良月(りょうげつ)の たび日記

神奈川県 湘南地区在住。折口良月(おりぐち りょうげつ)の神奈川、東京、静岡、山梨、長野など関東近郊地域への行楽、外出。美術館、博物館めぐり。その他国内旅行などお出かけの記録。

東京都内

 

桜坂 港区赤坂 2019年3月

  平成31年、2019年の桜の花は早かったです。(桜坂 港区赤坂 2019年3月)

 3月21日に東京でソメイヨシノの開花宣言がなされた。
 近年まで平年は3月31日とされていたと思う。私が子供の頃は4月の2日などもっと遅かったと思うが・・・・。
 港区赤坂にある「桜坂」を通った。泉屋博古館に向かう途中であった。訪れた3月17日の時点では、つぼみは小さいく開花の気配はなかった・・・・。さすがに、暖冬といっても3月20日より前に咲くことは、なかなか無いようだ。(過去には咲いたこともあったかも知れないが。) 

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 街路樹の桜並木は、枯木でいまだ冬の装いであった・・・。

「ぐんまちゃん家」訪問3 レストラン「銀座つる」食事その2  群馬県アンテナショップ 

 2019年3月
  「ぐんまちゃん家」訪問3 レストラン「銀座つる」食事その2  群馬県アンテナショップ 

 銀座にある群馬県のアンテナショップ「ぐんまちゃん家」に移転リニューアルの後、初めて訪問した。
 同店の二階にあるレストラン「TSURU(つる)」」で初めて食事をした。

  ランチでもコースが基本である。一番安い「白根」にした。お値段は、2,000円。
 「榛名」は6,000円、「妙義」は3,000円のコースであるが、上州牛のお肉がついている。しかし「おきりこみ」は無い。コースの名は、群馬県の山から命名している。なお「赤城山」から命名した「赤城」コースが無いので、今後メニュー新設に期待したい。

 群馬の名物料理??といえば、「ほうとう」というか「おっ切り込み」である。が、単品では無いようだ。メニューでは「おきりこみ」と書いてあるので、ここ「TSURU」のほうとう料理は「おきりこみ」で表記する。
 私は「おきりこみ」が食べたかったので、必然的に「おきりこみ」がメインの「白根」のコースにしたょ。決して、安いからでは無い・・・・(言い訳)。
 榛名よりも白根の方が高い山だしね!!。妙義はギサギザしたピークなので、標高が掴みにくいし・・・だから「白根」にした。(またまた言い訳)。
 
 ランチでもコースが基本であるが、お値段はさておき、子供はお腹がすいていないというので、単品を探す・・・が、上記の通り「おきりこみ」が単品で無いし、単品として、適当なメニューはあまり無い。もう一冊メニューはありが、ドリンクメニューなので、注文せず。
 子供は迷っていた。黒服を来たお店の女性係員は、注文を取りにきてくれたのだが、時間をモテ余しているようだった・・・。せかして選ばせるが決まらないので、子供はビーフシチューにした。
 レストラン「銀座つる」は「高級路線」であるので、単品では「おきりこみ」はメニューに採用しないであろう。もし単品であると、かなりの客がおきりこみを注文するのではないか?。すると、客単価は下がってしまうし・・・。


 ↓ 白根コースのメイン料理「おきりこみ」の拡大!!!。
  この太い麺<フトメン>がいいのですよね~。
 

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 それでは、順番に食べていこう。
 コース料理の最初の一品、前菜「なすのあえもの」と「トマトのソース添え」。

 群馬産野菜を使用しているということだった。
 ↓ 水のコップのコースターにも群馬県の形の「つる」のマークが入っている。
   お箸の包み紙には「銀座つる」と正式店名が入っている。

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 群馬産ニジマスの寿司、二貫あった。シャリは勿論酢飯である。笹で包んである。あっという間にボクのお口に入った
 箸置き、お盆とも趣がある。

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すぐに食べてしまった。お盆はカラの状態。
ガラス窓からは、外の通りを見下ろすことが出来る。
隣のビルも見える。

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↓ 食べる前の「おきりこみ」だ。
「しいたけ、こぼう、人参、大根など群馬の野菜を使用で、群馬産の麦豚(むぎぶた)入りであった。
トッピングとして、テーブルに備え付けの黒い山椒の粉を入れた。

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 おきりこみのつゆの味は、しょうゆベース。熱い!!、よく煮こんでいる。幅広の麺を「フハフハ」しながら食べた。この食感がたまらない~。麦豚の肉は小さく切っているので画像では判別しにくい。

 子供が食べた単品のビーフシチュー(画像無し)は、よくお肉を煮込んでいたし、肉も大きかった。お腹すいていないと言っていたのだが、あっという間に完食してしまったよ・・・。

 店内の真ん中に陣取った群馬県の同窓会の食事会は盛り上がっているようだ。にぎやかな声が響き渡る。群馬弁でしゃべっている。一般客の二人連れの女性の人がその一団の人に話しかけていた。「どちらの同窓会ですか?。」などと聞いていたようだった。

↓ ビルの前の看板と通りの様子。
  
コースメニューにもあるが、上州牛のしゃぶしゃぶの写真が掲示されている。
なお「TSURU」ではなく「銀座つる」が正式名称だ。

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「ぐんまちゃん家」訪問2 レストラン「銀座つる」食事その1 群馬県アンテナショップ 

 2019年3月
  「ぐんまちゃん家」訪問2 レストラン「銀座つる」食事その1  群馬県アンテナショップ 

 銀座にやって来た。
 群馬県のアンテナショップ「ぐんまちゃん家」に移転リニューアルの後、初めて訪問した。
  ちょうど、お昼どき、ライチタイムである。同店の二階にあるレストラン「銀座つる」で初めて食事をする。
 既述の通り、歌舞伎座の真ん前にあった移転前の店舗では、レストランは無かった。軽食コーナーはあったかも知れないが、私の記憶の限りでは無かったと思う。
 

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 マスコットキャラクター「ぐんまちゃん」の着ぐるみが、やってきて、お店か県??の広報担当らしき人が付きそって、手を振ったり、パフォーマンスをしているのを横目に、レストランへの階段を昇る。
 「ぐんまちゃん」は、店の外に登場していいて、パフォーマンスをしているのだが、私達は横目に階段を昇ったのだった。レストランへの階段はコンクリート打ちっぱなしのような通路だ。

 レストランの名前は「つる」。群馬県の形が、鶴のように見えることが由来である。群馬は私のルーツのひとつなので、どんなに都道府県イメージランキングで群馬県が47都道府県中、40番台でも俺の中では、「つる」の形の群馬県は常識だ。「ぐんまちゃん」の姉妹キャラで「鶴ちゃん」をつくってもいいくらいだぞ!!
 群馬の料理といえば、「ほうとう」というか、「おっ切り込み」である。が、ここ「つる」では単品のおっ切り込みは無いようだ。
 事前にメニューは、ウェブサイトで確認済みだった。ランチでも「コース」が基本である。お値段は、銀座のランチとしては、平均的なお値段。(つまり、オレのような一般消費者にはお高めだ。)
 
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 「銀座つる」は高級店のようである。先の記事でも書いたが、移転を機にお店も高級路線となった感じ。
 コースの「榛名」は6,000円、「妙義」は3,000円、「白根」は2,000円。
  いずれも群馬県の山の名前から取ったコース名であるが、何故「榛名」が一番高いのかは不明。草津温泉に近く、標高も高い白根山からの命名と思われる「白根」が一番お安いコースである。
 
 二階の店の入口には、群馬県の形のレリーフがある。。「TSURU」と書いてある。「TSURU(つる)」の店名の由来となった通り、鶴の形をしているし、鶴のマークも表示されている。くちばしの部分に相当する地域が東で、栃木や茨城県に隣接している。


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 竹細工を内容に利用したような内装。落ち着いた雰囲気だ。

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 店内にあった半個室。

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 店内には、既に予約客がいた。20人以上はいるのではないか?。群馬県の同窓会であった。皆、群馬の学校に通っていた人達の団体のようだ。店内の中央部にある、大テーブルなどいくつかのテーブルの席を占めていたる。
 一般客は、壁際のテーブルに数組いた。団体客のにぎやかな話し声が、店内に響いていた。3人で入店したが、テーブル席が無いので、窓側に面したカウンター席に案内された。4人席のカウンターであるが、既に70歳台とおぼしき女性が食事をしていた。一人でもここにやって来て、食事をするということは、群馬出身か群馬県に深いゆかりのある女性ではないか?、などと考えながら私は着席した。
 案内してくれたのは、黒いジャケットと白いブラウス、黒いパンツを着用した若い女性であった。他の女性係員も同様の服装。男性係員は黒いスーツの上下である。「TSURU」は高級店らしく店の係員の服装もフォーマルである。 皆さん、団体客の給仕で忙しいそうだった。

↓ ビルの前の看板と通りの様子。
  「TSURU(つる)」のランチタイムは、午前11時半からとある。
ディナータイムは、18時から。特にディナーは、基本的にコースメニューであり、お値段もそれなりにする。
  看板に小さい書いてあるが正式には「銀座つる」であり、「TSURU」ではない。

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「ぐんまちゃん家」訪問1 移転リニューアル後、初訪問 群馬県アンテナショップ

 2019年3月 「ぐんまちゃん家」訪問1 移転リニューアル後、初訪問 群馬県アンテナショップ 

 春めいてきた。今年の冬は暖冬だったな。冬は終わり、春が始まろうとしている。しかし、桜の開花はまだである。そんなある日のこと、銀座にやって来た。
 群馬県のアンテナショップ「ぐんまちゃん家」に移転リニューアルの後、初めて訪問した。
 その後、同店の二階にあるレストラン「つる」で初めて食事をした。

 以前は、東銀座の歌舞伎座と道路を挟んで真ん前の角地にあった。いつぞやの年の正月だったか、秋だったかに訪問したことはあった。日比谷線の地下鉄駅からは近いので、築地、銀座の一等地であった。しかし、飲食店は無かった。2階にはイベントスペースがあったが、私が行ったときは何も開催していなくて、空きスペースとなっていた。
 その後、昨年の7月に数ブロック、銀座通りの方向にある現在地に移転してリニューアルした。しかし、なかなか、ここ群馬県が総力を挙げてプロデュースしたアンテナショップ 「 ぐんまちゃん家 」に来ることが出来なかった。
 場所は移転前のように銀座に近い大通りの角地ではない。新規オープンしている「銀座シックス」の一本通りを挟んで、すぐ近くである。この日は、日曜日とあって人の往来は少ない。銀座通りのすぐ裏手とはいえ、道幅が狭い通りに入口が面した立地だからかな。
 
 群馬といえば、「ほうとう」というか、「おっ切り込み」である。群馬は関東平野の北端部、利根川の恩恵があるにもかかわらず、米どころとしては、有名ではない。
 が小麦の産地としては有名かも。国産小麦は、全国の消費量から比べるとごくわずかの生産なのだろうが、群馬県の平野部を通ると6月頃には「麦秋」の風景を見ることも出来るのだ。
 よって名物なので、店内にもあるかなと探したがありました。何種類か、乾麺の「おっ切り込み」も販売している。同じく小麦を原料するうどん「水沢うどん」販売していた。
 移転前よりも「高級感」を出した品ぞろえである。以前の色々な商品を販売しているのではなく、ある程度品種を絞り込んで、値段のゾーンも上がり、「銀座にふさわしい」店づくりをしているのが判る。棚に並んでいる在庫の量も少ない。
 オレは、雑多の感じの店内、商品の方がいいかな・・・。オレには本来の「銀座」はふさわしくない、来る所ではないのかも・・・・

 一階、西側(銀座通りに近い方向)の入口近くには「カウンター」があった。夜はバー??になるのかな?。昼の子の時間帯は閉まっていて、無人であった。カウンターの近くの冷蔵ケースにはアルコール類は、日本酒などもある。と、一階のカウンター前に「ぐんまちゃん」がやってきた。お店か、県??の広報担当らしき人も同行しており、お付きの人々を従えての登場である。
 人どおりは少ないが、通りに出て、パフォーマンスを開始した。

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  ↓ ビルの南東側(銀座通りと反対側)入り口。看板がかわいい。「ぐんまちゃん、カワイー!!。」



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↓ ビルの前の看板と通りの様子。
  写真の奥、左手に新規オープンした銀座シックスがあるのだが、写っていない・・・・。

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2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞4(最終) 

 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞4(最終)

 筑前派の国宝の刀剣などを見た。
 長方形の室内の中ほど、平ガラスケース内に展示品がある。刀剣の解説文書の展示がある。京都でも同様の古文書が展示されていた。刀絵図 元和元年の奥が木があるもの。 個人蔵 の展示があった。国の文化財指定は重要美術品。京都でも展示があったかな!?。
 秀吉の所蔵の刀剣「太閤御物」の押形集であり、730と多くの刀剣の図が記載されているという。これは、現物を徳川の世の元和元年に埋忠壽齋なる人物の手により写したものという。ここに記載されている刀剣のうち、17点が国宝に指定されているそうだ。
 「太閤御物 たいこうぎょぶつ」とは、まるで天皇のコレクションのような呼び名だ。ホントに太閤から伝わったから「太閤 左文字」の意味が分かった。
 秀吉は信長の家臣時代、「羽柴筑前守」と呼ばれていた筈。秀吉が最初に城主となって、ついに大名クラスに出世し貰った官位が「筑前守」。筑前には想い入れがあったと思う。のちに、自分の筑前守の官位は親友の前田利家に譲ったと記憶しているので、筑前派の刀剣は好んで自分のコレクションに加えたのであろうか?。
 説明によると現在、展示してある 国宝 短刀 筑前 左文字と刃文の特徴の構成が一致している。「筑州住 左」の書き込みもあり、書き込みされている長さも「7寸7分・・・」と一致しているそうだ。
 墨書されていて、刀身や刃文が見事に筆写されている。確かに寸法も明記されている。ホントに現物を見て、記録したものである。(今見ている展示品は更にその写し)
 昔の刀剣のカタログといったところだろう。

 そろそろ、退出することにする。
 実は展示室内には、座るところは少ない・・・・・・。丸くて大きい、かわしいい感じのソファが3個くらいある。展示室内のそのソファはずっと座っている人がいて、(腰が痛くても)座ることは出来なかった・・・。ひとつのソファに、女三人が、ずっーと座ってで話をしていた・・・・。私が展示室内にいる間もずうっと丸いソファを占拠していた・・・・。

 三人のうち二人はかなり太っている。年は40くらいかな。太っていると実年齢よりも上に見えるので、実際はもっと若くて30歳台と思う。三人のうちもう一人も、見た感じ同じくらいの歳のお方。体は大きいが、下半身は細い。話していて、笑うと目じりにシワが出来る。目がぱっちりとしている美人だが、上体は太っているので実年齢は上に見えるので三人のうち一番年は上だろう。ゲームのオフ会のようで、色々と、ずっ-とおしゃべりしている。時折笑ったりして、決して大きい声ではないのだが、結構気になる・・・・。特に係員は注意しない。人が出入りしているので室内はザワついているかんじ。
 展示室を出るときに、目視で来館者を数えると室内に40人くらいいて、うち男は10人くらい。小学生の女の子も二人くらいいた。家族できているか。中学生くらいのメガネをかけた女の子も1人いたかな。
 白髪の年配の女性も熱心に展示を見ていたが、1人~2人くらいしかその年代の女性はいなかった。変わらずゲームを契機とする「刀剣女子」が多いようだ。来館の刀剣女子のメガネ率はとても高い。もしかしたら、60%以上ではないか?。もっとも男子よりも、女子の方が近視率は一般的に高いし、メガネをかけた方が見やすいからね。黒髪率も高い。(だから何だという感じだが。)西洋画の展覧会とは客層が違うような気がする。(以前も書いたが。) 外国人の入館者もいた。ドイツ人のようなブロンド色の髪の背の高い女性もいた。

 最後に入口付近のガラスケース内にあった 国宝「江雪左文字」を もう一度見る。
 この作品のみ撮影が可能。
 ガラスケースの前の人が少なくなっていたので、この時点で撮影した。先程は混雑していたが、私が退出直前、この国宝の刀剣の前には、入館したばかりの20歳くらいの女の子2人がいたのみだった。彼女たちを避けて撮影したのが投稿した画像。2人のうち1人は赤いチェック模様のシャツとジーンズ、小柄、153cmくらいで茶髪のセミロング。刀剣女子は黒髪の子の地味目の服装のが多いと認識していたが、珍しく少し派手な外見である。

 館内には、撮影禁止の注意事項は何も書いてない。受付のところに係員の男性2人がいる。以前と同じく巡回し基本的にしない。監視カメラはあるようだが。一回だけ室内を巡回して、落ちとているチラシなどを拾ったが、あまり 室内の巡回と監視はしていない。
 よって「撮影禁止」と展示室の入口には書いてあるのにもかかわらず、「撮影禁止」が徹底されず、長方形の展示室内では撮影をしている人もいたのは残念だった。

  ↓ 

  (再掲載) 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字) 。小松コレクション(ふくやま美術館寄託) 
 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)の拵 ↓ 黒漆研出鮫打・・・と解説にある。
 
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 (再掲載) 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字) ↓ 
 

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  ↓ 階段でロビーにくだる。 三階を見上げる。
 室外にイスはあるが、出てしまうと受付を再度通る必要があるので、鑑賞の途中で、室外に出て休憩できるのかが、解からない・・・。よって、腰が痛くともずっと鑑賞していた。あー、座りたかった・・・(けどソファに空きが無かった・・・。)。

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 1階に戻る。

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 ロビーにあった旧両国公会堂の写真パネル。

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 昨年の展示でも同様に感じたが、インターネット通信を媒介とするゲームでのブームには、何か危うさを感じた。新規のファン層が広がることは、文化財の保護、古文化の振興にとっては、大変望ましいことだが。
 オンラインゲームというどこで誰とつながるかわからない世界・・・。刀剣のゲームにはまっているのは、まじめそうな、一途な女の子が多い。
 「ファミコン世代」のボクとしては、明らかに昨今のゲームプレイ層は私達の頃とは違うと感じる。ここでの展示の見学者達を見てもまじめそうな、一途な女の子が多いのは明らかだ。(別に悪いといっているのではない。)しかし、文化財が展示されている室内で、他の来館者は全くスルーして、ひたすらおしゃべりを続けるいい歳の女性達もいる・・・・。
 オフ会や、オフラインでの個別のコンタクトなど、インターネットを媒介とする通信ゲームでの匿名性の高い仮想世界での最初の繋がり(ファーストコンタクト オブ ヴァーチャル ワールド)に起因して、実際に会ったことによる何らかのトラブル(real metを契機とするリアル トラブル= 何れも私の造語)が現実(マジ)世界で起きはしないかと懸念をしてしまうのは、私だけだろうか。

2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞3 

 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞3 

 今年最初の都心部の博物館関係へのお出かけだ。
 刀剣博物館は二回目の訪問である。

 
 展示はリスト通りの順番に並んでいるので、わかりやすい。

 企画展「筑前左文字の名刀」のチラシ拡大 ↓

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 重要文化財 短刀 「銘 安吉」(やすよし)(名物 日置安吉) この短刀は岡山藩の家臣 日置家のものという。日置(ヘキ)家は備前岡山藩主 池田家の重臣で万石以上の禄高の筈。よって大名クラスである。確かに岡山には日置(ひおき、へき)という地名があったな。
 元々は、日置家の所有で、のちに金沢の前田利常の所有となった。代々前田家に伝わった。重臣 日置氏は他大名家から主家池田家のある刀を「譲ってくれ・・・・・」と言われても同意しなかったという。
 この「名物 日置安吉」は「備前の長船の(名刀工)兼光をほうふつとさせる」作品と言う解説がある。
 のち、明治時代の鑑定家 今村長賀の手に渡り?、鑑定して、岩崎(弥之助)家に所有されたという。現在は岩崎弥之助の文化財を保有する静嘉堂文庫美術館の所蔵。
 チラシにも写真掲載があるが、根本から投信の真ん中は、小乱れというか、波をうつ刃文。そして、刃先の刃文が太くなっている。どこか、どっしりとしている刃文と感じた。

 平ガラスケースに、同じく重要文化財 「左安吉」(さのやすよし)の短刀の展示があった。日置安吉の作者と同一人物かは不明。所蔵は「犬山白帝文庫」とある。つまり、犬山城主であった尾張附家老の成瀬家伝来の刀剣の展示である。
 刃文は忘れたが、刀身に不動明王の持っている刀の刻みがある。
 
 向かって、左手の長辺のガラスケース内(順路でいうと、第三コーナーの長い展示ガラスケースというのだろうか?。)に「国宝 短刀 銘 筑州住行弘」土浦市立博物館所蔵があった。
 茎のなかほどに「筑州住行弘」と刻まれている。行弘は左文字の高弟にあたる1人という。作品に太刀は少なく、ほとんどが短刀だそうだ。
 年号は展示では見えないウラにあるそうだ。観応元年なので、南北朝の時代である。「年号、1350年の年紀が刻まれているのは貴重」という解説文。
 一昨年のふくやま美術館で「見た気分」になっていたが、展示期間の関係で見ていない。私が福山で見たのは、太閤秀吉ではなく、家康など徳川家由来の国宝刀剣群だったようだ・・・・。
 先は、やや湾曲している刃文だ。「色が明るい」とも書いてある。確かに刃文の色が明るい、ライトシルバーといった感じ。「・・・左文字の大成後の刃文の柄・・・」という。「内反り」といって、反っていない。背が刃の方向にやや丸まって曲がっている。
 「土浦藩土屋家旧蔵」と由来が書いてある。よって、現在は土浦市立博物館の所蔵。
 しかし、解説文には「中世以降、筑前派は姿を消した・・・」と書いてあった。
 よって現在の五箇伝にも筑前は入っていない・・・・・。筑前の作刀技術は継承されなかったようだ。その後の筑前など九州の刀工についての展示解説があったのかは忘れた・・・。

 企画展「筑前左文字の名刀」のチラシ拡大 ↓


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 値段が書いてあるという刀剣の展示があった。 「太刀 銘 吉弘」 東建コーポレーション所有
 文化財指定は無いが、ここ刀剣博物館の指定であろうか特別重要刀剣と展示リストには書いてある。
 本阿弥光忠の「折紙」によると「金子 参拾五枚・・・」と書いてあるそうだ??。小判で35両でろあうか。
 (記憶違いかもしれない。拝領品の附け書きに値段は書かないと思うし、別の作品だったかな。)

 岡山藩の池田継政に、徳川吉宗から授けられたと書いてあった。片諱を受けたのは、一代前の家継からであるが、実際に当主になったきとは、吉宗の時代だった。だから、吉宗から拝領したのであろう。
 隣に「短刀 銘 吉貞」 東建コーポレーション所有も展示がある。水戸徳川家から伝来と書いてある。
  
 あとは、ざっと見たが、平ガラスケースに、先日に行った松山の松平家伝来の刀剣の展示があった。「久松家伝来」と説明には書いてある。
 「短刀 銘 国弘作」 27cm 反り0.5cm ほぼ、反りが無い短刀。東雲神社所有。
 茎の下に「国弘作」と銘が刻んである。茎は、すりあげ(用語を覚えてきたぞ)しているのか、短い。つまり、もつ所が短い。刃文は細い、ほぼ真っ直ぐだ。すうっとしている、刃文。刀身にはキズのような文字が刻んであった「併」のような「丼」のような文字。梵字だろうか。不明だ。

 




 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞2 

 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞2 

 今年最初の都心部の博物館関係へのお出かけだ。
 刀剣博物館に向かった。二回目の訪問である。


 国宝 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字) 小松コレクション(ふくやま美術館寄託)を見た後、展示室内の広いに場所に出る。長方形の室内を見回すと、前回に比べると人は少ないかな・・・。やや「ほっ」としたかんじになった。前回は混雑していたし、撮影ができる刀剣が多かっので展示ケース前で人が滞留して難渋したし。

  ↓ 刀剣博物館入口 2019年1月撮影。 


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  順路最初の展示品は「短刀 銘 良西」。展示リストの番号は1番である。良西は、「筑前派の祖」と作品解説文にある。だから、最初に展示されているのだと理解した。
 短刀といっても、他の短刀と比べても小さい。長さは22cmであるが、こぶりな小さい刀だ。

 3番目の展示に 短刀 銘 国吉 国の重要文化財指定。(筑前、つまり現在の福岡県の福岡市博物館所蔵であった。) 銘 国吉の短刀は、同じ短刀でも 銘 良西よりもおおきい。
  国吉は、1番目の展示の良西の子という。しかも、西蓮(サイレン?)という法名を持つという。国吉が出家した後の法名が西蓮というのだ。
 重要文化財指定の太刀も展示がある。銘は「筑前国博多談義所 国吉法師西蓮」と刻まれている。厳島神社所蔵。 この太刀は、広島藩の家臣 岡田家に伝来したものという。いつの時代か忘れたが、広島 浅野家領内のの代表的な神社 厳島神社に寄進されたものだろう。解説の文章には「匂・・がややうるんだ刃文・・・」と書いてあるが、難しくて理解出来ない。刀身の真ん中や先端付近には、湾曲した刃文がある。「湾」のたれととうのか、私は小乱と思ったが、違うようだ。「博多談義所」という場所があり、そこの出家した法師 西蓮、出家前は 国吉 の作という意味の銘だろうか。まさに「筑前 博多」の刀工であることがわかる。当時の博多は、商業都市で、権力をもった領主の直接統治ではなく、一種の自治都市、自由都市のような存在ではなかったか。
 他にも西蓮の銘の作品が展示されていた。

 続いて順番に見ていく。
 重要文化財指定 太刀展示 銘「元弘三年六月一日 実阿作」 熱田神宮 所蔵。日付まで入っている太刀という。網直刃というのか、刃文はまっすぐである。鎌倉時代の元寇があったころの作であろうか。刀身の部分にも銘があり、刀身切付銘というらしいが、「文禄×年×月・・・・松下小一郎守勝 奉寄進熱田大神宮・・・・」とある。後世、秀吉の時代に松下氏が熱田神宮に寄進した由来が刻銘されているようだ。
 名前が松下小一郎なのでかつての秀吉が青年期に仕えた、松下家の人かな。秀吉の出身地に近い、熱田神宮に寄進したのだろうか。「実阿」も出家した僧、時代が近い、快慶のような仏師のような名前であるが、西蓮の子という。

 展示はリスト通りの順番に並んでいるので、わかりやすい。
 国宝 短刀 銘 左/筑州住(号  太閤左文字) 小松コレクション(ふくやま美術館寄託)があった。
 京都国立博物館の展示リストを復習すると、2か月前に京都国立博物館の特別展「京のかたな」で見ているのだが、すっかり忘れている
 一昨年のふくやま美術館で「見た気分」になっていたが、展示期間の関係で見ていない。私が福山で見たのは、太閤秀吉ではなく、家康など徳川家由来の国宝刀剣群だったようだ・・・・。
 解説には「・・・互いの のたれ? の目を交えて・・・・」とあったようなー・・・・。私が実見するところやや湾曲している刃文だ。「浜松藩の井上家に昭和時代の初めまで伝来していた・・・・・」と由来も書いてある。その後、実業家が恐らくは購入し、このときか、更にのちの時代に同じく実業家の小松コレクションの一部となったのだろう。
 茎(なかご)の下に「左」と一文字のみ、銘が判読できる。
 拵も横に展示されている。国宝の「附(つけたり)」指定になっている。唐草文様のある、さやであるが、金色の三つ葉葵の文様がある。金箔をまぶして制作しているのだろろう。浜松藩 井上家は老中も務めている譜代の家柄。徳川吉宗などの時代にも老中を務めている当主もいたはず。よって、老中の井上氏の功労のねぎらいに徳川将軍から拝領したものではないか?。 

企画展「筑前左文字の名刀」のチラシ拡大 ↓

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 ↓ (再度掲載) 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)
 

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2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞1 

 2019年1月 刀剣博物館 企画展「筑前左文字の名刀」 鑑賞1 

 今年最初の都心部の博物館関係へのお出かけだ。
 
 ※ まずは、神社で初もうで。国宝の刀剣の展示も見た。国宝の刀剣は季節ごとに定期公開されるようなので、記事は後日とする。
 「ももてなし家」での食事の後、刀剣博物館に向かった。二回目の訪問である。

 電車にて両国駅へ。駅を降りる。国技館の前を通過する。既に初場所が始まっているためか、付近は混雑している。人が歩道にあふれている。力士たちは館の敷地内に入ってから、送りの車で降りるのではなく、車道、歩道の脇に車を停めて敷地内に入るようなのだ、それを待ち構えているらしいのだ・・・・・・。
 事情がわからない私は人ごみを避けながら、歩道を歩いて博物館の方向へ。首都高の高架に沿って歩く。人ごみを抜けるとホッとした。と目の前に旧安田庭園の入り口があらわれる。今回は、園内は通らずに園の横の塀沿いに博物館へ歩道を歩いて向かった。
 旧安田庭園に来るのは、すっかりおなじみすみ(済み)だ!!??。ええーとここは「すみだ」く(墨田区)・・・。

 

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 刀剣博物館のコンクリート打ちっ放なしの真新しい建物の内部に入る。

 ↓ 刀剣博物館入口 2019年1月撮影。 12月に撮影した画像と区別はつかないが・・・。

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 1階のロビー、先日も来たが受付のハイテーブルで入館料金の1,200円を支払う。
 最初は「千円札1枚なので、ちょうど支払いやすいなあ。」と千円札1枚を用意していたのだか、今回は「1,200円」と言われた。ボクは、慌てることなどはせず、冷静に200円の小銭を取り出して支払ったのであった
 今回は企画展「筑前左文字の名刀」なので所蔵品以外の他の館所蔵の貸し出し品の展示も多数あるから、前回の1000円ちょうどではなく、観覧料金が違うようだ。

 ロビーやその先の休憩スペース、受付そばの売店には、刀剣女子の若い女の子達がいる。しかし、前回、昨年末の訪問時ほど混雑はしていない。今回も「展示室は3階です。」と言われ、係員に指示された通りにエレベータで3Fにいく。

 今回の企画展は「撮影禁止」との表示がある。展示の室内に入る。展示室入口のカウンターで再び入館券を見せて、半券は回収される。ここには、前回と同様初老の男性係員2名がいて、半券をちぎって回収している。昔からの刀剣博物館の職員といった感じ。カウンターの上には「日本刀鑑賞の手引」である「日本刀の基礎知識」の新しいパンフレットが置いてあった。上質紙のカラー印刷である。係員から「どうぞ」と言われたので、頂いた。
 入室する。と、受付の廊下の先の正面、展示室第一のガラスケースには、国宝の刀剣の展示があった。
 
 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)であった。小松コレクション(ふくやま美術館寄託)であった。
 他の美術館保管の作品であるにもかかわらず、この展示だけは撮影可能であった。一昨年(2017年)の秋にふくやま美術館を訪れたが、太刀 銘 筑州住 左 (江雪左文字)は展示していなかったとおもう。
 刀剣は名称似ているし、区別がつきにくいので、どれを見たか見なかったのか、判別が難しい。反対に「あれっ、これ見たぞ。」と誤解してしまうことも・・・・。
 皆、かたまって撮影をしているので、入り込むスキがない。
 その拵(こしらえ)が横に展示してあった。

 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)の拵 ↓ 黒漆研出鮫打・・・と解説にある。
 黒い漆と鮫皮で・・・・という工芸手法であろうか。
 
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 太刀 銘 筑州住 左 (号  江雪左文字)
 刃紋の幅が太い。なかほどの下に一部波を打つような刃紋(刃文)があって、その先はスーっとほぼ真っ直ぐのような。受付にあった「日本刀の基礎知識」によると「湾れ(のたれ)」の刃文なのかな?。
 先端にキズがあったのが、見えた。画像には写っていないが、キズがあるのだ。(だから、何だというのか、オレは理解していないが・・・。)
 そもそも「刃紋」なのか「刃文」なのかも未だに理解していない・・・。

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 ↓ 太刀 銘 筑州住左 (号  江雪左文字)  茎の拡大。
  銘は一番下の部分、穴の下側に「左」とあるのが見える。あとは、判別できない。丸い穴がいくつもあいている。

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 国宝を見た後、展示室内の広いに場所に出る。長方形の室内を見回すと、前回に比べると人は少ない・・・。「ほっ」としたかんじになった。前回は混雑していたし、撮影ができる刀剣が多かっので難渋したし。



2018年12月 刀剣博物館 企画展「諸国漫遊-多彩なるお国拵と日本刀5ヶ伝を巡る旅」 鑑賞1 

 2018年12月 刀剣博物館 企画展「諸国漫遊-多彩なるお国拵と日本刀5ヶ伝を巡る旅」 鑑賞1 

 2018年、平成30年は12月に入った。恐らく、今年最後のお出かけかな。
 刀剣博物館に向かった。刀剣「美術館」ではない。初めての訪問である。以前は、代々木にあったが、東京は墨田川の東の両国に移転した。代々木時代は、明治神宮にも程近い、参宮橋が最寄駅であったようだ。「ポニー公園」などに子供を連れて来たこともあったが、実は刀剣博物館とも近かったらしい・・・・。
 
 今年(2018年)は、京都国立博物館での特別展「京のかたな」にも行った。もっと早くに刀剣に興味を持てばよかった・・・。遅すぎたよ「刀剣男子」としてのデビューが・・・。 

 電車にて両国駅へ。駅を降りる。国技館の前を通過して、博物館の方向へ。首都高の高架に沿って歩く。と目の前に旧安田庭園の入り口がある。無料であったので、園内を通って博物館に向こうことにした。
 旧安田庭園に来るのは、久しぶりだ。

 

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 この日の14:25頃、公園内を通過した後に博物館に入る。

 刀剣博物館の建物は、庭園のすぐ横にあった。かつて、同じ場所にあった旧両国公会堂のオレンジ色の外壁ではないが、丸い尾根の目立つ、コンクリート壁の建物。
 ただし、庭園から博物館には直接には入れない。一旦外に出る。しかし、庭園と博物館の敷地を結ぶ、新しい通路、通用門までできている。
 丸い屋根が特徴的な旧両国公会堂の建物を改修して建築したのかと思っていた・・。しかし、目の前の刀剣博物館の建物はコンクリート打ちっ放なしの真新しい建物・・・・。
 大改装は誤解であり、一旦解体して、新築したのだと理解した。

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 内部に入る。1階はロビーだけのようだ。真新しい建物。受付のハイテーブルと小さい売店、休憩コーナーがある。刀剣に関する紹介コーナーがある。
 受付で入館料金の1000円を支払う。千円札1枚なので、ちょうど支払いやすい。若い女の子が受付にいる。まさに刀剣女子を採用したのかと思う係員。もう一人の女性係員は30歳以上かな。いずれにせよ、刀剣女子世代だ。「展示室は3階です。」と言われる。
 売店は書籍の販売が中心だったような。 昔の図録 「〇〇集大成」というタイトルだったか忘れたが、値段は55000円くらいの書籍もあった。

 展示室は、1Fにはないようだ。係員に指示された通りにエレベータで3Fにいく。
 展示の室内に入る。ここで入館券を見せて、半券は回収される。ここには初老の男性係員がいて、半券をちぎって回収している。昔からの刀剣博物館の職員といった感じ。
 入室する。と、人が多い・・・・・・・。「えっ、こんなにいるの??」というかんじ。室内を見ると全部の展示品のガラスの前に人がいるくらいの入館者数・・・・。
 展示室は、3Fの1室のみであった。長方形をしている。
 展示室の中ほどの平展示ケースには、拵(こしらえ)や鍔などが展示されている。
 刀身のみは、撮影可能だった。しかし、刀身以外の刀装具などは撮影禁止。
 鍔は「金工」のジャンル。鍔の技術は、薩摩などでも発達したそうだ。庄内でも栄ええたそうだ。説明では「酒井氏が(庄内に)入部したから」刀装具などの金工技術が発達したということが書いてある。


 壁側のガラスケースを展示室の入口に近い方から、順番に見て行く。最初は「拵」こしらえの展示である。最初のガラスケースの展示コーナーの半分弱くらいのスペースを拵が占めている。これらの「こしらえ」などは撮影禁止だ。
 この夏に訪問した庄内の致道博物館所蔵の 拵 (こしらえ)が二点展示してあった。

 ↓ 刀剣博物館入口とロビーの様子。

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牛たん喜助 新メニュー 食事 2018年11月

 牛たん喜助 新メニュー 食事 2018年11月

 東京駅の八重洲口側にあるに牛たん喜助のお店に行ってきました。
 
 地下鉄を降り、地下道を歩き、長崎のアンテナ店の隣で地上にでて東京駅に歩いた。
 日本橋口から東京駅のキッチンストリートへ。そこから、喜助に行ったのだ。

 すると、店の前では人がたくさんいる。中国人の団体らしく、10名位はいる。どっと入って行ったが、その次に入店して、カウンターに座ることが出来た。
 左隣は先の団体の内の、中国人女性2名、右隣には、私のあとに並んでいた、30-40歳くらいの女が1人、座ってきた。エキナカ立地としいうこともあり、一人で食事をする女性も結構多い。

 外国人は、いろいろと話ながら、メニューをえらんでいる。時間もないので、彼らが選んでいる間に注文と思い、さっとメニューを見る。

 時々ここで食事はしているのだが、今回はスタンプがたまったので、クーポンとして使用できるのでやって来たのだったのだが、メニューにとまどった。「あれ、いつものが無い・・・・・・・」と。
 今までは「1人前か1.5人前か。」、「塩かたれ」かで選択していたのだが、「1人前、1.5人前。」の区別がメニューに書いて無い・・・・・・・・・・・・・・・。
 店員さんが注文を、取りにきたが、なかなか決まらない。んー、と考え込んで、戸惑った・・・。思わず「あれっ、メニューかわった?。」と声を出してしまった。すると店員さんは「はい、変わりました。」と。

 そのため(普段の外での食事の投稿はあまりしないのだが)、今回の投稿と相なった次第。 

 「3 、4枚、6枚」などのメニューになっている。今年の夏に仙台に行ったときの店の表示方法でな、と思った。実際の肉の数は、切れの枚数の倍となる。先代の「牛たん 善治郎」みたいな枚数表示メニューだ。以前の1人前に値段の金額が近い、2000円(消費税コミ)くらいの、4枚メニューを頼む。
 
 ↓ 10月に行ったときの「ゆでたん」。このときは、ビールも飲んだ
   新メニューの画像は無い。

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 「塩かたれ」の区別は、「たれ」にした。夏に行った仙台の店では、塩やたれの味の区別かないことに気づいたものだ。 それとも、言わないといけなかった?。

 スタンプが一杯になっていたので、会計は500円くらいの追加の支払いで済んだ

↓ 10月に行ったときの「旧」メニュー。ビールも飲んだ
   新メニューの画像は無い。
  麦めしは、大盛り。こうして、画像を見ると、量が多いな・・・。糖質を摂りすぎかも・・・。
  みそ南蛮をお替りできるので、それをおかずに、ごはんも結構な量を食べてれてしまうのだ。

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 東京駅の地下商店街 「キャラクターストリート」も10周年であった。

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学習院大学史料館展示室 「学び舎の乃木希典」 見学4(最終)及び乃木希典関連建物 見学

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学4(最終)
 及び乃木希典関連建物 見学

  目白にある学習院大学史料館を見学した。

 小さい展示室であったが、30分弱見ていた。見学者は、途切れることなくやって来ていた。私が入室した時点では、やや太った40歳~50歳台くらいの女性が先に見ていた。そのうち、次いで、フード付のコートを着た小柄な50歳くらいの男性が入ってきた、。男性は、すぐに出て行き、私よりも先に入室していた女性もやがて出て行った。次に、テニスウェアらしき恰好の男子学生。茶髪の兄ちゃんである。ここの学生?でテニスサークル所属?らしい。練習のついでに寄ったらしい??。男子学生は、熱心に見て、アンケートも書いていた。

 私は「オリジナル乃木ハガキ」は入手しなくてもいいや、と思ったのでアンケートは書かずに退出した。

  学習院大学史料館展示室の平成30年度秋季特別展は「学び舎の乃木希典」のタイトル通り、現役軍人ではあったが、日露戦争の後の時期の「学習院院長としての乃木」に関する展示が中心であった。
 明治天皇の大喪という国家の非常時に、学院の最高責任者である院長が突然、自決して死亡し、職務を遂行できなくなってしまったことは、当時の学習院にとっても世間への影響以上に大事件であったろう。 

 学習院の敷地内には、乃木の起居した建物が保存されていた。
 案内看板も設置されていた。


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 乃木は院長時代、「総寮部」に起居したそう。展示でも説明があった。
 現在の乃木神社に隣接している乃木邸が、あくまで当時の自宅であったが、帰ることは月に1-2回、おおくても数回程度??だったようだ。
 共に殉死した静子夫人は、普段は学習院ではなく、赤坂(麻布かな)の自宅にて生活していたのであろう。
 
 旧総寮部は乃木館として保存されている。2009年に登録有形文化財に指定。
 説明には、乃木が院長になった後、学習院に全寮制を導入した、とあるので、寮(寮部)のすべてを統括するという意味で「総寮部」と名付けたのかな?。「寮本部」というべき場所かな。
 生徒にとっては、寮で寝るときも、常にほぼ四六時中、院長が一緒にいたことになる。  

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 実は、最初に展示室を見学に行ったときは、展示室が休みであった・・・・。開館日を勘違いしていた・・・・。
 よって 後日出直しした。
 閉室していて、悔しいので、乃木関連の建物だけ、先に見学をしたのだった・・・・。

 ↓ キャンパスの様子。最初に行ったときなので、季節は秋なのに緑が濃い・・・・。


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学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学3

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学3

  目白にある学習院大学史料館を見学した。展示は三つの章に分かれていた。
 「一章」教育者となった乃木希典
 「二章」武課教育と修身教育の充実
であった。限られたスペースの室内なので、実は展示の順番通りに見ていない。
あとで展示リスト見ると「乃木大将などの軍服」は「二章」であるが、先に見てしまった・・・。

 「三章」は終章であり、殉死についての展示である。

 遺書の展示がある。
 遺書には、9月12日の0時とある。自決は、翌日9月13日の20時過ぎなので、前々日の深夜か。「12日」というよりは、11日の夜に書いたものであろう。
 文章中に「明治10年2月22日に、軍旗を失ひ・・・・・死・・・得・・・・」と書いてあるのが読める。「明治10年の役」とは書いていないようだ。
 乃木神社の遺書「遺言条々」よりも、見にくい字だ。文章中「皇恩」と読める一段上げる文字は一か所だけある。「本来はもっと先に死に場所を得るべきだったが・・・、皇恩に浴したので・・・・・今まで得ることができなかった・・・・・」という文章であろうか。
 ただし、乃木神社の遺言と内容は似ている。有名な、死亡当日、自宅前で撮影している乃木の写真は、コンノート公への贈呈のためだったそうだ。また展示の遺書には「・・・・養子の弊害・・・・・」と読めると箇所がある。絶家にしてほしい旨、寺内に依頼いているのであろう。遺言の文章に見る限りでは戦死した乃木の二人の息子を示す「両典」の文字はない。
 宛名は、寺内盟兄と末尾にある。当時の長州閥の同僚、寺内正毅に宛てたもの。封筒も展示されていて、それには「寺内陸軍大将殿 親展」と書いてある。
 
 ↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 遺書は、自分が接伴員、随行員を務めていた、コンノート公へのものもあったようだ。
 先のイギリスの国王戴冠式の際にイギリスに同行した、坂本海軍中将への遺書も展示している。「坂本 中将閣下」と宛名には書いてある。
 「・・・・コンノート殿下・・・ マクドナルド大使閣下?・・・」なとが読める。恐らく、コンノート殿下に対して申し訳ありません、接伴員の務めを果たすことが出来なくて、マグトナルド大使にもお詫びを・・・・」という内容であろう。マグトナルド大使は当時の日本駐在イギリス大使の名前らしい。
 長州閥のボス、乃木を引き立てた最大の人物、山縣有朋関連の展示はなかった。
 
 室内の柱には、乃木の殉死を批判した志賀直哉の文章が掲示してある。「・・・・・死んだそうだ・・・・・。」という、冷ややかな書き方。以前、志賀直哉の著作で見たことがあるかな・・・・?。その10年くらい前まで、学習院に在籍していたから、乃木には直接教えられた事はないはず。
 当時の新聞記事のコピーも展示してあった。展示の説明にもよると「森鴎外や夏目漱石の作品にも影響を与えた。」とあり、乃木の殉死に影響を受けた著書、著作の名前がいくつも書いてある。
 当時、乃木の死にあたって、森の軍医としての役割はないようだ。殉死した当時の陸軍省医務局長は森 林太郎であったが、最高階級にある現役軍人の急な死亡においても、森が直接検視をしたのではない模様。森に宛てた遺書はないらしい?。戸山の軍医学校か衛戍病院で軍医が現在の司法解剖のような解剖、検視は実施したのであろうか?。

 乃木夫妻の葬儀の写真も展示している。コンノート公も参列したとある。明治天皇の大喪に英国を代表して参列したが、まさか自分の接伴員であった乃木の葬儀にも参列することになると思わなかったであろう。
 遺書を展示しているケースの反対側のガラスケース内には、ラベルのはったワインの空き瓶がある。明治天皇から下賜されたワインで、最期の杯を乃木が静子と交わしたワインのビンとの箱書きがある。
 箱書きは、ずっとあとの時代の昭和11年5月の日付。空びんである。箱に墨書している。箱書きしたのは「海軍少将 御堀××」とある。なぜ、昭和11年に至って箱書きをしたかは、不明。 

↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。
 ワインのビンとの箱書きの展示ケースの横に乃木の胸像も展示されていた。

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 退出した後、展示室棟の目の前には、当時の図書館の一部が残っている。現在は、図書館でなく、史料館の保管室?として使用しているらしい。
 少しだけ、移築移動し、明治時代の当時とは場所がやや違うようだ。
 広場、通路をはさんで、反対側には当時、明治天皇を迎えた本館があった。


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 ↓ 当時の本館の跡地の方向。明治天皇をお迎えした便殿があった。
  その跡地を示すものは無いようだ。
  現在は、グラウンドになっていた。全面ラバーの運動場でクラブ活動の練習をしていて、学生達の声が響いていた。

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学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学2

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学2

  目白にある学習院大学史料館を見学した。
 
 テーマは「学び舎の乃木希典」。入場は無料。他の美術館にチラシを置いて広報に力を入れているし、せっかくの機会なので見学してみることにした。
  会期は9月13日から、年末の平成30年12月2日(日)まで。「9月13日」は言うまでもない、この特別展の主人公、陸軍大将伯爵 乃木希典が明治天皇のあとを追って殉死した「あの日」である。

 ↓ 室外に掲示してあった乃木に関する年表。室内のものは、もっと詳しく記載されていた。 

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 明治天皇の学習院行啓の資料展示を見た。
 優秀生徒の名に松平信×??、溝口正勝?、佐野××などの名前があったと記憶する。(正確ではないと思うが。)
 溝口は越後国の旧新発田藩の溝口伯爵家の子息、松平信×は「信」の字を名前の通し字とする大名松平家の子息だろう。松平家の爵位は子爵かな?。もしかしたら子爵家の分家の出かも知れない。「佐野」は旧佐賀藩の出の佐野常民(のち伯爵)の子孫だろうか?。

  展示室の奥の柱のエピソードボードが面白い。柱に乃木に関する「小話」を掲示してあるのだ。なかなか、興味深いエピソードが記されている。
 武者小路公共の話が掲示されている。「武者小路・・・・」は、どこかで聞いたことのある名前であるが、白樺派の作家 武者小路実篤の兄であり、子爵。確か、実篤の作品の中の年賦でよんだが、武者小路公共と実篤の兄弟は、父を早くに亡くしたので、兄 公共は既に子爵を継いで当主になっていたのだ。
 公共は、外交官となり、のちにドイツ大使(ナチス・ドイツの時代。昭和11年の日独防共協定締結時の大使)を務めた人物として知られる。

 乃木は、イギリス訪問の折にドイツ帝国を訪れたらしい。武者小路が同行して通訳した。すると、乃木が少将当時の明治18年頃のドイツ滞在時ではなく、日露戦争後、東郷大将とイギリス国王の戴冠式のため、随行して訪問した明治44年のときのことらしい。すると当時、武者小路は20歳台後半から30歳台前半で駆け出しか、若手の外交官だったであろう。
 話は「フォン(von)なんとか大将というドイツ帝国の陸軍大臣がいて表敬訪問した。置いてある物(調度品)を見た乃木が、『シェーン、アルバイテ・・・・・。』と言うと、フォンなんとか大将は驚き『シェーン ・・・・・』は、ドイツ語を余程知っておる者でないと、知らない言葉だと驚いた。」というもの。
 訪問を終えたあとで乃木は「アレ(調度品)は、余り出来のよくないものだったが『シェーン・・・・・』と言うしかなかった。」と言うと、同行の武者小路は爆笑したそうだ。

 今でいうと「いい仕事ですね~。」とドイツ語で適当に乃木が大臣にお世辞のホメ言葉を話しをしたのだろう。乃木のユーモアセンスを伝えるエピソードであろう。
 訪問した大臣閣下は、名前に「von」がつくので、プロイセンのユンカー出身の軍人大臣だったのではないか?。
 一般のイメージのように、日露戦争後であっても、乃木はいかめしい、冗談を解しない、謹厳だけの人物ではなかったのであろう。

 奥の柱に年表が二つ掲示してある。学習院の院長になった当初と明治43年から、死後までの二つ。明治40年1月に院長に就任している。満州から凱旋帰国してから、ちょうど1年後のことである。軍人としての現役は、そのままであるが、これは明治天皇の意向だそう。
 「正三位、勲一等、功一級、男爵」で院長に就任している。明治40年、その年の9月21日、一気に伯爵に昇爵(漢字が違うが、以後便宜上使用する)している。伯爵に昇爵の祝賀会を学習院で開催していた。
 その他、小話が小さいボードに掲示してあった。
 
 展示は三つに分かれているようだ。
 「第二章」を見る。「二章」武課教育と修身教育の充実

 覚えている展示を記すと・・・・、
 院長時代、学習院は、鎌倉郡片瀬に水泳場を設けた。片瀬は明治44年まで。明治45の7月から、沼津に移転しただそうだ。沼津は現在も使用されているそうだ。
 片瀬で撮影した写真が展示されている。片瀬の東浜のようだ。背後は腰越の丘かな・・・・?。集合写真には中央の院長の乃木、左が小堀水泳教官、右は、二人目中尉という人がいるが裸だ。教授も写っている。「右端に、舎監が制服でいる」という。軍服の男がいるが、その人かな・・・・。マストにのぼって写っている人もいる。教員か職員のようだ。その人の名も書いてあるが、忘れた。
 別の写真では、乃木はふんどし姿で、実ににこやかな姿であった。沼津の水泳場開設は運命の明治45年7月。明治天皇の重篤な病状が発表され、崩御があった月であり、乃木は沼津での指導はする機会が無かったと記憶する。

 ↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 室内の奥の角には、「中朝事実」の書籍の展示がある。山鹿素行の中朝事実をよく読んだことは、良く知られている。ただ、それらのエピソードは司馬遼太郎の小説「殉死」や「坂の上の雲」にもよる(広く知られる契機になった)ことが多いのだが・・・・・。

 「昭和天皇は晩年(に至る)まで、最も影響を受けた人物として、乃木をあげている。」と説明があった。
 乃木、玉木、吉田(松陰)、杉の系図が展示してある。「玉木家は、元禄年間に乃木家より、分かれた・・・・」と説明がある。乃木の弟の正之が、松下村塾を創設した玉木文之進の養子になっている。養父の玉木文之進は1876年没と書いてある。萩の乱のあとのことである。
 最近のNHKドラマでも登場した人物だ。文之進は「・・・腹をお召しになられた・・・。」とドラマでは、その死についていっていたな・・・・。偶々そのシーンだけ見たことがある。

 「中朝事実」の書籍の展示、その他書籍もあったが、乃木が特に山鹿素行の中朝事実の重視して読解、研究をしていたことが判る。
 吉田松陰についての書籍も寄贈していた。乃木希典が寄贈したことが書かれているページの展示があった。
 著者はあの徳富猪一郎(蘇峰)である。松陰と縁戚である乃木の思い入れの程が覗える。

↓ 学習院大学史料館発行のニュースレターNo.38(平成30年9月1日発行) 
   平成30年度秋季特別展の案内抜粋。

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 乃木は、「中朝事実」を筆写していたようだ。司馬遼太郎の小説「殉死」にもそのことが書かれている。
 写して自費で出版して、配布していたそうだ。
 写した原本名が描かれている箇所が実際の展示でもあった。
 肥前平戸(現在の長崎県平戸市)の領主であった「松浦伯爵家の蔵書の中朝事実を学習院総寮部に於いて「源希典」が謹写したことが判る。

学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学1

 2018年9月 学習院大学史料館展示室 平成30年度秋季特別展「学び舎の乃木希典」 見学1

  目白にある学習院大学史料館を見学した。元々、学習院に史料展示施設があるとは、知らなかった。以前は、国学院大学博物館や、早稲田大学中央図書館の展示室を見学したことがある。この特別展のことは、とある財団法人の美術館に置いてあるチラシで開催を知ってやって来た次第だ。

 交通は、至便である。 目白駅を降りて、地上の改札に出ると、すぐに学習院大学のキャンパス。キャンパスの中ほどの建物に史料館展示室はあった。
 
 テーマは「学び舎の乃木希典」。目玉展示として、国宝、重文クラスの文化財が展示されるのではない。が、無料だし、他の美術館にチラシを置いて広報に力を入れているし、せっかくの機会なので見学してみることにした。
 
 会期は9月13日から、年末の平成30年12月2日(日)まで。なぜ、9月13日開始なのか?。言うまでもなかろう、乃木希典が明治天皇のあとを追って殉死した日である。
 会期末の12月の2日の理由は分からない(年末に近い日曜だからか)。 

 大学の敷地内の教室棟などいくつもビルがあるのだが、そのひとつの棟の一階のフロア。文学部の研究室などが入ってる?棟のようだ。

 ↓ 特別展の告知看板。

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 展示室の入口の扉は開いている。受付台のうえで記帳があり、氏名を書くようになっている。若い女性の係員が座っている。別展の案内のチラシとアンケート用紙を渡される。アンケートを回答すると、「オリジナル乃木さんハガキ」が貰えるそうだ。係員は文学部の大学院生かな?。
 以下、乃木希典は「乃木」又は「乃木大将」と記す。
 
 
 順番に展示を見ていく。「一章」教育者となった乃木希典
 展示の最初は、乃木の使用していた道具など。食器、箸などの日用品やメガネなどもあったような・・・。
 日露戦争当時の乃木や山縣ら陸軍の首脳の写真、日露戦争の旅順攻略戦での乃木の写真の絵葉書などの展示がある。
 更に室内の壁面にほ、当時の学習院の敷地の地図。元々は、四谷にあったが、明治27年の「明治東京地震」で四谷の校舎に被害があり、その後用地を選定して、目白に移転したという。初等科は、現在も迎賓館の近く、四谷駅から徒歩数分のところに校舎がある。

 「明治東京地震」は知らなかった・・・・・。江戸時代末期、1858年の「安政地震」の後の東京直下型の地震なのだろうか?。すると、今後、断層が動いて、東京の地震というのは、発生する可能性はあるのだ、と感じた。

 明治41年に現在の目白に移転している。当時は東京市ではなく、目白村だったかな?。当時は、明治末期とはいえ、畑、雑木林なども広がる台地だったろう。現在の大都会、東京の目白付近の風景とは隔世の感があるだろう。
 当時の地図を見ると現在の川村学園の敷地には、学習院の職員官舎や、さらに敷地の東には、馬場がある。敷地は、ほぼ現在の川村学園の敷地と一致するのではないか?。学習院の北を通る現在の目白通りに沿って東西に細長い。

 明治41年、乃木が院長に就任した当時の庶務日誌も展示されていた。院長に就任したのは、皇孫 裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育のためだったことはよく知られている。
 「教育者」として学習院長としての展示が中心なので、乃木の院長就任前の軍功に関する展示は限られる。

 乃木大将は、自宅から四谷では、馬で通っていたあと、遠いので、目白の敷地内には住み込みであったという。家を構えたのではなく、起居していたという解説だ。乃木大将の自宅は、地下鉄乃木坂駅(そのまんまだが。)の近くの旧乃木邸として、乃木神社に隣接した敷地にあるし、某アイドルプロダクションの本社もかつては、近年まで乃木神社、旧乃木邸の近くにあった??。
 室内の壁のガラスケースには、乃木大将の軍服、刀は、黒い拵え付きである。刀の銘は見えない。江戸時代の??刀だったかな。軍服には、大将の肩章がついている。星が3つある。明治38年式の軍服で、いわゆるカーキ色である。戦前期(日中戦争や太平洋戦争期を除く)の時代を背景としたテレビドラマで見る軍服は、だいたいこの軍服の形式と色ではないか。軍帽も展示してある。
 「明治18年には、最年少で少将に昇進」と説明文にある。長州閥のおかげと思うが、すごいスピード出世である。
 軍服の布は、陸軍製ジュ所の製造のものを用いて、仕立ては自分の動きやすいようにしたと説明にある。「参考」ということで金鵄勲章も展示してある。勲章の実物はのちの時代、海軍の及川古志郎が昭和17.4.4に受けたものである。乃木は日露戦争の功績で「功一級」最高の金鵄勲章を授与されているので、現物が無いかわりに、別の人物が授与された実物を展示したのだろう。
 昭和17年4月といえば、日米開戦後、日本の占領地域が最大版図まで拡大した時期。恐らく、日中戦争以降の論功行賞が行われ、功一級の金鵄勲章が授与されたのだろうか。
 金鵄勲章は、乃木大将の軍服の下に展示してある。

 続いて見学していく。
 室内の平らなケースには、敷地内の図面と式次第が展示してある。明治42年7月に明治天皇が学習院に行啓したときのもの。行事の次第が書いてある。
 次第をよんでみる。天皇は、学習院の北にある正門から入り、本館に向かう。馬車であろう。正門は現在も同じ場所にあるようだ。
 図書館の向かいにある建物に天皇は入られている。今、私のいる建物は昔の図書館付近らしい。建て替えされているので、建物の大きさも一致しない。一部、敷地がかさなっているだけという感じ・・・・。天皇が建物に入る図も書いてある。天皇の入る建物は「便殿」と書いてある。つまり、天皇専用の建物。この行幸のために、新たに設けたらしいです。手渡された特別展のパンフには、当時と現在の建物配置の比較表がある。私は、手許と展示物を見比べながら、明治天皇の順路を確認した。

 午前10時より式典が開始。高等官、判任官は・・・、など供奉の次第が書いてある。侍従以外に多数の官吏が付き従ったようだ。院長(乃木)の案内にて、授業をご覧になられ、ご覧になる順番に「五年生」など学年を書いてある。
 たとえば、英語の授業では、数名の名が、「優秀学生」と書いてある。生徒の名前は「松平信×??、溝口正×?、佐野××・・・・・」などだったと思う。授業をご覧になった後、正午は食堂に移動。食事をとる。
 一時間の休憩の後、午後1時から午後の参観が開始される。馬術などをご覧になる。
 天皇の御前で馬術を演じる中等科学生、高等科学生の名前が書いてある。
 すべての次第を終えて、お帰りになる。お帰りは「還御」と、書いてある。



浅草寺伝法院庭園 特別拝観 4 (最終)

 平成29年 2017年、4月2日 浅草寺伝法院庭園 特別拝観 4 (最終)


 「国指定名勝 伝法院庭園 特別拝観」にやって来た。
 伝法院の庭園を歩く。
 ↓ 有名な角度から撮影。「ダブルツリー」が映る筈だが、スカイツリーのみしか映っていない。
 なぜか・・・・・・・、五重塔は工事中。本来は塔が見えるのだが仕方無い・・・・。
 手前に木の葉を入れて、意識的に撮影、遠近感が出ているぞー

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 池の周囲をぐるりと歩いて散策。
 上の写真の位置からはやや手前(大書院)側。

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角度を変えて、手前のしだれ桜と大書院とその更に奥の工事中の五重塔を撮影。

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↓ スカイツリーの先端まで入るように撮影した。しだれ桜は美しく!!写っているぞ。ただ、大書院の建物が途切れてしまった・・・・。

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↓ スカイツリーの先端まで入るように拡大撮影した。高さ648メートル。「むさし」武蔵の国。

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↓ スカイツリーの先端まで入るように拡大撮影した。
しだれ桜とスカイツリー

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↓ スカイツリーの先端まで入るようにワイド??に撮影した。

よって、池の水は入っていない。桜と大書院の建物が写っている。書院の前では団体客で賑わっている。

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 池と大書院。

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庭園の端から小川が池に流れこんでいる。林の外は壁があるのだが、更にその先は浅草の市街地でビルが密集している。


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 少し歩いて別の角度から撮影。こちらの眺めもよい。池としだれ桜と大書院。
 奥の鉄筋のビルが入ってしまうのは仕方ないかな・・・・。都界(あえて「都会」と書かない。)のビルの合間の庭園であるから。


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 しだれ桜の拡大。池のほとりでは、拝観者が想い想いに桜の下で記念撮影をしていた。
 おーっと、池の水は濁っていて、必ずしも清泉ではないが、満開のしだれ桜の姿が水面に映っているぞ。


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 池の周囲を散策し、ぐりと一周、池の見える庭園内の路から改めてしだれ桜を眺める。そして、
庭園をあとにして、出口に向かった。

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 「大絵馬展」の展示館からは、次々に人が出て来て、庭園の方向にやって来ていた。

 庭園の特別拝観を出てから、本堂の前へ歩いた。伝法院特別拝観の券売所には、列が出来ていた。20人くらいは並んでいる。入場者も増えてきた。
 本堂の前を通って、境内から退出する。本堂の前の広場には、線香をたくさん立てている銅製?の大きな線香立て?がある。「ここで線香の煙を体にかけると(まぶすと)健康になる。」と亡き祖母はお参りする度によく言っていたものだ。 あれは、いつのことだったかな・・・。そんな感慨にふけりながら、線香をたてている人達を見る。
 境内には外国人が多い。中国人が多いかな。アメリカ人イギリス人ではなく、いろいろな国の人がいる。アジア系が多い。インド系、マレー系と思われる人々も。

 さて、ひるどきとなった。浅草駅の近くの吉野屋でさくっと牛丼を食べて移動する。牛丼店にも外国人の姿が多かった。大きな荷物を持った外国人の団体も、会話の内容からフランス人のようだ。
 地下鉄で上野へ向かった。


 

浅草寺伝法院庭園 特別拝観 3 

 平成29年 2017年、4月2日 浅草寺伝法院庭園 特別拝観 3


 「国指定名勝 伝法院庭園 特別拝観」。伝法院の「大絵馬展」を順路にしたがって見た後に、庭園の散策に行く拝観順路になっている。

 浅草寺のランドマークである、五重の塔は、工事中であり、シートで覆われていた。

 
↓ 庭園に咲いていたしだれ桜。満開、まさに見ごろであった。


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林の中の小路を歩いて、庭園散策。「ほほう、都心部なのに水路があるなー」などとと思いながら歩く。


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池に出る手前に茶室があった。


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 庭園の案内看板。「天佑庵」とある。都の重宝に指定されていると解説がある。
戦後に奉納移築されたとある。中心となったのは、あの五島慶太であった。
この付近は空襲で焼け野原となって筈なので戦後、庭園の復旧に伴って移築したのだろうか。


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茶室を過ぎると池がある。書院の方向に歩く。

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 ↓ 振り返ると先程鑑賞していた「大絵馬展」の展示館とそれに続く庫裡?の建物が見える。
 池にせり出すように建てられている。
 水路には鯉が泳いでいた。 都会のオアシスかな。

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 池のほとりに出た。都会のオアシスとはいうものの、周囲はビルである。

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 庭園の中心、池の正面に建つ大書院。畳の部屋が開放されている。しかし、部屋に上がることは出来ない。外から書院の内部を見るのみ。
 襖が開け放たれた大書院の前では、たくさんの人が記念撮影している。
 ここからの池としだれ桜の眺めは格別である。本当は、ここ大書院の前からの庭園の眺めを撮影して本サイトにアップしたいのだが、あまりに人が多くて写り込んでしまうので、撮影は割愛した。

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 人がうつらないに、空を見上げて満開のしだれ桜を撮影した。

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 しだれ桜の拡大。美しい。


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浅草寺 伝法院庭園 特別拝観 2 「大絵馬寺宝展」

 平成29年 2017年、4月2日 浅草寺伝法院庭園 特別拝観 2 「大絵馬寺宝展」


 東京・台東区 浅草にやって来た。「国指定名勝 伝法院庭園 特別拝観」のためである

 浅草寺の境内を歩き、伝法院の入口に看板に従って行く。浅草名物の「五重の塔」は工事のため、幕で覆われていた。庭園の特別拝観の入口は建物だった。券売所がある。階段を数段昇って、中に入る。

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 建物の前では、青いウィンブレを来た係員が案内をしている。

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 次々に拝観者がやってくる。数名の列ができる。並んで、券を買う。

 最初にここ宝物館を見る順路になっている。「大絵馬寺宝展」が開催されている。廊下を展示室内に歩く。ドーンと大きな額が展示してある。
 順路の最初の方に「 国宝 浅草寺経」の展示がある。多分複製・・・・。ガラスケースには作品名のみの表示で何も解説は書いていない。ガラスケースも空気が簡単に入ってしまうような、隙間のある簡易なもので、あまり大切に展示していないぞ・・・・・。ただ、置いてあるだけ。「国宝」と確かに書いてあるのだが、本当に国宝の実物なのか、疑ってしまう・・・・。国宝をこんな簡単なガラスケースに展示していいなかな、と思った。ぐるっと展示室を回り外に出る。
 奥まった展示室のところには、浅草寺の模型などもあった。

 お堂の額縁などがある。奉納された大きな絵馬など奉納者は、街の衆で当時の人の氏名が書いてある。当時のたくさんの人から奉納を受けたということですね。
 「神馬」の大きな絵馬の展示があった。神社ではなく、浅草寺に江戸時代に奉納されたものだ。神仏習合の関係かな。 
 展示リストの配布は無いのだが、特別拝観のパンフレットよると鈴木其一の「迦陵頻伽」の絵馬の展示があるそう。いろいろ、大きな額縁(つまり、絵馬のこと。)を探して、順路を戻って探したが、無かった・・・。私が見つけることが出来ないだけだったのかも知れないが・・・。

 入館者が増えて来た。賑わっている館内だ。
 展示館を出る。最初に「大絵馬寺宝展」を見て、外に出て、庭園を散策する順路になっていた。

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 庭園へ。「大絵馬寺宝展」が開催されているのは、宝物館ではなく「特別展示館」というようだ。
 庭園内の案内看板が出ていた。

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 庭園内の道を歩く。水路の水は濁っている。都心の中の水であるから、仕方ないか・・・・。隅田川とつながっているのかな。

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庭園の周囲は、ビルや工事中の建物などがあり、いかにも都心の中の小庭といった感じ。


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と、道の途中に入ることのできない島があった。「立入禁止」となっている。

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「経ケ島」の説明。聖域である。池の中の島である。
写経が埋められているそうだ。

浅草寺 伝法院庭園 特別拝観 1

 平成29年 2017年、4月2日 浅草寺 伝法院庭園 特別拝観 1 

  東京・浅草にやって来た。「国指定名勝 伝法院庭園 特別拝観」のためである。
 
 ※随分と遅れての記事掲載となってしまった。既に昨年(2017)上野の桜六義園入口付近の様子は記事掲載している。

 久々の浅草だ。この日の来訪の目的は、毎年この時期に開催される浅草寺伝法院庭園 特別公開の見学だ。桜の咲くこの時期が一番いいな~。
 例年と比べると、桜の開花は進んでいない。私が子供の頃は、これよりも遅いくらいであったが、温暖化の影響で「平年」の時期も相当に早まっている。
 
 まずは浅草駅への道のりから。「上野東京ライン」で直通し、地下鉄で浅草までやってきた。駅の改札付近にも外国人が多いな。地上に出ると、松屋デパートがある。東武線の浅草駅もあるのだが、外国人が多い。
 イースターの休暇のためだろうか?(違うかな。)。
 人が多い。混雑を避けて別の道から、仲見世を通り浅草寺の境内へ。浅草には子供の頃から祖父母に連れられて何度か来ていたこともあったな~。子供心にも今ほど混雑しているという感覚はなかったが、それなりには当時から混雑していたかも(笑)。
 仲見世の裏手の道沿いの食堂で昼食を食べたりしていた。お店のことは全く覚えていないが、今もそのお店はあるのでしょうか?。地下鉄駅から仲見世に至るアーケードの商店街の一角、マクドでもよく食事をしたよ。何だかんだいったって。マックのお店は、今も同じ場所にありますね

 

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 当時は、外国人はほとんどいなかったな。
  隅田川堤防の桜の名所も近いのだが、満開まではやや早いかな。墨田川の方向には行っていないが。
 あれから幾星霜、祖父は十数年前に亡くなり、祖母は昨年であったが90歳以上の高齢で鬼籍に入った。二人供、今は亡い。私も齢(よわい)を重ねたよ。
 「人は世につれ、世は人につれ。」「川の流れは・・・絶えずして・・・・しかも元の水にあらず・・・・。」そんな言葉が歩きながら、私の頭の中に浮かんでは消えた。
 


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  伝法院に行く。↑
 浅草寺伝法院の門は、仲見世側からでは門が固く閉まっていた。「ここだったのか・・・。」と改めて思う。
 公開されていることは、ここ数年で知った。前は知らなかったよ。伝法院のことも。庭園があることも。
 平成23年??に名勝として、文化財指定されて知った。公開が毎年開催されるのも文化財指定後のここ数年のことかな??。

 告知看板が出ていた。「国指定名勝 伝法院庭園 特別拝観」とある。正式な名称は「拝観」とあるので、この見学記では通常私が使用している「見学」という用語は極力使用しないことにする

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 門、本堂の前を歩く。うーん、桜はまだ咲いていないな。
 画像左手に伝法院がある。

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 門はくくらず、本堂に向かって、左手に歩く。

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伝法院庭園 特別拝観の看板があった。矢印が出ているので、方向指示に従って歩く。
本堂周辺にはよく来たことがあるが、伝法院に入るのは初めて。

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 最初に宝物館を見る。大きな額をみる。 
 浅草寺五重塔はなんと工事中である。囲いに覆われている。
 ↓ 宝物館の出入口の近くから、東京スカイツリーと工事中の浅草寺五重塔を撮影。貴重なショットだ



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丸善 「ハヤシライス」食事と「ハヤシライス」のルーツ

 2017.12.10 丸善 「ハヤシライス」 食事

 平成29年の暮れのこと。都心部で散策だ。
 歳末の買いだしといきたいところだが、オレの懐は寒い。去る金曜日はボーナスという人も多かったであろう。消費行動が最も活発になる時期であるが、それは世間一般論でのこと。ウチには無縁だよ。いつもお金が飛んでいく・・・・
 
 「ここ滋賀」滋賀県アンテナシヨップ新規開店を初訪問した後、近隣をプラプラした。次に近くにある丸善で遅い昼食をとることにした。
 「ここ滋賀」とは道路を挟んで東京駅方向へ、はす向かいである。
 夏目漱石の「こころ」にも丸善は出てくる。主人公が「・・・午後は丸善の×階でつぶすつもりであった・・・・」というような描写である。書店として有名である。
 しかし、レストランとしても有名なのかマスコミでもよく紹介されるように「ハヤシライス発祥の店といわれている。」らしい。
 書店に来ることはあるが、食事をしたことはなかった。3階にカフェという名前で食事ができるお店があった。書店の書棚を抜けた置くにお店の入口があった。と、店の入口横の壁に「ハヤシライスの生みの親 <早矢仕有的>」とプレートが取り付けてあった。

 「早矢仕有的」 とし人物の名前であった。だから「ハヤシライス」なのだが、「林」さんではなく「早矢仕」さんであった。「有的」が名前である。わたくしの「良月」のような画号雅号に近い名前かな?。てっきり当時は「早矢仕有的米飯」のように中国語に近い?、「××的」と名付けたメニュー名だったのかな?、と誤解してしまった。
 プレートの文章によると友人にハヤシライスに近い料理をふるまっていたとあるので、明治年代に食堂でメニューを開発して販売していた訳では無いようだ。よってハヤシライス「発祥の店」とは断定していない。

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 ランチタイムは過ぎていたので、店内にすぐ座ることが出来た。ツレはハヤシライスの発祥は「上野の精養軒じゃなかったの?。」と認識していた。
 精養軒は、ここ日本橋地区から銀座を通り過ぎた向こう側にある築地に元々あった筈だ。たしか上野は築地の支店だったと記憶する。「精養」は「西洋」のあて字である。築地には明治初年、外国人居留地があったから、築地で創業したのだろう。

 メニューには、ハヤシライス以外にカレーの料理もある。私は迷わずハヤシライスを注文した。ツレはカレーを注文した。
 精養軒のハヤシライスと比較すると、値段は丸善が安いが、サラダは付かない。

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 食べている最中。カフェの窓側の席からは、外のビルや通りの様子が見える。
 成人男性の食べる昼食の量としては少ないので、あっという間に完食してしまった(笑)。

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↓ (既出)「ベルサール東京日本橋」の敷地内にある「ここ滋賀」と2階のレストランと地下鉄日本橋への入口エスカレータ。
  左手に振り返ると、道路の向こう側に丸善のビルが見える。

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「ここ滋賀」 滋賀県アンテナシヨップ 新規開店

 2017.12.10 「ここ滋賀」 滋賀県アンテナシヨップ 新規開店 初訪問

 平成29年もだんだんと押し迫って来ました。師走の慌ただしい日、都心部に少しばかりお出かけです
 地下鉄を茅場町駅で降り、地上に出た。「やや、本当は日本橋駅で降りた方がよかったかな?。」と思いつつ、東京駅に戻るような感じで、地下鉄日本橋駅方向に歩いた。
 すると、再開発で新しい大きなビルが出来ていた。地上のエントランス部分にはどこかで見たブルーの色のマークがある。神奈川県民にはおなじみ、横浜銀行のマークだ。ここに日本橋の支店があったのかと思いつつ、はっとあるお店の看板に気付いた。
 滋賀県の東京におけるアンテナショップがオープンしていたのだ。「ここ滋賀」である。実は10月の下旬に開店していて、ラジオの番組を聴いていたときに偶然ラジオの番組の中でお店のことを紹介していたのを聞いたので開店を知ったのだ。滋賀県出身の有名芸能人もオープン式典に参加したとか。
 今まで滋賀県は、有楽町の交通会館内に事務所的がスペースはあって、お米などを少しばかり販売していたと記憶する。ここ数年の「アンテナショップ」ブームにのってかは知らないが、ついに「県」を挙げての開店となったのでしょう

 お店の2階にはレストラン「日本橋 滋乃味」がある。ちょうどランチタイムであったが、先に少し食べたのでここには入店しなかった。またの機会に。
 

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 滋賀の味といえば、まず思い浮かぶのが「近江牛」。
 レストランのメニューには 近江牛の料理もある。琵琶湖の名産「鮒寿司」もある。発酵食品としても有名だ。
 レストランのウェブサイトを後で見たが、平日と土日祝日ではランチのメニューが違っている。 
 店内の商品は陳列量が少ないかな。工芸品も置いてある。メインは食品であるが、冷蔵冷凍食品として近江牛を使用した加工食品がおいてある。滋賀県の日本酒各種も置いてある。お米も販売している。
 「でっち羊羹」が置いてある。あれ、どこかで聞いたことがある商品だが、滋賀県の商品だっかなと思った。思いだしたが「丁稚羊羹」は奈良県、宇陀にあった。名前は似ているな。
 また滋賀県といえば「比叡山」である。比叡山の湯葉その名も「比叡ゆば」を販売していた。乾燥させた袋入りの湯葉であった。
 最近、滋賀の食品で有名になっているが木之本の「サラダパン」。さすがにここには置いていないな。以前、木之本に行ったときには買いそびれた・・・(苦笑)。
 「近江ちゃんぽん」は、置いてあったかな?。覚えていない・・・。

 ↓ 「ここ滋賀」のお店は、「ベルサール東京日本橋」の敷地内の独立した2階建ビルに入居している。
  2階部分が「レストラン滋乃味」だ。

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↓ ビルのテナント。横浜銀行のロゴマークが見える。

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↓ お店の前。ビルの敷地から「ここ滋賀」の大きい告知がお店のガラス面にある。
  2階がレストラン。訪れたのは日曜日の午後であったが、混雑していたかまでは見えない。
  画像手前のエスカレータは地下鉄日本橋に直結している。

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↓ お店の前の通りから撮影した写真。「おにぎり販売コーナー」がある。
  テイクアウトでおにぎりが持ち帰りが出来るようになっている。
 おにぎりの具材は、滋賀の食材を生かしたもの。「鮒」関連の具材があったかは忘れた・・・。

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 お店の場所は、日本橋駅に直結、交差点にある超一等地だ。
 
 

六義園 しだれ桜 (混雑で入園せず。)

 平成29年 2017年、4月2日

 今年の桜は満開になるまでが遅かった。
 上野公園を訪れた。東京都美術館へ入館し最終日を迎えた「ティッツィアーノ展」を鑑賞した後、東京藝術大学美術館の「雪村展」を見て、東京国立博物館の総合文化展も見学した。後に、夕方は駒込の東洋文庫に移動した。東洋文庫ミュージアムで「ロマノフ王朝」の展示を見た後、期間限定ライトアップ中の六義園に入園する予定であった。
 しかし、東洋文庫近くの入園券の販売窓口には行列が・・・・・。駒込駅から東洋文庫に行く途中にも行列が出来ているのを見たが、更に伸びていた。東洋文庫ミュージアムでは、六義園とのセット入場券を購入することは出来るのだが、割引の関係で購入しなかった・・・・・。
 この日の来訪の目的は特に桜がメインという訳ではなかったので、諦めた・・・。「明らかに桜の開花は進んでいないし。でもしだれ桜は満開かな・・・。」と思いながら。
  
 ↓ 六義園の正門の前(南側)。
 園内では桜の花も咲いているようだが。

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 遠くから撮影。↓ 行列は園の壁に沿って、歩道上に伸びていた。ちなみに、帰路、駒込駅近くの北側の入口でも同様に行列していた。駅近くの入口の方が、交通の便がよい関係で行列していたのではないだうか?。
 

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 この日、自宅に帰ってから、ネットで六義園の桜の開花状況を見たのだが、名物「しだれ桜」は「5分咲き」ということだった。写真では、満開の花であったが、あれは過去に撮影したポスター用の画像であろう。
 5分咲きでも、あの大行列、入園しなくてよかったかも!???。
 この日は、昼間、最高気温が14度くらいで、やや暖かかった。しかし。日没後は、寒くなり、私の感覚でも10度はなく8-9度くらいであった。まだ、桜が満開になる気温ではなったかな。



 

平成29年(2017年) 桜 東京・上野公園

 平成29年 2017年、4月2日

 今年の桜は遅かった。いえ、開花は早かった。というより、お彼岸過ぎに都心部では開花するのはほぼ恒例になりつつある。よって、平年の開花日も毎年早くなっているのではないか?。

 東京・上野公園。
 昨年も同じ日に上野にやって来た。しかし、この日の来訪の目的は特に桜がメインという訳ではなかったが・・・。明らかに、桜の開花は進んでいない。5分咲きくらいかな、という感覚。所によっては7分咲きくらいかな、とう程度だ。気温は日中は上昇した。しかし、前日の土曜日は冷たい雨の一日で最高気温で8度、最低は4.5度くらいであった。まだ、桜の満開になる気候でないかな、ということは私が肌でも感じた(笑)。

 全く桜の咲いていない、枯木の枝がむき出しになっている木々の下で宴会を行っているグループも多い。来週の土日では桜の盛りは過ぎてしまうかもしれないので、満開には少し早いこの日の桜を楽しんでいるのであろうか。
  
 ↓ 上野動物園の門の手前(駅側)。一昨年であったろうか、ソメイヨシノの原木??と言われる木がこの並木のどれかである、というような発表があったと記憶する。(間違っているかも知れないが・・・・。)

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 遠くから撮影。↓ 改めて画像を見ると満開のようにも見えるが、すべて咲き揃っている訳では無い。
 実際に見てみると。

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 この桜並木の近くにある東京都美術館へ入館。最終日を迎えた「ティッツィアーノ展」を鑑賞した後、東京藝術大学美術館の「雪村展」を見て、東京国立博物館の総合文化展も見学した。

 昨年の同日の記事と比較してみると、人出は明らかに今年の方が少なかった。桜の開花が進んでいないので、当たり前であるが・・・・。
 この日、自宅に帰ってから、テレビ.のニュースを見たのだが「上野はお花見の客で賑わった。」や「靖国神社では桜の標準木を含む桜が満開になった。」と放映していた。
 しかし、一般にはまだまだかな、といったところ・・・・。都心部では極地的に気温が上昇したり、太陽光線があたって場所によっては満開になる時期が早いようだ。




 

「図書館所蔵の国宝・重要文化財」 見学3(最終) 早稲田大学総合学術情報センター

  2017年3月某日

 早稲田大学総合学術情報センター(以下「センター」と記す。)
 「早稲田大学中央図書館 開館25周年記念展示」 「第1期 図書館所蔵の国宝・重要文化財」の見学をした。
 長いタイトルなので以下、主に「展示会」と記す。
 展示会は今後、第3期まであるのだが国宝が展示されるのは大学のウェブサイトによると第1期だけ。同じくウェブサイトによると図書館所蔵の国宝が展示されるのは2007年以来、10年ぶりとのこと。
 
 センター内の展示室のガラスケースで国宝の展示があった。
 「礼記子本義 巻五十九」
 ※「疎開」「疎遠」の文字に似た「そ」の漢字がウェブサイトでは表示されないかも知れない。
 「玉篇 巻第九」
 の2国宝である。

 途中で、見学者が複数名が入室して来た。昼休みの終わる13時(午後1時)に近くなったからであろうか?。人が増えた。一人は50歳~60歳くらいの女性で、私服だ。年配の男性がもう1人来た。男の学生の二人連れも入って来た。二人は、鑑賞して作品の話をしながら見て、私よりも先に出て行った。更に、もう1人、男子学生が入ってきた。私が出た後には、展示室内にはこの男子学生1人だけが残った。

 国宝の展示ケースのコーナーを曲がって左手、展示室の長辺の部分のガラスケースでは、時代が下がって、日本の江戸時代の文化財の展示であった。
 仙台の「大槻家文書」の展示がメインである。一括して重文に指定されている。同時代の人物の肖像画の展示がある。「杉田玄白像」の展示がある。彩色の鮮やかな掛け軸になっている肖像画だ。
 その下には「重訂 解体新書」の展示があった。同じく一括して重文指定文化財の一部である。東洋文庫の展示で見た初版本とは違う版のもっと新しい、改定された版だ。
 「重訂」なので、初版後に改訂して出版された版であろう。内容のページが開いていたが、どこのページだったか忘れてしまった(苦笑)。
 東洋文庫では、顔面の「目」や「耳」の部分のページを開いて展示していたが、別のページの公開であった。ここセンターの展示室で無料配布している展示会の図録に写真が掲載されている部分とも違ったと記憶する。

 「杉田玄白像」は玄白80歳当時の姿と解説文にあった。教科書に掲載されている玄白像は、まさにこれだった。あの肌が衰えて、シワが目立ち、痩せている玄白の肖像画である。本物はここにあった。知りませんでした・・・・(反省)。
 当時としては、異例の長寿である。現在では100歳に相当するのかは断定できないが、見た目現代の感覚でいうと、画中の玄白の姿は90歳から100歳くらいの人にも見える。もっとも、(老化は)個人差が大きいのであるが・・・・。玄白は「医者なので養生した」ので、当時としては長命であったのであろうか?。
 んー、えっ!?。手元の図録のページをめくって、実際の展示作品と比較してみると「杉田玄白像」の写真掲載が図録に無いのだ・・・・・。主要展示作品であるのに、図録に掲載が無いので「杉田玄白像」の写真は、教科書か歴史資料集で(自分の目で)確認してネ、ということだろうか??(笑)。

 ↓ 展示会の図録より。 「重訂 解体新書」が写っている。
  展示部分は表紙の縦書きで「重訂 解体新書」とタイトルが印刷されたと思うが・・・・。
  右は、第1期の展示品の解説文。

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 展示室内、真ん中の「島」の平なガラスケース内部には「運慶の直筆文書」の展示などがあった。「法眼運慶置文」。
 厚みのある和紙の巻物が2巻ある。別の文書をつなぎあわせて、その裏に書いた文章だ。当時、紙は貴重だったので「裏紙」を使用したのだろう。よって、裏に元々書かれていた文字の墨が透けている。
 文書の内容は「運慶の娘が養母から土地の権利を得る際に運慶が保証をしたもの」だそう。仏師の運慶にも個人の生活があったことが分かる。当たり前のことなんだけど、生々しいなぁ。一庶民(法眼だからそれなりの公的地位にあったと思うが)として普通に生活していたのですね(笑)。
 奈良国立博物館で「快慶」、東京国立博物館で「運慶」の特別展が今年、開催される筈である。特別展でこの文書を展示したら、遺した仏像などの作品以外に、彼個人の生活に迫る資料として面白いかも。

 警備員の立っている横に記帳台がある。記帳のページが開いている。少し見てみると「国宝を見るのは 今まで×××件だったが、今回××5件目と××6件目を達成です・・・・。」ように書いてあった。ものすごい数の国宝を実際に見ている。私なぞは、数えてもいないんだけど・・・・(苦笑)。
 「・・・・母校の国宝公開を決断してくださった 総長 (氏名) に感謝します。 記帳者氏名 」とも書いてある。卒業生の記帳であった。
 別の記帳では「文学部3年?」の学生と書いてある。「・・・・自分の通う大学の国宝を見ることが出来てよかった・・・・。」という内容。ただし「図録と違う場面の展示であるので考慮してほしい・・・・。」との指摘も書いてある。やっぱり・・・・・。私も何か違うなぁと感じたので。短い展示期間・・・・、場面替えをするのかは、図録や解説文には書いていないので、せっかくだから図録と同じ部分でよかったのでは?。

 「礼記」の末尾は光明皇后の「印」も重要であると思うので、(図録には国宝巻物の末尾部分の写真を掲載し)末尾部分の巻物の箇所を「印」のところも含めて、スペースが許す限り展示し、または図録の写真掲載分をリアル(実際)に展示するならば、「光明皇后の「印」は(展示できないので)図録をご覧ください」のような展示解説文をガラスケースに掲示してもよかったかな。

 30分くらいで見学を終えて外に出た。
 ↓ 二階のエントランス前より。冬の青空だが、春はすぐそこに来ている。

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 と、昼休みの時間帯、午後1時を過ぎたためか、私の携帯電話が突如として鳴った。仕事の用件だった。建物の外に出て、通話する。二階のエントランス前は広い。先程見学した展示室の前の大きなガラス窓のある廊下の「外側」で通話した。周囲には人がいないので、迷惑は掛けていないです。(笑)
 本日は天気がよい。早春の気持ちのよい青空だ。気温は10度未満のヒトケタ台・・・・・、なので寒いが、センターのガラス窓やレンガに太陽光線が反射して眩しい。
 エントランスの階段を下り、センターの門を出て道路を横断。早稲田キャンパス内を通って地下鉄早稲田駅まで歩いた。
 東西線沿線の駅近くに用があったので、そのまま地下鉄に乗り移動した。
 
(早稲田大学図書館所蔵の国宝 見学記はこれでおしまいです。)


「図書館所蔵の国宝・重要文化財」 見学2 早稲田大学総合学術情報センター

  2017年3月某日

 早稲田大学総合学術情報センター
 「早稲田大学中央図書館 開館25周年記念展示」 「第1期 図書館所蔵の国宝・重要文化財」の見学をした。
 長いタイトルなので以下、主に「展示会」と記す。
 展示会は、第3期まである。国宝が展示されるのは、早稲田大学のウェブサイトによると今回の第1期のみだけ。しかも、同サイトや今回 展示室で無料配布していた展示会の図録によると所蔵する国宝は、なんと「10年ぶりの公開」とのことだ。前回は2007年に大学中央図書館が開館15周年を迎えた際に公開されたそうだ。
 大変貴重な機会である。

 ↓ センターの玄関エントランス部分にあった告知。

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 第1期に展示される国宝の画像部分の拡大。


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 展示室内を見学する。室内には警備員が1人以外、誰もいなかった。ガラスケース内の展示を見ていく。重要文化財指定の「崇光上皇 宸筆願文」と「尾張~百姓等解文」の展示があった。
 続いて、その左、展示室の奥のガラスケースにこのたび10年ぶりに公開された国宝の展示があった。
 まず「礼記子本義 巻五十九」があった。
 ※「疎開」「疎遠」の文字に似た「そ」の漢字がウェブサイトでは表示されないかも知れない。

 解説目録の文章によると「礼記」の注釈本だそう。何を書いているかは、分からない。漢字がたくさん書いてある・・・・。唐の時代の写本。「巻五十九」なので多数ある巻物による注釈のうち、59番目の巻物のみが保存されていて、今、私の目の前に展示されているのだ。
 奈良時代には日本に伝来していて、光明皇后の所蔵印が押してあるそうだ。正倉院の時代には伝来していたので、当然遣唐使によって持ち帰りがされたのだろう。図録の写真には「内家私印」と皇后の印が朱肉で押してある。巻物の末尾に四角い印が斜め、ひし形に押してある。しかし、目の前の展示では巻末の「内家私印」は開いていない。別の部分、巻物の途中の一部の公開である。
 
 展示部分の内容を読んでみる。漢字の羅列なのであるが・・・・。「叶? 」足六衡之第六所××也・・・心也安・・子則即也×士・・・  前有文母而・・・天雨・・・」のような文字。勿論漢字の転写間違いばかりだが・・・。
 ガラスケース脇の室内の壁のパネルには修復したときの様子の写真の展示がある。原本は紙の劣化によってボロボロになっていて、かなり千切れている。というか、巻物として巻いたまま、長い期間保管していたので、ある部分が半楕円形に紙が劣化してえぐられている。裏地の紙に原本を貼り付けして、修復を行っていた。よって、現在は巻物になっている。図録の写真では、裏紙を貼り付けした様子がわかるが、目の前に展示されて、開いている部分は劣化をあまりしていない部分のようで、紙に貼り付けしているようには見えなかった。

 その隣には「玉篇 巻第九」の展示がある。
 
 同じく写本である。
 「玉篇」なので王家、皇帝の伝記や由来書かと思ったが、書いている内容は漢字辞典のようだった。皇帝の伝記ならば史記のように「紀」だろう。「玉」は、皇帝を意味すると思いのだが、勘違いかな。日本では「玉」は天皇を意味するが。または歴代皇帝の伝記ならば「玉紀」というべきなのかは、分からない・・・・。
 
 「玉篇」の内容を読んでみる。漢字の羅列なのであるが・・・・。 「言」のように部首を大きい文字で書き、同じ部首の漢字を列挙して解説している。
 展示して、巻物を開いている部分の文字を観察してみると確かに「言」や「日」が部首の漢字である。が、現在の日本で常用漢字として使用されている文字は無いような・・・・。それらの漢字の日本語の「音読み」も分からないです(苦笑)。

 書いている内容を抜粋してここに書いてみる。勿論、間違って写している文字が多いのだが・・・・。
 「千弓」のような文字の部首の説明は・・・、「第九十 凡六字・・」とこの部首は、「90番目」と番号を振り、文字が6字あるような書き方。
 続いて「去?部」とまたまた分からない漢字。「第一百 凡二字」と100番目らしい。「去? 胡・・毛詩婚姻孔去る侍曰去?抱成・・・・」のように書いている。
 「音部 第百一 凡十六字・・・」「・・・音気 ×奇生天同隆増天声・・・・周礼師氏掌六伸天・・・成分謂之音」のように書いている。解説してある漢字もよく分からない(苦笑)。

 図録の写真には「言」が部首の別の漢字の部分が掲載されている。目の前の展示では、「言」から「日」の部首の漢字の解説部分が開いている。上の写真を見ると分かるが、展示会の告知パネルには、これまた別の部分の「食」の部分の写真掲載である・・・・。ガラスケース内では、写真には無い、巻物の途中の別の部分の公開である・・・・。
 「食」は、当時の文字と現在の日本の「食」の文字は異なるようだ。よって、ここでは現代日本の漢字表記で本記事では記す。JIS第二水準の文字、というのかな??。
 解説目録の説明文には、巻物の展示部分の「展示替え」があります。とは書いていない・・・・。室内にもそのような表示は無い。よって、図録の掲載写真の部分の公開が実際にあるかは、不明だ。

 
 私が見学していると、途中で、見学者が複数入室して来た。

 図録の写真↓ 「礼記子本義 巻五十九」
 「内家私印」と皇后の印が朱肉で押してあるのが判る。

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 図録の写真↓ 「玉篇 巻第九」
 「言」の部の漢字の説明であることが何となく判る(笑)
 末尾の部分も写っている。

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 解説目録の解説文によるとこの2つの国宝の伝来は「明治39年と大正3年に田中光顕から寄贈された。」そう。当時の早稲田大学(東京専門学校の後身)に寄贈されたのだろう。寄贈された経緯に大隈重信の名は出ていないが、当時の勲功者、有爵者として、両人(田中伯と大隈伯、大隈はのちに侯爵)とも友人関係にあったことだろう。
 「礼記子本義」は、明治23年に忽然と古書×××閣(古書商??)に現れたと解説文に説明がある。私の推測だが、公家か大名家が手放したのではないだろうか。清国公使と田中が競った末に、田中が落札し、複製品を作成したので、複製のひとつの寄贈を願ったところ、現物.が寄贈されたのが明治38年とある。「日露戦争」の終結した年のことである。
 「玉篇」は以前は福岡・黒田家の分家、秋月藩の藩士の所蔵でのちに田中光顕が入手した、大正3年に寄贈した、と解説文にある。

 田中といえぱ宮内大臣を務めた人物。かつての小田原の別荘は現在小田原文学館となっている。
 私も訪れたことがある。

 田中光顕邸は、ここ早大の近くの徒歩で3分くらい、道路を渡る信号待ちが無ければ1分か2分くらい(笑)の文京区関口の水神社の近く、胸突坂の下、現在の芭蕉庵の敷地にもあったと記憶する。よって、大隈重信をはじめ東京専門学校・早稲田大学の関係者とは「ご近所さん」だったのかも知れない。いわば当時のご近所関係を含む人間関係によって、寄贈が行われたと推測する。


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