字である。が、現在の日本で常用漢字として使用されている文字は無いような・・・・。それらの漢字の日本語の「音読み」も分からないです(苦笑)。

 書いている内容を抜粋してここに書いてみる。勿論、間違って写している文字が多いのだが・・・・。
 「千弓」のような文字の部首の説明は・・・、「第九十 凡六字・・」とこの部首は、「90番目」と番号を振り、文字が6字あるような書き方。
 続いて「去?部」とまたまた分からない漢字。「第一百 凡二字」と100番目らしい。「去? 胡・・毛詩婚姻孔去る侍曰去?抱成・・・・」のように書いている。
 「音部 第百一 凡十六字・・・」「・・・音気 ×奇生天同隆増天声・・・・周礼師氏掌六伸天・・・成分謂之音」のように書いている。解説してある漢字もよく分からない(苦笑)。

 図録の写真には「言」が部首の別の漢字の部分が掲載されている。目の前の展示では、「言」から「日」の部首の漢字の解説部分が開いている。上の写真を見ると分かるが、展示会の告知パネルには、これまた別の部分の「食」の部分の写真掲載である・・・・。ガラスケース内では、写真には無い、巻物の途中の別の部分の公開である・・・・。
 「食」は、当時の文字と現在の日本の「食」の文字は異なるようだ。よって、ここでは現代日本の漢字表記で本記事では記す。JIS第二水準の文字、というのかな??。
 解説目録の説明文には、巻物の展示部分の「展示替え」があります。とは書いていない・・・・。室内にもそのような表示は無い。よって、図録の掲載写真の部分の公開が実際にあるかは、不明だ。

 
 私が見学していると、途中で、見学者が複数入室して来た。

 図録の写真↓ 「礼記子本義 巻五十九」
 「内家私印」と皇后の印が朱肉で押してあるのが判る。

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 図録の写真↓ 「玉篇 巻第九」
 「言」の部の漢字の説明であることが何となく判る(笑)
 末尾の部分も写っている。

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 解説目録の解説文によるとこの2つの国宝の伝来は「明治39年と大正3年に田中光顕から寄贈された。」そう。当時の早稲田大学(東京専門学校の後身)に寄贈されたのだろう。寄贈された経緯に大隈重信の名は出ていないが、当時の勲功者、有爵者として、両人(田中伯と大隈伯、大隈はのちに侯爵)とも友人関係にあったことだろう。
 「礼記子本義」は、明治23年に忽然と古書×××閣(古書商??)に現れたと解説文に説明がある。私の推測だが、公家か大名家が手放したのではないだろうか。清国公使と田中が競った末に、田中が落札し、複製品を作成したので、複製のひとつの寄贈を願ったところ、現物.が寄贈されたのが明治38年とある。「日露戦争」の終結した年のことである。
 「玉篇」は以前は福岡・黒田家の分家、秋月藩の藩士の所蔵でのちに田中光顕が入手した、大正3年に寄贈した、と解説文にある。

 田中といえぱ宮内大臣を務めた人物。かつての小田原の別荘は現在小田原文学館となっている。
 私も訪れたことがある。

 田中光顕邸は、ここ早大の近くの徒歩で3分くらい、道路を渡る信号待ちが無ければ1分か2分くらい(笑)の文京区関口の水神社の近く、胸突坂の下、現在の芭蕉庵の敷地にもあったと記憶する。よって、大隈重信をはじめ東京専門学校・早稲田大学の関係者とは「ご近所さん」だったのかも知れない。いわば当時のご近所関係を含む人間関係によって、寄贈が行われたと推測する。


「図書館所蔵の国宝・重要文化財」 見学1 早稲田大学総合学術情報センター

  2017年3月某日

 早稲田大学やってきました。総合学術情報センターで「早稲田大学中央図書館 開館25周年記念展示」が開催されている。「第1期 図書館所蔵の国宝・重要文化財」の見学をする。
 長いタイトルなので以下、主に「展示会」と記す。展示会は、第3期まである。国宝が展示されるのは、早稲田大学のウェブサイトによると第1期のみだけだ。
 
 今回の訪問は、平日の昼間のことだった。訪問したこの日は入試が終わり、卒業式の前、まだ新学期の始まる前の時期にあたっていた。大学は春休み期間中であり、キャンパスの敷地内には人が少ない。大学に人が一番少なくなる時期ではないだろうか。
 第1期は3/17から展示が開始され、新学期が始まった後の4/5(水)まで。会期末の頃には新入生を迎え、キャンパスには再び学生達が戻ってきて賑わっていることであろう。 展示会は、博物館ではないので日曜日と祝日は休み。学校の施設であるからだろう。

 私が訪れたのは、昼休みの時間帯。ここ中央図書館の展示を見た後、近くを流れる神田川の端を渡り、坂の上にある永青文庫まで行こうかなと思ったが、時間が無いのでやめた。本当に早稲田大学から神田川沿い、関口の水神社までは通りを渡って、すぐ近くだ。
 通りから総合学術情報センターの敷地の中に入る。道路は戸山、高田馬場方向に緩い登りの斜面になっている。北の神田川が流れる低地から台地に至る緩やかな坂の地形の途中にあるといったところであろうか。

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 門を入ると建物の回廊柱に立看板があった。と柱の脇にスーツ姿の男性が立っていて、私を見るなり「会議場はこちらです。」と声を掛けてきた。別の場所には「××集会? 会場」と看板がある。学術団体の集会があるようだ。私はその参加者と誤認されたようだ。おかしいな~、私のショボイ身なりで行動.していたのに(笑)。
 案内の男性はこの寒い気温の下、コートを着ていない。偉い先生方を迎えるのにコートを着てはならないと「コート着用」を許されていないのであろうか。だとしたら、厳しいです。私は「展示室です。」と返答し、そのまま正面の階段を昇り、二階のセンター入口へ向かう。案内係の男性は寒そうにしていた・・・・・。
 建物の中に入る。展示室は、入って正面に向かって右手。左手には図書館。図書館には人が学生が出入りしているし、図書館のゲートには司書らしき女性がいる。シーンとして静寂な空間だ。
 正面には展示会の看板も立っている。私は向かって右に歩く。展示室前の廊下には私以外に人がいない。廊下に沿った壁の内側は、集会の開催される国際会議場なのであろう。

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 展示室前の廊下は、やや広くなっている。立ったまま、少し休憩だ。大きなガラス窓になっているので外を見る。太陽の光が眩しいな。この日は、寒い一日であったが、陽射しは強い。桜の開花宣言こそ出たが、まだほとんどの桜の花は都心部でも咲いていないのではないかな?。が、春はすぐそこに来ているのだ。
 
 窓からは、正面の入口ドアが見える。入り口を挟んで反対側は図書館。
 写真の左手、手前は展示室の入口。 ↓

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 展示室の入口は小さい。ドアは開いていている。警備員が一名立っている。入館料はもちろん無料。自由に出入り出来る。というか、廊下と展示室を区切るドアを開放しているため、国宝、重文などの展示室に誰でも簡単に出入り出来てしまう・・・・。防犯上大丈夫であろうか、というのはいらぬ心配か?(笑)。

 ↓ 図書館展示室入口の様子。
   廊下の壁には、今回の「展示会」のポスターが貼ってある。

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 展示室には警備員が直立している以外、誰もいない。
 と、室内の小さいテーブルの上に今回の展示会の図録があった。自由に持ち帰りが出来る。しかも無料だ。カラー印刷の立派な図録。いや~、早稲田大学は、お金がありますね。 図録以外に第1期用に印刷したB4版の解説紙「解説目録」も置いてあった。
 四角い小さい展示室だ。反時計回りに壁に沿ってガラスケース内の展示を見る。重要文化財指定の「崇光上皇 宸筆願文」と「尾張~百姓等解文」の展示があった。
 なんと、文化財とともに「箱書き」のある木製の箱(箱の文字がダブッてしまったが)をガラスケース内に置いてある。巻物の保管用なので、細長い。箱書きには「重文・・・・」と、文化財再び箱に戻して保管するためか、タイトルが書いてあるし、現代に貼り付けしたと思われる??「重文・・・・」と書いてあるシールも貼ってある。
 かつて大徳寺では、ある畳の一室に保管用の長方形の細長い箱をまとめて置いていたが、ここでは箱が小さいためか、再び保管しやすいように??、「箱」も展示していた。

 最初に重要文化財指定の「崇光上皇宸筆願文」の展示がある。上皇様の直筆文である。
 「敬白 伊勢大神宮」と書き出しは大きな漢字だ。願いごとをしている文章だった。「神宮」ではなく、当時も現代とほぼ同じく「伊勢太神宮」と呼称されていた.ことが判った。「大」ではなく、太いという文字の「太」の文字であるのは注目だ。末尾には年号日付と「太上天皇 典仁 敬白」と記している。「上皇」ではなく「太上天皇」と
書いている。「敬白」の字で結びとしている。
 現在において、天皇の生前退位が検討されていると聞く。すると退位した天皇の呼称は正式には「太上天皇」略しては「上皇」になるのであろうか。非常に興味深く拝見した。

 同じガラスケース内に、重要文化財指定「尾張~百姓等解文」の展示があった。歴史資料集に内容か掲載されている歴史資料だ。平安時代に尾張の国の百姓が郡司 藤原元命(ふじわらのもとなが)の悪政?を上訴したもの。郡司は、のちに解任されたのだったかな。思い出した。「はは~、現物はここにあったのか」と思ったが解説文を読むと後世の「写本」であった。しかも、「郡司」を「国司」と誤解していたし(笑)。
 文章中には漢数字が書いてある「三万・・・・八束」と。年貢というか、律令制度下の租庸調でのチョロまかしたか、横領したか、税金として課せられた数字か、ある土地での収穫高、税の収納高かは分からないが、税金の何かの数と単位である。とにかく、「解」としたいらしい。解任申出書、訴え書のようだと現代の私にも分かる。

 ↓ 図録より。尾張~百姓等解文の部分。

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特別展「火焔型土器の機能とデザイン」 国学院大学博物館 見学2

 2017年2月
  寒い日冬のある日のこと。渋谷区にある国学院大学博物館を見学した。
(※ 本来は旧字体で表記するのが正しいが、ここでは現在字体の漢字で表記することにする。) 

 特別展「火焔型土器の機能とデザイン」 見学。
  
 展示室に入って、すぐ右手に 十日町市博物館所蔵 国宝 火焔型土器 の展示があった。


 ↓ ガラスケース正面より「国宝 深鉢形土器 火焔型土器」

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 大きい。立派だ。炎のような突起が確かにある。大きい突起は、均等に四か所ついている。左右対称の模様なのか、目をこらして、うーんどうかな~、と観察する。突起は向かい合っているものが「一対一」の「対」が×2=4個の突起になっているのか。「対」になっているようでもあるし、なっていないようでもあるし、不思議な形だ。
 突起には「ハート型」の穴も開いている。縄のように土をこねて、穴を付けたのだろう。「ハート型」土偶を思い出した。まるで、心臓のような、人の心を表現しているようなハート型の穴だ。
 
 縄文時代は弥生時代の前だから、西暦でいうと紀元前500年より更に前なのかな、という程度の認識でしかなかったが、この土器は今から5000年前のもの。「縄文時代中期」。
 紀元前でいうと3000年前。すると、現在私達が縄文時代と呼んでいる時代は3000年~5000年は続いたのだ。いや、もっと長く1万年だったかな・・・・?。
 長らく文明が進化しなかった時代というのは語弊があるが、文明、文化の発達がゆっくりだ。反対に弥生時代以降、現在までの進化のスピードがいかに速かったかを感じる。

 ↓ 同じ角度から拡大。上部の火焔のような尖った模様も気になるが、「ハート型の穴」も気になる。
  もしや人間の心臓を表現したのかとも思ったが、土器を持つための単なる取っ手のようにも見える(笑)。

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↓ 国宝とは別の 「深鉢形土器 火焔型土器」 と展示室内の様子。
  新潟県の文化財に指定。ぽっと見たところ、国宝の土器よりも小さい。模様も少ない。

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↓ 重要文化財指定の 深鉢形土器 火焔土器。壁に沿ったガラスケースに展示があった。
  国宝よりも小さい、側面も含めて模様が少ない。
  長岡市馬高遺跡の出土と説明に書いてある。

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 ↓ 重要文化財指定の 深鉢形土器 王冠型土器
  こちらも国宝と比較すると小ぶり。王冠の紋様だが、四つのタテの持ち手がついているようで、実用性も感じた。津南町の堂平遺跡出土。

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 新潟県の信濃川に近い地域に縄文時代、共通した模様の土器が発達したようだ。特別展のテーマにある「火焔型土器の機能とデザイン」については、時間の関係で説明をよく見ることが出来なかったので、なぜこのような模様の土器が普及したのか、制作されたのか、機能はどのようなものであったのか、理解していない・・・(笑)。遺跡の場所や出土品などの解説パネルも壁に掲示してあったが、よく見る時間が無かった・・・・(苦笑)。
 展示スペースの順路に沿って、土器以外の石器や三角形の土板の展示があった。十日町の遺跡から出土していた。調理などに使用したのだろうか。
 
 私が入館してすぐ直後には、三人くらいの入館者があった。スーツを着た私より年下の感じの男性だ。大学の関係者かも知れないと思った。その後、熟年のスマートな女性が2人連れでやって来た。国宝の前で、じっくり見ながら、話をしている。また、別の夫婦らしき熟年の男女もやって来た。
 比較的規模の小さい博物館であるが無料でもあるし、会期末ということもあってか平日にもかかわらず開館直後から見学者がやって来ている。
 時間の関係で10分くらいの滞在であった。特別展以外に常設展示のスペースもあるのだが、見学は
割愛した。古代の神社の建物の模型などが展示してあるのが見えた。古代というより、式年遷宮で建築された伊勢神宮の木造建築のような印象も受けた。
 展示室を出ると、エントランスのところに小学生が整列していた。先生らしき私服の男性が傍らに立ち、小学生の列の正面には男性が立って話をしているところだった。「博物館 学芸員の 〇〇 です。」とあいさつをして「それでは、中に入って見ていきましょう。」と展示室の中へ児童を引率して入って行った。
 児童たちは皆、制服を着ている。私学の制服ではなく公立小のような紺色の制服だ。5年生くらいかな、と思った。6年生というほど児童達は大きくない。6年生だと、この時期は、もうすぐ中学生だし、もっと大きいと思う。
 来ている児童は25人くらいだった。一クラスの人数かな。学年で一クラスなのかは分からない。都心部のビル街を歩いていると確かに制服で登下校している小学生を見ますね。

 帰宅した後、十日町市博物館のウェブサイトなどを見て、少し復習した。土器には「おこげ」もついていたものがあり、調理に使用されていたらしい。かまどに於いて、煮炊きするのにちようどよい大きさだし。また、祭祀にも使われていたらしい?。国宝の土器は、(発掘後洗浄したのであろうが)きれいで形が崩れていないし、祭祀などの飾りだったのかも知れないと改めて感じた。


 




特別展「火焔型土器の機能とデザイン」 国学院大学博物館 見学1 (国宝 火焔型土器)

 2017年2月
  寒い日冬のある日のこと。渋谷区にある国学院大学博物館を見学した。
(※ 本来は旧字体で表記するのが正しいが、ここでは現在字体の漢字で表記する。) 


 元々は、山種美術館に来る予定であった。前年の11月にも「速水御舟展」の鑑賞にやって来たときに、竹内栖鳳筆の重要文化財「斑猫」が展示されることを知ったので再び鑑賞にやって来ることにしていた。
 しかし、年末年始を挟み、はや会期末となってしまった・・・・。いつものことだけどね(苦笑)。
 そこで、急きょ仕事の合間に見学に行くことにして、同時に近隣で行く所(スポット)はないかな?、と思って(ネットで)調べていたところ、国学院大学博物館の特別展を知った次第だ。
 
 テーマは「火焔型土器の機能とデザイン」。目玉展示として新潟県の十日町市博物館所蔵 国宝の縄文土器(火焔型土器)が展示される。
 現地まで見に行くことは大変であるし、遠隔地の国宝が展示されるせっかくの機会なので、見学してみることにした。
 会期は12月10日から、年末年始を挟んで平成29年2月5日(日)まで。またまた、会期末に近い見学となった(苦笑)。 国学院大学博物館は、入館料無料。大学の付属施設とはいえ、太っ腹だ。

 以前、山種美術館に来たときに、近くに国学院大学博物館があることを(改めてではあるが)知り、同時に渋谷区立の記念館も近くにあることに気付いたのだ。が、山種が閉館間際の訪問だったりして、行くことができなかったので、近くの博物館も同時に行くことができれば、と思っていた。

 周知の通り国学院大学のキャンパスは渋谷駅や渋谷川沿いから見ると、坂道を登った丘の上にある。周囲は、住宅地や商業地、学校などの公共施設用地。道を一本入ると閑静な通りだ。大学のメインの校舎のある敷地とは別、道路を挟んで、渋谷駅側に博物館のあるビルがあった。道路沿い、門やキャンパスを囲む壁のないオープンスペースのような敷地入口なので、すぐに分かった。

 開館時間は10時から。開館時刻ちょうどに博物館にやって来た。ゆるやかな坂道の途中、大学の敷地内のビルの一番下のフロア、半地下になっている所に入口があった。路面から階段を下って入館した。
 閉館時刻は18時と比較的遅い。17時閉館の別の博物館、美術館を見学した後でも訪問可能だ。

 ↓ 博物館の入口。「火焔型土器」の複製品が設置してある。実物大の大きさか?、と錯覚してしまった・・・。


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 ↓ 特別展の告知看板。渦をまいているような、不思議な形の突起のある城門土器が「火焔型土器」だ。


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 エントランスに入るが、特に受付は無い模様。無料の博物館の場合は、記帳台があり、氏名などを書く場合もあるが、特に無いようだ。全くの自由入場で、入館料無料だ。
 展示室への自動ドアを入る。と、係員が座っている。開館直後の不意の入館で少し驚かれたようだった。カチと手に持っていたカウンターで入館者数に私は数えられた。展示室の入口には、博物館チラシ展示品リスト、やこの特別展にちなんで新潟県の「信濃川火焔街道連携協議会」のパンフレットが置いてあったので、入手した。
 信濃川の沿岸市町村が共同して制作したパンフのようだ。沿岸の遺跡から、火焔型土器が出土してているのだ。今まで知らなかった・・・・。
 縄文土器だから、縄の模様が土器の側面や、上のフチ付近にあるのは当たり前だ、程度の認識しかなかったのだ・・・・。

 入って、すぐ右手に「国宝 火焔型土器」が独立した四方から見れるガラスケース内に展示してあった。
 付近の壁には「カメラマーク」があり「OK」と告知がある。なんと、写真撮影OKなのだ。

 ↓ ガラスケース内の「国宝 火焔型土器」。写真の右が展示室出入り口の自動ドア。
   「写真OK」の告知が見える。
 
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  博物館の入口の告知板にもあるが、ミュージアムトークも開催している。特別展のチラシにも日時が掲載されていて、複数回開催されている。この2月の土曜日にも開催がある。大学内のホールで関連イベントも開催されていた。(イベントは昨年の12月に開催済だった。)
 展示室内の告知にもあったが信濃川流域で発掘されたこれらの火焔型土器とこの地域の雪国文化が「日本遺産」にも指定されたそうだ。


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りょうげつ

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