良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

泉屋博古館(京都・東京)

 

「明治150年記念 華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美」鑑賞2 泉屋博古館(東京)

 2019年3月17日 「明治150年記念 華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美」鑑賞2 泉屋博古館(東京) 
 
 会期は3月16日から。なんと、私には珍しく会期二日目の早々の訪問だ。港区の泉屋博古館分館にやってきた。

 最初は8分間の映像コーナーを見た後、第一展示室に入った。

 ガラスケース内の展示で目立つのは、大きなお皿であった。「色絵  」という皿。宮中の晩さん会、食事会で使用されたものという。

 晩さん会の招待状が展示されている。 「宮中顧問官 子爵 山尾庸三殿」という宛名。山尾家から寄贈された史料であろう。会場は、浜離宮内の殿舎である。「延遼館」というようだ。明治2年建設で、最初は外務省の管轄で、のちに宮内省の管轄になったという。
 明治23年頃には取り壊しされたそうだ。20年間くらい存在したことになる。のちに建設されたのが有名な「鹿鳴館」。鹿鳴館は、「現在の内幸町、薩摩の上屋敷跡に建てられた。」と説明がある。しかし、別の説明では「装束屋敷の跡地・・・・」という説明がある。当時の政府高官を多数輩出していた薩摩藩島津家が土地を提供したのだろうか。実際には「装束屋敷」が正しい。上屋敷は、現在の三田付近にあった。蔵屋敷も三田のかつての海沿いにあったのだ。
 鹿鳴館の晩さん会の招待状は、同じく山尾あてのもの。「議定官 山尾庸三殿」と書いてあり、爵位は書いていないない。明治16年の開催の招待状なので、当時は爵位が無かった。爵位制度は明治17年から。
 この明治16年の晩さん会は、鹿鳴館の落成記念の会だったか??。
 更に進むと当時の晩さん会で使用されたという食器の展示がある。有栖川宮家由来のもの、のちに、高松宮に伝わり(旧有栖川宮家の祭祀を継承したので。)、保存されていたそうだ。

 ↓ 今回の展示のパンフレット 抜粋。有栖川宮家伝来の食器の画像が掲載されている。

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色彩のえる、花瓶などの展示があり、出る。


クニ邦英 成年 辞書がたのボンボニエール。昭和59年の前田利建の金婚式のボンボニエールも。
陶磁器のよう、緒形乾山の赤絵のよえな描いてある。朝かのみや、亀甲型の銀製のボンボニエール。
赤い紐がついている。辞書、ギリシア文字と下側にラテン語かな。


 ↓ 今回の展示のパンフレット 抜粋。

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皇太子とクニ良子女王 成婚は
黒漆六角形の菊の紋様の菓子入れ。側面には、はびたく鶴、螺鈿の細工らしく光沢がある。
朝か宮入って、亀甲だが、六角形とある。ともに、真ん中に、菊の御紋がある。


中程には、映像で紹介のあった、明治25.3..9の大婚の式典と。晩餐には621人、その後の立食形式には、1200余りが招待されたと。晩餐は鶴の立っているボンボニエール。もう一つは、銀の鶴の彫刻のある
ボンボニエール。図面もおる。宮中晩餐乃菓子器  銀製 と描いている。3尺8寸の高さと。
 台座にほ、二匹の亀がいる。台座は8寸とあり、台座の側面には明治 25年3月9日と日付が入っている。別の列の展示で、皇太子成婚のボンボニエール近くには、英国皇太子、エドワード王子の歓迎の晩餐会のボンボニエール。「大正11年」と説明にある。
 前年の皇太子裕仁親王(昭和天皇)の訪英の答礼として、エドワード王子が日本に来たのだろう。 英国のエドワード皇太子歓迎のときは、銀製の銀色の印籠のボンボニエールだ。桐紋がある。上に、小さく菊の御紋が刻印されている。先端には紐がついている。

 ↓ 今回の展示のパンフレット 抜粋。

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 独立ケースの内部には、昭和三年の昭和天皇の即位の大礼の式典のときのもの。そのボンボニエールは新しい。三種類ある。

 大正天皇の成婚25年のとものも展示がある。大正14年である。二羽の鶴のつがいが台座の上に乗っかっている。一羽は上を向いて、羽を広げるようなしぐさであり、もう一羽は、頭を曲げて下横を向いている。皇后を象徴している。仲の良い、めおとを表しているか。
 私が見たところ、展示順番は必ずしも、時代順ではない。

 ↓ 今回の展示のパンフレット 抜粋。
   明治天皇の大婚25周年の式典に際に下賜された鶴と二匹の亀のボンボニエール。
  柏葉筥形ボンボニエールは、大正天皇大礼(即位の礼)のときの下賜品であった。菊の御紋に赤い紐がついている。四角形のようで四角形ではない。柏の葉で箱の形を表現している。

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「明治150年記念 華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美」 鑑賞1 泉屋博古館(東京) 

 2019年3月17日 「明治150年記念 華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美」鑑賞1 泉屋博古館(東京) 
 
 会期は3月16日から。会期二日目、再び港区の泉屋博古館分館にやってきた。春先の晴天の日。 前回は、真夏のセミがミンミン鳴いている季節の訪問だった。この付近は、桜並木が植えられているので、真夏は桜の樹液を吸うのでセミが多いのだ。
 地下鉄六本木駅ではない、別のルートからの訪問であった。坂道を歩いてやって来た。空気はまだまだ冷たいが、陽射しは明るい

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 「華ひらく皇室文化」の企画展タイトルである。皇室関連の展示物がメインでろうが、今回の私(にとっての鑑賞)のメインは板谷波山の重要文化財 指定「 葆光彩磁珍果文花瓶 」だ。前回は、一昨年??の浅井忠の洋画作品の展示とともに、ここ泉屋博古館分館で公開(以下この記事では「同館」と表記する。)されたらしい?。同館の展示は、企画展が終了すると、私の見る限りウェブサイトからは展示リストが消えてしまうので、後からでは、何か展示されていたのかが、追跡しにくいのだ・・・・・。今回こそは、重要文化財 指定の「 葆光彩磁珍果文花瓶 」が展示される。事前に情報を掴んで(といっても、ウェブサイトで調べただけ・・・・・。)やって来たのだ。
 同館で一番有名な所蔵作品のひとつではないかな。同館のサイト、特にツイッターでは、この壺の画像がアイコン化されているし。
 もう一つの、波山にとって二番目の重文指定作品「 葆光彩磁禽果文花瓶 」は、前年 2018年に新潟市の敦井美術館で開催された波山の所蔵品展で展示された時に鑑賞した。昨年は新潟に、今回は東京・六本木に、波山の重文指定作品全2件(本記事、執筆当時)の「コンプリート」のためやって来た次第だ(笑)。

 
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 泉屋博古館は立派な鉄筋コンクリート造りの建物だ。入口の扉も重厚だ。旧住友財閥、旧住友男爵家の威光を示しているようだ。
 扉から、受付まではやや長いエントランス通路。正面の受付に女性がひとりいる。入ると必然的に正面の受付の女性、視線が合う。入館料は800円。前回訪問時よりも安いぞ。
 説明では「学習院でも開催している。」と。目白の学習院史料館と共催しているそうだ。「学習院史料館は無料ですが、開館日に気を付けてください。 ・・・記念品がもらえるそうです。」と学習院史料館で記念品を貰える絵.ハガキを渡された。おお、昨年の秋に訪問したばかりの学習院史料館で開催されるとは、偶然である。
 本当に開催日を注意する必要がある。学習院では会期が「3/20から」なので、本日現在、開催日ではない。子の足で目白に移動して訪問すると・・・・、開催前・・・・・・。以前、学習院史料館は、祝日に訪問して閉館日で失敗したし・・・・。


 ロッカーに荷物を預けて、最初は8分間の映像コーナーを見た。ロッカーが設置してある所に映像コーナーがある。隣りに事務室があり、係員が出入りしていた。事務室に訪ねてきた人もいた。扉の外に立って待っている。黒服のパンツスーツの監視員が二人出入りしていたり、映像を見ている間にも人の出入りがある。つまり、事務室は、チケット売り場の裏手の部屋になっている。


 映像は主に「明治宮殿」の紹介だった。

 「・・・・江戸城が皇居となり、天皇が居住するようになった。当初は、御所として、江戸城の西の丸御殿を使用していたらしい。本丸御殿は既に火災で焼けていて、徳川末期、明治時代の初めは無かったというし。西の丸御殿も明治6年には焼失したという。火事が多い・・・・。
 あたらしい宮殿は、明治9年に計画して、明治21年に竣工した。翌年の明治22年が憲法発布の式典が開催された。・・・」という映像内容。
 この憲法発布の儀式の場所が、宮殿の正殿。教科書などで写真を見たことがあるが、正殿の豪華な内装の様子の絵が伝わっている。何と、豪華絢爛の明治宮殿は木造だったのだ。

 図面の解説がある。当時の写真で紹介される宮殿正面の車寄せは、大名屋敷とまよう建築。瓦屋根となっていて、江戸時代の大名御殿のような御殿だ。京都の御所とは異なる建築に見える。建物の配置は、京都の御所を基にしているようだ。やはり、京の御所というよりは、武家の御殿に近い建物ではないか?、と見えた。
 映像とナレーションは続く「・・・・入って、すぐに受付の間かある。・・・・・・・・・・・・・」と。受付の間といっても広い。待機者用なのであろう、豪華なテーブルとイスなどがおいてある。宮殿に参殿した臣下は通常、東の入口である東溜の間から入ったそう。
 溜の間の写真、東の玄関付近の待合室の様子の写真が紹介される。正殿は、玄関と中庭を挟んで、正面、 東から撮影した正殿の建物の写真映像が流れる。天井の格子屋根は工芸がほどこされている。
 明治宮殿の入口は、現在の宮殿の南東の端付近に相当する位置かな。東溜の間は、現在一般参賀などで一般国民が入ることが出来る宮殿前の広場にあったようだ。

 繰り返しになるが、明治宮殿は、木造の建物であったと知った。レンガ造りではなく、木造の御殿であったのだ。てっきり、明治の洋風レンガ建築であったかのように誤解していた。
 のちの時代の東宮御所赤坂離宮(現在の迎賓館赤坂離宮)は、レンガ造りである。
 「宮殿の奥には、豊明殿(ほうめいでん)がある。」と映像とナレーション。現在も 同じ名前の部屋が宮殿にあるという。確かにニュースでも、その名前を聞いたことがある。内装は欧州の宮殿のようで、石造りの建物かと思ってしまうが、木造の宮殿だったのだ。正殿での儀式よりは小規模の会や謁見の儀式などが豊明殿で行われたそうだ。
 「明治宮殿は、太平洋戦争中の昭和20年の5月25日の空襲で焼失した・・・・。」と解説が流れる・・・。明治時代からずっと使用されていたのだと知った。
 明治宮殿の跡地に昭和43年に完成した現在の新宮殿の映像が流れて、終了した。現在もニュース映像でしばしば目にするが、新宮殿は、銅葺きの緑色の屋根と長い鉄筋コンクリート造の建物が印象的だ。
 映像を視聴して知ったが、明治宮殿では天皇は、その奥の宮殿で生活をしていたそうだ。戦後、昭和天皇は宮殿とは別の場所、吹上御所で生活していたことは知られている。吹上御所は戦後のことで、戦前は明治宮殿の奥側の区域が天皇の生活の場所であった。儀式を行う正殿などの表宮殿の奥に生活の場があるのは、京都御所の造りに似ている。


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